「私、時間を移動できるんだよ」
彼女の放ったその一言に、隆士は思わず耳を疑った。
「お前、何言って……」
突如告げられたわけのわからない話に、隆士は気を逸らすように研究室の窓を開けた。吹き込んでくるのは五月の風、緑の匂いが心地いい。
空気が入れ替わったせいか、少しずつ落ち着きを取り戻した。デスクに座り、彼女の方を見ながら話を続ける。
「急に変なことを言い出すから驚いただろ。なんのネタなんだよ、それ」
「ネタじゃないんだよ〜。付き合い長いのに信じてくれないの?」
いかにも隆士の言葉に傷付いた風を装って、彼女−梨沙−が窓辺に立った。窓から見えるのは、眼下の森に生い茂る木々。それが、この場所が自然の多い土地であることを物語っている。都内でも大学は都心から離れた場所にキャンパスを構えるところは多いが、いわゆる"地方"に確保された敷地は、もう一つ上の豊かな緑をもたらしてくれた。
「お前がそんなことを言うような奴だったとはなぁ。こっちこそ、付き合い長いのに、意外だよ……」
「だからー、嘘でも冗談でもないんだって。信じてくれないの、結構本格的に寂しいんですけど」
隆士のいるデスクからは、窓際の梨沙の表情を窺うことはできない。しかし、その声色からは、寂しさは感じ取れなかった。いつも通りの、快活極まりない梨沙である。
(長い付き合い、か……)
二人が出会ったのは、高校一年のことだった。
「転校生?」
五月の初め、連休明けに登校した隆士が目にしたのは、不自然に一つ増えた、隣の席だった。ドラマや漫画では、初めから都合よく無人の席があるものだが、現実はそのようなことはない。きっと、休みの間か今朝早くにでも、先生が持ち運んだのだろう。隆士は中央の列に一人だけはみ出した、一番後ろに座っているから、確かに増えるとしたらこの位置以外はありえない。
果たして、どんな人物かもわからない人生初の転校生に、少しだけ心が躍った。クラス内では少しだけ孤立していた隆士にとって、それは高校生活一ヶ月目に起こった、数少ないイベントだった。
「佐々木梨沙です。よろしくお願いします!」
担任の紹介の後、本人からの自己紹介があった。女子生徒というだけで沸き立つ教室に、つい一歩引いた、冷めた目で見てしまった。
かくして少しだけ躍った心が少し平時に引き戻された隆士ではあったが、何しろ隣の席、否応なしに交流を持つことになる。
「初めまして。よろしくね」
着席した梨沙は人懐っこく微笑みかけてきた。普段愛想のない隆士は、つい面食らってしまう。クラスメイトにこんな風に笑いかけられたことなど、あっただろうか。
「お、おう」
咄嗟のことに、愛想のない返事を返すのが精一杯だった。世間ではこれが普通なのだろうかと思うものの、じゃあ自分が笑顔を浮かべながら「こちらこそ、よろしくな」などという快活な挨拶ができるわけもなく、じわりと盛り上がったテンションは、この時点で再び通常時まで下がっていった。
『クラスメイトが一人増えた』
それがこのタイミングでの隆士の認識であり、「隣の席の女子」以外の何者でもなかった。しかし、これが人の縁というものだろうか、状況は梨沙をその認識に留めておくことを許さなかった。
「で、あなた、名前は?」
「名前?」
挨拶が終わったと思った矢先にこの一言である。言われてみれば、自分は名乗っていない。さすがにこれはあり得ない。名前を訊かれるのも道理だった。これは答えるしかないだろう。
「西本、隆士」
「そっか。西本くんか。たかしっていうと、英語の教科書の人みたいだけど、改めて、これからよろしくね」
再びの、笑顔。正直、心持ちが違いすぎて隆士にはついていけなかった。きっと、次の席替えまではこのような戸惑いが続くのだろう。それを思うと、気恥ずかしくもあり、気が重くもある。
とはいえこのように愛想のいい女子のこと、すぐにクラスの人気者になるだろう。まずはどこの土地から来たのか、今はどこに住んでいるのか、そんな話題に始まって、質問攻めに遇う。転校生とはそういうものだと相場が決まっているのだから。そうなれば、自分のこともまた「クラスメイトの一人」になるだろう。そう楽観視していたところ、担任の容赦ない一言に、隆士は再び面食らう。
「西本、悪いが教科書見せてやってくれ。届くのが週末なんでな」
「なっ!」
青天の霹靂。だがよくよく考えてみればあり得る話だった。このささやかな孤立空間では、お互いが唯一の隣人なのだ。頼るとしたら、他に選択肢はない。それに、幸い隆士は孤立していると言っても、嫌われているわけではない。これがもとでの転校生いじめ、よそ者いじめには繋がるまい。
「少しの間、世話をかけるが、よろしくな」
「……はい」
当然のように、拒否権はない。といっても、特段拒否したいわけでもないのだが。
「んじゃ、佐々木は新しい学校に慣れないこともあると思うから、みんなで十分に助けてあげるように。特に隣の席の西本、頼んだぞ?」
入学一ヶ月、こっちだってまだ慣れてないんだ、という反論を必死に嚙み殺し、小さく頷く。人助け自体は悪くないし、人に教えることで、自分もまたこの学校に慣れていくという側面もある。少々面倒なことを除けば、異論はなかった。
ちらり、と隣の席を見ると、視線に気づいたのか梨沙がこちらを向いて微笑み返しをしてきた。彼女が特別愛想がいいのか、それとも世間一般がこの程度なのか、相変わらず判断できなかったが、とにかく悪い気はしない。ただ、社交性の差に戸惑うだけだった。
「そんじゃ、ホームルームはこれで終わりだ。今日も一日元気で過ごせよ!」
担任の声を合図に、教室は騒がしくなった。教師が教室を移動するために設けられた、一限目開始までの十分間は、生徒にとってはわずかばかりの休み時間なのである。
「さて、と」
一限目の準備をする者、友達と話を始める者、はたまたお手洗いに向かう者など、三者三様に過ごす中、梨沙は盛大に机を寄せ、隆士の机にぴったりとくっつけてきた。
この学校では、各列が一席で構成されており、よくある机二つで一つの列を構成する形態ではない。中学以来の隣にぴったりくっつけられた机に、思わず目を疑ってしまった。
「ちょ、佐々木? 何してるの?」
「何って、教科書、見せてくれるんでしょ? だったら机がくっついてないと。てことで、しばらく面倒かけちゃうけど、このままでもいいかな」
いいも悪いもない。教科書を見せるとなった以上、机が離れていてはどうしようもないのだから。これに関しては梨沙の言いなりだった。とはいえ、進学校でもないこの学校の生徒である以上、隆士もまたそれほど勉学に身を入れている生徒ではない。教科書を見せるくらい、どうということはなかった。
早速、一限目の科目である現代文の教科書を机の繋ぎ目に置いた。
「ありがと〜、西本くん。っとと、西本くん呼びでよかったかな。隆士の方がいい? た〜か〜し〜」
「なんだよそれ。好きに呼べば? 気にしないし」
隆士の言葉を受けて、梨沙はじゃあ、と前置きをしてから改めて名前を呼んだ。
「では、西本くん、これから三年間よろしく頼みます。もっと仲良くなったら、隆士呼びにするから」
「お、おう」
自分の中に順序を設けるのか。想定外のことにまたしても戸惑いを隠せない。これがクラスメイト、いや女子とのふれあいなのかと、そして今後もこうしたやり取りが続くのかと思うと、覚悟が必要になるかもしれない、と強く感じた。
高校進学を機に閉じられてしまった社交性の扉を、開け放たなければならない、と。
「??? 西本くん?」
「いや、なんでもない。こちらこそ、よろしくな」
勇気を振り絞って、言葉尻だけでも愛想よく。そうして話しかけると、梨沙がすっと手を伸ばしてきた。握手ということか。その手を取ってしまってよいものか少しばかり悩んだが、これはきっと大きなターニングポイントなのだ。直感が告げるその言葉に従うように、梨沙の手を握り返した。
「ん。よろしく〜」
握手を交わす梨沙の表情は、どこまでも柔らかく、朗らかだった。これが、二人の春の出会いである。
続く
"彼女の嘘と8秒間 〜春〜 その1「かくして二人は出会った」"へのコメント 0件