秋、と呼ぶにはいささか早い九月下旬。放課後の校舎は一年で最も賑わう時期を迎えていた。文化祭の準備を行う、いわゆる文化祭期間である。
この時期は部活動も休止し、学校全体が二週間の準備期間に入る。そのため、全校生徒が何かしらの作業に追われる時期でもある。クラスや部活の展示のため、模擬店や教室内の飾り付けを作る者、買い出しに行く者、衣装を繕う者、そして最も忙しい生徒会の面々。当然、それは隆士のクラスも例外ではない。一学期の終わりから動き出した企画は、この二週間で結実させなければならないのだ。
「じゃ、調査班はよろしくー」
女子の一人が明るい声で送り出す。隆士のクラスの出し物は、”協議の末”「休憩所」に決まった。喫茶店にたこ焼き屋、クレープ屋にお化け屋敷など定番の意見が出たのだが、やる前から大変だとわかる意見に、隆士がひっそりを異を唱えた。それが「休憩所」である。「休憩所として椅子や畳を用意すれば、当日の生徒やお客さんが楽だろう、そして、それなら自分たちも楽だろう」という演説は、梨沙の「それなら他のクラスの出し物を廻る時かもたくさんとれるかも」というつ援護射撃の力を得て、みんなでお祭りを作り上げたい、騒ぎたい、という青春の情熱に満ちた意見を駆逐し、意外なことに、しかしながら幸運なことに。見事採用されることになった。しかし、それだけでは本当に楽をしたいだけになってしまう。だからということで他の誰かが言い出したのが、「郷土史研究をしてその発表を展示しよう」というアイディアだった。これはこれで大変そうだったが、話の焦点、クラスの総意は「当日の大変さ」に集約されていた。結局のところ、当日はできるだけ他のクラスの出し物や有志のバンド演奏などを楽しみたいのだ。
「はーい、行ってきまーす」
クラスを半数ずつに分け、「教室の飾り付け斑」と「郷土史の調査班」に分けた。当然、隆士は調査班に名乗りを上げた。言い出しっぺとしての責務もないではなかったが、何を担当するにしろ、ものづくりっぽいことをするのは性に合わないと思ってのことだ。それに、調査班はやることさえやっていれば、そのまま帰ってもいいという約束になっていた。それを聞いての、「これは楽ができそうだ」という判断も大きかった。
当然、この立候補には梨沙も同調して手を挙げる。かくして、二人はまたしてもコンビを組むことになった。といっても、それは梨沙が一方的に望んだことではあるのだが。
クラスの女子に送り出された調査班は、梨沙の明るい声とともに教室を出て行った。
「あの二人、仲いいよね」
「だな。お互い付き合ってないとは言ってたけど……」
などという聞えよがしの声も、この二人には通用しない。他者の意見を気にするような二人ではなく、一緒にいるスタンスも、クラスメイトの些細な声で傷つくほどヤワではなかった。
「不思議な関係だよね……」
「だなぁ」
気さくな梨沙はともかく、隆士については「だからとっつきにくいんだ」という評価がついて回るのは、無理からぬことだった。謎が謎を呼ぶのである。
「さて、こうして校門の外まで出てきたけど、具体的にはどこでどうしようかしら」
「それを俺に訊く? 俺も考えてるところなんだけど……」
校門を出てすぐ、他の調査班のクラスメイトと別れると、二人は顔を見合わせて首をひねった。隆士のイメージする「やること」は単純明快である。近隣で寺社仏閣やお地蔵様などを見つけ、そこの神主か周辺の古い家に突撃取材をかける。これだけのことだ。ただ一つ問題なのは、この土地である。学校の授業で郷土史を習うような中学までとは違い、高校では郷土史は学ばず、中学までのいわゆる”地元”からは少し離れた土地である。今年の春に越してきた梨沙だけでなく、隆にとってもこの近辺は馴染みがない。寺社仏閣やお地蔵様と言っても、どこにあるのかすらわからなかった。
「私、迷うのは嫌だよ?」
「そんなの、俺だって嫌だよ。でも、まずは足で稼ごう。今日の調査をさっさと終わらせて、大手を振って早く帰ろう」
目指すべき目的があれば、それだけやる気も湧いてくる。二人はまずはとばかりに。普段通学路にしている駅までの道を歩き始めた。いつも見慣れた景色でも、全く意識していないところに何かがあるかもしれないし、ふとした脇道に何かがあるかもしれない。
早く帰るために頑張ろうというなんとも後ろ向きな提案に、梨沙は口を挟むことなく賛成してくれた。いつの頃からか、隆士が安楽な方向に舵を切った提案をして、梨沙がそれに乗っかる、というパターンが増えていた。それはもちろん、梨沙にとっても妥当性が感じられるからなのだが、基本的に梨沙から何かを提案することは少なかった。表面上のメンタリティはまるで違うのだが、内面の深いところはとても似ていて、隆士の提案が梨沙の考えや希望と相反していたことはなかった。
「じゃ、まずは駅方面へ向かおう。願わくは、他の誰かに会いませんように」
「あ、それ私も思った。行った先で先を越されてても嫌だし、何よりネタが被ったら困るし」
他愛のな会話をしながら歩く二人だったが、その目線は道路脇や周囲の景色に気を配っていく。道中繰り広げられていたのは大した話題ではないものの、それが二人にとっては心地よかった。少なくとも、こんなところで中間テストの話をするのは野暮、というのが共通の価値観だ。
「それにしても、結構涼しくなってきたよね」
「うんうん。まだ半袖でいいけど、それでもこれくらいだと助かるよ。風も気持ちいいし。女子と違って、俺たちはカーディガンを羽織ったりできないからなー」
時折吹く風はひんやりと冷たく、日差しで熱せられた大気を一瞬だけ入れ替えてくれる。そして、風に乗って、秋の空気が持つ独特の匂いが鼻腔をくすぐる。短くなった日照は、その分強烈な夕暮れ時をもたらしてくれる。少しずつ、だが明らかに、秋は来ていた。
「時々、虫の声も聴こえるね」
「……本当だ。秋っぽいっていうのかな、こういうの。よく気づいたね。っと、そこの道、入ってみよう」
駅へと向かういつもの道の途中、上へと登る細い脇道を見つけた。向かって右側に存在するその細道には、なぜか「何かがありそうな」空気が漂っていた。
「私たちゃ……これを……登るのか……」
特別険しいわけではなかったが、その上り坂は登ろうとする者の気合を試しているように思えた。おそらく、この上に用があるのはそこに住んでいる住人くらいだろう。そうではない自分たちが、今こうして登ろうというのだから、それは異邦人の心持ちですらあった。
「文句言ってないで、さっさと行くよ」
「へーい」
坂を登る。二人の口数は自然と減っていく。少しずつ高くなる視線が、いつもとは違う視界をもたらして、見慣れた景色を少しだけ変えてくれる。いつもより遠くが見える。さっきまでよりも、少しだけ涼しい風が吹いている。そして何より、全体的に木々が多く、家が少ない。わずかなことで「別天地」に来たようだと、二人は思った。
「ところで西本くん、この上に何があるのか、地図アプリで調べればよかったんじゃないの?」
「佐々木、そんな身も蓋もないこと言ったらダメだよ。足で稼ぐのが趣旨でしょ? 俺たちだって、それには賛成したじゃない。それに、街の喧騒から離れてる感じがして、こういうのよくない? 何もなかったとしてもさ」
その坂は一本道で、迷うことなく登ることができた。が、その一方で一直線ではなく、緩やかにカーブしていた。内向きに旋回しているその道は、おそらく山の中心に向かって舗装されているのだろう。もしかしたら、古くからある道を基にしているのかもしれない。学校からこんなに近いところで目的を達することができるとなったら、こんなに嬉しいことはない。
五分後——
「こ、これは!」
「すごいね……」
坂を登りきると、そこはすっかり内側で、あたりの景色は一面木々で覆われた、さながら小さい山のようになっていた。そして、その奥に、ひっそりと朱で彩られた鳥居が立っていた。まさしく神社である。実際の規模や状態はわからないが、ここに「存在していること」こそが重要だった。
目的に大きく前進したこと、そしてひっそりと佇む鳥居の醸し出すえも言われぬ「神聖さ」に、二人はしばし足を止め、見入っていた。
「鳥居なんて見慣れてるものだと思ってたけど、こういう形で見つけると、神様の世界に紛れ込んだ気分になるな」
「本当。不思議な感覚……普段全然意識してないのに……」
そうしてひとしきり浸ると、鳥居の奥、社殿に向かうことにした。やはり、まずは全体を確認しなければならない。深い森のような木々に囲まれた鳥居を一歩くぐると、一瞬にして空気が変わった。どことなく、ひんやりしていた。
「今、空気変わったよな」
「う、うん。木が多いからかな。とにかく奥に進もう」
ここは山の頂上付近というわけではなかったらしく、鳥居の奥はまだ登るようになっていた。木々に囲まれた、緩やかな石段が続いている。石の積まれたこの段差を見ると、少なくとも人の手が入っているのだと思えて、安心する。
それにしても静かだ。本当に、ちょっとのことでこんなに変わるものなのかと実感する。風に揺れる木々の葉擦れの音、鳥の鳴き声。学校からでも見えそうな場所に、思いもよらない別世界が広がっている。そう考えただけでもワクワクして、二人はこの企画を言い出した名前も覚えていないクラスメイトに感謝の気持ちが芽生え始めていた。
「傾斜は緩いけど、案外辛いな」
「傾斜があるだけで辛いんですけど〜」
普段運動をしない二人、次第に上り坂が堪えてくる。だからと言って途中で休むような場所もなく、いくらなんでも直接石畳に腰を下ろす気にもなれず、一度愚痴をこぼしたものの、以降はただ黙々と登り続けた。
「はぁ、はぁ、到着だ〜」
「私たちにお疲れ様〜」
息も切れ切れといった様子で、二人はようやく一番上まで登り切った。そして、一息ついてから、改めて目の前に広がる景色を見た。
「こんな風になってたなんてな……」
「うん。すごい……」
玉砂利の敷かれた境内の奥に、小さなお社がある。大きな神社のような、おみくじやお守りを売っているようなところも無ければ、お正月にお屠蘇を配っていそうな社務所もない。本当に、小さなお社があるだけの場所だった。境内自体はそこそこの広さがあり、どことなく不自然に思えた。この広さならば、もっと大きくて立派な社殿があってもいいはずだ。雑草などが生えていない様子からも、今でも誰かが手入れしているのは間違いない。一体どういう謂れで、どうしてお社が小さいのか、二人は俄然気になってきた。
「山の上にこれだけ開けた土地があるのもすごいし、お社が小さいのもすごいし、なんだかすっごい気になる! きっと、郷土史研究っていうのはこういうのを言うんだろうね」
「だな。それじゃ、一応お参りしてから近所に人がいないかを探そう」
見るべきものはあまりにも少ない。木々に守られるように立っていた鳥居の様子からは、いかにも何かがありそうな雰囲気を醸していたのだが、いざ上まで登ってみると、小さなお社があるだけ。このギャップの正体を調べなければ。
二人は賽銭箱に賽銭を投げ入れ、作法もないままに手を合わせた。願うのは、この企画の成功と、日々の安寧。そうしてから、今度は境内を写真に収める。この時代、携帯電話で多くのことができてしまうのは、とてもありがたかった。これが一昔前なら、家からカメラを持ってくるか、コンビニで買うしかなかっただろう。
「よし、後は近所の人に話を聞くだけだ。この辺、家ってあるのかな」
「うーん、神主さんはいるんだろうけど、探してすぐに見つかりそうな感じじゃないしねー。でも、誰かがお手入れしているわけだから、誰かはここの神社を大事に思っているわけで……そういう人に偶然居合わせられればいいんだけど、そうもいかないだろうし。ちょっと探してみるしかないねこりゃ」
こういう時の梨沙はとても積極的で頼もしかった。もともと彼女は明るく社交的なのだ。だからこそ、交友関係が広がってしまい、本人の望まないレベルに達してしまう。今度は隆士を先導するようにさっき登ってきた緩やかな参道を下っていく。ぱっと見回したところ、ここ以外に境内と外界を行き来する道はない。
「ま、家一軒くらいはあるでしょ。そしたら、ここの神社のお手入れをしてる人のことくらい聞き出せるだろうし、そうなればこっちのもんだし!」
「俺、佐々木がこんなに頼もしく見えたの初めてかもしれない。そういえば、最初に会った時も積極的に話しかけてきてくれたよな」
不意に春の出来事がフラッシュバックする。思えば、あの時梨沙が話しかけてくれたから、こうして一緒に行動するまでになった。隆士に取ってものすごく意外で、実は仕組まれていたんじゃないかとすら思えるような出会いだった。
「西本くん、何を今更。それより、そろそろ鳥居のあたりだよ」
「お」
二人は再び鳥居をくぐり、人の世界に戻ってきた。やはり、空気が変わる。どことなく気温が高く、えも言われぬ俗世感が漂っている。
探すべき近隣の住宅はすぐに見つかった。もともと、道はこの鳥居の向こうまで続いていた。その、鳥居を素通りしたすぐ先に、一軒の民家があった。当然といえば当然だが古民家ではない。しかし、昭和の一軒家といった趣で、”新しくない”ことだけはすぐに伝わってきた。
「おあつらえ向きですな。それじゃ、取材開始といきましょうか」
梨沙は臆することなくインターフォンを押す。表札には、「神崎」と書いてあった。いかにも神職っぽい名字だと隆士は思った。
『はーい』
奥の方から、おばさんらしき女性の声がした。そして、バタバタと駆けるような足音が響いて、ガラガラと昔ながらの引き戸が開けられた。インターフォンを押してから、およそ十五秒間の出来事だ。
「はいはいどなたですか?」
出てきたおばさんは、いかにもといった風体で、大仏のようなパーマこそ当てていなかったが、頼もしい体型にエプロンを身にまとっていた。夕食の支度をしていたのだろうか、家の奥からなんともかぐわしい煮物のにおいがしてくる。
ドアの向こうに立っている高校生二人に、おばさんは少しばかり訝しげな目を向けた。不審というほどではないが、真っ当な用があると思えない。何よりこの界隈の家には、高校生などいない。
「その制服、すぐそこの高校の子、だね? うちに何の用だい? 今夕飯時で忙しいんだよ。用があるなら手短に頼むよ?」
「そっか、そうですよね。ごめんなさいタイミングが悪くて。あのですね、私たち、今度文化祭の出し物で郷土史研究の展示をするんです。それで、この辺りを歩いていたら、そこに神社を見つけたものですから、謂れを調べようと思いまして。まずは近所の方にお話をと思ったんですけど……」
まくしたてるように梨沙が説明する。こういう時は、相手に口を挟ませない方が話を通しやすい。そして、それは同じ女性が行った方が、幾分有効だった。男では、どうしても言葉で負けてしまう。
「なるほど、そういうことかい。でも、あたしじゃそういうのわかんないからさ、ちょっと待ってな。今おじいちゃん呼んでくるから」
いきなり「土地の古老」を紹介してくれるというのか。これは期待ができそうだ。二人はおばさんが一旦家の中に戻ると、顔を見合わせて笑みを浮かべた。
『おじいちゃ〜ん! お客さん〜! 玄関先で待ってもらってるから、ちょっとお願いします〜!』
家の中だというのに、おばさんの声はよく響く。この様子だと、近所中に聞こえているのかもしれない。少し待つと、玄関先からおじいさんが現れた。軽快な足取りと飄々とした表情、長く白い顎髭を生やしているわけでもない。想像していた「村の古老」よりは、はるかに今風の雰囲気だった。古い言い方をすると、「モダン」という言葉が似つかわしいだろうか。しかし、実際はそんなところなのだろう、と隆士は自らを納得させる。どこを探しても、今時時代劇に出てくるような古老などいないはずなのだから。
「君たち、そこの神社について聞きたいということだが……何を聞きたいのかな?」
「全部です。て言ったらちょっと大変ですけど、あの神社の謂れだけでも教えていただけたら。いつ頃どういう経緯でできたのか。もしご存知なかったら、詳しそうな方か神主さんを紹介してくれるだけでも」
「お願いします!」
それは決して心を打つような頼み方ではなかった。それでも、その気持ちは十分に伝わったようだった。おじいさんはニヤリと笑みを浮かべるとゆっくりと歩き始めた。その足は、家の庭へと向かっている。二人は小さく「お邪魔します」とだけ言い、後について庭へと入った。
「さて、どこから話したものかな……」
おじいさんは縁側に腰掛けると、二人にも勧めた。そして、少しずつ茜色に染まりゆく空を眺めながら、ポツリポツリと語り始めた。
「まず、あの神社の名前は明神稲荷神社と言うてな。この辺り一帯の鎮守さまなんじゃわ。といっても、お稲荷様を祀り始めたのは江戸時代のことで、長い歴史でごっちゃになってしもうたようだがな。さて、話を戻すと、その昔、ちょうどお前さん方の学校のある辺り、あの辺りには大きな池があってな、ちょうど、ここから見下ろすような形になっておった。と言っても、今はもうすっかり埋め立てられてしもうたがな」
「埋め立てられた。それって、俺たちの学校を建てるためですか?」
ごくり、と喉が鳴る。もしそうだとしたら、知らぬこととはいえ土地の文化や風習を断ち切ってしまったことになる。それは歓迎されない。現代文明の全てが正しいと思えるほど享楽的で、未来がすべて正しいと思えるほど刹那的だったら、こんな気持ちにはならなかっただろう。しかし、隆士はいくばくか古いものへ傾倒する気持ちを持ち合わせていた。梨沙もまた、口には出さないがどちらかといえばそんな隆士の思想に近かったため、神妙な面持ちに変わりゆく様をじっと見つめていた。
だが、おじいさんの表情は少しも曇ってはいなかった。その様子から、違う理由だということがわかる。
「何、そんなに新しいことじゃありゃあせんよ。伝承に残っているんは、江戸時代の中頃だっちゅう話だ。農地にするために、辺りの山を崩して埋め立てたらしいんじゃな。ほれ、学校の周りの風景を思い出してみんさい。田んぼに畑に家々に、平地が広がってるだろう?」
「そう、ですね。ずいぶん昔に埋め立てたって言うんなら、なんとなく安心します。で、話を戻しますけど、そこの神社については?」
「そうそう。いつ頃できたとか、何か出来事とか平安貴族が訪ねたとか、不思議な出来事があったとか、そういうのはないんですか?」
つい、梨沙が身を乗り出してくる。本題はこの神社についての調査だ。郷土史研究という身では、学校の建っている土地の元々の様子も興味深いことは興味深いが、今はおまけ程度でもいい話である。そして、梨沙の質問は、どことなくオカルトじみた色に彩られていた。
「そうさな。何しろこんな小さなお社、そうそう伝記が残っているわけでもないのでなぁ。とりあえず、創建は平安の後期という話だ。西暦でいうと、1000年くらいかの。この辺りは幾つかの村に分かれておったんだが、その村々の小競り合いが絶えんでな。何しろ、すぐ山を下ったところに池があった。いつの時代も水争いは尽きぬ、ということだ」
「なるほど。それで、どうしてそこの神社が?」
水争いからの神社建立、考えられるのは争いを鎮めるためだ。しかし、勝手な想像で話をしても、正しいかどうかはわからない。ここはゆっくり話を聞きかなければ。二人はじっと耳を傾けた。
「争いは人の身ではどうにもならん。だが、神に祈りを捧げることはできる。人々は願った、この池が争いの種となるのなら、池の方をどうにかしてください、とな」
人々の祈りはこの山を開き、神を祀って神社を建てた。その祈りである「池をどうにかして欲しい」というものが、具体的には何だったのか、二人には現実的な想像をすることもできない。せいぜい思いつくのが、池に間仕切りを設けるとか、均等に用水路が引かれるようにとか、その程度のことだ。そして、祈りはあくまで祈りでしかない。具体化された現象としては、まるで見えてこないのである。
少なくとも、おじいさんの言葉を聞くまでは、おぼろげで荒唐無稽なアイディアしか浮かんでこなかった。
「それで、ご利益はあったんですか?」
「ああ……言い伝えによれば、だがな」
「一体、どんなご利益があったんですか? まさか湧き水が出たとか、池が割れたとか、そういう話じゃないですよね? さすがの私たちも、それは少し信じがたいって思っちゃいますけど……」
梨沙はそこで言葉を切った。おじいさんの顔は、「ありがたい縁起物の話」をしている顔でも、「信じるに値しない与太話」をしている顔でもなかった。真剣そのもので、学校のある方角を見つめている。見えるのは家の塀でしかないのだが、見ているのは、おそらくその先なのだろう。もしかしたら、言い伝えに残る「在りし日のご利益」の起こった日を見ているのかもしれない。
「言い伝えによると、それは平安の終わり頃、鎌倉時代の直前だな。神社ができてから百年くらい経った頃だという話だが、この辺り一帯に大雨が降ったそうだ。大方台風でも来たんだろう。だが、それによって池の水位は上がる。結果どうなったかは、言わずともわかろう」
「洪水、ですか?」
「それとも、川の氾濫……」
二人は口々に不穏な回答をする。池の水位が上がるということは、明らかに近隣への被害が出るということだ。今学校があるあたりはそこそこ広い平地になっているので、池自体もそれなりの広さがあったと考えられる。しかし、それ以外の様子は想像するしかない。
おじいさんの正解を待つ間、つい神妙な面持ちになってしまう。
「二人とも、惜しいの。後一歩と言った所か。当時の村々がどこにあったか、想像してみるがよい。池の水をすぐに利用できるよう、そのほとりに村が形成されていたと伝わっておる。池畔にある村にとって、池の増水はすなわち村の水没を意味するというわけだ」
「水没……」
「で、でも、それって、あくまで言い伝えなんですよね? じゃあ、後世への教訓っていう可能性もあるんじゃ……」
二人の脳裏に、水位が増えてゆく池の姿や、それによって沈みゆく村々、逃げ惑う人々の姿が浮かんだ。きっと、水没は実際にあったのだ。だから言い伝えが残っているのだ。証拠のほどまではわからないが、その先は考えたくなかった。心臓が早鐘のように打ち始める。
「言い伝え、神社に書物として残っておる。それとな、宅地造成であの辺りを掘り返した時に。出てきたのだ。大量の人骨が……」
その言葉は重苦しかった。梨沙は思わず隆士の手を掴んだ。
「っ!!」
「それは……また……」
聞いていていい話ではない。想像するだに恐ろしい話だった。書物だけならどうにでもなるが、物証まで出てきたのでは、確実だろう。それでも、まだどこかで希望を捨てきれず、口をついて反証しようとしてしまう。もう、思考の方が追いついていなかった。
「でも、その時代の骨ってだけなら、普通にお墓ってこともあるし、村があったのが事実なら、人だって死ぬだろうし……」
「そうそう! まだ水没で亡くなったって決まったわけじゃ!」
「そう思いたい気持ちはわかる。だがな、骨が出たのをきっかけに、大規模な調査が入ってな。言い伝えが事実だとわかったのだ。村々は水没し、少し高いところにあったこの辺りの集落だけが残った。その時から、あの神社は鎮魂の祈りを祀ったものに変わったのだ……やりきれぬ話よ」
ひとしきりの話を終え、おじいさんは一息ついた。まさか、普段自分達が通っている土地にそんな悲しい過去があったとは、思いもよらなかった。けれど、”そういうこと”を知るのが「郷土史研究」なのだ。これはいい発表になる。二人の間にはそんな予感めいたものがあった。
「あの、俺たち、今度文化祭で郷土史研究の発表をするんです。よかったら、見に来てもらえませんか?」
「少しでもいい発表ができるようにしますから。こんなことがあったって、伝えないと……」
はじめは楽をするために選んだ調査役だったのだが、こうして話を聞いていると、自然とそんな自堕落な思いは消えていった。もしかしたらクラスの中で浮いてしまうかもしれないが、そもそもそんなことを気にしない二人だ、考えたところでしっかりと情報を伝えなければという気持ちが変わることはなかった。
「この辺りに住んでおるものでも、その頃の言い伝えを聞かされている者は少なくなってしまったがな、こうして語り部になれたのなら、長生きした甲斐もあったというものだ」
「こちらこそ、貴重な話を教えてくれてありがとうございました。いい展示ができそうです」
「私からもお礼を言わせてください。こんなお話、なかなか聞けませんから」
話が終わる頃には、すっかり日も傾いていた。二人はおじいさんに深くお礼を言うと、庭を後にする。不思議な充実感が胸を支配していた。
「お二人さんの発表、楽しみにしておるよ」
「はい!」
「それじゃあ、失礼します」
駅への途上はずっと無言だった。二人とも、先ほど聞かされた話を頭の中で反芻していた。軽い気持ちだった意識をガツンと殴られたような感覚で、重たく深い責任を負ったかのように、どうまとめるか、どう伝えるかについて考え始めていた。
その結果、駅で電車に乗り込んだ瞬間
「ねえ」
「なあ」
二人は同時に声を発した。示し合わせたようなタイミングがおかしくて、つい笑いがこみ上げてくる。しかし、そのタイミングもまた同じで、余計おかしくなった。盛大に笑い出したはいいものの、これは他の乗客の迷惑になりそうだという思いが首をもたげ、無理矢理真面目な顔を作り、話題を戻そうとした。そんなところも、やはり二人の思考は一致するのだった。
「もしかしたら同じこと考えてるかもしれないけど、いい発表にしような」
「おお! それそれ。私もそれを言おうと思ってたの。今更だけど、気が合うね。これならいい発表にできそうだ。せっかくだし、他のみんなをあっと言わせたいね。クラスで一番を狙ってやろう」
オレンジ色の光が差し込む列車で、ドアのそばにもたれかかりながら、二人は目線を交わし合う。その瞳は、ただただ力強かった。
続く
"彼女の嘘と8秒間 〜秋〜 その1「ふたりの文化祭:準備」"へのコメント 0件