Chapter Five……謝肉祭
前編 フェアリーテイル(三)
紀和にはあてがあるらしかった。松永がパラオ本島に渡って借地交渉をした時、通訳の土人がいたという。片言の日本語を話す、整った顔立ちの女だ。土人には珍しく、すっと通った鼻と薄い唇をしている。
「なんや、グレーテいう名前やったな。独乙人の落とし種らしいで。土人で顔が整ったのは、大抵白人か内地人との混血やと」
紀和は続けて井狩から聞いたという話をした。土人は大変好色で、見境が無い。腹が減ったら食う、という食習慣と同じく、淫らな気持ちになれば木陰で済ませてしまうという。離婚の回数も多い。
「出来たら、儂は土人が乳繰り合っとる所を描きたいんや。ええ具合におらんかったら、そん時は興ちゃん、土人の女捕まえてモデルになってくれや」
紀和は冗談の気配も見せずに言った。私はその依頼それ自体より、彼が南洋に来てから存外真面目に絵を描く事に驚いていた。
グレーテは南洋庁から西に二キロほど離れた所に住んでいた。そこまで行ってしまえば、パラオ諸島でもっとも栄えているコロール島でも、他と変わらぬ辺鄙な佇まいを見せる。
グレーテの家は四坪ほどの小さな土地に立っていた。高床式になっているが、入り口はしゃがみ込まねばならないほど小さい。屋根は椰子の葉を葺いてあり、地面に届きそうなほど広い。納屋のような外観だ。およそ人が住んでいるようには見えなかった。
紀和は「グレーテ」と叫んだ。入り口の暖簾らしいものが動き、ぬっと立ち上がるように出てきた女。白地に小さな花柄のワンピースを冠り、首には黒い紐を巻いていた。石片や骨片を手首に飾り付けている。大柄ではあったが、色も比較的白く、土人にあっては容色に優れている。
グレーテは私を見て、深いお辞儀をした。変に抑揚のついた「こんにちは」だが、日本語にはなっている。
「ちょいと絵を描きたいんやけど、案内してくれ」
紀和の言葉にグレーテは困ったような顔をした。私が「案内をしてください」と言うと、笑顔が弾ける。
私が独乙語を話せると判った途端、グレーテは猛烈な勢いで話し出し、ついには感極まって泣き出してしまった。彼女は私にしがみ付き、離れようとしない。
「なんや、この女、どないしたんや?」
「どうやら、父親を思い出したらしい。全部は聞き取れなかったがね」
紀和は「へえ」と感心し、私にしがみつくグレーテを興味深げに眺めていた。一体、土人の女というのは感情表現が激しいのだろうか?
我々はグレーテの家に入った。椅子らしいものは無く、蛸の樹で編んだ茣蓙のようなものが竹床に引いてある。
彼女が落ち着くのを待って、私は自己紹介をした。彼女は完全に私を父親と重ね合わせていた。彼女の父もまた、船乗りだったのである。
彼女の本当の名前はアボドホといった。父は彼女が生まれる前に本国へ帰ってしまったので、酋長がアボトホとつけた。独乙語を学んだ彼女が、身体が女になったのをいい機会に、自分でグレーテと名乗ったのである。もちろん、独乙語も父に教わったのではない。日本の統治領になる前にたくさんいた独乙人に習ったのだ。彼女は土人にあって珍しく字を読む事ができた。独乙語を話せる土人は何人もいるが、独乙語を読み書きできるのは、この島で彼女だけだという。日本語は片言ならなんとか解る。
「なんや、才色兼備やの。興ちゃん、どや、妾に」
紀和はわざとけしかけるような事を言ったが、それよりもグレーテ本人がすでにその気だった。茣蓙にあぐらをかいた私に躙り寄り、私が独乙語を績ぎ出すのを待ち構えるように、じっと口元を見つめている。目は泣き腫らした直後のようにうっとりと濡れていた。
「そうだ、絵を描くんだろう? 場所を案内してもらおう」
私は紀和に向かって言うと、それをグレーテのために独乙語で言い直した。グレーテは少し不貞腐れたようだった。ふん、と鼻で呼吸をし、肉厚な瞼を下げて薄目になる。私はほっとして、立ち上がった。蛸の木を編んだ茣蓙は、あぐらをかいていた踝にくっきりと痕をつけていた。
我々はグレーテの家からさらに緑の深い場所へ進んだ。適当なスケッチのための場所を探していたのである。グレーテは小さな手斧を持ち、獣道に生えかかった若木を切りながら進んでいった。
グレーテの推薦は、森の中に開けた小さな草原だった。そこでは合歓の木が多く、花が満開になっている。薄紫と黄色の刷子が濃い緑の中に散りばめられている美しさ。
"方舟謝肉祭(19)"へのコメント 0件