Chapter TWO……藍より出でて、藍よりブルー
ミツムネ氏と待ち合わせている光市は、新日本製鉄の企業城下町として長らく栄えてきた。とはいえ、それも今は昔の話で、他の特色としては「おっぱい都市宣言」という意味不明なマニフェストを掲げているだけで、見るべきものがあるというわけではない。まあ、僕の目的は血のことだから、それで一向に構わない。この旅は遊びじゃないのだ。
柳井から光までは、海岸沿いを通る国道一八八号を走って約一時間。その間ずっと、僕は助手席に座るDDのことを考えていた。
この旅はいうなれば聖杯探求譚、つまり古典的な冒険物語だ。敬虔なカトリック神父が、弟子を引き連れて聖杯(神の奥義が秘められているキリストの頭蓋骨)を探し求める巡礼の旅。師弟と聖杯と巡礼、この三つがきっちり揃っている点が、物語の構造として秀逸だといわれている。僕が捜し求めている血生臭い匂いが聖杯の名に値するかどうかは行ってみないとわからないが、まあ、DDが弟子として不適当なのは確かだろう。彼はとにかくふざけすぎる。とはいえ、普通の聖杯探求譚だと、主役はいつも弟子になってしまうのだが……。
「Fさん、こないだいってた小説ってどうなりました?」
とまあ、カトリックではなく物書きである僕らは、こうやって小説の話をすることになる。
「こないだっていつのだよ」
「なんか探偵小説書くっていってたじゃないすか」
「ああ、あれか」
DDのいう探偵小説とは、僕が酒の席で話した『ホームレス探偵(仮題)』のことだ。主人公は謎の解明よりもむしろ職を求めており、出会う事件に対して熱心に取り組まない。中学の同級生だった刑事だけが彼を買っていて、あれこれと難事件を解決させようとするのだが、なかなか先へ進まないというもどかしい設定だ。要するに、探偵小説のパロディである。ぼくは酔っ払うと、こういう構想をよく口にした。どうでもいいネタだから、軽々しく他人に披露できるのだ。
「あれはやめちまったよ。思いつきだけで書くのは良くない。だいたい、俺は探偵小説なんて好きじゃないからな。第一、トリックを考える犯人っていう存在そのものがバカバカしすぎて嫌だね。そんな頭いいんなら、真面目に働けよって思っちまう」
「そうっすか? でも、面白そうっしたよ。なんでしたっけ、あのトリック」
「ああ」と、ぼくは自嘲気味に鼻を鳴らした。「あまりにも密室すぎて窒息しちゃってました、という密室トリックな」
「そうそう、それウケますよ。いいじゃないっすか」
「おまえ、千円ちょい出して買った本の最後にそんなことが書かれてたら、ウンコ漏らすだろ。しょせん商売だからな。そういうのは有名になってからやらないと」
「まあ、そうっすけどね。Fさんのそういうギャグっぽいの、いいと思うんだけどな。なんで売れないんすかね」
「そんなの、編集者に聞いてくれよ。そんなことより、前にいってた小説は書けたのか?」と、僕は師匠らしい心配りをしてみた。
「まだっすよ。なんつーか、韻を踏むのって難しいんすよ」と、DDはかぶっていたキャップのツバを後ろに回した。〈Nomad〉という聞いたこともないようなブランドの、しかも野球帽が一六八○○円もするということを、僕はたまたま読んだファッション誌で知った。彼は嫌になるくらいお洒落だ。茶化してやりたいような気持ちになり、「お、今の踏めてたじゃないか」といってみた。
「え、どこがっすか?」
「韻と難しいんすよ」
「違いますよ。そういうことじゃないっすよ。それじゃただの駄洒落じゃないっすか」
「韻なんて駄洒落みたいんなもんだろ」
「もう、やめてくださいよ! こっちは真面目なんすから」
「とにかく、早く一つ完成んさせた方がいいんぜ」
「わかってますよ。できたら見せますから」
「いんや、いいんよ。絶対んに同業者の目に入んれるな」
「でも、Fさんに見せるのはいいんじゃないっすか。師匠だし。まさかパクったりしないっしょ」
「お、踏んできたな」
「違いますよ。偶然です」
「まあ、パクらないんけどな。要は態ん度の問題んだ。師匠にさえ漏らさないんぐらいん徹底んしなくちゃいんけないんぜ」
「わかりましたけど、もう『いん』は勘弁してくださいよ。けっこう真面目にやってるんすから」
「なんにせよ、おまえはちょっとハードにならなくちゃな」
「ハードねえ」
DDは窓に肘をかけて乗り出すと、帽子を脱ぎ、ボンボンに似つかわしいくしゃくしゃヘアーを風になびかせた。遠くを見つめる目は優しく垂れ、ほんわかした気持ちにさせる。だが、僕にもDDにも、ほんわかは必要なかった。
DDは僕とはじめて会った頃から、ヒップホップ文学なるものを提唱していた。形式的には散文小説と見せかけておきながら――つまり、現代詩の唯一の存在証明であるところの「一行ごとの改行」をせず――その実、韻を踏みまくる押韻小説だ。もちろん読者のことも考えてあって、形式に凝る代わり、内容的にはあえてベタな「成り上がり」ストーリーにする。これは凄く大事なことだ。読者というのは、一度に色んなことをやられると、混乱して怒り出す生き物なのである。
実際の作品を見ることなく、理念上でのアドバイスを求められた僕は、以下のような曖昧な助言をした。
日本のヒップホップの現状を鑑みれば、西欧詩の伝統である脚韻を無批判にありがたがって受け入れるのではなく、脚韻を日本語に導入する意味についてもう少し考えた方がいい。さらには、アメリカ社会の最底辺に暮らす黒人ギャング達の叫びとして生まれたヒップホップが裕福な日本人にとって何の意味を持つのか、日本のヒップホップスターの何人か(ZEEBRA、降谷建志etc)がいいとこの坊ちゃんであるのは何枚ものレコードを必要とするヒップホップミュージックの本質とはたして無関係か、といった考察もしておいた方がいいかもしれない。ヒップホップは当然として、福永武彦らのマチネ・ポエティックや、東京NO.1ソウルセットの七五調ラップも参考になるだろう。云々。
DDがそのアドバイスをどう受け止めたのかは知らない。彼はいつだって「熱い」ことを求めていたから、批判なんていうどっちかというと「冷めた」ことは嫌いだろう。それでも彼はいまだ僕にひっついていた。もしかしたら、「熱さ」の逆説に気付いていたのかもしれない。本当に熱い人間は冷たい、という。
もっとも、DDが新人賞に出そうとしないのは、作品がなかなか完成がしないという、ただそれだけの理由ではない。僕はいままで「書けない」とほざく素人小説家に何度も出会ったし、そのたびに「じゃあ書くなよ」とぶった切ってきたのだが、DDの場合、彼個人の事情というより、文壇事情が大きく関係していた。
ここ最近、ヒップホップ文学とくくられる若手作家が何人か出てきていた。共通するところは「語り手の独白口調を前面に押し出した単なる饒舌文体」で、ヒップホップとはあまり関係ないのだけれど、若者文化を知ったかぶりしたがるオジサンやオバサンがそう名づけてしまったわけで、そうなってしまうと、新人作家DDが打って出るインパクトはもうない。一度使われた包装紙はもう役に立たない、というのがビジネス的視点だ。実際、「小説の形式」というものに対する文壇の意識の低さというのは、目に余るものがある。本来ならもっとも正統的なヒップホップ文学者であるDDは、自分が蚊帳の外であることに怯え、勝負に出られないのだろう。
まあいい。これは血のことに関する小説だ。DDのヒップホップ文学がどういう末路を辿るかは、時間が証明することだろう。僕は何人かの若手小説家の名前をあげ、「あいつらなんてみんな死ねばいいのにな」と呟いた。
「あれ、Fさん、それって非外向的反感ですか?」
窓の外に向かって煙草の煙を吐き出してクールに決めていたDDは、僕の言葉を嬉しそうに取り違えた。尊師の心、子知らず。面倒になった僕は「そうだよ」と敗北を認めるフリをした。
光駅前の豚カツ屋に着くと、もう十二時になろうとしていた。店内に入るとすぐ、「ぼっちゃん」と呼びかける声が聞こえる。僕がその声に応えて店の奥に進む様子にDDはびっくりしたに違いない。
ミツムネ氏は四人がけのテーブルに一人肘をついていた。脇にはパナマ帽とスポーツ報知が置かれている。
「いやあ、お久しぶりです。急に来るなんて、びっくりしましたよ。お昼はまだですか?」
慇懃な調子もナイスに胡散臭い。が、前と違っているのは、その紳士然とした素振りが、警戒の裏返しのように取れるところだ。
「ええ。たったいま着いたばかりなんで」
そう言いながら、僕とDDは座った。そのときはじめて、ミツムネ氏はDDに気付いたようだった。
「そちらの方は?」
「僕は土井内大輔といいます」
「ほお、ドイウチさん。どうも、はじめまして」と、ミツムネ氏は手を差し出す。DDがラッパー風に下から手を入れる握手で返したため、ミツムネ氏はあわあわしながら対応した。
「土井内というのは変わった苗字ですね。どちらの御出身で?」
「すんません、よく知らないっす。そういうのあんま興味ないんで」
「ほお、しかし由緒正しいお家柄かもしれませんね」
「それはないっすよ。名前は野球の荒木大輔から取ったらしいすけどね。松坂世代なんすよ」
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