動物(第5話)

本多篤史

小説

5,435文字

九州に熊はいるのかいないのか。長年の論争になっているそうです。僕は知っています。九州には熊はいます。阿蘇くま牧場に。

 

熊の足跡が見つかった、と先生が帰りの会で言ってから、二組の生徒たちは下校中もその話で持ちきりだった。山の上にある一戸建ての集合住宅地は、上の出口と下の出口、それからバスの車庫の裏側から上がっていく山道以外に出口を持たず、小学校低学年の生徒たちにとってはほとんど外界と関わりを持たない城のような土地であった。山に囲まれているとは言っても、海が近く、せいぜい二百メートルから三百メートルそこそこの山。そもそも地域全体で絶滅したと言われるほど、熊はずっと昔から、この辺りにはいないはずだった。小学校は丸い瓶を斜めに切り取ったような傾いた楕円形の団地の、一番低いところにある。生徒たちは長い坂をのんびり歩きながら、見たことも無い熊の話に躍起になった。そもそも熊のいない土地、ヒグマとツキノワグマの区別すらない生徒たちにとって、それは天狗や河童やネッシーの話をしているようなものだった。

 

古くから熊のいないはずの土地なのに、どうしてか団地には熊という珍しい名字の家が三件もあった。そのうち二件は従兄弟同士の同級生、もう一件には子供は無く、夫婦二人とも中学校の教員をしていた。二人の熊君のうち、足も速く体も強く気さくな人柄の健太は、友人たちに囲まれ、あること無いことを大声で話しながらのろのろと下校していた。
「おいの先祖は熊やったとかもしれん。」
大人たちから見ると微笑ましいそんな言葉も、熊君を囲む取り巻きのような少年たちには半信半疑ながらもある程度の説得力を持つ、甘くまぶしい、強烈な果実のような言葉に聞こえた。少年たちはそんな熊君の言葉を後押しするように、俺はそういえば夜中にダムで熊を見たような気がする。いや、車庫の裏で大きな目が光っているのを見た。校庭が朝、熊に掘り返されていた。いやいや、実は時折聞こえてくる猪追いの鉄砲の音は実は熊と一戦交えた時のものだ。考えても見たまえ、あれだけ頻繁に鉄砲の音が聞こえてくるにも関わらず、山から出てきた鉄砲を持った人を見たことがあるか?ないだろう。それもそのはず、山で熊と相見えた大人たちは一人残らず、その伝説の熊にあっという間にやられてしまっているのだから。などと話をしているうち、それでは早速ランドセルをおいたらすぐに、熊の出そうな場所を探検しに行こうではないかと話がまとまった。

 

郊外の戸建てが並ぶ団地でも、家庭の経済状況の差は五年生にもなればぼんやりと理解できた。平山君は自分の家が周りの家よりも裕福であることをなんとなく理解し始めていたけれど、いつもきれいに着飾ってあれこれと世話を焼いてくる母のことを、段々とうっとおしく感じるようになってきていた。手は洗った?今日はどうだった?お菓子があるわよ。あら、そんなに急いでどこへいくの?そんな一つ一つの言葉に生返事をして、それでもお菓子は急いで食べて、平山君は急いでまた靴を履いて、集合場所の車庫へと向かった。
「なんや、またママとケーキでも食べよったとや。マザコンが。」
案の定最後の一人になってしまった平山君を熊君がからかい、三人に笑いが起こった。平山君は少しむっとしたけれど、努めて鷹揚でいようと、違うし。とだけ言って、四人の熊捜索が始まった。バスの車庫の裏手には、小さな川を挟んで、山向こうへと向ける道が通っていた。しかしその補足曲がりくねった狭い道はあまり快適なルートではなく、団地のほとんどの住人はその道を使って山向こうへと出ることはなかった。だから子供たちはもちろん、その道がどこへつながっているのかも知らない。夏休みにカブトムシを取りに山に入ることはあっても、峠の大きなゴミ焼却場の先がどうなっているかなんて、気にしたこともなかった。
川を渡るとすぐ、道は上り坂になり山の中へと入っていく。ものの十分もあるけば、団地はすっかり見えなくなって、道の両側に茂った木々のせいで昼間でも少し薄暗い。道の周りは杉の木立では無く、曲がりくねった広葉樹の森だった。適当な棒を拾ってしばらく歩いていると、小菅君が舗装されていない脇道を見つけ、こちらへ行こうと大きな声で提案をした。運動神経はイマイチだけれど抜群に成績が良い小菅君もまた、足の速い熊君に憧れている内の一人だった。頭はいいけれどひねくれたところの無い小菅君はそれでも運動神経の良い熊君たちと仲が良かったけれど、内心、小菅君は平山君と同じように、なんとか彼らについて行こうと必死だった。
臆病で優しい徳永君は少しだけためらったけれど、熊君と小菅君の勢いに押されるような形で、結局三人はアスファルトの道から下る、未舗装の脇道を進むことにした。脇道に入るとすぐ、道は車一台がようやく通れる程の狭さになって、道の両側に迫る木々の迫力も増してきた。四人はみんな、興奮していた。茂った木々の間からはもう団地の姿は見えず、アスファルトやガードレールの無い道からは人の作ったものの姿は見えなかった。さあ、今にも出るぞ。出るなら出ろ。この、買ってもらったばかりの瞬足で蹴散らしてやる。周りからは余裕たっぷりに見える熊君も、静かに息巻いていた。ようやく探検らしくなってきた雰囲気に、恐れを振り払うようにガヤガヤと早口で話し合いながら歩いていると、思いがけず森は切れて、前方に田といくつかの家が見えてきた。
「なんやココ、川上んちやっか。」
最初に気づいて大声を出したのは熊君だった。そこはヒアテ(日当)と呼ばれる、団地のはずれに昔からある集落だった。新しい小学校はほとんどが団地から通う子供たちだったけれど、団地に小学校ができるまでずっと山を下って港近くの小学校まで通っていた、川上と本間という2つの名字しか持たない集落の生徒たちも数名、混ざっていた。優しく感じやすい徳永君は初めて見たヒアテの風景にしばらくの間不安も忘れて、見入ってしまっていた。そう広くは無い、盆地のような土地だった。団地の隅にある小学校を蝶番にするように、東側に団地、北側にはダム、ヒアテはダムの裏手にあたる。その名の通り、山間の集落にしては開けていて、明るい土地だった。盆地の端を縫い止めるように走る道路と、その脇の数件の家は皆、山側を背にするように建てられている。夏の終わりの光は稲穂を染め上げるように降り注ぎ、庭木は高く、薄赤くなり始めた山から涼しい風も降りてきていた。ほとんど同じ大きさの区画が並ぶ団地で暮らしてきた徳永君にとっては、横に大きな母屋も、脇の小屋も、土のままの駐車場に傷だらけの軽トラックやトラクターが並ぶ姿も、ほのかに漂ってくる牛の臭いも何もかもが新しかった。だからすげえ、すげえ、と連呼したのだけれど、平山君も小菅君も熊君もそれほど驚いていない様子なのを不思議にさえ思った。それもそのはず、父方母方ともに炭坑マンをしていて農家を知らない徳永君とは違い、彼らは毎年の帰省で農家を訪れていたのだった。
ボケ始めた祖母と一緒に居間に転がってテレビを見ていた川上君は、遠くから聞こえてきた珍しい子供たちの声に気づいて、縁側から外を見た。思いがけず学校と逆側から歩いてくる級友たちを見つけて少し驚き、また一瞬うっとうしさを感じたけれど、(川上君は弱々しい団地の子供たちがあまり好きではなかった。)やはり滅多に友人が来てくれることの無い家だったから、気持ちが弾んでサンダルを突っかけて外に飛び出した。
おーい、と熊君が大声で呼びかけるのとほとんど同時に引き戸が開き、背の高い熊君よりも更に一回り大きい川上君が顔を出した。はやっ、と驚いてはしゃいでいると、ニコニコとした笑顔で、いや、窓から見えたけん。と川上君は早くも声変わりしそうなしゃがれた声で応えた。熊の出そうなところ、おまえなら知っとるやろ。という熊君の言葉に、賢い小菅君は少しおかしさを感じて笑いそうになったけれど、幼稚園の頃に似たようなことを熊君に言ってしまってひどく機嫌を損ねたことを覚えていたので、ぐっと胸のうちにしまっておいた。熊なんかおるもんか、ってうちの親父が言いよったけど。川上君は体の大きさに似合わず、言いづらそうにモゴモゴと話す。それに足も体の割にそれほど速くはなかったから、熊君よりも体が大きいのに、それほどクラスの尊敬を集めていなかった。川上君はもちろんもともと気弱なところもあるのだけれど、ちまちました団地の子供たちとの接し方がイマイチわからず、モゴモゴした話し方になっているのでもあった。足跡のあったって先生が言いよったとやけん、おるやろ。よかけん出そうなとこば教えろさ。ああ、それじゃあ、ちょっと待っとって。と言って、川上君は運動靴に履き替えてもう一度出てきた。こっち。と言って家の裏手に案内された。家の裏手はただの山、かと思っていたら獣道のように人の通れるようになっている部分があって、するすると山の中に入っていくことができた。椎茸や山菜を取るために裏山は彼の両親や祖父母の手によって十分に手入れされていたのだけれど、団地で育った幼い子供たちはそんなことつゆ知らず、ようやく始まった探検に大盛り上がりだった。特に熊君たちと遊びに出かけることの少ない平山君は、なんだか自分がクラスの人気者たちの一員になれたような気がして、大いにはしゃいでいた。下草がきちんと刈り込まれた栗林に出て振り返ると、盆地とダムの向こうに、山の上に並ぶ団地が見えて、徳永君はまた一人熊探しもそっちのけで風景に見入ってしまった。黄色い田圃に、黒々としたダム。団地は遠くから眺めると見事に、山をまっすぐ切り取ったあとに建てられていた。そのまた向こうは、緑深い山。どうしてこんな山だらけの場所にこんなものを作ったのか、徳永君は不思議でしょうがなかった。日暮れも近く、陽が傾いていて、西側に斜面を背負う形になるため、この辺りは暗くなるのも早そうだった。黙ってずんずん進んでいく川上君と熊君に他の三人が遅れ始めた頃、注意深くあたりを見回しながら歩いていた小菅君が大きな声を出した。
「おるぞ!おるぞ!」
声を聞いて、川上君がすごい早さで山道を駆け下りてきた。
「どこや!」
大きな声を出したのは、それについてきた熊君だった。あそこあそこ、ほら、しっ、静かに。ほらほら。五人が息を潜めてやぶの向こうを見つめていると、ガサガサと茶色い大きな背中が動いた。先に見つけられたことが悔しい熊君とそもそも熊なんかいないだろうと思っていた川上君をのぞいた三人は、もう熊を見つけた気で心臓はバクバクと高鳴っていた。熊にしては小さかっちゃないや。と言った勇敢な熊君は立ち上がり背伸びをして、そのずんぐりとした背中の正体を確認しようとした。平山君も負けじとそれに続いたところ、ガサガサとその背中が動いてこちらを向いた。
「なんや、猪やっか!」
鬼の首をとったように、熊君が言った。小菅君は自分の早とちりに平山君も徳永君も笑うのを聞いて顔から火が出るほど恥ずかしかったけれど、河上君だけは違って真剣な顔をしていた。猪も危なかけん。あいつ逃げんぞ。しばらう動かん方がよか。真剣な川上君の声に一同にまた緊張が走った。実際猪はまっすぐこちらを見据えて身動き一つせず様子をうかがっていた。よくよく見たら体も大きく、突進されたらひとたまりも無さそうだった。藪を挟んだ五人と猪の攻防は数分続いただろうか、しびれを切らした熊君が小石を拾って、思い切り猪へ向かって投げつけ、わけのわからない大きな声を出した。猪は一瞬びくっと体をふるわせたけれど、小石は途中の木にあたって猪までは届かなかった。来るなら来てみろ、ほら、こい、こい、熊君と、虚勢をはる平山君がはやし立てると、猪は少し後ずさったように見えた。小菅君も徳永君もそれを見て挑発に加わったけれど、ただ一人猪を見たことがあった川上君だけは、それが突進のために踏ん張っている動きであることを感じ取って、やめろ、やめろ、とおろおろしていた。ぐっと前足を踏み込もうとしたそのとき、急に猪は九十度進路を変えて、一目散に森の奥へと逃げ込んでいった。川上君はただ一人、背後でもガサガサっと大きな音がしたのを聞いたような気がしたけれど、下からなんばしよっとか!と怒鳴られる声が聞こえて、ああ、父が来たのだ、とそれで納得してしまった。
その後五人は川上君の父にこっぴどくしかられて、熊君たち団地の子供たちは、今度は森の中を通らない学校へ向かう側の道をトボトボと歩いて帰っていった。川上君はせっかく遊びに来てくれた友達を怒鳴った父に腹が立っていたけれど、夕飯の席で祖父が、熊はおるぞ。おいも見たことある。随分前やけどな。と茶をすすりながらつぶやいたのを聞いて、改めて少し身震いした。平山君は泥だらけで帰ってきたことを母に注意されたけれど、川上君の父の剣幕に比べたらどういうほどのものでも無いな、と感じ、さっさと洗濯機に汚れた服を放り込んだ。小菅君は熊と猪を見間違えた失敗を何度も思い出しては猪と熊を倒すシミュレーションを頭の中で繰り返し、熊君はしかられたことに腹をたてながら、どうして猪があんな逃げ方をしたのか納得がいかず考え込んでいた。徳永君は夜の月明かりの下、黄金色のヒアテの集落を熊が歩く姿を空想した。熊は田を、ダムを、団地をしばらくの間見上げると、またゆっくりと肩を揺すり森の中へと帰っていった。

2015年8月2日公開

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© 2015 本多篤史

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