202

応募作品

本多篤史

小説

8,638文字

文学フリマ福岡への応募作品です。日本の西の端、西彼杵半島というところがあります。

半島が海を抱きかかえる、というと不思議な感じがする。半島はその名の通り、半分島みたいなもの。海に突き出た陸の孤島。西彼杵半島はしかし、湖のような大村湾を抱きかかえるように、ぐっと反り返って佐世保側の陸地と接するように早岐の瀬戸を作っている。半島を意味するペニンシュラという単語と、男性器のペニスが同じ語幹を持つ、ということを教えてくれたのは彼女だったろうか、大学の同級生だったろうか。突き出たもの。あるいは、切り離されようとするもの。国道202号線は長崎市内に端を発し、その反り返った半島の外海側、角力灘に向かって西に広く放り出された海岸線沿いを北へ上り、早岐の瀬戸を渡って福岡方面へと続いていく。
市街地を抜けてまず現れるのは、福田の街だ。まだ内陸の新道が通らず202号線が西彼杵半島への主要なルートだった頃には、その起点となっていた古い街。造船所の跡地にはバブルの頃、小じんまりとはしていふたが、遊園地もあった。福田の街には、友人も数名いた。平川君は付属中学校の同級生、丸顔の優しい男だったが、高校生になると理系に進んだ僕と文系に進んだ彼とでクラスも別れ、だんだんと疎遠になってしまった。半島の付け根、内陸の新道沿いの団地で生まれた僕にとって、彼は団地の外にできた、最初の友人だった。中学校一年生の夏休み、僕は夏休みの宿題をする名目で平川君の家に遊びに行った。団地の外の友人の家に訪れるのは、初めてのことだった。海へ流れ込む川を中心とした、平坦な古い街。バス通り沿いにショッピングセンターやコンビニも建つ街は今思うとなんということはないのだけれど、スーパーが一軒建つだけの団地で育った僕にとっては、ワクワクする風景だった。平川君の家には、ギタレレも置いてあった。朴訥とした顔でギタレレを引きこなした平川君に嫉妬して僕はその秋から、ギタークラブに入って練習を始めた。福田の街にはもう一人、東原という高校の同級生も住んでいた。高校三年生になった春のこと、彼の母親が授業中突然、血相を変えて教室に飛び込んできたことがあった。事情もわからないまま、彼と母親が良く似ていたことに笑っていた僕たちをよそに、東原は急いで帰り支度をして、母親と一緒に帰っていった。彼の父が仕事中に機械に巻き込まれ亡くなったことを知ったのはその夜、クラスの連絡網でのことだった。翌日の放課後、クラス全員が彼の父の通夜に参加した。目は泣き腫らしていたけれど、すっと背筋を伸ばして座っていた姿が、印象的だった。造船所で働いていた父の影響があったのかは知らないけれど、彼は建設機械の大手メーカーに就職して、地元を出て行ったと聞いている。
斜面地を曲がりくねって進む狭い202号線を迂回するように広く新しい道とトンネルができ、しばらく空き地となっていた広大な遊園地の跡地には今、大きなマンションが建った。市街地へのアクセスも良い古い福田の街は202号沿いの街の中では最も、時間の進んでいる街だ。
福田の北、式見は、すっかりただのベッドタウンになってしまった福田の街とは違って、まだ漁師の街の名残がある。マンションなんかはもちろんなく、弓なりの大きな港には漁船が並び、揚げたての式見カマボコは大人になるにつれてだんだん、美味しく感じられるようになる。式見にはまた、弁天白浜と呼ばれる白い海水浴場がある。リアス式の半島にもともと浜はそれほど多くはないから、伊王島が橋でつながるまでずっと、市街地からも近いこの海水浴場は若者や家族連れにも貴重な場所だった。高校生の頃、クラスの男子数人でこの浜へ遊びに行った折、同じ高校の女子バレー部とばったり出くわしたことがあった。気さくに話しかける友人たちをよそに、どうも奥手でそのくせかっこつけな僕はドギマギしてしまって、上手く話すことができなかった。
崖下にある浜には、上の国道から車で降りていくか、式見漁港から海岸伝いに十分ほど歩いて行くか、どちらかの道しかなかった。漁港から浜へ至る道の途中は階段状の公園になっていた。大学生になって、海ではしゃぐ若い男女のグループが煩わしく感じるようになってからは、夜遅く、友人とこの公園でだらだらと時間を過ごすことが多くなった。
それから小さな浦をいくつか回った先で、202号は半島の中で最も広い広い埋め立て地のある港へと出る。畝刈(アゼカリ)と呼ばれるその地区は地元の名士、本田善治郎のたゆまぬ交渉の結果、平成になった頃にとうとう、移転先を探していた長崎漁港の誘致に成功した。新長崎漁港と名付けられたその港は遠浅の美しい砂浜を埋め立てる形で作られ、水産加工の企業のための用地も豊富に確保した街はどんどん発展していく、はずだった。けれども地元の発展を望んだ名士たちの思惑は時代の移り変わりと共に少しずつ軌道を逸れていって、魚介類の消費量も減少するなか公海で荒ぶる中韓の勢いにも押される形で漁獲高はみるみる減少していき、結果二十年がたって広がっていったのは巨大な県営住宅と、広大な空き地に点在するこれまた巨大なパチンコ屋。狙っていた水産加工施設は最初期に分譲されたほんのわずかなブロックだけになってしまっている。
おおよその場合、畝刈の街を含む三重地区から北側が西彼杵半島と呼ばれる。僕の生まれ育った団地も、その畝刈の街から海岸沿いの202号ではなく、新道をしばらく南に下った山の上にあった。団地といっても港のそばの県営住宅とは違って、一戸建てが並ぶ「光風台」という立派な名前の住宅地。中学校の校区を同じくする県営住宅の子供たちとは随分違う文化があった。
「光風台の奴らは金持ちやけんな。」
と畝刈の子供たちに揶揄されることも多く、光風台の子供たちもそのスレた雰囲気に憧れて不良を目指したりするのだけれど、両親の教育のたまものか根が真面目で気弱な子供が多いから、やはりどこか格好がつかない。不良たちに囲まれるのが怖くて地元ではなく附属中学を選んだ僕は畝刈の子供たちとはそれほど交流が無かったのだけれど、高校で出会った同じサッカー部の徳永君だけは、妙にウマがあった。身長が低いのに一年からバリバリのレギュラーを張っていた徳永君に比べ卒業までほとんどベンチ入りすらできなかった僕だったけれど、徳永君は全然偉そうなところがなく、土曜の部活の終わった後はよく一緒に遊びに繰り出した。畝刈の子供らしくキングギドラやケーダブシャインが好きで、太いズボンを腰まで下げ、眉毛は薄く細かったけれど、無邪気な笑顔は誰からも好かれていて、僕のような弱っちい優等生から前歯を溶かしたようなロクデナシまで、友人は幅広かった。彼は畝刈の子供にしては珍しく、大学にも行った。公立の大学ばかりを受けてどこにも合格せず、仕方なしに授業料の最も安い予備校へ入ることを決めていざ予備校に行くぞと家を出ようとした瞬間、家の電話が鳴った。こんな時になんだと思いながらしぶしぶ電話に出ると、福岡の県立大学からの補欠合格の知らせだったということを、笑いながら話してくれたことがある。教員を目指した彼は卒業後数年の間非常勤講師をしていたけれど、結局今は消防士をしているそうだ。
広い畝刈の港と、漁港の脇の丘の上に立つ地元の中学に僕は今でも、憧れている。附属中学での三年間も楽しかったけれど、附属小学校からそのまま上がってきた連中とイマイチ上手く馴染むことができなかったせいもあるのだろう。夏は漁港から立ち上る生ぐさい臭いのせいで窓を開けることもできず、盗難事件や暴力事件も多かった地元の中学への少年のような憧れはきっと、一生消えることはないのだろう。
202号線は式見方面から一度畝刈の港へ出ると、漁港やパチンコ屋の並ぶ埋め立て地ではなく、山沿いの古い土地を走る。まっすぐ碁盤の目のように整った漁港の道路よりも、僕は寂れた202号線を走る方が好きだった。山沿いにうねりながら走る道には、かつての地形の名残がある。「このきれか浜ば埋め立てるとはなにごとか。」
と、漁港の誘致には当時、反対の声も多かったそうだ。202号線沿いには、半農半漁の暮らしをしていた頃を感じされてくれる瓦葺きの屋根の古い家がいくつか、残っている。確かにベッドタウンとして人工は増えているとはいえ、思い描いていたような街の発展はならなかった。当時を知る人たちはどんな思いで、夜空を照らすパチンコ屋のサーチライトを眺めているのだろうか。僕も遠浅の白い浜を一度、見てみたかったと思う。
漁港脇をまっすぐ走る新道と202号線は、次の三重の港でまた合流して、埋め立て地を真っ直ぐ走ってきた新道はそこで終わりになる。すっかり昔の面影をなくした畝刈と違い、三重の港には古い町並みがそのまま、残っている。港の前に数件の商店や飯屋がある他は古い住宅が立ち並ぶだけの静かな港だ。202号線沿いには珍しく、わずかな水田もある。この先から半島は、この三重の港のような川沿いの集落へ降りてはまた峠を越える、というのを繰り返しながら北へ北へと進んでいく。黒崎のデイリーヤマザキの後は大瀬戸まで、コンビニも無い。一応福岡方面へ抜ける裏道ではあるけれど、圧倒的に走りやすく距離も短い内海側の道や大村方面を通る高速道路もあるから、今はトラックもほとんど通らない。週末に時折集団で走るツーリングの集団や少々マニアックな観光客を乗せた車が通る他は、地元の車しか通らない寂れた道だ。ここから先の風景が僕はたまらなく好きだった。東京で仕送りをしてくれる両親に甘えながら明日もしれず遊びほうけた日々。それでも気弱で欲深いために絡まり付いてくるいくつかのしがらみを振り切るように半年に一度帰ってきて必ず車を走らせたのが、ここから先の道だった。静かで暖かな三重の港。国道から離れて訪れた樫山の町並みに驚いたこと。波が打ち付ける黒崎の石浜。深い奥行きを持つ古い町、神浦。たおやかな雪浦には、白い砂浜。大瀬戸の港にはまだ、昭和の終わりの、人の熱が残っている。浦々をただ真夜中に通り過ぎるだけの僕を、そこで暮らす人々は笑うだろう。結局僕は何物にもなれないまま、都市に暮らし、海岸線をふらふらと、漂う。ハングルの書かれたペットボトルがどこかの浜に打ち上げられれ汚れていく姿が目に浮かんだ。どこかからやってきたもの。必要のないもの。
角力灘を一望する道の駅「夕陽が丘そとめ」から見下ろすことができる狭く深い出津(しつ)は、その浦々の中で僕が最も好きな集落だ。細い川の両脇の斜面に小さな住宅が並び、丘の北側には段々畑と、白い教会が立っている。狭い谷の上には橋がかかっていて、道幅も狭い出津の集落を通り抜けていくものは今、ほとんどいない。橋を渡った先にすぐ右に折れる道があり、「出津こども科学博物館」を通り過ぎた先に、教会の駐車場がある。教会は遠目に見ると白く美しく輝くように見えるけれど、近くに寄ってみてみると、木造の簡素な作りに驚かされる。木の引き戸をガラガラと開けて中に入ると、やはりそこも質素な作りだ。神父さんなのだろうか、ジャージ姿のおじさんがガーガーと掃除機をかけている場面を見かけたこともあった。外へ出ると、出津の集落を良く見渡すことができた。斜面にたちならぶ小さな家並みには、未だにトタン葺の家屋も見える。川幅もせまく、南北を半島の中でもかなり高い崖に挟まれた小さな港は、神浦のような平坦な土地もほとんどなく、黒崎のような大きな浜も無く、良港という風には見えなかった。事実この出津の集落は、付近でも最も貧しい集落の一つだったそうだ。そして出津にはずっと、キリシタンたちが暮らしていた。隠れキリシタン、という言葉は信仰を必死に隠してきた意志の強い人々、を想像させるけれど、この出津を見ていると事実は多少違ったのだろうと思う。どちらかというと、見向きもされない人たち。頼むから面倒を起こさないでくれよと、放っておかれた人たち。当人たち自身も、それほど深く考えることも無く日々をどうにかこうにか、暮らしていた人たち。ただ動くことができなかった人たちの姿が浮かんでくる。ここに暮らしていたのは勇敢で純粋な隠れキリシタンではなくて、ただなにがしかの因果でそこにもたらされたものを単純に受け入れてきた、見向きもされないキリシタンたちだ。
出津の街は世界遺産への登録を控え、教会を中心とする明治初期の建物を観光客も安心して見られるよう、数年前から整備が進んでいる。北側の国道沿いに、それよりもっとずっと前から立っている遠藤周作の文学碑がある。「沈黙」のモチーフとしたのがこのあたりだったそうで、さきの道の駅には「遠藤周作文学館」という立派な資料館もある。

 

人がこんなに哀しいのに

 

主よ

海はあまりに碧いのです

 

碑にはそう刻まれている。遠藤周作を読んでいた大学生の頃、この言葉は僕を感傷的にさせた。実際はただのナマケモノ大学生だった僕でさえも、弱く美しく燃える命の一つのように見せてくれた周作先生は、やはり偉大だ。そんなこと当たり前じゃないか、とも思って素直に感動しなくなった僕の心はあの頃より、乾いてきてしまっているのだろうか。人は、哀しい。海は、碧い。なるほど確かに真実だろう。でもやっぱり、人は、クダラナイ。海は、キタナイ。それだってまた事実だ。真実と事実を同じく語って交ぜにしながらアナーキーになるほど愚かではないつもりだけれど、哀しいということはやはり、美しいということと重ねあわせてはいけないと、一生懸命仕事をするうちに、いつしか思うようになった。

高台の道の駅からは遮るものもなく、角力灘にしずむ夕日がきれいに見える。出津教会からも夕日は見えるけれど、手前の国道や道の駅の立つ岬や北側の斜面に遮られて、それほど風景の広がりは感じられない。だけれど僕はこの教会からの風景が、やはり半島の浦々の中で一番好きだ。
神浦(こうのうら)、雪浦(ゆきのうら)の2つの集落には、両親がそこの小学校に勤めていたこと、また僕自身も小さい頃しばらく雪浦に住んでいたこともあって、多少知っていることの多い街だ。それまでの教会が立つ小さな浦々と違って、神浦には寺が多い。平坦で米もとれる広い土地。外海(そとめ)と呼ばれるこの地域の中心となっていた街だ。ここには古い城跡もあった。一度、城跡へ歩いて登ってみたことがあった。神浦川沿いに平坦な土地が奥へと延びていき思いの外懐の深い土地であることに驚いた。集落の中ほどに小学校が見えた。木造の平屋建ての校舎。父がこの小学校に勤めていた頃、ちょうど小学校低学年だった僕も何度か小学校を訪れたことがある。父は全校生徒で百名もいない小さな学校の、サッカークラブのコーチをしていた。数年の間公式戦で一度も勝ったことがなかったけれど、サッカーを教えている父は大きな声を出し、楽しそうにしていたように思う。最後はまたあんな風な小さな学校で終えたいなあ、と常々言っていた父は、結局市内でも指折りの大きな小学校に勤めている間に定年を迎え退職した。念願かなってかどうかは知らないが、定年退職後父は嘱託職員として採用され、毎日202号線を通ってこの神浦の公民館で雑用をしている。清流に守られた街はゆっくりと人が減り続けているけれど、ここは他の浦々に比べてうらぶれた雰囲気も少なく、どこか穏やかな表情をしている。
雪浦には四歳までの三年間ほど、住んでいたことがあった。202号線から奥まった高台のアパートだった。当時のことは微かに、記憶の中にある。2棟のアパートが並ぶ脇に保育園。近くの神社には土俵があった。雪浦には神浦ほどの奥行きが無いかわりに、地域で最も大きな白い砂浜がある。これだけきれいな浜なのだから海水浴場にすればいいのに、と思って両親に聞いてみたところ、どうやらここは流れが速く危険なため遊泳には向かないそうで、夏場もどこかから話を聞きつけたサーファーたちが練習するに留まっている。アパートの暮らしははっきり覚えていないけれど、一度近所の同い年の男の子と大喧嘩をして騒ぎになったことがあった。理由も何にももちろん覚えていないけれど、強烈に覚えているのは、なんと股間に噛みつかれたこと。一体全体どれほどの悪いことを僕はしてしまったのだろう。雪浦小学校の夏休みキャンプに、参加させてもらったこともあった。朝まだ暗いうち、高学年の男の子たちに起こされて校庭に出て木を蹴ると、カブトムシやクワガタムシがバラバラと落ちてきて嬉しかった。
雪浦を過ぎれば、大瀬戸の街はもうすぐそこ。佐世保や池島へ向かう航路を持つ大瀬戸は、半島の北半分では最も大きな街だ。大瀬戸の桟橋から船で十分ほど、かつて炭坑のあった松島という島で、祖父は生まれた。曾祖父は町長をつとめた程の家柄だったそうだが祖父は何ほどの才覚もなく、当時近辺を賑わせていた炭坑労働者となった。祖父母の家はその松島にあった。そういうわけで僕は小さい頃からよくこの202号線を走っていたわけだ。池島、松島、大島と、ここから北側の沖合には炭坑の島が並ぶ。沖合の海底には、長崎市街からここまでの道のりよりもはるかに長い坑道が走っているという。祖父は松島だけでなく、池島、大島の炭坑でも働いていた。僕が物心ついた時にはもう定年で退職していたから、僕が知っているのは細面で胸も薄い、眼鏡ではげあがった優しそうな祖父だけ。幼い頃からその祖父に良く似ている、と言われていた。僕も時代が時代なら地下で穴を掘って暮らしていたのだろうか。
こうやって202号線をたどっていくと、僕が感じていた地元の中学校や不良への憧れは、祖父への憧れなのかもしれないと思い当たった。ぼーっとしていて、タバコとパチンコと釣りが好きだった。肘をついて飯を食っては、勝ち気な祖母に怒られていた。落盤事故で死にかけて真っ黒になって地下からあがってきたこともあったそうだ。手先が器用で、幼稚園児だった僕が作れなかったお菓子のおまけのチョロキューを作って走らせてくれたこともあった。いつも優しかったけれど、公園に置いてあった飲みかけのジュースに手をつけようとした僕を、
「ションベンでん入っとったらどがんすっとか!」
と、突然すごい剣幕で怒鳴ったこともあった。祖父が不良だったかと言われると全然そんなことは無いのだけど、どうしてだろう、タバコをプカプカふかしながら釣り糸を垂らし、パチンコを回し、孫のベビーカーを押す祖父の姿を想像すると、地元の中学校へ進学していたら、ということを想像したときと同じようなくすぐったい気持ちになる。とても単純な、大きく強いものへの憧れのようなもの。校庭の木を強く蹴った少年にも、明らかに勝つ見込みの無いチームを大声で指導する父にも、明治の始め、遠くフランスから出津教会へとやってきて村を開いた神父にも、通学バスで何度か出会った徳永君の茶髪でピアスの友人にも、僕は同じ気持ちを感じている。
小学校にあがる頃だったろうか、見舞いで訪れた病院での祖父の姿は、ひどく痛ましいものだった。骨髄のガンで手術をしたものの衰弱もひどく、チューブだらけとなった顔にはもう、表情がなかった。大好きだった祖父のその姿に、泣きそうになりながら何も言うことができなかった。程なくして、祖父は亡くなった。後から聞いた話なのだけれど、祖母が六十五で佐世保市内での仕事を定年退職し、これからようやく松島の家で静かに暮らそう、と話していた矢先のことだったそうだ。気丈だった祖母が泣いたのを見たのは、後にも先にも祖父の葬儀の際の一度きり。焼き場へ運ばれる棺にすがるようにして泣き叫ぶ祖母の姿にも、僕はまた何も言うことができなかった。
大瀬戸の少し先、多以良と呼ばれる、田圃の広がる美しい盆地で生まれ育った祖母は、それから後は僕たち家族と一緒に、半島の付け根の団地で暮らした。車の免許を持たない祖母は少なくとも月に一度は路線バスに乗って202号線を上り、松島の家を訪れては手入れをしたり、墓の掃除をしたりしていたようだ。高校生頃頃だったろうか、夏休みのある日、どういうわけかいつもは両親の車で行くはずのところを、祖母と連れだって二人きりで路線バスで202号線を上ったことがあった。大瀬戸港の側の寿司屋で、二人で寿司を食べた。「お愛想」という言葉を初めて聞いたのは、祖母からだった。田舎生まれながら女学校を出て六十五まで保険会社で勤め上げた、どこか都会的な粋な雰囲気を持った女性だった。
202号線は大瀬戸から多以良を過ぎてもうしばらく走ると、北の先端に達し東へと折れる。先端からやや東よりに入ったところに、佐世保方面の陸地と接する早岐の瀬戸、その上に西海橋という橋がかかり、そのまま佐世保方面へとつながっていく。佐世保方面にはあまり縁のなかった僕が知っている202号線は、ここまで。コンビニだってたくさんある内海側を回って帰るのもいいし、さらに車の少ない半島の中央を横切る広域農道もある。それでも僕はやはりここへ来ると、遠回りになることがわかっている202号線を通って、今度は運転席から海を眺めながら、また半島の付け根へ帰る。

2015年9月21日公開

© 2015 本多篤史

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"202"へのコメント 4

  • 投稿者 | 2015-09-25 18:01

    博多文フリ用の玉稿、サンクスでした! 無論、僕も良くドライヴしていたコース(乗っているだけ)なので良く識ってますが、描写が上手いと思いました。
    いつか、思案橋で呑みましょう。

    • 投稿者 | 2015-09-25 22:34

      コメントありがとうございます!あんまり何にもないところですが、知っている方にも楽しんでもらえたなら何よりです!僕はどちらかというと西彼の人間です!

      思案橋、ぜひよいお店を教えてください〜

      著者
      • 投稿者 | 2015-09-26 10:54

        202ルートとは違いますが、僕も都落ちしてから暫く、長与に滞在していたので西彼杵ラヴですよ。
        博多文フリは来られないみたいで残念です。次の帰省の際には是非、呑みましょう。

  • 投稿者 | 2015-09-26 13:30

    福岡行きたかったんですが、東京文フリの用意などもあって難しかったです‥。ぜひせひ、呑みましょう!

    著者
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