深夜

動物(第4話)

本多篤史

小説

5,254文字

四月末に長女が産まれました。産院のみなさん、本当にありがとうございました。

四階の南病棟に産声が響いたのは深夜一時三十六分。若い夫婦の真剣な眼差しとは裏腹に、黒縁眼鏡に古くさい坊主頭の椎名医師は眠い目をこすって分娩室へと現れる。本日最初の分娩は経産婦。陣痛室から分娩完了まで三十六分のスピード出産ではあったけれど、妊婦は初産の時に高血圧で入院している。今回も出血が多く、もうしばらくは輸血で様子を見る必要があった。女性ばかりが入院する四階の南病棟には陣痛室と分娩室が併設されている。出産を終えて間もない患者も多いこちらの病棟は夜九時を過ぎるともう薄暗いけれど、短い渡り廊下の先、北側の病棟はICUとなっていて、夜通し明かりはついたままだ。目の前の一つの生命の価値は、電気を節約して大いなる地球を守るという使命より、やはりどうしたって重いのである。椎名医師は看護婦から報告のあった経産婦の出血量のデータを眺めるとのんびりとアクビをし、つっかけを一応靴に履き替えて医師の控え室を出た。もう一度のオンコールにはいはいすぐ行きますと応え、椎名医師は眠そうに歩き出した。分娩室のドアは手術室同様、手で触れなくてもいいようにフットスイッチで開ける仕組みになっている。慣れた動作でドアを開け分娩室に入ると、もう赤ちゃんは取り出されていて看護師が作業台で赤ちゃんのチェックをしているところだった。
「これから胎盤が出ます。」
看護師の問いかけに椎名医師は「はいはい。」と小さく返事をした。
近藤拓也は不安だった。出産に立ち会えた感動で高揚していたにも関わらず、現れた椎名医師が笑顔一つ見せずになんだか眠そうな顔をしていたからだった。賢明な近藤拓也はでも、すぐに思い直した。出産なんか毎日いくらだってある。ここが世界の中心、みたいに舞い上がってはいけない。先生、よろしくお願いします。殊勝な近藤拓也の一方、妻の近藤敬子は肩で息をしながらも冷静だった。この先生、大丈夫かしら。
「肩が出るときに、少し裂けちゃって。」
看護師の言葉にも近藤敬子は動じない。あーあ。今は少し麻酔をしてもらっているみたいだけど、裂けてるんだとしばらくオマタは痛いかしら。喉が乾いたなあ、と思うや否や、夫の近藤拓也から声がかかる。
「お水、持ってこようか。」
ナイスタイミング。お願い。というと近藤拓也はフットスイッチのドアをぎこちない動作で開け、隣の陣痛室へと向かっていった。結局人生を決めるのって、こういうことよね。喉が乾いた時に水がほしい?って言ってもらえること。気の利いたプレゼントやサプライズもできないし、なんだかいつもぼんやりした夫だけれど、この人で良かったと、思えた一夜だった。
一階の防災センターに深夜の来客は少なかった。山手線沿いの道路に面した防災センターの入り口は夜間の出入り口も兼ねているけれど、今夜は救急の患者もなく静かなものだった。一時から四時すぎの三時間だけ、電車の音の止んだ防災センターは静かになる。警備員の山下は、エレベーターから降りてきた同僚の小林に声をかけた。
「お疲れさまです。」
「お疲れさまです。」
六十をとおにすぎているだろう小林の姿を見る度に、まだ若い(といっても三十半ばだけれども)山下は妙な安心感と恐怖の混じった気持ちを、心の奥の隅っこの方に感じることがあった。つまり山下は自分の心の入れ物として、四角いマスの形をイメージしているのだった。流れ、流れて、六十年も生きていれば、誰だって自慢話の一つや二つは持っている。小林は今日、機嫌が良い。彼が兜町の証券会社で働いていた時の暮らしぶりを、山下は今夜も散々聞かされるのだろう。アクビをかみ殺しながら、そんな毎日も悪くないと感じ始めている自分の暮らしのこれからの長さを、山下は長いため息で表現した。役者になろうと思っていた。ミュージシャンになろうとバンドを組んでみたこともあった。二十台の半ば頃までは精力的にライブや公演をこなして、朝まで仲間とぎゃあぎゃあ騒ぎあった。三十に近づいて行くにつれて、じわり、じわりと仲間の数も減っていって、気づくと会うことも無くなっていった。夢を追うというのは、現実に立ち向かう決意をするということ。ネットで拾ったそんな言葉が何度もリフレインするようになった。
ため息に応えてエレベーターのベルが鳴った。コツコツと上気した足取り。ああ、また、出産の立ち会いだろうな、と山下は思った。立ち会いを終えた夫たちの足音はみな一様に、軽い。小汚いジャージ姿の若者だろうが、くたびれた安物スーツのサラリーマンだろうが、ニッカポッカの兄ちゃんだろうが、コツコツだったり、時にはズリズリだったりもするけれど、その足音は軽いのだ。人生を前に向かって進もうとする、慣性のようなもの。良く張った帆。尾根から吹き下ろすさわやかな風。その足音を山下は区別することができるようになっていた。
『すみません、一度外に出たいのですが。』
さあ祝福してくれといわんばかりの上気した、やや疲れた顔。見慣れていてもうっとおしものは、しょうがない。午前二時三十七分。カウンターに置かれたデジタル時計の数字を書き込んで、意気揚々と男性は外へ出て行った。コンビニで軽く食事でもするのだろう。見回りの交代の時間になり、山下は支度をした。カウンターを出て左へ少し進むと、エレベーターがある。もう少し奥へ進むと、広いエントランスホールだ。エントランスホールは暗く、グリーンとブルーの非常用ライトがホール全体をぼんやりと照らしている。穴蔵みたいな自分の部屋もこのぐらい広ければ、というより、ココで寝れたら幸せかもしれないな、と毎晩繰り返し考える。二階の吹き抜けにつながる中央のエスカレーターは使わずに、重い鉄扉を明けて隅の非常用階段から二階へとあがった。吹き抜けを上がった二階の外来診察室にはもちろん人の姿などなく、いつも通り形式だけの巡回はすぐに終わってしまう。三階からは病棟は北と南に別れ、入院患者のための病棟となる。別れているといってもそれはある程度便宜的なもので、間は廊下できちんとつながっていた。三階南は男性病棟。こちらは数人の怪我の患者をのぞけば、みな手術を伴うような病気あるいは老齢での入院がほとんどで、四階の女性病棟と比べるとやや暗い雰囲気があった。308の患者の大きないびきと、うなる自動販売機と冷水機の音の他、特に物音もなく静かなものだった。看護士たちは形だけの会釈をくれたが、夜勤に入って既に長くたっていて、皆余計なコミュニケーションに手を煩わせたくないという顔をしている。廊下を渡って、こうこうと明かりの灯る三階北病棟へ。三階北は手術室となっていて、いつでも緊急手術へと入れるよう、明かりはつけたままにしておくのが規則だった。異常なし。重大な命の駆け引きをする手術室が、一番元気に光っている。そう考えると不思議な気もするが、山下は病院に勤めて長く、漏れ聞こえてくる会話や警備員同士の世間話から、この規模の病院ではおよそ危険な手術などするわけもなく、手術はいわば勝ちの決まった出来レースのようなもの、地区大会のシード校一回戦ばりに初めから結果の見えた戦いがほとんどであることをよく知っていた。今度は北病棟奥の非常階段を使って四階へ。四階の北病棟は女性の一般入院患者たちが静かに眠っていた。こちらは三階と比べ圧倒的に老婆の比率が高く、老人ホームのような乾いた明るいあきらめのような空気がある。山下は一階のホールをのぞけば、四階北病棟の雰囲気が一番好きだった。勝手知ったる女性同士、看護師たちの雰囲気もどこか三階よりも落ち着いて気安く見える。反対に山下が最も苦手なのが、四階の南病棟、出産のための入院病棟であった。人生悲喜こもごも、とよく言うが、これほど苦しみと喜びが無遠慮に、しかも清潔に隣り合う環境が他にあるだろうか。無事に出産を終え穏やかに眠る母親のそばには、切迫流産で緊急入院し不安な夜を過ごす妊婦がいる。夜中にしくしくすすり泣く声と、授乳のため起こされた母親が授乳室で我が子に語りかける声を交互に聞く度に、山下は到底、こんなプレッシャーは自分に耐えられないだろうと、やはり独り身で警備員でもしながらぼんやり年を取っていく方が良いと、心の底で感じるのだった。

 

ごま塩頭の椎名医師はまあ問題なんかまずあるわけないだろうと思っていた通りの出産婦の予後の経過も見届け、突っかけサンダルをずりずりひきずりながらまた分娩室から出てきたところで、警備員のす姿を認め黙礼した。しけた顔の警備員と一緒にエレベーターに乗り一階で見送ると、地下一階の喫煙所へと向かった。地下一階は簡単な売店と入院患者のための散髪屋や自動販売機があるほか、大部分は駐車場スペースとなっている。喫煙所は建物を出たすぐ左脇、駐車場の隅にあった。昔は良かった、と椎名医師は振り返る。控え室でタバコをすっても悪い顔をするやつなんか誰もいないし、夜勤をしても今週末はどの看護師と食事に行こうかなど考えていれば、眠たくなるなんてことも無かった。形見の狭い時代になったものだ。看護師たちの中には、タバコの臭いをさせているだけで陰でイヤな顔をするものもいる。ベテランの助産師達は我が根城とする四階南病棟にわからぬことなどありません、と言うかのように大手を振って、いつまでも雇われ医師をしている自分への経緯や信頼など全然無い。それでも椎名医師は夜風も吹かぬ地下駐車場の隅でタバコの煙を吐き出しふうと一息ついて目を閉じると、先ほどの仕事を思い出すのだった。ゆっくりとこちらの世界に現れる赤黒い頭。妊婦も新生児も、看護師も疲れた椎名医師でさえ、ほんの小一時間の間、たった一つの目的のためだけに力を合わせ、それぞれのベストを尽くして行動する。目の前の一つ一つの仕事をただこなす内に誰にも顧みられない年齢と風貌になってしまったが、心の内で椎名医師は、使命感と呼ぶのも気恥ずかしい小さな感動に絡め取られるように、日々を送っているのだった。タバコの煙を押し消し、誰が残したか知らない灰皿から立ち上る小さな一筋の煙を缶コーヒーの残りで消してしまってから、椎名医師は呼び出しのPHSに応え、またずりずりとサンダルをひきずり、ごま塩頭をボリボリ掻いて、喫煙所を後にした。
談話室横の病棟奥では、目を爛々と光らせて辺りの気配をうかがう金沢綾子が今夜最大の痛みの波を今まさに感じ始めたところだった。二人目の出産となる彼女は陣痛に対してはもうベテランと言ってよかった。そろそろ来るかな、と思うとすうっと一時波は引き、また静かに首を枕に沈めて窓の外、線路を挟んで向かいの高台に立つオフィスビルを眺めた。もう随分明かりは消えたけれど、まだいくつか、明かりのついている部屋が見えた。既に午前三時を回っている。いったいオフィスでこんな時間にどんな仕事があるのだろう。考えてもしょうがないのだけれど、出産を控え興奮状態の彼女の感覚器官は、普段では気にならないそんなことや、はす向かいの若いママの衣擦れの音や、定期的に低くなる談話室の自動販売機の音にいちいち敏感に反応するのだった。旦那に上の子を任せての、一人きりでの出産。多少の不安はあったけれど、思っていたよりは随分落ち着いてのぞめている。次の大きな波が来かかるとすぐ、綾子はナースコールのボタンを押し、分娩室へ移動したいことを若い看護師に伝えた。大丈夫、まだ一人で歩ける。手すりにつかまって小さな歩幅で、ナースセンター横の分娩室へと向かう。途中、新生児室の脇を通る。そういえばこの病院は、母子同室NGだったわね、とまたわかっているはずのどうでもいいことを考えつつ、眠っていたり泣いていたりする数人の新生児たちの顔を一通り眺めて、どの子もあんまり美人じゃないわ、とまた分娩室へと足を進めた。フットペダルで分娩室への扉を開けると、おんぎゃあおんぎゃあと、今まさに奥のもう一つの扉の向こう、分娩台の上でまた赤ちゃんが産声を上げた瞬間だった。ともに戦った戦友へ送るエールにも似た気持ちで、綾子はご苦労さま、と心の中で産婦をねぎらった。後ろからずりずりとスリッパの音がして、振り返るとごま塩頭の眠そうな医師が分娩室に入ってきたところだった。マスクをつけたままの看護師が奥の扉を開け、「先生、もう産まれちゃいました。」と人なつっこそうな笑顔で語りかけた。今夜の担当はあの医師か、大丈夫かな。といやに冷静な頭で綾子は分娩室のベッドに横になり、皆産婦に夢中で無人になった部屋のちょうど中央で、ハワイのビーチに押し寄せるパイプラインのような見事な痛みの波がやってくるのをキタキタキタと、目を閉じて感じ始めた。

 

午前三時十八分、サイレンのような高く長い綾子のうめき声が四階南病棟にかすかに響きわたり、多分今夜最後になるだろう、仕事が静かに始まるのだった。

2015年7月15日公開

作品集『動物』第4話 (全5話)

© 2015 本多篤史

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