流れ星

動物(第3話)

本多篤史

小説

3,645文字

信号が1つしかない街で育ちました。コンビニにも歩いてはいけませんでした。そんな住宅地が大好きでした。

健治の町には、信号が一つしかない。蜘蛛の巣のような山中の住宅街、その中央のスーパーの前に信号ができたとき、健治は自分の町がこれからどんどん、発展していくのかもしれないと、妙にうれしくなったことを覚えていた。
正確にはその住宅街の入り口と出口にもう一つずつあるのだけれど、一本道を車で数分走らないとつかないその場所は、健治にとって町の中とは呼べなかった。彼の期待とは裏腹に、バブル期に建設された交通の便も悪い住宅街がそこから発展することはもちろんなくて、健治が高校生に鳴る頃には、もう住宅街の下側の端に立つ小学校の児童数は一クラスまで減ってしまっていた。建設当初はビバリーヒルズのように美しい建物が並んでいた住宅街、地方の中では比較的裕福な家庭も多かった。両親が公務員をしていて学校の成績も悪くはなかった健治は、十七歳になった頃、他の多くの子供たちと同じように、ごく当たり前に町を出ようと思った。それほど、大したことだとは思っていなかった。都会で何かを学んで、すぐにこの町に帰ってくればいい。そんな風に思っていた。つまり、高いレベルの教育があれば、自由になれると勘違いしていたのだ。
それから運の悪いことに、同級生たちよりも、健治はこの町と自分の家族が好きだった。深入りしないたちの家族と、深入りしてこない新しい町。しかし周囲は緑に囲まれていて、金銭的にも、環境的にも、伸び伸びと育つための自由があった。自由がたゆまぬ努力によって獲得されたものだと知らない民はいつも、愚かだ。大学生になり、意気揚々と町を出て東京へ向かったまだまだ紅顔の健治は当然のように、都会の享楽に飲み込まれていった。優しく暖かく、さりげない両親の目の届かない場所にはその変わりに、ぎらぎらとした、時にはサイケな色とりどりの誘惑があった。大学に近いからという理由で住み始めた場所もまた悪く、若者達が集う繁華街まで歩いて五分、陽が高くなるまで酒が飲めて遊べる場所もたくさんあった。怠惰ではあるけれども善良な健治は二年もすると、そんな自分の生活に嫌気がさしてきたのだった。それでも辛うじて大学にはイヤイヤ通っていたけれど、アルバイトと講義以外の時間は、一年遅れで上京してきた元樹とばかり会うようになった。三年生にあがる前の春休み、健治はアルバイトを辞め、一ヶ月あまりの間、町に戻った。春の町はきれいだった。病院横のグラウンドには東京よりも早くツツジが咲き乱れていて、新緑の山に囲まれた空は高く、見上げると落ちていきそうな程だった。健治は毎日、涙が出そうな程に胸が締め付けられた。それから夜通し、いたずらに車を走らせた。大声で歌いながら、真っ暗な道を走った。

 

大学を辞めたい、と両親に申し出たのは九月も十日を過ぎた頃、夜明けの空気に初めて冬の成分を感じた朝、そろそろ後期の準備を始めなくてはいけないという頃だった。目を丸くして驚いた両親はそれでもやはり昔と同じように、最終的には優しく、包み込むように健治の申し出を受け入れてくれた。それから十月を迎える頃には、都会に健治が暮らした痕跡はほとんどすべて無くなってしまって、健治はあても無く、信号機が相変わらず一つしかない健治の町へ帰ってきた。低い山に囲まれた町、数年ぶりに見る十月の空は高く広がっていた。ダムの脇にあるきれいなおにぎり山は紅葉に薄赤く、しばらく真夏と真冬にしか過ごすことの無かった街に吹く風は、健治の心に残った甘い痛みのようなものをしばらくからかうようにくすぐって、去っていった。紅葉が目に痛く、染みるようだった。三年もの間、自分は何をしてきたのだろう。弟たちも大学に進学し、同級生たちは就職活動のことを憂鬱そうに話し始めている。夢を見ていたはずの僕は何もすることがなく、グラウンドの端のベンチに腰掛けている。夕方に差し掛かり、グラウンドにソフトボールクラブの少年たちの姿が現れはじめた。真っ青なキャップをかぶった少年たちの視線も痛く、健治はグラウンドを離れて歩き始めた。街には思い出深い場所がたくさんあった。グラウンド脇の坂道を登ると、そこからまた下る斜面は林になっていて、斜面の下にはテニスコートがある。テニスコートへ下る未舗装の道は小さい頃の格好の遊び場だった。窪地の秘密基地を取り合って、段ボールやマンガやお菓子を運び込んで友達と過ごした場所。小道は今通る人もほとんどなく、荒れるに任せたままになっている。ニュータウンの宿命なのだろう、あれから十年足らずで子供の数は半分以下になったと聞いている。そこからもう少し歩けば、団地の端、山道の出口にある路線バスの車庫があった。車庫と言ってもただアスファルトの広場と自動販売機が一つあるきり。雨ざらしの一時の停車場のようなものだった。何度か、車庫の裏の山道を抜けて、山の向こうを目指したことがあった。初めて峠のてっぺんあたりでゴミの焼却施設を見つけた時は友達と二人大騒ぎをしながら家に帰った。

 

経験が健治のすべてだった。ほんの小さな、たくさんの愚かな過ちだけが今、健治のすべてだった。高校を卒業する頃、性欲に負けてどうでもいい女に良い顔をしてちちくりあって、すぐに恥ずかしくなって捨てて怒らせてしまったこと。上京して間もなく、田舎ものを悟られまいと無理をしてばかりいたこと。挙げ句の果てに遊びほうけて、すっかり意欲も節度もなくしてこんなことになってしまったこと。金がなくてぶつけたまま当て逃げした車の持ち主にも、バイト先で適当な処理をして指定した期日に届かないであろうゴルフバックを送り出したことにも、全部、土下座して謝って回れば、もう一度十七歳の自分からやり直せないだろうか。そういったどうにもこうにもならないドウドウ巡りの思考と一緒に健治は小さな団地を、歩いていたどこからどうして、やり直そうか。高校生になった時、サッカー部のポジション選択でゴールキーパーを選んだところからだろうか。それとも、中学二年で、つらかったフィールドプレイヤーをやめてゴールキーパーになった時だろうか、それとももっと昔、怖くて高鉄棒からのグライダーができなかった時からだろうか。近所の小さな女の子の頭を叩いて、どきどきしながら素知らぬ顔で家に逃げ帰った時からだろうか。(結局その後両親からこっぴどく怒られることになった。)
ぐるぐるめぐる頭と足で団地を一巡りしてしまうと、健治はまたグラウンドへ戻ってきた。あたりはすっかり暗くなってしまっていて、もうソフトボールをする少年たちの姿も無く、人っ子一人歩かない団地に家々のあかりがぽつりぽつり、グランド脇の病院の入院病棟は薄暗く、気味が悪かった。ベンチに寝ころび、高校三年の夏を思い出した。部活動も引退してしまって、暇を持て余し友人たちと毎晩何をするでもなく集まって、流れ星を見つけた騒いだ頃。皆勇気も度胸も無く、酒もタバコも、それより喉から手がでるほどほしかった女もまだ、知らなかった。ぐえいと大きな声が出そうなほど、喉がぎゅうと締め付けられた。涙が出そうな気持ちと反対に、瞼は乾いてしようがなかった。

 

一筋大きな流れ星が、天頂付近はすうと流れた。願いを込めて三度、あのころに戻りたいあのころに戻りたいあのころに戻りたいと心の中で唱えてみた。これではいつに戻せばいいのか、相手としてもわからないだろうけれど、とにかく僕は今ではないどこかへ、二年前でも、五年前でも、十年前でもどこへでも、行ってしまいたかったのだ。あるいは十五光年を走る彗星から見える僕はまだ少年時の姿のまま。十五年前に発せられた光に乗っかってしまえば、あの頃の自分に戻れたりしないだろうか。
そうするとすうともう一度、今度は小さな流れ星が流れた。長く尾を引く、線香花火のような流れ星。ひょっとしてひょっとして、とほんの一瞬期待した健治の目が地上に転じられて見つけたのは、巡回していたパトカーの赤いランプと、バタンとドアを閉めて「お兄さん、どうかしましたか。」と一見親しげなようでいて明らかに警戒しながら近づいてくるお巡りさんの姿。懐中電灯の光がぱっと照らした健治の姿はしかし、中年のお巡りさんから見れば若くみずみずしく、羨ましい青春を駆けめぐる若者の姿であるし、小さな人々は愚者として皆、経験が照らすわずかな時間と空間の広がりの中で、悩んでみたり、泣いてみたり、乾いて絶望してみたりする。そうして妻子あるお巡りさんが健治の姿に心を打たれたりはしないように、大抵の人は他の誰かのためにいつしか気づかず一生懸命になって、暮らしていく。

 

こうして三年後のフェイスブックには見事地方公務員として真っ当な人生を歩み出した健治と地元の優良企業で事務員をする同級生のと妻の幸せな結婚式の模様の写真が、宇宙に飛び出すことなど到底できない小さな液晶のバックライトに祝福されて、いっぱいアップされるのだった。

2015年7月12日公開

作品集『動物』第3話 (全5話)

© 2015 本多篤史

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