「なあ、雪ノ隠岐よ。これは俺が現役の時に使っていた臙脂の廻しだ。相撲オタクだったお前なら知っていると思うが……そう、俺が大関に上がってから引退するまで締めていた褌ってヤツさ。それをお前さんに今、このタイミングで託す意味ってものを考えてくれ」
師匠は己のぬらぬらと光る禿頭を撫で繰り回しながら、私のことをいつになく優しい口調で諭した。
学生相撲で顕著な成績を引っ提げたエリートでもなければ、相撲人としての血も、なんならひもじい家族を養う為なら土俵の上で死ぬことも辞さないというようなハングリー精神も持ち合わせていない小太りの青年のことを決して嗤わず、部屋の門を唯一開いてくれたのが、我が師匠、雪見山親方であった。現役時代は鬼も逃げ出すと呼ばれた猛稽古の末に大関まで昇りつめた旭雪。私が部屋の門を敲いた時には既に、自分にも他人にも厳しい稽古スタイルをして、同業の親方衆からスポーツ科学も分からない時代錯誤の指導者であるとことあるごとに嘲笑されたりしていた。
名大関の部屋であるというのに、部屋には親方とおかみさん、そして、現役時代から師匠の付き人として彼を支え続けてきたもののその年限りで故郷に帰ることが決まっていた雪川谷さん三人しかおらず、碌なスポーツ経験もなかった私はこともあろうか、鬼と呼ばれた師匠とマンツーマンの指導を十余年も受け続けることになった。その地獄のような日々を秒で後悔しなかったといえば、嘘になる。
しかし、その猛稽古の甲斐もあって、心技体に加え、新弟子検査の体力測定も二度落ちるほどに才能にも乏しかった鈍臭い私も一端の力士となり、そして、関取となることができた。
大勝ちはしないが大負けもしない公務員のような関取、師匠は歯痒かったであろうが、天才たちが鎬を削る土俵の中でそのような異名を頂けるほどに長く、力を発揮し続けられるようになったことを私は名誉にさえ思っていた。
そして、いつしか私も幕内最年長力士と呼ばれるようになっていた。この場所を最後に師匠は定年退職を迎える。審判部長も務める師匠の前で少しでもいい相撲を見せたい。その一心で取組に挑み続けていたら、あれよあれよと優勝争いの渦中の人となった。師匠は当然、我が事のように喜んでいた。
「このまま、優勝までいけば、場所後の大関昇進もあるぞ。こんな孝行はない、俺は果報者だ」
それだけに、私の胸中を打ち明けるのは大変忍びなかった。私は同じく優勝争いを繰り広げている横綱との優勝をかけた大一番を前に途中休場を申し出ようとしているのだから。
何を隠そう私は、かつて一度足りとて経験したことのないプレッシャーにより、医者から急性胃腸炎の診断を下されていた。もう限界だったのだ、腹が。
そのことを包み隠さず、吐露すると、師匠は俺の分身だぞ、意味は分かってくれるであろうと色合いからしてもメッセージ性のある臙脂の廻しを授けてくれた。
私は、「これはもうそういうことであろう」と合点した。
令和某年名古屋場所、千秋楽の結びの一番、立行司の声も聞こえないほどに場内は怒号にも等しい歓声に包まれていた。目の前に対峙するのは蒼の大地が育んだ稀代の名横綱。当然、私は一度も彼から白星をあげたことなどない。いつもなら、その小さな身体から放たれる気迫に気圧されていたであろうが、今日に関してはその限りではなかった。
仕切りの度に丹田から、私だけに聞こえる腸をも突き破るような雷鳴が轟き、横綱のオーラどころではなかったのである。ただでさえ、毎日交通事故に遭うようなものと呼ばれている土俵の上でのガチンコ勝負だ。今の私には届くかもしれない賜杯や昇進のことなど毛頭よぎらなかった。私には、もっともっと近い恐怖があるばかりであった。
「ハッキよい……なァこっ⁉」
ここから先の記憶は断片的なものでしかない。まず行司の声を掻き消す強くあまりに鈍すぎる音が私の骨まで響き渡った。師匠の猛稽古が無ければ、私はその時点で耐えきれなかっただろう大地までも揺るがすがぶり寄り。外から内から二重に来る衝撃に、私は力士らしからぬ内股の姿勢で堪えるのがやっとだ。
このまま土俵を割れば、惨めではあろうともやり過ごせる。そんな思いが脳裏をよぎるや否や、私の踵に土俵の俵がガッとかかった。
「……んあっ♡」
スポーツでは限界まで鍛え上げたしなやかな肉体を脳の信号で極限まで脱力させた際に真の力を発揮できる。相撲もその例外ではない。私のありとあらゆるものから解放された肉体は横綱の身体を丸ごと掬い上げ、汗、涙、そして、臙脂の廻しから染み出る同じ色をしたものもろとも、盛大にうっちゃった。
場内は一瞬にして、不気味なまでの静寂に包まれて、座布団すら舞わない。私はやった、とうとうやっちゃったのだと直感した。
チラリと目をやると、師匠の目には大粒の涙が浮かんでいた。そして師匠は、スッと手を挙げた。
「今の取組について、審判団から、土俵上での雪ノ隠岐の……この、有様は、えー、不浄負けにあたるのではないかと物言いがつきました。見苦しいものを場内、テレビ中継で見せてしまい、まずは相撲協会一同、心よりお詫び申し上げます。暫く、お待ちください」
師匠はぬらぬら光った頭を深々下げた。それを見た私の心は不思議と晴れやかであった。
曾根崎十三 投稿者 | 2024-11-04 02:10
なんだこれは!と思いつつ最後まで読まされる作品でした。おもしろかったです。
合評会の脱糞テーマの時に読みたかった、とも思いました。割と最近あったと思うので。こういう、かたいのとやわらかいのが混じった(うんこの話ではありません)文体良いですね。すごいなー。
春風亭どれみ 投稿者 | 2024-11-04 08:20
コメントありがとうございます!
実はそのお題のときになんとなく構想があったものだったのですが、全然間に合わず、というか、なんか一行も進まず、bfc6のお題(?)にあってるかなと思い、個人的にリベンジって感じで投稿したものでして…。
楽しんでいただけて、よかったです。それが一番の類のお話なので。
大猫 投稿者 | 2024-11-11 22:22
大相撲小説だ!
うっちゃりとともに下痢噴出!
砂かぶりにいた人々の被害は……
それにしてもこのケースの不浄負けってあるのですかね。
縦褌は八分の一まで折ってぎゅうぎゅう食い込むまで締めますから、漏れ出てこないんじゃないかと思ったり、いや、完全水下痢だったら出てくるかもかもと思ったり。
照ノ富士が大関の頃、取組中に下痢で大変だったと言ってたことを思い出しました。