二〇〇六年十月九日(消印・足立)
前略、ハニー・ペイン。
ひさしぶりだね。とつぜんだけど、君のことはハニー・ペインと呼ばせてもらうよ。
手書きの手紙が届いて驚いたかい? ちょっと事情があってね、もうインターネッツをできなくなっちゃったんだ。漫画喫茶でメールを書くのもいいんだけど、先立つものがね……。
前に送ったメールからだいぶ間が空いてしまったこと、ほんとうにゴメン。たしか、九月に文学賞の締め切りがあったんだよね? 間に合うかな? もし間に合わなかったら、ゴメン。どうやって埋め合わせをしたらいいのかわからないけど。
でも、なんというか、言い訳じみてしまうけれど、ぼくはぼくの物語をちゃんと文字にするために、少しの時間を必要としたんだ。そして、いまこうして手紙を書いているということは……ぜんぶ言わなくても、察しのいい君にはわかってしまったかもしれない。そう、この手紙を最後に、ぼくの物語は終わりを告げる。それは、なんというか……小説の最後を飾るにうってつけの話になるだろう。
大洪水のもたらした混乱と衝撃のせいで、ぼくは長い間、沓名さんから電話がかかってこないことに気付かないでいた。そのことを思い出させたのは、例によって1F警備室での座哨中に訪れた、暴君斎木犀吉の心無い一言だった。
「しかし、ルシくんもよくやるなあ。私だったらガマンできないよ」
誰もその言葉をたしなめなかった。呑海さんも、獄寺さんも。なぜ、こんなことが許されるのだろう? ぼくだって、好き好んでウンコまみれになったわけじゃない。そのことを冗談にしていいのは、少なくとも、あの場にいたぼくと彦ノフだけだった。
「どうして清掃社員を待たなかったんだね? ああいうのはプロに任せた方がいいのに」
「まあ、ルシくんは真面目なんですよ」
答えずにいたぼくに代わって、獄寺さんが答えた。しかし、斎木犀吉は挑むような気配を隠そうとはしない。
「もちろん、真面目なのはいいことですよ。でも、汚水槽に落ちたりしたら、大変なことになってたよ。クソまみれだ。コレラの宿主にでもなっていたかもしれない」
「あのとき、操作盤の動かし方を知ってたのはぼくだけでしたから。それに……落ちる前からウンコびたしでしたよ」
ぼくはぼそりと答えた。暴君の笑いが鋭く鳴った。
「まあ、尾行の件といい、ルシくんは少し無鉄砲だな。まあ、私はそういう熱い奴が嫌いじゃないが」
そんな注釈を残して去っていった斎木犀吉の背中を監視カメラのモニターの中に見つめながら、釈然としなかった。どうしてあんなにがんばったのに、たしなめるようなことしかいえないんだろう。どうして「よくやった」の一言が出ないんだろう。
ぼくはその場で受話器を取ると、本社に電話をした。沓名さんは外出していて、夕方にならないと戻って来ないという。折り返しかけてもらえるよう頼んだが、いつまでたってもかかってこなかった。ぼくはその日、「ニチハヤ」だったから定時を過ぎても待っていたというのに。まったく、メロウなシカトだよ。
後日、怒りに満ちたまま再び電話をかけると、こんどは沓名さんが出た。しかし、その声は以前のような励ましに満ちたものではなく、鬼ごっこで捕まった年かさの子供みたいに横柄な調子を帯びていた。
「電話できなくてごめんねえ、少しゴタゴタしていたものだから」
「いえ、こちらこそ、お忙しいところすみません。わざわざお時間を割いていただいて」
「いや、まあ、うん」
沓名さんは歯切れが悪かった。そして、そのぎこちなさは、ぼくが「雇用保険」や「厚生年金」といった核心的な語を発するたびに増大していく。とりわけ、ウンコ逆流の件とそれにまつわる準社員の奮闘を伝え、九〇〇という不当な数字――ぼくの時給!――を口にすると、もはや沓名さんは日本語初級者のようになった。
「けっきょく、入れるんですか、入れないんですか? 雇用保険って最低半年は加入してないとダメなんですよね? こうしているうちにも、すでに一月たっちゃったんですが」
ぼくはやや気を荒くして言った。側で聞いていた呑海さんは晩酌をしながらもハラハラしている様子だったが、そんなことはぼくに関係なかった。戦わない奴は損をするのだ。
「ぼくは週二〇時間以上働いてますよ? 入れるっていうか、加入義務があるんですよね?」
「うん、まあ、それはそうなんだけど、もしかしたら、これまで未加入だった分も払わなくちゃならないかもしれないんだよね……」
非難がましい口調はぼくを苛立たせた。敵対するのは得策ではないかもしれないけれど、まるでぼくの不正であるかのように言われるのだけは我慢がならない。
「払うんですか、払わないんですか? まずそれを教えてください。あと、払うとしたらいつまでさかのぼって払うのか、それもお願いします」
「うん、じゃあ、調べるから少し時間をもらってもいいかな」
「少しってどれぐらいですかね?」
怒りを端々に散りばめながら質問を重ねるアルバイトの姿を呑海さんはどう思ったろうか? しかし、沓名さんがゴニョゴニョと繰り返す曖昧さがぼくの怒りにとってデンジャラスな燃料となる。
けっきょく、この電話でわかったのは、何一つ改善されていないというメロウな事実だった。ただ時間だけが過ぎた。それはぼくをひどく惨めな気持ちにさせた。
やけになったぼくは、とばぎんビルに出勤するたび、本社へ電話をかけた。一二・〇〇の1Fの座哨勤務時だ。一日に二回かけることだってあった。ぼくはそれが自分の仕事であるみたいに電話をかけまくった。
しかし、翌週になると、暴君斎木犀吉がやってきて、あまり電話をかけるなとたしなめた。ぼくはかっとなった。組合員が労働者を守らず、管理者に密告するなんて!
「沓名さんから苦情が来たんですか?」
ぼくはその答えを電話攻勢の新たな武器に加えようとしたが、斎木犀吉は吟味する視線で「そういうわけじゃないけれど」と答えた。
「勤務中に関係ないことで電話を使うのはどうもね」
「関係ないことではないですよ。労使間の不均衡をなくすための重大な質問です」
斎木犀吉は「労使」という言葉を聞いた途端、顔をしかめた。その語調に赤の匂いを嗅ぎ取ったのだろう。
「でも、そういうオルグは勤務後にやらないと。今の君の仕事は座哨して、来客を見張ることなんだから」
ぼくはさらに反論を重ねようとしたが、獄寺さんが割って入った。
「まあ、ルシくんも優秀なんだから、もっといいところで働きなさいよ。こんな便壷みたいなとこで待遇の快便を目指してないで」
「改善ですよ」
と、ぼくが言い返すと、獄寺さんは権力の犬みたいな顔をした。そう、たしかにその通りだ。ぼくはもっとスペッシャルな職場で働くこともできただろう。しかし、この待遇改善要求は、その日暮らしのフリーターが目先の利益を求めているというより、名誉を求めた闘いだった。そして、それはぼくだけの名誉に関わることではない。Chanや、彦ノフや、マユちゃんや、歌方さんや、凹塚さんや……。そういったとばぎんビル準社員すべての名誉に関わることだった。
1F警備室にいたのは、ぼくと、暴君斎木犀吉と、獄寺さんと呑海さんだった。味方は一人もいない。ぼくはロンリネスをかみ締めながら、座哨勤務についた。
色々と情報を総合するに、沓名さんはアルバイトの待遇改善交渉は諦めたということだ。厚生年金も雇用保険も会社に負担を強いる。そうさせないことで沓名さんの点数は上がるんだろう。それか、ただ単に面倒くさいだけか。どっちみち、組合は正社員と嘱託社員の味方でしかなかった。アルバイトである準社員など、どうでもいいのだ。
長嶋さんも堅井さんも、嘱託社員という身分のせいというより、本人の資質として、ぼくの味方になりそうもなかった。義侠心がないのだ。となると、やはり油田さんしかいない。
「それなら、ルシ選手の代わりに私が沓名さんに言ったあげよう!」
思ったとおり、油田さんはぼくの味方だった。彼の主張によれば、「全国ユニオン」だかの労働団体がパートタイムやアルバイトのための組合結成に力を貸してくれるという。
「あとね、組合に正式な要望書を提出しよう。ルシ選手、君はワープロを使えるかい?」
「ええ、前に要望書作るの手伝ったじゃないですか」
「クフィ! そうだっけ? それなら恰好つくね! ちゃんとした要望書に見える! 呑海さんにもハンコを押させよう!」
他にもいくつか、油田さんは手を打ってくれると約束した。ハニー、ぼくはこのときほど自分の愚かしさに気付かされたことはないよ。グチグチいってないで、行動すればいいんだ。
キューピーちゃんみたいな頭をして、方々に借金を作る油田さん。ホームレスみたいな友達しかいなくて、二番目の奥さんが実家の福建省に帰ってしまった油田さん。学もなくて、バブル期の売り手市場に警備会社に就職した油田さん。徹夜で麻雀をして、職場で居眠りばかりしている油田さん。交通警備のバイトをしたときに年下の上司に命令されるのが我慢できなかった、プライドの高い油田さん。
そんな油田さんは、大卒のぼくにたくさんのことを教えてくれた。弱い立場にいる人間は戦わなくてはならないということ。そして、そのためには情報と行動が大事だということ。
家に帰り、要望書をWordで作成している間、汗がダラダラ出て、すごく不愉快だった。厳しい残暑にもかかわらずエアコンがないからだ。しかし、それで集中力を失ってしまうということもなかった。異様な昂揚感に突き動かされて、一心不乱にキーボードを叩いた。それはたぶん、強大な敵に立ち向かう「熱」のせいだった。
しかしまた、ぼくは知らなかった。ぼくの傍にはイスカリオテのユダがいたということに。
さて、ハニー、少し唐突だけれども、ここでぼくは新しくできた友達についてセリーヌ風に語らせてもらうよ。
彼らは例の大洪水の後からとばぎんビルに住み着くようになった……とくにB2Fにいることが多く、いつもぼくらと一緒にいた……弁当を食べようとすると、分けてくれよとせがんだ……ぼくは平手をパッパと振ってじゃれあいつつ、自分の弁当を守った……納豆に絡みついたときは取り除いてやった……彼らのつかったコーヒーは飲めるけど、さすがにカルピスは駄目だった……ぼくがいいことに没頭したりしていると、机の上で彼らがファックしていることもあった……ふざけると思ったが、邪魔をするほど野暮じゃない……ぼくは顔を真っ赤にして、見て見ぬふりをした……。
彼らは本当に純な奴らで、素朴な趨光性とでもいうものを持っていた……光へ光へと向かう……まるで、そうすればすべてが救われるとでも言うように……ぼくとChanは協力して、彼らのために寝床を用意してやった……天井にある蛍光灯のすぐ下に、ハンモックみたいに渡してやった……材料はハエ取り紙だった……彼らは大喜びで飛びついて、いつまでもそこに寝そべっていた……たった一日あれば、そのハエ取り紙は真っ黒になった……「うわ、凄いっスね、これ! ほんとうに一日ですか?」と、青い作業着を着たお兄さんは叫んだ……彼は月に一度訪れる清掃業者で、害虫駆除を専門にしていた……その彼が驚くぐらい、ぼくらの友達はたくさんいた……たくさんのショウジョウバエ……。
――キッタナー!
ハニー、君はそうツッコんだね? しかし、ほんとうにそれぐらいたくさん発生していたんだよ。
「これはちょっと、凄すぎますね。どこから発生してるんですか?」
と、業者のお兄さんが尋ねた。
「ちょっとわかんないんです」
「汚水槽ですかね。さっき見た感じではそうでもなかったんですけど。消毒液の量、倍にしときましょうか?」
お兄さんはどこか嬉しそうな顔だった。たしかに、大量のハエに消毒液をかけるのは楽しい作業だろう。でも、ぼくはこう自嘲せずにはいれらなかった。
「ビル全体が便壷みたいなもんですからね。B2Fはとくに」
お兄さんは笑って取り合わなかったが、冗談でもなんでもない。B2Fの廊下はいたるところにトイレ用消臭剤が置いてあって、目に見えない洪水の爪あとを覆い隠していた。また、とばぎんの課長が二度と逆流しないかどうか、念を押しに来たこともあった。社員が不安がっているというのだ。たしかに、自分がウンコをしているときにそれが逆流してくるというのは、ありうる中でも一番ファックな想像だったから。
「とにかく、下水溝とか汚水槽とかには多めに撒いときますね。もし効果がないようだったら、連絡ください」
お兄さんはそう言って去っていった。友達の数はぜんぜん減らなかったが、ぼくらがそれで苦情を言うということもなかった。慣れてしまうのだ。人はどんなものにだって慣れる。美しい天使にも、ベン壷を飛びまわる蝿にも。
その点、地上は以前と変わらなかった。〇九・〇〇数分前になると、1Fの銀行のシャッターの前に立つ。開店立会いだ。それはぼくたち警備員にとって、数少ない見せ場だ。背後でゆっくりとせり上がっていくシャッターの音を聞き、それが止んだ瞬間、素早く回れ右をして、「おはようございます」と敬礼をする。行員一同が挨拶を返す。
それが済むと、正面玄関に回って立哨だ。しばらく待っていると、とばぎん東京営業部の支店長が銀行の表を回り、ゴミ拾いなどの儀式を済ませ、ぼくの前を通る。軽い挨拶を交わす。「おざいます」という少しフランクな響きは、ある種の親密さをもたらす。
次々に出社するとばぎんビルの職員たち。あるいは、買い物や外回りに向かう人たち。朝一で両替に来る近くの商店主、または手形を取りに来る証券マンたち。ぼくはそういう人たちと挨拶を交わす。
外ではそれぞれの制服に身を包んだキュートなデパガたちが走っている。水色のや、黒のや、ベージュのや……。隣のビルには三越の更衣室がある。みんな膝を内側に向けた上品な走り方で、開店準備へ向かう。
〇九・二五。交代の時間だ。ぼくはリズミカルに敬礼をする。「立哨勤務交代します」、「お願いします」と、申し送りをして、B2Fに向かう。三十分のリラックスタイムだ。コーヒーを淹れ、本を読む。彦ノフと一緒の日は『少年ジャンプ』や『ヤングマガジン』が置いてあるから、それを読む。読み終えるまでの三十分は、子供たちの胸を踊らす豪華クリエーターたちと繰り広げる至福の時間だ。ときおり、なかもと製薬の社員たちが営業車に乗るために警備室の脇を通っていくが、彼らはぼくらのリラックスタイムを邪魔しない。
「もう立哨の時間だってばよ!」
と、『NARUTO』の口真似などをしてから、トレーニングのために階段を一段抜かしで昇り――それはこのメロウな職場において、数少ない有意義な行為だ――、立哨交代のために再び地上に上がる。
ぼくは門番の顔を取り戻す。ぼくの立哨は身じろぎ一つしないことで評価を得ている。とばぎんメンバーの中では最高の立哨と評判だ。ぼくはここにいる限り、相対的な地位を保つことができるだろう……。
その日もいつもと同じような日だった。ぼくと彦ノフは交代時に少し話をする。
「あ、フェル樹くん、ぼくの彼女、例のアニメ製作所の一次通ったよ」
「良かったじゃないですか」
「でも、次は面接だからね」
彦ノフはその顔に諦めを浮かべた。彼女は人前で話すのがとても苦手で、面接突破のための度胸を持たない。
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