和彦と母の由紀子が事故に遭ったのは、和彦が五年生になろうとしていた三月の下旬、彼岸の終りの頃だった。
小学校が春休みになった和彦は、お昼ごはんの買い物に付き合って、母と一緒にスーパーマーケットへ行った。正午前頃、買い物袋を提げた二人は交差点で信号待ちをしていた。そこへダンプカーが左折してきた。
その瞬間、和彦は柔らかな何かに押し倒され、ヒューッという甲高い声を聞いた、それから喉の奥がゴロゴロ鳴るのを聞いた。その音を最後に意識が途絶えた。
緊急手術後の数日間の昏睡の間、和彦は何度か死線を彷徨ったが、その間の記憶は全くなかった。ただ不思議な白い夢を見ていた。
遠くから途切れ途切れに歌声が聞こえて、優しい女性の声が、なだらかな明るい歌を歌っていた。かすかにピアノの伴奏も聞こえてきた。もっと聞きたいと思ったのに、歌声は徐々に遠ざかるように思えた。
ふんわり花の香りが漂った。ひんやりした空気に清潔な香りが心地よかった。そうして視界一杯に純白の花々が咲いていた。紐のように長い花房に、群れなして咲く小さな花々。花房は白い腕のようにゆらゆら揺れ、撓み、広がり、白い滝となって宙に無数の花びらを散らした。
花々を抱えて美しい人が立っていた。やはり白い服を着た、面長の長い髪の人だった。はにかんだようなぎこちない微笑みは、知らない人のようでもあったし、よく知っている人のようにも思えた。顔立ちははっきりとは見えなかったのに、なんて綺麗な人なんだろうと、ぼうっと見とれていた。その人は音も立てずにそばに寄ってきた。無数の小さな純白の花々が和彦の顔のすぐ前までやってきた。花房にたゆたう、丸い五弁の花の一つ一つがはっきり見えた。
とてもいい香りだけど、これではダメだ、息が詰まってしまう、死んでしまうよ、もしかしたらもう死んでいるのかな。
和彦は母の告別式と火葬が終わった後に目を覚ました。
ダンプカーは、荷台に多量の鋼材を積んでいた。左折の際、荷台が大きく揺れ、荷物を固定していたワイヤーが切れ、鋼材二本が振り子のように旋回しながら地上に落下した。車道ギリギリの歩道にいた母子二人にその鋼材が当たった。
母親は子供の上に覆いかぶさるように死んでいた。重さ五百キロの鋼材は母親の全身をほぼ粉々に砕いていたのだが、子供は母の体が防御壁となったため直撃を免れた。ただ頭部にかなりの打撃を受けていた。
目覚める直前、和彦は頭の痛みと共に、瞼を通して外の光を感じていた。今日はいいお天気なんだな、眩しいから急に目を開けられないだろうなとも思った。
そっと目を開けてみると、大勢の大人がそばに付き添っていた。みんな喪服を着ていた。急に和彦の意識がはっきりとした。
「お母さん、死んだの?」
開口一番、こう言った和彦に、喪章を付けた父親はうん、と頷いた。お母さんは白い服を着ていたか、と次に和彦は尋ねた。死んだ由紀子に白い経帷子を着せて棺に入れたのは事実だったので、父親はまた、うん、と頷いた。
じゃあ、あれはお母さんだったのかな、でもそんなはずないな、お母さんは死んだんだから、と和彦は思った。感情はあまり湧いてこず、それよりも頭の痛みと猛烈な眠気の方が辛かった。
病室には、夢で見たあの白い花が飾ってあった。雪柳という名で、ちょうど三月の下旬、今頃に咲く花であることを、和彦は大人たちに教えられて知った。
あらためて眺めてみると、そんなに綺麗とも思えなかった。白くて清潔な印象ではあるが花房の一つ一つは地味だった。もともと花に大して興味のない和彦はそれきり雪柳に興味を示さなくなった。
形成手術や機能回復訓練なども含め、三ヶ月ほど入院して和彦は家に帰った。それからほどなく学校へ通い始めた。ところが、数日後、和彦は学校で発作を起こした。突然、椅子から転げ落ち、床に転がったまま、海老反りに硬直して激しく震え続けた。同級生たちが驚いて名前を呼んでも何の反応もなく、ガクンガクンと横転して床を転げまわった。近くの椅子や机が痙攣する和彦の足に当たり、音を立ててひっくり返った。教室の生徒たちはキャーキャー泣き騒ぎ、教師が十人も飛んでくる騒ぎになった。痙攣がおさまった後、和彦は救急車で病院に運ばれたが、担架に乗せられた頃には、ぐったり力尽きて眠ってしまっていた。
病院では事故の影響による外傷性の癲癇発作と診断された。和彦の父親は加害者へ新たな損害賠償訴訟を起こすことにした。加害者側は、癲癇発作は和彦が先天的に持っていたもので事故とは関係がないと主張した。そこで事故との因果関係を証明するため、和彦は検査入院した。
一応、体は回復していたので、和彦にとって今度の入院は退屈なものだった。切羽詰った危険性はないせいか、親類も最初の数日間見舞いに来ただけだった。父親は毎日仕事帰りに顔を出してはくれたものの、やっぱり長い時間一緒にはいられなかった。
小児病棟の四人部屋には同じ年頃の子供たちが入院していたが、母親が付き添いに来ていないのは和彦一人だった。寂しがるものかと強がってはみたものの、よその子が母親に甘えるところを見るのがだんだん辛くなっていた。母親たちは和彦の身の上に同情し、優しい言葉をかけてくれたのだが、和彦はわざと素っ気ない態度を取っていた。
「がんばろうな」
和彦の主治医になった脳外科医の坂田先生は、退屈で苦しい検査の日々を励ましてくれた。和彦も気さくな坂田先生が好きだった。
「君の右側の頭からは、少し違う脳波が出ているんだよ」
と、坂田先生は言った。そしてレントゲン写真だの脳波計だのをいちいち見せてくれながら説明してくれた。
頭に大きな傷を受けると、こんなふうになることがある。間違いなく事故の後遺症だ。体調が悪かったりすると発作が起こることがこれからもあるかもしれない。けれども今はいい薬が出ているから、薬をきちんと飲み、体調に気を配っていれば日常生活には支障がない。ましてや君はまだ子供だから、成長につれて脳が回復する可能性は十分ある。
「がんばろうな。お母さんがくれた命なんだから、絶対に負けるんじゃない」
和彦はハイ、と素直に頷いた。
病院には毎日のように担任の先生が見舞いに来てくれた。クラスの友達も来てくれたし、校長先生もやってきた。そして細々と励ましの言葉をかけられた。どの大人からも、
「しっかり頑張るんだ。お母さんの分まで生きなくては」
と、必ず言われた。
和彦はそれらの励ましに、いちいち真面目に、ハイ、ハイと返事はしていた。けれども母の分まで生きる、という言葉がよく分からなかった。母は死んだ。死んだ人間の生をどうして生きることができよう。それを思うたび、あの時のゴロゴロ鳴った喉の音が耳の奥に蘇ってくる。あれは瞬時に鋼材で体を潰された母の、断末魔の声に違いなかった。母は確かに死んだ。そして自分はこうして生きている。
消灯の時間になった。隣のベッドの子の母親が、じゃあ、いい子でいなさいねと言って病室を出て行った。隣の子は、お母さん、また明日ね、と手を振った。
母に守られて潰れなかった体が、どこもかしこも痛み出す。手足をすくめてベッドにもぐりこみ、和彦は誰にも聞かれないように祈った。
僕はお母さんの分まで生きなくてもいいです。命なんて貰わなくてもいいです。
ただ、お母さんに帰ってきてほしいんです、帰ってきてほしいんです、帰ってきてほしいんです。
発作が起こる直前、和彦の視界はいつも真っ白になった。そして白い世界を白い小さな光の粒が無数に明滅しながら通り過ぎた。それは昏睡から覚めた時に見た雪柳のようでもあり、別のもののようでもあった。その光の向こうに花を抱えた美しい人がいるはずであった。この光のすぐ後ろにいることを和彦は確信していた。けれどもその人が見えることは決してなかった。白い光の明滅がどんどん早くなって、喉が焦げ付くように渇き、狂おしい焦燥に苛まされる。心臓が高鳴り、血が逆流し、全身から冷や汗が吹き出る。皮膚という皮膚が知覚過敏になって、そよ風が吹いても血が滲むほどに痛む。光の点滅の速さが極限まで速くなる。
と、巨大な緞帳が切って落とされるように、世界の一切が暗転し、奥底から螺旋の鋼鉄が肉体をバリバリ引き裂きながらねじり上ってくる。すさまじいエネルギーが放電される。筋肉という筋肉が、血管という血管が、細胞という細胞がうねり、咆哮を始める。
その頃には和彦の意識はとっくに無くなっており、取り残された体だけが暴れ狂う。生の力の限りをこの場で放出し切ってしまおうとするように。そうして、発作が通りすぎた後は、意思も力もないただの物体のようにぐったり眠ってしまうのだった。
けれども、坂田先生が言った通り、成長と共に発作が起きる頻度は徐々に少なくなっていた。頻度の減少に合わせて、薬の強さを加減していった。そうして事故から十年経って二十歳を迎えた頃には、発作はほとんど起こらなくなっていた。成人式の日、父を始め親類の大人たちは皆泣いた。よく立派に育ってくれた。母の由紀子がどれほど喜んでいるだろうと。
大学生になり、学業に励み、アルバイトもして、スポーツもたしなんで、申し分のない毎日だった。
ある春先の朝、和彦は近所の公園を通りかかった。そして足が硬直したように動かなくなった。雪柳が満開を迎えていたのだった。視界いっぱいに真っ白な花が滝のように流れて揺れていた。
雪柳の陰から小さな子供が飛び出してきた。それを追って白い服の女の人が走ってきた。細面の美しいその人は、子供を背後から捕まえて抱き上げると、くるくると一回転した。子供の笑い声が聞こえた。
和彦は母子が走り去る後ろ姿を静かに見つめていた。それから雪柳の中に倒れ込んだ。しっとり冷たい花房が頬を撫でて、花の香りが強烈に匂った。遠くから歌声が聞こえて、花を抱えた人がやってくる。激しく明滅する白い光が見える。
薄れる意識の中で、きっとこのまま死ぬんだ、と和彦は思っていた。お母さんの分まで生きなくてもいいんだ。これで終わりなんだ、と。
けれども和彦は死ななかった。正気に戻って目を開けたら、正午に近い日差しが枝越しに顔に照り付けている。汗を拭って立ち上がると、撓んでいた雪柳が一斉に揺り戻って無数の花びらを辺り一面に散らした。肌に服に、細かい花びらをいっぱいくっつけたまま、和彦は家に帰って行った。
鹿嶌安路 投稿者 | 2024-03-19 17:01
ツイッターフォローありがとうございます!以下コメントでございます。今後ともよろしくお願いいたします!!
祈りのシーンについて、子どもの言葉という内言に与えられた制約と、本文の荘厳な文体の間で生じる印象の差がポイントになるかと思います。なぜならこの短い文章のなかで祈りは中心紋として機能し、現前化してしまうためです。私たちを新しくしてくれるかもしれない「子どもの祈り」のテーマが見えたからこそ、本文文体によって強化された「自己犠牲の美」は一九四五年に捨ててしまえなかったのかと。
大猫 投稿者 | 2024-03-24 22:07
コメントありがとうございます。
今回、合評会に出られない可能性があるのでここでお礼を申し上げておきます。
私自身は「自己犠牲の美」は意識しておりませんでした。運命の無常とそれでも生きなければならない無情を描ければと思ったのですが、こんなことをコメントしている時点でもうダメですね。
合評会に参加できたらまたお話をしたいです。
今後ともよろしくお願いいたします。
深山 投稿者 | 2024-03-24 14:58
「柔らかな何かに押し倒され」と事故の瞬間の書き表し方がとても印象的でした。それから、視界一杯に純白の花々、と美しい描写。そこから話を始めて説明は後からでも良かったのでは。
発作の直前の描写もすごいです。「光の向こうに花を抱えた美しい人がいるはずであった」「狂おしい焦燥」「巨大な緞帳が切って落とされるように」「奥底から螺旋の鋼鉄」等どうやって思いつくのだろうかと。真似したいです。
夢で見た花と白い服、自分に叶わなかった母子の姿を見てそこで和彦の人生が一度完結するかのようで、それでもそんな象徴的なことでは死なない人生のしぶとさと退屈さ。「二度目の臨死体験」をそう表現できたかとうなりました。
強い日差しと汗と花びらをいっぱいくっつけて帰る最後が、泥臭く生きていくこれからの彼を想像できて良かったです。
あと大変細かいことなんですが、雪柳を勝手に夜空に浮かぶ白い花でイメージして夜の公園に通りかかったのだと想像してしまったため、正午までは寝過ぎでは?とびっくりしました。
大猫 投稿者 | 2024-03-24 22:18
コメントありがとうございます。
癲癇発作については昔、身近に患者がいましたもので、発作の苦しみを見ておりました。発作時の恐ろしい形相と収まった後のケロリとした顔の落差は忘れられません。
「人生のしぶとさと退屈さ」、よい言葉ですね。いただきました(笑)
夜の公園で倒れて昼まで寝ていたら通報されてしまいますね。
もちろん作品中に明記しなかったのが悪いので、早速直しておきました。
ありがとうございます。
今回の合評会には初参加でしょうか?
お話できると良いのですが、明日はちょっと参加できるか分かりません。
今後もぜひとも合評会にご参加ください。
小林TKG 投稿者 | 2024-03-25 13:18
最後がいいですよね。なんか。なんかいいですよね。花びらをいっぱいくっつけて家に帰っていく感じ。なんか。なんかいいですよね。一区切りがついたみたいな風には受け止めたくないんですけども、でも、なんかいいんです。あれ。
諏訪靖彦 投稿者 | 2024-03-25 16:16
「僕はお母さんの分まで生きなくてもいいです。命なんて貰わなくてもいいです。ただ、お母さんに帰ってきてほしいんです」この言葉が全てですね。調べてみると雪柳の花言葉は「静かな思い」とのことでなるほど、と。質の高い掌編を読ませてもらいました。
松尾模糊 編集者 | 2024-03-25 16:16
雪柳の描写が美しいですね。母の声が出てこずとも、二度生き残ることでその愛を顕現させるところに感嘆しました。
退会したユーザー ゲスト | 2024-03-25 18:23
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曾根崎十三 投稿者 | 2024-03-25 18:51
「○○の分まで生きろよ」みたいなセリフへのモヤりを上手く具現化されていて、良かったです。美しくて静かで。
急遽の提出でこんなにぐっとくる話を書けるのだからやはり大猫さんはすごいですね。これがチャンピオンの貫禄……!
Juan.B 編集者 | 2024-03-25 19:32
毎作品、景色の描写が素晴らしい。さらに、癲癇の描写をドラマの起承転結の特に結まで結びつけたのも凄い力量だと感じた。そう、貫禄!