ジョージ

合評会2024年01月応募作品

大猫

小説

4,434文字

こういう人たちって結構いそうだな。この世はサイコパス天国かもしれない。
イケメンと二人の女の物語。2024年1月合評会参加作品。

「雨が好きなんだ。ガラス越しに見るのが特に好きだ」
と丈治が言ってから、時子は雨の日が嫌いになった。

でもこんな雨の日には、きっと窓際に椅子を置いて外をじっと眺めてしまう。そろそろ来る。もう来るはず、丈治が。

十二月の夜に降る雨が窓を打つ。濡れた道路を掻き分けて進む車輪の音、それに混じって足音が聞こえる。バチャバチャ水を撥ねて、冷たい雨の中を走って来る足音が。足音は騒々しくアパートの外階段を駆け上り、せかせか近づいてくる。

時子はドアを開けた。視界にふさがるように大きな男の影が飛びこんできた。
「寒いよ、寒い、寒い。すごく濡れちゃった。お風呂入っていい?」

大声で騒ぎながら丈治が部屋に上がりこむ。玄関でコートと上着を脱ぎ捨て、台所で靴下を脱ぎネクタイをむしり取って、洗面場でシャツとトランクスを放り出し丈治は風呂場へ入っていった。ザッブーン、と勢いのよい水音がして、それから、生きかえったあ、と素っ頓狂な声が聞こえてきた。

熱湯を入れておいてやろうかと思うことがある。氷水でもいい。自分が来る時は、湯船には適温のお湯が張ってあって、湯から上がればビールと夕食が出てくるものと決めこんでいる。残念ながら、時子はいつでもその通りにしてしまう。

「時子、オムライスね」

湯船から丈治が叫ぶ。

「俺、今日はオムライス食いたいの、ケチャップいっぱいかけてね!」

ちらし寿司が好きだというから刺身を買ってきたのに。酢飯を作る前でよかった。まあ気まぐれには慣れている。部屋中に点点と散らばった服を時子は拾い集めた。

 

**

 

麻美は便座に座り込んだまま動けない。

電車で急に腹が痛くなった。下腹の奥が引きつるように痛み、まっすぐ立っていられない。下着が生暖かく濡れた感触がして、これは出血だと慌てて駅の便所へ駆け込んだ。案の定、下着が汚れている。生理が遅れていると思ったら、今日、急に来るなんて。

便器に座りこんだ途端にポトポトッ、と水音がした。下を見ると便器が赤く染まっている。こんなに生理が重いのは初めてだ。しばらくして一層強烈な痛みが襲ってきた。たまらずうめき声をあげると、ジャッと水音がした。痛すぎて気が遠くなりそうだ。身体中の血が流れ出ている気がする。

こんな時に限って生理ナプキンを持ってきていない。仕方なくハンカチをショーツに当てたら、流れ落ちた血で右手首がべっとり濡れ、ブラウスの袖まで汚れてしまった。やっとの思いで洗浄ボタンを押したら、便器が真っ赤な渦を巻き上げた。

家に帰ろうという一心で、雨の中、傘もささずに歩いた。タクシーに乗ろうかと思ったが、きっとタクシーのシートを汚してしまう。冷たい雨がパンプスに染み込んできた。寒くて歯の根が合わない。下腹のさしこみがいよいよ激しくなって、この寒いのに脂汗が流れてきた。

ジョージ、と麻美は好きな男の名前を呼んだ。

ジョージ、お腹が痛い。

ジョージ、助けて。

立っていられず、その場にしゃがみこんだ。

 

**

 

オムライスは上出来だった。チキンライスはちょうどよい歯ざわりだし、卵も均一に理想的な薄さに焼きあがった。ケチャップをかけるだけでは芸がないと思い、デミグラスソースに缶詰のトマトの水煮を潰したものを混ぜて特製ソースを作ってみた。黄色い卵焼きいっぱいに赤いソース、ところどころに小さなトマトの塊が見える。

よほど腹を空かせていたのか、丈治はものの三、四口で食べてしまった。それからグラスに注いだビールを一気飲みして、プハッと大息をついた。

「ごちそうさま」
「こっちも食べたら? 取り合わせが悪いけど刺身。活きのいいうちに食べてしまって」
「うん、もういらない」

丈治はテレビのリモコンを取って、その場にゴロリと横になった。チャンネルを回している丈治の頭を、時子は横すわりした膝の上に乗っけてやった。自然のウェーブがかかった柔らかな髪が時子の指に絡みついた。スカート越しに頬の熱さも感じる。高い形のよい鼻梁の上を長い睫毛が上下している。

この頭だけでもすぐさま私のものにしたい、と時子は痛切に思った。この頭を抱きしめたまま、他の女のいない場所へ逃げて行きたい。

丈治はテレビを見ながら他愛もなく笑い転げている。頭の重みで時子の太腿が痺れてくる。
「時子」

丈治がいきなり顔をこっちに向けた。
「風呂入って来たら? 俺、待ってるからさ」

この男は、と時子はカッと顔が赤くなった。風呂に入った後を想像していた心の中を見透かしている。

 

**

 

気がついたらベッドに寝かされていた。誰かが体を拭いてくれている。
「脚をもっと開いて。はい、オッケー。閉じてあげて」

若くて優しい声。二人いるようだ。
「あっ、気がついたみたい。大丈夫ですか?」

麻美はとっさに口が回らなかった。
「久保麻美さん、ですね? 口がきけますか?」
「はい」
「寒くない?」
「いいえ」

看護師は裸の下半身に毛布をかけてくれながら言った。
「ちょっと先生をお呼びしてきますから。お腹の中を見てもらいましょうね」

その言葉を以前にも聞いたことがある。
「あの、あたし、流産したんですか?」

思いきって尋ねてみると、看護師は静かに頷いた。
「残念でしたね。ちゃんと治療しましょうね」
「はい」
「母子手帳は……持ってらっしゃらないわよね?」
「はい」

もちろん持っているわけがない。妊娠していたことも知らなかったのに。
「保険証はお持ちですか?」
「保険使えるんですか?」
「そりゃ使えますよ。そんなに心配しないでください」

看護師は麻美の真意をちゃんとわかっているようだ。

優しい看護師さんでよかった、と麻美は思った。前に堕ろした時は、手術の前に年配の看護師に呼ばれてとっくり説教された。ネットで調べまくって一番安い産婦人科にしたが、それでも二十七万もした。今度は保険がきくという。本当によかった。

「中絶なんて気軽にするもんじゃないのよ。本当にほしい時にできなくなってしまうわよ。自分の身体なんだから粗末にしちゃダメよ」

うそつきのおばさん看護師。ちゃんとまたできたじゃない。もしかして流産癖がついちゃったのかな。

麻美は駅のトイレの便器を思い出した。

あの中に赤ちゃんがいたのかも。可哀想なことをしてしまった。でも、どっちにしても流産したんだから、病院で始末されるだけの違いじゃない。

診察台に乗って何かの処置を受けて、二階の病室に運ばれた。明日の朝もう一回診察をして、経過がよかったら帰ってもよいと言われた。お金の心配をしながら麻美は横になった。

枕元に置いたスマホから電子音が聞こえた。ジョージの着信音だ。麻美は急いで電話に出た。
「あっ、ジョージ? あのね」

麻美の声が緊張し、それから困惑する。
「え、明日? ムリ……だって具合が悪いんだもん。あのね、あたし……え?」

麻美は涙声になる。
「だから具合が悪いって言ってるじゃない。あたし、流産したんだから。流産! 赤ちゃんができてたのに」

お前はすぐ孕むタチなんだな、と携帯から聞こえてきた。
「ちょっと何それ!」

電話を切られた。麻美は呆然と携帯を見つめた。

だって、だって仕方ないじゃない。流産したばっかりなのに、昨日の今日でホテルになんか行けるわけないじゃない。またできたらどうするの。

ジョージはそんなことは気にしない。前もそうだった。なんだよそれ、って言って口元をゆがめただけ。

何、笑ってるのよ。二十七万もかかるのに。お金くれるの、くれないの? そう言ったら殴られた。でも二、三日経ってから、ごめんねって謝ってくれた。そして十万くれた。その十万と自分のお金で手術を受けた。

あの時の赤ちゃんはその場で処分されて、それで二十七万円。今度の赤ちゃんは駅のトイレに流されて、今ごろは他人の糞尿と一緒に下水道の中。今度のは保険がきいて……

「ジョージ」

麻美は携帯を持ちなおした。
「ジョージったら! 出てよ!」
「久保さん」

看護師が覗いている。
「悪いけど、病院の中では通話禁止なの。下のロビーに行ってくれる?」

 

**

 

雨脚が強まったようだ。

風呂に入っている間、丈治は他の女に電話をかけていた。いったい何人の女と丈治を共有しているのか時子は知らない。絶対に嫉妬を見せたりしない。どうせいつだって長くは続かない。今度の子は春先にひっかけたはず。そろそろ終わる頃だ。

丈治は窓のそばに置いた椅子に後ろ座りに座って、カーテンを開けた窓を見ていた。
「雨だれがさ、ガラスを伝って流れ落ちるだろ、そして他の雨とくっついて、ストンって落ちて行くの、見てるとなんだか楽しいんだ。変なヤツだろ?」

何度も聞いた内緒話に時子は変じゃないわ、と返事をする。
「ガキの頃にさ、学校の廊下でこう窓を見てたんだ。雨粒が綺麗でずーっと見てたんだけど、バカ女が台無しにしやがって」

クラスメートの女の子は窓の雨粒を手で拭って、窓越しに「ジョージ」と手を振って笑った。カッとなった丈治は拳骨で窓を叩き割り、勢い余って女の子も殴った。女の子は火が点いたように泣き、丈治はこっぴどく叱られた。

「ひでえよな。ガラスで手を切って血まみれなのはこっちだぜ」
「そうね」
「お前は腐ってるって言われたよ」

どこからか振動音が聞こえてくる。丈治のスマホだ。
「切っていいよ」

言われた通り、丈治の上着のポケットを探りスマホの電源を切った。「ASA」からの着信通知がいくつも見えた。

それから丈治は時子をベッドへ連れ込んだ。灯かりも消さずに。

今しがたまで他の女のことを考えていたに違いないのに、この男は時子の急所を正確に突いてくる。堪え切れずに声をあげた時子に、丈治は乾いた笑い声を立てた。

「時子の好き者」

恥ずかしさで時子の顔に火がつく。
「待ってたんだろ?」

時子の腕は男の背中に絡みついたまま離れない。
「そうよ、待ってたわ、待ってたわ、待ってたわ!」

久しぶりに丈治がやってきたのは、先週支給されたボーナス目当てだ。勤続二十年にもなる時子がどのくらい賞与を取っているか丈治はちゃんと知っている。後でさりげなく金の無心をするだろう。クリスマスも近いし、女と遊ぶ金がいる頃だ。絶対返すからといかにも神妙な顔で礼を言うけれど、いまだかつて金を返したことなどない。

十万、二十万、五十万……これまで何回渡したのか、時子も覚えていない。

何があっても仕事を辞めたりしない。つましい生活にも耐える。恥だのプライドだのはとっくの昔に飛んでいった。

こんな美しい姿に、腐りきった魂を充填した神様は本当に偉大な方。

いくらでもくれてやる。あたしはあんたの腐った血を舐め尽くしてやる。

 

**

 

なんで出てくれないの。本当に怒っちゃったの?

暗いロビーで麻美は何度もリダイヤルする。

お願い、電話に出て。ジョージ、悪かった。もう逆らわない、言う通りにするから。だからそばにいてよ、本当はもう怒ってないんでしょ?

ジョージ、ジョージ、あたし、血が止まらないの……

2024年1月19日公開

© 2024 大猫

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"ジョージ"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2024-01-20 17:01

    原理的には分かるはずのない人物の内言(意識の流れ?)を念頭に置きつつ、血と雨でコントラストが出来て文字通り流れるように読み切りました。めちゃくちゃ面白くて大好きです。

    • 投稿者 | 2024-01-28 03:09

      再読させて頂きました。

       二人の女(プライド高いのと依存体質)を競わせるような男が筋をコントロールしている。時子は常に麻美に勝ち続けることでアイデンティティを保っているが、ある意味で父親が娘に勝たせてやるような(なんて言えばいいか)偽物っぽさをどことなく感じている。急所を突くのは必ずしも性感帯だけではなかっただろうという感じ。
       筋が固いから、麻美が負け続ける運命を背負わされているのも無理なく頷けます。

       モチーフの連続(血=ケチャップ、流産、涙、雨)がガラス×流血に集約されて結局綺麗になるという感じがします。読後感の良さの理由の一つだろうと思われます。
       発話されない内言をダイレクトに入れた最後の麻美の独白が心の叫びとして活きるために、中盤で看護師さんにルール違反を指摘させる筋の運びがめちゃくちゃカッコイイです。丈治回想シーンで殴った女の子に火がついて、それが現在の時子の性描写に繋がってくるのもウハッ!となりました。ガラスの雨は時子の性的興奮と繋がっています?多分そうだと思います。だとすれば、ガラスが心のようにも読めました。

       文体から得られるのは新感覚派とか三島のイメージです。メタファや類接の連続が筋を固めているので読む方は流れるように飲み込めます。

       めちゃくちゃ面白くて大好きです。

  • 投稿者 | 2024-01-23 17:02

    いやあ本当にいそうですよね。ていうか田舎のマイルドヤンキーとかみんなこんな感じなんじゃないだろうか。知らんけど。
    血をここまで上手くモチーフに使った作品はお目にかかったことがありません。素晴らしい。

  • 編集者 | 2024-01-26 10:20

    ジョージ、ひでえやつだとは思いつつ共依存的になってしまう彼女たちと生まれるはずだった命……この字数で根源的な命題を提示していることに感嘆します。

  • 投稿者 | 2024-01-26 10:35

    これがサイコパス! こういうのがサイコパス! と思いながら読みました。価値観がズレてるけど魅力的で普通に社会生活を送っているんですよね。
    メンヘラホイホイの男性は世の中たくさんいるようですが、2人の女の視点からジョージを味わい深く描いておられて、お題にも沿っていて完成度も高く、良かったです。

  • 投稿者 | 2024-01-27 07:44

    ジョージ、ひでえ男だ……! と思いつつも、ジョージに惹かれる女たちの気持ちにも共感できてしまう。なんでサイコパスって真っ当に生きている人より圧倒的に魅力があるんでしょうね?

  • 投稿者 | 2024-01-28 00:45

    ミニマルなシーンが交互に展開する構成がお見事です。強いて、本当に強いて言いますと魚喃キリコの漫画のようなレトロさを感じなくもなかったのですが、完成度の高さは圧巻でした。ヘミングウェイがどこかで、作中にどんなかっこいい人間を出すとしてもそいつ所詮シコってやがるという事を忘れるなと書いていたのですが、このジョージみたいな男ってシコる必要さえないタイプかもしれないですね。

  • 投稿者 | 2024-01-28 02:50

    お前はすぐに孕むタチなんだな
    って言ってみてぇーなー。造詣が良くて、女に困らなくて、ある程度まで何もしなくても女が居ればまあ、なんとでもなる男にしかいえねセリフ。
    言ってみてぇーなー。
    お前はすぐに孕むタチなんだなって言って電話切りてぇー。何も感じなくなりてぇー。

  • 投稿者 | 2024-01-28 12:46

    丈治が学生時代に雨だれを眺めるくだりが良かったです。学生時代から今に至るまで女に不自由しなかったんだろうな。むき出しの本能に惹かれるのかしら。こういった男は一度痛い目に合わないと、なんて思いましたが、痛い目にあったとしても変わらないかな。

  • 投稿者 | 2024-01-28 15:16

    丈ー…ジ、よくいうサイコパスは魅力に映るといううんたらかんたらなのでしょうか。それを「君の心がわかるとた易く誓える男に〜」と歌いあげた中島みゆきという人の妙よ。

  • 投稿者 | 2024-01-29 00:24

     共感力が欠如している男に振り回される二人の女。構成に工夫があり、ケチャップソースの比喩や、「情事」を連想させる名前のチョイスも上手さと遊び心を感じた。女性二人のキャラにもっとメリハリをつけて対照的に描いたり、互いに知り合いだが男のことには気づいていない設定にしてもよかったかな、などと思ったが、面白く読んだ。

  • 投稿者 | 2024-01-29 15:49

    うまいなあ!と思いました。これぞサイコパスというか。
    途中10万だけ払った話が出てきますが、そういうディテールに作者がジョージの性格を正確に把握していると窺えます。

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