帰り花

澁澤青蓮

小説

14,043文字

老女は過去に愛した人を懐かしく思い出す。あの人は今、何処にいるのか。残された生が尽きる前に一目会いたいと切望する彼女の前に現れたのは――。

散ればこそ いとど桜はめでたけれ

憂き世になにか久しかるべき

 

前略、お元気ですか。

こうしてあなたにお手紙を差し上げるのは初めてですね。でもあなたはきっとこの手紙を読まないでしょう。いいえ、読まないのではなく、あなたには届かないと思います。それでも私はあなたに向けてお手紙を書きます。最初で最後の、お手紙を。虚しいとお思いですか? でも、それでも良いんですの。私は今でもあなたを忘れられずにいるのです。

初めてあなたに出逢ったのは桜が爛漫と咲き誇る美しい春の日でした。そう、あの春の日、あなたは独り泣いていた幼い私の前に現れたのでした。

あの時はお寺の境内で、近所に住む年上のお友達とかくれんぼをして遊んでいたのだけれど、お友達は途中で遊びに飽きてしまったのか、年下の私を鬱陶しく思ったのか、隠れたままの私を置いて皆どこかへ行ってしまって……あんまりお友達が探しに来ないものだから、私も不思議に思って境内の中を歩き回ってお友達を探したけれど、もう誰もない。置いてけぼりにされたのと私ひとりではお家まで帰ることができないのとで、急に心細くなってしまって、私は泣き出してしまったのね。そうしたらあなたが桜の樹の蔭から現れた。白っぽい和服姿で、漆黒の御髪おぐしを長く垂らした姿で……桜の花を透かす淡い春光の中に佇むあなたはとても綺麗でした。凄艶な佇まいに私はびっくりして泣き止んでしまったくらい。あなたは少し不思議そうに私を見て、どうして泣いているのかってお訊きになりましたっけ。事情を涙につっかえつっかえ、お話すると、不意にあなたは私を抱き上げて、風のように桜の樹へ御登りになった。

桜の大樹の天辺から町並みを見下ろして私に「君の家は彼処あすこだ」指差して仰いました。それから無事にお家に帰れるようにとあなたは白い指先で桜の花房を摘んで私の髪に飾ってくださいました。私はどきどきしながら只、あなたの白く美しいお顔を眺めているばかりで、口も利けない有様でした。その後のことはあまり良く憶えておりません。どこをどう歩いて家に帰ったのかさえ……記憶にあるのは、母が私の頭から桜の花を毟り取ってしまって、それが悲しくて、口惜しくて、寝る頃になっても、いつまでもぐずぐず泣いていたことです。あなたから初めて贈られた桜の花は無惨なことになりました。私はずっと大事にしておきたかったのに。私は幼いながら、もうその時にはあなたに戀をしていたのでした。不思議ですわね。どんなに幼くとも、誰に教えられなくとも、誰かに戀する。誰かを愛する。なぜでしょう。

あなたに逢いたくて、私は翌日もお寺へゆきました。境内には誰もおらず、ひっそりとしていました。柔らかい春陽が麗らかに、静かに咲いている桜を仄めかせていました。私は境内を一回りしてあなたを探しました。でもあなたはいらっしゃらなかった。逢えないとなると堪らなく寂しくなって視界がじんわり滲み出します。すると背後で人の気配がしました。振り返るとあなたが立っていました。昨日と同じように、白い和服姿のあなた。長い髪が風に浚われ、吹き流されて、陽の光を艶々と弾く、鴉の濡羽色。染井吉野が散り、清らかな陽射しの中で佇むあなた……今でもあの時の光景は鮮明に私のひとみの底に焼き付いております。を閉じれば、ありありと見える。あなたのお顔が。少しだけ憂いを含んだ闇色の眸を縁取る長い睫毛、涼しげな目許、冷たく通った鼻筋、形の朱唇くちびる、滑らかな白い頬、ひんやりとした体温。淡雪のように儚げな佇まいは現実感が乏しくて、まるで幻燈映写機で映した像のよう。でも確かにあなたはいらした。初めて抱き上げられた時の腕の確かさ、あの淡いかおりも忘れてはいません。

「君独りなの?」

問われても私は返事ができませんでした。胸が酷く鳴って足がふるえていました。そんな私に尚もあなたは問います。

「どうしてここへ来たの?」

私はどう答えて良いものか当惑しました。あなたの口振りは私を些か咎めるふうでもあり、単純に小さな女の子が人気のない廃寺に(後から知ったことですが、あのお寺は随分前から管理する人がなくて打ち捨てられていたのですってね)来たのか不思議がっているふうでもありました。私が黙っているとあなたは「また迷子なの?」私の目の前に屈み込んでお訊ねになりました。間近にいるあなたから微かに桜の馨りがいたしました。

私は自分の気持ちをどのように伝えて良いものか解らずに、只首を横に振るのが精一杯でした。あなたに逢いたかったとは云えなかったのです。あなたは「そう」冷淡に頷いて本堂へと歩いてゆきます。置いていかれると思った私は慌ててあなたの後を追いました。あなたはちょっと後ろを振り返って私を認めると、初めて優しく微笑みました。その笑顔に胸が苦しくなったのを憶えています。

あなたは私を伴って本堂の裏手にあった平屋の縁側に座らせて(これも不思議なことで、お友達と遊んでいた時など私は平屋の存在に気が付かなかったのです。まるで急にどこからともなくぬっと現れたかのようでした)お茶と乾菓子をご馳走してくださいました。母から見知らぬ人から物や食べ物を貰ってはいけないと云い付けられていましたけれど、あなたと逢うのは二度目だから見知らぬ人ではないし、また信頼もあって、出されたものを素直に受け取って食したのでした。あなたも隣に腰掛けて黙ってお茶を飲んでいらっしゃいました。あなたとの間にあった沈黙は優しい陽だまりのように心地が良いものでした。私は幼いながら自分が大人になったような気持ちでいました。

「名前は?」

「……桐子とうこ。あなたは?」

訊ねてもあなたは眉尻を下げて薄く微笑むばかりで何にも仰いませんでした。どうして名前を教えてくれないのだろうと不審に思いながら重ねて訊ねますと「疾うの昔に忘れてしまったのだよ」尚も笑みを深めて仰るのでした。

「嘘。自分の名前なのに?」

「もう長いこと、誰からも名前を呼ばれていないからね。だから忘れてしまった」

あなたは寂しそうな翳を片頬に潜ませて力なく呟かれました。そんなあなたを見て私は無邪気にも――無遠慮にもと云った方が正しいかもしれませんが――あなたに名前を付けることを思い付いたのでした。深い漆黒の眸を長いこと見詰めて思案を巡らせました。

「――春」

「え?」

あなたは長い睫毛を瞬いて小首を傾げます。

「春。――春さん。だってあなたは春みたいに綺麗だから」

するとあなたは僅かに目を瞠った後、小さく頷いて笑ったのでした。とても嬉しそうに。

「春さん」

「何?」

「ううん、春さんって呼びたいだけ」

私がそう云うとあなたは目を細めて擽ったそうに微笑しました。私はあなたの微笑む表情かおがとても好きでした。

それから私は足繫くお寺へと遊びに行きました。あなたに逢いたいのと、あなたが独りぼっちでいるのではないかと云う思いからでした。私はあなたを包む孤独を剥がしてあげたいと子供心ながらに思っていたのです。あなたは子供である私を厭うことなく、煩わしいと思うこともなく、逢いにゆけば親しい友人のように、または大切な妹のように接してくださいました。あなたに戀をしていた私ですが、幼い戀は仮令妹のように扱われようとも、あなたをその場で独占できればそれで満足なのでした。

一度、自分のお友達を連れてあなたを訪ねようと考えたこともあったのですが、あなたをお友達に取られてしまうのが厭で、結局私は独りであなたの許に通ったのでした。またあなたの存在も誰にも明かしませんでした。お友達にも両親にも。それは偏に戀心から成る独占欲、もっと云えば嫉妬心、そして秘密を持つことの愉悦からでした。あなたは真に秘密の美しい花、美しい季節なのでした。

特段何をする訳でもなく、会話も途切れがちではあったけれど、只、あなたと縁側で並んで観た鮮やかな景色、陽射しの暖かさ、風の心地よさ、滴る緑の匂い、何もかもが特別で、今でも当時の記憶は胸の奥底で鮮烈な色彩を宿したまま――。あなたは? 憶えていらっしゃいますか?

 

桜の花が散り、葉桜になった初夏の頃。

いつものようにあなたを訪ねてゆくと、平屋の奥から現れたあなたを見て驚きました。あなたの長い御髪がばっさりと短く切られていたから。耳朶の下で真っ直ぐに髪を切り揃えたあなたは青竹色の着物をお召しになって、膚の白さが際立って見えました。御髪を短くした所為でしょうか。不意にあなたが知らない人に見えました。どうして髪を切ったのかと訊くと「ああ、花が散ったからね」そんなことを仰いました。あなたはぼんやりと立ち尽くしている私を見て「今日は上等な柏餅があるよ。縁側で一緒に食べよう」微笑んで私の手を引くのでした。

家に上がって再び私は驚きを禁じ得ませんでした。

畳いっぱいに、それこそ縁先まで書籍が部屋を占領していたからです。日焼けした文庫本や大判の書物、一目見て高価そうな、題字を金糸で刺繍した本まで、夥しい本の数に恐怖を覚えるほどでした。一度にこんなにも大量の本を見たのはあの時が初めてでした。私はあなたが本を書いて暮らしているのかと思ったくらいです。

「これ、どうしたの?」

「虫干しをしているんだよ」

「虫……?」

「本が傷まないように時々こうして空気に晒すんだ」

「ふうん」

私は何の気もなしに目についた赤い布張りの大きな本に手を伸ばしました。と、あなたはそれを取り上げてしまいます。

「この本は桐子にはまだ読めないよ」

「どうして?」

「難しいことが書いてあるから」

「私だって読めるわ」

私は近くにあった文庫本を指して題名を読み上げて頁をぱらぱらと捲り、拙く読み上げました。

「……『まあ、あきれた。そんなしみったれた、こまかいこと……。』しかしたつの……えてみても、それはこまいことではないだろう。……『こまいことじゃありませんよ。お……をつくるには、……もつもれば……』」

読んでいてもさっぱり意味が判りません。就学前の私は平仮名しか読めなかったのです。横で私の下手な朗読を聞いていたあなたは終いにはおかしそうに笑いだす始末でした。

「もう少し大きくなったらお読み」

あなたの白く細い手が私の頭を柔く撫でます。

「それじゃあ、このご本、私に頂戴」

「構わないよ。桐子にあげよう」

「春さんが持っている赤い本も」

「これはいけない」

「どうして?」

「桐子が見るような本ではないからね」

「春さんの意地悪」

膨れて見せるとあなたは少し困ったふうな表情をしながら赤い本を抱えて部屋を出て行きました。

私はあの綺麗な赤い本にどんなことが記されているのか教えてくださらないあなたを少し恨めしく思いました。その後も赤い本について執拗く訊ねてもあなたは口を濁すばかりでした。

家にあった膨大な書物はあなたの孤独を慰めていたのでしょうか。本当の名前を忘れてしまったあなたを。

あなたから頂いた文庫本は今でも大切に手元に置いてあります。随分日焼けをして掠れた文字が老いた眼に読めなくても。

 

あなたとの別れは突然やってきました。

父の仕事――事業を失敗したのが原因でした。多額の負債を抱えた父と母は離婚することになり、抵当に入れていた家も手放さなければならなくなりました。私は母に引き取られることになりました。父と離れること、お友達と別れることも悲しかったですけれど、何よりもあなたに逢えなくなることが一番身に堪えました。私はもうあなたに逢えないことを何度も云い出そうとして、敵いませんでした。喉元まで出掛かっている言葉を吐いてしまえば、見たくない現実を直視するようで、どうしても云えなかったのです。言葉にしなければ現実にはならない――幼い私はそんなふうに頑なに思い込んでいたのです。それに、あなたを独りにすることの罪悪感もありました。私がいなければあなたはまた独りぼっちになってしまう、あなたの名前を呼ぶ人がいなくなってしまう――今思うとおかしな話ですけれど、あの頃はとても真剣に考えていたのです。

私はあなたの前ではいつもと同じように振舞っていました。けれど、独り泣きながら家路に就くことも屡々でした。あなたも普段と変わった様子はありませんでしたし、何もお訊ねにはならなかったですけれど、本当は何事かをお気付きになっていらしたかもしれませんわね。

私はあなたにさようならも告げずに、梅雨が来る前に母に連れられて生まれた土地を離れました。

それから……それから、私は学校に通うようになり、友人にも恵まれ、新しい町にも馴染んで暮らしました。でもあなたを忘れたことはなかった。春が来るたびに、桜が綻ぶたびに、あなたを想いました。いいえ、本当は毎日のようにあなたを思い出していました。今、貴方はどうしているのかと。お寺の境内にある平屋で独り夥しい本に囲まれ、孤独に本を書き、本を読み暮らしているのかと。それとも誰かと一緒にいるのか。あなたが寂しくなければ良いと思いながら、あなたの隣に誰かがいることが耐え切れなかった。道行く人にあなたの姿を探して、白い俤を重ねて。今すぐあなたに逢いたいと何度思ったことでしょう。辛くて悲しい時は殊にあなたが戀しくなるのでした。

或る日、私は思い立ってあなたに逢いに行くことにしました。その時、私は既に十八歳になっていました。折しも季節は春。桜も終わりかけの卯月の或る日曜日でした。

私が今住んでいる町と以前いた町とは隣り合う県で然程、離れていなかったのです。

幼い日、あなたから頂いた本を――何度も繰り返し読んでぼろぼろになった、愛着のある本を携え、列車を数時間乗り継いで生れた町に降り立った私は記憶を頼りに小さな廃寺を探しました。道を歩いていると段々懐かしさと共に記憶がはっきりと甦って、迷うことなくあなたと初めて出逢った場所へと辿り着きました。

お寺の境内の染井吉野は微風そよかぜに花弁を零しておりました。宙に舞い散る薄紅色は夏の気配を孕んだ陽射しの中で翻り、まばゆく煌めいて見えました。境内はしんと静まっていて、誰もいない様子。私は逸る気持ちで本堂の裏へと廻りました。そこには果たして以前と変わらない佇まいの平屋がありました。

「春さん」

縁先から閉じられた障子戸に向かって呼びかけました。暫くしてカタンと小さな音を立てて障子戸が細く開き、白い影がちらと動きました。私は目を瞠りました。障子戸の向こうから現れたあなたはあの頃とちっとも変わらないお姿で、鴉の濡羽色の御髪を長く垂らして白っぽい和服を身に纏っていらっしゃいました。私を認めたあなたは酷く驚いたふうに漆黒の双眸を見開いてその場に立ち尽くしておいででした。

「春さん。私よ。桐子。――お久しぶりね」

私はそれだけ云うのが精一杯でした。心臓がどきどき高鳴って、もう胸がいっぱいになってしまって、無理に笑顔を作っていなければ涙が溢れてしまいそうでした。

「どうして――」

「近くに来たから寄ったの。お変わりなくて?」

気恥しさからあなたに逢いにきたとは云えませんでした。

「桐子は、変わったね。見違えるようだ」

「もう十八だもの。でも春さんはあの時のままね、本当に……」

「ここは変わらないから」

「あれからも……ずっとお独りなの?」

「私は独りだよ。これから先も」

「そう……。春さん、またここに来ても良いかしら? 昔みたいに」

「それは――」

「いけない?」

あなたは少しの間、眉根を寄せて沈黙していましたが、重ねて問うと小さく頷いて、再びここへ来ることを赦してくださいました。この時の、天にも昇る心地! もっと早くにあなたに逢いにゆけば良かったと思ったほどです。

私は学校がお休みになる日曜日になると列車を乗り継いであなたに逢いにゆきました。あなたに逢えると思うと嬉しさのあまり、前日の夜はなかなか寝付かれないくらいでした。

 

葉桜の季節になると貴方の御髪はまた短くなりました。

「どうして桜が散ると髪の毛をお切りになるの? 春さんの髪はとても綺麗なのに。勿体ないわ」

私はあなたの毛先に手を伸ばして軽く触れました。この時にはあなたとの距離は何の気なしに髪や肩に触れるくらいには近付いていました。

「どうしてって。花が散るからだよ。――桐子の髪も昔より伸びたね」

今度はあなたの白い指先が私の髪の先を掬います。私の髪の毛は胸の辺りまでありました。

「伸ばしているの」

あなたみたいに綺麗な髪ではなかったけれど、私は髪を伸ばすことによってあなたにもっと近付きたかったのです。あなたみたいに美しくなりたかったのです。

「髪を結んであげよう」

あなたはそう仰って、私の髪を櫛で梳くと器用に編み込んで繻子の藤色のリボンを結んでくださいました。

「藤色は桐子に良く似合うね」

あなたに髪を触れられるのはとても心地よく、まるであなたの飼い猫になったような気分になりました。

あなたとはいつも、縁側に腰掛けて取り留めもないお喋りをしましたね。学校のこと、お友達のこと、普段の生活のこと、母のこと、好きな本のこと……あなたはいつも微笑みを浮かべて私の話を聞いてくださいました。けれどもあなたはご自身のことを殆ど何もお話にならなかった。年齢も、どこで生まれ育ったのかも。

「春さんはよっぽど秘密主義なのねえ」

「そうじゃない。只、語るべきものが何もないからだよ」

あなたは少しだけ寂しそうな眸をなさって口元に淡く笑みを漂わせていらっしゃいました。

「明確に語れるのは私は独りである、ということだけだ」

「そんなことないわ。私がいるわ。ずっと、春さんの傍にいるわ」

あなたの細く冷たい手を握るとあなたは長い睫毛を瞬いて「どうして君はそこまで――」不思議そうに私を見るのでした。

「だって私……、私は……」

あなたが好きなのです――言葉にならず、想いは涙となって頬を流れました。

「桐子。泣かないで」

あなたの手が優しく私の頬に触れ、親指の腹で濡れた下瞼を拭ってくださいました。と、あなたは顔を寄せ、秀でた額を合わせて私の眸の奥を覗き込みます。綺麗なあなたの眸の中に私の泣き顔が逆さに映り込んだ次の瞬間、柔く抱き締められました。どきんと胸が大きく鳴って驚きのあまり目を見開くとあなたは腕に力を込めて私を抱きました。不意に幼い頃、初めてあなたに抱き上げられた時の記憶が桜の馨りと共に返ってきました。あなたの手がそっと私の背を慰撫するように触れて、堪らなくなった私はあなたの肩口に顔をうずめました。涙が止めどなく溢れてあなたの着物を濡らしてゆきます。

「――好き。私は春さんが好き」

ああとうとう云ってしまった――長年秘めてきた戀の告白は軽い喪失感を伴いました。

伏せていた顔を上げると涙で濡れた視界の中であなたは微かに――少しだけ戸惑ったように笑んでいらっしゃいました。

「桐子。私は――」

何も仰らないで――私はあなたの白いかんばせを両の手で包むと形の佳い朱唇くちびるに口付けました。あなたの朱唇は柔らかく、ひんやりとして馨しいはなびらのようでした。

初めての戀、初めての接吻。

狂おしいほどにあなたが好きでした。

 

「春さん。今日は出掛けないこと? お天気も良くて気持ちが良いわ」

葉月の最後の日曜日、私はあなたと一緒に外を歩いてみたくて誘いました。するとあなたは「私はここから離れられないんだ」緩くかぶりを振って仰いました。

「どうして? どこかお加減でも悪くていらっしゃるの?」

「いや。そうではないよ」

「では、なぜ?」

「どうしても。――境内なら出歩けるけれどね」

「それじゃあ、境内をお散歩しましょう」

私はあなたと肩を並べて夏の爽やかな陽射しの中、お寺の境内をゆったりとした足取りで巡りました。刻まれた文字が雨曝しに読めなくなった苔むした碑石、小さく祀られた地蔵、鎖されたままの本堂――特別見るべきものがあるわけでもなく、どこもかしこも目に馴染んだ景色でしたが、あなたと手を繋いで歩けることがとても嬉しく、私は終始胸を踊らせていたのでした。とても幸福な時間でした。

葉ばかりになった桜の樹の下に立って、あなたは愛おしむように、齢を重ねたごつごつとした木肌を撫でました。或る一点をじっとお見詰めになって、何かを考えているふうでありました。どこか遠い眼付きで。

「春さん。本当の名前は思い出せて?」

「さあ……?」

あなたは細い首を傾げます。

「あなたは不思議な方ね。私、あなたのことについて何にも知らないわ。あなたは私のことを知っているのに。何だか不公平だわ」

御免――眉を曇らせるあなたの漆黒の眸は微かに揺らいでいました。それは今にも泣き出しそうな表情にも見えて、私のと胸を衝きました。

「ごめんなさい。春さんを責めているのではないの。只、私、あなたのことが知りたいだけなの」

戀とは、愛とは時に何と傲慢で暴力的で浅ましいのでしょう。あなたは薄く憂いを額に漂わせたまま「私が桐子が知っている。私に桐子が名前をくれた。それが全てなんだ。それでは――いけない?」私の顔を覗き込みました。あなたの眼眸まなざしが近付いてきたと思うと、柔らかなものが唇に触れました。眼前には花開く笑顔。私は継ぐ言葉を失いました。

「私は桐子が好きだよ」

今でもあなたの声が胸の底で鳴り響いて已みません。私を縛して離さないあなたの声、眸、体温。

 

梅雨が明けて本格的に夏が始まった文月の或る日曜日。珍しくからっと晴れ渡ったその日、あなたはいつかのように部屋いっぱいに蔵書を並べて本の虫干しをなさっていました。古びた水墨インクの匂いと焼けて黄ばんだ紙の匂いが立ち上る陽向の熱気に混じって一種の懐かしい馨りを漂わせていました。

「昔も思ったけれど、春さんは本がお好きなのね。あなたも本をお書きになるの?」

私は近くにあった一冊の文庫本を手に取って手慰みにぱらぱらと捲ってみました。それは若くして夭折した詩人の本でした。

「私にそんな才能はないよ」

「そうかしら? 春さんが書いた本があれば読んでみたいわ」

「桐子が書いたら良い」

「私が? でも私こそそんな才能はなくってよ」

するとあなたは私のをじっとお見詰めになって仰いました。

「桐子なら何だってできるよ。――君は綺麗な瞳をしているからね。見えている世界も、きっと綺麗なのだろうね」

「春さんには、どんなふうに見えていますの?」

見詰める黒々とした双眸はどこまでも澄んで静かな湖のよう――あなたは只微笑むばかり。と、目の端に赤い色を捕らえました。視軸をそちらに転じると、赤い色は大型の本でした。私はふと思い出しました。

「これ……」

私は立ち上がって赤い本の傍に寄ると手を伸ばしました。題字は削れて読めなくなっていました。

「桐子」

「何?」

「その本は、いけないよ」

「昔もそう仰っていたわね。でも、もうあの頃の私じゃないわ」

本を手に取り、表紙を開こうとするとあなたは私の手を掴んで押し止め、本を取り上げました。

「もう。どうしてそんなに見てはいけないって仰るの?」

「桐子が見るような本ではないからね」

あなたは大事そうに本を抱えます。

「私はもう子供じゃないわ」

「だから、余計に」

「ねえ、どんなご本なのか教えてくださらないこと?」

本の大きさからいって、恐らく何らかの画集であることは解かりましたが、どのような作品が収められているのかは窺い知れませんでした。あなたは本を隠すように背後に置くと、少し眉根を寄せて悩ましげな表情をしていらっしゃいました。尚も私がせがむと、すっと白いお顔を寄せて軽く唇を触れ合わせました。あなたの朱唇はひんやりと、淡く桜の馨りがしました。

「つまりは、こういうことだよ」

「――それから?」

「それから――」

幾分か細い手が宙で惑って、私の髪に触れました。束ねた髪の先に結んでいたあなたから貰った藤色のリボンの端が引かれ、するりととかれました。白く長い指が緩く縺れた髪を梳きます。あなたと私を距てる沈黙の中にひらりとリボンが落ちました。

「次は、どうなさいますの?」

私は何でもないふうを装って云いましたが、本当は胸が苦しいほど鼓動を早めていました。あなたの指先が掠めるたびに、気配が近付くたびに、羞恥と或る種の好奇心と、あなたへの思慕とに胸がどうしようもなく高鳴って今にも心臓が壊れそうでした。あなたは私のブラウスのリボンを見詰めたまま黙り込んでしまいました。

「最後まで教えて――」

私は温度の低いあなたの手を取り、胸元のリボンへ導きました。あなたは恐る恐るといった風情でリボンをとき、私をもほどいてゆきました。初めて触れたあなたの素肌は熱く、馨しい青葉のような、爽やかな匂いがいたしました。そしてまた、抱き締められると桜の花群れに包まれているかのように錯覚しました。花の柩。ふとそんな言葉が思い浮かびます。幻視とも、幻覚ともつかないそれは真に不思議な体験でした。あなたと膚を重ねた時はひとつの感動がありました。あなたの柔らかで瑞々しい朱唇が膚を滑り、指先が私の輪郭をなぞって、互いのももを深く交らわせて、吐息を散らしながら未知の感覚へと連れて行く――私は華奢な白い躰に縋りついてあなたに溺れてゆきました。

あなたは私をどこまでも優しく抱きながら時折、泣きそうなお顔をなさいました。あの時は解らなかったけれど、今ならあなたの悲しみが良く解るように思います。愛しさの、戀しさの悲しみが。

 

あなたとの二度目の別れも突然でした。

蝉の聲が姦しい葉月の昼下がり、いつものようにお寺へ行きますと、境内の入口が『工事中』の柵で塞がれていました。何やら騒がしい気配がします。私は訝しく思って境内の中を覗き込みました。すると作業服を着た人達が忙しそうに立ち働いているのが見えました。彼等は桜を取り囲み、機械を操って樹を切り倒しているのでした。桜の樹は獰猛に駆動する鋭利な刃をその身に受けながら、躰を二つに裂かれて少しずつ傾いでいきます。私は唖然と立ち尽くしてその様子を見ていました。作業員達は大儀そうに首に巻いたタオルで汗を拭き拭き、幹に電動鋸を喰い込ませていきます。どのくらい、時間が経ったのでしょう。あんなにも美しい花を咲かせていた、健やかに青々と葉を茂らせている桜の樹はとうとう無惨に切り倒されてしまいました。作業員達は更に樹を細かく裁断して縄で束ねるとトラックの荷台へと積み込んでいきます。私は一歩も動けないまま、作業が終わるまでぼんやりと眺めていました。

作業員達が引き上げ、入口の封鎖が解かれると、私は一目散に駆け出してあなたの住まいを訪ねました。しかしそこで私は途方に暮れてしまいました。本堂の裏にあった筈の平屋が跡形もなく消え去っていたからです。まるで魔法のように何の前触れもなく無くなってしまったのでした。私は何か悪い夢を見ているのかと思ったほどです。狭い境内の中を何度も何度もぐるぐると歩き回りましたけれど、やはりあなたが棲まっていた平屋はどこにもなく、桜の切り株が寂しく残されているだけでした。それでも私はあなたに逢いたい一心で近くを歩いていた人を捕まえて平屋の存在を訊ねたりもいたしました。けれども、皆一様にそのような家はなかった筈だと云いました。あなたのことも話してみましたけれども、そんな人は一度も見かけたことはないと口を揃えて云うのです。私は食い下がって尚もあなたの所在を訊きました。ですが結果は覆ることはありませんでした。

あなたは私を残して消えてしまった。

何も云わずに。

私に痛いほどの思慕を残して。

あなたはどこへ行ってしまわれたのでしょう。

あなたは何者だったのでしょう。

いいえ、あなたが何者であろうと構わない。あなたは確かに存在し、私に戀を、愛を教えてくださいました。あなたがいなければ、出逢わなければ、私は痛切な恋情を、愛情を、知ることはなかったでしょう。誰かを喪う悲しみすらも。

私は学校を卒業をして、就職し、職場で出逢った人と結婚して、子供を産みました。その子供もすっかり大人になって新しい家族を作って、私はお婆さんになりました。振り返ってみれば、私は平凡でありながらとても幸福な生涯を生きたと思います。今も私は幸せです。大切な家族を愛しく思っています。でもそれ以上にあなたが懐かしく、愛おしく思われるのです。

あなたは今、何方どちらにいらっしゃるのでしょう。

今も変わらず独りでいらっしゃるのでしょうか。

残された生が終わる前にもう一度、あなたにお目にかかりたいのです。一目あなたに逢って最後にきちんとお別れをしたいのです。ああどうか――あなたに逢えますように。

 

**********

 

如月にしては暖かい日であった。うらうらと雲一つない蒼天から日光が降り注ぎ、どこからか忍び込んだ毛並みの白い野良猫が庭先に描かれた陽だまりの中で目を細めて微睡んでいた。

天へ伸びる庭木の梢は寒々としていたが、陽気に誘われるように枝に連なる蕾はふっくらと身を孕ませて、日増しに春へと移ろうてゆくのを告げていた。時折吹く風は真冬のそれであったが、微風に乗って仄かに漂う湿った土の香りは清明の頃を思わせた。

桐子は葡萄茶えびちゃ色のセーターに年老いて小さくなった痩身をうずめるようにして縁先に座ってうつらうつらしていた。

数日前から風邪をひいてここ何日か床に臥せっていたのだが、今日になって漸く起き上がれるようになったのだ。幾ら暖かいとはいえ、病み上がりに真冬の冷気は躰に毒だと縁先で日向ぼっこしている桐子を、同居している息子の嫁――妙子は口煩く諫めたが、桐子は厚着をしていれば大丈夫だとして聞き入れなかった。何日も閉め切った部屋でじっと寝ていたので外の空気に当たりたかったのだ。年寄は頑固で困ると妙子は零しながら、桐子に留守を頼んで先刻、買い物に出かけて行った。孫の正之も今時分は学校に行っていていない。息子も仕事で不在である。家には桐子独りであった。静かな冬日の午後である。

衰えた膚を撫でる冷えた外気は清々しく、病の残滓を洗い流すようだった。桐子は薄く睫毛を伏せてぬくい陽光に身を浸していた。と、ちらりと白いものが翻るのを眼裏まなうらに――目の端に捉えてふと顔を上げた。桐子に背を向けて庭木の前に人が立っている。編み込んだ長い髪に結ばれている藤色のリボンが繻子の光沢を帯びて柔い風に揺れる。紺色のスカート襞、セーラー服の襟に走る白線、白い靴下、光に照る靴先。桐子は僅かに振り返って此方を見た――微かに笑った気がした。が、陽射しの眩しさに年老いた眼が白く眩んで定かではない。桐子は庭木の前に佇む人物を良く見ようとして眸を細めた。しかし像は上手く結ばない。焦点が合ったと思ったら、忽ち輪郭が融解してしまう。眇めた双眸は再び開くことを拒む。目蓋が意に反して閉じようとする。落ち込んでゆく意識に藤色の繻子のリボンが螺旋を描き、桐子を遠くへ連れ去ろうとする。逆回りする時計の針と柱時計の振り子がカチカチと音を鳴らして、耳元で唸る風が激しく逆巻く。どこかへ落下してゆくような浮遊感。水の中へ沈んでいくような曖昧な感覚に四肢が萎えて弛緩する。瞬きひとつすらできない。息が詰まって苦しい。ゆらゆら。流れてゆく。清い水音。遠くで不如帰の囀り。ゆらゆら。瞳の表面を滑る空の色。茜色。一瞬の夕焼け。夜が来る。流れてゆく。ゆらゆらと。風に囁き交わす花群れ。夥しい数の真っ赤な彼岸花。あらゆる色彩が瞳の上を過ぎてゆく。ゆっくりと瞬きをすると辺りは闇に包まれていた。桐子は恐々と手探りで歩む。心細い思いで歩き続けると不意に声がした。

「桐子」

俯けていた顔を上げると突然視野が明るく拓けた。ひらりと宙を舞うものがある。眩しさのあまり思わず顔を顰めた。正面に向けた視線の先に白い和服姿の人物が立っていた。その人は漆黒の髪を長く垂らし、爛漫と咲き乱れる桜の樹の下に佇立していた。白いかんばせに淡く笑みを浮かべて。

「――春さん」

片時も忘れなかった、懐かしい名を口にした途端、両の眼から熱いものが溢れ出た。桐子は涙が流れるままに、紺色のスカートを翻して桜の下へと駆け寄り、春の懐に飛び込むように抱き着いた。春は眸を見開いた後、破顔して少女の躰を抱き返した。桐子は春の胸元に顔をうずめながら嗚咽する。ずっと逢いたかったのだと、今までどうしていたのかと、云いたいことは幾らでもあったが、言葉にならず、全ては落涙となって消えていく。春は薄く眸を伏せて宥めるように桐子の細い背を抱いた。その手付きは慈愛に満ちていた。

「桐子を待っていたよ」

「私も待っていたわ。ずっとずっと、あなたを待っていた。逢いたかった」

「私も桐子に逢いたかった。――もう泣かないで」

桐子が顔を上げると白い手が伸びてきて、涙を優しく拭う。それから春は顔を寄せて乙女の唇に淡く口付けた。再会の接吻は一度ほどけて、もう一度。柔らかな熱を享受し合うそれは海の味がした。

春は秀でた額をこつりと合わせると深い夜の眸を潤ませて美しく微笑した。その微笑みも酷く懐かしく、桐子の胸を、心の臓を、ふるわせる。新たに涙が滲むのをどうにか堪えて桐子も微笑み返した。

風が吹き渡り、桜の梢をざわめかせて揺らす。桐子は頭上で咲く桜を仰ぎ見た。春も振り返って満開の桜花を見遣る。

「桐子。私は自分の名前を思い出したよ」

「本当? 何て仰るの?」

すると春は桜の樹を指さした。

「カムアタカアシツヒメ」

――神吾田鹿葦津姫。

神木である桜の樹に宿る聖なる御霊の名前。気高く、儚く、凄艶なまでに美しい桜の神名。

「それが、春さんの本当の名前?」

「そう。でもね、桐子が私につけてくれた名前が好きだよ。――私は桐子がくれた名前で呼ばれたい」

「春さん」

神吾田鹿葦津姫――春は嬉しそうに莞爾した。細められた眼尻には小さな雫が光っていた。

二人を祝福するように薄紅色の花は静かに花弁を散らす。ゆっくりと舞い落ちるそれは陽射しを受けて煌めくようであった。桐子は右手を伸べて花弁を掌に受ける。淡雪のように軽いそれは仄かに馨る。春の馨り。懐かしく、慕わしい、愛しい人の匂い。

春は宙に差し出された桐子の手を掴んで握った。

「桐子。さあ、行こう」

「どこへ?」

「――常世へ」

永遠不変の世界へ。海の遥か彼方にある場所へ。彼岸へ。

桐子は春の手を握り返して、歩き出す。繋いだ手はもう二度とほどけることがないのだと確信して。

春風に煽られて地面に散った花弁が螺旋を描いて空へ舞う。夥しいはなびらが蒼穹へと巻き上げられていく。碧いそら一面、桜色に染め抜かれた。

桐子は縁先に座ったまま二つの背中を見送っていた。次第に薄らいでゆく二人の姿が花吹雪に紛れて見えなくなる。桜に鎖された視界は色彩を喪い、糸がふっつりと切れるように闇に転じた。

庭先で不如帰が一こえいて、天へと羽搏はばたいていく。しかしその囀りは遂に桐子の耳に届くことはなかった。

 

(了)

 

2022年5月30日公開

© 2022 澁澤青蓮

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