落花

澁澤青蓮

小説

2,868文字

友人は奇妙な病に冒されていた。ある日、私は友人を見舞いにゆくが――。

離れの座敷の襖を開けると消毒液の匂いがつんと鼻腔を刺す。閉め切った障子戸を透かして白く霞んだ冬の陽射しが、まだ青々としている畳の上に柔らかな陽だまりを描いていた。部屋の中央には蒲団が延べられ、眞白きその中に埋まるように彼が寝ていた。私はそっと蒲団に近付いて傍らに腰を落ち着けた。彼は私の気配に気が付いてか、閉ざしていた白い瞼を開けて澄明に潤んだ漆黒の眸で微かに笑んだ。少しだけ眩しそうな目付をする。
「起こしてしまって、すまないね」
「いや、眠っていたわけじゃないんだ。ただちょっと目を瞑っていただけだよ」
云いながら彼は身を立てて、華奢な肩に薄い毛布を纏う。元々躰の線は細い方であったが、床に就くようになってから更に躰が薄くなったようだ。しかし彼の顔はあまり病身らしくなく、血色もそう悪くはなかった。一目見たら忘れられぬような、輝く双眸が病魔とは無縁の如く見せていた。ほんのちょっとした、極軽い風邪や頭痛に見舞われて横になっている、といった風情だ。
「目を閉じてじっと横になっているとね、躰の中で花が開く音が聞こえてくるんだ。水晶玉が触れ合うような、綺麗な澄んだ音がね。心臓の音に混じって聞こえるんだよ」
「――今も、聞こえたの?」
「ああ。今と朝目醒め際に一つずつ。昨日から咲いている花もあるから、僕の中に四、五輪の椿が咲いている。医者に因ると右の肺は花でもういっぱいだそうだ」
「そんな――」
彼は何でもなさそうに――恰もお天気の話をするように語るけれども、病状は深刻だ。
二月の初めから彼は不思議な病に侵されていた。どういうわけか、肺の中で椿が咲くのである。うっかり躰の中へ種子が入って芽を出したんだね――彼は冗談ともつかぬ語調で語りながら笑っていた。幾人かの医者に診せたが、どの医者も首を傾げるばかりで、とんと解らぬ。その病の仕組みも治療法も。全くのお手上げだった。
初めのうちはそれでも彼は普段と変わらぬ生活をしていたが、先月の終わりから体調が優れない日が多くなった。仕事も休みがちになり、三月に入ってからは今のように寝付くようになってしまった。詳しい原因は解らないながら、恐らく彼の生命いのちを椿の花が食い荒らしているのだろうと推測された。
「君、其処の煙草を取ってくれ給え」
「そんなもの、吸っても大丈夫なのかい?」
「煙草でも吸えば煙たくて肺の中の椿も枯れるだろうと思ってね」
悪戯っぽく微笑む彼の顔付は変に明るかった。
私は云われるままに火鉢の横にある小匣から煙草と灰皿を取り出して彼に手渡した。咥えた煙草の先端に擦った燐寸の火を近付ける。小さく火が灯って彼は実に美味そうに煙草を喫んだ。紫煙が差し込む陽光に溶けてゆく。
「君も吸うかい?」
「いや、いい。それより、お土産を買ってきた。君が好きな和菓子屋の羊羹だ。それから寝ているのは退屈だろうと思って適当に本を買ってきた」
私は横に置いた風呂敷包みを解いて持ってきた見舞いの品を広げて見せる。本は外国の文学書である。長く読めるようにと上下巻を選んだ。そんなことを云うと彼は嬉しそうに「どうもありがとう」と優美に莞爾した。
「羊羹を切ってこようか」
「いや、今は――けほッ」
急に彼は咳き込み、慌てて寝間着代わりの浴衣の袂で口元を抑える。一度始まった咳はなかなか止まらず、私は苦しそうに喘鳴している彼の細い背を撫でてやった。見ると彼の唇からは血の塊のように真っ赤な花が吐き零れ、三つも四つも小さな毬の如く蒲団の上を転げ落ちる。鮮烈に咲いた椿の花であった。私は枕元にあった水差しから洋杯コップに水を注いで彼に飲ませ、落ち着くまで背中をり続けた。今しがた吐き出された椿は生々しい赫さで私に迫った。香りがない筈の花から濃密な血の匂いが匂ってきそうであった。
「面倒をかけて、すまないね」
落ち着きを取り戻した彼は柳眉を曇らせる。私は花をちり紙に包んで屑籠に入れながら緩くかぶりを振る。
「花を吐き出して、少しは楽になった?」
「うん。でもまたもう一輪、咲きそうだよ」
「もう? だって今――」
仕方ないさ――彼は薄く笑みながら蒲団に身を横たえる。ほうと深く息を吐いて天井を真っ直ぐに見詰めていた。どうして良いか解らず、見舞いとして持ってきた本を無意味に繰っていると不意に「音を聞いてみるかい?」呟く声が部屋に落ちた。
「花が咲くよ」
私は彼ににじり寄り、恐々と健やかに上下している薄い胸へと耳を宛がった。目を閉じる。と、微かに玲瓏な響きが鼓膜をった。コロコロともリンリンともつかぬ、美しい珠が触れ合う音が彼の穏やかな心音に混じって確かに聞こえたのだった。ずっと聞いていたような妙なる調べは、本当は彼の生命いのちを喰らう残酷な音楽なのだと思うと酷く悲しかった。私は何時の間にか眼尻から雫を零していた。すると柔く髪を撫でるものがあった。瞼を開いて僅かに頭を擡げると静かに笑っている彼のひとみと出会った。白百合のような、静謐な笑顔は死にゆく人のそれであった。彼は矢張り己の死期が近いことを悟っていたのだ。椿の開花時期は四月頃までとされている。その時期を過ぎれば彼は――。
「すまないね」
何に対しての謝罪なのか。私は涙を拭って半身を起こして彼を睨んだ。
「頼むから、そんなことを口にしないで。治療法だってこれから……明日にでも見つかるかもしれないのだし。今からそんな弱気だとこっちが困るよ」
「君は手厳しいね。でもね、自分の躰のことは自分が一番解かっているんだ。僕はもう長くはない」
「云わないで――」
新たに滲み始めた視野いっぱいに彼の白いかんばせがあった。息が触れ合わんばかりの、距離。
「だから、ね?」
目許を優しく拭われる。間近で向けられる眼眸まなざしは深い慈しみを湛えていた。そのからは逃れられないと思った。否、逃げたくはなかった。叶うものなから永遠に掴まっていたかった。私はそっと目を閉じた。涙の膜が決壊して熱く頬を濡らしてゆく。刹那に唇に感じた柔らかな熱。瞼を開けると涙に溺れた視界の中で彼が穏やかに笑っていた。

 

四月になって彼は死んだ。真っ赤な椿を幾つも幾つも吐き零して。その花は厭わしい程に美しかった。彼の生命いのちの欠片が宿っているように思えて、私は一つだけ椿をこっそり持ち帰った。だが花は直ぐに萎れて無惨に色褪せてしまった。それでも私は手元に置いて朽ちた花を飽かずに来る日も来る日も眺め続けた。

季節は残酷に巡り、軈て寒さの厳しい冬がやって来た。
或る日、私は不思議な音を聞いた。その音は私の躰の中から聞こえてきた。コロコロともリンリンともつかぬ、美しい珠が触れ合うような音を。咄嗟に彼の白い顔が脳裏に閃いた。
「――ぐッ……げほっ、げほッ」
急に咳き込んで慌てて口元を手で覆った。何か赫いものがちらりと視界に入った。掌を見ると真っ赤な椿の花が一輪――。
――ああ、私は。
彼と同じ病に侵されているのだ。きっとあの時交わした、たった一度だけの接吻くちづけが私にこの奇妙な病を齎したのだと悟った。
「――ねえ、君。待っていてね」
私は酷く幸福な気持ちで、吐き出した椿を見詰めていた。
(了)

2022年5月30日公開

© 2022 澁澤青蓮

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