喪いゆく躰

椿蓮子

小説

12,360文字

あの人を愛する限り、またあの人が私を愛する限り、肉体の欠損は増えていくだろう。
躰を喪いながら、私達は充たされてゆく。

【あらすじ】
密やかに逢瀬を繰り返す「わたし」と「私」。二人はお互いの躰の一部を切り離して交換する。愛の証として。
薬指を、眼球を、心臓まで。躰を喪いながら充たされてゆく、二人だけの理想郷。しかしその崩壊は呆気なかった。流血表現があります。苦手な方はご注意ください。

一、薬指

 

彼の細く形のい左手の薬指の根元はあかい糸できつく縛められていた。出血を抑えるためである。先程まで氷で冷やしていたこともあって縛られた指は鬱血して変色し、その指だけ何か別の生き物のようだった。

わたしは彼の向かいに坐して卓の上に置かれた相手の左手を凝視する。これから行われる行為に室内は張り詰めて、思わず固唾を呑んだ。しかし当の本人は何とも思っていないふうで普段と変わらぬ、落ち着いた様子だった。それどころか恍惚とした法悦の光を両のに宿らせているように見受けられた。

「此方へ」

促されて立ち上がると彼の背後へと回り、無造作に投げ出された右手の傍らに転がる小刀を手に取った。そっと鞘から抜けば白刃が電燈の下に鋭く光閃いた。慄く手に小刀を握り締め、身を屈めて彼を後ろから抱きすくめるように腕を伸ばすと、卓の上で静かにその時を待っている左手の薬指へ刃を宛がった。と、彼がわたしを振り仰ぐ。間近でひとみが合うと「怖いかい」ふっと彼は美貌を綻ばせた。微塵の恐怖も感じていないらしい。わたしは素直に頷く。まだこれからだというのに、心臓が莫迦みたいに鳴っていた。

「だって、痛いでしょう」

「充分、冷やしたから大丈夫だろう。それに。痛いから、良いのさ。ずっと憶えていられるからね」

彼はそう云ってわたしの腕を掴むと僅かに引き寄せて唇を重ねた。不意の口付けは強張った躰を解きほぐし、緊張する心を優しく宥めた。乱れていた胸がすう、と凪いでゆく。

唇が離れると彼は莞爾かんじして手元に視線を落とした。わたしも倣って見遣る。

今からこの美しい手を傷付けるのだ。

指を、切り落として。

先に薬指を強請ったのは彼の方だった。

――薬指は一番、心臓に近い指だからね。

そう告げた時の彼の微笑を、わたしは忘れないだろう。恰も眸を開けたまま夢を見ているような、陶然とした面持ちはベルニーニの彫刻『聖テレジアの法悦』の如く美しく、酷く官能的であった。

彼は痛いから良いと云った。それは聖人や殉教者が体験した神秘的な、神と云われるものとの、この上なく甘美な交歓と等しいのだ。指の切断は神の御前で宣誓する、神聖な儀式なのだ。

わたしの右手に彼自身のそれも重なり、温かく包まれる。馴染んだ体温が切なく皮膚はだへ伝わって静まっていたはずの鼓動が俄かに強まった。

「さあ、やってくれ給え」

ぐっと上から圧力が加わって、鋭利な光を反射した白刃が彼の薬指の根元へとめり込んでゆく。後ろから切りかかっているために彼の表情は窺い知れない。痛みを堪えるような呻吟さえ聞かれない。呼吸の乱れもない。寧ろわたしの方が激しい痛みを感じているように顔を歪め、息を詰めながら下唇を噛み締めていた。

やがて血が細く流れ出し、卓上に赫い小さな水溜りを作る。完全な止血は難しいらしい。

ぶちぶちと神経や腱を断つ手ごたえの後に硬いものにぶつかる。骨だ。刃が進まなくなって一旦、彼の手によって小刀が引き抜かれた。その瞬間、僅かに彼が呻いた。生々しく開いた傷口からじんわりと血が溢れ出し、脂肪、筋、微かに覗いていた骨が血汐に没していく。白雪に赤椿が落ちた如く、白刃から一滴ひとしずく血が垂れて彼の左手の甲を汚した。わたしは怯んだ。だが、此処まできたらもう引き返すこともできない。最後までやり遂げるしかない。

「……大丈夫だ。続きを」

彼は深く息を吐くとわたしを振り仰いで微笑んでみせる。白く秀でた額には薄く汗が滲み、暗夜を湛えた眸は潤んで妖しく輝いていた。それらは苦痛というよりは閨で見せる悦楽に染まった表情と酷似していた。艶めかしいかんばせにわたしは無性に彼が欲しくなってしまった。

わたしは彼の手から小刀を取ると血に濡れた指目掛けて一思いに振り下ろした。

 

**********

 

切断された薬指を掌の上に乗せて眺める。少し筋張ったような長い指先の、爪の形が綺麗な薬指である。爪の色は喪われず、桜色に染まったまま、艶かしい光を弾いていた。桜貝を磨いて嵌め込んだ芸術作品と云われても全く遜色のない、美しい爪であり、指だった。

私は何時もひとりで使っている寝室で就寝前にあの人の薬指をオルゴールの匣から取り出して気が済むまで弄んだ。家人にも、誰にも明かすことのできぬ秘密の愉しみであった。

私の左手の薬指も欠損して、今はあの人の下にある。あの人が最後、私の指を切断したのだ。躰を貫いた激痛はえも云われぬ程、甘美なものだった。初めて肉体をつがった時の痛みに似て。恐らくあの人も私と同じようにして薬指と暮らしているに違いない。

愛玩動物を可愛がるように薬指を指先で撫でたり、舌尖で突いたり、口に含んだりして、共にした閨の、交わした情を辿ってあの人と逢えぬ日々を、孤独な時間を慰めた。

私は寝台に横になった。目を閉じて、紅を差すようにあの人の薬指で己の唇をなぞれば、口付けを思い出す。舞い落ちる花弁を唇で受け止めたかのような、軽やかな接吻は敬虔なものを含んでいた。合わせる唇は何時も瑞々しく、ふっくらとして可憐であった。

薬指は私の皮膚はだを這う。唇から顎先、首筋、胸元へとゆっくりと下りてゆく。寝間着代わりの浴衣の前をはだけて心臓の上に薬指を宛がえば直接脈打つ臓器を握られる心持がした。このまま体内へ、心臓の中に埋まっていきはしないかと夢想して血が官能に滾った。

途端にあるはずがない薬指が痛み出す。ドクドクと行き場を失った血が途切れた末端から噴き出す錯覚はやがてあの人と私を結びつける赫い糸へ、静脈へ、臍の緒へとなり変わる。

この痛みの共有、共鳴があの人の存在を私の傍らに齎した。

あの人と繋がっている――私は已まない痛みを愛した。痛みが強ければ強い程、情愛も深まった。

あの人を愛する限り、またあの人が私を愛する限り、肉体の欠損は増えていくだろう。

躰を喪いながら、私達は充たされてゆく。

全ての形をなくすことができたなら、それは永遠だ。

私は今夜も瞼の裏にあの人の優しい白い面差しを映して眠りにつく。

あの人の欠片を、握り締めて。

 

二、右眼

 

――美しいものだけを見て生きたい。

 

情事に乱れた蒲団の上に彼は胡坐をかいてしきりに右眼を擦っていた。わたしがどうかしたのかと顔を覗き込むと「眼がチクチクするんだ」瞬きを繰り返す眼は痛ましく充血していた。

「塵か睫毛が入ったのでしょう」

見せて御覧なさいと下瞼を引っ張って涙の膜が張った漆黒の眸をしげしげと眺めてから眼だけを上に動かすように云うと、現れた血走った白目の部分に太い睫毛が一本、貼りついていた。じっとしていてください――わたしは両の手で彼の頭を固定するように押さえつけると舌先で眼の中の異物を掬い取った。彼の眼は微かに透った海の味がした。穏やかな、明るい、南方の碧瑠璃色の味。

「取れましたよ」

舌に載った睫毛をちり紙に包んで塵箱へ放り込む。

「ああ、ありがとう」

彼は云いながら幾度か瞬きを繰り返して、ぽろりと一雫、海の欠片を落とした。感情による涙ではないけれど、彼がこんなふうに泣く様は花開いた白椿が落ちるようだった。この人はどんな表情であっても美しいらしい。只、黙って坐っているだけでも一枚の絵になる。額縁を持たせて立たせたならば、どんなに面白かろう。生きた絵画、即席の美術館。鑑賞者はわたしだけが良い。

「後で医者に診せた方が良いでしょう。眼が真っ赤だ。傷がついているかもしれない」

「これくらい何ともないよ」

「そうですか?」

「うん。ところで、僕の指は元気かい?」

わたしは思わず噴き出してしまった。すると彼は何か変なことを云ってしまったのかと怪訝そうに首を傾げる。何処か稚気のある仕草が可愛らしい。

「あなたの云い方が何だか可笑しかったから。犬猫じゃあるまいし」

「そうかな。愛玩と云う点では似たようなものじゃないかな」

「犬や猫より、わたしはあなたが良い。――指は元気ですよ。変わりありません。わたしの指も元気ですか?」

「ああ、勿論。オルゴールの匣に大事に仕舞ってあるよ」

「ずっと仕舞い込んだままですか」

「さて、どうかな」

彼は謎めいた笑みを片頬に浮かべる。だけれどもわたしには解っていた。彼がわたしの薬指で秘密の遊びをしていることを。わたし自身、切り取った彼の指と毎晩、戯れているからだ。指を使った遊戯は不思議な錯覚、あるいは幻覚を齎す。目の前に彼が現れてわたしを愛撫するのだ。きっとその時は彼も同じように、わたしの薬指を自身の素肌に滑らせて享楽に耽っているのだろう。

隔たりながら相手の存在を感じることの幸福。

しかしこうして実際に逢うと、やはり生身の彼が一番好ましい。触れれば体温があり、近づけは匂いを感じ、声をかければ応えてくれる。彼の些細な仕草、細やかな動作、呼吸のリズム、脈拍の強弱まで。彼の生命(いのち)をまるごと感じられるのは今この瞬間だけだ――何もかもが惜しくなってわたしは彼を蒲団の上に押し倒すと痩躯を引っ繰り返して、腿の上に乗り上げた。それから剃り跡が清潔に青々しい項に噛りついた。彼の細い肩が僅かに跳ねる。

「急に、どうしたんだい」

彼は左頬を蒲団につけながら右眼でわたしを見上げる。やや驚いたように眼を丸くして。

「桜を見たくなりました」

「桜?」

「ええ、わたしだけが鑑賞できる桜です」

云いながら彼の白い襯衣シャツを剥ぎ取る。釦を留めないでいたので脱衣は容易だった。

障子を透かして入る冬の白く濁った陽射しは肉の薄い彼の背に柔く落ちて、日に焼けない白磁の肌に隆起する骨や筋肉の陰影を作る。わたしが一等気に入っている肩甲骨は折り畳んだ翼の如く皮膚の下で静かに息づいていた。その様は孵化を待つ大型の鳥類、あるいは目醒めるのを待つ聖なる有翼人種――彼の背中を見ては何時か皮膚を突き破って真白き羽根を広げやしないかと愚にもつかぬ夢想を繰り返した。または真っ直ぐな背骨に沿って肉が左右に割れて、極彩色の蝶が羽化する様を思い描くこともあった。

「あなたは自分で見ることは適わないでしょうけれど、のぼせると背中一面が薄紅色に染まるのです」

唇を寄せて素肌に痕を散らし、情を込めて睦言を鼓膜に流し込めば形の佳い耳郭に朱が燈る。敷布シーツを握り締める彼の指先の色が抜けていた。脇腹の辺りをそろりと愛撫すると肌が小さくさざめいて、色情を微かに孕んだ吐息が薄く開いた唇から零れた。

わたしは知っている。彼の官能の在り処を。慾望の在り処を。どのように触れれば彼がその肉体をわたしに明け渡し、委ねるかを。

滑らかな、無防備な白皙と戯れる。指先で、掌で、唇で、舌先で。素肌を味わう度に彼は息を詰めて躰をふるわせる。耳を染める色が濃くなって充血した右眼が訴えかける。これ以上は、と。

「――桜は見られたかい」

「いいえ。まだ、もう少し……」

項にゆっくりと指を滑らせて頸椎を数える。此処は七番目の頸椎だろうか。

「真冬に桜を見ようだなんて酔狂だね、君は」

「物狂おしくさせてるのは、あなたですよ」

「それは光栄だ。そろそろ襯衣を返してくれないか。寒い」

身を捩って起き上がろうとする彼を押し留めて、

「桜を見せて貰うまでは駄目ですよ」

「でも寒いよ」

そう云う彼の肌は躰を交えた時と同じ温度を持ち始めていた。背中一面に薄紅色を咲かせたくて項に柔く歯を立てて脇腹を撫で上げる。無駄な肉がない躰は何処を触れても骨の在り処が良く解った。かと云って貧相な印象とは皆無で、均整の取れた、しなやかな躰付きだった。腰骨の方へと掌を這わせると彼は小さく喘いだ。

彼の裡に眠っている官能の導火線に火を着けるのは容易い。朱が差す耳殻を唇で食むと彼も観念したかのように脱力した。わたしは執拗に耳を愛撫する。触れる息が擽ったいのか、時折、彼は感じ入ったように目を閉ざした。

暫くして傾けていた身を起こすと見下ろす背には薄紅色が満開に広がっていた。わたしだけが咲かせることができる徒花、わたしだけが見るに能うえんな色。

「もう、良いだろう」

顔が見たい――言葉に従って腰を浮かせると彼は仰向けになった。漆黒の底に情火を揺らめかせた双眸がわたしを見上げる。視線が出会って彼は嬌笑を唇に刷く。

「君から貰いたいものがある」

「何ですか?」

左手が伸びてきて、わたしの右頬に触れた。慈しむような手つきで親指の腹が下瞼をなぞる。不意に半身を起こすと顔を寄せて、口付けられる――そう思った刹那、下瞼を引っ張られて赤い舌尖が眼球の表面を柔く撫ぜた。

視界いっぱいに彼の微笑が広がっていた。

彼が望むものをわたしは悟った。

 

**********

 

鏡の前に立って身なりを整える。洗面台に身を乗り出して己の顔――眼を凝視する。左眼は色が濃く、真っ黒だが右眼はそれに比べてやや薄い。光の加減で左右の色に違いがあるわけではない。本来の持ち主が違うためだ。この右眼は先日、あの人から譲り受けたものだ。虚ろになったあの人の眼窩には私の右眼が収まっている。

微妙な眼の色の違いは余程じっくり観察しない限り解らない程度のもので、他人には明らかにならない差異が私に秘密を有する背徳的な高揚感と優越感とを抱かせた。

入れ替えた眼は視力に何の影響もなかったが、左眼を閉じた時に自分が今見ている光景とは全く違う映像が映し出された。これは全くの偶然から発見された不可解な現象であった。一体これは何であろうと暫し考えていたが、やがて理解した。右眼だけに映るそれは、あの人が今見ている光景なのだ。覗き眼鏡を見るような不思議さがあった。そして時々、自分の意志とは無関係に右眼から涙が出ることがあった。あの人が泣いている――直感的にそう思った。理由が解らない故に心苦しく、どうにかして慰めてあげたいと思った。直接逢って言葉をかけられない代わりに、オルゴールの匣に仕舞ってあるあの人の薬指をそっと慰撫した。そうしながら只、零れる雫が喜びの涙であることを願うばかりだった。

私は煩わしい家人を遠ざけて自室に籠もると椅子に深く沈み込み、左眼を眼帯で覆った。長時間、右眼だけ開けておくには眼帯を使用するのが一番具合が良かった。

見えてくる光景は一面の碧だった。碧は陽光に煌きながらうねり、慄いて、逆巻き、打ち寄せて、白く砕け散った。音は聞こえないが耳の奥で濤声が鳴るように錯覚した。

あの人は今、何処かの海にいるらしい。天候が良さそうなのに海が荒れているのは強風のせいだろうか。明るい海の色を見ると北の方ではなくて、南の方なのだろうと漠然と思った。旅行に出かけているのか、仕事でこの地を訪れているのか。あの人は何も云ってはいなかったから判然としないが、あの人が私のためにこの海を眺めているように感じられた。

私は海景が映し出されている間、自室にいることを忘れ、見入った。碧は尽きることなく打ち寄せては砕け、遠のき、また打ち寄せ、激しく脈動していた。巨大な生命が無声のままに絶叫していた。

どのくらいの時間が経ったのか、突然視界が動いた。眩しい天を刹那、映したかと思うと次の瞬間には見知らぬ人物の顔が見えた。これと云って特徴のない平凡な顔立ちだった。あの人とどういう間柄なのか窺い知れないが、右眼の視野に広がる没個性的な容貌は随分と親しみを込めた笑顔を浮かべていた。

私は眼帯を取り払った。左眼の視力が正常になると椅子から立ち上がって窓辺に寄り、レースの窓掛カーテンを捲って生垣として植えられている椿を見遣った。

薄曇の下に佇立する椿は濃緑の葉を鈍く光らせながら色鮮やかに咲く花をつけていた。赤すぎる椿は開いた花弁の奥から血を零すように思われた。私とあの人とが流した血が混じり合って純白の敷布を汚したように。生々しく開いた傷口が咲いている――花に顔をうずめれば血の匂いが香りそうだった。

血は迸る命の色だ。

躰を巡る血の温かさは生の体温だ。

赤は美しい。

美しい、あの人に相応しい色彩。

この花をあの人に見せたいと思った。私に真っ青な海を見せてくれた、あの人に。

私は美しいものだけを見て生きたい――只、あの人のために。

 

三、心臓

 

――胸骨の中の海、〇.六六一ポンド。

 

二月に入って間もないその日は珍しく寒気が緩んで、固く閉ざした紅梅の蕾も柔くなって膨らむような、開花を促す陽気だった。少し躰を動かせば、汗ばむくらいである。陽射しも麗らかで少しずつ季節が移ろうていることを感じさせた。そんな冬日和の上天気に反して、わたしの足取りは些か重かった。向かう先は彼の自宅であった。

その日、初めて彼の自宅に招かれた。正直に云えばあまり嬉しくはなかった。彼の私生活を見たくなかったので。見てしまえば、二人きりの閉じた世界に亀裂が入り、綻びが生じるような気がしたのだ。わたしと彼との関係は秘匿しなければならないこともあって、今まで彼と逢う時はお互いの生活が見えない場に限られていた。それがどういうわけか、彼が日時を指定して自宅へ来るようにと手紙を寄越したのである。

彼を訪ねることについて幾日も逡巡し、考えているうちに当日がやって来てしまった。家を出る直前まで迷っていたものの、結局わたしは同封されていた手書きの地図を握り締めて彼の家に赴いたのだった。彼の日常を目にしたくないと思いながら、わたしはもっと彼を知りたいと心底で欲していたのである。彼を愛しすぎていたために。

若干の不安を抱きながら約束の時間に彼の住まいを訪うと、家主は「いらっしゃい」にこやかに出迎えてくれた。自宅で寛いでいたためか、彼は稀に見る軽装でわたしのには新鮮に映った。広い玄関はすっきりと片付いていて彼以外の存在を感じさせなかった。彼によれば家人は二泊三日の旅行に今日から出掛けているとのことだった。だから家に呼んだのかと安堵したような、落胆したような、複雑な感情にわたしはひっそりと息を吐いた。

「迷わずに来られたかい」

「ええ、お陰様で」

「それは良かった。上がって」

促されてお邪魔しますと上がり込むと通されたのは彼の自室だった。部屋に入った途端、眸を惹いたのは画架イーゼルにかけられた画布カンヴァスだった。縦三十センチ横二十センチ足らずのそれは一面の碧色で満たされていた。碧色は様々な青の寄せ集めだった。わたしは近付いてつぶさに見た。

青、紺碧、青藍、瑠璃、青碧、群青、浅葱、蒼色、藍色、濃紺、天色あまいろ……それぞれの色彩はぶつかり合いながら溶け合い、混じり合って鮮やかに飽和していた。画布に置かれた碧色達は静まりながら躍動していた。しかし何を描いたのかは知れなかった。抽象画だろうか。筆跡がうねる絵の具はまだ乾ききっていないのか濡れた艶を帯びていた。彼に絵を描く趣味があったとは驚きである。

それからわたしの興味を惹いたのは棚に並んだ書物だった。大判の西洋絵画の画集や異国の風景写真集、鳥類や鉱石の図鑑、それに混じって『循環器学』と題した本が一冊あった。場違いのように棚の中に収まっている医学書が不思議に思われて、わたしは手に取った。頁を開くと心臓の解剖図がカラーで載っていた。解りやすく赤や青で色分けされた臓器が自分の中にもあるのだと意識すると妙な心持になった。

不意にドアが開く音がして振り返ると彼が「お待たせ」とトレイを持って現れた。香ばしい湯気を立てるカップを小さな座卓の上に並べながら彼はわたしの手元を見て「興味があるなら君にあげよう」と云った。

「興味というか、この本だけ何だか他と趣が違って見えたから開いてみただけですよ。循環器について勉強しようとしたのですか?」

勧められた座布団に腰を落ち着けながら本を閉じ、着たままでいた外套を脱ぐ。室内は暖房がよく利いていて少し暑いくらいだった。

「勉強はしないよ。只、心臓の解剖図が良かっただけさ。こんなにも美しい臓器が自分の中にもあると思うと何だか不思議な心地がするね」

「心臓にも美醜があるのでしょうか。人の容貌のように」

「僕はあると思う」

「あなたの心臓はさぞ美しいでしょうね」

「取り出して見せようか」

「ええ。取り出したら記念にわたしにください」

彼が悪戯っぽく笑んで頷いたので、わたしも微笑み返す。ざらついて毛羽立っていた心が凪いでゆくのを覚えながら、気になっていた画布について訊ねた。

「あれは海だよ」

「海?」

なるほど、確かにそう云われれば海に見えなくもない。

「何処の海です?」

「君が眺めていた海だよ」

告げる口調は何処となく投げやりで、素っ気なかった。不機嫌そうな気色が漆黒のの奥に見え隠れしていた。彼がこんなふうな態度を見せたのは初めてだった。しかし何が彼の気分を害したのか解らなかった。彼はわたしの言葉を待っているのか表情を失くしたまま、カップに注がれた珈琲を口にした。気まずい沈黙のうちに手をつけた飲み慣れない珈琲は酷く苦かった。落とした視線をちらりと正面に向けると彼は画布を無感動な眸で見詰めていた。何か背筋がうそ寒くなうような眸だった。

彼が露にした感情とわたしが此処へ招かれたことの意味とを考えずにはいられなかった。だが思考を巡らせても容易に解は得られない。何と云ってよいものか、言葉を捜しているうちに彼が徐に口を開いた。

「いや、よそう。すまなかった。――つまらない嫉妬だ」

「嫉妬?」

予期せぬ台詞に首を傾げて問うと彼は困ったような、はにかむような表情で頷きながら「今のは忘れてくれ給え」とすまなそうに云うのでこれ以上、追及することを諦めるより他なかった。久し振りに逢ったのだ。雰囲気を損なうのは双方にとって得策ではない。わたしは釈然としない気持ちを胸底に沈めたまま、話題を転換した。

「あなたへのプレゼントです」

持参した緑色の小さな紙袋を卓上に差し出した。

「開けても?」

「どうぞ」

彼はそっと紙袋の口を開けて中身を取り出す。

「貝殻……?」

彼は眸を瞬かせて、掌の上に載せた貝殻をめつすがめつ珍しそうに眺め遣った。

「綺麗でしょう。これはハッキ貝です」

ハッキガイは卵円錐形で長い棘がある特徴的な造形をしている。殻は硬く、全体的に淡黄色から白色で刻まれた螺旋状の溝があり、ところどころが淡い褐色に染まっていた。

「此処まで綺麗な形を残したハッキガイを海で拾えるのはかなり珍しいのです」

「そんなに貴重なものを僕が貰って良いのかい?」

「ええ。あなたにあげたくて探したのです」

「どうもありがとう」

彼は喜色を頬に咲かせて、これでようやく波音が聴けると画布に目を向けた。わたしも倣って碧が群れる油彩画に視軸を転じる。

「貝殻を耳に当てて欹てると波の音がするだろう? でもそれは貝殻から聞こえてくる音だけじゃないんだ。人の躰の中にある海からの声でもあるんだ」

「躰の何処に海があるのですか?」

「心臓に」

休むことなく、絶え間なく動き続ける心臓は、打ち寄せては遠ざかりまた打ち寄せては引いていく、激しく脈動する海そのものだと彼は云う。

「この複雑な形をした巻貝も、躰の一部だ」

白い指先が卓に置かれたハッキガイの輪郭を滑る。わたしは貝殻を見てあれは彼の耳だと思った。美しい形をした彼の耳。鼓膜の奥で眠っている蝸牛。貝殻は耳の名残だから耳に宛がうと海の声が聴こえるのだ。

彼の海はどのような色彩を持っているのだろう。波音は穏やかなのだろうか。それとも逆巻くように荒々しいのだろうか。彼の海に身を浸して溺れたい――。

「わたしに、あなたの海を見せてください」

 

**********

 

寝台の上に広げてみせる。展翅板の上に展開される美しい蟲のように僅かに躰をふるわせていた。私は腰の辺りに馬乗りになりながら晒された裸の胸部に触れる。と、ひくり、と白い喉が鳴る。静脈が青く透けて見える胸は静かに息づいていた。

「心臓の位置はこの辺りだね。中央からやや左側……胸骨と第二、第三、第四、第五肋骨の間にある。心臓を守るようにして左右に肺があって下は横隔膜が接している。大きさは握り拳より少し大きいくらいで重さは約三〇〇グラム。〇.六六一ポンドだ」

人間の海はささやかですねと笑う。

「そうだね。でも激しさは実際の海以上だ」

秘められた感情に荒れ狂い、昂ぶり、戦慄き、壊れるのではないかと恐怖するまでに鼓動する臓器。激情の坩堝である心臓には熱い血が滾っている。

「心臓が約三〇〇グラムなら魂の重さは何グラムだろうね? ああ、そう云えば、魂の重さを測ろうとした医者だか科学者だかがいたように思うけれど」

私の心臓を天秤にかけたら罪に重たく傾くだろう。

光線のせいか、蒼白い顔色の頤を捉えて囁く。

「――君の望む海を見せよう」

 

四、Sの昇天

 

……Sは眸を開けたまま夢を見ているような人でした。あの人は何処か現実ではない世界を見ながら生きているような感じでした。もしかしたらSその人自体が虚構から抜け出てきた人間なのかもしれません。Sの容貌のせいもあるでしょう。彼は現実を生きている感じがしなかった。整いすぎた顔は人形のようで時折、空恐ろしいようにも思えました。

Sがこうして死んでしまった今、わたくしは悲しみよりも驚きの方が強くて涙一滴すら出ません。こんなわたくしを非情だとお思いになりますか? 冷淡だと云いますか? でも本当に現実感がないのです。彼が死んだと聞かされても、実際に彼の遺体をこの目で見ても、恰も何かの映画やドラマを見ているようで……何から何まで、全て作りごとめいていて、まるで手応えがないのです。

だけれども、何時かこのような事態を迎えるかもしれないと漠然と考えていたところもありました。きっとSは普通の死に方をしないであろうと。実際、それが現実のものとなってしまった。

そう……、わたくしが旅行から戻ってくると家の中は妙に静かでした。Sの姿が見えないので何処かに出かけているのかと思いました。この頃は調子も良さそうでしたから。それなのに何故……、今だって信じられないくらいです。

え? ええ、そうです。結論から申せばSは愛人と無理心中したのです。

……数ヶ月前からSは左手に白い手袋を嵌めておりました。食事の時も、居間で寛いでいる時も、寝室へ退る時でさえ手袋を外すことはありませんでした。……流石に入浴時は外したでしょうけれど。とにかくわたくしの前では白手袋で常に左手は覆われておりました。不思議に思ってどうしたのかと訊ねるとSは「手荒れが酷くてね」何でもなさそうに笑っていましたっけ。

……彼はK町にある絵画教室とN高等学校の美術の講師でした。とは云っても去年の春から体調を崩してどちらも休職をしていたのですが。それでも調子が良い時は自ら絵筆を握って何やら作品を描いてる様子でした。……どうもSは肌質のせいか画材で手の皮膚が荒れてしまうようです。だからわたくしはSの言葉を――手袋をしていた理由を素直に信じておりました。

Sはある時から寝室でひとり過ごす時間が多くなりました。その時には既に愛人がいたのでしょう。何処でどう知り合ったのか……Sがつけていた日記にもきっと記されているでしょうけれど、とてもそこまでは読む気にはなれません。

わたくしとSとの間柄ですか? 特段、これといって悪くはなかったですよ。ごく普通でした。これまで関係に罅が入るような諍いがあったわけでもなく、彼の気持ちがわたくしから離れてしまった理由も正直解りません。いえ、そう思っていたのはわたくしだけだったのでしょう。何かわたくしの気に入らない部分があって、それが少しずつSの中に蓄積していったのかもしれません。それとも単純にわたくしに飽いて、やることなすこと目に余って傍にいることすら鬱陶しくなったのかもしれません。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく云ったものです。わたくしは彼の傍にいながら心変わりにちっとも気がつかないまま……さぞかし滑稽でしょうね。

Sと暮らした日々はまるで……そう、まるでおままごとのようでした。夫婦というよりは仲の良い姉弟のようでした。でもそう感じていたのはわたくしだけだったのかもしれません。人の心は解りませんわね。どんなに長く傍にいても、言葉を尽くしても……届かない、見えない領域がある。だからこそ相手を必死に理解しようと、解りたいと一心に望むのでしょう。……わたくしは結局、彼を解することができなかった。

……事件は――警察の話ではSと愛人の死因は失血死らしいのです。夥しい切り傷が胸にあったそうで。おぞましい話なのですが、どうもSの心臓を取り出そうとしていたらしい、というのが検死の見解でした。一体何のために、と思うでしょう。初めは無理心中ではなく、殺人事件ではないかと随分と混乱があったようですが、Sがつけていた日記や愛人に宛てた手紙から恐らく無理心中を図ったのだろうと……そう警察の方は仰っていました。

……Sの日記はわたくしも必要があって幾つか見せられましたけれど、日々の出来事を綴っているというよりは、ひとつの文学作品のようでした。日記すら虚構めいていました。彼は眸を開けたまま本当に現実ではない何処かを見ていたのかもしれません。いえ、きっとそうです。そうでなければ、このような事態にはならなかったと思うのです。

見せられた彼の日記には愛人のことばかり書かれていました。それがまた恐ろしくて……左手の薬指を切断しただの、右眼を交換しただのと……。ええ、実際にはそのようなことはありませんでした。これは検死の結果でもはっきりしています。只、寝台の上に置かれていたオルゴールの匣の中には指が――義指がありました。それから眼帯も……。咄嗟には意味が解り兼ねましたが、今では――恐らく二人は、そういう遊びをして楽しんでいたのでしょうね。二人だけの世界に閉じこもって。二人だけにしか見えない世界で……幼いごっこ遊びをしながら、愛し合っていたのでしょう。わたくしにはそんな世界をついぞSは見せてはくれなかった。彼の隣で同じ景色を見たかったのに……彼は別の人を連れて、逝ってしまいました。……すみません、今になって涙が出るなんて……他の誰かを愛したSを憎く思う反面、やはりわたくしは彼を愛しているようです。

……ええ、きっと今回の事件もこの遊びが発端だったのでしょうね。でも何故死に至るような真似をしたのか……誤ったというには行為がいきすぎていますし……もしかしたら、痴情のもつれ、というものなのかもしれませんわね。口にしてしまえば陳腐で酷く莫迦々々しいようですけれど。

今はとてもやるせない気持ちです。

でも、それでも。

わたくしもSが見ていた世界を少しでも垣間見ることができるなら――狂うことも、厭いません。

(了)

2022年5月30日公開

© 2022 椿蓮子

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幻想文学,耽美小説 純文学

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