熾天使

椿蓮子

小説

13,364文字

私はある日、露天商からひとつの卵を買った。それは天使の卵だと云う。私は半信半疑で露天商の云う通り、三日三晩、卵を月光に晒した。すると卵から美しい天使が孵った。私はその天使と奇妙でいて穏やかな同居生活を送る。しかしその先にあったのは――。
残酷、暴力的な表現を含みます。苦手な方はご注意ください。

1.

 

自殺日和の上々天気。死のエーテルが上空に煌めいている昼下がりに私は露天商から卵をひとつ買った。卵を買ったのはちょっとした気紛れだった。
卵は鶏卵とほぼ同じ大きさで薄蒼い色をしていた。蒼い表面に白い絵の具で雲を描き込めばシュルレアリスムの絵画のよう。ルネ・マグリットが描く奇妙に平坦な青空を思わせた。卵は掌に載せると思いの他、重量感があった。恐らくこの卵は石膏から成る模造品であろうと思われたが、露天商に因ればれっきとした卵だと云う。それも、天使の卵だと。
「嘘だと思うなら、試してご覧なさい。月の光に三日三晩、晒しておくと天使が孵化するので。何と云ってもこの卵は銀河鉄道で天から運ばれてきた特別なものなのですから」
流石に露天商の言葉を真に受けたわけではないが、彼の口上が面白かったので薄蒼い卵を買い求めたのだった。騙されたとしても銀貨コイン一枚分。惜しくはなかった。
天使の卵を陽射しにかざしてみる。美しい形をしたそれは白んだ日光の中で青みを深くする。蒼空と同化して私の手の中に空が握られているのだと一瞬、錯覚した。

――本当にこの小さな卵の中に天使が羽根を畳んで蹲っているのだろうか?

耳に宛がってもひんやりとした卵殻の質感が伝わるばかりで生命いのちの片鱗はついぞ見つけられない。卵は私の手の中で沈黙を守っていた。
私はそっと卵を外套のポケットに忍ばせて雑踏の中、帰途に着いた。

 

その夜、私は昼間買った卵を窓辺に置いた。部屋の灯りを消して月光が良く届くように窓を開けた。南のそらには十六夜月が檸檬色に輝いて鎮座していた。温度のない冴やかな月影は澄明に透って蒼白く、卵殻の色をあおぐろくさせて、卵と云うよりは何かの鉱物のように見せていた。私は窓辺に凭れ掛かって置いた卵を指先で弄んだ。僅かに揺れるそれに「本物なら出ておいで」戯れに話しかけて、しばしば欠けた月輪を仰いだ。月も卵も何も語りはしなかった。夜の静寂だけがあった。私は時折吹き込む柔らかな夜風に身を委ねて眸を閉じた。夜はいつだって、優しい。そのうちに私はねむりへと滑り落ちてゆく。

 

**********

 

卵を買ってから三日目。今夜も昨日と同じように窓辺に卵を置いて、月明かりに晒した。今のところ特に変化は見られなかった。薄蒼く、冷たいまま、頑なに沈黙を纏っていた。月が少しずつ翳に侵蝕されながら朔月へと向かっていくのを私は窓辺に倚って眺めた。
いつの間にか私は卵に愛着を持つようになっていた。家を空ける時は鞄や外套のポケットに忍ばせて持ち歩き、時々そっと取り出しては矯めつ眇めつ眺めた。また親しい友人を捕まえては子供のように見せびらかして「銀河産の天使の卵だよ」嘯いてみせた。勿論、相手は苦笑いをするばかりではあったけれど。
「本物なら出ておいで」
すると僅かに卵がふるえた――ように見えた。もう一度、話しかけてみる。――本物の天使なら卵から出ておいで、と。しかし卵は何も応えなかった。やはり錯覚だったらしい。私は深く息を吐いて、開け放っていた窓を閉じた。月が遠くなった気がした。
「おやすみ」
誰に向けるでもなく呟いて寝室へと引き上げた。
翌日、卵のままであったなら――そこまで考えて睡魔に意識が途切れた。

 

2.

 

「最近全然連絡をくれなかったね。どうしてたの? 忙しかったの?」
テーブルを挟んで目の前に座る久し振りに逢う恋人は両手で白磁の珈琲カップを持ちながら小首を傾げる。
「そういうわけじゃないけど……」
フォークの先で萎びたクレソンを弄りながら、曖昧な返答をしたのを後悔した。すかさず彼女は「じゃあどうして」どこか恨めしそうな眼付で言葉を重ねる。向けられる視線には猜疑の色が濃く滲んでいた。私は居心地が悪くなってフォークを手放し、皿をテーブルの隅に押し遣ると、メニュー表を開いて「デザート何か食べる?」そっと相手を窺い見た。
「私はいいや。お腹いっぱいだし」
「そう」
私は広げたメニュー表を順に繰りながら所狭しと並ぶ料理の写真をゆっくりと隅から隅まで眺めて、結局追加オーダーすることなくメニュー表を閉じた。その頃には彼女は機嫌を持ち直していて、ふと思い出したかのように「そう云えば」とテーブルに身を乗り出す。
「前に云っていた、あれ。ほら、卵がどうとかって云っていたでしょう。あれ、どうなった?」
「ああ、その話。いや、どうもしなかったよ」
「そうなの?」
「うん。露天商の話は嘘だったよ。まあ当然だよね」
「なあんだ。そっかあ。残念。本物の天使が見られると思ったのに」
彼女は眉尻を下げて笑う。化粧を施した彼女の微妙にアシメトリーな顔を見詰めていると耳の奥で黒い翼が羽搏はばたくのを聴いた。
呼んでいる――こうなるともういけなかった。今すぐ店を飛び出して自宅に戻りたい衝動に駆られた。早く家に帰らなければ。早く早く。
「ごめん、用事を思い出したから帰るよ」
「何で。この後買い物に付き合ってくれるって約束したじゃない」
「うん、だからごめんって。また後日埋め合わせはするから」
本当にごめん――私は詫びながら食事代を彼女に渡して、尚も呼び止める恋人の声を振り切って逃げるようにファミリーレストランを後にしたのだった。

「ただいま」
リビングルームへ直行すると部屋の隅に蹲っていた彼は――もしかしたら彼女なのかもしれないが、定かではない。便宜上A氏としておく――立ち上がって微かに笑んだ。これがA氏なりの「おかえりなさい」なのだった。
そう、A氏はあの卵から孵化した天使なのであった。露天商が告げたことは本当だったのである。私は恋人に嘘を吐いたのだ。
月明かりに晒した三日目の晩は何事も起こらなかった。翌朝、目が醒めてみるとリビングルームにA氏がいたのである。卵は割れてもぬけの殻だった。
A氏は背が高く、彫の深い顔立ちで、肉の薄い躰を黒衣に包んでいた。背に生えている翼も大鴉の如く真っ黒で、片翼を広げるだけでも優に二メートルほどにもなった。私は天使と云うと、眞白き翼や清らかで端麗な容姿を思い描いていたので、A氏を初めて見た時は些か期待を裏切られたような心地がした。漆黒の爪や翼、その髪色が禍々しい印象を強めていた。とは雖も、A氏の容貌は高名な彫刻家が丁寧に石膏から切り出した如く、端正であった。特に両の眼は嵌め込まれた貴石が蒼く輝くようだった。人間離れした神秘的な佇まいは確かに天使と云うに相応しかった。
「良い子で留守番してた?」
A氏は小さく頷く。A氏は私の言葉を解すが、どう云うわけか言葉を操ることは出来ないようだった。筆記も不可。しかし不便はない。こう云っては何だが、A氏はペットの犬や猫のような存在で、相互に言葉を介した意思疎通が出来なくとも構わなかった。尤も愛玩動物と違うのはA氏は食事も必要としない点である。飲まず食わずでどのように生命維持をしているのか全くもって謎であったが、天使なのだからそう云うこともあるだろうと半ば強引に納得することにした。
A氏は只静かに私の傍にいた。独り暮らしに慣れてしまった私にとって、A氏との暮らしは悪くなかった。寧ろ居心地が良いくらいである。これが恋人の彼女との同棲生活であったなら、これほどまでに快適ではなかっただろう。相手の都合や価値観がある。それらを上手く擦り合わせなければ生活は立ちゆかない。
私はA氏と暮らし始めてから、恋人をやや疎ましく感じ始めていた。彼女はあれがしたい、これが欲しいなどと私に対する欲求が多いことこの上ない。その反面、A氏は私に何も望まない。何も云わない。A氏の従順な静けさを好ましく思った。それから完璧とも云える白いかんばせも。A氏に比べれば恋人は疎か、どんな美男美女も霞んでしまう。私はA氏の蒼い眸が一等、気に入っていた。

部屋着に着替えて、小さな棚から本を取り出し、ソファに座って広げる。するとA氏は刷り込み効果よろしく、雛鳥が親鳥を追いかけるようにして私の隣に腰を下ろした。この点も愛玩動物めいていて微笑ましい。いつもA氏は私の後を追ってついてまわる。ついて来ないのは外出時と風呂、トイレくらいである。
A氏は興味津々とばかりに本を覗き込む。
「君のことが書いてやしないかと思って」
これまで知らなかったのだが、天使には色々あるらしい。役割や階級など様々である。一般的に有名なのはキリスト教に登場する大天使であろうか。ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエル――所謂四大天使である。大天使は偽ディオニュシオスの『天上位階論』では大天使は二枚の翼を持ち、助祭司のような姿で神と人間を結ぶ連絡係、あるいは天使軍の兵士として使われるとある。大天使は意外にも位階的には低く、上から八番目である。しかし一方で四大天使は階層には捉われない特別な天使でもあるらしい。
また天使の最上位は熾天使と呼ばれ、神に最も近い存在とされており、悪魔であるサタンも堕天使となる前は熾天使の位に属していたと云う。熾天使は三対六枚の翼を持ち、二つで頭を、二つで躰を隠し、残りの二つの翼で羽搏くとされている。熾天使には『破壊する』『焼却する』『火をもたらすもの』『暖かさをもたらすもの』と云う意味もあるのだとか。想像を絶するまでの輝きと明るさを有し、玉座にいる神の上を舞っている――最上に相応しい光に満ちた天使。
A氏が実際、どのような天使なのかは判らないが、私は思うのだ。A氏は気高く誉れ高い、熾天使なのではないかと。強く輝く蒼い双眸が酷く美しい故に。そして身を包む深い漆黒が闇の玉座に君臨するサタンのように思えた。美貌のルシフェル。
「そうだ。これから君をルシフェルと呼ぼう。どう?」
A氏――ルシフェルは頷いて口元に薄笑みを浮かべた。無邪気な反応がほのぼのと胸中を温めるようだった。

 

 私はリビングルームのローテーブルでルシフェルと差し向いになって夕食を食べた。無論、ルシフェルは何も食べない。私が適当に茹でたパスタを口に運ぶのを不思議そうに見ているだけだ。喉の渇きも知らず、空腹も知らない生とはどのようなものだろう。食べる楽しみが無くなってしまうのは人生に於いて味気ない気がするが、  しかし案外快適なのかもしれない。少なくとも食費のことを考えなくて済むのは気が楽ではある。
食事が粗方終えた頃、スマートフォンが鳴った。見ると着信は恋人からだ。昼間のことを思うとやや気が重かったが、電話に出ることにした。そうしなければ、執拗しつこく電話やメッセージが送られてくるのが目に見えていたから。彼女は粘着質な部分があった。
「はい」
『あ、もしもし? 今近くまで来てるんだけど、ちょっと寄って良いかな? 美味しそうなケーキを見つけたから買ったんだ。一緒に食べようよ』
「悪いけど、これから風呂に入るから。もうお湯入れちゃったし」
『そう? それなら上がって来るまで待ってるよ。部屋で待たせて』
「いや、今日は僕も疲れたし、明日もあるし。悪いけど帰ってくれないかな。昼間も云ったけど、また埋め合わせは後日ちゃんとするから」
それだけ云って電話を切ろうとすると『もしかして、部屋に誰かいるの?』鋭い声が鼓膜に切り込んだ。私は一瞬、言葉に詰まった。と、彼女は私の沈黙を是と受け取ったのか不満――怒りを滲ませて早口で捲し立てた。
『ほらやっぱり。最近全然連絡くれなかったのも、その人のせいなんでしょう。そうなんでしょう、ねえ? 私に隠れて別の女性と会ってたんでしょう? そうなんでしょう? 今日だって急に帰っちゃったのも、その人とデートの約束をしていたからでしょう? で、今は二人で部屋で何してるの? 私に云えないようなことでもしていたんでしょう。ねえ、誰なの? 一緒にいる人は?』
「あのね、君が思っているような人はいないよ。僕独りだよ。君の思い違いだよ」
『じゃあ、良いじゃない。今から部屋に行くから』
「待って」
『何? 私が部屋に行ったら拙いことでもあるの? 今独りなんだよね?』
「それは、そうだけど……」
曖昧に答えながら念頭にはルシフェルの存在があった。他者に見られるわけにはいかない――咄嗟にそう思ったのだ。彼女に一切ルシフェルの姿が見えなければ問題の解決は容易だが、実際どうなのか知れなかった。私は天使の存在を隠しておきたかったのだ。彼女の――誰かの好奇の目に晒されるのが我慢ならなかった。それは或る種の感情が奇妙に歪んで生じた独占欲だった。誰かの視線に晒されれば、熾天使の最上の美しさが損なわれてしまうと本気で考えていたのだ。
耳に宛がったスマートフォンから忌々しそうな声音が聞こえてくる。私のことを浮気者だとか薄情だとか、過去に抱いた不満まで持ち出して、ついには聞くに堪えない罵詈雑言が投げつけられた。脳の奥でぐちゃりと熟れた果実が踏み潰される音を聴いて、私は画面をタップして通話を切った。ソファの上に小さな機械を放り投げる。ルシフェルは僅かに眉根を寄せて蒼い眸で私を見ていた。
「ごめん、別に何でもないから」
言い訳めいた言葉を吐きながら奇妙な思いに捕らわれた。が、それも束の間。再びけたたましくスマートフォンが鳴り出した。彼女の名前を見るのも厭で、スマートフォンの上にクッションを乗せた。少しだけ音が遠ざかる。しかし着信音は途切れることなく鳴り続けた。ルシフェルは音が気になるのかソファをちらちら見て私の顔を窺う。
「そのままで良いよ。そのうち静かになる」
そうしているうちにインターホンが鳴った。きっと彼女だ。私はほとほとうんざりした。彼女は蛇のような執念深さで玄関の前に立ち、インターホンのボタンを押しているのだろう。相変わらずクッションの下でスマートフォンは鳴り続けている。ドアをノックする音も聞こえ始めた。だが私は応じるつもりはなかった。
全て無視をして彼女が立てる耳障りな音から逃れるように浴室へと向かった。
頭からシャワーを浴びながら、
「――良いのに」
呟きは水音に紛れて、排水溝へ流れてゆく。

 

風呂から上がると照明を落としたリビングルームの窓辺にルシフェルが佇んでいた。そっと足音を忍ばせて歩み寄るが、気配に気が付いたらしいルシフェルが僅かに振り返る。
「何を見てたの?」
横に並んで立ち、窓の外に視線を投げる。と、黒く長い爪先が濃紺のそらに浮かんだ月を指す。薄らと蒼く輪郭が燃えている満月は滴るような澄明さで太陽の死んだ光を放つ。月華に白く褪めたルシフェルの横顔には何の表情も浮かんではいなかった。一心に遠く離れた天体を見詰めているふうであった。ふと露天商の言葉を思い出す。

――何と云ってもこの卵は銀河鉄道で天から運ばれてきた特別なものなのですから。

「天が懐かしい? 帰りたいと思う?」
するとルシフェルは緩く頭を振って、おずおずと云った風情で手を伸ばし、軽く私の手に触れた。温度のない手、褪めた膚に心臓が慄える。人ならざる者――蒼い双眸に縛されて刹那、呼吸が止まった。俄かに生じた畏怖と畏敬。月光に映える天使の美貌は手を触れれば鋭く切り付けられる気高さがあった。私はゆっくりと冷たく、骨ばった手を握った。ルシフェルは淡い笑みを口元に浮かべて柔く手を握り返してきた。と、不意に頭の中に言葉が音楽となって響いた。

 

――聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
昔在むかしいまし、今在いまいまし、後来のちきたりたまふ主たる全能の神

 

言葉は重なり合い、残響が乱反射し、玲瓏とした旋律を生み出す。荘厳な賛美歌の如く耳の奥で、脳を揺るがすように鳴り響いた。それは少しずつ鎮まって、やがて消えた。時間にしてほんの数秒、否、瞬きくらいの時間だったかもしれない。生気のない手を離す。
「これは一体……?」
ルシフェルは何も答えない。只、謎めいた微笑を片頬に潜ませるだけであった。それからルシフェルは窓に向き直る。眸は月に注がれていた。何を思って月を見ているのだろう。私は少しの間、気が抜けたようになって塑像のような白い貌を見詰めていた。

 

3.

 

それからルシフェルとの奇妙とも思える生活は淡々と過ぎた。相変わらずルシフェルは美しく、漆黒を纏い、一言も発話することもなく、沈黙をしたまま静かに私の傍にいた。表情が乏しいながらも時折見せる淡い微笑みが私に一種の優越感と癒しに似たものを齎した。私は以前にも増してこの黒い天使に夢中になった。家を空けるのも必要最低限にし、日がなルシフェルの傍で本を読みながら過ごした。
一度戯れにルシフェルにカメラを向けたことがあったが、何故か映らなかった。やはり天使――霊的な存在に近いせいなのだろうか。私には実体が知覚出来ているが、他の人間にはそうではないのかもしれない。それでも家族や友人らを部屋に上げることはしたくなかった。どんな容喙も赦し難かった。ルシフェルと共にしている部屋、空間は閉じた楽園のように感じていた。二人だけの世界。時間の流れが緩慢になり、規則正しく運行している太陽と月、昼と夜も曖昧になる。確かなのは遥か彼方から使わされ、卵から産まれた物云わぬ熾天使だけ。今や私はルシフェルだけだった。恋とも愛ともつかぬ激しい執着を抱いていた。

或る雨の日。
私は何時ものようにソファに腰掛けて本を読んでいた。隣にはルシフェル。細い首をやや傾げて興味深げに紙面を覗き込む。稚気ある様子を微笑ましく思いながら「気になる? 『小鳥でさへも巣は恋し、/まして青空、わが国よ、/うまれの里の波羅韋増雲パライソウ。』テオドール・オーバネルと云うフランスの詩人の詩だよ。波羅韋増雲――天国のことだ。君の故国だね」そう云うとルシフェルは腕に縋るように身を寄せてくる。すると以前と同じように言葉が音楽となって鳴り響いた。

 

――我らの主なる神よ、栄光と尊祟と能力とを受け給ふはうべなり。
汝は万物を造りたまひ、万物は御意みこころによりてそんし、かつ造られたり。

 

形容し難い妙なる調べが脳の奥で、鼓膜の奥底で響く。一瞬間が引き延ばされて六十進法が崩れる。音楽は複雑な残響を引き摺りながらやがて鎮まってゆく。
突如スマートフォンが鳴動して不思議な余韻から現実に引き戻された。画面を見ると恋人からの着信だった。名前を見るだけで苛立ちが芽生えた。
先日の諍いの後も、彼女は執拗くメッセージや電話を寄越した。私は一切応じなかった。彼女のことが赦せなかった――と云うよりは、興味が無くなってしまったのだ。もう恋人としても愛していなかった。私の心を占有しているのは漆黒の美貌――ルシフェルだけだった。無視を決め込んでいればそのうち相手も諦めるかと思ったが、はっきり自分の気持ちを伝えない限り、彼女はこれから先も執拗に連絡してきたり、無遠慮に部屋に押しかけて来るだろう。気が進まなかったが、別れたい旨を伝えるためにソファから立ち上がって電話に出た。苛々と部屋を無意味に歩き回る。
「はい」
『もしもし? 森川さんかしら?』
「ええ、そうですが。あの……失礼ですが、何方様でしょうか?」
彼女が出ると思ったら、全く知らない人の声が耳に飛び込んできた。丸みのある柔和な声色に覚えがなかった。
『突然ごめんなさい。美和の母です。娘がお世話になっています。森川さんのお話は娘からかねがね……あの、森川さん』
「はい? 美和さんが何か……?」
『……美和が……、美和が――』

――え?

私の手からスマートフォンが滑り落ちた。硬質な音を立てて床に転がった小さな機械から尚も彼女の母親の嗚咽交りのくぐもった音声が流れる。しかし私の頭は今し方聞いた衝撃的な言葉に思考も感覚器官も麻痺してしまって、只呆然と立ち尽くすだけであった。

 

その日の夜、ベッドに潜り込んでもなかなか寝付けなかった。何度も寝返りを打つ私を床に座り込んでいるルシフェルはどこか気遣わし気な眼付で見た。
「心配してくれてるの?――ありがとう」
私は起き上がってベッドの縁に腰掛ける。と、ルシフェルも隣にやって来て肩に身を凭れ、右の翼を広げると私の躰を包み込むように抱いた。黒い翼に覆われると仄かに温みを感じた。初めて感じたルシフェルの体温。無造作に置かれている手に触れてみると変わらず冷たかった。
「……死んでしまったって。彼女。電車に轢かれて。死んだって。彼女が――」
自ら線路に飛び込んだのか、足を滑らせて落ちてしまったのか――少なくとも、遺書は見つかっていないらしい――その点はまだ判然としないらしいのだが、ともかくも、彼女は死んだ。電車に轢かれてバラバラになってしまった。もう戻らない。
「……この間、彼女と喧嘩した時……あの時、彼女が死ねば良いと本気で思ったんだ。そうしたら本当に死んでしまった。本当に、死んだ」
云いながら苦い後悔がせり上がってくる。彼女の死が単なる偶然だとしても一度でも願った死が、現実になってしまったことへの重たすぎる後悔の念や後味の悪さに圧し潰されそうだった。誰かに否定して欲しかった。悪いのは貴方ではない、貴方は彼女の死と関係ない、何も、と。
気が付けば片眼から涙が流れていた。あれほど厭うていた彼女の死を悲しんでいる自分がおかしかった。泣きながら、頬濡らす雫が本当に彼女を悼んでいるのか疑わしく思った。只自分を哀れんでいるようにも感じられた。だが確かに喪失の痛みは鋭利に胸を刺していた。いまだに信じられない思いを引き摺ったまま。
不意に白い手が頬に触れた。ルシフェルの一点の曇りもない蒼い眸と出会う。微かに薄い唇が動く。何かを伝えようとしているのだろうか。私はルシフェルの口元を凝視した。
「……あ……なた……は……な……にも……わ……るくな……い……」

 

――アナタハナニモワルクナイ。

 

ルシフェルは微笑む。どこまでも優しく、慈悲深く。新たに視界が滲み出すのを抑えられなかった。私はみっともなく、痩躯に縋りついて子供のように泣いた。
窓の外で雨はまだ降り続いている。

 

4.

 

彼女の母からの知らせを受けた私は献花を携えて彼女の実家を訪れた。遺体の損傷が激しかったのもあり、葬儀は身内だけで済ませたと知らされた。母親が云うには彼女の死は結局、事故として処理されたらしい。自殺の決め手となる遺書やそれらしい証言が周囲の人間から得られなかったのがその理由。彼女の恋人であった私のところにも事情聴取として警察から連絡が来た。殆ど形式的なそれに淡々と答えたのは記憶しているが、実際に何を喋ったものか憶えていない。
彼女は白い箱の中にひっそりと収まっていた。真新しい線香が焚かれ、位牌が並び、遺影の中で彼女は飛び切り明るく笑っていた。その写真には覚えがあった。二年前、一緒に旅行へ行った時のものであった。まだ満ち足りて幸福だったあの頃。
私は神妙な気持ちで彼女に花を捧げ、手を合わせた。そうしながら謝罪の言葉を胸中で繰り返した。――今更もう遅すぎるけれど。
私は彼女が死んでから塞ぎがちになった。彼女が亡くなった悲しみ、喪失感と云うよりは、強い罪悪感から気鬱になった。彼女の死を一度でも願ったこと、彼女を冷たくあしらったこと、大事にしなかったこと、きちんと向き合わなかったこと……。そして毎晩見る酷い悪夢が憂鬱感に拍車をかけた。

 

雑踏が溢れかえる朝の駅のプラットフォーム。彼女は鞄を抱えて白線ぎりぎりの位置に立って俯いていた。誰も彼女に関心を持っていなかった。彼女を見ていなかった。電車の到着時刻が迫るにつれて乗客がプラットフォームを埋め尽くしてゆく。彼女は手にしていたスマートフォンを外套のポケットにしまうと電車がやって来る方向を覗き込むようにして見た。まもなく電車が到着するというアナウンスが流れる。ざわめきに満ちた朝の空気が一瞬、緊張する。電車の轟音が近付いて来る。彼女は少しだけ白線から離れる。電車の先頭がプラットフォームに突入する。刹那、彼女のすぐ後ろを黒い影が素早く掠めた。次の瞬間、彼女の躰が宙を舞った。彼女の躰がスローモーションのようにゆっくりと電車の車両の前に躍り出る。時間が引き延ばされ、緩慢になり、一時停止し、再び六十進法を取り戻して時計の針が進む。彼女の躰は電車に当たり、砕けた。激しい衝突音と轟音、プラットフォームからは耳を劈くような悲鳴。血飛沫が先頭車両の窓を汚す。電車は徐々に減速しながらも線路に落ちた肉体を轢いて無惨にバラバラに解体してゆく。頭がむご たらしく割れた彼女は眼窩から零れた眼球で天を睨んでいた。息絶えた視線の先には一羽の大鴉が旋回し、禍々しい啼き聲を発してやがて遠くに飛び去っていく……。

 

このような夢を毎晩のように見ては魘されて飛び起きた。彼女の死の瞬間を目撃していないのにも拘わらず、夢の中の映像は鮮明でリアルだった。否、その瞬間を見ていないからこそ、妙に想像力が逞しくなって奇妙なほど現実味を帯びた夢を見るのかもしれなかった。
夢の中で何度も何度も彼女が死ぬ瞬間が再現され、覚醒時でもふとした瞬間にその映像が目の前をちらつくようなこともあった。どこまでも追いかけて来る悪夢はそれこそ「お前のせいで彼女は死んだ」と云わんばかりであった。
市販の睡眠導入剤を酒で流し込んでも効き目は芳しくなかった。浅い睡りを繰り返し、睡眠不足のために睡りを欲しながら、睡るのが怖い――一種の恐慌状態に陥っていた。朝を憎みながら夜を恐れていた。

 

 そんなふうにして過ごしていた或る日、友人から連絡があった。久し振りに逢わないかとの誘い。他にも数人誘っているという。飲み会である。あまり人に逢いたい気分でもなかったが、気分転換には良いかもしれないと思い直して、了承した。
約束の時間に指定の店に行ってみると既に友人らは集まっていて、私の顔を見るなり「森川、久し振り」口々に云った。私は空いていた席に腰を落ち着けて愛想笑いをしながら応じた。
それぞれ酒や料理を頼み、乾杯をした後には当然のように友人達から労わりの言葉をかけられた。皆、亡くなった彼女とは顔見知りであった。一様に早すぎる彼女の死を悼み、私にもお悔やみを告げた。私は酒を飲みながら友人達の親切心に感謝しつつも、いつまでも彼女について話題にされるが苦痛だった。心の奥底で自責の念が疼いていたから。無論、友人達は私が彼女の死を願ったことなど露程にも知らない。彼女との思い出話は私を責め苛んだ。が、私は只追従笑いを浮かべて酒を飲んでいた。そのうちに話題は友人等個々の近況報告やネット上で話題になっている映画やドラマの話に移ろってゆく。私は適当に聞き流しながら、料理をつついていた。
酒杯を重ね、酔いが回り、料理を粗方食べた頃、そう云えば――思い出したように瀬山が呟いた。
「俺、あの時――何か変なものを見たんだよね」
「変なもの? あの時?」
「何々? お得意の幽霊でも見たの?」
「確か瀬山は霊感があるんだっけ?」
「霊感って本当かなあ。単なる気のせいとかじゃないの?」
「本当に変なものを見たんだよ。信じて貰えないかもしれないけど。――それで。菊池が亡くなったって云う日」
「え? 何、美和ちゃん?」
一瞬、沈黙が落ちる。
「――美和が、どうかしたの?」
慄えそうになる手を膝の上できつく拳を握って話の先を促すと瀬山は少々ばつが悪そうに視線を彷徨わせる。少しの間躊躇うふうであったが、再度訊ねると彼は徐に口を開いた。
「あ、いや、菊池が亡くなった日なんだけど、偶々駅のホームで見かけたんだよ。電車がそろそろ来そうな時間で。アナウンスが流れてた。声を掛けようと思ったら、彼女の背後に黒い影が立ってて。何て云うのかな、大きな鴉みたいな。翼みたいなものがって、明らかに人間じゃなかった。でも皆気が付いてなくて。勿論、菊池も。だから何か変な霊――あれが実際何なのかは俺も判らないけど。何となく良くない気がしたから慌てて菊池に近寄ろうとしたら、突然菊池の躰が線路に飛び出して……俺にはあの黒い影が菊池を突き落としたように見えたんだ。その後はもう凄いパニックで。その翼のある影はいつの間にか消えてた。後から警察にも簡単に事情聴取を受けたけど、その時に彼女は誰かに押されたかもしれないって伝えたんだ。でも警察側はそう判断はしなかったみたいだね。やっぱりあれは防犯カメラに映ってなかったのかな」
私は彼の言葉を聞いて呆然となった。血の気が引いてゆく。 黒い影。
大鴉の如き翼。 ――真逆。

「森川君、大丈夫? 顔色が真っ青だよ」
「悪い、俺がこんな話をしたから……」
「いや、僕はもう帰るよ。またそのうち逢おう」
財布から紙幣を取り出してテーブルに置くと、私はその場から逃げるように外へ飛び出した。

 

速足で歩く。蟀谷こめかみが脈拍に合わせて痛んだ。心臓が狂ったように鳴っていた。

――真逆真逆真逆真逆真逆。

あり得ないと思う反面、瀬山が語った翼のある黒い影はルシフェルなのではないかと直感的に思った。彼女が死ねば良いと願ったのをルシフェルが実行したとしたら?

――時に天使は人間の願いを聞き届ける。

脳裏にルシフェルの輝く蒼い双眸が閃く。表情の乏しい白い貌と彼女の遺影で見せていた笑顔が重なり合い、混じり合って、やがてあの悪夢へと形を変えてゆく。ルシフェルが彼女の背を押し、小柄な躰がスローモーションのようにゆっくりと電車の車両の前に躍り出る。時間が引き延ばされ、緩慢になり、一時停止し、再び六十進法を取り戻して時計の針が進む。彼女の躰は電車に当たり、砕けた。激しい衝突音と轟音、プラットフォームからは耳を劈くような悲鳴。血飛沫が先頭車両の窓を汚す。電車は徐々に減速しながらも線路に落ちた肉体を轢いて無惨にバラバラに解体してゆく。頭が酷たらしく割れた彼女は眼窩から零れた眼球で天を睨んでいた。息絶えた視線の先には黒い天使が禍々しい笑みを唇に刷いて彼方に飛び去っていく――堪らず道端の隅に蹲って嘔吐した。嘔吐えずく苦しさに涙が滲む。再び酸っぱいものが込み上げて来て胃の中のものを土瀝青アスファルトにぶちまけた。吐くものが無くなっても吐き気は容易に治まらなかった。土瀝青を汚す吐瀉物が彼女の血や肉片、脳漿に錯覚し、新たな吐き気を連れてくる。私は長い間、夜道に蹲って胃液を吐き続けた。

 

自宅に帰るとルシフェルが微笑を浮かべて出迎えた。ルシフェルの顔を見た瞬間、怒りが猛然と肚の底から突き上げた。乱暴にルシフェルの胸倉を掴んで力任せに頬を打った。
「お前が……お前が美和を殺したんだろう⁉ 駅のホームから突き落としたんだろう⁉」
ルシフェルは無表情で私を見る。蒼い眸はどこまでも冷たく透き通って輝いていた。真っ直ぐに向けられる尋常ならざる眼眸まなざしに怖気が立って掴んだ胸倉を解放した。するとルシフェルは眉一つ動かさず、静かに私を指さした。微かに薄い唇が動く。

――アナタガノゾンダコト。

「僕のせいだって云うのか⁉ 違う! 僕じゃない! お前のせいだ! お前が美和を殺したんだ!」
私は叫びながらルシフェルを拳で殴打した。床に引き倒して細い首を掴み、両手で締め上げる。ルシフェルは抵抗しなかった。それが猶更怒りを煽った。満身の力を込めて首を絞めながら、頭を床に叩き付ける。何度も何度も。そうしているうちに残忍な高揚感が私を包み込む。加虐が加速する。頭を打ち付ける鈍い音が響き渡る。それでもルシフェルは無抵抗であった。
「お前も死ね! 死んでしまえ! 死ね死ね死ね死ね死ね!」
絶叫しながら、汗を流しながら、涙を流しながら、笑いながら、ルシフェルを痛めつけた。だが黒い悪魔は少しも損なわれることはなかった。私の体力の方が先に尽きてしまった。首を縛めていた手を緩めるとルシフェルは唇の端を吊り上げて嗤った。と、ふっと目の前から悪魔の姿が掻き消える。悪魔を探して視線を彷徨わせるとリビングルームの向こう側――ベランダの外に大きな翼を広げて立っていた。満月にルシフェルの表情は暗く窺えなかったが、只見開かれた蒼い双眸だけが強く輝いていた。
「待て!」
私はルシフェルを追ってベランダに出る。天へ飛び立とうする悪魔を捕まえようと手をのばした瞬間、躰が大きく傾いだ。世界が逆さまになる。あっと思った時には遅かった。私は地面に向かって墜落してゆく。時間が引き延ばされ、緩慢になり、一時停止し、再び六十進法を取り戻して時計の針が進む。私は落下していく。頭上から蒼い眸が無慈悲に見詰めている。私の死ぬる瞬間を。地面に躰を叩き付けられて砕ける瞬間を。

 

――聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
昔在し、今在し、後来りたまふ主たる全能の神

 

言葉は重なり合い、残響が乱反射し、玲瓏とした旋律を生み出す。荘厳な賛美歌の如く耳の奥で、脳を揺るがすように鳴り響いた。
最後に見たルシフェルはこの上なく美しく微笑んでいた。

 

自殺日和の上々天気。
死のエーテルが上空に煌めいている昼下がり。
土瀝青に広げた赫い翼の死天使は眼窩から零れた眼球で一心に天を睨んでいた。

(了)

 

2022年5月30日公開

© 2022 椿蓮子

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