招かれて通された座敷は暗かった。僅かな光源は庭に面した硝子戸から差し込む蒼い月光。十六夜月に室内は黝く打ち沈んでいた。
「此方でお待ちください」
抑揚のない声音で女は告げ、来客に座布団を勧めると戸口で頭を垂れて静かに襖を閉めた。調度品が取り払われた十畳程もある座敷に独り取り残された雨宮は電燈を付けようかと一旦、立ち上がったが、何となく気後れがして再び座布団の上に端座した。庭に視軸を放つ。庭木が繁る其処も蒼い闇に包まれ判然としない。只、或る一画がとろりとした光を放って、池があることを示していた。耳を欹そばだてれば確かに水音がする。しかし雨宮が目的としているものはありそうになかった。
怪訝に頭を捻りながら尚も硝子戸の向こうへ眼を向けていると不意に襖が開く音がして雨宮は背後を振り返った。
「やあ待たせたね」
朗らかに笑って現れた蘇芳は風呂に入っていたのか、髪が濡れた艶を帯びていた。仄かに清潔な匂いが動いた空気と共に馨った。蘇芳は雨宮の向かいに胡坐をかいて座る。白い浴衣の裾が捲り上がって向う脛があらわになり、夜闇に痛いほどの彼の膚色に雨宮は一瞬、胸を衝かれた。が、それと悟られぬようにそっと目線を逸らして、努めて不満げな口吻で云う。
「何だい、これから花見をしようというのに風呂に入っていたのか。それじゃあ湯冷めするよ。――抑々、此処の家には桜の樹はなさそうだが。一体何処で花見をするんだい」
雨宮は先日、蘇芳から花見に来いと云われて彼の自宅にやって来たのであった。花見客で賑わう屋外より静かに桜を愛でられると雨宮は喜んで蘇芳の誘いに応じたものの、実際はこの通りである。桜のさの字さえない。すると蘇芳は「云ったろう、特別な桜を見せるって」白歯を覗かせると雨宮に背を向けた。顔を俯ける。硝子戸を透る月華が細い背中を照らし出す。
「蘇芳、何を――」
云いかけて、雨宮は瞠目した。
徐に諸肌脱いだ蘇芳のその膚一面に桜の花が爛漫と咲き乱れていた。浮かび上がる骨と筋肉の隆起に桜花は宛ら風に吹かれているよう。白皙に咲いたそれは血汐を吸って浮き出る特殊に彫られた刺青であった。華やかで艶なそれは蘇芳の膚を艶めかしく彩っていた。誘うように、眩暈のように、幻惑する桜花に雨宮は言葉を奪われ、瞬きすら忘れて魅入っていた。蘇芳が云ったように確かに『特別な桜』ではあった。
雨宮は引き寄せられるように蘇芳の背に手を伸べ、指先で触れてみた。僅かに蘇芳の肩先が揺れる。血汐で染められた桜の花は生きて、呼吸をしていた。触れた指先が、熱い。
「――雨宮。君が望むなら、この桜を手折っても良い」
どうする――振り返る蘇芳の眸は戯れの色を帯びながら、見詰める視線には熱情と懇願が宿っていた。もう逃げることも隠すことも出来ないのだと雨宮は悟って、詰めた息をゆっくりと吐いた。
「差し出された花を無下にする程、俺は無粋ではない心算だ」
膚に刻まれた永遠に散らぬ桜は夜毎、滾る血に咲いて見せる。艶やかに、妖しく。唯一人の桜人のために。
(了)
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