むらさきうさぎ

吉田佳昭

小説

13,982文字

なんか書きました。暇があれば是非読んでみてください。意外とプロットを作って書いた初めての作品です。
追記:段落が直せなかったので許してください。
再追記:なんか段落直りました。あと"Purple Rabbit"というのが出来たので、一緒に聴いてみてね。

https://jacco.bandcamp.com/album/purple-rabbit

 朝八時、僕はいつもと変わりない朝を迎える——とても陳腐な表現であるが、僕の朝はとても規則正しいから仕方ない。それは主観としてではなく客観として捉えても同様のものであり、それ故に僕はこの朝が何回目なのか知ることはなかった。朝の光は眩しく、僕は顔をつい背けてしまったが、次第に目が慣れていき、気づいた頃には今日の朝も好きになっていた。繰り返しは人の好物として君臨しうる。
 僕は少し重い瞼を右手で擦り、左手をぐるぐる回しながらリビングに向かうと、庭に通じる大きな窓から日華がじんわりとフローリングを暖かに撫でているのが真っ先に見えた。暖められた床は僕を優しく迎えてくれるのであり、冷たい体で朝を知る僕にとってはとても心地よい経験であった。
 僕はリビングと、カウンター(パーティーの時にしか使わない)を境目にして存在するキッチンへまっすぐ向かった。キッチンの隅にある冷蔵庫からタッパーに入ったインスタントコーヒーの粉末を取り出し、そしてガスコンロの上に置いたままにしていた薬缶を取り、注ぎ口に直接水を流し込み、呼子の蓋を閉じてコンロに再び置き、火をつけた。日課として僕は毎朝コーヒーを作り、それをカウンターとテレビに挟まれるようにして配置されたテーブルについて飲むことにしていた。そうしてテレビで昨日消したときに見ていた放送局のニュース番組を見ながら、最近あったことを知り、適当にその所感を独りごちる。そういったことに何かしらの安心感を見出していたのか、僕は自然とその行動を繰り返していた。
 しかし水が沸くまで数分時間があると思い、僕は先に玄関の方まで向かった。ポストから今日の朝刊を取ろうとしたからだ。ポストには粗雑に突っ込まれた新聞の尻があり、それを引っこ抜くと、その勢いで破けて出来た外装のビニールの穴に指を突っ込んで、少し力を加えて新聞を取り出せるほどに広げ、僕は今日の内容はどのようなものかと、感興に浸りつつそれに注視した。
 一面トップはまたも国内の政治に関してであった。予算がどうだとかそういったことが書かれており、僕の好奇心のふくらみに対してつまらないものだった。こういうのは中々非道徳的なことであるが、こういった事件よりも国際的に騒ぎとなるような事件が見たかった。僕達はそうした大きい事件や災難の当事者にはなりたくないが、傍観していたいという本能がある。それは野次馬などを見れば明らかなことであるが、彼らは当事者にかなり近い存在であり、そうではなくネットなどで事件の概要を知る程度の人々に僕はいた。というか、君達もそうだろう?不謹慎かもしれないが、しかし自分達が厄介ごとに巻き込まれなければ、それを見て楽しみたいはずだ。
 僕はその記事を一瞥すると、新聞をペラペラと捲って、他に面白いことはないかと探し始めた。すると芸能関係の記事で自分が気になっていた女優と、最近お茶の間を賑わしているお笑い芸人が交際しているというのがあり、僕は少し悔しいという気持ちを半ば抱きながら、その記事を読み始めた。読んでいくと、「それはあくまでも」執筆した記者の憶測で書かれており、「それはあくまでも」読み手に関心を持たせようとする過激な記事の一つに過ぎないことが分かった。僕はそのお気に入りの女優の貞操が守られているという推測を信じ、一安心したが、それとともに騙される読者の一人へと陥ってしまったことに腹が立ってきた。
 そう思うや否や、薬缶が沸いたのか、ピーと大きな音が後ろから聞こえてきた。僕は脇に新聞を挟み、左手に破いたビニールを持ちながら、小走りでリビングに戻った。
 火を消すと僕はマグカップとドリップバッグを用意し忘れたことに気づき、自分のこの生活にこびりついた不甲斐ない性質に腹を立てた。日常生活でこのような些細なミスをしたときにいつも、次は直そうと思うも、結局その教訓を忘れてまた同じことを「繰り返す」という自分の愚かさが憎かった。そしてその憎いという気持ちもいずれ消えていくだろうと、仕方ないと諦観する自分の心の内も憎かった。
 やるせない気持ちに包まれながらも、後ろの食器棚からマグカップを取り出した。自分の粗忽な性格を証明するかのように洗いきれなかったコーヒーの染みが白の陶磁器の内側を蝕むように濁らせている。それをコンロの隣に置き、流れるように上の棚からドリップバッグとドリッパーを取り出し、ドリッパーを無造作にカップの上に置いた後、ドリップバッグの外装を外してそれに被せた。そして既に室温と調和したタッパーの封を開けると、僕はそのまま袋を持ち上げ、直接バッグの中に粉末を流し込んだ。スプーンを用意するのは些か面倒であった。しかし茶色い顆粒は所々塊になっていて中々理想的に出ていかないので、腹を据えかねて強く振ると、カップの外に零してしまい、更に面倒な羽目になった。
 体感でちょうどいい量のコーヒーの粉末を注ぎ終わると、そこに沸騰した水を今度は丁寧にゆっくりと淹れた。以前勢いよく注いだために自分の手に熱湯をかけてしまい、あわや大惨事となりかけたということがあり、これに関しては自分の身体が慎重になることを学習していた。
 次第に香ばしい匂いのする湯気がもくもくと顔を撫でていき、僕はテレビのコメンテーター宜しく目を閉じて唸るというオーバーなリアクションを取った。インスタントコーヒーは誰がお湯を注いでも馥郁たる香りを漂わせる筈だ、とつくづく実感する。メーカーが大衆の好みを研究しているから一般人など違和感を抱くわけがないからだ。僕はそういった愚かしい考えをしながらコーヒーが出来上がるのを腕組みしながら見ていた。
 所で僕はコーヒーを淹れる前に蒸らすといったことはしない。インスタントだからすぐ作るべきだというのが僕の信念であったし、所詮安物だからこういった手順を飛ばしても風味に差が出るわけがないという考えを貫き通していた。僕は眠気さえなくなればそれでよかった。
 体感で一分以上経ったように感じたので、僕はキッチンペーパーを二枚取って一枚を水で濡らした後先に零したコーヒーの粉末をふき取り、それの上にもう一枚を敷いた。ドリッパーから熱々のドリップバッグを取り出すと、ドリッパーをシンクに置いて水でコーヒーを流し、バッグをキッチンペーパーの上に置いた。しかしすぐにペーパーからコーヒーが染み出そうであったので、急いでもう数枚取り、更に下に敷いた。僕は後で片づけようと思い、コーヒーがなみなみ入ったカップをこれまた用心深くテーブルにまで持っていくのだった。
 万事無事に済むと、僕はテレビを点けた。まあコーヒーを作ってから、そういやテレビを点けてないな、と思ったのだ。通りで静かな訳だ。しかしあの記事が悪いんだ、僕を一喜一憂させ、自分のルーティーンを忘れさせるのだから。
 画面が少し明るい黒に変じると矢庭にニュース番組を映し出す。そうだ昨日は○○を観ていたんだっけ。僕は寝る直前のことを不意に思い出しながらテーブルにつき、湯気の立ち昇るコーヒーを見つめていた。表面は黒々としているが縁はこげ茶である。更に目を凝らしてよく見つめてみると漆黒に見えた部分も光の当たり具合で茶色がちらりと目に映る。そうやって夢中で見つめているとその黒と茶の攻防を見せる水面に吸い込まれそうになり、次第に視界がぼやけていく……

 

 

 「私は知っています。貴方は今コーヒーを飲もうとしているんでしょう?」

 

 

 ぎくりとしてコーヒーから目を離す。男性の声だ。声色から推量するに若者の声ではない。しかし特段老けた声でもない。四十程の中年の声だ。稍して今の声はテレビから流れてきたということに気づいた。最初は占いコーナーでもやっているんだろうか、と思ったが、しかしこのような導入を以て占いの話を膨らませるというのは考えにくい。最近のこのような娯楽のコーナーと言ったら、まあ偏見であるが、大抵は女子アナウンサーが請け負う筈だから、男性が導入部分で辛うじて使えるようなことをいうのは以ての外である。ならばどういうことなのだろうか?そう思っているうちに彼は続けて言った。
 「精子と卵は夫々一つの宇宙なのです。そしてそれが受精卵になった時、二つの宇宙は融合し、平行は交わり始める……まるでエヴェレットに見せつけるようにね。このことを前提とすれば、世界は受精卵という神的存在の発達型である私達の管理下にあるのです。つまり世界は神が作ったのではなく、私達が作り出したものであり、また私達は神がその役を担うような絶対的権威を司りうるのです」
 彼が言い終わると画面は突如としてホワイトノイズを付随させる砂嵐と化した。同時に僕の視界が忽然と歪み始めた。色相は変わりなかったが、形相が酷くもつれ始めた。あらゆるものがぐにゃりとまるで粘土のように曲がるので、脳がそれに惑わされたのか、次第に眩暈と吐き気に惑わされた。三半規管が正常に働いていないのだろう。僕はそう考え、自分の蟀谷を人差し指でぐっと押した。もしかしたら治るかもしれないという迷信を抱きしめた希望に縋りたかった。だけど結局治ることなく、僕は体に力が入らなくなって歪み切ったテーブルに体を任せた。
 テーブルは所々に褶曲を造り、表面は真っ平と言える状態では最早なかった。熱を持ったコーヒーは常にぐらついていて今にも倒れそうであったが、それを本能的に予感していたのか僕はこの異常事態を感知するとすぐに、僕が座っているところから一番遠い所、つまり対角の付近に置いていたので、僕が火傷するリスクは余りなかった……ただこの物理法則の壊れた世界で、果たして無事なのかということは分かりかねることであったが。
 そういう懸念を覚えていたので僕はずっとマグカップを見つめていた。困憊している状態でも、直ぐに逃げられるようにするために。案の定と言うべきか、マグカップも変形し始め、テーブルとの接地部分が更に悪化したことで遂に横に倒れてしまった。
 しかしコーヒーが出てくることはない。この世界では全てが異常になっているから当然なのだろうが、水という粘性の小さい流動体がまるでその横倒しになったカップにしがみついているということを新鮮なものとして受け止めることしか出来なかった。これもまた個人的に驚愕したことであるが、湯気がそれの倒れた方向と平行してもくもくとたなびいていた。その湯気は空中に引かれた線に魅かれるが如く、散乱せずに集中して一本の濃い白線を作っていて緩やかに蛇行していた。
 テーブルは各所で歪曲しており、それは眼前に映る不可思議な現在進行的な変化群の一つとしてあった訳であるが、それでもカップは横にはなったものの、テーブルだったものから落ちるということは起きていなかった。しかし遂に対角付近の板が端に接する完全な坂を創り出した。重力は僕が上手くそこの場に留められている通り、それだけは余り変化が見られなかったため、カップはそのままその坂を転がり、床に落ちた。歪捩った高い破砕音が聞こえた。僕は零れたコーヒーが僕の足に付きはしまいかと危惧し、後退りした……まあ、きっと想像できるだろうが、コーヒーは床全体に広がりはしなかった。
 それはゆっくりと浮かんできた。無重力状態の空間に水を浮かべたときのように球体をしていたのだが、軈てまたアメーバのように各所に突起を造ったり楕円になったりした。
 呆然自失としてそれを見ることしか出来なかった僕は馬鹿みたいに口をぽかんと開けていたので、涎が口角の所に溜まってダムのようになり、今にも溢れんばかりであった。口ダムがとうとう決壊することになったとき、それに気づいた僕は慌てて舌を下唇に押し付け、一方で下唇は上歯に当たるようにして吸い出そうとしたのだが、その時舌打ちのような音がリビングに谺した……本当に反響したのだ。
 それを感知したのか、スフィア状のコーヒーは今までの長閑な雰囲気を捨てて瞬時に槍のような矢のような形に変わり、その先端を僕に向けた。
 まさか、こっちに飛んでくるということはないよな?
 その通りであった。茶色い槍は僕の顔を捉えると、すぐさま僕を貫かんとする勢いで向かってきたのだ。一瞬の出来事だから反応しきれなかったのもあるのだろうが、それ依然に何故か体が動かなかった。恐らく僕はこの事態を冷静に見つめようとしているのに齷齪していたからだろう。つまり僕はパニックになっていた。
 そうしてかちこちに固まった僕は目を閉じることしか出来なかった。現実からの逃避の試み。それは決して逃避とは異なるものであり、妄想への耽溺の試みと言った方が良いぐらいしょうもない足掻きであった。それなのに反射神経はそれを未だに信奉している。余りにも滑稽だが、僕はそうするしかなかったのだ。
 光が瞼を貫通して、視界は朦朧とした赤みに包まれている。ホワイトノイズの静かな波。五感のミニマリズム。額に滲む汗。しょっぱい唾液。仄かなコーヒーの匂い。目を閉じて感じる全てはこれらだけであった。そしてそれは数分しても同じままであった。
 どうして僕の顔にコーヒーがぶちまけられないのか?おかしい。あの速度であればもうあの熱々のコーヒーは僕の肌をどろどろに爛れさせている筈だ。なのにどうして僕はまだその烈しさを経験していないのか?走馬灯の浮かばぬ暗闇に時間の主観的遅鈍化は起こりえない、いや起きていたとしてもこの時間の長さではあり得ない。
 とうとう時間も狂ってしまったのだろうか?それならばあれが顔に付着するまでにはまだ時間がある。早く冷静を取り戻せねば。
 僕はまずは状況確認からだ、と思って恐る恐る目を開けた。コーヒーの現在位置を知るためには、歪曲空間であるために視覚の信憑性が薄らいでいたとしても、指でその位置を把握するよりはずっと安全であると思ったからだ。しかし瞼は少しずつ開き、徐々に外界を認知し始めると、僕は驚いた。
 全てが元通りになっていた。空間は正常を取り戻し、直線を再び獲得していた。テレビも先まで流れていたホワイトノイズはいつの間にか、先まで見ていた番組を映し出している。怪しげな男性はもう居ない。テーブルはものを乗せる機能を再び備え、僕を急襲したコーヒーは床に落ちた筈のマグカップに落ち着いて、テーブルの上にちょこんと置いてあった。
 白昼夢でも見ていたのだろうか?
 暫くテーブルの側で佇んだ後、僕はもうおかしいことなど何もないことを悟った。すると僕はもう終わったのだという安堵と、先までの逸脱した世界が遺した謎が分からないという困惑でどっと疲れてしまった。
 また寝ようかな、と思うと、瞼が突然重くなった。足取りもふらつき始め、僕は急いで寝室に戻ろうとした。
 扉を開け、リビングと玄関を繫ぐ廊下へ出ると、寝室までの道のりが自然と長く感じた。休みを欲する時ほど、休むのに至るまでの過程が長くなるのはなぜだろうか?例えば映画を見ている時に睡魔が襲い掛かり、残りが三十分程であると知って、そしたら最後まで見てから寝ようと思い、根気よく映画の続きを見ようとする。しかし仮令映画の展開に迫力があり、決して淡泊でないとしても、早く終わってほしいという気持ちが逸り、結局映画はその者を飼殺す拷問具となってしまう。この廊下は先の例程ではないが、同様に僕を苦しめた。
 客観的に見れば十数秒後に、寝室のドアの前に着いた。やっと眠れる、という思いが馳せ、眠気の中から昂奮という矛盾した性質が現れた。僕はドアノブに手を伸ばし、掴んだ。冷ややかなアルミニウムの感触が僕の手から神経を伝った。僕はかちり、とドアノブを回し、扉を開けた。下のドアの影が薄らぎ、光が少しずつ浸透していく。
 奇妙さは僕を離してくれなかった。僕は瞬時に目の前の状況を把握出来なかった。僕はその困惑の内に、突如として消失した日常の貴重性を噛み締めることになるのだろう、と密かに予感した。
 というのも、ベッドの上に兎がいたからだ。それも唯の兎ではない。兎の体毛は紫色だった。白とか黒とか茶色とか、そういう自然な色ではなく、カラースプレーを吹きかけたような不自然な色であった。ムラひとつない。
 こんなことってあるか?
 僕は呆気に取られて、立ち尽くした。身体中の力が抜けていき、眠気がその霧の濃さを強めた。朝っぱらから情報量の多い体験をさせられ、僕の脳味噌はくたくたになっていた。その所為で視界が度々霞むが、それでも紫の兎は白いぼやにならなかった。明らかにそれは実存していた。
 僕はふと、心の底に怒りが溜まっていることに気づいた。自分は何故このような理不尽に身をもませているのだろうか?そうしたフラストレーションによる心のがたつきを抑えるために、憤慨という感情が整合を取ろうとしていた。そうしてその怒りは紫兎を見つめれば見つめるほど肥大していくのであった。
 僕は激怒した。メロスとかボニファティウス八世とかが抱く怒りに似ていたのかもしれない。彼らの怒りは全てやるせないという感情から発するものだった。そして僕もこの不条理にやるせなさを覚え、怒りへと昇華させていくのだった。
 紫兎は動く気配がなかった。僕はそれを確認すると、ゆっくりと兎の方へにじり寄った。数歩だけでなくベッドに手が届くところまで寄っても、兎は微動だにしなかった。兎は丸で剥製のような静態に身を沈めていた。それは脆い性質であった。一度動かしてしまえば砕けてしまいそうな程、兎はぴくりともしなかった。唯兎は僕の顔をじっと見ていた。純粋な目で。それがより一層僕を逆撫でていることにも気づいてなさそうだった。
 兎は穏やかに布団の上に座り続け、見下ろす僕のことを逆に見上げていた。無垢な瞳は大仰で禍々しい毛並みとは正反対に無垢であり続けた。彼女はいつまで経っても被害者を装い続けた。それが僕の癇に障るのだった。
 激怒の波が我慢の縁を越えると、僕は兎の首根っこを勢いよく掴んだ。流石の紫兎もこの時はびくっと身を震わせていた。しかし彼女の行動はこちらの掌中にあり、僕は抵抗できない彼女の哀れさを感じ、ほくそ笑んだ。
 そうして僕は無邪気な破壊欲のまにまに、その兎の首を思い切り締めた。毛並みを通して兎の肉と血脈の瑞々しさが手に伝わった。首絞めの感覚は子供の時分に知り得た悦楽の衝撃に似ていた。それはインモラルを潜ませていた。それは何時だったっけ?僕は少し考えた。するとこの興奮の中から、五歳の時に純粋に試みた母親の首絞めを思い出した。二十代半ばを過ぎた母の瑞々しい皮膚の感触を朧げながら覚えていた。弱々しい握力の淵に横たわっていた。あの時に僕は背徳というものを覚えたのだ。この背徳的な悦楽には勿論罪悪感が備わっているので、僕は生々しさゆえに一瞬手を休めてしまったが、気を取り直して再び力を入れた。
 兎は一方でその色合いの烈しさとは対照的に——いや、生物であることを斟酌すれば、やはり不気味なのだろうが——身体を捩らず、また呻き声を出さず、僕の顔を何の苦しみも持たずに見つめ続けた。こうした気味の悪い事態にも関わらず、僕はなんと、こいつは僕をとことん馬鹿にするつもりか、ムカつくぞ、よしそしたら余裕ぶった顔を歪ませてやろう、と、この兎に更に挑戦しようと思ったのだ。そうした僕の掌からは徐々に汗が染み出た。僕はその塩っぽい湿り気を兎の、忌々しい紫色の体毛に擦り付けることで、兎をささやかな責苦に遭わせようとしたのだ。
 それでも兎は黙然としている。額と頭皮の境目から熱が浮き、額の汗は目尻の畔を横切る。
 畜生!僕が一方的に不快感を覚えてるじゃないか!そもそもどうしてこんなことになったんだ?あの時は、僕は一人気ままにコーヒーを飲もうとした。そしたらあの男が僕に囁いた。精子と卵はそれぞれ一つの宇宙?それと神がなんだか抜かしてたが、だから何だ?そしたら周りが歪んで、コーヒーが襲いかかって、だけど止んで。疲れて眠ろうとしたらこいつだ。自分はなんだか無意味なことばっか被っている。ああ、ムカつく。
 そう憤る度に、僕の指は更にまた兎の肉に食いこんでいく。こいつに全て自分の受けた凶行の責任を担わせる度に怒りは増していき、その怒りに任せて力を加えれば加えるほど、僕の心が安らんでいく気がした。口角が少し上がる。昨日まで持ち合わせていた愉快さをやっと少し奪い返せたのだろうか。そう考えるとこれはやはり背徳的快感なのだろうか、と疑問に思った。人を苦しめることで得られる、また人の苦しむ様を見聞きすることで哀れみと共に得られる心地良さ。それは何処から始まるのだろうか?敵対関係にある人間の方が得られる快感は大きくなるが、普通の関係にある人間からでさえ、その快感は得られる。こんな独白聞いて欲しくないなあ。でも実際そうじゃないか。僕達は身近な関係下ではそれを否定しつつも、自分と関わりのないゴシップ記事では燥いだりする。友人関係では、帰属意識があるから、その対象に感情移入しやすく、まるで自分も可哀想であると思えるから、その哀れみや慰めの必要性を痛感するのだ。しかし不謹慎な快楽は消え失せない。この快楽は自分が加害者になるとより一層得られる。例えば嫌いな奴を殴れば気持ちよくなれるだろう。自分の手を汚さないときよりも、ずっと気持ちいい。成敗してやったという達成感は、ありとあらゆる快楽にも負けぬカタルシスを与えてくれよう。しかし殺したくなるほど嫌いな奴を殺せば、その快楽は薄らぎ、寧ろ不快感だけが募るはずだ。僕達のこの不謹慎的快楽がアヘンとして人々を中毒にさせぬために罪悪感があるからだ。この罪悪感は覚悟というハードルを課す。確固たる信念、教条の狂信、それらによってのみ罪悪感は鳴りを潜めるのだ。
 それならばどうして首絞めによる背徳的快感を知ったのだろうか。僕は再び首を絞められ、苦しそうな顔を浮かべる母の顔を暗闇に思い出した。そして僕は今まで自分の母を忘れていたことに気づいた。その愛情すら。僕は何故忘れていたのだろう?幼少期の記憶がいつの間にか遠い過去に埋められていた。僕は今の今まで現実しか向き合ってこなかった。一体どうしてだろう?ふとした気付きから、足を踏み外した気がした。いや気の所為ではない。僕はこの一瞬で深い闇に堕ちた。その落下が足に磐石な存在を求めさせ、しかし得られないというフラストレーションに漠然とした不安感を覚えている。深い闇は次第に意識を蝕んでいく。僕は懸命に今までのことから解決策を見出そうとした。見出そうとした…………僕は……母性の忘却は……どうして……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ”Beware the ides of March”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識が途絶え、目を覚ましたときには、紫だけがあった。そしてその紫を見て、あの兎を再び思い出した。だけど怒りはもう湧かなかった。彼女も事実になって、過去に消える。その平々凡々なサイクルに呑まれるのだ。
 両目を中央に寄せて視界をオーバーラップさせる遊びを繰り返して気が済むと、僕は十秒のカウントダウンを行った。背中が硬い凸凹を感じていたので一と零とに大きな間隙は生まれなかった。
 僕は身体を起こした。紫の視界がやっと多様性を持ち始めた。僕は河の畔に寝転んでいたのだった。向こう岸は、そこに僕が居たら多分米粒程度の大きさになるだろう、そう思えるほど遠くにある。河底は見えない。全て墨を流したように暗い。紫の実態は厚い雲で、空全体に広がり、雲より上は窺い知れない。それが何かすら考える余地もない。昼か夜かも分からなかった。というのも地平線は全て黒い山々に覆われ、自分に一番近い位置に大きな火山があり、その火口から煌々とした溶岩が四方八方に流れていた。不思議と煙は単純に上り、火砕流も何も存在していなかった。
 僕の方に流れる溶岩は河に辿り着くとそのまま注ぎ落ちた。水面に触れた溶岩は大量の蒸気を発して抵抗する。恐らく温度も僅かにしか下がっておらず、依然として灼灼、粘性を得ることなく果敢に流れ続けたが、その特性の所為で大量の溶岩が底の知れない河に呑まれ消えた。だから僕はその河を仮令穏やかな流れであろうと、泳いで渡ろうとは考えなかった。
 僕は河の流れに従って畔を歩き続けた。暫く歩き続けると、地平線から少しずつなだらかな隆起が現れてきた。僕は橋だろうか、と思った。
 走ることなく、歩いてとうとう僕はその橋の付近まで来た。そこで初めてその橋を多くの人々が行列を作って渡っているのを知った。橋の入口では何人かが、通行人を一人ずつ止めて、手元にある資料をじーっと眺めては判定を下していた。検査官はいずれも筋骨隆々で、でかい図体をしていた。
 彼らは「通れ」か「待て」と言った。その声は怒声と言った方がよく、その声は低く、辺りを響かせる。僕は度々彼らの声にびくり、と身を慄わせ、びっくりしたあ、と独りごちるのだった。
 「通れ」と言われた人はそのまま橋を通っていくが、「待て」と言われた人は、その検査官が再び資料に目を通してから更に三パターンの措置を受けた。橋を通らせてもらう。帰らせられる。もう一つが——僕はそれを見たとき思わず悲鳴を挙げた——橋の中腹まで連れていかれ、河に突き落とされる。これら計四つの判断から彼らの裁量で一つを通達されるのだが、その通達された本人は顔色一つ変えない。僕はそれを見て気味悪く思ったし、紫の兎の無表情を思い出して不快感も抱いた。橋から蹴落とされて、底なし河に沈んでいく運命を知っても死んだような顔をするのはおかしいだろう?
 僕は嫌な思いをしながら、しかしどうすることも出来ず、手を拱いてそれを見つめていた。どうせ僕が何かアクションを起こしたところで意味はあるまい。第一にあの検査官に止められるだろう。抵抗しても虚しく、首をへし折られて殺されるに違いない。そう考えれば、僕はリスクを回避して生きることを選択したい。無意味な抵抗、つまり行動しても事態は変わらず、また誰にも相手にされないような(あの行列に並ぶ人々は僕の抵抗から何も教訓を得ないだろう!)抵抗をするよりは、一人漫ろに生きた方が百倍マシだ。正直なところ、僕は良い結果が分かるような行動しか起こしたくない。そうした点でも僕は押し黙ってそれを見るしかないと結論付けた。
 だけど、一方で僕は安心していることに気づいた。分かりきったことではあるが、無辜の民の悲劇に対して、哀れみと共に不謹慎的愉快さを覚えていたのだった。何を考えているか分からない彼らの愚鈍な表情を見ると、あまり面白くないな、と思ったりもしたが、やはり愉快さは内包されていた。
 なんだ、やっぱり僕は諧謔を求めてしまうんだ!この真実は僕に馴染みやすかった。僕は結局クズなんだ。まあ薄々気付いていたから、そこまで驚かない。僕は昔から自分が平凡であると信じていた。周りと違って僕は崇高ではない。愛されるべきでもない。人の苦しみは楽しみの隠し味であると思ったし、それは罪悪感の許す限り正当性を持った正義であるとも思っていた。そんな汚れた人間がどうして真実を否定することがあろう?
 クズだという確信から、僕は余裕を持って彼らの顛末を鑑賞するのだった。パッとしない人間が味気なく「通れ」と言われて、橋を通るのを見ると、なんだよこいつ、マジで死ねよと本気で思った。一方でデブで禿げた醜い豚が「待て」と言われたのを聞くと、目をひん剥いて彼を注視した。彼の検査官は指で資料の文字を追い、暫く考えていた。その間は森閑としていた。僕は焦った。結果が気になったからだ。個人的には橋から突き落として欲しかった。稍すると検査官は隣に居た同僚に声を掛けた。まさかと思ったけど、やっぱりそうでデブ豚は橋の真ん中まで歩かされ、欄干の上に立たされると、後ろからドロップキックをされて河に落ちる。前につんのめるも、足をばたつかせずに顔面から入水する光景は噴飯ものであった。
 玉石混淆の人々を眺めていて僕は退屈になってきた。少しずつ自分の中で、この一部始終が陳腐なものになってきたように感じられた。そう思うや否や、検査官も「通れ」しか言わなくなってしまった。僕は眠くなってきて欠伸が出たので、少し横になることにした。岩肌がゴツゴツして眠れないが、目を閉じて休むには十分であった。目を閉じて暫くすると、最初は驚いていた検査官の「通れ」という地鳴りのような声も一種の環境音に思え、その単調さに眠りを誘っていく。僕は硬い床のお陰で限りなく眠りに近い暗闇にいたのだ。

 

 

 「待て!」

 

 

 僕は急に持続的な微睡みから現実に戻された。検査官の単調な声に裂け目が生じたのだ。僕の退屈さはある程度消えてきたので、見ようと思うだけの気持ちが湧いた。僕は楽しみだった。次はどんな奴が通るんだろう?
 「待て」と言われた奴の髪は長かった。僕は女か、と思った。後ろ姿しか見えず、何とも言えないが、僕を盛大に笑わせたデブ豚とは対照的に中肉中背の凡庸な姿をしていた。髪は黒かったので、恐らくまだ若いのだろう。年をとっていたとしても四十代か?
 彼女はそこまで面白い恰好ではなかったが、不思議と僕は見つめていた。今まで女性は数える程しか「待て」と言われなかった。だから僕にとって彼女は不思議な印象であった。
 彼女の審査は結構な時間を要した。検査官は先に耳打ちした同僚とかなりの間審議しており、彼らの目線は彼女と彼女に関する資料を行ったり来たりしていた。
 僕はまだなのか、と焦れったい気持ちになった。同時に彼女は何者なんだろうと思った。こんだけ待たされるのはここに来てから初めてだった。僕は彼女が何者なのか想像してみた。とても有名な人なのだろうか。もしかしたら有名女優とか歌手とか。いやいや、橋に落とされたりするのだから何か悪いことでもしたんだろう。例えば人殺しとか。そしたらあのデブ豚は人でも殺したのかな?あいつの見た目、児童ポルノとかそういう性的な関係で落とされてそうだけど……
 そう思索してると、検査官は皆で取り決めた判決を肯定するように頷き、彼女を橋の中央まで連れていった。僕は彼女が殺人犯であると決めつけた。それ以外で何も考えられなかった。一旦彼女を殺人犯に同定すると、途端にこの処刑が厳かなものに見えた。僕は胸を躍らせ、処刑の次第を見物するフランス市民の気持ちを知った。中央に着くと、彼女は欄干の方を向いて近づいた。
 僕は唖然とした。というか少し声が漏れた。彼女には朧げに面影があった。その面影は朧げながらも僕の心の奥底を呼び起こした。全てが勢いよく回り始め、僕は気持ち悪い不安、恐怖、気づきの快楽、後悔、恨み、怒り、その他の感情全てを綯い交ぜにした複雑な感情が僕を掻き乱した。そして僕は叫んだのだった。

 

 「お母さん……!」

 

 母は叫ぶ僕に歯牙にもかけず、欄干に近づき、手をかけた。母は僕のことを見向きもしない。僕はやきもきとした気持ちに苛まれ、河に足を踏み入れた。近づいてから声を掛ければ、ひょっとしたら気付いてくれるかもしれない。そう思ったのだ。
 河底の傾斜は河の中央に近づくにつれて一気に急になり、二歩進んだだけで自分の腰まで水が浸かった。水はひんやりとしていてそして腥い。だけど僕は懸命に彼女が堕ちてくる場所まで進むのだった。とうとう河底に足がつかなくなり、手で漕いで浮かなければならなかった。いつの間にか僕は泣いていた。諸々の感情の衝撃にどうしようもなかった。そして母は橋から身を乗り出した。検査官が堕としたのだ。僕は彼らに何かしらの思いを抱いたのだが、それが何なのか複雑なあまり分からなかった。
 母は先のデブ豚と違ってゆっくりと堕ちてきた。だから僕が検討つけた場所と実際の場所とに誤差は殆どなかった。沈む速さは著しく、僕は母を掴みそびれたのだ。パニックで頭の中が真っ白になった。しかし沈む様を再確認すると、直ぐに僕は咄嗟に母を掴み直した。母がここで沈み、僕と離れ離れになってしまったら、もう二度と逢えないような気がした。その予感が僕を殴った。そしてそれは気づけ薬として作用し、僕はパニックから抜け出せたのだった。
 僕は母を掴んだまま死ぬ気で岸辺まで泳いだ。もう大丈夫だと思うと、母の身体を硬くて冷たい岩場にゆっくりと降ろし、隣に僕も腰を降ろした。全身が痛いし、乳酸が溜まった感じがする。全ての体力を使い切ったようだ。そう思うと僕の心奥から高揚感が現れてくるのが分かった。何を考えず僕は笑った。それも大声で。周囲は僕と母しかいなかった。先までの行列、母を突き落とした検査官は見当たらない。だけど僕はもうそんなことを考える暇もなかった。どうでもよかった。息を切らしてびっしょりとした僕は、ちらと横たわる母の姿を見た。死んだような目が中空を見つめていた。その目は微動だにしない。しかし。
 母は「生きていた」。
 だから僕は母の首を絞めた。そして母の首の生々しくも衰えた感触を知る内に、僕はとうとう何時この背徳的快感を知ったのか思い出した。そしてその記憶の想起は僕にとって強烈な毒だった。僕はこの毒にかかり、首絞めを止めると、河に嘔吐した。そして再び視界がぼやけ、身体中の力が途絶するのが分かった。眠い。だけど母の姿をもう一度見たくなったので、僕は渾身の力を振り絞り、母の方を振り返った。
 母はもうそこには居なく、あの紫の兎がそこに佇立していた。兎は笑っていた。彼女の甲高い笑いは僕の顔を伝い、耳の中を顫わした。そして僕に背を向けると何処かへ行った。
 再び僕は意識を失った。

 

 

 

 朝八時、僕はいつもと変わりない朝を迎える。僕は起きると先ずベッド脇のデジタル時計を見る。この繰り返しの朝を迎え過ぎた為か、僕の体内時計はとても正確で、いつも一、二分程度の誤差で起きることが出来る。デジタル時計は八時一分、四月二日と書いてあった。

 

 

 ほらね正確でしょ?

2021年6月7日公開

© 2021 吉田佳昭

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