『けいちゃん! えへへ、また来ちゃった』
『外で一緒に遊べなくてもいいわ。だって私、けいちゃんが本を読んでいるのをこうして見ているだけで幸せだもの』
そんなことを言いつつも、早速じっと座っているのに退屈した少女は縁側の下に転がっていた大人用の下駄をつっかけて庭に降りた。
汗で濡れた浴衣の不快な生温さと、傍に落ちた乾き始めた手ぬぐいのにおい。障子も開けず閉めきっていた部屋に満ちた熱病の気配は、彼女が奔放に開け放していった窓から全部外へと逃げていった。彼女は庭の落ち葉を拾っては投げ、拾っては投げを繰り返している。病み上がりの体に秋口の乾燥し始めた空気は少し毒で、窓からの風にひとつ咳が零れたが、そんな些細なことはどうでもよかった。
『ねえ見て、綺麗!』
くるくると回る彼女は踊っているように見えた。土埃を浴びるのも帯が乱れて解けかけているのも気にせず、色鮮やかな落ち葉の雨に降られて笑う彼女からいつしか目が離せなくなっていた。
『ねぇ、けいちゃんは今、好きな女の子はいるの?』
『そんなのだめよ、けいちゃんのお嫁さんにしてもらうのは私なんだから! ねっ、そうでしょう?』
彼女の笑顔はいつだって眩しかった。それは今だって変わらない。
あの日々はもう、戻らない。
雪下駄の裏を凍雪がざり、と噛んだ。大通りから外れた路地裏の雪は誰も踏み跡をつけないままに残っていて、固く白く凍りかけていた。ざりざりと真新しい跡を刻みつつ、先生は家の塀に背中を預けてずるりとしゃがみこんだ。
夕暮れをとっくに過ぎ、長く外に居た体は冷えきっていた。しかし震える吐息に重く絡みつく胸を病んだ異音が、感覚が消えかけるほどかじかんだ指先が訴えかけてくるのとは対照的に、不思議と寒さは意識に上らなかった。
ぼんやりとしたまま、家々の明かりがちらほらと灯り出すのを忘れ去られたような路地裏から眺めていた。あんなにも近い、少し手を伸ばせば届きそうな温かい光が自分にとっては恐ろしく遠かった。火継ぎのための道具には成りえても、灯火そのものにはなれないことはとっくに受け入れたつもりだったのに、まだ浅ましく求め続ける自分はどうかしていた。
「いつから、こうだったんですか」
あの日、池沢先生の声は震えていた。咳き込んだ私の背を擦る手はいつの間にか動きを止めていて、目は私の手の中で皺になった懐紙を注視していた――正確には、そこに喀き出された鮮やかな血痰を。
いつだって穏やかな彼が目に見えて動揺していた。瞳の奥には怒りが見えた。それは私に対しての怒りではなく、彼が自らの内面に向けたものだった。
「熱は? 夜半寝苦しいのはいつからなんです? ……いいえ、貴方を責めるべきではない。気づくべきなのは私だった」
――ああ、そういうことだったのか。唐突に行き着いた答えは、彼の動揺が場違いに思えるほどゆっくりと静かに胸に染み込んでいった。一度腑に落ちてしまえば、その答えにこれまで行き着かなかったことがむしろ不思議なほどだった。ここ最近特に身体がおかしかったのも、つい数週間前まではできたはずのことが日々儘ならなくなっていくのも、すべては。
「池沢先生。私の身体は、結核に蝕まれているんでしょう」
池沢は何も言わずに目を伏せた。ただ、堪えきれずギリギリと奥歯を噛みしめたのがわかった。
「私はあとどれだけ、生きることができますか」
そんなことを訊いたところで何も変わりやしないのに、死病に冒されていると告げられた人間がまず問うてみることを、自分も気がつけば口に出していた。
幼い頃から、いつまで生きられるかわからないと言われ続けてきた。今更もう一度言われたところで辛くなどない。ただひとつ違うのは、これが最後の宣告になるということだけだ。
「あとどれだけ、教師でいられますか」
彼はしかと私を見た。初めて会った日からずっと、池沢先生は決して私から目を逸らさなかった。周りの大人が憚って口にしなかったことも、私が求めれば先生は答えてくれた。彼の嘘のつけないところが私は好きだった。
「結核はうつり病です。子ども達のことを思うのなら、接触はなるべく避けるべきと」
彼は静かに告げた。その言葉は重かったが、案外すとんと胸に落ちた。
ああ、ここが私の終わりなのだ。
「終わらせるなら、自ら幕引きにしたいのです。だからこれだけはお願いします……このことは誰にも言わないでください。藤倉さんにも直次にも、勿論子ども達にも」
嘘のつけない池沢先生を秘密の共有者にしてしまうのは心苦しいが、これだけは譲るわけにはいかなかった。
「……それで、いいんですか。貴方が大切な人に自ら伝えるよりも医者の口から告げる方が、貴方の感じる痛みは少なくて済むというのに」
ああ、本当に彼は、医者に不向きなほどにどこまでも優しすぎる。
「最後のわがままを、どうか聞き入れてください」
私は晴れやかに笑ってみせた。存外綺麗に笑えたと思った。
医院を出ると、ちょうど街道方面から歩いてきた藤倉さんに声をかけられた。
「……何かあったか?」
藤倉さんは聡い人だ。態度に出したつもりはなかったのに、言外の変化を見抜く鋭い目を持っている。
「? いいえ、何も」
今はまだ、言うわけにはいかない。
私は残酷な人間だ。
宵闇が町を沈めていくにつれ、じわじわと内側から火照るように熱が上がる。少しずつ、しかし確実に身を蝕んでいく病の存在を否応無く意識させようとでもいうのか、いつも決まった時間、夕方から夜にかけて発熱するのだ。
熱に緩んだ目元が重く、火照った胸は息を吸う度にじくじくと膿んだように痛んだ。やがて痛みは咳に変わり、ささくれ立って胸を抉るようになる。
「ぜェほ、ゼ、ホ……ゼゥ――ッ、ゼゥぅ、ぜゴッ……っ、」
一度咳き込み出すと中々治まらない。骨に響いて痛むのであまり強く咳き込みたくはないのだが、咳いてしまわないと病に喉を塞がれそうで恐ろしく、無理にでも喀き出そうとしてしまうのだった。
「ゲホゲホゲぇほ……っぜぅ、ゼ…っけふ、ケっホ、ぐッ……ぅ、っはァっはッ……ゼぉッゼォゼぅォぉぜぅぅ゛、…! っあ゛…が、っは…ッ――!」
ひときわ強く咳き込んだ瞬間、ガラスにびしりと罅が入るような鋭い痛みが胸に走った。ふわりと白みかけた意識を繋ぎ止めたのもつかの間、喉の奥がカッと熱くなる。
「ッ゛、え……」
きつく口元にあてた手のひらがびしゃりと何か生温いもので濡れるのを感じた。
ぽた、ぽた、と指の合間を伝って、凍りかけた雪の上に赤が散る。
咄嗟に口元から引き剥がした手のひらは、胸の火照りをそのまま喀き出したような真っ赤な血液で濡れていた。血痰ではなく血そのものを喀くのは初めてで、目に痛いほどの赤を前にして思考が止まってしまった。
「ッぐ、ぅゔ……! ぜハ、ごフッごぉォ゛ッ」
動揺している間にも容赦なく込み上げてきて、罅入った胸を裂くような痛みとともに咳き込んだ。指先まで一息に真っ赤に染まった。気泡混じりに冷えた手を染める冴えた赤は、まるで命をだらだらと徒に零したようで――
怖い。もう、見たくない……! ふいに沸き起こった感情の奔流に、わけもわからないまま全身からがくりと力が抜けた。
ざり、と手のひらが地面を掃く。指の形に血の跡を描いたのを見た瞬間、自分の中の何かがぷつりと切れた。
「あ、ああ、い、やだ、嫌だ、こんな……ッゔ、ゼぉ……っう、ぁ……ひュ、は…ッ、ぜぅ――ッ、ひゅ――ッ…ひ、きヒッ、ひゅ……いや、だ……」
ひきつけを起こしたような呼吸は制御がきかなかった。息を吐かねばと思えば思うほど体は意思とは無関係に無限に酸素を欲し、やっと吐き出したかと思えばその倍は吸い込んでいた。
平行を失った体が凍雪の地面にぐらりと倒れる。滅茶苦茶に呼吸をしようとする衝動をなんとか抑え込もうと、ほとんど無意識のままに首元に爪を立てた。気を飛ばせたら楽になれただろうが、雪の地面から受ける冷たい痛覚が本能的に意識を繋ぎ止めていた。
「きヒ、ごふっ……いや、だ……ヒュうっ……死にたく、ない…ぃ、や……」
酷使しすぎた気管が悲鳴を上げるようにヒィヒィと引き攣れる。ごぼごぼと胸が泡立ち、色を失って久しい唇に鮮やかな赤がまた一筋伝う。
大切なものはいつだって何ひとつ手の中に残しておけないまま取りこぼす。期待したらその分だけ、残酷な終わりが際立つだけだ。どうして、ただ人並みの幸せを得ることさえも自分にとっては高望みなのだろう。大切な人達と一緒に笑って生きていきたかっただけなのに、私が一体何をしたというのだろう。
眩んだ視界の先には無限の星空が広がっている。しんと冷たい空に広がる星はこんなときでも美しかった。綺麗だ、と思った瞬間、空はぼろぼろと溶け出して見えなくなってしまった。
ああ。こんなにも、わたしは生きたかったのだ。
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