八 緋寒桜

薄暮教室(第9話)

篠乃崎碧海

小説

9,084文字

眩いものすべてから身を遠ざけた。誰もいなくなった暗がりを愛そうとして、結局できなかった。

 年の瀬なせいか、そこかしこにどことなく急いた気配が漂っている。

「クマせんせ、机持ち上げてくださーい」

「先生ー、障子戸が外れちゃった!」

「あのう、書斎のお掃除はしますか?」

 あっちからもこっちからも、ひっきりなしに藤倉を呼ぶ声がする。子ども達は廊下の雑巾がけで忙しなくいったりきたり、窓枠の埃をはたいたりと楽しげだ。

「机はそのままでいい。障子戸もそのまま……ってああ、もう遅いか……。書斎も触らない方がいいだろう」

 今年もいよいよ残すところあと僅かとなった。この時期の恒例行事らしい教室の煤払いは、今年も冬晴れに恵まれて事前の取決め通り昼過ぎから始められた。

「クマせんせ、お隣の家の人が畳干し手伝ってくれるって!」

「先生! 足りない箒、家からとってきます」

 あっちから呼ばれ、こっちを手伝い、ふと気がつくと子どもの数が減ったり増えたり……もうわからん、どうにでもなれと藤倉はひとりごちた。どかりと腰を下ろした縁側はさっきから何度拭いても、子ども達が汚れた裸足でぱたぱたと行き交うせいでちっとも掃除になりやしない。

 もしも指揮をとるのが先生だったならば、子ども達は先生の身体を気遣ってもう少し静かに掃除を進めただろう。……少なくとも、家中を駆け回ってあわよくば普段は入り込めない書斎や先生の自室に忍び込もうだなんてことにはならなかったはずだ。

 やはり自分はこのようなことにはとことん向いていないらしい。先生が今この場にいなくて本当によかった、こんな埃まみれの空間に長居させようものならあっという間に咳が止まらなくなっていたに違いない――深くため息をついて、藤倉はつかの間の休息を終わりにした。

 先生は今教室にいない。なぜなら、子ども達から「おやつ当番」を言いつかったからだ。

――今年からは掃除は僕達がやりますから、先生はおやつを用意していてくださいね!

 掃除道具片手に教室を訪れた子ども達は、そう言うが早いかどやどやと上がり込んでわいわいと楽しげに掃除の役割分担をし始めた。突然おやつ当番を言い渡された先生は玄関で驚いた顔をしたまま、呆気にとられてそれを見ていた。

 じゃん、けん、ぽん! 負けた子は渋々といった風で雑巾を絞りに手洗い場へと駆けていく。それぞれが持ってきた掃除道具を年長の数人が一度全て集めて、役割の決まった順にてきぱきと配っていく。

「これはこれは……頼もしいですね」

 ぱたぱたと廊下を走り回る子ども達を見て先生は幸せそうに微笑んだ。おやつは何がいいですか、と先生が尋ねると、子ども達はきらきらした目をしてめいめいに声をあげる。お饅頭! 落花糖! おやき! アイスクリーム! 卵糖カステラ! ……挙げ始めたらきりがない。

「こら、どさくさに紛れて高級菓子を強請るんじゃあない」

 東京の百貨店でしか買えないようなもんがこんな田舎町にあるわけないだろう。思わず口を出した藤倉に、先生はおや、お詳しいんですねと笑う。

「藤倉さんは何をご所望ですか? なんて。皆さん、沢山買ってきますからお掃除頑張ってくださいね。藤倉さんの言うことをよく聞くんですよ」

 夕方には戻りますと言い、先生は出かけていった。そうして間もなく、あの大わらわの掃除が始まったのだった。

 

 あんなに高かった太陽も気がつけば随分と傾いていた。ぴかぴかになった縁側には洗って干された雑巾が並び、教室では疲れ果てた小さい子らが真新しい藺草の香りに包まれて幸せそうに眠っている。眠気を誘う夕暮れの気配の中、藤倉は書斎から適当に引っ張り出してきた本を暇つぶしに読んでいた。

 玄関の戸ががたん、と鳴る。先生が帰ってきたかと思い顔を出すと、立っていたのは直次だった。ちょうど良い時分に来てくれたと子ども達を任せ、藤倉は先生を迎えに出た。

 西日がちょうど町を染めあげる時間だった。通りは眩しく照らされ、足跡のついていない端の方の雪はまっさらなままに光を受けて鮮やかな橙色から深い紫まで美しく色を変えている。うっすらと青く変わり始めた山際に、気の早い一番星が今日も光り始めていた。雪化粧した大通りの先に、よく目立つ赤い野点傘が見える。傘に隠れた二人分の人影が遠目に揺れて、やはりここにいたかと思った。

 茶屋の縁台に浅く腰掛ける、すっと伸びた背筋の男性の影と、すぐそばに立つ背の低い女性の影。先生と、茶屋の看板娘の仁美さんだ。二人は何やら楽しげに話しているようだった。傘の向こうで穏やかな笑い声が聞こえて、邪魔をしては悪いかと藤倉は足を止めた。

 先生はちょうど帰ろうとしていたところだったらしい。ではまた、と会釈し立ち上がった先生に、仁美さんは傍に置いてあった風呂敷包みを手渡した。はにかんだ笑みを浮かべて顔の横で小さく手を振り、店の中に戻ろうとして……ふと、その足がぱたりと止まる。

 先生! 振り返りざまに呼びかけた仁美さんの声が通りに響く。何かを決心したかのような強い足取りで戻ってきた仁美さんは、大通りの真ん中で足を止めた先生の袖をくい、と引いた。

 長い影が通りに伸びて、黄昏時の静寂が二人を包む。偶然か天の計らいか、夕を告げる鳥の声さえも途切れた一瞬は、まるで物語の一場面のようだ。

 逆光に沈んだ二人の表情はわからない。仁美さんは先生の袖に手を掛けたまま恥じらうように俯いた。結い上げて顕になった項に夕日が落ちて、しとやかに艶めいて見えた。

「先生……平野先生。貴方のことを、ずっとお慕い申し上げておりました」

 目の眩むような橙色の世界にぽつりと落とされた声は砂糖菓子のように脆かった。少し加減を間違えたら呆気なく手の中で崩れてしまいそうな儚さを、仁美さんは持ち前の芯の強さでなんとか保っているようだった。

「どうか、私をお側に置いてください」

 袖を握った指先は耐えきれず小さく震えていた。痛いほどの沈黙が二人の間を流れていく。もう限界だと、引っ込められようとした指を先生は慈しむように両手でそっと包み込んだ。弾かれたように仁美さんは顔を上げた。

「ありがとう、ございます……けれど、それはできません。申し訳ありません」

 先生の声は柔らかく聞こえた。しかし同時にずきりと胸を抉る冷たさも孕んでいた。あの日、医院の前に佇んでいた先生に声をかけたときと同じ、どこか無機質な余所余所しさがあった。

「……どうして」

 それは恐らく仁美さんにも伝わっただろう。彼女は呆然と、今しがた耳にした言葉を信じたくないという顔で呟いた。

「仁美さんはまだお若い。私と一緒になるべきではありません」

 自分が断られたかのように痛々しい顔をするか、相手の気まずさを慮って静かに目を伏せるか――先生ならそんな反応をすると思っていた。なるべく傷つけないように、これ以上悲しませないようにと痛いほどの優しさと慈しみをこめて――しかし先生は淡々としていた。気まずさも、もしかしたら相手への思いやりもないのではと錯覚させるほど、残酷なまでに淡々としすぎていた。

「平野さんは、私がお嫌いですか。……他に好いたお人がいるのですか」

 仁美さんは気丈だった。それでもぽろりぽろりと止めどない涙が頬を濡らしていく。

 強い言葉と視線に、先生の瞳が初めて揺らいだ。虚をつかれて口をつぐみ、後悔ともとれるような迷いが浮かんだ。

「仁美さん、私は、」

「……ごめんなさい。私、貴方を困らせたいわけでは、なかった。こんな、嫌われるようなこと言おうとしたんじゃ、なかったのに」

 仁美さんは頰を流れる涙を拭おうともせず真っ直ぐに先生を見つめていた。先生は何も言わず、目を逸らすことなくそれを受け止めた。

「平野先生。貴方が、好きです……好きでした」

 泣き腫らした目に理解と諦めが宿る。仁美さんはぱっと踵を返すと、足を止めることはなく店の奥に姿を消した。

 夜告げ鳥の声がする。立ち尽くした先生の背を照らす眩い西日の最後の一辺が消えていく。山の端に残った光は段々と欠けて、最後には線香花火の散り際のように一瞬じわりと震えて溶けた。

 もう、見ていられなかった。先生が自分に気づく前にと、藤倉は静かに元来た道を引き返した。

2021年4月6日公開

作品集『薄暮教室』第9話 (全17話)

© 2021 篠乃崎碧海

読み終えたらレビューしてください

この作品のタグ

著者

この作者の人気作

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

"八 緋寒桜"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る