七 冬蝶の夢

薄暮教室(第8話)

篠乃崎碧海

小説

7,444文字

手の届かないものを数えて暮らすことに慣れてしまった。慣れたと、思い込みたかった。

 灰色の空から、ふわりはらりと羽毛のような雪が舞い落ちてくる。初冬の到来を告げるそれはまだ水分を多く含み重たげで、コートの裾や袖に纏わりついてはあっという間に染み込んでいった。道行く人々もどこか楽しげに空を見上げては今年初の雪を手のひらに受けてみたり、肩に乗ったひとひらを払い合ったりして笑っている。

 濡れたコートをはたきながら、もうじき姿を見せるだろう子ども達のために今日も少し隙間を開けられたままの玄関の引き戸を開ける。只今帰った、と声をかけつつふと足元を見ると、見慣れた先生の草履の横にもうひとつ、少しくたびれた黒の革靴が並んでいた。

「おや、お帰りなさい。お邪魔させてもらっていますよ」

 居間では池沢がまるで自分の家であるかのようにのんびりとくつろいでいた。この間先生にと自ら持ってきた菓子を先生よりも早いペースでつまんでいる。この味はこっちと違いますね、これは多分黒砂糖を使っているんでしょうね……きっと先生にもっと食べてもらおうとまずは自分から手を伸ばしたのだろうが、すっかり目的を忘れてひとり楽しんでしまっているのは甘味好きの池沢らしい。

「藤倉さん、お帰りなさい。とうとう初雪ですね」

 隣でお茶のお代わりをつぐ先生もいつも通りの様子だ――普段はきっちりとしている正座を今日は緩く崩しているのと、その原因になっていると思われる右の足首に巻かれた真っ白い包帯を除いては。

「それ、どうしたんだ」

「ふらついて倒れた拍子に軽く足を挫いてね、それで先程ここまで送ってきたところなんですよ」

 先生が答えるより先に池沢が、特になんてことはないといった風に答える。すみません、お手数をおかけしました、と先生が軽く頭を下げると、池沢は笑って彼の肩をひとつ叩いた。

「さて、そろそろお暇するとしようか。……ああ、見送りはいりません」

 見送りに立とうとした先生を制すると、池沢はよっこらせと立ち上がる。白衣の上から年代物のインバネスを羽織り、重そうな往診鞄片手に玄関へ向かうその背中を、藤倉は追いかけた。

「足の怪我は大したことはないよ。軽く捻っただけだから、数日もすればほとんど痛みもなくなるだろう」

 靴を履きつつ、池沢は何気なく言う。藤倉が先程胸の内に飲み込んだ言葉を、心配を見透かしたようであった。

「それよりも、貧血を起こして倒れるほど咳き込んだことの方がね……最近あまり良くないようだ」

 池沢は思案げに呟く。怪我の原因はそれか、と藤倉はようやく合点がいった。

 最近の先生は前にも増して危なっかしいところがあった。咳き込んだあとふらふらとしゃがみこんだのを慌てて支えたのも一度や二度ではない。彼は倒れるまで無理を重ねるほど闇雲な行動は取らないが、ふとした瞬間発作的に襲いくる体調不良にはなす術もないといった風であった。

「最近冷えるからか? 俺にできることはないか」

「季節のせいもあるにはあるだろうが……」池沢は言葉を濁す。先生の不調は今に始まったことではないし、生まれつき呼吸器の弱い彼が何を原因に体調を崩すのか、長年彼を診てきた池沢でも明確に判断のつかないことは多いのだろう。

「それにしても少し気になる。何か変わったことがあればすぐに教えてください」

 先生は素直に具合が悪いとあまり口に出さないから、傍で見ていて小さなことにも気がついてくれる藤倉さんの存在は私にとっても彼自身にとっても大変ありがたいのです、と池沢は言った。

2021年4月6日公開

作品集『薄暮教室』第8話 (全15話)

© 2021 篠乃崎碧海

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