町が近づくにつれ、街道の雪は踏み固められて歩きやすくなる。このあたりは冷え込みはそこまで厳しくならないが、積雪だけはとにかく多い地域で、先月の初雪を皮切りにしんしんと降り積もるとあっという間に根雪になった。
防寒と日除けのために頭から顔まですっぽりと覆っていた頭巾を脱ぎ去って、藤倉はようやく一息ついた。爽やかな冷たい風が、歩き通して汗ばんだ肌に当たって気持ちが良い。吐き出した息は白く、木々の先からきらきらと舞い飛ぶ雪の欠片と混ざり合ってなんとも冬らしかった。
長らく各地を放浪していたとはいえ、元々都会で育った人間にとって雪深い街道を往復するのは案外骨が折れる仕事だ。最初のうちは前を行く仲間達の背を追うだけで疲れ果てていたが、次第に要領を掴んで道中の景色を楽しめるまでになった。寒々しく枯れた草木の合間を吹き抜けていく冷気にふと顔を上げてみれば、雪を纏い脈々と尾根を広げた山が遠く見渡せる。どこまでも突き抜ける青い空の下胸いっぱいに冷えた空気を吸い込んで、また次の一歩を踏み出す。
藤倉にとってこの町はもう、偶然訪れた数多の土地のうちのひとつではなくなっていた。朝目覚めて一番に、窓の外で朝日に照らされてつやつやと光る瓦屋根を見たとき。数日前に蕾をつけた軒下の小さな植物が段々と膨らみ、ついに花開いたのを見たとき。かざぐるまを持った子どもにすれ違いざまに「クマ先生!」と呼びかけられたとき――幼い頃、家の近所を兄弟と一緒に来る日も来る日も走り回って遊んだ思い出がふと蘇るような、不思議な郷愁を覚えることがある。
次の季節もそのまた次の季節もこの町で迎えて、気がついたら何十年も経って――それも悪くない、と今は思える。日々を重ねていくことを恐れる必要はないのだと思えるようになったのはきっと、この町での出会いがあったからだ。
明後日で年内の仕事も終わりだ、最終日には盛大に飲み明かそう――そう仲間達と約束をして、藤倉は西日の眩しい街道をひとり大通りへ向けて下っていった。きし、きしと小気味良い音をたてて歩きながら、帰りがけ医院の前を通るついでに先生の薬を貰っていこうと考える。
雪道の先に、目印のような橙色のガス灯がひとつ。池沢医院は通りで一番早く明かりを灯すから、遠くから見てもすぐそれとわかる。
暖かに照らされた医院の前には人影があった。見知った背格好におや、と思う。
「おおい、先生」
深藍の袷羽織の上から褪せた色の襟巻きをふわりとまとい、歯の高い雪下駄を履いた先生は扉の前で佇んだまま、どこへ向かうでもなくぼんやりと空を見上げていた。
「あ、藤倉さん……おかえりなさい」
襟巻きの先が風にそよぎ、西日の色を吸い込んだ繊細な黒髪が揺れる。振り向いた先生は眩しそうに目を細め、儚く笑んだ。
――ふと、その微笑みに漠然とした違和感を覚えた。嫌な予感というほどのことではない、言葉にするほどのことでもないのかもしれない。しかし見過ごしてはいけない大切なものの前を素通りしたような、ちりりとした不安感が一瞬胸をよぎった。
「……何かあったか?」
見たところ体調が悪そうな様子はない。それでも何かが普段の彼と決定的に違うような気がする。笑い方も声も何ひとつ変わらない、しかし彼の見た目だけを精巧に写しとった人形を前にしているような、妙な怖気を孕んだ違和感――
「? いいえ、何も」
先生の目がすい、と細くなる。詮索はここまでだ。疑えば疑うほど、先生はさらりと何でもないといった風を装って余計に無理を重ねるか、無駄に気を張るようになるだけだ。違和感の正体に気づけない以上、これ以上突き詰めることはできない。
襟巻きの先がふわふわと揺れる背中に問いかけたかった。しかし言葉は出てこない。あと一歩彼の内面に踏み込む言葉を、藤倉はいつも飲み込んでしまうのだった。
先生は何も言わない。藤倉にだけ言わないのではなく、誰にも、大切なことは何ひとつ言おうとはしない。誰にでも優しく笑いかける彼は、その実誰のことも本心から信用してはいないのだ。藤倉にはそう思えて仕方がなかった。
何もかも曝け出してほしいというわけではない。ただ、全てを一人で抱えて生きていく必要はないのだということを、彼が周囲の人間に救われて生きていると感じるのと同じように、彼のおかげで前を向けたと感じている人間がいることをどうしたら伝えられるだろうか。
「薬ならもう頂きました。冷え込む前に帰りましょうか」
「ああ。この天気だ、今夜はきっとかなり冷える」
然程早い速度でもなかったが、歩き始めてすぐに先生はけほけほと弱く咳き込み出した。俯きがちに、襟巻きに口元を埋めるように咳き込む先生は思案気な目をして、ここではないどこか遠くを見ていた。
先生の見つめる先に藤倉も目を向けてみた。店じまいの作業に忙しそうな商店、角のところで世間話をする女達、日陰のまだ綺麗な雪を集めて遊んでいる子ども――藤倉の目に映るのはいつもと変わらない町の景色だった。藤倉には先生の見ている世界は見えないのだった。
「ほら、あそこ。一番星だ」
「あ、本当……なんだか、日増しにきらきらと透き通っていくように見えませんか? 今日のような見事な夕焼けの中で見上げると、特に」
同じものを見て、同じ感情を抱くことだけが心の繋がりではないことはわかっている。それでも、先生がその目に何を映し何を感じているのかわからないのは怖かった。遠くを見ているより、こうして星を見上げて笑っている方がずっといいと思った。
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