オート・スパイラル

応募作品

大猫

小説

3,781文字

オートレース場のそばに住む女の物語。合評会2021年3月参加作品。
(画像はオートレースオフィシャルサイトより)

どうしてオートレース場の目の前の家なの? 騒音は大丈夫なの? ピアノ教室できるんだよね? と菜七子が聞いたら、だって東南角地で日当たり最高だし、部屋数もあるし、値段も手頃だし、これでいいんじゃないの? と夫は答えた。オートレースだって毎日やってるわけじゃない。月に十日くらいだし、ピアノ教室くらいできるだろ。

その通りだった。オートレースは週末を中心に数日単位で月に数回開催で、騒音はその間しか聞こえてこない。夫は平日は会社へ行っているし、休みの日はイヤホンを付けたまま寝ている。ピアノ教室の練習音を嫌がって土日はイヤホン付けっぱなしが習慣になっている。さすがに夜になればイヤホンは外すが、ナイター試合の音が聞こえてきても、全然どうってことないじゃん、と涼しい顔で飯を食っている。ナイターでは特別な消音マフラーを付けるから昼間ほどは響かないのだ。

オートレース場のコースを左回りに走るバイクのエンジン音は鳴りっぱなしではなくて、ブゥーンブゥーン……ブゥーンブゥーン……と一定の間隔を空けて響いて来る。直線コースではエンジン全開にするけれど、カーブに入ると減速して音が弱まるからだと聞いた。すり鉢形の形状はトラックの轟音を上空に浮遊させるらしく、音は目の前のオートレース場からではなく、頭の上から聞こえてくる。午後の陽光いっぱいの庭に立つと、青空から重低音が降って来て、ぐるぐる身体に絡みつく。螺旋状の衝撃波が頭上から足首へと駆け抜けて、耳は痺れ頭は真空になり胸が絞め付けられて呼吸が苦しくなる。

室内にいても、二重サッシの隙間からエンジン音が侵入して来る。間欠的な騒音は小さな竜巻のようで、幾つも幾つも頭の周りをぐるぐる回っては消えていく。バッハは踏んづけられ、ベートーベンは横滑りされ、アルペジオは分断され、グリッサンドは押し潰される。こんなんじゃピアノ弾けないし、教室なんかできない、と夫に訴えかけても、レースのない日に弾けばいい、と取り合わない。確かにレースのない日に弾けば問題はない。それにピアノを習いに来るのは近隣の子供たちばかりなのでオートレースの音には慣れている。

 

ようやく騒音に折り合いを付けられるようになった頃、菜七子は妊娠した。悪阻の身体に重低音がずっしりとのしかかってなかなか起き上がれない日が続き、静かな場所へ移りたいと懇願したが、悪阻は病気じゃないんだしそのうち治まるんだからちょっとだけ我慢してくれと夫は言った。

やっとのことで六か月目に入り悪阻が治まり始めると下腹に胎動を感じるようになった。不思議なことに胎児はオートレース音に反応するようだった。生徒が弾く大音量のピアノにも、テレビにもインターフォンにも電話の呼び出し音にも何の反応もないのに、オートレースのエンジンが鳴り出すと、必ず下腹で尋常ならざる動きが始まる。もう胎動というレベルではない。全身をくねらせ、手足をばたつかせ、羊水の中をちゅるりと回転する。その刺激で子宮がきゅうきゅう張って下腹が痛み出す。心配になって何度も産科で診てもらったが、発育に特段の問題はないと言う。骨格がしっかりした大きな子ですよ、と医者が超音波画像を褒めてくれた。

それからも胎児は順調に発育し、九ヶ月目に入ると腹だけの生き物になったような気がして来た。あまりに身体が億劫なのでピアノ教室は三ヶ月ほどお休みにしてのんびり過ごすことにした。それもあってか腹の子はますます育ち続けて、オートレース音への反応もエスカレートする一方だ。大きくなった分、回転もダイナミックになった。急に体を回されると重心が移動してバランスを崩しそうになる。膨らみ切った子宮内の育ち切った胎児は水風船の中にもう一つ水風船を入れたようなものだ。腹の中で水風船がちゅるりちゅるりと回って、自分の身体がどこに行ったのか分からなくなる。思い切り蹴られて骨盤にまで響いて転びそうになることもある。蹴った格好のまま眠ってしまうこともあって、下腹のそこだけがいびつに飛び出ていたりする。それでも菜七子は日々の乱暴狼藉に慣れてしまった。レースのない日は静かすぎて物足りなくなるほどだ。

 

冬空に冷たいからっ風の吹く日の正午過ぎ、菜七子はオートレース場まで足を運んでみることにした。実際のレースを見てみたくなったのだが、ここのところ胎児の動きが鈍くなって心配になったこともある。目の前にある施設とは言え、重たい腹を抱えて歩くのはなかなか大変だ。

入り口はどこかと探していたら、強風でマフラーが飛ばされてしまった。探そうにも巨大な腹で足元が見えず、左右を見渡してきょろきょろするしかない。結局マフラーは見当たらず、諦めて歩き出した時、

「これ、落とされましたよ」

と若い女が駆け寄って来た。ピンクのキャップ帽にピンクのジャケットという派手な出で立ちの茶髪女だった。小柄でほっそりしていて、高校生のアルバイトのようにも見えた。ありがとうございます、助かりました、と礼を言うと、

「大事なお体ですから、気を付けてくださいね」

あけっぴろげな笑顔を見せると女は走り去った。じんわり胸に満ちてくるものがあって、菜七子はちょっと涙ぐんだ。

 

レース場は男ばかりで、腹の大きな妊婦は奇異の目で見られるのではと心配したが、平日昼間のスタンドは客足もまばらで、誰一人菜七子には注意を払わなかった。せっかくだから車券も買った。オッズの見方が分からなかったので、六レースから十二レースまで、ラッキーナンバーの七番の単勝を一枚ずつ七枚買った。

初めて見たレース場は想像よりも広々として清潔で、初めて直接聞いたレースの音はさんざん聞いた重低音ではなく、耳をつんざく甲高い爆音だった。そして衝撃は頭の上からではなく足の下からやって来た。色とりどりのバイクの一団がコーナーを回ってやって来るたび、足元が地割れしそうにガタガタ震えた。近く、遠く、近く、爆音と共に世の中までが回転を始めて、自分の身体が螺旋の渦の中へ引きずり込まれて行くようだった。

腹の中で胎児が踊り狂っている。身をくねらせてちゅるんと回り、手足を伸ばしては子宮の壁を叩く。下腹が強烈に突っ張って苦しかったけれど、菜七子は嬉しかった。ああ良かった、元気だった、良かった。

 

重たい腹に難儀しながらも、初めて見るオートレースが面白くて六レースから十一レースまでつい三時間以上も観戦してしまった。その間一度も七番は来なかったが、西陽にナイター照明が入り混じる中で走り始めた最終レースでは、七番が優勢で隣の八番と激しく競り合っていた。そうして歓声や怒号が入り混じる中、七番が先頭でゴールインしたのだった。

七番はオレンジ色のヘルメットの選手だった。選手たちはバイクに乗ったまま、一旦バックヤードの建物内に消えて行った。ウィニングランは重い装備を脱いでから行われるのだ。大穴だったらしく、オーロラビジョンには「二連単四万二千五百円」「三連単九十八万五千二百三十円」など、高額の配当金が表示されており、スタンドはすごい騒ぎになっている。菜七子の買った単勝は二千円だ。百円が二千円になったと喜んでいたら、オーロラビジョンが切り替わりバックヤードの様子が映し出された。ガッツポーズの優勝選手と祝福する人々だ。アメフトのように盛り上がったプロテクターの肩の間にオレンジ色のヘルメットが埋まって見えた。

「一着 斉藤摩弥」

ヘルメットを脱いだ下から小さな顔が現れた。頭を一振りして長い茶髪が散らばった。仲間たちと抱き合って喜ぶその顔は、確かにさっき出会ったピンクの帽子の人だ。

しばらくして優勝者の斉藤摩弥はトラックに現れて大歓声に応えた。ごついスーツを脱いで、ピンク色のジャケットに戻っていた。オーロラビジョンにはあのあけっぴろげな笑顔が大写しに映っている。ふと笑顔が崩れて、大きな目からぽろぼろと涙がこぼれ落ちた。それを見て菜七子も貰い泣きをしてしまった。

 

数日後、菜七子は産気づいて翌朝に三千八百グラムの大きな女の子が生まれた。事前に決めていた名前を取り止めて、絶対に「摩弥」と名付けると主張する菜七子に夫は逆らわなかった。オートレースの音を子守唄代わりにすやすやと眠る子だった。それなのにピアノの音色やインターフォンや電話の呼び出し音には不機嫌な泣き声を立てる。

 

感染症の蔓延で夫は在宅勤務になっていた。最初は珍しがって喜んでいたものの、だんだんと浮かない顔になって行き、ある日、思い詰めた様子で切り出した。

我が家はうるさすぎる。まず第一にオートレース場の騒音だ。その上、赤ん坊の泣き声にピアノ教室の練習音まで加わって仕事の効率が全く上がらない。気が狂いそうだ。

どうしたらいいのかと尋ねた菜七子に、勤務中はピアノは弾かないでほしい、子供も泣かせないでもらいたいと夫は言った。それは無理だ、ピアノを弾かないでいたら私は死んでしまうし、子供は泣くものだと菜七子は答えた。

それではせめてオートレース場の騒音が聞こえない場所に引っ越そう、ちゃんとした防音設備のある家を探そうと夫は提案した。

「あなた一人で引っ越せばいい。私は摩弥とここに住み続けます」

絶句した夫と菜七子との間に重低音の螺旋が降りてきた。

 

2021年3月20日公開

© 2021 大猫

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"オート・スパイラル"へのコメント 11

  • 投稿者 | 2021-03-26 22:36

    胎児が腹の中でちゅるりと回転する感覚を私はどうやっても経験できないのでわかりませんが、表現の豊かさを感じます。
    夫の態度は現在では通用しないものだと思いますが、そこは因果応報というか、最後はスカッとさせてもらいました。

  • 投稿者 | 2021-03-27 23:14

    主人公の静謐に見える内面とオートレース場という対比、コントラストの強さが印象的に残りました。
     歴史に鉄道が登場した頃は、その音の全てが公害でしかなかったはずなのに、ある世代以降はそれが郷愁と呼ぶようなもの変化していきますが、主人公は一人でその変化を体現しているのかなと感じました。
     その変化のきっかけが赤ちゃんというのには説得力を感じました。

  • 投稿者 | 2021-03-28 14:09

    旦那さんを悪い感じで書いてますけども、まあ普通なんじゃないかと私は思います。多分世の中の夫って言うのは大抵こんなもんだと。無論穿った見方かもしれませんが。

    奥様はとっくに諦めていたし、でもまあ、それはそれとして自分の現状には不満があったようで、それが所々、言外に出てる感じがあって怖かったです。ピアノがレース場の音に邪魔されるのがムカついてたし、妊娠したことも腹立つし、ピンクの茶髪女の容貌にも最初はいい印象が無かったかなと。茶髪女ってww。

    でも、結局のところそれらに救われたというか、それらのおかげで自立したというか。なんというか。ですからまあ旦那さんが良かったですね。最後。役割を果たしましたよね。

  • 投稿者 | 2021-03-28 14:27

    「膨らみ切った子宮内の育ち切った胎児は水風船の中にもう一つ水風船を入れたようなものだ。」
    という一文は知識だけじゃ書けないな、と。

    ふと読んで思ったのが、偉大な女性レーサーが主人公のストーリーの前日譚を書くとしたらこんな内容になるのかなと思いました。

  • 投稿者 | 2021-03-29 00:17

    お腹の中の摩弥ちゃんを通じて、まったく人生の中に情報がなく、ピアノの美しい音色を遮る騒音というイメージしかなかったオートレースに邂逅する主人公菜七子さんのストーリーをエッセイを読むような気持ちで読み進めることができました。
    オートレースの情報誌に「わたしとオートレースの出逢い」みたいなタイトルで載っていそうな。奥さんがその段階を追って心境が変化していっているのに、気づかなかったご主人の構図が露になってしまった最後のシーン。

    それではせめてオートレース場の騒音が聞こえない場所に引っ越そう、ちゃんとした防音設備のある家を探そうと夫は提案した。
    「あなた一人で引っ越せばいい。私は摩弥とここに住み続けます」

    うわあ……いろんな意味でうわあ……となりました。気をつけなくちゃとか、いろんな意味で、うん

  • 投稿者 | 2021-03-29 12:07

    きれいにまとまっている。音に着目して、妊娠期の女性の不安と結び付けたのはお見事。女性レーサーが登場するくだりも、男性的なイメージになりがちなモータースポーツに一石を投じている感じがする。

  • 編集者 | 2021-03-29 12:19

    モータースポーツを見る側にも様々な事情がある、と言うことに徹底的に踏み込んでいる。妊婦の視点が斬新。モーターで何かに目覚めるとは未来派妊婦か。
    しかし夫が悪いと言えば悪いのだろうが、生まれくる子どもの視点で考えると、前途が気になる。ママもパパも騒音で人生の決断を早送りしないで欲しい。

  • 投稿者 | 2021-03-29 13:58

    オートレース場の周りはどうなってるのか、気になりますね。ジェンダー問題は今かなり案件ですが、やはり妊娠出産において身体的制約を受ける女性に対してあまりにも男性が無関心すぎるのは気になります。子育て大変ですよね。

  • 投稿者 | 2021-03-29 15:04

    いやあうまいなあ。最初オートレースの音にうんざりしていた菜七子が夫に訴えるも取り合ってもらえず、その後妊娠出産を経て、ホームワークで家にいるようになった夫が逆にオートレースの音に苦言を漏らす。その経緯が丁寧に描かれいい話で纏まっています。さすがだなと思いました。ずいぶん昔のことですがオートレース場に初めて行ったときその爆音にしびれた経験があります。あの音は一度は経験してみるといいです。

  • 投稿者 | 2021-03-29 19:00

    俺も騒音無理なんで(世界一静かな山奥で育ったので)奥さんの肩を持とうと思っていたのに、母子で環境に順応されてしまって置いてけぼりになってしまったけど、旦那がクズでホッとした。

  • 投稿者 | 2021-03-30 14:20

    時間の経過が川の流れのように自然に描かれていて、しんみりとしました。
    夫のクソ具合がいいですね。

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