鱒の書き初め

応募作品

わく

小説

3,875文字

鱒はマスと読みます。
かったるい年末年始の話となります。

かったるい正月休みのかったるい朝焼けとその午後。きれいだなんて恥ずかしげにとても言えず、実際きれいなんていう表現は適切でもなく、淡い絶望を芸術的に表現しているとしか言えない暮れて変わる夕空の色に、おれたちはうなだれるしかなくて。

「小学校のときの書き初めに、こいつなんて文字選んだと思う? 鱒。鱒だよ! 釣り好きとはいえ鱒だよ!? 鱒の書き初めだってさ! ははははは!」

今となってそんな話をされたのも、何もかもが変わって、おれたちの脳みそからつま先まで、小学生のときのものとは違う分子に入れ替わったからだった。

別におれたちの家は教会でもなけりゃ、寺でもなく、神社でもなく、モスクでもなく、言い換えれば、それを罪だなんて言う奴はだれもいなかったはずなもんで。とはいえ、小学校が廃校寸前のど田舎には無知が蔓延していたのかもしれず、中学になって町で下宿をはじめれば、初めて出会う同級生たちはとんでもない悪に見え、中学生が買ってはいけない本について論評するなんて、破廉恥どころではなく、犯罪のように思え、集落では絶対に聞くことのない話題でおれと相棒の十勝正雄は恐怖におののき震えちまって。十勝正雄って奴はちっちゃな小学校なのに同姓同名の下級生がもうひとりいて、下級生の方は子連れのカモシカに頭突きを喰らったことのあるやつ、相棒の方は天然記念物であるカモシカを鍋にして食べたことがあって、それがもとで逮捕された親戚がいたやつ。年を経るにつれ名前どころか、どちらもハゲたせいで顔貌まで似てきたせいか、今でも集落出身の奴らが十勝正雄を区分するときは『頭突きのほう』『鍋のほう』と、事件をもとに分類していた。そうそう、おれたちの集落で最悪の悪事ってのはカモシカを鍋にすることであって、それ以上のことは絶対にないはずなもんで。だからなのか、同級生たちが声を大にして言ってるエロいことの意味すらおれと正雄には分からなくても、教師や女子生徒の怪訝な表情を見れば、それが悪に分類されるのだとすぐに感じいって。おれたちは箱入りで育てられた令嬢のようにお高く止まっているように見えても、それがおれたちと同級生の間の溝を決定的にするわけではなくて、それは軍手のせい。まだ、寒い春の朝、町の中学生たちの間にはなぜか、軍手をして通学するのが流行っていて、集落のおれと正雄には軍手など野良仕事の手伝いでもしているようにしか見えず、おれたちだけは革の(合成皮革のちゃちい)手袋をつけ。

「軍手なんてダセェやな?」

この二人の間での言葉が、知らぬうちに誰かに聞かれて、おれたちは孤立。そんなバカバカしいことだろうと、それは中学生には重大で、会社でだれが出世するのかしないのか、誰が不倫してるかなんて話が重大に思えても、退職しちまえば、それはバカバカしい昔話に過ぎないけれどそのときは重大なのと同じこと。

それでもおれらなら卓球部は二人で十分だし、一緒にやっていたドラクエⅢのデータは何回も消えるので、その度に落胆しては、何回も繰り返し、なんだかんだ半年以上飽きずに二人以外友達のいないなか生活していて。おれは随分気楽に暮らしているつもりなのに、正雄の背が、育てている朝顔のようにぐんぐん伸びるにつれ、顔つきの方には生彩がきえ、萎れた花のように首の重みでどんよりうつむきがちになって。北国に冬がやってくると、陽はあっという間におちてしまい、余計に暗くなる心持ちをさらに失速させたのが、ドラクエⅢのクリア。下宿に帰ってやることもなく、うっすら雪の降り出した中、河原を散歩して、灰色の空を眺め、ため息ついて、石ころ蹴り蹴り、新しいゲームソフトでも買う金落ちてないかとあたりを見回して、見つかるのはなぜか上裸で寒風摩擦をしている正雄。遠目から、おれがけらけら笑ってみても、黙々と寒風摩擦を続ける奴がだんだん心配になって、駆け寄り、目の前でけらけら笑って見せても、それでもまだ寒風摩擦をやめず。

「なにして?」

ゴシゴシ摩擦する音、ひたすらそれが正雄の回答で、仕方なくおれは奴の隣に座りこんで、奴の仕事が終わるのを待つ。

「おれの心は弱い」

奴は標準語っぽく、そう言って。

「んで?」

「おれは心を強くしなきゃ」

「なんで?」

「おれは最近だめなことばかりしてるから…」

「んで?」

「おれはお前が眠った後に、いけないことばかりしてんだ」

「なんで?」

初めは、いったい奴がどんな悪いことをしているのか気になっても、決して好奇心を覚えるようなことではなく、それはおれにも身に覚えのある、というか健康な中学生男子なら誰でもしていることであって。けれど、当時は性教育なんてのはなおざりで、保健体育の授業なんて、教師も恥ずかしがってまともにやっていなかったせいで、おれたちは両親のおかげで産まれてきたのでなく、コウノトリが運んできたという説明のほうが実感としてはより強く納得できるくらい。

「もちろん、お前はそんなことしてないのやな?」

そう聞かれ、おれは考えるヒマもなく反射的に答えるしかなく。

「んだな」

正雄に聞かれるまで、それはおれにとって良いことでも悪いことでもないグレーゾーンの世界でありつつも、後味の悪いことではあったので、それをどう説明していいのか分からないままにしていたが、正雄がナタを振るって曖昧な領域を断ち切ったのだった。

それから、おれたちの下宿生活には不思議な緊張感が漂い、正雄が善悪の境界をつけたにも関わらず、茫漠とした不安は、下宿の三毛猫と同じように、部屋を行ったり来たり、階段を行ったり来たりした。古時計の振子の揺れは遅くなり、緩慢な時が流れはじめたけれど、なにをやる気もせず、久しぶりにファミコンをはじめメラゾーマを発してみてもなんの興奮もなく、それどころか発したいのはメラゾーマではないと気付かされて、冒険は終わったのだということを実感した。

学校が終わって、実家に帰るときは嬉しかった。夏休みは正雄と一緒に帰ったが、その冬休みはひとりで電車に飛び乗った。車窓の風景が家にちかづいてることを知らせると、心は穏やかになり、学校と下宿は汚泥にまみれた不衛生な土地だったように思えてきた。とはいえ、久しぶりに寛ぐことができたのも、ほんのニ、三日だった。汚泥は地の底から沸き立つようにやってきて、洪水のように町から集落までを襲いかかった。寒風摩擦をしていた正雄の気持ちが分かったが、外をうろついても、もはや集落は以前の集落と同じではなかった。なにもかもたまらなくなって大晦日の夜、おれは一人で外にでた。月明かりしかあてにならないが、雪のおかげで普段より外は明るかった。虫の音ひとつ聞こえず何もかもが死んだようにひっそりしていたがそのうち、町で遠くの電車の音を聞くときのような微かな音が聞こえてきた。人の荒い息と車のタイヤで固められた雪道を走る音が、何分もかけて徐々に大きくなった。百メートル先からでも、それが誰かはおれに分かった。正雄は夏と同じ黄色いTシャツ一枚で走り、冬を切裂こうと懸命にあえいでいた。正雄は全く走るのをやめようとせず、おれは遮断器の前で電車の通過を見送る人間のようだった。それでも、すぐに奴の背中を追った。

「来年は絶対に負けない!」

追いつくと正雄は言った。

「おれもお前も来年は正しく生きるんだ!」

大人にとってはバカバカしい言葉だったろうし、数年後のおれたちにとってすらバカバカしい言葉に過ぎなかったけれど、見知らぬ場所を新たに旅するのに方位が分からなければ、どこへも進めないのと同じように、集落での長閑な子供時代から、未知の大人の世界へ足を踏み入れようとする二人にとっては、その言葉だけが標識になるのだと、そのときは確かに思えた。テニスシューズが濡れて重くなるほど走り、月明かりを反射させる雪の白さだけが続く中を二人、自分たちが一体どこにいるのか分からなくなった。

家族とテレビを見ることもなく、布団の中で一睡をすることもなく年は明けた。外のごく薄い雪明かりだけが差し込む部屋の天井を見続けていた。十年前から、何一つ変わらぬ部屋のはずなのに、もはやそこにかつての部屋はない気がした。朝焼けが空に走る前、冷気のなかをほんの微かな淡い光が溶け出し、全物質の表面の色彩が暗闇から解き放たれるように心は体と分離し、ほかもそれにならった。

昼まで、布団の上でぼんやりしていると父親から怒鳴りつけられ、毎年参拝している町の大きな神社へ軽トラで二時間もかけて連れていかれた。集落の子供たち、中学の同級生たちの姿も見えたが、正雄の姿はなかった。去年も一昨年も元旦のこの神社で出会ったはずだった。正雄の昨日の言葉を思いだすと、何も祈りたくなく、父親だけを参拝の列に並ばせて、周りに積もった雪も気にせず、境内の大きなクスノキに寄りかかって座った。スキージャケットを着た同じ集落の子供たちが雪玉を投げ合い、流れ弾にあたった中学の同級生の女の子が笑っていた。雪の白さも女の子の肌の色も、スキージャケットの赤色も全てが、元日の昼の陽光の中で色鮮やかに調和していた。何もかもを人生で一番美しく思い、もう自分の人生からはそんなものが全て離れていき、実際それ以降、美しいと心底感じるようなものは何一つなく雪の流れ弾がおれにも当たった瞬間、何もかもが死んじまって。

そうして、もはや声変わり前の声など誰も覚えてないように、こんなことは正雄も覚えていないようで、おれたちは完全に声変わりした声で正月には笑っている。

「鱒の書き初めだってさ! ははははは!」

2020年12月31日公開

© 2020 わく

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ユーモア 散文

"鱒の書き初め"へのコメント 14

  • ゲスト | 2021-01-20 20:12

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  • 投稿者 | 2021-01-20 22:46

    リズムがいいです。尻切れな文章、小道具でやんわりと示される時代、思春期特有の無謀さ、悩み、それらが晦日をまたぐとともに「雪の白さ」に回収されるような感じでしょうか。
    気持ちのいい作品でした。

  • 投稿者 | 2021-01-21 06:19

    主人公の俺が内にこもるタイプの思考であったとしたら、正雄氏は外に向けるタイプというか、放出しないことには気が済まないようなタイプというか。それが両者の溝を作って、そんですっかり放出してしまったのか正雄氏はすっかり忘れてしまっていて、でも、内に籠るタイプの俺の方はそういうわけにはいかない。と思います。笑っちゃいるけど。多分。一生忘れないと思う。多分。

  • 投稿者 | 2021-01-22 22:11

    神社の雪合戦のシーンと共に過ぎ去ってゆく子供時代がとても印象的でした。

    リード文からお下劣系の作品かと思ったのですが、とんでもない。潔癖癇癖とも言える青春初めの少年たちの物語でした。厳寒の空で血が出そうなほど乾布摩擦をする正雄は、夏目漱石の『こころ』に出てくるKを思い起こします。三島由紀夫の作品で、自慰をした後で氷水を被り、そこら中を掃き清める青年が出て来たのを思い出しました。

    中学生で下宿に入るような地域は現代では考えにくいから、旧制中学の頃の話かなと思ったらドラクエⅢが出てくるし。ドラクエⅢだったらわたし的には超現代です。まだまだこんな地域があるのですね。

  • 投稿者 | 2021-01-23 21:40

    青春を美化しすぎることなく、中学時代の等身大のさまがもの凄く出ているなあと思いました。登下校中に軍手をはめるのがカッコイイという風潮が私の中学校にもあった事をしみじみと思い出しました。

  • 投稿者 | 2021-01-24 12:38

    中学生時代のおれたちが生きている「今」とは別に大人になった彼らの「今」がちらほらと垣間見える。その目線から描かれる思春期の物語にトム・ソーヤー的な健全さを感じた。悪い意味で思春期を長々と引きずっている人間としては読んでいてちょっとしんどかった。私は下宿と寮の区別さえあまりわかっていないので、下宿生活についてもっと生き生きした描写があったらよかったなと個人的に思った。

    とてもとても小さなことなのだけど、「二、三日」の二がカタカナのニになっていると目に入った瞬間に鳥肌が立ってしまう。

  • 投稿者 | 2021-01-24 18:07

    正夫がイカスですな。
    ほのぼのノスタルジーで和製スタンドバイミーっぽい感じです。

  • 投稿者 | 2021-01-24 19:42

    「青少年の清潔さは、詰まるところ大人の不潔さを拒絶したように見えてその実大人の側からも拒絶されていることに心の底では安心している怠慢さ」というような内容を三島由紀夫が語っていたことを何となく思い出しました。

  • 投稿者 | 2021-01-25 07:56

    スレていなく罪だと思う感覚がとても青臭くて好感が持てます。私にもこんな時分があったのかしら、いや、擦り切れていたからなかったなあ、と。それと勢いのある文章、尻切れの筆致が味があって良いです。

  • 投稿者 | 2021-01-25 10:48

    まあたぶん世代的にも地域レベル的にも俺のリアル経験がリンクするので懐かしく読んだ。ただ悪事のレベルがここまで牧歌的ではなくもう少しガチだったな。作品は好き。

  • 投稿者 | 2021-01-25 12:28

    鱒と言うとブローディガンを思い起こしますが、子どもの時とは分子が入れ替わってるという突飛な発想や、切れ切れに挿入されるエピソードがぽいなと思いました。二人の会話も好きです。最後の雪合戦の描写も良かったです。

  • 投稿者 | 2021-01-25 14:37

    スクールカースト的には 正雄(鍋)>おれ>正雄(頭突き) みたいな感じなのだろうけど、さらに >僕 な僕にとっては終始沼の底から水面を見上げているような読み味でした。

  • 編集者 | 2021-01-25 18:39

    そうだ、みんな過ぎ去っていくのダ。と言うことを改めて感じさせられた。お題が「初」なのに振り返させられる作品というのも中々面白い。

  • 投稿者 | 2021-01-25 18:57

    鱒書いたかあ。そうかあ……と。どどめ色でぬらぬら光って、いい青春だ。「鍋の方」、「頭突きの方」、そういう単語に高い少年期への彩度を感じました。

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