ワクチン・ハラスメント

応募作品

わく

小説

4,802文字

 文字数を減らすため、最後が急になってしまいましたが、ご一読いただければ幸いです。

係長の神田林が、部長のデスクで電話を受けたのはフロアに人がまばらだったせいもあった。けれど、そもそも当の部長が不在だったのは、このフロアの課長クラス以上の社員の間で行われた親睦会において感染クラスターが発生し、部長は濃厚接触者として自宅待機を命じられていたからだった。

「……亡くなられましたか」

神田林は自分の上司である佐藤課長が、コロナ感染がもとで亡くなったという一報を親族から聞いて、それ以上何も言えなかった。悲痛に聞こえる遺族のかすれた声を耳にすると、確かに人間がひとり死んだのだという実感がわいてきた。彼の電話を持つ手が徐々に震えてきた。これは本当に現実の出来事なのだろうか。この前まであんなに元気だったあの人が…。

その後、この電話のことを神田林が思い出すとき、自分が何を言ったのかは全く覚えていなかったが、受話器を切った後の光景だけは鮮明に記憶していた。

「死んだ……死んだ……課長が死んだ……」

受話器を置いた瞬間、世界全体を覆っていた巨大な雲が一瞬にして消え去り、目を開けられないくらい眩しい光が彼をとらえた。彼はミュージカルを実際に観たことは一度もなかったけれど、劇の途中で突然歌いだす人物の気持ちがこの瞬間、完全に分かった。死を喜ぶ歌を知っていたら、彼は真っ先に大声で歌いだしたろう。

「死んだ! 死んだ! 課長が死んだ!」

彼の内部には陽気で明るい音楽が流れていた。彼の身体は宙に浮かび上がりそうなほど軽かった。まばらなフロアには若手社員しかいなかったから、すぐに同じ課のみんなが立ち上がった。そしてまさにミュージカルの如く、みんなが歌いだした。

「死んだ! 死んだ! 課長が死んだ! 死んだ! 死んだ! 課長が死んだ!」

課で一番若い皆川は涙を流して喜んでいた。

「よかった…本当によかった…」

彼女の母親はコロナ病棟の看護師を務めていて、コロナの恐ろしさを十分知っているはずだったが、今そんなことは問題でなかった。泣いている皆川に駆け寄った数人で自然と円陣が組まれ、ぐるぐるぐるぐる回り、目が回るほどぐるぐるぐるぐる回って、全員が浮かび上がりかねないほどの力になった。ひとりが回り疲れて円陣が崩れたが、まだまだ歓喜は沸き起こり、今度は甲子園の優勝メンバーがマウンドに駆け寄ったときのようにみんな指を高々と上げながらジャンプして喜びを爆発させ、最後には神田林が胴上げまでされた。その間に、広いオフィス内の各部門に佐藤課長急逝の報は球場で自然と沸き起こるウェーブのように、興奮の渦を巻き起こしながら知れ渡っていった。他部課でも佐藤課長は有名で、とくに人事異動の激しい若手社員のほとんどは「佐藤課長の下じゃなければどこでもいい」と言うほどだったから。

神田林はそんな佐藤課長の下で二年も働いていた。胴上げが終わって、オフィスのカーペットに下ろされて天井を見つめていると、二年間の辛い出来事が思い出されて、彼は寝転んだまま涙をとめどなく流した。

殴る蹴るは日常茶飯事だった。とくに有利な契約をとるために、取引先の前で部下を殴りつけ相手を間接的に恫喝する手段が佐藤課長の十八番だった。神田林が一人で苦労してとってきた契約にも、延々とけちをつけた。利益も十分に出る誰が見ても満足いく取引だったが、その契約にすぐにノーと言うなら未だしも、佐藤課長は三時間も説教をしながらケチをつけた上で、持っているライターで契約書を燃やして神田林に投げつけた。酒の席でも説教は延々と続いた。神田林が終電を逃したことが何十回もある。それどころか、一度は面白半分に「家庭訪問をする」と言い出して、泥酔した佐藤課長が神田林の家までやってきたこともあった。パジャマ姿でいた妻が上着を着て、課長にビールを注いだ。さすがに神田林の妻の前で課長が説教をすることはなかったが、それでも屈辱的な出来事には間違いなかった。

佐藤課長はパワハラで何度も上層部に訴えられていたが、そのたびに訴えは無視されていた。上層部の人間の大方の意見はこうだった。

「おれだって昔、そんな上司にあたったね。昭和じゃ普通のことだったよ。そのくらいで会社に騒ぎを起こすな」

経営学という学問では組織風土というものが非常に重要視されるが、これがこの会社の組織風土だった。会社に十年いる神田林自身もこの組織風土に知らず知らずに影響を受けていることに、ときどき驚いた。隣の課の新入社員がとても単純な契約を成功させて喜んでいたとき、彼は怒鳴りたくなった。

「そんなレベルの低さで満足してんじゃ、いつまでたってもそのレベルのままだぞ」

そんな言葉が頭に浮かんでから彼は思いあたるのだった。虐待される子は将来、自分が親になったとき自らも虐待をする可能性が高くなるという学説に。そしてパワハラを受けた部下は上司になると自らもパワハラをするだろうということに。こんな会社に長くいてはいけない。自分がダメになってしまう。

そう思っても、簡単に行動に移すことはできなかった。この企業は世間の誰もが知っている有名企業で、神田林が就職したときは両親も鼻高々で親戚中にいいふらしていた。それに三十台後半で一千万超の給与を得ることもできた。有能な管理職経験者でなければ同業他社に転職しても、ここ以上の収入はとても見込めなかった。パワハラに嫌気が差して退職をした若手を三人だけ神田林は知っていたが、一人は弁護士になり、もう一人は公認会計士になり、最後の一人はパン職人になった。神田林はどれにもなれない気がした。それに同じ上司に仕えるのは長くても三年というのがこの会社での慣例だったから、三年耐えれば途は開けるはずだった。佐藤課長ほどのパワハラをする管理職はもう少なくなっていたし、実際、隣の課は打って変わって笑い声のあふれる平和な課だった。佐藤課長の下さえ離れれば、転職しなくても事態は必ず好転する。ほかの若手社員もこんな神田林の考えと似たような考えを持っていたはずで、だからこそ佐藤課長の下でも転職する者がいなかったのだろう。

コロナのおかげでようやく神田林の課にも平穏が訪れたが、それも三日間だけだった。新しい課長がやってくると火はつけられていなかったが、また書類が投げつけられ、紙吹雪が起こった。あとで神田林は課の若手たちと「三日天下だったなあ」と笑った。『三日天下』と嘆きはしたが、まだ笑う余裕があった。佐藤課長があまりにも暴虐だったので、新しい課長はまだマシに思えて精神的に余裕ができていた。書類をいくら投げられようが、火がついてなければ、単なる紙に過ぎなかった。新任課長の口癖は「殺すぞ」だったが、佐藤課長の「死ね」よりはよかった。なぜなら新任課長は「殺すぞ」と言っても実際暴力は振るわないのだが、佐藤課長の場合は言われた相手が死んでいないと眉間に皺を寄せたままだったから。

佐藤課長のもとで神田林たちは、反社会的勢力の者が若いうちに身に着けるような度胸が据わったのだった。この度胸に更なる磨きをかけた役員たちは、これを武器に政界と財界を又にかけて暗躍し、会社の更なる発展に力を入れ、神田林たちの高給も約束されることになっていた。こういったわけで、佐藤課長のパワハラが黙殺されるのには、実は深い理由もあり、この組織風土は、一般的な現代人が見れば会社の大きな弱みであったが、現実の業務においては重要な強みでもあった。

ただし、神田林たちの余裕を『組織風土によって形成された強い度胸』だけで説明するのは単純すぎるように思える。もっと大きな理由は会社のシステムが、若手社員の在宅勤務を促す環境に変わったせいかもしれない。

通勤時間と残業がなくなると、神田林の世界は一変した。七歳の息子と夕暮れ時にキャッチボールをして「お父さん、仕事やめたら毎日キャッチボールできるよ」と言われると、会社で笑う時の自嘲的だったり皮肉だったりする性格とは全く別の、自分も子供のころにしか感じなかったような朗らかな笑いが体の奥底から突き上げてきた。残業代はなくなったが、無駄な交際費も減ったので、週末は妻に高級ワインを買ってくることもできた。酔った勢いばかりではなく、自然と彼の口から「もうひとり子供つくろうか」という言葉が出るほど、新婚当初にすらなかったような陽気な夜が続いた。

「早くワクチン注射打てるようになるといいねえ」

しかしテレビを見ている妻にそういわれた時、彼は急に怖くなった。副作用だけではなく、ワクチンによって世界が元通りになってしまうのが怖かった。ワクチンはまだ開発されるのに数年かかるという話を彼は信じていたから不安になった。その日の夜、彼は病気のサルが捕まえられるように自分が看護師たちにつかまえれられる夢を見た。逃げようとしたところを抑えつけられて無理矢理に注射を受けさせられた。翌朝、妻に夢のことを話すと一笑に付された。

「なんで逃げるの? 喜んで受けるよ」

彼はその後も、同じような夢をときどき見たが、ニュースで日本のワクチン接種が遅れていることを知ると奇妙に安心した。

在宅勤務が続いていたある日、夜になって突然新しい課長から会社に呼びつけられた。いやな予感がした。たいした用事でなければ概要でもメールで伝えることができたはずだったのに、何の説明もなかった。

「おい、バヤシ!」

ほとんど真っ暗な会社のフロアに着いたとたん、課長は叫んだ。誰も神田林のことを『バヤシ』と言う同僚はいなかったが、この新任課長だけはそう呼んだ。

「お前、ワクチン受けれるなら受けたいだろ?」

神田林は課長が何を言っているのかわからなかった。そんな素振りをしたせいか、課長はすぐに怒鳴った。

「殺すぞ。いまワクチン受けるって中国製の闇のに決まってんだろ。部長が知り合いから中国製ワクチンを手に入れてんだけど、不安だから実験体が欲しいんだよ」

まだ神田林は課長が何を言っているのかわからなかった。課長のデスクの周り以外が真っ暗なオフィスは夢の続きを見ているようだった。

「おれは中国製のワクチンなんか受けたくねえからな。代わりにお前な」

神田林は唾を飲み込んだ。

「少し考えさせてください」

「いや、もうそこに部長も、部長の知り合いの中国人もいて待ってる」

課長は会議室のドアを指差した。それから課長に腕を強引につかまれると、神田林は抵抗する気力もなくなった。課長に腕をつかまれてワクチンを打たれるなんて夢よりも悪かった。夢ではきれいな白衣の看護師たちに適切なワクチンを打たれていたのだから。このワクチンで万一おれが死んだら、労災がおりるだろうかと神田林は考えてみてバカバカしくなった。「さっさとその窓から飛び降りろ」と上司から言われて、本当に飛び降りてしまった同期社員の裁判は何年も続いていた。高層ビルから飛び降りるときの気持ちを想像してみた。ジェットコースターで落ちるときのような解放感があるだろうか。落ちる間に人生を走馬灯のように思い出すだろうか。家族の顔を思い出すだろうか。

それから、あっけらかんと笑う妻の顔が思い浮かんだ。

「あら、ワクチン受けれたの? よかったじゃん」

会議室のドアが開いて、部長と見知らぬ中国人の暗い顔が並んだ横に注射器が置かれているのを見ると、まるで黒魔術の儀式がこれから行われるかのようだった。そうだ、おれはこの儀式を受けて常人のサラリーマンを超越したスーパーサラリーマンになるのだ。単なるワクチン接種ではなく、会社への真の忠誠を誓う叙任の儀式なのだ。まるで中世みたいだな。十年後、二十年後にこんな会社は存在しないだろうな。でも、おれにはどうしようもない。そんなことを考えながら、彼は腕をほとんど無抵抗に垂らしてワクチンの注射を打たれた。

その三か月後、神田林が『スーパーサラリーマン』になることはなかったが、その代わり、いたって軽症のコロナ患者になった。

2021年5月16日公開

© 2021 わく

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ユーモア 散文

"ワクチン・ハラスメント"へのコメント 13

  • 投稿者 | 2021-05-17 15:56

    田宮二郎の『白い巨塔』を思い出しました。

  • 投稿者 | 2021-05-21 01:59

    新参者です。よろしくお願いします。「破滅派」の投稿者は、皆さんクオリティーが高くて素晴らしいです。この作品はエンターテイメント性が優れていて、特に出だしの部分の腕の見せ所が成功していると思いました。サラリーマンの悲哀を感じました。この状況下でもサラリーマンって我慢して働いている、というイメージなのでしょうか? そうなのかも知れないし、そうじゃないかも知れないな、と思いました。

  • 投稿者 | 2021-05-21 19:54

    冒頭でリアリズム小説家と思いきやズルズルと暴走していくのが面白かったです。
    最後にもう一度リアリズムっぽく落とすのがまたオサレですね。

    • 投稿者 | 2021-05-23 23:53

      typoです
      誤:リアリズム小説家と思いきや→正:リアリズム小説かと思いきや

  • 投稿者 | 2021-05-24 06:44

    大丈夫、ファミ通の攻略本だよ。と言わんばかりの大丈夫、これが破滅派の合評会提出作品だよ。という感じの、素敵破滅派作品だったのではないかと思います。まあ私の印象による部分も大きいのかもしれないですけども。私はこういうのが破滅派だよなあって思います。素敵ング。

  • 投稿者 | 2021-05-26 08:22

    すごくシンプルなワクチンの話で良かったです。
    のんびり生活できる良さを感じているのにワクチンでそれが終わってしまうのか?という不安。リアルでした。実際にこんな人いそうですね。

  • 投稿者 | 2021-05-28 20:33

    中国製のは不活性化ワクチンだそうで、だとすると利いたんですかね。良かったです。
    中国製ワクチンだから中国人が打ちに来るとも限らないだろうにと思いながらも、情景を想像したらつい笑ってしまいました。
    冒頭から中間部へのブラック企業の描写が圧巻です。部下の命を的にしたパワハラのはずが、パワハラ成立せずにいい気味です。部長と課長がワクチン打たずに死んじゃえばよかったのにと思いました。

  • 投稿者 | 2021-05-28 22:25

    主人公の社畜な感じがよく出ていると思いました。さすがにここまでパワハラがひどいと、いくら金のためとはいえ一人くらいは抵抗する社員もいるのではないかと思ったりもしますが、やはり現実ではまだ退職が最大の抵抗手段なのでしょうか。退職代行が繁盛するわけです。

  • 投稿者 | 2021-05-30 12:25

    出だしのミュージカルでつかみはOK! ただ、死んだ佐藤課長のインパクトに押されて新任課長のキャラがあまり立っていないのがちょっともったいない気がした。名前を与えていないのにはどんな意図があったのだろう?

  • 投稿者 | 2021-05-30 19:34

    ブラック企業小説は、、心に来ます。。
    リモート生活になってるとそれはそれで家にまで入ってくるから違う意味でもっとしんどいんだろうなと。。

  • 投稿者 | 2021-05-30 20:54

    昔パワハラ上司と飲みの席で大喧嘩をしたことを思い出しました。殴り合いにはなりませんでしたがお互いワイシャツを掴み合って。この話ほどひどくはありませんが、昔は結構日常的に行われていた気がします。今では一発アウトでしょうね。

  • 編集者 | 2021-05-30 22:28

    話の波に舌を巻きつつ……他の方が先に書いているが、描写の一つ一つが胸にチクチク来る。職域接種などというのもそうだし、恐らくテレワークなども、もう既に会社を生活に24時間組み込むための手段として算段が取られていそうな気がする。

  • 投稿者 | 2021-05-31 16:24

    ストーリーも面白いし展開もよかった。んですが時制の取り扱いをもう少し丁寧にしてほしかったかも。あと否定形で描写することが多いのが序盤でちょっと気になった。

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