「十一月二十五日未明、福井県福井市で外部記憶装置アリシアを狙った通り魔事件が発生しました。被害者は二十代の女性。現在は正規クラウドのバックアップデータから記憶の復元措置を経て無事回復した様子ですが、事件当時のデータは残っていなかったようで、今の所犯人の情報はありません」
ミナの作った朝食を食べながら聞き流していたニュースにそんな話題が飛び込んできた。コメンテーターは悪質なイタズラではないかという見解だが、アリシアの破壊など一般人に可能なのだろうか。
普段僕らが当たり前のように利用している外部記憶装置アリシアの構造は秘匿されていて、一般人はそれに依存しながらもその実態についてほとんど何も知らない。
大学で脳について勉強している自分ですらその手口について何も思いつかないのだから、愉快犯でそんな専門的なことをするなどということは普通の思考では理解できない。
確かに僕自身もこの記憶社会に漠然とした息苦しさのようなものを感じていた。それは今の社会になんとなく蔓延している雰囲気ではあった。
しかしその曖昧な嫌悪感を表出するほどの熱意を持つのは尋常なことではない。何か目的があるのだろうか。
これでこの通り魔事件は今年に入ってから四件目だ。今の所被害者の共通点は見つかっていない。
「また通り魔のニュース」
顔を上げるとミナが味噌汁のお椀を口に近づけながら上目で僕の方を見ていた。環境共有設定で彼女も同じニュースを聞いている。
「うん。個人的には何か目的があると思うんだけどなあ。被害者の共通点とか上がってこないとなんとも」
「えらく熱心にニュース追ってるよね、やっぱりアリシア関連のニュースは押さえておきたいの?」
「それもあるけど、現場がこの辺だからね。ミナも夜は気をつけなよ?」
「私は大丈夫だよ」
味噌汁を飲み干してミナは何故か自信ありげに顎をしゃくってみせた。この子はいつも理由のない自信で物事を判断するのだ。そういうところが心配でもあり、かわいくもあった。だから少し意地悪したくもなる。
「僕との記憶が消えてもいいの?」
「バックアップがあるじゃん」
「そうだけどさ、バックアップデータのインストールってなんか嫌じゃない?」
「なんで?」
「なんか、それ本当に自分の記憶なのとか思ったりしない?」
「コータは人間が古いね。今時そんなの普通のことじゃん」
「いっこしか歳変わんないくせに。でもまあ、普通はそうなのかなあ」
「はいはい。また自分とは何かみたいな話がしたいの?さっさと哲学科に鞍替えすれば」
「何、なんか怒ってるの?」
「別に。ただひとこと美味しいとかありがとうとか言ってくれたら嬉しいなあとか思ってただけ」
僕は自分がぼうっとしたまま口に運んでいた朝ごはんを見て、口の中のものを飲み込んだ。
「美味しい。いつもありがとう」
「心がこもってなーい」
「ほんとだって。あー、ミナと出会えて幸せだなあ」
「そりゃそうでしょ」
おでこを突き合わせて、ふたり同時にぷっと吹き出した。窓から差し込む朝日が眩しくて、今日はいい日になりそうだな、となんとなく月並みのことを思った。
あの日ミナと出会ってから一年が経った。
彼女は同じ大学の教育学部に通う二年生で、僕は無事進級して三年生になっていた。波長があった僕らは出会ってから一か月後には同棲を始め、今の所関係はうまくいっている。
僕はミナの作る料理が好きだし、担当の掃除や皿洗いは昔からそんなに嫌いではなかった。むしろ無心で食器を片付ける時間は好きな部類で、掛け持ちで始めたアルバイト先のカフェでも率先してその役を担っている。
ミナは僕の紹介でメトロシアターで一緒に働いていた。あの映画館にそんなにバイトが必要なのかは不明だが、彼女を一目見た館長は即決で採用を決めたようだ。
それから僕らは二人で映画館の隅々まで掃除し、館長が帰ってからジンジャエールとポップコーンと共に昔の映画をぼんやりと見るという日々を送っていた。
正直閉館後の娯楽は館長にバレていたのだが、ミナの上目遣いのお願いに落とされたスケベおやじからいつの間にか黙認されるようになっていた。
「今日何限から?」
「僕は二限から。そのあと三限抜けて四限があるっけな」
「そっか今日水曜日か。あたし一二限ないから昼からじゃん。あーもっとゆっくり寝てればよかった」
「寝てばっかだと太るから朝はちゃんと起きるようにしたんじゃなかったっけ」
「うるさいな。時と場合があるんだよ女の子には」
「へいへいそうでございますか」
のんびりとした平和な朝だった。二人で朝からゲームをして、無駄に調子の良かったミナのせいで週末のお出かけ先が僕の行きたかったカフェから隣町のアウトレットへ変更になった。買い物に付き合うのは疲れるし眠くなるのであんまり好きじゃない。服は自分のペースでのんびり選ぶ方が気楽でいいと思うのだが、女の子は違うらしい。
それから「二度寝禁止な」と忠告して僕は先にアパートを出た。日差しの眩しさに目を眇める。見上げると冬の高空が真っ青に輝いていた。
寒いのはあまり好きではないが、冬のしんとした空気感は好きだ。
太陽の光はピアノ線のようにピンと張っていて、頬に当たる空気は軽やかでスキップしたくなる。ミナにはバカにされるのだが、僕はよく理由もなくスキップしてしまう。
するとなんとなく気分が良くなるのだ。楽しいからスキップするというよりも、スキップするから楽しくなるみたいなところがあると思う。
「コータ、レポートやってきた?ちょい見せてくれん?」
神経科学概論の講義室に入るなり僕を見つけたリョースケがこめかみを指差しながら駆け寄ってきた。課題のデータを転送しろということだ。
こいつは金持ちでいつも遊び呆けているくせにこうやって課題を調達して要領よく進学を続けている。入学当時からそうだった。まあ別にいいんだけど。同期で唯一と言っていい友達だし。
どうして彼が僕と行動するようになったのかはあまりよく覚えていない。といえば記憶はあるので嘘になるが、理解はできない。
入学して一週間後にあった親睦会めいた合宿で同期のやつらが与えられたに過ぎない知識をさも自分の考えのように話しているのを皮肉って反感を買っていたあたりから彼との交流は始まった。
僕らはきっと、捻くれ者同士なんだ。
「やだよおまえこないだ僕のレポートそのまま提出したじゃん。そっちのが学籍番号早いんだから俺がなんか言われんだよ」
「だいじょぶだいじょぶ、教授もパクったの俺だってわかってっから」
それはリョースケ的に大丈夫なのだろうかと思いながらも僕はため息をついて結局レポートを転送してやった。断ってもどうせこいつは誰かのデータを頭の中からパクってくるだろうから。
リョースケはとある界隈ではかなり有名なクラッカーで、プロテクトのかかった他人のデータにアクセスすることなどなんとも思わないイかれた奴なのだ。
そうは言いながらも僕も以前はマイナーな映画をリョースケに落としてきてもらってメトロシアターで楽しんでいたのであまり強く言えないのだが。
しかしミナに怒られてからはそういう頼み事はこの頃はしないようにしている。
無意味で退屈な講義を終えると一度アパートに戻った。ミナはすでに出かけていてテーブルの上にはオムライスが置いてあった。
ケチャップで「バカ」と書かれているのを見て思わず口元が緩む。こういうところが好きだ。得意げに笑いながら文字を書いているミナの姿が浮かぶ。
平和で幸せな生活がそこにあった。退屈な学校生活も、ここから未来へ伸びている嫌気がさしそうなほど平凡な道のりも、ミナといられればなんだって輝いているように思えた。
おもしろくもないネット番組を頭の片隅で垂れ流しながらオムライスを食べているとインターホンが鳴った。こんな時間に珍しい。宗教の勧誘だろうか。
以前にも聞いたことのない新興宗教の勧誘に長々と付き合わされ、会合にまで誘われかけたことがあった。話を途中で遮るのが苦手な僕は最後まで良い聞き手になってしまうので向こうにも期待させてしまって申し訳ない。
口の中のものを飲み込むまでにもう一度インターホンが鳴ったので仕方なく扉を開けた。そこにいたのは初老の男性で、きっちりと分けられた前髪からは気品のようなものを感じた。
背が高く、立ち姿が綺麗だった。優しげな目をしているが、こちらの何かを見抜かれるような不安を覚えた。
「三浦さん?」
「あ、はい。あの、どちらさまで?」
「尾本さんはここに住んでいるのかな?」
「え?あ、ミナのお知り合いですか?」
「彼女はまだ無事なんだね」
「あの、何を言っているのか。あなたはどなたですか?」
こちらの話をまるで聞いていない。老人の目が部屋の中をのぞいていることに気づき、体をずらして視界を遮った。
正面から目があって、老人の目が少し灰色がかっていることに気がついた。外国の血が混ざっているのだろうか。いや、そういえば東北出身の同期のやつがこんな目の色をしてたっけ。何かを悟っているような知性を感じる綺麗な目だった。
でもなんだろう、この歳でミナのストーカー?無事なんだねって、いったいどういうことだろう。
「また会いに来ます。彼女から目を離さないように」
勝手にそれだけ言うと老人はキビキビとした動きでアパートの階段を降りていった。僕はその背中を見送りながらよくわからない不安を覚え、ミナに電話をしようかと思ったが、何故か彼のことをミナに知らせない方がいいような気がしてやめた。
部屋に戻ると窓から老人の姿が見えなくなるまでその背中を見つめ、不安のしこりを感じながらオムライスの残りを平らげた。
脳内メディアでは朝聞いたのと同じ通魔のニュースがそのまま繰り返されていて、うんざりしたので接続を遮断した。独り静かな室内。
不意に寒さが身にしみて、何故か今までつけていなかった暖房のスイッチを入れた。暖かい風に手を当てても、日常の何かが途切れたような漠然とした不安は消え去ってはくれなかった。
こんな風に書いてみて、これをわざわざノートから読み取る君は楽しんでくれているだろうか。それとも少し面倒だと感じ始めているだろうか。君が少しでも僕のことを想ってくれるなら、これからもう少し付き合ってもらいたいな。それほど長くかけるつもりはないんだ。僕が言いたいことはきっとそんなに言葉を続けても意味がないようなことだから。僕はただ、君が好きだと言いたいんだ。けれど君は、僕の言う「君」というのは一体誰のことなのかと問いたくなると思う。だからわざわざこんな文章を長々と書き連ね、それがはっきりと君のことだと納得させなければならないのだろう。だからこういうまどろっこしいことになったのも君のせい、というか君のため、といったところだし、きっとこれは君にとってひとつのヒントにもなるだろうから、忍耐強く読み続けて欲しい。それに、いつか話したよね。僕は小説家になりたいんだ。そう言った時、君は今すぐ書くべきだって僕を机に座らせて、でも僕は何も書くことができなかった。それから小説を書く書かないでは何度も喧嘩をしたね。こんなこと言っても覚えていないだろうから仕方がないけれど、そのことを言われると僕は随分苦しかった。僕はどうして小説を書きたいのかわからなくなっていたんだ。書きたいことがあるから結果として小説家になるはずなのに、僕の中ではいつのまにか小説家になるということが先に立ってしまって、それは夢というよりも呪いのようなものになっていた。いつだって僕は小説を書きたいと思っていた。けれどいざ書き始めようとすると、それが本当に書くべきことなのか、そもそも僕の中に書くべきことなど存在するのかという騒ぎが頭の中で巻き起こり、いつも僕を恥と自己嫌悪の中へ突き落としてしまうんだ。けれど今は目の前の君と僕のことを書いているから、なんとか続けられそうだよ。君が望んだように。だからこんなことになった今でも、君は僕の背中を押し続けてくれているんだよ。ありがとう。いや、それが感謝するべきことなのかどうかは、この話が、僕と君とが、どこへたどり着くかによるかもしれないけどさ。
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