ノーシーボガール

中野真

小説

29,975文字

ある大雨の日、小学校の教室で大河は意識を失った。それから少年は自分は呪われているという言葉を繰り返し、食べたものは全て吐いてしまう。相談を受けた塾講師の結人は認知心理学者を自称する友人を伴って少年の「呪い」を解くために奮闘する。小説推理新人賞落選。

 

「大河!桃田先生来てくれたよ!」

 昼間した約束をさっぱり忘れてそんなことを言ってしまう野々村香にうんざりしながら結人は階段を上っていった。大河の部屋は階段を上った目の前にあった。中からはなんの返事も返ってこなかったが、結人は一応「こんばんわ、大河くん元気ー?」と声をかけてみた。それから元気ならこうやって閉じこもっているわけないんだったなと思って自分で苦笑する。しばらく興奮気味に声をかける母親の背中をぼんやり眺めていたが、どうしようもなさそうなので肩を二度叩いて小声で「しばらく下へ行っていてもらえますか」と囁いた。野々村香は「でも」としばらく引き下がらなかったが、しぶしぶ階段を降りていった。彼女は下につくまで三度も結人を振り返った。ようやく静かになった扉の前で結人はしゃがみこんだ。

「今日はデートだったんだけどなあ」

 返事はないが、なんとなく大河が耳を澄ませているような気がした。結人はカバンの中をわざと音を立ててかき混ぜながら途中で買って来たコンビニ袋を取り出した。

「大河くん何してるのー?」

 しばらく反応を待ってから「おもしろいゲーム持って来たんだけどなー」と続ける。

 部屋の中で布団が動く音が聞こえたような気がした。以外と簡単にいくかもしれない。

「お菓子とジュースもあるよ」

「ジュース?コーラ?」

 泣きじゃくった後のような大河の声が返ってきた。結人は立ち上がって伸びをした。今日はなんだかひどく疲れを感じる一日だった。仕事に慣れて周りが見えるようになってきたせいか、最近の職場の状態にはほとほと嫌気がさしていたのだ。その上デートも延期になったし。

「コーラだったら飲めそう?」

「飲む」

「ならドア開けてくれないと。早くしないと先生が全部飲んじゃうよー」

 その程度のやりとりで部屋の鍵は簡単に開いた。久しぶりに見た大河は真っ赤な目の周りを泣きはらした不安げな顔をしてはいたが、顔色はまだそれほど悪くなさそうだった。それは夏休みの名残を感じさせ、結人はなんとなく懐かしいなと思って眩しげに目を細めた。「おっす」と左手を挙げたが、大河の視線は結人が右手に持つ袋に釘付けになっている。母親が気づいて余計な口出しをしないうちに、と思って結人はそっと部屋の中へ入れてもらった。

 大河の部屋は子供らしく散らかっていた。そしてここ数日彼がどのように生活していたのかわかりやすいように、部屋の隅に丸まった掛け布団があり、その周辺に丸められたティッシュが散乱していた。結人は餌を欲しがる小動物のように自分を見上げる大河の頭を撫でてから「とりあえずゴミ片付けよっか」と言い、勉強机の下からゴミ箱を持って来て一緒に片付けをした。強情に塞ぎ込んでいると聞いていた大河も素直に従ってくれたので、少し気が楽になった。

「何してたの?」

 買って来たお菓子を広げ、コーラのペットボトルを渡すとまた隅で布団にくるまった大河の方は見ずに、壁にもたれかかって座った結人はさっそくそう尋ねてみた。返事はないかな、と思っていたが、コーラを飲んで少し気分が良くなったのか、そうやって閉じこもっているふりにもそろそろ疲れていたのか、大河はゲップをしてから結人の方を向いた。

「もう僕は死ぬの」

「そりゃたいへんだ」

 結人は近くに落ちていた知恵の輪を拾い上げていじりだした。赤い目がじっとその様子を見つめているのを感じながら。

「これどうやってやるんだろう」

「さわるな」

 無視して知恵の輪をいじり続けた。こういうのってまだあるんだと思いながら外そうとするが、意外と難しかった。じっと構造を眺めてみたが、よくわからなかったのでもう一度適当に動かし始める。それにしても、と知恵の輪を触りながら部屋の中を見回した。知育グッズの多いこと。キュボロまであるじゃん、あれ数万とかするんだよなあ。お父さんは県庁職員だっけか。

「何してるの」

「んー?知恵の輪。これ難しいね。どうやるの?」

 少し動こうとした大河だったが、思い直したのか布団を引き上げた。

「僕は死ぬからどうでもいい」

「布団暑くないの?」

「暑くない」

「あー、とれないや。大河くんやってよ」

「やらない」

「じゃーウノしよウノ。持って来たんだよね、塾のやつ勝手に」

「ウノなら僕も持ってるよ」

「マジ?やるねえ。じゃあそっち使おっか。どこにあるの?」

 大河は布団に顔を伏せたまま動かなかったので、結人は勝手に部屋の中を探し始めた。なるほどね、それなりのプライドはあるんだ。コーラには釣られるのになあ。勉強机の上には自由帳が広げられていて、大河の好きな恐竜の名前と体長、そして生息地が表になってまとめられていた。結人はそれを手にとってしばらく眺めた。そこに書いてある恐竜の名前はほとんど聞いたこともないものばかりだった。

「すごいねこれ。大河くんは何の恐竜が一番好きなの?」

「ヴェロキラプトル」

 即答だった。それは答えるんだ、と思って思わず笑みが浮かぶ。ならどうして自分は死ぬなんて思っているのだろう。結人はまたしばらくウノを探したが、面倒になったので戻って来て自分が持ってきたウノを配りだした。

「さ、始めるよー。最初は黄色の二か。先生からでいい?」

 しばらく返事がなかったので、結人はそろそろ脅しにかかるか、とため息をついた。

「負けたらコーラ没収だからねー」

 その言葉に大河はパッと顔を上げ、自分のペットボトルを胸に抱いて結人の方を見た。その反応に思わず笑ってしまった。

「ほら、先生からでいいの?」

 大河は首を振って「ジャンケン」と言った。

「で、結局原因は何だったの?」

 どろっとしたスープから麺をすすりあげながら中村中也が尋ねた。どうしてこいつは話すタイミングと食べるタイミングを分けないんだろうと思いながら結人は箸を置いて一口水を飲んだ。大河の家から帰ると中也から「飯行かね?」と電話が来て、丁度彼に相談したかったのですぐ承諾して迎えに行った。それから大河の話をしようとすると、中也は「相談料」と言ってラーメンを奢れと要求してきた。まあ彼の助けが欲しかったのでそれくらいはいいかと思ったのだが、自分が相談する前に電話をしてきたのは中也で、大学院生で金のない彼は初めから自分にたかるつもりで電話をかけて来たのではないかと疑った。まあ、今はそれはどちらでもいいことで、というよりもわりとよくあることなので気にしないことにした。

「それが実に君向けの話でね」

「ほう」

「大河くんの症状の原因はたぶん心理的なものだと思うんだ」

「なるほど、俺向きの話だ」

「事件があったのは木曜日、あの雨の日のこと」

「事件?」

「奢ってやるんだから大人しく聞け」

 中也はへらへらと笑ってまたラーメンをすすり出した。彼と結人は中学からの同級生で、気のおけない幼馴染のような関係だった。しかし二人は同じクラスになったこともなく、中学生の頃にそれほど仲が良かった記憶もない。こうやって二人でご飯に行くようになったのはいつ頃からだろうか。そのきっかけが何であったのかはお互いにさっぱり思い出せなかった。しかし別々の高校に進んだある時期から二人は頻繁に遊ぶようになり、結人の母に至っては彼らが付き合っているのではないかという疑惑までのぞかせていた。同じ大学の教育学部に進学した二人であったが、教師になることを目指していた結人とは違い、中也は途中から学部内の心理学方面へ興味を伸ばし、今ではどちらかというと理系寄りの方法で脳の研究をしている。本人曰く、彼は認知心理学者なのだそう。そんな男のすするラーメンの汁が周りに飛び散るのを嫌そうに眺めながら結人は話を進めた。

「原因はこの九月に転向してきた少女だった」

「わかった、恋だ」

「はやい」

「まあね」

「じゃなくて、黙れ」

 はーい、と言って中也は横を通り過ぎた店員にご飯の無料お代わりを頼んだ。結人はこの細身のどこにそれほど入る隙間があるのだろう、と目の前の長身の男を目を細めて見た。それからとりあえず状況説明をしてしまおうと思って概要を話した。転校生が大河の隣の席になったこと。いつも教科書を見せて上げていること。少女がクラスに馴染めていないこと。ただ大河とだけはなんとかコミュニケーションがとれるようで、まっすぐな彼が消しゴムを貸して上げたり、給食の牛乳を飲んで上げたりとそこそこ尽くしていたこと。また、少女が休み時間は難しい本を読んでいたこと。

「どんな本?」

「なんか、魔女がどうとか」

「難しい本?」

「小三には絵が書いてない本は全部難しい本なんだよ」

「なるほど」

 そして事件のあった日。その日は給食がなくお弁当だった。警報が出て昼前に下校になった大河だったが、弁当箱を机の中に忘れたので教室に取りに戻ると、そこには彼女がいて、一人で窓の外を見ていた。

「恋の始まる音がする」

「まあ正直僕もそう思ったけど。ここからが大事なところだから、黙って聞け」

「よしきた」

「すっごい雷やったね」

 大河が照れ笑いを浮かべながらごまかすようにそう言うと、桐生一二三は立ち上がった。そして海苔巻きが飲み込まれるのを見ると、無表情でじっと大河の目を見つめて口を開いた。

「私は、人を呪い殺すことができる魔女なの」

「え?」

「今大河が食べたものは、悪魔の卵。それは大河の胃の中で孵化して、大量のゴキブリになる。ゴキブリのほとんどは胃液で死ぬけど、一番強い大きなゴキブリだけは生き残る。そしてそれは、大河が食べるものを全て食い尽くしてしまう。だから大河は何を食べても自分の栄養にはならない。ゴキブリに餌をやっているだけになる。そしてそれはどんどん大きくなって、いつか大河を体の中から食べ始める。まずは胃を食べて、腸を食べて、肝臓を食べる。肺や心臓は後回し。なぜなら、大河を最後まで苦しめるため。私に関わるということは、そういうことなの」

 その瞬間、近くで雷が光り、轟音とともに教室が光の中に消えた。まるでその呪いが今確かなものになったと告げるように。いや、その雷さえも彼女の力だった。大河の耳にはもう雨の音は届かなかった。一二三の言葉が何度も頭の中で繰り返される。呪い。悪魔の卵。ゴキブリ。体の中から。海苔巻きに見えた悪魔の卵が、胃の中に落ちていくのを実感した。自分はそれを確かに胃の中に招き入れた。胃の中でぞわぞわと、ゴキブリが這いずり回る光景が頭に浮かんだ。恐怖と共に吐き出そうと思った。けれど口からゴキブリが大量に飛び出してくるのが見え、その考えから体が震え上がった。そして目の前の美しい少女、桐生一二三の、何の嘘もない真っ黒の瞳を見た時、もうダメだと思った。自分は死ぬ。それはもう決まったことだった。自分は悪魔の卵に殺される。呪いはもう確かなものだ。もうどうしようもない。痛みはまだなかった。けれどそれも時間の問題だ。もうダメだ。その時、胃がチクリと痛んだ。それを認識した瞬間、大河は意識を失った。

「それから実際大河くんは何を食べても吐いてしまうらしいし、二日まともに何も食べられない状態が続いている」

「医者は?」

「異常なしって言われたそう」

「それは、困ったね」

「だから中也に相談してんだよ。飯代くらいは働け」

 中也は麺のなくなったラーメンのスープにレンゲですくったご飯を浸して食べていた。結人もそうやって食べてみたい誘惑はあったが、人目を気にしてできなかった。それからテーブルに常備されているニラと一緒に残りのご飯をかきこむと、中也は満足そうなため息を漏らして顔を上げた。彼の顔立ちはその行動とは伴わない聡明さを醸し出しているので、真面目な表情を作られると思わずこちらも身構えてしまう。

「プラシーボ効果って知ってる?」

「あれでしょ、服痛の患者に、医者がよく効く薬だって言って金平糖を渡したら、信じきってる患者は本当に腹痛が治っちゃうみたいな」

「そうそれ。まあ、いい思い込みが本当にいい効果を出しちゃうみたいなあれだね。ラテン語の『I will please』を意味する言葉なんだけど。これにはあんまり知られていないけど反作用というか、まあ双子の片割れみたいな効果があるんだ。それがラテン語の『I will harm』にあたる言葉で、ノーシーボ効果と呼ばれている」

「それは、つまり、どういうこと?」

「それは、つまり、悪い思い込みが実際に悪い効果をもたらしちゃうってこと。一九八一年にカリフォルニア大学でこんな実験が行われている。その実験の被験者たちの頭にいくつかの電極を貼り付けて『これから弱い電流を流し脳の機能にどんな影響が生じるか調べます』と告げる。そして『電流を流すことでひどい頭痛が起きる可能性があるが、そのほかには悪い影響はない』とも説明しておく。結果、三十四人のうち実に三分の二以上がひどい頭痛を感じたと報告した。でも実際にはほんのわずかの電流も流していなかったんだ。つまり、思い込みの力はそれだけで健康な人々を病気にするということが実証されたわけ」

「大河くんの呪いはそのノーシーボ効果だってこと?」

「まあそうだろうね。子供は特に信じやすいし、暗示にかかりやすい。大人よりも圧倒的にピュアだからね」

 結人は興奮して何故か置いた箸を持ち直して身を乗り出した。

「つまり、その思い込みを解けばいいんだな」

「そうなるね」

 状況を考える限り、中也の言っていることが正しいように思われた。これでもうほとんど解決したようなもんだ。さすが自称認知心理学者は伊達じゃない。しかしそこでまた疑問が浮かんだ。

「でも、どうやって思い込みを解けばいいんだ?」

 ラーメンを貪っていた時とは違う真面目な表情で腕組みをして目を閉じていた中也は、しばらくしてから目を開いて結人を見た。

「ひとつ、考えがある」

「さすが中也、ラーメンおごるよ」

「それはまた後日って意味だよな」

「んー?」

「じゃあ言わない」

「うそうそ、また後日、もっかいおごるよ」

「よし。じゃ、君にはやってもらわないといけないことがひとつある。あとはこっちで準備しよう」

「なんだ?」

 中也はニヤリと口を歪めた。結人はとっさに身構える。中也がこういった表情を浮かべる時には今までろくなことがなかったからだ。

2019年6月16日公開

© 2019 中野真

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