「彼女は私にとって太陽のような存在でした。いえ、太陽そのものでした」
イームズチェアに浅く座り、膝に乗せた両肘の先でせわしなく指先を動かしながら話す中年の男が顔を上げ辺りを見渡す。タイルカーペットが敷き詰められた三十平方メートル程の空間には、十分なパーソナルスペースをとった椅子が円形に並べられ、二十代から六十代までの男女数人が座っている。みな熱心に男の話に耳を傾け次の言葉を待っていた。
「絶えず私にまとわりつき、じわりじわりと身体を侵食してくる黒雲は、彼女といるときだけ私の傍を離れます。その天津欄間な笑顔を見て取ると、暗雲は地平線の彼方へ消えてなくなるのです。しかし私は、その太陽を地平線の先の、湖の奥深くへ沈めてしまいました。きっかけは大したことではありません。よくある痴話げんかです。昼食を食べ終えナプキンで口元を拭いていると、対面に座る彼女が封の剥がれた一通の手紙を私に差し出しました。私は封書から便箋を取り出して内容を確認すると「これがどうした?」と言って便箋を彼女に返します。すると彼女は私の目をじっと見つめた後、便箋を縦に引き裂きました。手紙は私へのファンレターでした。それを彼女は浮気相手からのラブレターと勘違いしたようです。細めた目の奥に青い炎を滾らせる彼女に向かって「いつものファンレターだよ」と言うも、彼女は私の目を見つめたまま二つに分かれた便箋を一つに纏め、再び縦に切り裂きました。それを見て私は……」
男はそこで言葉を切ると額に垂れた髪の毛を撫で付け、対面に座る白衣の女に目を向けた。女がゆっくりと頷く。それを見て男はまた口を開いた。
「私は彼女の頬をはたきました。手を出されたことに驚く彼女の目に向かって握りしめたこぶしを叩きつけました。顔に対して幾分大きな鼻の、慎ましく丸まった鼻先めがけて骨が砕けるほど何度もこぶしを叩きつけました。そしてチェストからピストルを取り出しテーブルに伏せる彼女の黒髪を引っ張り、口の中にピストルを突っ込んだのです」
男の話を聞いていた幾人かが声をあげると、白衣の女が口元に人差し指を持っていき左から右へとゆっくり首を動かした。
「乾いた破裂音と共に彼女の後頭部にバラの花が咲き、椅子の隙間から飛散した花びらが扇状に壁に張り付きました。壁を伝い落ちる赤い雫をしばし眺めた後、私はピストルをテーブルの上に置き部屋を出ました」
男は腰を上げ椅子に深く座りなおすと、足を組みひじ掛けに体重を乗せ人差し指と親指で口髭をつまむ動作を繰り返す。
「アンゲラが手紙を破り捨ててからあなたが部屋を出るまでの感情の変化を教えてください」
白衣の女が男に向かって言った。
「困惑、緊張、そして虚無です」
「あなたは自分を覆う黒雲の正体が虚無であることを知っていたはずです。アンゲラを殺めたことにより、虚無はより深くあなたを浸食してきます。黒雲を払うはずの太陽がいなくなり、あなたはどうやって虚無と対峙したのですか?」
「理性を失わせるアルコールを断ち、攻撃性の源である肉を断ち、タバコを吸うのをやめました。ある種の禁欲的生活を自分に科すことにより、虚無の侵入を拒めると思ったのです」
「結果は?」
「皆さんの知っている通りです……」
そう言って男は周りを見渡す。自分と目を合わせるものがいないと分かると目を閉じた。
「そうですか、ありがとうございました」
白衣の女が椅子から立ち上がり、男に近づいて行った。男の肩に手を置き、耳元でボソボソと何かを言う。すると男はガクリと首を落としたあと、すぐに首を上げ二度三度目を瞬かせる。白衣の女は男の右隣に座る中年の女の肩に手を置き「次はあなたの番ね」と言って席に戻って行った。肩を叩かれた女は白衣の女が席に着くのを確認してから口を開いた。
「私たちが結婚したとき、彼はハイスクールを卒業したばかりでした。私より四つ年下でしたが、年齢を感じさせない落ち着いた雰囲気と誰に対しても平等に接する態度、彼の語る夢に私は惹かれました。私たちが新居に選んだ地域では黒人やインディアンに対する差別が根強く残っており、教区こそ同じであったものの白人とそのほかの人種では礼拝時間を分けていました。彼はそれに対して強い憤りを感じていたようです」
「彼はマルキストであったと聞いていますが」
白衣の女が中年の女に質問する。
「ええ、そうです。マルキズムを信奉していました。父親への反発からマルキズムに入れ込み、大学時代に確固たる信念となったようです。当時合衆国内で共産主義を掲げて社会運動を行うことは不可能でした。そこで彼は思想信条を隠して牧師となり、内部からその歪んだキリスト教秩序を瓦解させようと試みます。しかし、その計画は数年で頓挫しました。彼が黒人やインディアンを集会に参加させているのを見た他の牧師が彼を破門にしたのです」
「それで軌道修正をした」
「はい。彼は自らが主宰する教会を立ち上げました。無神論者である彼がキリストの呪縛から逃れられなかったというわけではありません。目的のため利用できるのであれば利用しない手はないというのが彼のキリスト教へのスタンスでした。ですから、社会変革に必要な信徒数と、それを運用するための資金が集まるまでは、借り物の教義から彼の信条である平等主義に光を当て、キリスト教系教団であると偽りました。人種融和人種統合主義を掲げ、貧民区で炊き出しをおこなったり、黒人の地位向上のための集会へ積極的に参加しました。こういった行動は一定の成果を上げ、彼自身の社会的地位を押し上げました。彼が病気で入院した際は自ら進んで黒人病棟に入院し、黒人病棟の内情を広く社会へアピールしました。のちに人種により病棟を分けていた病院は人種隔離病棟を廃止しました」
「資金はどうやって集めたのですか? 貧民区の黒人信徒を集めるだけでは潤沢な教団の運用資金を得ることは出来ません。所謂富裕層、白人を取り込む必要があるはずです」
「奇跡を見せるのです。人種統合主義は多くの関心を集め、集会を開くたびにメディアが取材に来るようになりました。そこで彼は教団に対して否定的な記者を壇上に上げ、記者の居住地や家族構成、社会保障番号を言い当てました。当然それは事前に信徒を使い調べ上げていたことですが、集会参加者の注目が集まるなか壇上に上げられた記者は冷静な判断能力を失います。会場の雰囲気にのまれ、疑うことを忘れてしまうのです。また彼は集会の中で心霊治療を行いました。大勢の観衆が見守る中、医療器具を使わずに患者の体内から病原とされる物体を取り除くのです。これは私が彼と結婚するまで働いていた看護師としての経験が大いに役に立ちました。集会場の熱狂的雰囲気の中、造られた奇跡を目の当たりにした記者はこれらの出来事を記事にします。オカルトは裕福な白人社会にとって新しい娯楽でした。いつ起こってもおかしくない核戦争の恐怖に怯えていた人々にとってうってつけの娯楽だったのです。ファクトチェックされないままメディアによって垂れ流される新しく神秘的な娯楽と、当時進歩的であるとされた人種統合主義が相まって、彼の目指す社会と相反する層を取り込むことに成功しました」
「所謂インチキですよね? それらの行為に信徒からの反発はなかったのですか?」
「目的を達成するための手段だと認識していました。少なくとも私はそう思っていました。しかし、あるときを境に信徒たちの態度に変化が生じます。彼は教団の宗教的象徴になろうとしたのです。信徒に対して自分を「父」と呼ばせることを強要しました。信徒ではない家族と生活を共にすることを否定し、教団共同体での生活を推奨したのです。彼の唱える社会的福音が共産主義であることに気付いていた信徒ですらこれには反発を示しました。多くの離反者を生み教団の規模は一気に縮小していきました。数千人いた信徒が数百人まで減少し、教団と良好な関係を保っていた左派政治団体も徐々に距離を置くようになりました」
「結束力を高めるために行った行動が裏目に出てしまったのですね。彼はその状況に対して何か言っていましたか?」
「ふるいにかけたのだと。描いた絵を完成させるために必要な段階なのだと言っていました。彼はそのころから共同体主義を掲げ、共産主義思想を隠そうとしなくなりました。「今こそ二千年間有色人種と女性を虐げてきた聖書を捨てるときだ」「天国からあなたを救いに来るもの待っていても、そんなものは決して現れない。我々がこの歪んだ地上に天国を作るのだ」と言った過激な発言を繰り返しおこなうようになりました。当然、それらの発言は多方面からの反感を買い、それまで良好な関係を保っていたマスメディアによる猛烈な攻撃にさらされることになりました」
「それで教団の移住を決意した」
「そうです。共産主義コミュニティモデルとして開拓を進めていた南アメリカに教団機能を移すことにしました」
「ジョーンズタウンの運営はうまくいきましたか?」
「それは皆さんの知っている通りです……」
白衣の女は立ち上がると、中年の女へ向けて歩いて行く。そして彼女の前まで来るとそっと肩に触れ耳元で何かを囁いた。すると中年の女は口髭の男と同じようにガクリと頭を下げた後ゆっくりと目を開ける。白衣の女は彼女に向かって微笑みかけると元いた場所へ戻って行った。
「今日はここまでにしましょう。みなさんお疲れさまでした」
白衣の女は自身の胸の部分に描かれた金色に縁取りされた赤い幾何学模様に沿って右手を動かしてから両手を胸の上で組む。白衣の女を取り囲むように座っていた人たちが立ち上がり胸の前で手を組むと、白衣の女に向かって深々と頭を下げた。
多宇加世 投稿者 | 2019-05-23 16:56
もしかして、アレについての話なのかな、と心当たりがありました。その話だとするなら上手いなあ、と思いました。タイトルが良くて、本当に新世界が来そうな読後感でした。
Blur Matsuo 編集者 | 2019-05-26 14:27
ジョーンズタウンの話は初めて知りました。怖すぎますね。
男の話はずいぶんと詩的で良いと思ったのですが、殺害に至るまでが少し尚早すぎるなと感じてしまいました。
駿瀬天馬 投稿者 | 2019-05-26 16:07
この長さにまとめたのすごいなぁと思いました。ヒトラーとジムジョーンズってちょっとだけ(ほんとうにちょっとだけですが)生きていた時代が被ってるんですね。知りませんでした。この展開で連作短編が編めそうですね。(さっき調べたらイームズチェアのデザイナー、チャールズイームズもちょっとだけ時代が被ってるんですね。すごい。)
退会したユーザー ゲスト | 2019-05-26 16:18
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諏訪靖彦 投稿者 | 2019-05-27 03:08
合評会に参加できるかわからないので、こちらにコメントさせていただきます。すみませんなんてとんでもないです。分かりにくい書き方でごめんなさいです。
新世界を作ろうとしているカルト教団が、新世界を作ろうとして失敗した先人に話を聞く設定で書きました。最初の男性はアドルフ・ヒトラーで次の女性は集団自決を行ったカルト教団人民寺院の教祖ジム・ジョーンズの妻マルセリーヌ・ジョーンズです。カルト教団の教徒を使い先人の魂をおろさせるアイデアは幸福の科学大川隆法のいたこ芸から拝借しました。
大猫 投稿者 | 2019-05-26 23:08
ジョーンズタウン事件については聞いたことくらいしかなくほとんど前提知識がないまま読んだのですが、一人一人に語らせつつ内部に取り込んで行くカルトの恐ろしさを感じました。とは言え「新世界」って何なのか。女を殺した男やジョーンズタウンについて語る中年女や白衣の女が何か起こそうとしているのか、これがお題とどう関連しているのかよく分からないまま終わりました。解説を望みます。
諏訪靖彦 投稿者 | 2019-05-27 03:25
合評会に参加できるかわからないので、こちらにコメントさせていただきます。
「新世界」については谷田さんへのコメントで解説させてもらったので、そちらを読んで頂ければ幸いです。
お題については、アーリア人至上主義を掲げたアドルフ・ヒトラーと、人種統合主義を掲げ活動したジム・ジョーンズを対比させ、特にジム・ジョーンズについては善悪の基準がどこにあるのか読者にぶん投げました笑
金に関してはやや強引すぎましたね。
Fujiki 投稿者 | 2019-05-27 05:52
後半がジョーンズタウンのカルト教団の話だとすれば、前半のファンレターを妻に破られる男は誰だろう、ロバート・ワグナー? ロバート・ブレイク? とあれこれ考えてみたが結局よく分からなかった(追記:そうか、ヒトラーか。駿瀬天馬はよく分かったな)。医療刑務所か何かでのセラピーなのかと思ったが、ガクリと首を落とすくだりは降霊会のようでもあり、こちらもよく分からない。あれこれ説明せずに淡々と語るのは意図的なものと感じたが、そのねらいは? 妻なのにどこか傍観者的な後半よりも、前半のほうが描写の生々しさや聞き手の反応もあって語りが生き生きしている。
「マルキズム」というと途端に日本のプロレタリア文学っぽく聞こえてしまうので、より原音に近い「マルキシズム」とか「マルクス主義」のほうがいいと思う。
伊藤卍ノ輔 投稿者 | 2019-05-27 20:53
アドルフヒトラー、ジムジョーンズ、ナイチンゲールの関連性が、色々調べましたが正直わかりませんでした。歴史的教養の欠如が原因かもしれません。
カリスマ指導者としてある種の「狂気」を体現した二人なのでそこに関連するのかなとも思ったのですが、ヒトラーの話はどうにもそういう方向性ではなく……。
ただ、書き方はすごくうまいと感じました。これだけの話を要約しながら読ませるって意外と難しいと思うのですが、それをそつなくこなしてしまうあたり手練れだな、と。
牧野楠葉 投稿者 | 2019-05-27 22:17
全体的によくわかりませんでした。ジム・ジョーンズじゃなきゃならない理由もよくわからず……善悪の判断を読者に委ねすぎたかもしれません。最低限の書き込みが欲しかったところです。
一希 零 投稿者 | 2019-05-28 00:01
カルトのお話で、とても丁寧に語られ、抑制された誠実な筆致だと思いました。ただ他の方々が指摘されている通り、内容に少しついていけない部分はあり、それは僕自身知識不足を恥じるところでもあります。説明しすぎない語り自体は良いと思いますが、全体的に物語に入り込ませるきっかけがあまりなかったように思います。丁寧に語られている地の文において、象徴的な語りや魅せる文章があると、あるいは内容は分からずとも物語の中には入り込めたのかもしれません。
モロゾフのイメージが強かったので、色々なタイプの小説が書ける方なのだなと思いました。次何を書かれるのかも楽しみです。
Juan.B 編集者 | 2019-05-28 01:52
ヒトラーはともかく、ジョーンズタウンの事件は今でもトンデモ扱いでしか触れられないことが多い中でこの題材を選んだのは何か思い入れがあるのだろうか。ヒトラーもジム・ジョーンズも、善悪で言えばかなり偏りのある方々だが、そこにラウバルと夫人が半ば仲介するような様子は興味深い。今もジョーンズやデビッド・コレシュみたいなのはアメリカに大勢居そうなのでこの交霊会がどこまで効果を持つか分からないが……。
沖灘貴 投稿者 | 2019-05-28 15:28
やけに細かい設定が、と思いましたがそういう話の背景があったのですね。死後の裁きの話でしょうか。
終始事実の語りで展開される物語のせいか、正直勉強しているような退屈さを覚えました(新しい知識を蓄えられたことは良かったのですが)。しかし、描写の記述は特に素晴らしいと思いました。群を抜いているのは冒頭の男の語りです。次はそちらメインのお話を読みたいですね。