壊れた冷蔵庫

短編ノナグラム(第7話)

諏訪靖彦

小説

2,337文字

SF雑誌オルタニア vol.7.5 [冷やしSF始めました]寄稿作品。

 
 冷蔵庫が壊れた。正確に言うと冷蔵庫上部の冷凍室だ。
 冷蔵室から缶ビールを取り出した後「本格炒めチャーハン」を温めようとして冷凍室の扉を開けたとき、誰かから後頭部を思いっきり叩かれたのかと錯覚するほどの勢いで冷凍室に顔を吸い込まれそうになった。私はとっさに腰を屈め、冷凍室に流れる気流を避けながら冷蔵庫の側面に移動する。そして開閉部が最大限に広がった冷凍室の扉の背に触れると「バタン」と大きな音を立てて扉が閉まった。
 冷凍室が壊れてしまったようだ。今の冷蔵庫に買い替えてからまだ三年も経っていない。保証期間内だろうからメーカーサポートに連絡すれば無償で直してもらえるだろう。冷蔵庫に背中を押し付け座り、手に持った缶ビールのプルタブを引き上げる。「プッシュ」と小気味の良い音を立てて僅かにプルタブの口から泡がこぼれた。慌てて缶ビールに口をつけ泡を吸い込む。確かメーカーサポートの電話番号は冷蔵庫の取扱説明書に書いてあったはずだ。缶ビールを片手に家電製品の取扱説明書が纏めて置いてある場所に向かため立ち上がると違和感を覚えた。視界がぼやけているのだ。キッチンとダイニングをつなぐジャバラのカーテンから折り目がなくなり、その先にある木製のダイニングテーブルはテーブルと椅子が一つの薄茶色をした塊に見える。近くの物はなんとなく輪郭を捉えることが出来るが、手の届く範囲を超えると途端にぼやける。私は近視ではないが、近視の人から聞いた視力矯正をしていない近視状態とよく似ている。私は近視になったのだろうか。いや、突然近視になるなど聞いたことがない。きっと、冷凍室に吸い込まれそうになったことがこの症状に関係しているのだろう。私は靄のかかった視界のまま壁を伝いキッチンを出ると、手探りでリビングの扉を開け洗面所に向かった。そして洗面台の上の鏡に顔を近づける。両目の角膜が薄ら白いコンタクトレンズのようなもので覆われていた。それは洗面台の明かりに反射しキラキラと輝いている。右手に持った缶ビールを洗面台のわきに置き、人差し指で左目のそれに触れてみる。すると指先に冷たさが伝わった。氷だろうか。そのまま人差し指を上へ下へと動かしてみる。氷のようなものに引っ張られ、眼球結膜も動くが痛みは感じない。角膜を中心に眼球結膜も半分ほど凍っているようだ。そこで私は洗面台のわきに吊り下げてあるドライヤーを手に取り、吹き出し口を目に向けてスイッチを入れた。右目左目と交互にドライヤーの熱風を当て続けていると、目を覆っていた氷のようなものが溶け出し、液体となって頬を伝った。同時に視界がひらける。鏡に映る両の目の角膜はしっかりと確認できるし、目を動かすのも問題ない。眼球結膜は真っ赤に充血しているが、寝不足の時や疲れているときに現れる症状と同じで、視野に異常をきたすものではないようだ。私は視力が戻ったことに安心し、洗面所を後にして寝室へと向かう。押し入れを開け、家電製品の取扱説明書を纏めて保管しているプラスチック製のカゴの中から冷蔵庫の取扱説明書を取り出した。裏返すとサポートセンターの電話番号が載っている。私は右手に持った残りのビールを一気に飲み干すと、ジーンズのポケットに手を突っ込み、スマホを取り出してサポートセンターに電話を掛けた。
「はい。ロイヤル電気家電製品サポート担当敬宮でございます」
「諏訪と申しますが、冷蔵庫が壊れてしまったようで……」
「それは大変申し訳ありませんでした。恐れ入りますが故障した冷蔵庫の製品名と症状を詳しく教えて頂けますでしょうか?」
 私は取扱説明書の表紙に書かれた製品名と冷凍室に吸い込まれそうになったときの状況、その後に起こった眼球の変化を敬宮と名乗った女に伝えた。敬宮は「はい」とか「ええ」などと相槌を打ちながら私の話を聞き終えたあと、若干声のトーンを落として言った。
「諏訪様は取扱説明書を読まれましたでしょうか?」
 手に持っている取扱説明書は冷蔵庫を設置してもらったあと、業者に手渡されたまま読まずに保管していた。冷蔵庫の取扱説明書など読む人の方が少ないのではないだろうか。
「いえ、読んでいません」
「そうですか……諏訪様のお話を聞く限り、冷凍室の温度設定がゼロになっている可能性が高いと思われます。冷凍食品などを冷凍室に入れるとき、誤って温度設定ダイヤルをゼロにしてしまったことはないでしょうか?」
 冷凍室の温度設定ダイヤルの位置は覚えていないが、昨夜買ってきた「本格炒めチャーハン」を入れるときにダイヤルに触れてしまった可能性はある。しかし温度設定を誤ったからといって、あのような状況になるものだろうか。そもそも温度設定「ゼロ」とはいったいなんなのか。
「温度設定をいじってしまった可能性はあります。ですが、そんなことで冷凍室に吸い込まれるなんてことがあるのでしょうか?」
「はい、あります。冷凍室と外との気圧差から諏訪様が吸い込まれたものと思われます」
「え?」
「ですから、諏訪様が温度設定をゼロとしたことにより、冷凍室内が完全気体となりエントロピー及びエンタルピーがゼロ値となり、冷凍室内がゼロ温度になったのです」
「あの、すみません。冷蔵庫について素人で申し訳ないんですが、敬宮さんが言っていることの意味が全く分かりません……えっと、ゼロ温度とはなんでしょう?」
「絶対零度です。現在、諏訪様の冷凍室は絶対零度となっていると思われます。冷凍室内の温度設定ダイヤルを通常使用される温度に変更されれば問題なく使用できるのですが……詳しくは取扱説明書に書いてありますのでご確認いただけますでしょうか?」
 電話を切ったあと、私は取扱説明書を読まずに冷蔵庫のコンセントを引き抜いた。
 

2019年4月24日公開

作品集『短編ノナグラム』第7話 (全9話)

短編ノナグラム

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© 2019 諏訪靖彦

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