伝説の日本人F1ドライバー

応募作品

諏訪靖彦

エセー

3,793文字

合評会2021年3月参加作品。お題は「モータースポーツ」

 

「記録は破られるためにある。私がファン・マヌエル・ファンジオの記録を破ったように、きっとルイス・ハミルトンが私の記録を破るであろう」

――ミハエル・シューマッハ

 

この言葉は二〇〇八年、ルイス・ハミルトンが当時最年少でワールド・チャンピオンを獲得し、多くF1ファンが新時代の幕開けを肌で感じ始めたころ、あるモータースポーツジャーナリストが七度のワールド・チャンピオン記録を持つシューマッハに「ハミルトンであればあなたの記録を破ることができるのでは?」と投げかけた質問に対して彼が返した言葉である。

それから十三年後の今年、ルイス・ハミルトンは前人未到の八度目のワールド・チャンピオンに挑戦する。ハミルトンはまだ三十六歳であり、今年八度目のワールド・チャンピオンを獲得しても更に記録を伸ばすことが可能である。しかし、ハミルトンはモータースポーツだけが自分の興味の対象ではないと公言しているため、今年記録を塗り替えたあとF1から引退してしまうかもしれない。九度目、十度目のワールド・チャンピオンに是非挑戦してもらいたいものだが、近年ハミルトンはBLM運動や環境問題に熱心に取り組んでおり、そちらの活動を推し進めていきたいと考えているのかもしれない。筆者はハミルトンのモータースポーツ以外での活動に共感する部分が多々あり、たとえモータースポーツから引退したとしてもハミルトンを応援し続けていきたいと思っている。

F1が世界選手権となって今年で七十一年目になる。それまでに数多くの記録が生まれ、破られてきた。日本でF1ブームが起こった九十年代、甘いマスクと圧倒的な速さ、レースに対するストイックな姿勢から絶大な人気を誇った『音速の貴公子』ことアイルトン・セナがサンマリノGPで悲劇の事故死を遂げた年、のちにとてつもない記録を樹立する日本人ドライバーがひっそりとデビューした。井上隆智穂いのうえたかちほである。

「イノウエタカチホ?」「だれそれ?」「そんな日本人ドライバーいたっけ?」諸兄姉らがそう思われるのも無理はない。井上隆智穂は当時日本でF1グランプリの独占放映権を持っていたフジテレビから完全に無視された日本人ドライバーだったからだ。井上は他の日本人ドライバーの例にもれず、どこにでもいる苗字と風変わりな名前をもった(「鈴木亜久里あぐり」「片山右京うきょう」「高木虎之介」「佐藤琢磨たくま」「小林可夢偉かむい」など)ドライバーではあったが、自動車メーカーのバックアップ無しにF1に上がって来たため、フジテレビは自動車メーカーに遠慮し忖度し慮り井上の存在を完全に無視した。フジテレビだけではない。F1ブーム最盛期に十数誌あったモータースポーツ誌の殆どが井上を無視した。当時はそのようなことが当たり前のように行われていた。

自動車メーカーのバックアップなしにF1に上がったと聞いて、井上に相当な実力があったと思われたかもしれないが、実はそうではない。井上は下位カテゴリで目立った成績を残していない。国内F3では入賞がやっと、F1昇格の前年、当時のF1直下カテゴリであるインターナショナルF3000では一度も入賞することなくシーズンを終えている。チームメイトにも惨敗していた。因みに自動車メーカーのバックアップを得ていたドライバーであってもF1に昇格するまでに下位カテゴリでチャンピオンを獲っていたり、それに準ずる成績を残している。

そんな井上がなぜF1に昇格できたのか、それは彼が卓越した営業センスの持ち主だったからである。自動車レースを続けるには金が要る。ましてやF1ドライバーを目指すとなると相当な資産家でもないかぎり活動資金を出してくれるパトロンを見つけなければならない。現在、自動車メーカーのバックアップがあってもF1に上がるまでに数億円の費用を用意しなければならないと言われている。バブル全盛期はもっと必要だったかもしれない。今も昔も速いだけではF1レーサーにはなれないのである(井上に関しては速さもなかったわけだが……)。そこで井上は九十年代初頭『駅前留学』のキャッチコピーで人気を博し、破竹の勢いで英会話教室を量産、群馬県の無人駅にさえ教室を出していた『英会話のNOVA』に目を向けた。

井上はNOVAの代表取締役社長猿渡望に取り入り(レースのない週は猿渡の秘書をやっていた)、言葉巧みに自身のレース資金を捻出させた。挙句の果てには自分が乗るためにインターナショナルF3000に『スーパーNOVAレーシング』なるチームを作らせた。国際レースで英会話教室が宣伝になるとは全く思えないが、それだけ井上には人を騙くらかす、もとい、訴求力があったのだ。

英会話教室NOVAを騙くらかして国際レースに留学することは出来たが、F1を走らせるほどの資金は得られなかった。そこで次に目を向けたのはオフィスにコーヒーなどの自動販売機を設置していた企業『ユニマット』である。井上がユニマットをどうやって説得したのかは分からないが、当時の日本企業はF1チームをスポンサードすることがある種のステータスであったため、ユニマットが井上の下位カテゴリの成績、実力などを調べもせずに井上の口車に乗ってしまったのは想像に難しくない。

こうして井上は弱小チーム『シムテック』にNOVAとユニマットを騙くらかして得た資金を持ち込み、一九九四年のF1日本グランプリにスポット参戦した。一九九五年には運送会社フットワークすらも騙くらかして中堅チームアロウズでF1フル参戦を果たす。中嶋悟、鈴木亜久里、片山右京に次ぐ四人目のフル参戦日本人F1ドライバーの誕生であった。

フットワークやNOVA、ユニマットはTV中継でマシンに貼られた自社のロゴが大々的に映し出されると期待していたが、井上のマシンがTVに映ることは殆どなかった。前述のとおり、フジテレビは井上を無視した。予選順位の説明などで仕方なく紹介するときにF1中継のアナウンサーを務めていた古舘伊知郎は井上を『F1駅前留学』とさらっと紹介するだけだった。アイルトン・セナに『音速の貴公子』、アラン・プロストに『プロフェッサー』などといったカッコイイ愛称をつけて呼んでいた古舘が、井上には「どうせ来年にはいなくなるんだろ」的に超適当な愛称をつけてさらっと流しただけだった。レース中もリタイヤしたときだけ一瞬カメラに映る程度の冷遇ぶりだった。当時のF1を熱心に見ていたファンですら井上の存在を知らない者が多いのではないだろうか。今でも歴代日本人ドライバーを紹介する番組や雑誌に井上はまず出てこない。それほどまでに徹底的に無視され続けている。そこには自動車メーカーのバックアップがなかった以外にも、F1ファンが知り得ない事情があったのかもしれないが、とにかく井上は日本国内で徹底的に無視され続けた。しかし、海の向こうではそうではなかった。井上隆智穂は二〇一三年英国AUTOSPORT誌がおこなった読者アンケートで史上最悪のF1ドライバーに選ばれた。なぜ井上が史上最低のドライバーに選出されたのか? それは井上がフル参戦一年目にとんでもない記録を樹立したからである。

はじまりはリグリア海の宝石箱、モナコ公国で行われたモナコ・グランプリ決勝前に起こった。練習走行でマシントラブルにより車を止めた井上のマシンに猛スピードでセーフティーカー(路面状況の悪化や、トラブルなどで止まった車を処理するまでの時間、サーキット内の安全を確かめる目的で導入される車)が突っ込んだのだ。井上を乗せたままマシンは激しく横転、井上は脳震盪を起こして近くの病院に搬送された。F1ドライバーがセーフィーカーに轢かれる前代未聞の珍事だった。幸い大事には至らなかったが、井上の無事を伝える場内アナウンスが誤って「井上の頭は正常である」と伝えたため場内が爆笑の渦に包まれた。

井上の悲劇はこれで終わらない。モナコ・グランプリから6戦後のハンガリー・グランプリの決勝で、井上が操るマシンに搭載されたハートV8エンジンが火を噴いた。井上がマシンを止めると直ぐにコースマーシャルが駆け寄り消火活動を始めたが、火を噴いたマシンに近づくことなく遠目から消火器を吹きかけただけだった。アロウズは資金力のないチームである。エンジンだけでなくマシンにまで被害が及ぶと次のレースに出場できないと思った井上はマーシャルから消火器をぶん取り、マシンのすぐ近くで自らエンジンに向けて消火器を吹きかけた。しかし、それが災いした。井上のマシンがストップしていることを知ったサーキット運営は急いで現場へセーフティーカーを向かわせる。井上はエンジンに向けて消火器を吹き付ける。セーフティーカーはなるべく早くマシンに近づきたい。双方の思惑が交差したとき、マシンの直ぐそばで消火活動をしていた井上をセーフティーカーが撥ねた。井上は消火器を持ったままセーフティーカーのボンネットに乗り上げたあと、崩れるように地面に倒れ込んだ。それをピットモニタで見ていたのちのワールドチャンピオン、ミハエル・シューマッハが大笑い、その姿が国際映像が映し出されたのだ。

 

「F1が続く限り、セーフティーカーに二度轢かれた記録は決して破られることは無いだろう」

  ――井上隆智穂

 

(了)

 

2021年3月21日公開

© 2021 諏訪靖彦

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"伝説の日本人F1ドライバー"へのコメント 10

  • 投稿者 | 2021-03-28 14:14

    無茶苦茶興味深い話で一気に引き込まれたんですが、二点疑問として
    どうやって殆どメディアに出ていなかった井上の経緯を調べたんですか?
    もう一点は、何がきっかけで彼人に興味を引かれました?

  • 投稿者 | 2021-03-28 14:33

    面白かったです。正直F1の事なんて何も知らないので、それが本当にいた人なのか、いる人なのかもわからないし、
    「まあ、モナコはF1くらいやってるかなあ」
    程度の事しか想像も出来ないんですけども、でも、面白かったです。ルポ的なものなんでしょうか。面白かったです。

    このままライブドアニュースの国際欄とかにあっても違和感ないと思います。

  • 投稿者 | 2021-03-28 15:37

    諏訪さんはよく実在の話とフィクションを織り交ぜるので、今回もフィクションだろうと読んで納得したのですが、完全に実話で驚きました。奇なりですね。

  • 投稿者 | 2021-03-28 20:35

    F1についてはあまり知らないのですが、面白かったです。モータースポーツに限らずどんなスポーツでもそうですが、フィールドやコースの外でも様々なことが起きて、それがゲームに影響したり大々的にニュースになったり、あるいはひっそりと隠されて何年か後に実はあの時…みたいなことが起きたりする。そういう所が醍醐味の一つと思っていますが、その醍醐味を綺麗に味わわせてもらいました。

  • 投稿者 | 2021-03-28 20:37

    細部からレースが好きなことが伝わって来ます。
    本当にそんなことがあるんですね。大怪我せずに何よりでした。
    今日、大相撲の千秋楽の結びの一番で立行司の式守伊之助が、押し出されたお相撲さんの巨体に巻き込まれて土俵下に真っ逆さまに落っこちてしばらく起き上がれませんでした。こういうのって死んじゃったら殉職になるんでしょうか。

  • 編集者 | 2021-03-28 23:07

    興味が沸いてくる良いエセーだった。少し疑いながら読んだ自分が恥ずかしくなる。今度一緒にお台場のトヨタのメガウェブ行こうぜ。
    他作のコメントでモータースポーツを良く知らないと書いたが、このエセーを読んでいて一つだけ思い出すことがあった。ブラジル人が多く集う大泉町の象徴的なレストラン「ブラジル」で、F1の機体と選手のポスターが大きな額に入って飾られていたのだが、後からあれはアイルトン・セナだったのだと気づいた。今も飾ってあるか分からないが、偉大なレーサーだったのだなあ。

  • 投稿者 | 2021-03-28 23:56

    タキ井上!
    リアルタイムではうっすらとしか記憶になかったドライバーでしたが、確かに特別速いドライバーではなかったですが、日本人ドライバーの中で、琢磨さんや亜久里さん、リアルタイムじゃ知らないけれど中嶋パパを除けば、他のメンツにはそれほど見劣りするほどでもないドライバーだっただけに余計にイメージも薄かったですが、引退後、こんなトリックスターになるとは思いませんでした(笑)
    本人が自虐を交えてネタにするほど、遅いドライバーではありませんでした。だけど、ホンダがエンジン復帰後、かつては最も貧しく最も遅いマシンを持つけれど、レース馬鹿がそろったミナルディというチームが母体のトロロッソと契約した時の「けど、ミナルディでしょ、喜べるもんじゃありませんよ」と吐き捨てたあたり、ああ見えて計算高く、変なところでネタにはなっても、笑われても遅いマシンだろうが、レースに出るというガムシャラさがあれば、もしかしたら、もっと花開いてたかもしれない惜しいドライバーでもあったのかもしれないとも思ったりします。

    長々、コメントしてしまいましたが、楽しんで読めました。
    実在の選手をチャーミングにちょっとおかしく戯画化するような語り口がまるで、『タブチくん』っぽくもあります。

  • 投稿者 | 2021-03-29 12:11

    似非ーだと思って読んだけど、本当にエセーだったのか……そんなおやじギャグはさておき、着眼点がユニークでいい。できれば主人公には悲哀のある最期を迎えてほしかったけど、実話なので無理な要求ですね。

  • 投稿者 | 2021-03-29 19:08

    幼女が出てこないので二度見しましたがやはりいませんでした。良質な読み物でした。

  • 投稿者 | 2021-03-30 14:06

    これ実話なんですか? 本当に面白い。
    長編にして読みたいですね。

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