愛しのワクチン

応募作品

諏訪靖彦

小説

3,547文字

2021年5月合評会参加作品。お題は「ワクチン」

 

「ねえあなた、最近お隣の旦那さんの様子がおかしいみたいなのよ」

東京都千代田区にある自衛隊東京大規模接種センターでは新型コロナウィルスのワクチン接種を待つ人々が長い行列を作っていた。我先に、割り込みされないように、ワクチンを接種するのが早ければ早いほどコロナに罹らないと思っているのか、ソーシャルディスタンスを取らずに多くの人がカーテンで仕切られたワクチン接種部屋に向けて列をなしている。拡声器で間隔をあけるように指示する職員の声に耳を傾ける者はいない。

「木村さん?」

海野優人うみのゆうとは自分の前で列に並んでいる妻、靖子やすこに言った。靖子は首を後ろに回し視線を優人に向けている。

「うん、木村さん。今朝、ゴミ出しの時に奥さんと立ち話しをしたんだけど、旦那さんが妙に優しくなったんだって。今までは味噌汁の味付けが濃いとか窓枠にホコリが付いているとか、細かいことでうるさく言われたけど、最近何も言わなくなったみたい」

「木村さんの奥さんは専業主婦だったっけ?」

「うん、専業主婦」

「奥さんが家のことを任されていて、それに対して旦那さんが文句を言わなくなったのはいいことじゃないか」

靖子は一拍おいて優人に言う。

「そうなんだけど、なんだか気味が悪いって。旦那さんは二言目には俺が外で働いているんだから家のことはしっかりしてもやってくれなきゃ困るって奥さんに言ってたらしいけど、最近はどんなに適当に家事をしても何も言わなくなったって」

靖子の前にスペースが出来ている。優人は靖子の前を指さして列が進んだことを伝える。靖子は前に向き直り一歩前に進み優人も一歩前へ進む。そして靖子は優人に向き直った。

「それに、会合にも出なくなったんだって」

「会合?」

「あなた知らないの? 木村さん、熱心な活動家だったのよ。なんて言うのかしら、住民運動? 市民運動? 政治運動? とにかく今の政治を少しでも良くしようと活動していたみたい。ご近所でも応援していた人が沢山いたのよ。月に一度、市民会館で活動報告会をしていたみたいだけど、その会合にも行かなくなったんだって」

「靖子も行ったことあるの?」

「ううん、私そういうの苦手だから」

「そうか、それならいいけど」

「でも、木村さんには感謝しなきゃね。木村さんたちの活動のおかげで私たちがワクチンを接種できるようになったんだから」

ワクチンの接種は政治家や警察官、自衛隊員などが優先的先的に受けられるようになっていた。それが最近抽選式に変わった。国民に優先順位をつけるなと幾つかの市民団体が声を上げたからだ。

「それで俺たちにも回ってきたわけか」

そう言って優人は右手に持ったクーポン券に目を向ける。接種会場とワクチンを生産した製薬メーカーが書かれている。ワクチン接種が始まった当初、海外の製薬会社製ワクチンが主流であったが、血栓を伴う副反応が多く報告されたため、現在は副反応が少ないとされる国産ワクチンに置き換わった。

「木村さんのところは先週ワクチンを接種したって。熱心に活動していたから早く順番が回って来たのかしら」

靖子は目を大きく見開き優人に言った。優人はその表情から靖子が突っ込まれるのを待っていると判断して言い返す。

「そんなはずないだろ。木村さんたちが抽選式になるように活動していたのに、木村さんに優先的に順番が回って来るようになるなんて本末転倒じゃないか」

優人が笑いながら言うと、靖子は破顔し声を出して笑った。

「ふふふ、おかしい」

クスクスと笑う靖子の前で列が動く。優人は靖子から視線を外して首を上げ靖子に知らせた。靖子は一歩前に進み優人も靖子の後ろに移動した。そして靖子は優人に振り返る。

「それでね、木村さんの奥さんが言うには、旦那さんは優しくなっただけじゃなくて、口数も少なくなって覇気がなくなったんだって。仕事にも影響するんじゃないかって心配してたよ」

「確か木村さんは中学校の先生だったよね?」

「うん。熱血教師で有名だったみたい。ご近所さんの中に自分の子供を木村さんに見てもらいたいって人がいるくらい」

「そっか、それは心配だね。中学生は多感な時期だから、先生が無気力だと子供の成長にも影響するかもしれない」

「そうよね。でもなんでそんなふうになったのかしら。心の病気とか?」

「うん、そうかもしれない。会社の同僚がうつ病になったときに調べたことがあるんだけど、無気力はうつ病の代表的症状なんだって。何事にも興味を失ってしまうんだ。木村さんの奥さんに一度病院で診てもらうように言った方がいいかもね」

「でも、それって言いづらくない? 他人の私が首を突っ込みすぎのような気もするし……」

「奥さんは、旦那さんがいつからそんなふうになったか言ってた?」

「最近としか言ってなかったけど、先週あったときには何も言ってなかったから、ここ一週間のことじゃないかしら」

「うつ病は早めの治療が大切らしいよ。放っておくとどんどん悪い方に進んでしまうんだって。だから言いづらいかもしれないけど、次に奥さんと会ったときにでも病院に行くことを勧めてみなよ」

靖子は目を瞑り「うーん」と唸る。その様子を眺める優人の視線の先でワクチン接種部屋のカーテンが開き、一人の青年が出てきた。Tシャツから延びる右腕に小さな絆創膏のようなものが貼られている。ワクチンの接種を終えてきたようだ。そのとき、靖子が「あっ」と小さく声を上げた。

「どうしたの?」

「私、あの人知ってる。よく駅前で木村さんと一緒にいる人だよ。昨日も一人で通行人に声を掛けて熱心にビラを配ってた。ああ、そうだ。いいこと思い付いた。あの人に木村さんのことを言えばいいんじゃないかな?」

そう言って靖子は優人をじっと見つめる。

「それはいい考えだね。奥さんよりは話しやすいだろうし」

優人は靖子の返事を待つが、靖子は優人を見つめたまま何も言わない。暫く待って優人はようやく気が付いた。

「え、俺?」

「そう、あなた。だって言い出したのはあなたなんだから」

「うーん、そっか、そうだよね。わかった、うん、俺が聞いてみるよ。木村さんの下の名前わかる?」

「知らないけど、大丈夫じゃないかな。木村さんと駅でビラ配りしてる方ですか? とか聞けばいいと思う。ほら、こっちに来るよ」

青年は列の横を通って歩いてくる。優人はすれ違う間際に青年に声を掛けた。

「あの、すみません」

青年は足を止め優人に振り向く。突然見ず知らずの人間に話しかけられたにもかかわらず驚いた様子はない。

「なにか?」

「えっと、あの、木村さんと一緒に駅でビラ配りをされてる方ですよね?」

青年のマスクが僅かに膨らみ元に戻る。

「ええ、そうです。僕たちの運動に興味があるんですか?」

「いえ、その、木村さんの……」

優人が言い終わる前に青年が言葉を被せた。

「僕たちの運動のことなら忘れてください。なんだか興味がなくなってしまいました。ビラを配ったり国会の前で座り込みなんかしていましたけど、なんで自分はそんなことをしていたんだろうって思うようになってしまって、もう何かを変えたいとか思えなくなりました。市民運動からは手を引こうと思っています」

優人は靖子と顔を見合わせてから青年に向き直る。

「えっ、昨日も駅前でビラを配っていましたよね?」

「はい。昨日は駅前でビラを配っていました。だけど今はどうでもよくなったんです」

「そんなことあります?」

「あるんです。今日も駅前で配ろうと思って持ってきたんですが、」

そう言いながら青年は肩から下げたバッグから紙の束を取り出した。

「運動に興味があるなら差し上げますよ。この紙に代表の電話番号が書いているので連絡されたらいいと思います。もし、ご近所に配られるなら束ごと差し上げますよ。僕にはもう必要ないですから」

青年はビラの束を優人に差しだすが、優人は手の平を青年に向けて制止した。

「あ、いえ、結構です」

「そうですか。それでは失礼します」

青年はビラの束をバッグに戻すと、優人と靖子に向かって軽くお辞儀をしてから建物出口に向かって歩いて行った。優人は暫く青年の後ろ姿を見つめてから靖子に向き直る。

「どう思う?」

「気分屋で心変わりしやすいタイプとか」

「熱心な活動家が?」

「あ、わかった。ワクチン接種の抽選制を勝ち取っていざワクチンを接種したら、すべてやり遂げたと思って他の活動への熱が冷めたとか」

「本気で言ってる?」

靖子はゆっくりと左右に首を振る。

「さっき木村さんが先週ワクチンを接種したって言ったよね?」

コクリと頷く靖子の前のスペースが開いている。優人は首を動かしそのことを靖子に伝えるが、靖子は優人の目を見つめたまま動こうとはしない。暫し無言で見つめ合ったのち優人が口を開いた。

「帰ろうか」

「うん、帰りましょ」

 

――了

2021年5月24日公開

© 2021 諏訪靖彦

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"愛しのワクチン"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2021-05-25 06:05

    特定の人にだけ効果があるのか?それとも全員に何かしらの効能をもたらすのか?あるいはワクチンなんて嘘っぱちなのか、それともワクチンの効果はあるのか?ただ、もしも木村さんの奥さんも打っているなら、慌てて帰らなくてもよかったのでは?と思いました。そういう活動に興味が無ければ。ですけども。あと晴子さんがいちいち振り返るのが良かったです。

  • 投稿者 | 2021-05-25 08:02

    外国でワクチン接種を受けましたが、その後、一週間寝込みました。全身疲労感みたいなものでしょうか? 性格が変わるということはなかったと思います。あと一回受けるのですが、これを読んでなんだか心配になってきました。最後のところで、二人共接種を受けずに帰ってしまうのが笑えました。ワクチンを受けると性格が穏やかになるという発想は、よくできていると思います。ありがとうございました。

  • 投稿者 | 2021-05-25 12:28

    かなり早めにオチが読めてしまいましたが、夫婦の会話のテンポがいいので楽しく読ませていただきました。
    リアリズム小説かと思いきや、次々にパラレルワールド属性をぶっこんでくるあたりも安定して面白かったです。

  • 編集者 | 2021-05-25 20:02

    確かに、ワクチンが脳にも作用するなら、どこかで人格に作用しないとも言えない。この調子だと、俺なんかはワクチンを打ったら聖人になってしまうだろう。
    でもアルジャーノンの話みたいに、木村達にもどこかで反動がある気がするのも、考えすぎだろうか。

  • 投稿者 | 2021-05-28 09:46

    「意味が分かると怖い話」にありそうな、ぞっとさせられる話でした。
    日本中が無気力になるのも時間の問題ですね。仮にもしこのまま話が続いたとしたら、陰謀論とか出てきそうです。
    行列の進み方がリアルでした。小林さんも仰ってますが、靖子が列の進行を止めちゃうのが良いですね。なんとなく。

  • 投稿者 | 2021-05-29 06:56

    木村さんを試験してみようというところ等、どことなくお茶目な夫婦に感じられ、題材はディスユートピアぽいのに、そのコントラストが独特だと思いました。

  • 投稿者 | 2021-05-29 06:57

    すみません、木村さんではありませんね。木村さんと一緒に活動している青年です。

  • 投稿者 | 2021-05-30 12:36

    良識ある普通の市民ぶっている夫婦の感覚がどこかずれているというか、ぶっ飛んでいるところがじわじわくる。靖子が木村さんの奥さんに話すのは躊躇するのに、見ず知らずの相手に話すのは何とも思わないくだりでは笑った。せっかくの海野優人再登場なので、もっと特徴を与えてキャラ立ちさせてほしい。

  • 投稿者 | 2021-05-30 15:36

    「ねえ、あなた」からのサザエさんのような出だしについ吹き出してしまいました。
    集団ワクチン接種会場ではいかにもありそうな会話が繰り広げられるうちに、だんだん怖い話になっていく進行はさすがです。国産ワクチン開発するついでに、思想信条信念闘争心の類を弱める作用を付加していたとしても分かりませんよね。
    複数の家族の会話があるとなお面白いと思いました。若い夫婦と初老の夫婦とか。

  • 投稿者 | 2021-05-31 00:20

    どこにでもあるような夫婦の会話が徐々にホラーめいたものをまとってくる展開が面白いです。
    この世界にはワクチンを打つ打たないの選択肢がまだあるようなので、それが救いともいえるかもしれませんね。

  • 投稿者 | 2021-05-31 16:51

    ここでも登場しましたね、さんやsげふんげふん、海野さん。
    この副反応って政治家とかエスタブリッシュメントは把握してるのかなと。
    理解しているからこそ、寧ろ先に市民に投与したとも捉えられたり。

  • 投稿者 | 2021-05-31 17:58

    良質なSSを久しぶりに読めて、満たされました。

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