受胎告知

諏訪靖彦

小説

11,591文字

確かまだアップしてなかった気がするので。(地下で読まれた方もいらっしゃるかもしれませんが、私が最初に書いた小説なのです。恥ずかしいなあ)

 

靖子やすこに言わせると俺は優しい人間らしい。思いやりがあって親切で、心遣いが出来て穏やかで、慎ましく殊勝である。なんてことは全然ないのに、なぜ自分が優しい人間なのか靖子に聞いてみると、人からの頼まれごとを断らないからだと言う。頼みごとをされても断る理由を考えるのが面倒で、そんなことに頭を使うくらいなら行動したほうが楽だし、相手も喜ぶ。人の喜ぶ顔は好きだからもっと喜ばしてやろうと思って行動すると、頼みごとを断らなくなるのは当然の帰結だ。でも優しいと言われる一番の理由は俺の名前が優人ゆうとだからなのだろう。

そんな俺だから「今からうちに来て、話したいことがあるの」なんて言う靖子から突然の呼び出しにも応じることにする。電話があったのは二時、夜中の二時だ。俺は当然布団に入っていたし、良い夢を見てスヤスヤ寝ていたはずだ。どんな夢を見ていたかは覚えてないけれど、靖子からの電話で起こされた時の苛立ちは良い夢を見ていたのを邪魔されたそれだ。しかも今日は水曜日。俺はサラリーマンだから当然明日も仕事があるわけで、仕事に支障をきたさないように最低限の睡眠時間を確保したいけれど、靖子の家でお茶を飲みながら適当な返事をする俺に「ちゃんと聞いてないでしょ」なんて言いながら靖子が怒り出して、また最初から話を聞く羽目になって、今度はきちんと話を聞いて建設的な意見を言うと「君はなにも分かってない」とさらに怒られ、靖子を納得させる言葉はないものかと必死に考えていると「もう用は済んだから帰って」と屈辱的な言葉を浴びせられたあと、家に戻って眠りにつけるのが何時になるかなんて皆目見当もつかない。

俺は布団から出て支度をする。三月に入ってもまだまだ夜は寒く、アルピニストが着るようなモコモコとした橙色のジャンパーを羽織る。アルピニストとはアルプスに登れるような高度な技術を持った登山家のことを言うらしいが、夜中に眠気を押して彼女に会いに行くような高度な優しさを持った俺は何ニスト何だろう? なんてことを考えながら玄関のドアを開けた。

「あらあら、雪が降ってるよ」

 

 

「こんな時間に話したいことってなに?」

俺は靖子のアパートのドアを開けるなりそう言った。部屋の中は玄関を上がってすぐ右手にユニットバスがあり、玄関から二メートルほど先にある居間の手前がキッチンになっている。居間に続く引き戸は開いており、八畳間の真ん中でコタツに足を入れている靖子と目が合った。

「人の部屋に入る時はもっと別の言葉があるでしょ? お邪魔しますとか。それとちゃんとコートの雪払って入ってきてよね」

靖子は不機嫌そうな目で俺を見る。夜中呼び出され、眠い目をこすって季節はずれの雪の中、凍えながら来た人間にはもう少し気遣いのある言葉を掛けてもいいのではないか? 「寒い中ご苦労様」とか「私のためにこんな時間に来てくれてありがとう」とかさ。少しは感謝してもらいたい。俺はジャンパーに付いた雪を払いながら靖子に言った。

「お邪魔します」

思ったことを全て言葉に出してしまう人間ではないので、靖子から指摘された言葉を訂正したあと、靴を脱ぎ玄関を上がる。部屋は適度に暖かく、冷たくなった体を暖気が包む。俺は今まで来るとアルピニストが着るようなモコモコのジャンパーを脱いで絨毯の上に置くと、靖子と対面になるようにコタツのなかに足を入れた。そしてもう一度靖子に聞いた。

「こんな時間に話したいことってなに?」

「こんな時間こんな時間って、何度も同じこと言わないでよ。じゃあ何時だったらよかったの?」

俺は何時ならよかったのか考える。明日会社終わりに寄るのはどうだろうかと思いつくが、もう既に靖子の部屋に来てしまっているわけで、そう言ったからといってこの状況が変わるわけではない。

「何時でもいいけど……。それで、話したいことってなに?」

寝ているところを起こされて、凍えながら会いにきたことへの感謝の言葉を靖子から引き出すのは諦めよう。靖子は人の気持ちを理解するのが苦手だ。そしてきっと優しくない。そもそも優しい人間はこんな時間に彼氏を自分の部屋に呼びつけたりはしない。自分から行こうという発想自体ないのだろう。

「君なら来てくれると思ったよ」

靖子は少し考えてから、俺を呼び出した理由ではなく、もちろん俺への感謝でもない言葉を口にした。でもそんな言葉で俺はちょっと嬉しくなる。靖子は俺のことを「君」と呼ぶ。前に一度、俺のことをなんで「君」と呼ぶのか聞いたことがある。靖子は「名前で呼ぶと恥ずかしいし、あなたなんて言うと夫婦みたいでしょ」なんて言うから「じゃあ結婚すれば俺のことをあなたって呼ぶのか?」とプロポーズを待っている女性なら、もしかしてと思いそうな言葉で返すと、「まさか、私は旦那にあなたなんていうほど甲斐甲斐しくない」だって。甲斐甲斐しいの使い方が違うよ。

「何か飲む?」

「ビールがいいな」

「ビールなんかないよ。君と違って一人で飲むタイプじゃないんだから。君は飲み物はビールしかないと思ってない?」

「思ってないけど、それでもいいと思ってる」

「世界中の飲み物がビールだったら大変よ。だって……」

しばらく待ったが言葉が続かない。靖子を見るとこわばった顔さえしている。世界中の飲み物がビールだったらどうなるのかを想像出来ないのか、世界中の飲み物がビールだった場合の壮絶さに言葉を失っているのか。

「お茶淹れて来るね」

ビールで出来た世界に絶望した靖子は立ち上がるとキッチンへ向かった。俺は小腹がすいていたのでコタツから出てキッチンにある冷蔵庫へと向かう。冷蔵庫を開けると綺麗に整理された棚に野沢菜を容れたタッパを見つけた。お茶にはやっぱり野沢菜だななんて思いながら手を伸ばすと、後ろでお茶を淹れていた靖子が力いっぱい冷蔵庫のトビラを蹴った。

「なにやってんのよ。勝手に冷蔵庫開けないで!」

危うく手を挟まれそうになった。冷蔵庫はトビラで手を挟んでも痛くないように、衝撃が吸収できる構造になっているので、例え手を挟まれたとしても大したことにはならないはずだが、靖子がそこまで考えて冷蔵庫のトビラを閉めたなんてことは恐らくなくて、ちょっと痛めつけてやろうとさえ思ったはずだ。その思いやりのかけらもない態度に俺は反抗する。

「冷蔵庫を開けるぐらい別にいいじゃないか」

「プライバシーの侵害」

彼女の家の冷蔵庫を開けて訴えられても裁判で負ける気は全然しないけれど、プライバシーの定義について正確に述べられるほど民法に精通してない俺は、そっと冷蔵庫を閉じた。

「わかったよ。でもさ、別に冷蔵庫に見られちゃいけないものが入っているわけじゃないだろ? パンツでも入ってるのか?」

そう言い返してから、風呂上がりに冷蔵庫で冷やした下着を着ると気持ちいいだろうなと考える。

「そう。パンツが入ってるの」

やっぱり。色ごとに綺麗にタッパに入れて野菜室に並べているんだろう。なんてことはさすがにない。

俺はしぶしぶコタツに戻る。コタツからキッチンに目を向けると、靖子が野沢菜を切ってくれている。台所に立つ後ろ姿、なんだか良いな。人よりちょっとだけ思いやりがなくてわがままで、怒りっぽくてあきやすく、常識がなくて天然だけれども、けれども……、あれ良いところ全然ないじゃん。靖子のここが好きだとか、あそこが好きだなんて全然思いつかない。きっと漠然と靖子のことが好きなんだと思う。そもそも恋人のことを好きな理由なんてはっきりと言えるものなのだろうか? 「俺はお前のここが気に入っているから好きだ」なんていうのはうそ臭い。そんなことを考えながら靖子を見ていると、俺の視線に気が付いた靖子が振り返り言った。

「気持ち悪いからにやけた顔で見ないでよ」

多分こんなところが好きなんだ。

暫くすると小皿に盛った野沢菜とお茶をもって靖子が戻ってきた。俺はお茶をすすりながら靖子に言う。

「それで、話したいことってなに?」

「それがね、大変なことになったの」

靖子は俺を見つめて深刻そうな顔で言うが、靖子にとっての大変なことは大概大変なことではない。「大変、凄く眠い」とか「大変、電話が鳴っている」とか「大変大変、多分大変」もう大変の使い方すら見失う。いやまて、もしかしたら本当に大変なことが起こったら大変の代わりに使う言葉を持ち合わせているのかもしれない。使い方を間違った言葉だろうけど。

「何が大変なの?」

俺は靖子に合わせて少し深刻な顔をしてみせる。野沢菜を食べながら。ポリポリカリカリ。靖子の話はきっと大したことではないので、ポリポリカリカリ。

「何から話せばいいかしら……」

靖子が何かを考えるしぐさはまるで漫画のキャラクターのようだ。首をかしげ、目は天井の遥か先を見つめている。きっと何かからの交信を待っているのだろう。何かからのメッセージは大抵大したことではないのだけれど、靖子にはたまに役に立っているみたいだ。

靖子はお茶を一口飲んでから意を決したように言った。

「妊娠してましぃすた」

おいおい噛んでるよ。話す順序を考えた挙句に噛んでるよ。きっと口が回らなくて噛んでるんじゃなくて脳が噛んでいるんだな。それで、靖子は何て言ったんだっけ? なにか重要なことを言ったような気がするけど、噛んだことに気が行ってしまって……、ああそうか、妊娠したって言ったのか。妊娠したのか。うーん、それは確かに大変だ。ポリポリカリカリ。

「まいったなあって思ったでしょ?」

「いや、思ってないよ」

本当に思っていない。俺は時期が来れば靖子と結婚しようと思っているし、結婚したら子供だってほしい。それに一生、靖子といれば楽しい人生になると自信さえある。

「ううん、絶対思っているでしょ?」

全否定。何を持って絶対思っているなんて言えるのだろうか? しかし俺は「何をもって絶対なんて言うの?」なんて聞きはしない。「絶対は絶対だよ」なんて言うに決まっているから。靖子の絶対には絶対と思うに至る経緯なんてものはない。絶対。

「お金をどうしようかって思ったでしょ?」

「お金って?」

「赤ちゃんを堕ろすのにはお金がかかるなって思ったでしょ?」

中絶するとなるとそれなりにお金は掛かるけど、俺は中絶しようなんて思ってもないわけで、靖子の予想は全部間違い。俺が中絶しろなんて言うと思っている靖子にちょっと腹が立つ。

「そんなことないよ。中絶しようなんて全然思ってないよ」

「お前を連れて一緒に病院に行かなきゃならないなんて恥ずかしいなって思ったでしょ?」

思ったでしょ? 五連発。どうしてそんなに俺のことが信用できないのか。靖子の目には俺がそんな男に見えているのか? 腹が立つと言うより何だか寂しくなってきた。

「そんなこと思ってないってば」

「じゃあどう思ったの?」

「お金をどうしようかなって思ったのは当たっている。色々と掛かりそうだから」

「やっぱり中絶費のことを心配してたんだ」

「中絶費のことじゃないよ。中絶なんて俺が考えるわけないだろ。そんなこと絶対に言わないよ」

「中絶費のことを心配しているわけじゃないなら、何のお金を心配してるのよ」

「結婚するには色々とお金が掛かるなって……」

ああ、言ってしまった。プロポーズっぽいこと言ってしまった。プロポーズの言葉は色々考えていたけど、靖子に妊娠したと言われた場合は考えていなかった。一番ありそなパターンだったのに。プロポーズはヒューマンでハーテッドな言葉で伝えたかったのに。

「え、結婚するの?」

そう言った靖子の顔はプロポーズされた女性が見せる嬉しいような恥ずかしいような表情では全然なくて、心底びっくりしているような、妊娠と結婚が結びついていないような、というか何も考えていない顔。

「だって、子供が出来たならその方がいいだろ」

俺は至極当然なことを言う。

「結婚だなんて君から言い出すとは思ってなかったよ」

じゃあ靖子から言い出すつもりだったの? なんてことは当然聞かない。そもそも結婚なんて全然考えてなかったに違いないから。

「まあ、考えとくよ」

「じっくり考えてほしい。一生のことなんだから」

靖子は俺の顔を見てコクリと頷いた。

「それで、いつからそのことに気が付いてたの?」

「そのことって?」

妊娠の話をしているのに、妊娠のこと以外のわけがない。

「だから、妊娠してるってこと」

「全然気づかなかったよ」

妊娠していることにいつ気がついたのか問うているのに、全然気がつかなかったでは答えになっていない。会話がかみ合わないのはいつものことなので、俺は別のアプローチで攻めてみる。

「でも、どれくらい来てないとか」

「なにが?」

「妊娠の話をしていて来る来ないといえば一つしかないと思うけど。うーん、なんていえば言いかな……」

「生理?」

「そうそう、それはいつから来てないの?」

「生理は毎月きちんと来てるよ。君と違って規則正しい生活をしているからね。ちゃんと自炊もしているし、休みの日だって早くに起きて朝ごはんを作るんだから」

「え?」

もちろん俺は靖子が健康的な生活をしていることに驚いたわけではない。生理が来ているのに妊娠しているなんてことが有り得るのだろうか? いやいや、そんなの聞いたことがない。きっと俺の聞き間違いだ。もしくは靖子の言い間違い。靖子の脳が噛んでいるだけだ。靖子は人の言いたいことを理解するのが苦手で、自分のいいように解釈して、しかも、自分の言いたいことをうまく相手に伝えられない残念な言語中枢を持っているから……。ああ、途中から悪口になっているよ。

「え? って君と一緒にしないでよ。どうせ毎日カップラーメンとかなんでしょ?」

「靖子の言うとおり俺は毎日カップラーメンを食べていて、自炊なんてまったくしないけど、そんなことはどうでもよくて」

俺はこんなことではくじけない。生理が来ているのか確かめる必要があるんだ。物凄く大切なことなんだ。場合によっては前言を撤回しなければならない。前言を撤回してもいずれ同じことを言うだろうけど、その時にはきちんとした手順を踏む必要があるんだ。

「どうでもよくないよ。きちんとした食生活は大切だよ」

「食生活の大切さは分かっているけど、今はその話をしているわけじゃなくて、ええと、それは毎月来ているの?」

「何のこと?」

「だからさっきの」

「あ、生理のこと?」

「うん」

「毎月きちんと来ているよ。何度も同じこと言わせないでよ」

ここまで来てさすがに脳が噛んでることなんてないだろう。ああそうか、靖子は通常は毎月きちんと生理が来ていますと言いたいんだ。私は規則正しい生活をしているので妊娠する前は毎月きちんと生理が来ていましたと言いたいんだ。きっとそうだ。俺の聞き方がまずかったんだ。でも、「いつから来てないの?」と聞いて「通常は毎月来ています」なんて答えは絶対におかしい。

「今月も来た?」

「もちろん。五日に来たよ」

「今日は何日?」

「二十日。なのでとっくに終わっているよ」

「今月の五日に生理が来て生理は終わってるんだよね?」

「あ、やっと自分から生理って言った」

そう言って靖子は笑う。しかしプロポーズっぽいことを言ってしまった俺は、靖子のそんな辱めにくじけてなんていられない。

「そんなことはどうでもいいんだけど……、生理は五日に来たんだよね? 次の生理までまだまだ時間があるよね?」

「そうだよ」

なんだ、やっぱり生理以外にも妊娠が分かる方法があるんだ。三十年生きていても、世の中には知らないことが沢山あるわけで、ましてや女の体なんて知らないことだらけだ。きっと女は自分の体内に入った精子の行動が分かるんだ。靖子はセックスの後、いま精子が私の卵子に到達したと分かったり、もしかすると精子に向かって「がんばれあと少しで頂上よ」とか声を掛けているかもしれない。そうであれば最後に靖子とセックスしたのは五日前だし十分ありえるじゃないか。

「妊娠が分かったのはいつ?」

「さっき君に電話する前」

俺から放出された数億の命のかけらは頂上に上り詰めるまでの間、自分の分身ともいえる仲間を裏切り、そして裏切られ、ずるがしこくも最後まで生き抜いた勇者がアルプスの麓へ旗を立てたんだ。念のために靖子に確認する。

「五日前に俺の放った精子が、さっき靖子の卵子に到達して受精したの?」

一瞬靖子の目が丸くなる。ぽかんとする。首をかしげる。そして徐々に瞳を細め、変態でも見るような目つきでつぶやいた。

「君、頭おかしいの?」

靖子に「頭おかしいの?」なんて言われた。最悪だ。そして俺は果てしなくバカだ。いくらなんでも自分の体内の精子の動きが分かるなんてあるわけないじゃないか。俺は精子にいっぱいくわされたんだ。いや、精子じゃなくて、靖子にいっぱいくわされたんだ。靖子は眠れなくて退屈だから俺をからかってやろうと思って俺を呼んだんだ。

「どうしたの? なんか顔が怒ってるよ」

「妊娠したって言うのはウソ?」

「なんでよ、君をこんな時間に部屋にまで呼んだのに、そんなウソつかないよ」

「ウソじゃなければ、俺のことからかってる?」

「からかってなんかないよ。真剣に話をしてるのに……。ああ、そうか。もしかして五日に生理が来て、今日妊娠が分かったのがおかしいと思ってる?」

それ以外に何があると言うのか。俺はお茶をすすりながら、険しい顔でうなずく。お茶が渋いわけではない。

「君が生理と妊娠を結びつけちゃうからだよ。私が妊娠してると思ったのには他の理由があるのよ」

「どんな理由? そんな気がするとか曖昧な理由はやめろよな」

俺は靖子がどんな理論的な説明をしてくれるのを期待しながら言葉を待った。

「曖昧な理由じゃないよ、確かなことなのよ。それはね……、私さっきタイムスリップしたの」

もうだめだ。くじけそうだ。

「ねぇ、そんな難しい顔しないでよ。意味が分からない?」

「うん。意味が分からないから教えて」

「えっとね、タイムスリップというのは時空を超えて過去や未来へ行くことだよ」

そんな答えが返ってくる気はしていた。もちろん俺はタイムスリップの意味を聞いているわけではない。

「タイムスリップとはそんなものだろうな。それでタイムスリップと妊娠がどう関係してくるわけ? どうして妊娠してることが分かったの?」

「なんだ、タイムスリップの意味知ってるんじゃん」

なんとか宇宙論を使って説明出来るほどタイムスリップに精通しているわけではないけど、一般的なタイムスリップの意味は分かる。三十年生きてきたら一度や二度じゃすまないくらい聞いた言葉だ。

「ごめんね。タイムスリップの意味は知ってたんだ」

素直に謝ったほうが話は進む。

「そう。それで何だったかしら、そうそう、私がタイムスリップしたことに驚いているのよね?」

「驚くより呆れてる」

「私も呆れてるんだよ。あんなに簡単にタイムスリップが出来るなんて」

俺の呆れると靖子の呆れるは用法が違うらしい。

「あのさ、俺がタイムスリップの話を信じている前提で話を進めようとしてない?」

「信じてないの?」

靖子は俺がタイムスリップの話を信じると思っているのか……。俺もいい大人だ、女の体はよく知らなかったけど、タイムマシンが完成しましたなんてニュースを耳にしたことはないわけで、なぜ俺がタイムスリップを信じているのか聞いたみたいが、無駄な気もする。靖子を見ると「え、ほんとに?」みたいな顔を俺に向けている。まてよ、もしかすると、靖子は風邪でも引いて熱があるのかもしれない。気のせいか顔が赤み掛かっている気がする。

「信じてないの? なんて平然と言う靖子が信じられないよ……、ちょっといい?」

俺が靖子のおでこに手を当てると、靖子がさっと払いのけた。

「熱なんかないわよ」

うん。熱なんかなかった。顔が赤み掛かっている気がしただけだった。

「じゃあ聞くけど、靖子がタイムスリップした証拠はあるの?」

「証拠も何も実際にこの目で未来を見てきたんだから」

数々の人が騙され、なぜか今でも信じる人の多い「私が証拠よ」詐欺だ。「私が証拠よ」に証拠能力がないことについて語ってもよかったが、そろそろ帰らなければ寝る時間がなくなる。

「そろそろ、この辺にしない? 謝れば許してあげるよ」

「なんで私が謝らなきゃいけないのよ?」

「眠れなくて暇だから俺を呼んだんだろ?」

「眠れないからって君を呼ぶわけないでしょ、余計眠れなくなっちゃう」

俺は暇つぶしの相手にすらならないらしい。結婚したら一緒のベッドで寝て、眠れない夜があればお互い話を聞きあう。子供が出来たら川の字で、今日は何があったのなんて話をしながら眠りにつく。そんな俺の人生設計に修正が必要になった。

「何を考えこんでんのよ」

そりゃ色々考えるさ。いきなり別居も最近では珍しい話ではないようだけど、結婚する前から別居のことを考えなきゃいけないものなのか? いや、なんだか思考がずれた。そうだタイムスリップだ。証拠が曖昧なら方法を聞いてみよう。

「じゃあ、どうやってタイムスリップしたの?」

「いつの間にか未来にタイムスリップしてたの」

自分の意志でなく、何か他の力が働いて未来へタイムスリップしたのか。未来という気になる言葉もあったが後回し。

「いつの間にかといっても直前になにかなかった? タイムスリップしそうな体の変化とか?」

俺はいったい何を聞いているんだ。タイムスリップしそうな体の変化なんて聞いたことない。いや、そもそもタイムスリップなど存在しない。

「なんか体が暖かくなってふわふわした気がする」

変化するのかよ。

「それはいつ? どこで?」

「そんな矢継に質問しないでよ。えっと、九時頃ご飯を食べ終えてコタツに入ってお笑い番組を見ている時だったかな」

「随分と絞れるんだね。それでどうやってタイムスリップしたの?」

「出ていたお笑いコンビが面白くなかったのよ、コンビ名はえっと……」

面白くないお笑いコンビに視聴者をタイムスリップさせる能力がある可能性も捨てきれないが、そんな可能性は限りなく薄いわけで、俺は靖子に話の続きを促した。

「コンビ名はいいから、続けて」

「そうそう、つまらない漫才ををぼんやり眺めていたら」

「つまらない漫才をぼんやり眺めていたら?」

「うつらうつらして」

「うつらうつらして?」

「いつの間にか未来にタイムスリップしてたの」

なんとなく予想していたけれど、ここに行きつくまでが長かった。今帰れば一時間半は眠れる。しかしいくつかの疑問が残る。靖子は未来にタイムスリップしたと言っているけど、それがなぜ妊娠に繋がるのだろうか。もやもやとした気分は晴らしておきたい。

「何で未来だと分かったの?」

「君、頭おかしいの? 妊娠してるって言ったら未来に決まってんじゃん。私子供産んだことないし」

また靖子に「頭おかしいの?」なんて言われた。最悪だ。しかし理論的ではないにしろなんとなく納得した、それが妊娠に繋がるんだ。未来で靖子は妊娠していたんだ。遠回し過ぎて気付いてあげられなかったよ。

「靖子は未来で妊娠してたんだね」

「そう、残暑厳しい日でね、おなかも大きくなり始めて病院まで行くのが大変だったのよ。ちょうど六か月検診の日だったんだけど、赤ちゃんは順調で、先生から次からは二週間に一度来てくださいって言われたんだよ」

夢の中で靖子が六か月検診を受けようが受けまいがどうでもいいわけで、俺の未来の子供が順調に育っていてよかったね、なんて感情は当然わいてこない。靖子の顔を見ると順調に育っているのは食生活ががいいからだよと言いたそうな目をしているが、乗ってあげない。俺は早く帰って眠りたいんだ。

「こんなこと言っていいかわからないけど、靖子はテレビを観ながら寝ちゃったんだよね?」

「違うよ。テレビを観ていたらうつらうつらして未来に行って……」

俺は靖子の答えに被せ気味にもう一度言った。

「テレビを観ながら寝ちゃって、未来の夢を見たんだよね」

靖子の目が泳いでいる。勝った。いや別に靖子と戦っていたわけではなくて。あれ、俺は何と戦っていたのだろう。そうだ時間と戦ってたんだ。けれど、今から帰っても睡眠時間はほとんど取れない。なんだよ、勝ってないじゃん。

「ひどい、なんでそんなこと言うの?」

靖子の目は潤んでいる。目が泳いでいたんじゃなくて、泣きそうだったのか。悪いことをしてしまった。でも俺の気持ちにもなってほしい。寝ているところを起こされて、雪の降るなか靖子の部屋まで来て、靖子の冗談に付き合って、俺の寝る時間がどんどん削られている……。あれ、俺は何も悪いことをしていないじゃないか。

「そう考えるのが理にかなっているよ、ちょっといい?」

俺はまた靖子のおでこに手を当てる。

「だから熱なんてないわよ!」

俺は靖子が熱を出していてほしいんだ。熱のせいで頭がおかしくなっていると思いたいんだ。俺は作戦を変更することにした。このままでは双方の意見が食い違うばかりで着地点が想像できない。話を合わせ、納得いかなくても聞いてやることにしよう。自分の睡眠時間より靖子、俺の体の心配より靖子の頭の心配だ。そうやって今までやってきたのだ。そしてこれからも。ちょっと辛いけどね。

「それでね、おなかの子は男の子なんだよ」

「へえ、それは検診で分かったの?」

「違うよ、それは妊婦の勘。妊婦の勘は当たるんだよ」

妊婦じゃないのに凄いねとは突っ込まない。

「それでね、男の子だから君が名前を考えてよ」

男の子の名前は俺が考えることになっているらしい。結婚することすら想像してなかったくせに、いつの間にか俺が子供の名前を考えることになっている。そんなことを靖子と決めた覚えは無いけど、靖子の中でそう決まっているのだろう。

「わかった。子供の名前を考えとくよ」

「キラキラネームはやめてよね、大人になったら大変だからね」

靖子が母親という試練を乗り越えればどんな名前であっても立派に育っていくはずだ。なんてことも当然言わない。チラリと腕時計を見る。すでに四時だ。これから家に帰っても一時間眠れるかどうかだから、今日は靖子の部屋に泊まらせてもらうことにしよう。これだけ話を聞いたんだ、それぐらいいいだろう。

「話の続きは明日聞くから、そろそろ寝ない?」

「え? 急に来て泊まっていくつもり?」

そう泊まっていくつもり。急に来てに引っかかるけど、そんなことはこの際どうでもよくて、明日の仕事に影響をきたすから泊まらせてほしい。

「だってこんな時間に家に帰ったら寝る時間がないよ」

「まさか変なことしようと思ってないわよね?」

「疲れちゃってそれどころじゃない」

「まるで私のせいみたいな言い方。まあいいよ、お布団敷くから待ってて」

そう言うと靖子はこたつの上の食器類を束ねてキッチンに向かった。その背に向かって俺は大声ではなく小声で、聞こえるか聞こえないかの声で言った。

「早くしないと俺もタイムスリップしちゃうよ」

靖子は食器をシンクに置き振り向くと、大声で言った。

「聞こえてるから!」

 

 

「もう、何やってるのよ……、疲れてそれどころじゃないって言ってたでしょ?」

俺は布団の中で靖子の背から腕を回し、乳房を揉みしだいている。服の上からじゃ分からないけど、直接触ると結構社交的な胸を持っているよな、なんてことを思いながら社交的な胸の対義語は何だろうと考える。

「引っ込み思案だ」

間違った。いや間違ってないけど、靖子の問いの答えになっていない。

「なによそれ?」

「社交的の対義語」

「それは内向的でしょ」

「それだと意味が通じないんだ」

いやまてよ、内向的な胸とは内に向かう胸なんだがら、陥没乳首のことだとすれば意味が通じる。

「何の話をしているの? それが君のしている行為に何の関係があるの?」

「関係はないんだけど、いやちょっとは関係するけど、言いたいこととは大きくは違っていて」

「何なのよ……。ねえ、ちょっとあたってる、君のそれは全然引っ込み思案じゃなから」

引っ込み思案な陰茎はいいけど社交的な陰茎は扱いが難しい。胸は社交的でも引っ込み思案でも趣があっていいが、社交的な陰茎は逮捕だ。すぐに逮捕。社交的な一面をちらっと見せても逮捕。

「実は靖子から聞いた未来の話を考えていたら、その気になってきちゃったんだ」

そう、俺がこんな気持ちになったのは恐らく靖子に責任がある。それを確認しておかなければならない。

「タイムスリップの話のこと?」

「そう。未来の靖子は六か月検診を受けていたって言ってたよね?」

「うん、順調だって」

「暑い日だって言ってたけど何月かわかる?」

「わかるよ。病院の待合室にカレンダーがあって九月だった」

「なるほどね。それが答えだよ」

「なんの?」

「なぜ今、俺が靖子を求めているかの」

 

(了)

2021年6月13日公開

© 2021 諏訪靖彦

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