初出血性ショック

踊ってばかりの国(第5話)

応募作品

諏訪靖彦

小説

3,963文字

2021年1月合評会参加作品。お題は「初〇〇」「〇〇初め」「〇〇始め」

 

俺は実家で療養していた。東京で一人暮らしをしていたときに起こした失敗により病院で半年間退屈な日々を過ごしたあと、退院時に一人暮らしは心配だからと両親が俺を引き取った。療養先は海に近い場所だった。雨の日以外毎朝三十分かけて浜辺まで歩いて行き、堤防に腰を下ろして二時間水平線を眺め、一時間砂浜に打ち寄せる波の音を聞いてから昼前に家に戻った。海を眺めていて何かの感情が湧き上がってくることはない。病院の先生曰く、それでいいそうだ。何も考えずに日々のルーティーンをこなすことが本当の俺を取り戻すために必要なことらしい。

雨が何日も続いた日の午前中、実家に戻ってきたことで親父の部屋から俺の部屋に変わった和室の真ん中に敷かれた布団の上で、俺はカッターナイフで足の付け根を切った。両親が買い物に出かけている間を見計らって工具箱からカッターナイフを取り出し、パジャマの下を脱いで布団の上に胡坐をかき、カッターナイフを立てて足の付け根にザクっと刺したあと、足と腹との境界に沿って両手で押し込みながらギギギと引いた。足の付け根にしたのは手首だと傷口を押さえれば簡単に血が止まってしまうと思ったからで、パジャマの下だけ脱いでパンツを脱がなかったのは下半身丸出しで見つかるのが嫌だったからだ。赤黒い血がブシャーと飛び散るのを期待していたが、切った直後にビュッと少し飛んだだけで、あとはじわじわと流れ出るだけだった。こんなものかと拍子抜けしてそのまま布団に横になる。散歩に行く以外は毎日寝て過ごしていたから午前中であってもすぐに寝ることができる。薬の影響で一日中眠いのだ。

お袋の俺を呼ぶ声で目が覚めた。その声が叫び声に近く騒々しいなと思い上半身を起こすと、下半身と敷布団が血で真っ赤に染まっていて、そういえばさっき足の付け根をカッターナイフで切ったのだったと思い出す。「あんた、もう大丈夫じゃなかったの!」と叫ぶお袋に言葉を返そうと口を開いたが、大丈夫の意味を測りかねて言葉が出てこない。深く考えることが出来ない。考えがまとまらなくて散漫としてしまう。これも薬の影響だ。お袋は一度に幾つもの質問を俺にぶつけてくる。どの問いから答えればいいのか優先順位すらつけられずに呆然としていると救急車のサイレンが聞こえてきた。いつの間にか親父がお袋の横に立っていて、「来たぞ」と俺に向かって言う。来たぞという言葉に、待っていたのだろうという意味が含まれているから違和感を覚えたが「救急車なんか待ってはいない」とは言わない。俺はまた言葉を返すことができず、ただ親父に向かってコクリとうなずいた。そのうちタンカを持った救急隊員が二人、部屋の中に入って来た。てっきり土足で入って来るのかと思っていたけが、二人は真っ白い靴下を履いている。それを見て俺は神棚を見上げる。なぜ神棚を見たのかはよくわからない。

救急隊員は上半身にパジャマを着て下半身はパンツだけ、へそから太ももにかけて血だらけの俺をタンカ乗せると、玄関で靴を履いて外に出た。玄関の外にはストレッチャーが準備されていて、その上に俺を乗せる。そしてストレッチャーを押して後部ドアが開いた救急車に押し込んだ。車内にいた救急隊員がストレッチャーの先を引っ張り頭の上でガチャンガチャンと音がして車内に固定される。実にシステマチックだ。救急隊員は傷口に大きな絆創膏のようなものを貼り付け手指にクリップつける。そして後部ドアを閉めて救急車を走らせた。てっきり両親も救急車に乗り込むものだと思っていたけど、車内には運転手と救急隊員三人しかいない。仰向けで首を動かすと、様々な医療機器を所狭しと並んでいて、両親が乗り込むスペースはないよなと納得する。救急隊員は病院に着くまでの間、俺に話しかけることはなかった。モニタを見ながらバイタルサインを確認し、隊員同士何かを話している。ピコピコと音を出してモニタに表示される数値だけが興味の対象のようだった。あたりまえだ。数値は絶えず変化する。ストレッチャーの上でぼおっとしている俺を見るよりバイタルサインを見ている方が退屈しない。

ほどなくして病院に到着した。後部ドアが開くと救急隊員が外に出て俺を乗せたストレッチャーを引き出す。血を吸ってさらに大きく膨らんだ絆創膏の隙間から大量に流れ出た血がストレッチャーの足を伝ってポタンポタンと地面に落ちる。救急病棟の入り口には沢山の看護師が並んでいて、看護師は救急隊員からストレッチャーを受け取り救急救命室に運んでいく。救命室に向かう途中に親父が俺のもとに駆け寄ってきた。親父の後ろにお袋の姿も見える。二人は車で救急車を追いかけてきたのだろう。救命室のドアはすでに全開で俺を迎え入れる準備ができていた。何人もの人間に囲まれながらストレッチャーに乗せられたまま救命室に入る。親父とお袋も一緒に入ってこようとしたが。看護師に止められた。両親の顔を見るのは最後になるかもしれないと思ったけど、目に焼き付けておこうとは考えなかった。救命室の奥では救命医師がスタンバイしていて、看護師が救命医師の前でストレッチャーの足を踏んでガチャンと固定してから、俺のパジャマを脱がして腕に輸液用の管を差し込む。パンツを脱がし丸裸にする。そして救命医師が止血処置を始めた。俺はその止血処置に痛みを感じたのと、俺を取り囲む救命医師や看護師たちの声がうるさいのと、照明が眩し過ぎたので目を閉じた。

そのとき、全身からどっと冷や汗が流れ出した。両ひざの下が氷水に突っ込んだように冷たくなり、その冷たさが体幹に向けて駆け上ってきて両足の感覚を失った。直ぐに両手の感覚もなくなる。先ほどからチリチリと鳴っていた耳鳴りがビーンと大きな音に代わり聴覚も失う。目を開けると、あんなに眩しかった照明の光が煩わしくない。それどころか視界がどんどん狭まっていく。視野狭窄が進んで何も見えなくなり、ああ、これで終わるのかとか、痛みが伴わない失血死は楽でいいなどと思い始めたときに、ここ数年忘れていた感情が込み上げてきた。恐怖だ。薬によって頭を弄られ、感情に蓋をされていたはずなのに、死が迫ってきたことにより偏桃体が活発に動き始めた。生きていたい死にたくないなどといった対象がある恐怖ではない。ただひたすら怖いのだ。恐怖に支配され獣のような叫び声を上げながら身体をガコンガコンと動かす。手足が動かないから胸を突き出したり引っ込めたり左右に振ったりする。首も動かせるだけ動かす。恐怖から逃げるために感覚の残っている場所をありったけの力を込めて動かした。当然ストレッチャーは大きな音を立てて軋んでいただろうし、救命医師や看護師たちは必死に俺を抑えつけていただろう。しかし、音は聞こえないし救命医師や看護師たちの姿は見えない。俺は暗闇の中で一人恐怖と対峙しながら身体を動かしつづけた。そして、錯乱したまま意識を失った。

目を覚ますとごちゃごちゃした計器に囲まれたベッドの中にいた。どうやら俺は助かったらしい。既に恐怖は感じていなかったが、助かったという安堵感もない。視界に入って来る天井の照明は救命室で見たものよりはずっと穏やかだったが、それでも眩しくて、また目を閉じる。すると近くで誰かが私の名前を呼んだ。

「スワさん、気付かれましたか?」

再び目を開き声がした方へ首を傾ける。ベッドの横に白衣を着た若い女性が立っていた。看護師にしては随分と若い。一見して十代と分かる若さだ。それもそのはずで、胸元の名札を見ると研修生と書かれていた。

「ええ」

手足の感覚が戻っていたのでベッドの端に両手をついて上半身を起こそうとしたが、思うように身体が動かない。

「そのままで寝ていてください。血液の三分の一を失ってショックを起こしたあとなので、うまく身体を動かせないと思います。これからお体を拭くので、そのままじっとしていてくださいね」

そう言って研修看護師は俺の胸元をはだける。救命室で丸裸にされたが、気を失っている間にガウンのようなものを着させられたようだ。研修看護師は湯気の立ち上る金属製のたらいの中に白いタオルを入れてギュッと絞る。そのタオルで俺の身体を拭き始めた。上半身は綺麗だったがへそから下は黒く固まった血がへばりついている。俺は申し訳ない気持ちになりながら顎を引いてその様子を眺めた。血を拭きとってはたらいでゆすいでまた俺の身体をタオルで拭く。そのうち、へその周りが綺麗になりペニスがあらわになった。そこで俺は「あっ」と小さな声を上げた。ペニスの大きさがいつもと違うのだ。陰毛の間から覗く血色の悪いペニスが小指の先ほどしかない。陰毛を中心に寄せると完全に隠れてしまうほど縮んでいる。真冬に暖房のないトイレに入った時に見る萎縮したペニスの大きさの比ではない。この物体はペニスではない。おちんちんだ。セックスのときに相手の女性に申し訳ないと思うほどだった巨大だった俺のペニス、温泉に入ると皆に羨望の眼差しで見られた俺のペニスが、おちんちんになってしまった。俺のペニスはこんなものではない。皆から羨ましがられるほどの巨根の持ち主だったはずだ。その変わり果てたおちんちんを十代の研修看護師に見られている。大量の血液を失ったことで薬の効果が薄まったのだろう。幾つもの感情が沸き上がってきた。おちんちんを十代の研修看護師の女に見られているというご褒美的な嬉しさと、それ以上の恥ずかしさ、虚栄心がわっとこみあげてきた。

「これは……」

「どうかしました?」

おちんちんの周りを拭いていた研修看護師が手を止め俺の目をじっと見つめる。俺は研修看護師をしっかりと見据えて叫んだ。

「これは、本当の俺じゃない!」

 

――了

2021年1月11日公開

作品集『踊ってばかりの国』第5話 (全10話)

© 2021 諏訪靖彦

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ユーモア リアリズム文学

"初出血性ショック"へのコメント 13

  • 投稿者 | 2021-01-17 23:15

    なぜこんな痛々しい行動を突然取るのか、という質問が不要なくらいに私も分かってしまうんですね……
    希死念慮ってそういうものである日突然湧き上がるもので、理由とかそういう物があって出てくる衝動じゃない、と。
    だから余計に身につまされるのです。

    最後の下ネタがギリギリ生への衝動に繋ぎ止めているのかなと思いました。

  • ゲスト | 2021-01-20 19:43

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  • 投稿者 | 2021-01-21 06:32

    途中、ストレッチャーで暴れ出した時の感じが、私自身が子供の頃に歯医者でそうなったのを思い出させて、ドキドキしました。あとこの話の主人公が、救急隊員が自分に興味ない感じで、機器のバイタルチェックをしている事に対して疑問を思うだろうかと感じました。なんというか、この人だったらなんとなくそういうの知ってそう。仕事でやってるんだよね的な事。

  • 投稿者 | 2021-01-22 22:27

    カッターで刺した時は血が流れる様子を見ているだけだった俺が、止血処置に至ってようやく「痛み」を感じ、そこから恐怖を呼び起こされる様には、たとえ症状は出血性ショックで死に向かっても、それに付随して帯びる恐怖の感情は紛れもない生への衝動ではないか、というようなことを感じます。
    裏返しに、生きることよりも死ぬことの方がよっぽど簡単ではないのか、ということも考えさせられました。
    生と死の対比のようなものがよく出ていると思います。

  • 投稿者 | 2021-01-22 23:12

    冷徹な筆致で壮絶な話を進めに進めて、いよいよのクライマックス、死に瀕したギリギリの状況に持って来てこのオチか、全く男ってのは!
    と思わせられたので、勝負は諏訪さんの勝ちですね。
    怒張する血液を無くして、すっかりチンケになったちんちんに執着する滑稽さこそが、実は生きる力なのかも。考えさせられました。

  • 投稿者 | 2021-01-23 21:53

    おちんちんの進化版がペニスなんだなあと思い、なんだか出世魚みたいだなあと思いました。本当にそんなに巨大だったのかは分かりませんが、再びおちんちんからペニスに戻る日がくることを祈るばかりです。

  • 投稿者 | 2021-01-24 12:45

    うまいなー。感傷を挟まずにあくまで即物的な描写に徹することで、二度目の自殺未遂におそろしいほどの生々しさが生まれている。命の危機ってときにおちんちんのサイズが気になるしょうもなさも妙にリアル。このくだりは以前、諏訪さんが書いた別のエッセイか何かで読んだことがあるので、これは実体験に基づく話か。星五つ!

  • 投稿者 | 2021-01-24 14:41

    病院に担ぎ込まれるまでがリアルで引き込まれました。落ちにはすっ転びましたが、それも含めて世界観だと納得しました。

  • 投稿者 | 2021-01-24 17:59

    実録感ありますねえ、怪我大病は題材として強いので良い感じだと思いました。
    死の恐怖が蘇って暴れるのがとてつもなく怖い感じでしたなあ。

    血をながしすぎておちんちんになって悲しいのが切なくておかしいでございます。

  • 投稿者 | 2021-01-25 00:26

    本当の諏訪さんはデカチンだったと覚えておきます。

  • 編集者 | 2021-01-25 15:21

    実話として読んだ。リアルな搬送の描写に読み込まされた。とにかく諏訪さんの生還を喜びたいと思う。執着できる何かがあるのは良いことだ。ちんちんから生を見出せ、諏訪靖彦(さん)!

  • 投稿者 | 2021-01-25 18:38

    「これは、本当の俺じゃない!」

    その情動になんだろう……言葉はおかしいかもしれませんが、たまらなくスカッとしました。ホアンさんの小説とは相反しちゃう反応になりますが、おちんちんとは裏腹にその瞬間はたまらなく、生にみなぎっています。イイネとリツイートを両方押しちゃうタイプのお話。これを今、お話にしているという背景も含めてで、初めて……ですが。

  • 投稿者 | 2021-01-25 19:26

    終盤まで淡々とした描写が続くのが、ラストでスワ氏が受ける衝撃を強調していますね。
    最後の台詞はにやっと笑ってしまいました。

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