時鏡・連作

岩田レスキオ

小説

88,564文字

時間を越えて光を反射する4次元の鏡。怪現象・逆さ赤富士の正体とは? 鏡の間で少年の見た殺人事件の犯人は? 山本五十六の秘蔵した鏡台に映った幽霊の正体は? ボルヘスが割ってしまった鏡は、その後? そしてバビロンの神殿の地下、鏡が遂に動いた!

 

 

 

第一話 鏡の湖

 

 

その富士は、異常だった。――正真正銘の、『逆さ赤富士』だったのだ。

精進湖の上空に掛かる富士は、いつもの富士だった。――天を支えるが如き蒼く雄大な姿を見せ、僅かな白雲をたなびかせ、青空に総てを睥睨するようにドッシリと構えていた。

だが、湖に映った逆さのそれは、赤黒く、ただれたように輝いていた。――夕日や朝日を照り返す赤富士、などという鮮やかなものではない。赤黒く灼熱した溶岩が、山体のそこかしこからとめどなく噴き出し、流れ広がり裾野の総てを覆い尽していたのだ。

しかし目を上げれば、いつもの、変わらぬ富士だった。微動だにせぬ、蒼い威容を誇る富士だった。

三脚の上のカメラを構えたまま、――武井周吾はシャッターを押せないでいた。――一体自分に、どうしろというのだ。この異様な光景の中で、どう行動したらいいのか判断つかず、彼は長いことただシャッターの上に指を置いたまま、二つの富士を見詰め続けていた。

まるで、一方が凛とし、一方が醜悪な、似ても似つかない双子の兄弟を見ているようだった。

周囲の人々も、声を上げ始めた。観光客、地元の者、武井と同じく富士のスナップを狙う仲間。尋常ならざる出来事に、あちこちで、囁き合い、叫びを上げる、声、々。

懇意にしている、地元観光協会の会長が、彼に近付いてきた。「武井さん、……」さすがに、声が震えている。「何なんですか、……あれは」

武井も会長の方を振り向き、しばらく二人で見詰め合った。
「やはり、アレでしょうか。――アレの、影響でしょうか」会長は続けた。

アレ。――言わんとしている事は、容易に察しがついた。――ほんの一週間前、3月11日、東北地方東岸で、マグニチュード9の未曾有の巨大地震が起こった。この百年間に世界で4、5回しか起こっていないという、最大規模の地震だった。そしてその4日後の15日には、富士山直下でマグニチュード6.4の大きな余震が発生している。――すわ、富士大噴火の予兆かと、日本中が色めき立った。

そんな事のあったほんの3日後である。異常現象が、3度、4度と続いても、何の不思議も無い。

湖の中だけが、真っ赤に染まっている。あるいは湖底から、溶岩が噴き出したのだろうか。そんな事が、あり得るのか?

二人は、深刻な表情のまま、真っ赤に焼けただれた湖の富士をチラチラ盗み見つつ、しばらく立ち話でこの怪異の原因を詮索し合った。

マスコミが取材に向かいつつあると、会長に知らせが入った。彼は協会事務所に引き上げていった。武井は、ほんの数枚、この異常現象の証拠写真を確保し、あとはすぐに荷物をまとめ車に積み込んだ。家族が心配である。すぐ家に戻ることにした。

 

本来の精進湖に映える逆さ富士は、この上もなく美しい。

深い藍色に沈む、早朝の紫富士。鮮やかな茜色に輝く、夕暮れの赤富士。対岸の千年前の溶岩地帯が深い緑に覆われ、人工物が一つも見えないので、素晴らしい写真が撮れるのだ。

この富士に魅せられ、武井は半年程前、家族ともどもこの地に越してきたのだった。彼がブログに掲載している“逆さ富士”のシリーズは、マニアの間ですこぶる好評だった。思わぬ副収入が得られ、既にセミ・プロのカメラマンと言ってもよかった。

その“逆さ富士”が、今は“赤富士”である。ただし、逆さの方だけ。――湖西岸の県道を、湖に映る赤黒い富士を見つつ、武井は車で急いだ。だが、気は急くが、運転は用心して掛からねばならない。二度の大地震で、路肩の幾箇所かが、崩落しているのだ。行きは気にせず来られたが、帰りはその路肩側である。地元有志が応急の黄色いロープを張って、それら崩落現場を示していた。

そうしたロープを張った、湖に突き出したカーブの一つに差し掛かった時だ。男が道路に立ち、こちらに“止まれ”の合図を送ってきた。車を停め、路肩側の窓から首を出すと、男は上っ面だけにこやかな笑顔を造り、近付いてきた。
「この辺りにお住まいの方ですか?」訊いてきた。遅ればせながら県の土木の職員が、現場の様子を確認にでも来たのだろうか。

が、男の目付きが、どこか一般公務員のおっとりしたそれとは違う、思い詰めたような、何かを探り出して止まぬような、鋭いものであることに、武井は気付いた。男がその着古した背広姿の周囲に漂わす雰囲気が、“何者だろう”という疑念を武井に抱かさずにおかなかった。
「その、湖に崩落した角に、カーブミラーは在りませんでしたか?」男はさらに訊いてきた。――「さあ」武井は首を傾げ、ようやく答えた。「私はつい半年程前、ここに引っ越してきた者ですんで、――あまりはっきりとは、憶えていません」――だが、道の形状からして、カーブミラーが無ければ困る場所だった。そういえばいつもミラーを確認しながら行き来していたような、そんな気がしてきた。朝方もここを通る時は、注意していたと思うが。
「もう一つ、お尋ねしたい」男は続けた。うららかな春の湖岸と赤黒い湖面を背景にしながら、南北に伸びる道の彼方を確認しつつ、男は言った。「この道沿いで、“幽霊・カーブミラー”の噂を、聞いたことはありませんかね?」
「幽霊・カーブミラー?」余りに突飛な事を突然訊かれ、武井はオウム返した。「何ですか、それは」
「私も、噂にだけ、聞いたのですが、……」男は説明した。「そのミラーに対向車が映って注意深くカーブを曲がると、そこには車はいない。反対に、何も映ってないので安心していると、突然対向車が現われる。――そんなカーブミラーが、この道のどこかに在るというのです」

武井は男の話に少し呆れたが、冷静に応対した。「この道は何度も走っていますが、そんな経験をしたことはありませんね」
「そのミラーの不思議なところは、そればかりじゃありません」男は、一方的に続けた。「真夜中、車を走らせていると、そのミラーだけ真昼のように明るく輝いていたというのです。満月が出たのかと思った、あるいは対向車のライトが強烈過ぎた、との報告も聞いた。さらにこれも反対に、真昼なのに、ミラーの中だけ夜のような暗闇だったという話もある。――ですが、御存知ないのなら、仕方ありませんね。――この道沿いに全てのカーブミラーを調べてみたのですが、全て極ありふれたカーブミラーでした。ですから、あるいは崩落した場所に立っていたミラーのどれかが、噂の元だったんじゃないかと推理した次第です。――どうも、御協力ありがとうございました」――男の最後のせりふは、どこか言い慣れているふしがあった。人に何かを問い質す事を、なりわいとしている人物なのだろうか。

――家に着いたが、妻と娘は外出していて、家は無人だった。テレビをつけると、既に精進湖の異変のニュースが、全国放送でも流れ始めていた。

 

武井の元に、地元のマスコミから連絡が入った。富士の写真を資料として使いたいので、提供していただきたいという。調査に入った火山学者や地震学者達も、それらを参考にしたいと申し出ているとのことだった。

承諾した。コンテンツをまとめ、依頼主に送った。少し休んでから、さっき来た道を引き返した。途中あの妙な男を見掛けたカーブで目を凝らしたが、男は既にいなかった。

湖の北岸、旅館や土産物屋の集まる辺りには、既に調査団やマスコミらしき一行が到着し、諸々の作業を始めていた。観光協会の事務所を訪ねると、山間のまだ薄ら寒い気候の中、見知らぬ男達が火で手を炙っていた。

その中の何人かを、武井は紹介された。火山学者の香月教授と名乗った、白髪の見事な老人が、武井に写真の礼を述べた。

香月は、これまでの調査で分かった事について、かいつまんで説明してくれた。ダイバーが水中に潜ったが、湖底には何の異常も見付からなかった。また水質が調べられたが、火山活動の兆候を含め、これまた変わったところは無かったという。湖中のワカサギやブラックバスも、健在だったそうだ。――ただ異様な光景のみが、湖面に映り続けている。これではお手上げだと、香月教授は肩をすくめた。

その時湖の方から、大きな喚声が上がった。何事かと、武井や香月始め、皆が湖へ向かって走った。――そして、見た。溶岩の無音で噴き出し流れるさまは相変わらずだが、その上に(というか、その下に)一面の星空が広がっていたのだ。おまけに、三日月まで出ていた。まだ、昼間だというのに!

テレビ局何社ものクルーが香月を見付け出し、取り囲んだ。質問攻めにした。香月は、表面紳士である事を維持していたが、内側はパニックに陥っていたようだった。その受け答えが、彼の動揺の様を証明していた。「こんなことは、火山学では説明がつかない」「既に私の専門領域を越えた出来事だ」「いや、多分、……科学の領域をも超えている。――あとは、占い師にでも予言者にでも訊いてくれ。最早我々の、出番じゃあない」

武井は湖に近付き、湖面を見下ろした。いつもの、変わらぬみなもである。だが、さらに覗き込むと、自分の顔が映っていなかった。周囲を見廻すと、自分ばかりか、舟の影も、桟橋の手摺も、何も映っていない。――二度の地震やこの異変で、やはり湖の水が濁っているのではなかろうか。水質に変化はないというのだが。

いよいよ心配になり、妻に電話を入れた。妻は、出ない。数回繰り返した。やはり、出ない。しかし、コールはしているようだ。携帯を手許から離しているのか。何があったのだ。娘は、一緒なのか。

香月らに暇乞いし、自宅に戻った。やはり妻達は帰っていない。相変わらず、電話にも出ない。

とうとう夜になった。玄関のチャイムが鳴った。何者か?――不吉な予感を抱きつつ、ドアを開けた。そこには、昼間のあのカーブミラーの男が立っていた。真夜中の真っ暗闇の中で、相変わらずそこだけ赤く照り返す溶岩流の幾筋もの川を背景として。

男はびっくりしたような顔をした。「あなたが、――あの“逆さ富士”で有名な写真家の、武井周吾さんだったのですか」男は、昼間道端で出会った相手ではなく、写真家の武井周吾を訪ねて来たらしかった。

回りくどいお世辞を並べるのが嫌いなタチらしく、男は単刀直入に用件を切り出した。自分を火山学者の香月教授に紹介して欲しいと言う。自分は十年以上も前から、ある謎を追っている。その謎に関わる話と、香月教授の知識を重ねれば、あるいは今目の前で起きている怪奇現象の謎が解けるかもしれない、と言ってきた。――さらに、自分の正体について、訊かれるまま素直に明かした。それによると、元神奈川県警の刑事であり、その当時扱ったある不思議な事件の謎を追う内、警察を辞める羽目にまでなったという。――その肝心の謎について問うと、大分ややこしい話なので香月教授に直接話すとはぐらかされた。あなたもその時、立ち会えばいいと、逆に提案された。――妻と娘の事で頭が一杯だったので、男とは簡単な口約束をして追い返してしまった。

深夜になったが、やはり妻との連絡は取れない。心当たりの所には、全て連絡を入れ、調べ尽くした。――とうとう武井は、警察に捜索を依頼した。――じっとしていられず戸外に出た彼は、深夜の湖が今度は真昼のように輝き、青空を映しているのを見た。

 

翌朝、早々にあの男が訪ねて来た。妻達の安否連絡は、まだ入らない。――自宅に籠もっていても気鬱になるばかりなので、男を伴い、武井はまたあの県道をひた走った。

湖岸は、昨日の数倍の人々の群れで、立て込んでいた。

数倍に増強された各研究機関各大学の合同調査団。テレビ、新聞、雑誌、ネット関連のマスコミ各社。警察、消防、防災、環境等の関連行政機関。観光客というか野次馬も、昨日の数十倍に膨れ上がっていたが、彼等は湖岸遥か後方に張られたロープの外に押しやられ、大騒ぎしつつ事の成り行きを遠巻きに見守っていた。

観光協会の面々が、心配そうに様子を伺いながらも、一辺に増えた来客の接待に忙殺されていた。この異変で、一時的には客足が激増するかもしれない。だがその後、果たしてこの土地で商売を続けていけるのだろうか。彼等の不安は、手に取るように分かった。

知り合いの舟宿の親父が話し掛けてきた。「武井さん。奥さん達が戻っておられんそうですな」既に町の者等にも伝わり、彼等も心掛けてくれているという。「だが、いかんせんこういう事態の最中じゃ、何かに巻き込まれてなけりゃ、いいんじゃが」それを、武井も一番心配していた。“何かに、巻き込まれたんじゃ。”湖での、水難事故か、周囲を取り巻く山中での、遭難か。この異変と関連する、何かに。

だからなおさら、家に籠もっているよりここに居た方が、いち早く情報がもたらされると、判断した。目的は違うが、大規模な調査隊が、そこら中を調査しまくっているのだ。

――新手の調査隊に爪弾きにされる形で、香月が一人ポツンと観光協会の予備室でテレビを見ていた。占い師が云々という発言が、祟ったのかもしれない。現に彼がボーッと見詰めているテレビの中では、人気者の占い師のばあさんが、富士がまもなく大噴火を起こすとか、東海と関東が火山灰で埋もれるとか、いかにもな事を予言しまくっていた。

武井は男を、香月に紹介した。香月は生返事を返しただけで、まるで上の空だった。――だが、男が満を持していたように放ったある言葉により、香月の目に突如光が戻り、そしてあまりの恐ろしさに心が押し潰されたように、口を大きく“へ”の字に曲げた。――男は、こう言ったのだ。「これって、――貞観時代の噴火の光景じゃ、ありませんか?」

 

香月教授は、男と、窓の外の湖の景色とを、交互に何度も見較べた。そして、言った。「――典型的な、山麓噴火だ。その溶岩が、湖まで流れ込んでいる。――そのくせ富士山頂は、溶岩を被っていない。山頂には、残雪すらうっすら残っている。――確かに、もし千年余り前の貞観の大噴火を、この場所から見る事が出来たとしたら、精進湖、――“せの海”が溶岩で埋め立てられ、出来たばかりの精進湖に映る光景は、――まさに“コレ”だっただろう、……」

教授の急変の理由が、武井には分からなかった。その後武井も、そして香月教授も、しばらく言葉を失っていた。何分間か、同じ姿勢のまま、彼等の時は止まった。――教授も武井も、男の言葉を渇望し、ただジッと男の顔を見詰め、その口が再度動くのを待っていた。
「やはり、そうでしたか」男はようやく口を開いた。「火山学の権威のお墨付きを頂ければ、この光景が貞観時代のそれと断定して、まず間違いありますまい」
「だが、どうして、……」香月教授は、それだけ聞き返すのがやっとだった。

いつの間にか観光協会長が、心労にこれ以上は耐えられないと訴えるような青白い顔をして、茶菓子と湯呑みを盆に載せ彼等のそばまでやって来ていた。茶菓子と茶を、三人に供した。そして、この世ならざるものを見るような怯えた顔付きで、男の話し出す様を見、そのまま一緒に座って話を聞き出した。
「私がこの地を訪れたのは、大地震の起こる少し前、ある奇妙な噂を耳にしたからでした。――もう武井さんにはお話ししてありますが、“幽霊・カーブミラー”と人々が呼ぶ噂話がそれです」男は、茶の緑の湯面から視線を窓の外の湖面へと移し、そしてまた室内の面々の顔に戻した。「そのカーブミラーは、映るべきものが映らず、映らざるべきものが映る、というのです。――対向車が映る時、それは居らず、映らない時、突然対向車が現われる。そのため、何人も事故に遭いかかった人がおり、噂が広まったという訳です。――また、ある人達が言うには、それは昼には夜を映し、夜には昼を映した。――そう。丁度今目の前に広がる、精進湖と同じように」

青い顔をして押し黙っていた協会長が、勇気を奮い起こすようにようやく口を開いた。「その噂、私も小耳に挟んだ事があります。――もしそんなカーブミラーが実在したら、本当に“幽霊の”鏡ですな。――で、見付かったんですか?」
「いいえ、見付かりませんでした。集めた情報から、くだんのミラーが湖西岸の県道沿いのどこかにある事までは、分かったのですが。全て調べましたが、皆ありきたりのカーブミラーでした。――ですが、……」
「ですが?」と問い返す、香月と協会長。武井は、既にその続きを知らされていた。
「11日の本震と、15日の富士直下の余震で、県道の路肩の幾箇所かで崩落が起こっているのです。――そうですよね? 観光協会長さん」

不意に切り返され、会長は少しあわてたようだ。だが落ち着いて肯定した。「ええ。若い者が何人か出て、崩落現場に危険を知らせるロープを張って廻りました」
「その現場の中に、カーブミラーのあった箇所はありませんか? 土塊ごと、ミラーが湖に転がり落ちてしまった箇所は?」
「さあ。どうでしょうか。――まもなく県の土木事務所が、作業に入るそうです。そうなればはっきりすると思いますが」
「その、湖に落ちた幽霊ミラーと、貞観の大噴火と、どういう繋がりがあるというんだ!」痺れを切らした香月が、声のトーンを上げた。
「その前に香月先生に、逆に確認しておきたい」男は、あくまで冷静だった。「千年前“せの海”を埋め立て青木ヶ原を造った大噴火の模様と、それに続き日本列島を襲った大災害の数々とについて」
「青木ヶ原? 精進湖が出来た時の大噴火ですね。私も是非、お聞きしたい」協会長も膝を乗り出した。

思いがけず、逆に切り返されるように人々に求められ、香月は間を外すため、茶を喉に流し込み一息ついた。そして目を閉じ、思い出しつつ語り始めた。
「将棋崩しの要領なのだ、要は。

もたれ合っていたものが、一つが外れれば、次々崩れていく、……」
「将棋崩し?」と、皆。
「ウム。将棋崩しだ。そういうゲームは、知っているだろう?――平安時代の始め頃、貞観の時代、たった二十数年間で、三陸沖大地震、南海大地震、関東大地震、富士山噴火、阿蘇山噴火、そのほか富山・新潟、兵庫・大阪、島根、京都でそれぞれ大地震、鶴見岳、鳥海山、開聞岳がそれぞれ大噴火した。これらの事が、たった二十数年間に、集中して起こったのだ」
「本当ですか?――そんな短期間に、何故?」
「だから、将棋崩しなのだ。――余りに巨大な大地の動きは、千年かけてエネルギーを溜め込みバランスを取り合っていたパーツの、その一つの力をほとんど解消してしまう。つっかえ棒のひとつが外れれば、残りのつっかえ棒がどうなるか、分かるだろう?――千年少し前は、富士の噴火から始まった。次いで阿蘇、三陸沖、関東、南海の順番だった。――今回は、三陸沖から始まった、……」
「千年前は、富士が始まりだったんですか」
「正確には、その前年に富山・新潟で大地震が起こっている。富士は、二番目だな。

知っての通り、巨大な活火山富士は、数百年ごとに、山頂や山麓のあちこちで大噴火を起こすが、この時は北方の山麓から大量の溶岩を噴出した。当時この近くには『せの海』と呼ばれた琵琶湖に匹敵する巨大な湖があったのだが、溶岩で大部分が埋まり、今日の『青木ヶ原』となってしまった。また、僅かに埋まり残った部分が、『本栖湖』『西湖』『精進湖』となった。――精進湖の景色を見れば分かるように、南東方には溶岩流の大地が迫り、湖底も溶岩で埋め尽くされて浅い水深となっている。

――以上で、貞観時代の復習は終わりだ」
「では、今回も大災害が、立て続けに起こると?」
「可能性は極めて高いな、予言者風情に言われるまでも無く。――実際、15日の余震の時は、肝を冷やしたよ。――何しろ震源が、富士のマグマ溜まりの直上だったのだ。噴火しなかった方が奇跡と言っていい。

富士に限らず、平成の関東大震災、東海から南海沖の巨大地震、阿蘇、その他の火山噴火、その他、その他、どういう順番で起こるかは神のみぞ知るだが、つっかえ棒は次々連鎖して倒れていくだろう。

だから、原発にしても、本来なら廃炉の時期を待って、ここ2、30年で脱原発していくのが筋だろうが、――その2、30年こそが、一番危ないのだ! ドンピシャリ、新・貞観時代、平成の大災害時代に、重なってしまうのだから」

教授の話を一番暗い顔をして聞いていたのは、観光協会長だった。無理もない。千年振りの大災害が、彼とその仲間の生活基盤を、根こそぎ奪うという話なのだから。――たとえ今の生活をもたらしたものが、千年前の同種の災害の恩恵であったとしても。
「だからと言って、平成の列島大災害の時代を火山学や地震学が予測するからと言って、今目の前で起こっているこの怪異現象は、我々の学問では説明がつかないよ」テレビの実況が流れ続けていた。俯瞰で映された調査隊は、蟻の群があちこち餌探しに奔走している様にそっくりだった。ただし、蟻の群が決して踏み込むことのない、湖の上や水中にまで、この大型の蟻は旺盛に進出していた。「いくら調べ回っても、無駄だろう」香月教授はスクリーンを指差した。「今の科学で説明しようとする限りは、な」
「武井さんの写真も、これで見納めでしょうかね」協会長が武井に、さも同情するように、――というよりは同病相哀れむという仲間意識からか、話し掛けた。
「ええ。新たなモチーフを、探さねばなりません。――大好きだった精進湖の“逆さ富士”が撮れないとあれば」
「それは、ここから出て行くということですか?」協会長の言葉に、瞬間棘のようなものが、敵意が、覗いたように武井は感じた。自分達を見捨てて、お前はさっさと河岸を変える積もりなのか、と。
「さて、私の講釈が終わったところで、あなたの話の続きを聞こうじゃないか」香月が男に、話の先を促した。
「ええ、そうですね」男は、腹を決めたようだ。どこから話したものかと、迷っている風だった。「幽霊・カーブミラーの話を聞いた時、それが私の長年追い求めていた鏡と、まさに同じものではないかと、思った次第です。――湖の異変は、丁度カーブミラーが湖に落ちた直後辺りから始まりました。――実は、私の探している鏡の不思議な性質が、何らかの理由でもし湖に移植されたとするなら、つまり湖自体が幽霊・ミラー化したなら、今回の怪異の説明が、一応はつくのです」
「あなたはまた、とんでもない事を言い出したな。――どういう理屈なんだ。分かるように、話してくれ」と香月。
「ええ、そうしましょう。我々の普段の常識では、到底納得出来ない話ですがね」そうして男は、湖の赤く焼けただれた富士も、天を支えるような蒼く荘厳な富士も、遥かに通り越し遠く虚空を見詰める目付きで、追い求めるものの秘密について語り始めた。
「私は10年程前まで、神奈川県警で刑事をしておりました。その当時扱ったある事件が、全ての事の発端でした。

――男が一人死にました。結局その死は、事件というよりは、単なる事故として処理されたのですが、――その原因に、“幽霊・ミラー”が関わっていたのです。

余りに奇妙な話に、警察は事件を封印し、私も忘れようと努めてきました。――だがどうしても、出来なかった。実は私も、その鏡を事件後、一目だけ見てしまったのです。そしてそれを忘れて残りの人生を送るなど、とても無理でした。――事件後現場から運び出された鏡を、私は刑事の特権を生かして探し続けました。だが未だに、一度見失ったそれに、届いておりません。鏡に取り憑かれた私は、本業が疎かになり、ミスを続け、とうとう退職に追い込まれました。しかし無職となってからも、溜め込んだ蓄えを食い潰し、未だに捜索を続けている次第です。

そんな時でした。“幽霊・カーブミラー”の噂が、耳に飛び込んできたのです。最初は、よく聞く怪談話の一つだろうと、聞き流していました。だが、情報が増えるにつれ、そのミラーの起こしている現象が、私の捜し求めている鏡のものと同種だと、思わざるを得なくなった。それで、……」
「それで、我が町を訪れた、という訳ですな」協会長が、納得したという風に、跡を継いだ。

見ると、会長の周囲に、舟宿の親父や、民宿の女将さんや、土産物屋のおばさんやの顔見知りの人々が、いつの間にか寄ってきて座り、彼等の話を聞いている。一様に疲れ果て、心ここに無しという顔をしている。今の彼等に、男や香月教授の話が、理解出来ているのだろうか。

男の話が途切れたところで、民宿の女将が武井にポツリと言った。「娘さんと奥さん、行方不明だそうですね。――あんなに可愛い子なのに。かわいそうに」まるで悲劇的な結末を知っているかのような口調で、武井に同情してくる。――武井は、カラ元気を出して、「なあに、私よりしっかりした女房が一緒ですから、心配してはいませんよ。どこか近所の街でも、ほっつき歩いているんでしょう」と答えた。だが、それならことわりの連絡が入っている筈だし、妻の携帯にこちらから連絡しても、コールはしているようだが誰も出ない。深刻な事になりつつあると、彼も認めざるを得なかった。
「まだ警察から、連絡は入らないのかね」「これだけの人数で探しているのに……」「娘さん、可愛らしいから、さぞや心配でしょう」口々に言う。娘は、彼等の間でも、人気者だった。

写真を撮る時、しばしば連れ歩いたが、土産物を散々オモチャにし、釣り舟を次々飛び移り、それでも率先して預かってくれた先々で可愛がられた。あまり自由に遊び回り過ぎ、迷子になりかかったことも一、二度あった。あの時の調子で、隠れた死角から、ヒョッコリ出てきてくれたら、どれほど嬉しいことか。しかし、かつて娘が隠れていた所も、隠れそうな所も、全てしらみ潰しに探し終えていた。狭い湖畔の町である。探し尽くすのに、さして時間は掛からなかった。

観光協会の面々は、気落ちした顔を突き合わせ、今後の方針についてどうしたものかと弾まぬ評定を続けている。――若手の老舗旅館二代目が、むしろこれはチャンスだと、場違いな怪気炎を上げた。どうせ元々、大した観光客数はないのだ。だがこれで、観光の目玉が出来た、それも、世界でも稀有な。むしろこれを“売り”とし、起死回生を図るべきだ。――考えてもみろよ。今この土地は、湖に異常な光景が映る以外、何の異常も、その兆候も無いんだ。湖の映像は、映画のスクリーンと同じで、何の実害も与えない。もしこの奇景が解禁されれば、人々は我先にと、この光景に驚き、楽しみ、浸り、味わうために押し寄せる。湖岸から眺め、シャッターを切り、湖上にたくさんのボートを浮かべる。目の前の富士と、舟底に広がる、溶岩にまみれた富士を、見較べる。何しろ、溶岩のただ中に突入しても、身も焼かれず熱くもないのだから、これは楽しい。楽しい、アトラクションだ。無論、日本だけじゃあない。世界中から観光客が、ドッとばかりに押し寄せるぞ。

こんな現実離れした提案が、これまで戸惑い、狼狽し、意気消沈していた素朴な地元の民に、どこか狂気じみた希望の光を灯したのか、――いつも控えめな笑みを絶やさなかった民宿の女将の笑いが、タガが外れたように何本も前歯を見せ、釣り談義以外に興味を示さなかった舟宿の親父の顔に、欲惚けの艶のくま取りが浮かび出たように見えた。
「しかし、――そのために絶対必要なのが、『安全宣言』だ」若手二代目が、結論を下すように最後に言った。
「安全宣言」「安全宣言」協会の古老達はブツブツ口の中で繰り返し、そして求めるように香月教授を仰ぎ見た。

だが、求められているとすぐに了解した香月だったが、ここはあわてて首を横に振った。「待ってくれ。――皆さんの気持ちは分かる」武井と、そして男を、助けを求めるように、次々と振り向き、見た。「しかし既に何度も言っているように、この現象は私の手に余る。今はとにかく、調査隊の調査結果が出るのを待とうじゃないか。――そして、彼の話の続きがある。今は、私の安全宣言なんぞより、彼の話の方が遥かに参考になるかも知らんぞ」

観光協会の面々は、今度は男を、すがるような目で見上げた。

その部屋の人々の視線が自分に集まるのを意識しつつ、男はポケットからポータブル・ディスプレーを取り出した。

 

「これを見ていただきたい」男はディスプレーを、教授と武井に指し示した。協会長等数人も、立ち上がり、それを覗き込んだ。
「湖に映っている景色の動画です。今からこれを、早送りします」――溶岩が、上から下に流れていた。つまり、湖岸から、富士山麓に向かって。
「何だ、これは。逆回ししているのか?」香月が半分怒りつつ、大きな声を上げた。
「逆回しではありません。順方向の、早回しです。――そうです。我々はどうしても、溶岩は高い所から低い所へ、平地を進み、湖に流れ込んでいるものと、先入観で思い込んでしまう。岩石のかさぶたの間で、灼熱した溶岩が瞬くようにチラツくので、そういう錯覚を持つのです。――ところが現実は、ご覧の通りです。疑われるのなら、――香月先生、――御自分の目で、今目の前にある現実を、ジッと目を凝らして見詰め続けてみて下さい」

香月は窓を振り返り、数分に渡り、そのまま動かなかった。――そして、こちらに向き直った。「君の言う通りだ。――溶岩は、下から上へ流れている」溶岩流を見慣れた香月は、男の話を認めざるを得なかった。

観光協会の狂気が、自分達にまで感染しつつあると、武井は思った。協会員の狂気は、ますます凄みを増すようで、混乱と、絶望と、希望とが、同時進行で加速しつつあった。――「つまり、湖面の光景は、時間が逆行しているのです。――これが、この鏡の見せる特性なのです。決して、溶岩が重力に逆らっている訳ではありません」男の言葉は容赦なく、その場にいた者等の精神の崩壊に拍車をかけた。
「ますます、……訳が分からん」香月教授が、天井を仰いだ。武井は、妻や娘がこの狂気の中に呑み込まれていったのではないかと、ふと疑念を抱いた。
「まあ冷静に、お聞きください」男だけが、確かに冷静さを保っていた。「この点が、この鏡の肝心な部分なのです。なあに、分かってしまえば、いたってシンプルな話です」

民宿の女将の前歯や舟宿の親父のくま取りがそのままで、男の覚めた表情をジッと見詰めた。男は言った。「空間中に、一枚の鏡を想像してみて下さい。――光が当たると、同じ入射角と反射角で、光を跳ね返しますよね」男の説明は、どこか手馴れていた。今までにも何度も、この同じ説明をしてきたのかもしれない。「ここでもう一本、時間軸という次元を加えて、考えてみて下さい。そして、その時間軸に沿っても、同じ入射角と反射角で、光を反射する鏡があると、想像してみて下さい。――以上が、“問題の鏡”の、仕組みの総てです」

男は説明を終えた。余りに簡単に終わってしまったので、受け取る側は、まだ続きがあるものと思い、呆気に取られつつ、そのままジッと待ち続けていた。

いつまでも皆が黙っているので、男は仕方なく、おまけの説明を一つ付け加えた。「お分かりですか? ようく考えてみて下さい。――我々がその鏡を覗いた時には、順行する時間の我々が見た鏡像は、時間が逆行して見えるのです。同様に、向こうから見た我々も、逆回しに動いているように見えているでしょう。――つまり、違う時間を、昼と夜を、三日月と満月を、同時に、かつ逆向きの流れで映す鏡です」

ようやく意識のまとまった香月が、手探りで男に反撃を開始した。
「百歩譲って、―― ――いいか、百歩譲ってだぞ、君の言う通りの鏡があったとしよう。――で、それに何で、逆行する貞観時代の溶岩流が映るのだ? 何故、時間軸上の、他の時代の他の光景ではいかんのだ?」

男はにこやかに笑った。初めて見せる、心からの笑顔だった。多分、この話が、ここまで信じてもらえた事は、かつてなかったのだろうと、武井は推測した。
「百歩譲っていただいて、大変有り難い。――何しろ、鏡の本質的な仕組みは勿論、くだんのカーブミラーが本当にその鏡だったのか、どういう理屈で水中に落ちたミラーの性質が湖にまで感染し広まったのか、その辺の事は全く不明なのですから。

ですが、先程の質問になら、答える事は可能です。――通常の鏡は、入射角と反射角の及ぶ範囲の光を、反射しますよね。“この鏡”は、時間軸上のその範囲を、この鏡が出来た時から、壊れる時まで、としているのです。その中間点を中心軸として、その前後で対称を成すように、時間軸上の光を反射するのです。――ただし、そこに一つ、この鏡のとんでもない特質がある。つまり、“出来た時”とか“壊れる時”とかいうのは、別に運命によって唯一つに定まっている訳ではない、ということです。――何かの事件で、因果律が変更されてしまった場合、これらも変更される。それも、“過去の”出来た時にまで遡って、“時間線”が付け換わってしまうのです」

男の話を一番早く理解したのは、やはり香月教授だったのだろう。だから一層、教授の混乱振りは悲惨だった。「つまり君は、ミラーが地震で湖に落ちるという事故により、因果律が変わり、湖のミラー化が貞観時代にまで遡って実現された、とそう言いたいのかね」
「おっしゃる通り! さすが香月先生、呑み込みが早い!」男は拍手を教授に送った。お追従でも馬鹿にしてでもなく、心底からの拍手のようだった。「貞観の大噴火により、裾野に大きく広がった溶岩で“せの海”が湖底まで埋め尽くされ、僅かの窪地として残った『西湖』と『精進湖』が、まさにその時誕生した。ですからその時まで遡って、ミラー化は起こったのです。湖の誕生した時が、鏡の出来た時として、新たに歴史が書き換わり、付け換えられた。多分タイムマシンでこの千年を遡れば、どの時代でもミラー化は起こっている筈です。ただし、因果律の変更は鏡にのみ起こるようで、そのため我々の記憶との間に齟齬が生じるのでしょう」

一方観光協会の人々は、上っ面だけしか理解出来なかった。「過去を映す鏡。時間の逆行する湖。――素晴らしい!」若手二代目が、雄叫びを上げた。訳が分からないまま、他のメンバーも追随した。「世界七不思議どころか、世界最強の不思議スポットだ。――それに、今の話では、単にカーブミラーが湖に落ちて湖がミラー化しただけで、別に“危険”な要素は何も無いわけでしょう?――鏡の像が人を殺すなんて、オカルトやホラーじゃあるまいし、聞いたこともない」
「私が思うに、」と、ここで協会長が、久方振りに若手から主導権を奪い返した。「学者先生による『安全宣言』が無理ならば、代わりにこの土地と湖に愛着を持つ有名人の、言わば“熱愛宣言”を出してもらったらどうだろう。――いかがでしょうか、武井先生」突然改まった口調で、協会長が武井に話を振ってきた。「先生も今回の事で、精進湖専属の写真家として、その名が大いに世に広まったことですし、……」

自分の事か? と武井はドキリとした。有名人とは、自分の事なのか? “熱愛宣言”とやらをして欲しいと、自分に頼んでいるのか?
「いいですねえ、“熱愛宣言”、……」「アイ・ラブ・“精進湖”、……」協会の幹部達は乗り気で、会長の提案が人々の口を往来するたび増幅されていく。そして武井に視線を集中させ、救世主を恋い慕うまなざしでネチッこく見詰めてくる。

浮き腰になりつつ、武井は弁解した。「皆さんの提案は嬉しいのですが、……。先程協会長さんにもお話ししたのですが、湖がこうなってしまった以上、写真のモチーフを変えねばなりません。今までのような収入は期待できませんから」
「いいじゃないですか、今の湖の奇景をそのまま撮れば」と、若手二代目。「いやむしろ、ありきたりの“逆さ富士”なんかより、遥かにインパクトがある。――世界の写真賞総舐め、なんて事になりませんか」
「それに、娘が来年は小学生です。そろそろ教育のことも考えてやらないと、……」
「小学校なら、ニュー・タウンにあるじゃろ」湖南岸の樹海の中に、住民がまとまって暮らしている新村落がある。景観と防災のため、新たに開発されたニュー・タウンだった。「新しい学校で、建物も設備も立派じゃよ」土産物屋のおばさんが、新居の生活を褒めちぎった。
「それに、……」それに、大災害がこの地に迫っているというなら、家族を連れてすぐにでも避難しなければならない。幸い、半年前から暮らしている家は、年老いた資産家の利用しなくなった古い別荘を賃借りしているものだ。引き払うのは容易である。――だが、そんな考えが喉元まで出掛かりながら、口に出して言う訳にはいかなかった。――生活基盤をこの地に置き、ギリギリまで避難することの出来ない彼等に、この半年間世話になってきた彼等に、そんな後ろ足で砂を掛けるようなマネが出来ようか。

結局自分は、この土地の人間ではない、富士に魅せられただけの、ただの余所者だ。――彼等と運命共同体となることは出来ないし、いざとなれば彼等を置いて真っ先に逃げ出す、あるいはいの一番に追い出される、こととなる。

――この時、狂気の感染しつつあった武井に、思わぬ発想が生まれた。――まさか、この連中、俺を足止めするために、妻と娘を人質に取っているんじゃあるまいな。――軟禁している、とまでは言わないが、両者の間で連絡が取れないよう、巧妙に遮断しているのでは?

一度そう思い出すと、――疑念と妄想は、たちどころに膨らんでいった。――住民らの愛想のいい武井一家に寄せる好意は、土地の人間だけが知る秘密を隠蔽するための、上っ面の仮面に過ぎない。土産物屋のおばさんの人なつっこさも、民宿の女将の控えめな笑みも、舟宿の親父の朴訥とした受け答えも、皆そうした余所者に対する演技で、本当の彼等はそんな仮面を脱ぎ去った素顔で仲間同士寄り添いずっと暮らしてきた。――彼等のニュー・タウンでも宿屋の奥の間でも、そうした地元民のプライベートな領域に妻や娘を隠されたら、もう潜り込むすべがなく、接触の取りようもない。――もしかすると、さっき話の出たニュー・タウンの小学校辺りに、二人は押し込められているんじゃあないのか?

手の中のディスプレーを住民に向けて掲げる男の姿が、目に入った。ディスプレーの中の逆流を、住民らにも見せ、画像の解説をしている。――この男も、怪しい。――この男が現れたのは、異変が起こってからだ。――怪異現象の理屈も、刑事だったという身の上話も、全て作り話で、本当は住民らに雇われてひと芝居打っている、売れない役者か何かじゃないのか。――あるいは、この男こそが首謀者で、住民らを巻き込み、自分を何かの策略に落とし入れようとしている張本人なんじゃないのか。

疑い出すと切りがなかった。尻の下がモゾモゾし、この場に居たたまれなく席を立ちたいが、いくら心が“危機”を叫ぼうと、肝心の全身の筋肉が弛緩して、スチール椅子にへばり付いたまま引き剥がせなかった。
「そうじゃ。それがいい。――武井さんに、家族ともども湖畔に留まっていると、マスコミを通じてピーアールして貰えばいい」と、舟宿の親父、いかにも自分の考えに満悦したように言う。「そうですね。湖も富士も、美しく安全だからずっと住み続けると、武井さん御一家に知らせて頂ければ、……」と、今度は民宿の女将が、愛想よく武井に微笑みかける。――武井を抜きにして、話が勝手に進められていく。武井の今後の予定が、どんどん決められていく。

 

その時、武井の携帯が震え、彼の拘束を強引に解いた。――娘の幼い声が、受話器の向こうから聞こえた。

全身が、温かくなった、温水が体中を循環したように。――「ママ、目が覚めたよ。電話に出るよ」と、何度も繰り返している。

妻に代わった。――良かった。二人とも、無事だった。

今、隣町の病院なの。事故に巻き込まれて、気を失っていたけれど、二人とも体はなんともないから、安心して。連絡が遅れて、御免なさい。――いつもの、落ち着いた声で話している。

妻によると、事故が起きた時、二人は湖上で舟遊びをしていたらしい。突然の異変で、多くのボートやカヌーがパニックに陥り、あちこちで衝突事故や転覆事故が起きた。二人もそれに、巻き込まれたという。負傷者の数が多過ぎたので、近隣の病院にまで搬送されたとのことだ。

突如湖が赤黒く染まり、人々は岸を求めて一斉に漕ぎ出した。――だがそこで、妻も、娘も、他の舟上の者達も、見た。――湖の岸近く、湖岸に沿った水面に、多くの人々の影が、群れ、のたうち、湖上の舟に向かって助けを求めるように手を振っているのを。その背後に、炎を上げて燃える藁葺きの民家が、多数あった。――なのに、岸の上は、それまでのうららかな春の景色のままで、うごめく人々も燃える家屋も、もちろん何も無かった。

幽霊のように湖面からこちらに手を振ってくる者達の影に、湖岸に近付きつつあったボートやカヌーは怯え、今度は岸から離れるべく逆走を開始した。たちまち、岸を目指す舟と、逆走する舟が、入り乱れ、湖上は相次ぐ衝突事故の大混乱に陥った。多くの舟が転覆し、人々は湖に投げ出された。

――きっと、助けを求めて手を振る人々からも、多くの舟の影が見えていた筈だ、と武井は考えた。奇妙なことに、舟はいないのに、舟の影だけは無数に湖上に映っていた。妙だと思いつつも、藁にもすがる思いの彼等に、そんなことを詮索しているゆとりは無かった。湖面の舟の影と、それに乗る水の中の人々に向かって、必死に救いを求め手を振った。――今風に言えば、火砕流か、火山弾か。それらに打ちのめされ、彼等の集落は、劫火に包まれ燃え上がっていた。必死に湖岸まで、転げるように逃げ出してきた。富士の裾野は溶岩に覆われ、――しかし、湖の中は、――まるで桃源郷のような、美しい富士と、楽しげに遊ぶ多くの人々が、映っていた。彼等は桃源郷の住人に、助けてくれと手を振り訴えたのだ。自分達も、そっちの世界に迎えてくれ、と。

熱さに耐えかね湖に飛び込む者も、多数いたことだろう。だが、その水は既に、煮えたぎる湯となっていた。湖中の魚が煮上がって浮き上がり、彼等の皮膚もまた赤く腫れ上がった。――殆どの者に、逃げ場は無かった。

 

「ム。――待ってくれ!」香月教授が、突然素っ頓狂な声を上げた。地元住民に無駄な説明を繰り返していた男に向かい、鋭い視線を投げ付けた。「貞観時代が、精進湖の誕生した時だとするなら、その寿命の終わる時とは、いつなんだ?」

男も、香月と目を合わせた。しばらく、香月の質問の意味を、考えていたようだ。そして、何事かを確認し合うように、いつまでも二人で見詰め合っていた。
「あんたの言った法則に従うなら、――湖の寿命の両端が、互いに映し合っている筈だ」香月が、ようやく付け加えた。「ならば、湖の寿命の終わる時には、――一体どうやって終わるのだ?」

男もようやく、金縛りが解けて、香月に答えた。「鏡の寿命の終わる時とは、当然ながら、鏡としての用をなさなくなった時です」

まだ妻につながっている携帯を耳に当てたまま、武井も二人の話を聞いていた。そして二人がまた黙り込んでしまった時、その会話の意味をようやく理解した。「湖が、鏡の用をなさなくなるとは、……つまり、……」

次の瞬間、湖の中の赤黒い富士は消え、“逆さ富士”は、いつもの美しい蒼い富士に戻っていた。

 

 

 

第二話 鏡の間

 

 

私の生まれた旧家には、『鏡の間』と呼ばれる、いつも黄昏時のように薄暗い部屋があった。古い家具などが詰め込まれる、倉庫として使われていたが、その南面の壁に、場違いに真新しい、その部屋の主が陣取っていた。

“姿見”と呼ぶに相応しい、2mを越す堂々とした楕円の鏡で、周囲はロココか唐草模様のような下品といってもいい金色に縁取られている。――そして何故か、この部屋の古びた家具の中で一番の古参の筈だが、まるで新品同然に、その鏡面は静かな深山の湖水のようにくもり一つなく、周りの金ピカも造り立てのように輝き、暗い翳りの一つもなかった。(もちろん誰も、手入れはおろか、触れることすらしていない)

だが、その鏡が異様な魔鏡と呼ばれていた理由は、そんな外見に由来するものではなかった。

試しに、その鏡の前に進み出てみるといい。――鏡は、その薄暗い部屋と押し込められた古びた家具どもを、徐々に映し出す。――だが、その正面に立った時、そこにあなたの姿は無い。部屋は映っているのに、あなたの姿だけ、無い。まるで幽霊か、透明人間にでもなったような気持ちにさせられる。思わず、自分の体が本当にあるかどうか、我が身を見下ろし、確かめてしまう。これでは、忌み嫌われて当然だ。

しかも、その幽霊が、時たま本当に現れるという噂まであった。部屋には存在しない、人影が、人物が、その鏡の中の世界には、ごく稀に見掛けられるという。そして、その幽霊達は、こっちを見返してくるそうだ。しばし、見詰め合うこととなる。あわてて腰を抜かし、その部屋から退散することになるが、この世のものならぬ彼等は、悠然と構え、こっちを見下ろし、見送るという。

だから、たまにこの部屋に仕方ない用事で入る者があっても、鏡の方を見ようとはしない、自分の姿を探そうとはしない、用事を済ませてさっさと引き上げる。この不気味な“鏡の間”には常時鍵が掛けられ、事情を知らぬ闖入者が肝を潰さぬよう、周到に管理されていた。

 

ところがその鍵が、掛け忘れられていたことがある。確か私が五歳になるかならぬかの頃のことだった。

幽霊が出るから怖いよーっと、冗談半分脅されていた部屋に、私はおっかなびっくり、かつすこぶる好奇心を沸き立たせ、潜入してみた。当時まだ、幽霊と妖精の区別も定かでなかったし、鏡に自分が映らないということにもあまり恐怖を感じなかったようだ。(むしろ映ったら、かえって不気味で怖がったかもしれない。鏡に不慣れな頃、赤ん坊は泣き出し、イルカはパニックに陥るという)

子供にとっては背の高い、つくも神の憑いたような古びた物々は、私を興奮させた。ずっと薄暗い夕暮れのままのような部屋の空間も、私をうら寂しい罪悪感へと落とし込んだ。午後の、本来ならお昼寝をしている筈の時間、私は一人で何時間もこの部屋で遊び続けていた。――むしろ大鏡は、怖くなかった。普段接している日用品と同様、真新しくて安っぽい印象だったし、動きの無い室内の風景しか映していない。むしろ、動き回る自分の姿を映していたら、そっちの方が薄気味悪くて早々にその部屋を退散していたことだろう。

――埃の立つ敷物の上で転げ回り、そのくたびれた毛並みが屈みゆっくりと戻る様を、飽かず眺めていた時のことだ。――不意に鏡の中の部屋のドアが開き、男が入って来た。私は素早く振り向いたが、現実のドアは閉まったままで、誰の入って来る気配もなかった。

鏡の中の男は、両腕で何物か大事そうに抱えていた。よく見ると、子供のようだった。男の腕の中で、眠っているのか。スカートが見える、女の子だろうか。そしてその子供を、丁寧にカーペットの上に降ろした。たった今、私がローラーのように転がり潰した、その場所に。

そして男は、ゆっくりと振り向き、私の方を見た。恐ろしい顔だった。強張り、驚愕し、呆然とし、恐怖し、憤怒していた。私は男の顔から、目が離せなくなった。そして次いで、女の子の方も、私の視線を釘付けにした。――白いワンピースを着た女の子は、肩から胸にかけて大量の真っ赤な血に染まり、ピクリとも動かなかったのだ。

しばらく男の顔と女の子の血まみれの姿をまじまじと見詰めた後、私は突如溶岩が噴き出したように泣き声を上げた。

その泣き声が届いたのだろうか、鏡の中の二人に、動きがあった。――不意に、倒れていた筈の少女が、ムックリと起き上がったのだ。男も、少女の方を振り返った。そして、棒のようなもので、少女を打った。さらに、その棒をめぐって、二人の争い、奪い合いが始まった。何か、大きく口を開けて、言い争っている様子だが、その声はこちらには届かない。

当然ながら、幼い私は余りの恐ろしさに耐え切れず、硬直していた体をようやく立ち上がらせ、泣きながらその部屋を飛び出した。そしてそのまま廊下を突っ切り、誰か大人を捜し求めた。

母親が、台所にいた。五歳の頃の私は、懸命に、可能な限り、今見た事態を彼女に説明した。夕飯の準備に忙しそうにしていた彼女は、子供のたわ言に辛抱強く付き合い、火の気を落として炊事に一段落をつけると、息子の目撃したという惨事の現場を確認するため、泣きながら腰にしがみ付いて身を隠そうとする我が子を引きずるようにして、“鏡の間”に入った。

母親の大きな尻越しに、私は惨劇の舞台、あの鏡の中を見た。――が、そこは、いつもと全く同じ風景だった。いつもと寸分変わらぬ、暗い空間、古めかしい家具達、百年は続いているだろうと思われる、変化しない、絵画の中に描かれたような額縁の切り取った風景だった。

昼寝を怠った罰で、あんな所で昼寝をする羽目に陥ったのだろう、ということになった。子供が悪夢を見るには、格好の場所だ。父親に叱責されたのは、むしろ母親だった。お前が鍵を掛け忘れるから、この子が悪戯半分入り込んだのだ、と。その後しばらくの間、二人で夫婦喧嘩となった。

 

にもかかわらず、なお数ヶ月の間、“鏡の間”は鍵を掛けられず放っておかれた。どっちが鍵の管理をするかで、意地の張り合いが続けられていたのかもしれない。

私は恐る恐る、その後も二度三度と、ただドアだけ開けてあの鏡をチラと盗み見た。――だがやはり、百年変わらぬあの景色である。両親の言う通り、時たまうなされる、あの怖い夢の一つだったのだろうか。

――と、思い始めていた矢先、鏡の中に、あの女の子がいたのだ。

少女は私に向かって、盛んにオイデオイデをしている。――この上ないニコニコの笑顔で、お友達になりましょうと言っているようだ。

可愛らしく、美しい少女だった。歳は、当時の私より少し上の、“お姉さん”といったところだろうか。栗色の大きい目をし、肩までの髪が少し巻き毛となっていた。――怪我をしている様子は無い。あの、肩から胸にかけての傷は、もう治ったようだ。

私は彼女の誘いに乗って、恐る恐る鏡に近付いていった。――鏡面越しの、デートが始まった。

何か盛んに、身振り手振りでこっちに伝えようとしたり、私の耳まで聞こえよとばかり口を大きく開けて話し掛けてきたりする。こっちも、そのゼスチャーに合わせる。くるくる一緒に回る、お遊戯をするように。――手の平の中に隠した、大事な宝物を見せてくれる。私はそれを取ろうと手を伸ばすが、もちろん鏡面のガラスが私の手を阻んだ。

彼女の、まるでテレビアイドルのような不思議なダンスが、私の目を見張らせた。後ろ飛びに跳ねたり、廻ったりの、見慣れぬ動きが、私の平衡感覚を狂わせ、目を廻らせた。

そんな楽しい時間を一時間程も続ける内、しかし不意に彼女は、名残惜しそうに後退りしたかと思うと、ドアから抜け部屋を出て行ってしまった。――あとには、私一人が、ポツンと取り残された。

 

その後も数度、彼女と会った。会いたくて、待ち遠しくて、私は日に何度も、親の目を盗んで、鏡の間のドアを開けた。だが大概、鏡の中の空間は、いつも通りの絵画の風景だった。

それでもたまに、彼女とバッタリ出くわす事がある。いつも決まって、彼女の方が鏡の中で待っていた。そしてデートが佳境に差し掛かった時、不意に彼女は帰ってしまうのだった。このパターンの破られることはなかった。

無論彼女の事は、親には内緒だった。あの部屋に入ってはいけないと言われているし、また夢を見たのだろうと、信用されないのは目に見えている。

そうこうする内、彼女との逢瀬は途絶えてしまった。彼女が、全く現れなくなったのだ。それに、とうとう鍵も掛けられた。幼稚園児には、どうにもならないハードルだ。いつしかあの部屋から、足も遠のいていった。

やがて小学校に上がる頃になると、幽霊の怖さや、鏡に映らないことの恐怖が、理解できるようになってきた。とりわけ、鏡の中の少女と遊んだことが、なんとも不気味な経験だったと、ますます思われるようになった。あの、美しい少女。一時は、幼心に、想い焦がれもしたが、その分数倍増しで、不気味な存在と感じられた。

あれは、本当に夢だったのか、それとも、幼児期特有の幻覚の類か。彼女は一体、本当のところ何者だったのか。――恐ろしさの余り、鏡の間の前を通ることすら、あの当時の私は敬遠するようになっていた。わざわざ遠回りし、甘美だがそれにも増して寒気の止まない思い出を迂回するのであった。

 

当初少女が死んだ、あるいは殺されたと思った時には、随分とショッキングだったが、やがて彼女が無事であると分かり、元気に飛び回る姿を見てホッとしたということもあるのだろう、思春期真っ盛り、高校に入る頃には、殆ど彼女の思い出は消えかかっていた。――ところが、その消え掛かっていたものを、強引に引っ張り戻す出会いが、その頃鏡の間の近くで起こったのだ。

あの鏡の間の、常時閉め切った厚手のカーテンをめくり上げると、二階の薄汚れた窓ガラス越しに見下ろせる隣の空き地。そこの、新しい住人となり、日々顔を合わすことになる隣家の末の娘が、あの幻の少女に、そっくりだったのである。

無論、幼児の頃のおぼろげな記憶のどこまでが信用でき、どれほどの確信を持って“ソックリ”などと言い切れるのか、疑問だが、とにかくニキビ面の私は、この小学校入学間もない美少女を見て、底知れぬ冷たい戦慄と、ほの温かい甘美な欲情を、同時に感じたのだった。――重ねて言うが、こんな出会いがなければ、私は本当にあの鏡の中の少女の面影を日々薄れさせ、ピクセル落ちする映像のようにぼやけたものへと雲散させていたことだろう。

だがこうなると、また新たな危惧の念も、湧いて来ざるを得ない。――もしあの、五歳の頃の私の見た、鏡の中の光景が現実の出来事だったとしたら、彼女にもその運命が避けようもなく降り注ぐのではないだろうか。――あの、凶悪な男の殴打による、死か、あるいは傷害が。

私は彼女の身の安全を図るべく、日々神経質な警戒を欠かさぬようになった。怪しげなロリコンあんちゃんと思われようと、おませになりかけの彼女に煙たがられようと、遠慮はしなかった。私には、これを多少の無理を通しても実行しなければならないと思う、ある種の根拠があったからだ。――彼女の近辺に、不審な男は近寄らないか。凶器となるようなものが、何か転がってはいないか。とりわけ、事件現場があの“鏡の間”である可能性が高いと考え、彼女が我が家を訪ねてきた時は、決してあの部屋へは近付けないようにした。

――やがて彼女は成長し、鏡の少女の面影の残る年齢を脱した。私の心配は、杞憂で済んだ。――幼児の頃の淡い憧れと、少年期青年期を通しての守らなきゃならないとする気持ちが膨らみ、彼女は私にとって、離れては生きていけない存在となっていた。彼女にとっても、私は、私のどこか的外れの、しかし不思議な確信めいた真実味を帯びた情熱に長い歳月触れる内、特別な存在となっていたようだ。

私たちは、結婚した。

両家の間を行き来しつつ、今彼女は、危険のなくなった我が古ぼけた屋敷に住んでいる。“鏡の間”にも、自由に出入りしている。

そして三年後には、息子も生まれた。

 

丁度40歳を数える夏のある日、クーラーが故障し、少しでも風を通そうと鏡の間の窓を開けに部屋に入った私は、――鏡に、自分の姿が映っていることに気付いた!

私と、鏡の中の私は、惚けたように互いを見詰め合っていた。10分程も。

私を忠実に映している今のこの鏡は、何の変哲もないごく普通の鏡なのだろうか。だとしたら、何が起こったのだ? 唐突に、ミステリー・ゾーンから脱したということか。

試してみなければならない。私は思った。本当に真っ当な普通の鏡なのか、確認しなくては。

左手を、「ヨッ」という感じで上げてみた。ところが、鏡の中の私は、何の反応も示さない。――次いで、右手を高く、掲げてみた。やはり、反応しない。

少々やけくそになり、右手でピストルを造り、こめかみに当てようとした。――すると、反応があった。鏡の私も、同じ事をしようとしている(もちろん、左手でだが)。――ただし、私より少し、動作が早かった。私の右手が上がりかかった時、彼の左手の指はもうこめかみに到達し、いつでも撃てる体勢だった。遅れて、私の右手の指も、ようやくこめかみに到着した。――しばらくその姿勢のまま、動けなくなった。――やがて手を下ろしたが、その動作も、彼の方がコンマ数秒早かった。

何が、起こったのだ? 確かに、私の鏡像の方が、本人より少し早く動いた!――やっぱり、まともな鏡じゃない。奇妙な特異点を、抜け出してはいなかったのだ。

もう一度試そうと思い、右手の平を頭の上に乗せた。乗せながら、ふと気付いた。――待てよ。これって、さっき鏡の中のあいつが、やっていた動作じゃないか。――これでは、こっちが真似している事になる。

ところが今度は、鏡の中の彼は、同じ動作は繰り返さず、その代わり私がさっきやったように、左手を高く掲げてみせたのだ。――そして、さらにしばらくしてから、こちらをバカにしたように、右手で「ヨッ」と、私が最初にやった動作をしてみせた。

ますます、混乱してきた。――もしかすると、滅多な動作をしては、とんでもない事が起こるのかもしれない。――ただ見詰め合うばかりで、ますます身動きが取れなくなる。

だが、やがて唐突に、鏡の中の私は、未練を残すように私の方をジッと見据えたまま、やおら部屋から出て行った。(待ってくれ! と私は叫んだが、私の鏡像は非情だった。自分の写し絵に向かって、行かないでくれと哀願するのも、妙な気分だ)――そう。五歳の頃のあの少女の、登場退場と、同じパターンだった。

だが、間違いなく鏡の中にいたのは、この私だった。あの少女でもなく、あの恐ろしい男でもなく。――服装も髪型も同じだったし、見誤りようがない。今朝方洗面台の鏡で見た私と、全く同一人物だった。

何が起こったのか? 五歳の当時以来、35年ぶりの『異変』だった。鏡に、自分の姿が映ろうとは!

子供の頃以来の、鏡の謎への探究心が、再燃した。――だが今回は、ファンタジーではなく、科学的、実証的な、それだ。

鏡の表面は、私の生まれて以来40年、ずっと変わらない。相も変わらず、まっさらの新品同然だ。たしか酸化チタンだかを利用して、空気中の水分を取り込み、自らを自動的に洗浄するとかいう技術があった筈だが、そういう類の工夫だろうか。――裏面を見てみようと目論んだ。確かに壁にピタリとくっ付いているが、接合されている訳ではないようだ。いろいろ苦心し、裏面を壁から浮かしてみた。――薄い鏡だ。特に何か装置の類が、裏側に仕掛けられているということもない。あまりに薄過ぎて、鏡本体に取り付けるのも無理だろう。こんな年代物の鏡に、今のテレビよりも薄い特殊映像装置が組み込まれているとしたら、それこそ『オーパーツ』とやらいうものだ。

残る方法は、どこぞの研究所へでも持ち込む、ぐらいしか考え付かないが。違う場所でも、鏡は相変わらず人間を映さないのだろうか。あるいは、原因はこの部屋かこの土地自体にあって、移された途端、鏡はありふれた鏡に戻ってしまうか。それに、この前の自分といい、子供の頃の少女といい、何でああいうイレギュラーな現象が起こるのだ。たった一度だけのイレギュラーな現象では、他人に相談しても、それこそ子供の時の経験のように、一時的な幻覚だろう、で済まされてしまう。

それよりも、この鏡の来歴を探索する方が、優先されるべきではないか?――一体何時から、こいつはここにあるんだ? 誰がどこから、手に入れたのだ? ここに来る前は、どこに在ったのだ? そも、誰が、何時、どこで、どうやって造ったのだ?

親や親類縁者に当たってみたが、知る者は誰もいない。事情を知っている者達は、既に皆墓の中で口をつぐんでしまっている。家中の古い書類を引っ掻き回した。やはり関係する資料は、何も出てこない。

探し疲れる内、当初の情熱は急速に萎んでいった。あの出来事以降、自分も、少女も、変わったものは何も映らない。相変わらず、絵画の中のような、静かな一幅を思わせる静物画である。――私は探索を放棄した。以来また30年以上、変わらぬ日々が続いた。

 

孫娘がまもなく小学校に入ろうという歳になった頃、事態が急変したのだった。――髪をショートに揃え、白いワンピースを着た孫娘・ルミナ(留美奈)が、あの少女にそっくりだったからだ。

底知れぬ黒く深い不安が、私を捉えた。かつて私の妻を襲うかもしれないと恐れたあの運命が、今度は最愛の孫娘にターゲットを移し替えたのだった。いや、最初から、スコープの中に捉えられていたのは、ルミナだったのかもしれないのだ。ただ二人が似ていたというだけで。(もちろん、ルミナがお祖母ちゃん似な訳だが)

あの恐ろしい光景が、運命を予見するものだとしたら。あの鏡が、未来の一シーンを、過去の私に見せたのだとしたら。お前が孫娘の命を守れと、天の命が下ったのだと解釈して間違いあるまい。焦る気持ちがますます私の逸る心を、レールガンに加速される弾丸のように急かした。――愛しいルミナを、失ってなるか!

事件はいつ起こるのか。――幼少の頃の私が彼女を見た時、彼女は結構“大人びて”見えた。だがそれは、彼が余りに幼かったからだ。本当は、彼の受けた印象よりも、もっと年少だったのではないか。――とすれば、ますます一刻の猶予もならない!

私は大鏡の前に簡易チェアを据え、それにドッカと腰を下ろすと、大鏡と睨み合いを始めた。何時間も。何日も。(無論鏡には、私は映っていない。だから自分自身と睨めっこをしていた訳ではない)

この忌むべき鏡は、こんなに長時間、腰を据えて睨み付けられたことはないだろう。皆、恐れ、敬遠し、なるたけ見ようとしてこなかったのだから。まじまじと見詰められ、睨み付けられて、ついに音を上げ、尻尾を出すんじゃなかろうか。

家の者は、お祖父ちゃんがおかしくなったと、陰で噂しているようだ。あの“鏡の間”で、あの大鏡と、ずっと睨めっこをしている、と。――家の者に、事情を話す気にはなれなかった。事態をややこしくするだけだ。――同様に、若い頃考えたように、この鏡をどこぞの研究機関で調査してもらう気にもならなかった。多分、現代の最先端科学を以ってしても、この鏡の謎が解けることはあるまい。そういう確信が、日増しに強くなっていった。それよりも、今これを手放してしまったら、ルミナを救う手立てを永久に失ってしまう恐れがある。

――終日の睨めっこが、ついに大鏡の尻尾を捕まえた!

大鏡の向こうの部屋が、夕日の朱に染められていたのである。(まだ、午後の2時だというのに)

こっちと向こうで、時刻が違う!――これまでも、鏡の中の明るさは、見るたびまちまちだった。こっちが明るくても、向こうは暗い。こっちが暗くても、向こうは明るい。しばしば、余りに暗過ぎ、何の像も見えないことがあった。――長時間居座り続けて、連続して観察し、分かった事だ。こっちが暗くても、鏡の向こうは真昼だったりする。逆に、こっちの明かりをつけても、鏡は真っ暗なままで何も映さない。てんでバラバラなのである。――つまりこの鏡は、今のこの部屋を映しているわけではない、ということだ。じゃあ一体、何を映しているのか?

私は立ち上がり、鏡を覗き込んだ。私のそれまで座っていた簡易チェアは、やはり映っていない。私の座っている時は映らないにしても、邪魔者がいなくなっても、やっぱり映らない。

その椅子を、少しずらしてみた。映らない。二度、三度と試みたが、同じだった。――それではと、背景にある別の家具を移動させてみた。鏡の中の家具は、移動しなかった。他にも幾つか、試してみた。同様に、まるで反応が無い。というか、鏡の中の世界そのものが、いつも通りの一幅の絵画を気取り、まるで動こうとしないのだ。確かに、部屋のレイアウトを詳細に見比べてみると、今動かしたものばかりじゃあなく、動かさなかったものも、微妙に位置が違ったり、在る物が無かったり、無い物が在ったり、している。――やはりこの鏡は、こっちの部屋を映し込んではいない。だったら、鏡に映っているこの家具達、これらは一体何者なんだ?

私は再び椅子に腰を下ろし、再度入念にねめつけ、今度は鏡に映っている古き物々に焦点を合わせ、そのディテールを炙り出すように注視した。――そして、気付いた。――新しいのだ。――こちらの物々と向こうの物々と、どちらも古びているのだが、鏡の中のそれの方が、新しいのだ。より色褪せていないのだ。より朽ちていないのだ。より埃に埋もれていないのだ。ソファの革張りの質感も。マットの模様の色彩も。安楽椅子に降り積もった灰色の粉のような埃の層も。

鏡に映った家具達は、それらのまだ新しい頃のもの、つまり家具達の過去の姿、ということになる。

――閃きがあった。――この鏡は、別の時間のこの部屋を映しているのだ。丁度、かつて未来の惨劇のシーンを映したように、今は過去の家具達を映している。(別に、風景は映すが、人は映さない、という訳ではなかったのだ。その時間にたまたま、人がいなかったというだけの事だったのだ。そして、もし入室者がいれば、あの少女のように、ちゃんと映されるのだ)――多くのものが、つながり始めていた。

鏡の中の人物達の、あの奇妙な動作、あれは一体なんだったんだろう。――とりわけ、入室する時も退室する時も、彼等は後退りするように、後ろ歩きしていた。以前は、名残惜しくてこちらに顔を向けたまま、部屋から出て行くのだろうと思っていた。(そのくせ、彼等は皆とんでもない早足だった。)しかし、あの恐ろしい男が部屋に入って来る時ですら、男は少女を抱えたまま後ろ歩きで入って来た(私の幼少期の記憶が正しいなら)。――何故前向きに、普通に歩く人間が、一人もいないのか。

まだある。彼等のちぐはぐな、こちらと噛み合わない動作だ。――私自身が映ったかと、瞬間ヌカ喜びした私そっくりな男とのやり取りは、今でも鮮明に覚えている。相手の動作が遅れるのはまだよかったが、相手がこちらの動作を先取りし始めた時の恐怖といったら……。まるでこっちが、高空から吊るされた糸で向こうに操られる操り人形になったような、こっちが向こうの鏡像で本物は向こうだったという事実が明らかにされたような、そんな恐怖の時間帯だった。――鏡の少女もそうだった。彼女とは色々な事をして遊んだが、ある程度成長した子供のするような秩序やルールのある遊びではなかった。ただ一緒に、ワイワイやって楽しむ。喜びという感情だけで結合した遊びで、一人でやっても複数でやっても変わらない内容のたわいのないものだった。それでも年長の彼女は、何かルールを求めて手を差し伸べてきたようだが、私はそれらをことごとく裏切った。――それにもう一つ、彼等と会う時のあの普遍のパターン。あの恐ろしい男、招かれざる男は別として、他の者は、少女も、私の片割れも、常に彼等が先に待っていて、しばし接した後、唐突に彼等は立ち去る、例の後ろ歩きで、――あのパターンには、何の意味があるのだろうか。

私は頭の中で、あれやこれやの時間線を引き、その映し出すシーンを目の前の大鏡に投影してみて、さらに熟考した。――一つ、彼等の不思議な振る舞いを、完全に説明できる理屈がある。それは、――鏡に映る時間が逆行している、というものだ。

それならば、全て納得がいく。――少女や私の分身は、後ろ歩きで部屋を出て行ったんじゃあない。部屋に入って来たのだ。男は、後ろ歩きで部屋に入って来たんじゃない。部屋を出て行ったのだ、少女を抱いて。――少女のあの跳んだり回ったり踊ったりの、アクロバチックという印象を子供心にも持った面白い演技、今思えばフィルムの逆回しを見せられているようだった。――私と分身との、あの主客が入れ替わるような不思議な関係。あの瞬間、過去と未来が交叉したのではないか? あたかも複線の列車がすれ違うように。――そしてあの、邂逅の時の不思議なパターン。あれも、例えば少女や分身が先に来て私を待っていてくれたのは、私が出て行くのを見送ったからなのだ。彼等が突然部屋を出て行ったのは、私が待っている所に入って来たからなのだ。(彼等から見れば、私が先に来て待っていたように見えた筈だ。)これも、例外はあの男だけだった。あの男だけが、私が鏡を見ている時、部屋に入って来た。

この、鏡の中の時間が逆行しているという仮説が正しければ、今考えたような説明の他に、どういう現象が起こり、どういう事態が生じるだろうか?

例えば、今もこの鏡の向こうでは、時間が逆向きに流れている筈である。ついさっきまで、夕焼けの朱が見えたのに、今は真昼の明るさとなっている。一方鏡のこちら側は、そろそろ夜の帳が降りる頃だ。明るさが、逆転する。向こうの世界では、昼から朝に、そして夜に、さらに夕に、そしてまた昼にと、一日が経過していくのだろう。もし向こうの部屋に時計が置いてあれば、それは逆向きに針が廻る筈である。あくまで、鏡文字の表示でだが。

――その時、この仮説から導き出される遥かに重大な事実に気付き、簡易チェアの上で私の全身は凍り付いた。

――時間が逆行しているとすれば、アレの順番もまた逆の筈だ。――

鏡の少女が元気よく飛び跳ねていたのは、あの惨劇の後ではなく、その前ということになる。――少女の元気な様子に、あの傷も癒え、大したこと無かったのだろうと、幼児期以来私はホッと安堵するところがあった。だがもしあの順番が、逆だとしたら。

血まみれで倒れていた少女が、ムクリと起き上がり、男と争ったのは、そうではなく、男と争い、殴打され、血まみれとなって倒れたのだ。そしてそれ以降、ピクリとも動かなかった。そして男は、彼女の体を抱えて、部屋から出て行ったのだ。――つまりルミナは、あの男に、やはりあの時あの場で、殺されたのだ! 死んで、そしてもう動かなくなったのだ!

 

私は矢も盾もたまらず、簡易チェアから飛び跳ね、立ち上がった。

このまま猛ダッシュしていって、私の可愛いルミナを両腕の中に抱きすくめ、ずっと守り抜いてやりたいという衝動に駆られた。

だが、その行動でどうして、運命の悪神の企みを阻止できるというのか。

勢いよく立ち上がった反動で、私は力無くガクリと膝を付いた。――付いて、目の前の簡易チェアをボーッと眺めた。

その、無人のチェアの光景が、記憶の深い深い古層から、あるイメージを浮き立たせようとしていた。

このチェア、昔見たことがある。――そう、鏡の少女と密会していた、あの頃だ。――確か、椅子の上に、絵本を立て掛けたようなものが乗っていた筈だ。

しかしまあそれは、当然の事かもしれない。今私がこれを持ち出し、大鏡の前に置けば、いずれ五歳の頃の私はそれを目にすることになるだろう。――だが、絵本とは、一体何だったろうか。

椅子の正面に廻り、丁度鏡の方から眺めるように、それも五歳児の低い目線の位置から眺めるように、椅子を見た。――さらに古い記憶が、ズルリと引きずり出されてくる。

何か文字が書かれた、紙が乗っていたのだ。丁度鏡に映し出されるように正対させ、椅子の上に立て掛けられてあった。――多分、メッセージだ。多分、未来の私から、多分、過去の私か、あるいはその関係者に当てた、メッセージだったのではないか。

当時の私は、ひらがなが少し読めるか読めないか程度ではなかったろうか。未来の私が、そんな幼児にメッセージを送るとも思えないが。――それから私は、どうしたんだったか?

そうだ。カメラだ!――父親の真似をして、カメラにパチパチと撮ったのだった。――とても読めない外国の文字のように思い、カメラに収めておこうと思い立ったのだ。――そして後で、父親にたっぷり怒られた。

丁度少女との逢瀬が途絶えた、直後の頃のことだったと思う。会えなくなった少女からの大事な伝言、そんな風に幼い私は捉えていたふしがある。だから後からでも読めるように、写真に撮っておこうと思い立ったのだ。

そんな古い、70年も前の写真かネガが、残っているものだろうか。いくら物持ちのいい旧家とはいえ。

40歳の時にした、家捜しのことを思い出した。散々探したが、参考になるようなものは何一つ出てこなかった。――あの時、古い写真の類は、どこにあったろう。

ガタつく納戸から、父親の愛用していたボロボロの旅行かばんを掘り出した。有象無象押し込まれていたが、大きな紙袋に無造作に詰め込まれている大判の写真の束を取り出し、積み上げ、一枚一枚めくっていった。

――あった。案の定、鏡文字になっていた。これでは、幼児が外国の文字と思っても、無理はない。

鏡文字を、さらに鏡に映して、読み取る。

 

『過去の私よ、あるいはその良き理解者、関係者よ。

以下のメッセージを、注意深く吟味して欲しい。

このメッセージを受け取った頃には、もう君もこれに書かれている事の大方の部分に気付いてしまっているかもしれない。だからあるいは、知らせること自体無駄かもしれない。だが、因果の絡み合いということだろうか、知らせない訳にはいかないのだ。そして、君もまた、同じ文面を知らせることになるだろう。

まずこの鏡についてだ。この鏡の仕組みは、あっけない程単純なものだ。聞いたら拍子抜けする。――普通鏡とは、空間座標軸に対して、光を、入射角と反射角が同じになるよう、反射する。この鏡は、それに加えて、時間軸に対しても、入射角と反射角を同じにし、光を反射する。ただそれだけなのだ。そして、時間軸上の中心点、鏡に正対する位置は、君ももう経験したかもしれない、あの40歳の時自分の鏡像を見たあの瞬間、あの時のみ、この鏡は世間一般の鏡と何等変わらないそれだったのだ。

さて問題は、これからだ。私はこれから戦う。ルミナを守るために。事情を知らない人間のために、再確認しておこう。私の最愛の孫娘・ルミナは、私が75歳前後であるだろう頃のある日、『この部屋で撲殺される』。この事実が、全ての中心にある。――これが、避けられぬ宿命なのか、変更可能な未来なのか、それは分からない。だが私は、後者だと信じている。なぜなら、現にこの鏡があり、この私がいるからだ。これらの存在は、ルミナを襲う惨劇を阻止する以外には、その存在理由が無いからだ。運命が変えられないものならば、この鏡も、諸々の事実を知るこの私も、この世界に必要なかった筈だ。だが現に、我々はいる。ならば、我々は、この運命を変えるためにこそ、遣わされたのだと考えるのが妥当だ。

ただ、ならば具体的にどうしたら、運命を変えられるのか、その方法については、確固たるものは思い付かれていない。幾つかのアイデアはあるが、あやふやなものばかりだ。このメッセージも、そうした運命改変の手段・努力の一つだと受け取っている。私もこの文言を、未来の私から受け取った。何代前から因果のループが廻っているのかは知らないが、メッセージを過去に送り続けることにより、いつかは、あるいは徐々にでも、惨劇の因果の連鎖が断ち切れるものと、私は、そして先代の私達も、信じてきた。だから次の代の君にも、同じ使命を託すのだ。逆に、一代でもこれを途絶えさせると、もう後には続かないだろう。因果の連鎖は強化されるだろう。

それでは、健闘を祈る。ルミナを救うため、共に戦おう!』

 

このメッセージをどう評価すればいいのだろう。

あまり役に立たなかった、というのが正直なところだ。

鏡の仕掛けは、書いてある通り、拍子抜けする程単純なものだった。

そして肝心の、ルミナを救う方法は、『共に戦おう!』という“私連合”の気勢を聞かされただけでは、バカにするな! とメッセージを破り捨ててやりたくなる。――だが、“私達”は皆、運命に抗うため必死の努力をしている、ということだけは確認できた。先達の思いを、無にする訳にもいかない。

先代の主張にもあった通り、メッセージを五歳以前の自分に向け、送ることにした。ただし、幾つかの改良を施す。――まず、鏡文字だ。これが読みにくくさせ、人々に気付きづらくさせる元凶だろう。そこで、最初から鏡文字にして印刷し、受け取る側には普通の文字として読めるように工夫した。――それと、文章の冒頭部分に、五歳児でも気付けるよう、以下の文言を入れた。『ぱぱかままに、このてがみをよんでもらって』――これで少しは、運命の改変、因果律の鎖を断ち切れる可能性が高まるだろうか?

 

さて、ここからがいよいよ、私一人の、本当の戦いだ。

メッセージにより因果律に影響を与える努力は、それを受け取った過去の世界から別の未来を切り開くのには有効かもしれないが、今の、この世界、現に確定してしまって、今こうしてある世界を変える事は出来ないだろう。

先達たちのメッセージにもあった通り、人の意志では運命は変えられないとする、運命論者に堕落することだけは願い下げだ。それがルミナに関わる事となれば、なおさらである。

だが、具体的に思い付く防犯策といえば、かつて我が妻が少女だった頃、彼女を守るために実行した手立て、不審な男を警戒する、凶器を周囲に置かない、それにルミナを絶対にあの部屋へは近付けさせない、それくらいのものだ。決定打は、無い。――未来からの情報を受け取っている以上、因果の連鎖を改変する決定的な方法が、何かある筈なのだが。

 

夕食の席で、ルミナが、あの“鏡の間”で不思議な男の子と出会って一緒に遊んだと、自慢げに話し始めた。――あれほど、あの部屋に入ってはいけないと、厳しく念を押しておいたのに。年頃か、段々反抗的になってくる。

それで、孫娘と大喧嘩になってしまった。「おじいちゃん、きらい!」と、何度も言われた。普段、我々の喧嘩など見たことのない家族の者達は、呆れ顔で傍観している。

私自身、五歳の当時、未来のメッセージに気付く前にルミナと何度か会っているのだから、因果通りに事が進むならば、メッセージを出した後、ルミナが私の言いつけを破りあの部屋に入っていたとしても、何の不思議も無い。そういえば、鏡の少女は部屋から出て行く時、いつも何かを動かし、部屋の整理をしてから出て行くように見えた。“オカタヅケ”の習慣が守られていると、幼い私は感心したものだが、そうではなく、彼女は部屋に入ってすぐ、鏡の前の邪魔な椅子を取り除けていたのだ。

因果の進行は、所定のコース通り、たゆまず前進しているのだろうか。

さらに厳しく言い含め、鏡の間の鍵も隠した。しかしこれで、どれ程の効果があるだろう。強力な因果の前で。家族の者が、私の危機感を共有していないのが、痛い。あまりに突飛な話なので、家族にそれを信じさせることは、諦めている。打ち明ければ、とうとう痴呆を患ったかと、こっちが監視の対象になるのがオチだ。

決定打が必要なのだ、とにかく。彼女を永久にあの惨劇から解放する、自明で完璧な方法が。

――それは、一つだけ思い付かれていた。

決行はためらわれたが、ルミナが鏡の中の男の子の話をしたことで、もう残り時間が無い事がいよいよ明白となった。

あの惨劇のイメージは、若い頃よりも、差し迫った今の方が、むしろ鮮明に思い出せる。――あのイメージは、幾つかの決定的要素によって成り立っている。逆に言えば、その要素が揃わなければ、あのイメージは成り立たない。

決定的な要素とは、犯人の男、凶器、ルミナ、鏡の間、の4つである。それ以外の要素はあやふや過ぎて代替可能だろうが、この4つは、欠落しても、別のものと入れ替わっても、元のイメージを損なう。

ならば、損なわせてしまえばよい。そうすれば、少なくともあのイメージ通りの惨劇は起こり得ず、私の知っている未来は否定し去ることとなる。――その結果、そこから先の未来がどう転がるか、それは未知の領域、神のみぞ知る世界だが、その神ですら量子論的にはサイコロを転がして未来を決めるというのだから、詮索しても仕方が無いことだ。

決定的な要素の内、男と凶器の正体は不明だから、どうこうしようも無い。ルミナをどうにか出来ればいいが、あれほど言う事を聞かないとあっては、たとえ地球の反対側に留学させても、ある日ひょっこり戻ってきてあの部屋にまたもぐり込んでしまう、といったことにもなりかねない。となれば、残りの、そして最も決定的で容易な方法は、あの“鏡の間”を欠落させることとなる。――あの惨劇の舞台がなくなれば、少なくともあのイメージ通りの惨劇は起こり得ない。

そう決めると、もう矢も盾もたまらなくなった。ともかく、時間がないのだ。いずれ工務店なりを入れて、本格的に取り壊せばいいが、今はそれだけの時間的余裕も無い。

少なくとも、“鏡の間”の室内の見栄えだけでも、あの五歳の頃見た部屋の景観とは、かけ離れたものにしておきたかった。――なにしろ五歳当時の記憶だから、いかんせん心許ないが、少なくとも鏡の中の“鏡の間”は、子供心にもその後の鏡の間と大差無い、ごくありふれた光景だった。それを、大差ある、ありふれてない光景にしてやればよいのだ。五歳児が見ても、異常にシッチャカメッチャカの、爆撃を受けた後の廃墟のような室内に。そうすれば、少なくともあの惨劇のイメージは、成立し得なくなる。

私は、破壊を待つ“鏡の間”へと、急いだ。

 

勢い込み、鏡の間へと突入すると、早速私は、大鏡から見て真正面の一番目立っている大テーブルに、まずは目を付けた。抱え持って来たアウトドア用の小振りのオノをかまえ、テーブルの天板めがけ振り下ろそうとした。――その時、目に入った。ルミナが、そのテーブルの下に隠れているのが。――あわてて私は、オノが落下するのを止めた。

ルミナは、テーブルの下から飛び出してきた。ここにいるのが見付かると、またこっぴどく怒られると思って、あわてて隠れたのだろう。壁伝いに、逃げ回っている。
「ルミナ! またこんな所に入り込んで!――何度言ったら分かるんだ」私はルミナの方に詰め寄り、厳しく注意した。オノを抱え込んだまま。

ルミナは涙目になっていた。怒られるのが、それほど怖いのか。そして言った。
「おじいちゃんは、私を殺すの?――その、オノで!」

小さな手に握り締めた紙片をこちらに振り上げ、必死に抗議してきた。

その紙片は、あのメッセージの書かれた紙だった。彼女も、あのメッセージを読んだのか。――しかし、鏡文字だ。小学校上がりたての子供に、読めるとは思えないが。――いや、違う。今日はやけに、日の光が強い。窓から射す光に、紙を裏側から透かし見ると文字が読める事を、彼女は発見したのだ。
「私を、“ボクサツ”するの?」また言った。

自分の名前が書かれているのを見付けて、小学校初等生に読める範囲で精一杯、拾い読みしたのだろう。そして、文章の分からない所は、想像で補った。――それにしても、よく“撲殺”などという字が、読めたものだ。――最近不仲になり、何かとぶつかるようになった私が、怒って自分を殺しに来たと。多感な少女にありがちな突飛な空想の結論が、そういう事に至ったのだろうか。

ルミナが飛び掛ってきた。オノに手を掛け、それを私から奪い取ろうとする。

私は落胆のあまり、手から力が抜けかけていた。ルミナにオノを奪われそうになる。あわてて、握り返し、それを阻止する。
「ルミナ、ダメだ。――危ないよ。離しなさい」

二人の間で、しばらく悲しい口論が続いた。最愛の孫娘は、私を、最も恐ろしい敵だと思っている。

 

その時、大鏡の鏡面に、人影が見えたのだ。――小さな男の子だった。走って、部屋の中に入って来た。しかも、後ろ向きに。

鏡の前に来た男の子は、こちらを振り向き、私達を見た。

その顔は、あまりの恐怖に泣き崩れ、歪み、口を大きく開けて、悲鳴ともとれる泣き声を発している筈だ。よほど怖いものでも、見たのだろう。(思い出す。実際に、見たのだ)
「やはり、――な」

私は、深い深い、諦めの淵に沈んだ。

再度、全ての力が抜けそうになった。――だがここでオノを放して、それをルミナの側に持っていかれては、困る。再び力を込め、こちら側に引き戻した。

あの時、子供の私には、あの恐ろしい男が、棒状のもので少女を打ったように見えた。だがそれも、逆の動きだったのだ。少女の体に刺さったオノを、男は引き抜いたのだ。

こうなる予感は、以前から、ルミナを守らなくてはと思い詰め始めた頃から、あった。何故なら、第三の怪しげな男が、一向に現われる気配がなかったし、ルミナが成長して私のコントロールが効かなくなりつつあり、こうした不測の事態の生じる可能性が高まっていたからだ。

だが逆に、その予感ゆえ、こうした場合を想定しての対策も、充分に練る事が出来た。“鏡の間”の抹消がままならなくなった時には、もっと抹消しやすいものに、標的を変更すればいい。幸い、新たな決定的要素、すなわち加害者の男の正体が判明する事が、この想定の前提条件なのだから。

ルミナを防衛する手段として、加害者の男を抹消するのは、“鏡の間”を破壊するより、遥かにたやすい。そのためのイメージ・トレーニングも、私は延々繰り返してきた。

こういう手段が思い付けたのも、過去へのメッセージを改良した時のように、運命に抗い、それを改変する意志が、私に付与されたからだ。鏡の未来からのイメージも、あのメッセージも、奇跡が私に授けてくれたものだ。未来を自ら切り開くために。――この恩寵、――神よ、感謝いたします。

――私は、オノの刃を自分の方へ向け、目一杯力を込めると、それをルミナの小さな手からもぎ取った。その勢いに任せ、こちらに向かってくるオノの刃を、自らの首の左側面に深々と食い込ませた。

これで、子供の時に目撃したあの恐ろしいイメージは、成立し得なくなった。ルミナは、生き続ける。

私はチラリと、大鏡の方に視線を流し、そこに五歳当時の自分が引きつった表情でこちらの出来事を凝視しているのを確認した。

 

 

事件を担当した刑事として、私は今この鏡の扱いに困っている。

老人の死は、単なる事故死として処理された。孫娘とオノの取り合いをし、誤って頚動脈を切断してしまったのだと。

だが何故、老人はオノなど持って、あの部屋へ入ったのか。あるいは最初から、自殺するつもりだったのか。もしくは、孫娘を殺そうとしたのか。――普段孫娘を溺愛していたという老人には、考えにくいことだ。だが、可愛さ余って……、ということもあり得る。最近二人は不仲であったというし。そして、孫娘の証言もある。私を殺そうとしていたと。(彼女がそう思い込んでいた根拠は、まるであやふやなものだったが。)いずれにせよ、家族から聞き取った最近の老人の言動には、老人の狂気を感じさせるものがある。

それにあの、鏡(のようなもの)と、鏡文字の書かれた紙だ!(その文章は、孫娘が老人の殺意の証拠として提示したものだが、まるで違う内容だった、意味不明の)

――今、目の前に、私と背比べをするように立っている、この鏡(のようなもの)には、まるで見知らぬ景色が映っている。――鏡の映す部屋では、大きな窓から“海”が見える。洋館風の洒落た出窓である。高級そうな舶来の調度で整えられた室内には、これも高価そうな彫り物、焼き物、宝石・貴金属製品の類が随所に並べられている。そして、赤が基調のカーペットとカーテンが、室内の空間を明るく照り返していた。

これは、どこなのだ?――何が映っているのだ?

絵画なのだろうか、それとも、テレビのようなある種の映像装置なのだろうか。

だが、その前を歩くと、見えるものの角度が変わるのだ。丁度鏡に室内を映した時のように。――しかし、その映し込まれている筈の方の金ピカの部屋は、どこにも無い!(鏡の手前の部屋は、古びて薄汚れた、この旧家の倉庫同然の部屋なのだ)

家の者の話によると、ついこの事故の直前まで、この鏡はこの“鏡の間”と呼ばれる部屋の風景を、ちゃんと律儀に映していたという。ただし、人間の姿は映らないという、怪談話のおまけが付いたが。家の者にもさっぱり事情がわからないという。というか、一番驚愕しているのは、彼等だ。なにしろ、突然見も知らぬ、豪華な部屋の風景が映り始めたのだから。

そしてもう一つ、この鏡文字の文章だ。――どうやら事情の分かっている者には、分かる内容らしいが、それ以外の者には意味不明のたわ言、あるいは態のいいイタズラ、としか思えない。

老人のパソコンの中から、これの元ファイルが見付かった。家の者も、老人がこれを作り、自室の鏡の前に掲げて鏡面に映る文章を読んで確認していたと、証言している。あるいはこれもまた、老人の狂気を証明する品の一つなのかもしれない。

この文章の中で、鏡の仕組みについての文言だけは、かろうじて理解できる、一般論だからだ。ただし、とんでもないヨタ話だが。

しかし、今この中に映っている金ピカの部屋の件を説明するためには、そのヨタ話を持ち出さざるを得ないという気もしている。――もし鏡が、まるで別の時間、過去だか未来だかのある瞬間、まるで別の場所に存在する時のその目の前の光景を映し出しているのだとしたら、この見知らぬ金ピカも辻褄が合う。

一つの想像だが、もしこの家の者達の証言の通り、あの事故の前後で鏡に映る風景が激変してしまったとするなら、あの文章の中にあった時間軸上の中心点、それが移動してしまったのではないか?

元々の中心点は、あの文章の主人公(多分、あの老人)の40歳の頃、に在ったのだ。それが、あの事故により、変更されてしまった。

これもまた、想像だが、――そもそも、その中心点とやらは、どうやって決まるのか?――思うに、鏡は、作り出された時から、壊れる時まで、つまり光を反射し得る有限の時間の間、時間軸上の光を反射し続ける。ならば、中心点とは、作られた時から壊れる時までの丁度真ん中、に位置するのではないか。丁度その時が、彼が40歳だったその時、だったのだ。――そして、私は理論物理学者でもないし、SF作家でもないから、未来や過去がどうこうなるといった話を正確にすることは出来ないが、――あの事故により、未来が、そしてあるいは過去も、変わってしまったのではないか?――だから、時間軸上の光を反射し続ける有限の時間帯が大きくずれてしまって、中心点も大きく変更されてしまった。――そのため、見知らぬ、いつかどこかの風景が、鏡には新たに映るようになった。

――もしこの件につき、何らかの事件性を認め、この紙を証拠として扱えば、この鏡も同時に証拠品として調べられねばならない。――だがこの鏡を、例えば科捜研あたりに持ち込んで、何が、どれだけの事が、分かるだろうか。――この鏡は、このまま世間に知られず、放っておかれるべきではないか。

今度の事故のこともあり、この家の者はこの不気味な鏡を早々に処分する意向のようだ。いつとも知れぬ昔からこの家に居座り、処分し難かったが、家長が死に、ますますケチが付いた、丁度いい機会だからと。――そのため、鏡の中の風景が一変したのだろうか?

まもなくこの鏡は運び出され、またいずこかへ持ち込まれるのだろう。その行く先々で、何を映し、どういう流転の運命をたどるのか。そしてまた、それに姿を映す人々に、どんな運命をもたらすのだろうか。――私には、今この鏡に映る風景を眺め、それの搬出を見送ることしか出来ない。(そうだ。記念に、この鏡の中の金ピカの部屋を、写真に撮っておこう)

 

 

 

第三話 鏡と戦争

 

 

西暦1939年(皇紀2599年)8月30日、宮中で五十六の連合艦隊司令長官親補式が行われていた、丁度同時刻の事である。彼の三十間堀の愛人・千代子の、寝室にあった鏡台の鏡一面に、突然無数のヒビ割れが入ったのだった。

不思議な“ヒビ”だった。――鏡の表面は、元のツルリとしたガラスのままで、手の平に触れるものは何も無かった。僅かなキズも見えず、剥落した破片も全く無い。なのに、一面の、太い蜘蛛の巣を張ったような、無残なヒビ割れである。――とすると、割れたのは鏡の内側、なのだろうか。だが、どうやれば、表面をこれ程綺麗に保ったまま、内側だけかくも完璧に破壊する事が出来るのか。

しかも、その一面のヒビのせいだろうか、その時から鏡は何も映さなくなった。というよりも、あたかも闇の世界を映し込んでいるかのように、鏡の向こうは真っ暗な空間となってしまった。ただヒビの部分のみが、黒い光を反射し、かすかな惨劇の気配を漂わせるだけで。

翌31日、五十六は、和歌山県和歌浦に集結していた連合艦隊に着任するため、車中の人となった。実はこの神戸行き特急に、千代子も密かに乗車していたのである。二人は大阪で列車を降り、そこで一泊した。

寝物語で千代子は、ヒビ割れた鏡の話をした。司令長官に就任した日に怪しいヒビが入るなんてどうにも不吉だと、千代子は何度も愚痴をこぼし訴えた。千代子があまりに気にするもので、五十六はそれはむしろ吉兆だと切り返し、慰めた。その鏡は、連合艦隊司令長官になった我が身に降り掛かる災いを、先んじて身代わりとなり引き受けてくれたに違いない、と解釈して聞かせた。その鏡台を、自分と連合艦隊の“守り”にしたいから引き取る、と申し出た。

翌日の9月1日、五十六は和歌浦に到着し、連合艦隊と合流した。その夕刻、彼はドイツ軍がポーランドに侵攻したとの報を受け取った。第二次世界大戦の始まりだった。

後日東京への出張の折、五十六は千代子の家でくだんの鏡を検分した。――成る程、一面にヒビが入っている。しかしそのガラスの表面は、キズ一つなく滑らかだ。――五十六の左手には、人差し指と中指が無い。日本海海戦時乗艦した巡洋艦『日進』上で失った。残りの三本指と手の平で、入念に撫で回した。――そしてまたその鏡面も、千代子の話通り真っ暗で、五十六の姿はおろか何者も映していなかった。

五十六はその鏡台を、旗艦『長門』の長官私室に運び込んだ。長椅子と書棚の間に据えた。

 

その長官私室をめぐって、師走に入る頃から、従兵達の間に妙な噂が立ち始めた。――女の死体の描かれた絵を、長官は私室に密かに飾っておられる、というのである。

従兵長は対処に困った。ゲンを担ぐ船乗り達のことである。こんな不吉な噂が『長門』中に広まったら、一大事である。

思い切って、長官自身に相談した。神経質な先代の吉田長官と違い、五十六はそういう事を直に話せる上司だった。

共に、長官私室に入った。五十六は狭い室内を見廻した。女の死体の絵などに、心当たりは無かった。ふと鏡台に、目が留まった。ヒビの入った鏡など、やはり縁起でもないから、鏡台に掛かった布幕の紐を解き中を見る事は決してならんと、従兵達には言い聞かせてあった。――もしかすると、これの事か? 掃除の折にでも、誰か悪戯半分、紐を解いて鏡を見たのか?

五十六は試しに、紐を解き布をめくってみた。――息を、呑んだ、二人とも。――数十秒に渡り、固まってしまった。

――既に朽ち、乾き、半ば白骨化した死体が、こちらに向かいうつ伏した姿勢のまま、鏡面に映っていた。髪は長く、女物の服を着ている、確かに女の死体のようだ。

再び布を下ろした五十六は、これは二人だけの絶対の秘密にするよう、従兵長にきつく申し付けた。今後一層、この鏡を従兵達が見る事のないよう徹底せよと、念を押した。これの処分は、自分で検討すると、付け加えた。

五十六は一人になると、布紐だけでなく、3、4本の頑丈な紐で布幕をグルグル巻きにし、海軍手練の結び方でしっかりと封印した。そして、考えた。――あの、無数にヒビが入っているだけで、あとは真っ暗だった鏡面に、何故女の死体が映っていたのだ? それに、その背景が、以前の真っ暗闇ではなく、どこかの室内のようだった。――それにしても、鏡にヒビが入り鏡の用をなさなくなった、というのならまだ分かる。何故、在りもしない像が、映っているのか? 考えられる仕掛けは、誰かが密かに、ヒビの入ったガラスの内側に、死体の写った写真を挟み込んだ、そんな所か。だが、だとすれば、何故そんな手の込んだ悪戯をする必要があったのか。――冗談好きの仲間の何人かの顔が、思い浮かんだ。もしかすると連中が、自分の長官就任祝いに、千代子と組んで、こんな悪戯を仕組んだのかも知らん。一番納得出来るのは、そんな解釈だった。そんな気分をざわつかせる物を寝台の脇に抱え込んだまま、五十六は眠りについた。

 

それからの数週間、丁度歳の替わる頃、そんな合理的な解釈など吹き飛ばす奇妙なものを、五十六は見せ付けられることとなる。

実証主義的な彼は、その後も何度か間を置いて、この謎と対峙した。謎のまま封印し続けたり、解決を見ぬまま廃棄処分にしてしまうなどという逃げ腰は、彼には絶対取れない態度だった。

その結果、彼は見た。――死体が徐々に、新鮮になっていくのを。つまり、死体が段々と朽ちていく『九相図』の、逆である。――白骨に、膿んだ肉が付き、その膿が取れて赤い肉となる。バラバラだった長い髪が、徐々にまとまり、見慣れた髪型になっていく。眼孔に眼球が戻り、頭蓋骨に皮が張り、女の顔が復元されていく。――どういうことだ? 彼は混乱した。彼の留守の間に、誰かが密かに、ガラスの裏の写真を入れ替え続けているのだろうか。

そしてとうとう、春めく頃、すっかり女に戻った死体は、突然動き出した!――こうなるともう、写真では説明がつかない。この鏡台の内部に、総天然色の映画を映し出す超小型の映写機が、仕込まれているとでもするしか。五十六は鏡台の内部を入念に調べた。だがどこにも、そんな機械を仕込めるようなスペースは無い。それに薄っぺらな鏡に、こんな動画を映し出せる手の込んだカラクリなど、想像もつかない。――五十六は皮肉に笑う。もしそんな技術が日本にあるならば、悪戯に使っている暇に、T型フォードのように量産し外国へ輸出すれば、日本は大金持ちになり昭和不況など簡単に脱して、大陸へ進出する必要も戦争する必要もなくなる、……。

――今度は、長官は幽霊女に取り憑かれている、という噂が広まりつつあった。幕僚や副官達も、これらの噂には前々から気付いていたようだ。参謀達にさり気なく訊かれ、従兵長はその度お茶を濁すのに四苦八苦しているようだ。――やはり、人の噂に戸は建てられない、ということか。

この、幽霊女に取り憑かれたという噂と、五十六が突然言い出した真珠湾奇襲とを、結び付けて陰口を叩く者等もいた。――こんな突飛な、とんでもなく非常識なこと、変な霊にでも取り憑かれ惑わされでもしなければ、口走る筈も無い。

 

空母『飛龍』の戦闘機乗り奥寺大尉は、新米パイロット時代の昭和4年、当時空母『赤城』の艦長だった山本五十六の鎌倉の家を訪ねたことがある。そこは華族や海軍将官の別荘がポツポツある程度の鄙びた土地だった。普段海やら外国やらとあちこち飛び回って多忙を極める五十六が、この時はたまの帰宅を楽しみ、家族とくつろいでいた。仲間十数名と狭い居間に通され、礼子夫人手ずからの饗応を受けた。そのあと皆で、近所の元八幡(頼朝が遷す以前の、本来の八幡宮)に詣でた。

新宅の建つ土地は滑川の河口に近く、今は周囲一帯畑だが、ほんの数年前の関東大震災では川を遡上した津波に洗われたであろう事は容易に想像がついた。遠慮無しにその事を指摘すると、なあに、大地震は周期的に襲ってくる。ということは、今日本で、この場所が一番安全だということだ。じゃれつく子供達と戯れながら、五十六は豪放にそう言い放った。

昭和11年、五十六が航空本部長だった時には、『戦闘機無用論』という論争が持ち上がり、奥寺はこの時も五十六に鋭く噛み付いた。――当時攻撃機の性能が著しく向上し、戦闘機の性能に大きく溝を開けた。そのため、戦闘機部隊は縮小され、多くの戦闘機乗りが艦爆や輸送機に配置転換された。ところが、いざ実践で攻撃機のみで中国軍の基地を攻めた所、面白いようにバタバタと撃墜されてしまった。そこであわてて戦闘機隊を増強しパイロット達を原隊復帰させたが、その数年のブランクが日米開戦時にも影響を残したという経緯がある。――制空権論(制空権さえ抑えてしまえば、後は攻撃も防御も思いのままである、とする主張)を熱っぽく唱える奥寺に対し、五十六は多くのデータを示し、それらを手際よく分析してみせて、冷静に論駁していった。攻撃さえ有効ならば、なるほど戦闘機は無用の長物である。だがこの分析は、その後の戦闘機の高性能化と、日本が大型攻撃機(B29のような)用のエンジンを開発出来なかった事により、再度逆転されてしまうのだが。

このように、奥寺と五十六は、親子ほども歳は離れているが、遠慮なく意見も気持ちも言い合える仲だった。――ある時、『飛龍』の所属する第二航空戦隊のお歴々の随身として共に追浜に飛来し、奥寺はそのまま休暇をとって横須賀に入港していた『長門』の五十六を訪ねた。実は、兵学校の先輩、『赤城』飛行隊長の淵田と、第一航空戦隊参謀に就任予定の源田に、噂の流れている真珠湾攻撃について、長官の真意を密かに探ってくれと、頼まれていたのである。いつものお前流に、あまり単刀直入には訊くなよと、釘を刺されてはいたが。――事情通の従兵長は、公室ではなく、長官私室の方へと彼を直接通した。

――そこで、従兵達や、参謀、副官達が噂している、例の鏡台に目を止めた。

約束の時刻を大分過ぎても、五十六の現れる気配はない。従兵長も痺れを切らしていた。

鏡を包む、千鳥格子の黄土色の布地を見詰めながら、従兵達の噂話を思い出していた。女の幽霊は、長い髪が所々ゴソッと抜け落ち、蒼白な顔に大きな青黒いアザが随所に浮かんでいる。口や鼻からは幾筋か鮮血を垂らし、うつろな目を宙に漂わせている。そして見る者に向かって恨み言をつぶやくように、僅かに口を動かし続けているという。

噂を確かめたいという誘惑に、奥寺は負けた。目隠しの布を留めている紐の結び方は、兵学校出の人間なら重々承知のものだったので、気付かれぬよう結び直す自信はあった。従兵長が、ちょっと様子を見てきます、と席を外した隙を伺い、素早く紐を解いた。

――目が、合った。そこにいたのは、目を見張るような美女だった。――奥寺は惚け、しばらくの間全身から力が抜けてしまった。

女は、この上も無く幸福というような、満面の笑みをたたえ、奥寺を見詰め返してきた。笑みが絶える事はなかったが、常に表情が生き生きと変化し、キラキラしい喜びを彼に伝えてきた。――それは、どう見ても、――恋愛なんぞにはとんとウトい生粋の武人の彼から見ても、――恋する女性、それも“彼に”恋する女性の、――表情であり、仕草だった。

奥寺は、ようやく我に返った。――どういうことだ?――幽霊が、実は美女で、しかも初対面の彼に、無上の恋心を抱いている?

いつの間にか従兵長が戻り、彼の後ろに立っていた。彼もまた呆気に取られ、この美女を見詰め続けていた。

だが、その直後、隣室でドアの取っ手を捻るような物音がした。――あわてて、奥寺と従兵長は、覆い布を戻し、紐を元の通りに結び直した。彼女は、消えた。

五十六が部屋へ入ってきた。「やあ、待たせたね。――作戦会議が長引いてしまって、……」――そう言いながら、五十六がチラと横目で結び目を盗み見、その結び具合を確認したことには、この時の奥寺大尉はさすがに気付きようもなかった。

 

長官の鏡台は、一部の者の間で有名となった。それは、運び込まれた時から、五十六の最後の時まで、連合艦隊旗艦の移動のたび、『長門』→『陸奥』→『長門』→『大和』→『武蔵』と、山本長官と一緒に引っ越した。余程縁深い女の形見か、はたまたギャンブル好きの五十六のゲン担ぎかと、彼等は想像を逞しくした。

ここまで徹底されると、ただ上っ面だけ気味悪がったり、不吉だと敬遠したりする者は、もういなくなった。――それどころか、女の幽霊は、実はとてつもない美女なのだという、いかにも作り話めいた噂まで囁かれるようになった。“長官の鏡台”は、不吉さを通り越し、神秘的な存在へと格上げされた。

鏡台は、開戦、ミッドウェーを通り過ぎ、五十六の自決するような死の日まで在り続けた。死の半年近く前、艦隊勤務を離れ帰国する軍医長に、今度何時会えるか訊かれ、五十六はその鏡台から目を上げ、「来年5月」と明言したという。――持ち主が死に、それは長官私室にポツンと取り残された。

 

片や奥寺大尉は、『飛龍』がミッドウェーで撃沈され、『翔鶴』の部隊に異動となった。ガダルカナル以降太平洋戦争は、互いを削り合うような消耗戦の段階に入った。こうなると、生産力の圧倒的な差が物を言い出す。奥寺の周りでも、戦友達が、文字通り削り取られるように、生者の世界から脱落していった。

そしてとうとう山本長官までもが、そんな削り取られる一人となってしまった。――奥寺はその知らせを聞いた時、意識と思考がしばらく宙返りし続けた。死ぬのは最前線にいる自分が先だろうと、疑いもせず確信していた。それが、長官の方が先に逝ってしまうとは。

――その数日後、思いがけない連絡が、例の一緒に美女幽霊を目撃した従兵長からもたらされた。五十六の遺品が形見分けされ、その差配が従兵長に一任されたという。(五十六と共に多くの幕僚、副官達が死に、司令部は混乱を極めているようだった。)私室の机引き出しを調べたところ、遺書めいたものが見付かり、その中に形見分けのリストが綴られていたが、あの鏡台を奥寺に渡すよう、五十六が書き残していたというのだ。――そんな内容が平文で打電され、多分米軍も傍受していようが、いかなる意味の暗号かと、さぞ困惑していることだろう。――だが米軍以上に、奥寺は困惑を極めた。――あの鏡台を、俺にくれる?――何故?

たった一度しか、目にしていない鏡台。しかも、彼に気のあるように振る舞う陽気な幽霊の映し出される、摩訶不思議な鏡。

あの美女に再会したくもあるが、『翔鶴』と『武蔵』では数千キロも離れているし、万一うまく引き取れても、空母の狭い艦内に安心して置いておけるスペースはない。同僚達も気にするだろうし、冥土に一番近い場所に置いてせっかくの長官の品を道連れにしては申し訳ない。

五十六の遺骨と共に日本に帰還した『武蔵』から、鏡台も横須賀へ陸揚げし、自分の実家まで送り届けてくれまいかと、従兵長に依頼した。奥寺の実家は、広島市の中心部にあり、両親と姉が健在である。家の者が開封しないよう、しっかりと梱包し、但し書きを付けてくれるよう、重ねてお願いした。

――奥寺のギリギリの命のやり取りは、その後も続いた。削り落とされまいと、必死で耐えた。そんな毎日が、彼からあの女の事を思い出すゆとりを奪った。五十六が死んで一年後には、マリアナ沖海戦で乗艦『翔鶴』を失った。その後は、南方の基地を転々とした。大尉から少佐へと、昇進した。いよいよ米軍は、本土上空に襲来しつつあった。彼に呼び出しが掛かった。本土防空のため、特別飛行隊を編成するという。

 

源田實司令の呼び掛けで集められた精鋭は、紫電改という新鋭機を得、強力な布陣となった。しかし、大挙襲来する米軍に対抗するには、如何せん絶対数が少な過ぎた。奥寺らは、西日本の航空基地を移動しつつ、善戦した。

忙中閑あり。そんな命懸けの日々の中で、岩国基地に降り、休暇を捉まえて広島の実家に一時帰宅出来る機会を、遂に得た。

追い詰められた戦時下にもかかわらず、これでもかと御馳走攻めに遭わす母と姉の攻撃に耐え、父親の体力気力が続く限りとことん酒に付き合い、ようやく家族から開放されて、奥寺は自室で梱包された五十六の鏡台と再会した。

従兵長が彼の依頼通り律儀に厳重に梱包してくれた何重もの油紙を、彼はもどかしく強引に引き破いていった。

――女が、現われた。――その姿は、5年近く前に見掛けた時よりも、一層美しかった。より若く、華やいで見えた。

長い黒髪を弾ませ、女は鏡の向こうで、さも嬉しそうに、飛ぶように全身を躍動させている。そのくせ、顔だけは、鏡面にくっつけるようにして、離そうとしない。

不思議だった。女は、5年前より、明らかに若返っていた。――初めて出合った時は、二十代半ばの、艶っぽい美女だと思った。それが、今は、ハタチそこそこのはつらつとした美少女のようである。

奥寺は、改めて、自分が彼女に一目惚れしていた事を、自覚した。板子一枚の死地を転戦する毎日に、心の奥底にその気持ちを押し込め、思い出す事のないよう厳重に、悲壮で荒ぶる重しを載せ続けてきたのだ。

しかし女は、やがて足早に部屋から出ていった。名残惜しそうに、彼の方を見つつ、後ずさりして。強引で逃れようのない運命の力に、部屋の外から捉えられ、引き摺り出されるようにして。

――突然彼女が消え去り、しかし奥寺は、いつまでも、いつまでも、彼女が再び現れるのを待っていた。彼女がいなくなり、ポッカリ空いた鏡の向こうの空間を、見詰め続けていた。

そのままで、二、三十分もいただろうか。鏡の向こうに動くものは無く、奥寺もまた不動だった。

 

ようやく奥寺は、目を、鏡台の鏡の下に落とした。――そうだった。これは、ただの鏡ではなく、鏡台の一部なのだった。

引き出しが、上下二段付いていた。下段は錠付きで、引いても開かなかった。

上段引き出しには、茶封筒が一枚入っていた。中から、小さな鍵と、便箋が一枚出てきた。畳まれた便箋を開くと五十六の直筆で、『この鍵を、奥寺大尉に渡すように』とある。下段の、錠付き引き出しの鍵らしかった。閉まっていた錠を開け、中を確認した。――今度は、大分分厚い紙の束が、これも封筒に押し込められ、小物類の奥に潜ませてあった。

開封一番、『奥寺大尉。君がもしこの手紙を読んでいるのなら、私は既にこの世にいないのだろうな』とあった。五十六の覚悟の程を思わせた。『私が何故この鏡台を君に譲ったのか、随分不思議に思っていることと思う。それについて、これから話す。よく読んで、熟慮し、しっかりと対処策を考えて欲しい』――何かとんでもない事を、自分はこれから知ることになるのかもしれない。形見に亡き人を偲ぶなどという、そんなセンチな話とはかけ離れた重大事に巻き込まれる予感を、奥寺は持ち武者震いした。戦闘のための出撃とはまた違う闘志と興奮を、彼は心中に粛然と抱いた。

話は、五十六が鏡台を引き取ることとなった経緯から、始まった。従兵達が、鏡の中に女の死体や幽霊を見て、噂し合った事。自分もそれらを、つまり死体が幽霊を経て女に復活した様を、確認した事。その復活した女が、さも親しい旧知の者に出会ったように、自分に笑い掛けてきた事。それらの事が、書き物の冒頭、順を追って語られていた。

そして、――『女に見せられたのだ』五十六は伝えてきた。『数件の、新聞記事だった。――鏡文字となり、左右反対に映っていた。見出しなど、左から右に並んでいた。だが、かろうじて読めた。

一番大きな記事は、日本の敗戦を伝えていた。それは、昭和20年の8月だった。そして、その数日前、広島と長崎に相次いで新型爆弾が落ち、町が壊滅したという記事もあった。追加記事があり、それは『原子爆弾』と呼ばれるとのことだった。――君も、『空想科学小説』といった類の読み物で、読んだことがあるだろう。かのアインシュタイン博士が発見した法則を利用し、質量をエネルギーに変えるという究極の兵器だ。たった一発で、大艦隊を壊滅出来ると言われる代物だ。それを、米国は、広島と長崎の市中に落としたとある。(ここにか? 奥寺は瞬間、背筋が凍り付いた。)――最後の記事は、私の戦死を伝えるものだった。私は、昭和18年の4月、ソロモン諸島方面で死ぬらしい。死ぬ3年前に、その死期を予告された訳だ』

山本閣下は、何を言い出すのか。――先程の粛然とした覚悟が、早くも奥寺から吹き飛んでしまった。――この8月に、日本は負けるだと?

確かに五十六は、18年の4月、ブーゲンビル島上空で戦死した。――しかし五十六がこれを書いた時には、無論まだ彼は死んでいなかったし、この置き手紙を封印したのは今から2年程も前の筈だ。それで、日本の敗戦を予言するとは。本土空襲の続く今となっては、多くの者が薄々それを予感していようが。
『突然こんな事を言われても、君には到底信じられないだろうから、“証拠写真”を同封しておく。鏡の前で、露光を長くしたりと苦労して、何とか撮った。大分ピンボケだが、女と、新聞記事は、かろうじて見て取れるだろう。――この女とは、あるいは君も既に、この鏡面上で何度か出会っているかもしれないが』

紙の間に、写真が一枚挟み込まれていた。ひどく不鮮明だが、あの女と新聞記事らしきものが写っている事は、何とか分かる。(幽霊でも、写真に写るのだろうか?)記事の内容までは、到底判読不能だが。室内の薄暗がりの中で、必死で撮影したのだろう。
『当然私は、当初ある種の謀略ではないかと疑った。敵司令部の中枢を撹乱するための、手の込んだそれ、ではないかと』五十六は続けた。『だが、いくら鏡台を調べても、それらしき装置は発見されない。全ての引き出しを取り去り、中の厚みまで計ったが、スカスカだった。到底高度な機器を埋め込む事など不可能だ。

――私の困惑をよそに、女は次々驚くべき情報を伝えてきた。その殆どは、やはり新聞の切り抜きだったが。――鏡文字のそれらを、私は必死で読み取った。『真珠湾攻撃』『ミッドウェー海戦』『マリアナ沖海戦』『レイテ沖海戦』『沖縄防衛戦』等々。それらは、まだ始まってもいない対米英戦の戦況を、逐一伝えるものだった』

何か、予想もしていなかった方向に、話が向かいつつあると知り、奥寺は身震いした。美しい女の幽霊が現れるロマンチックな鏡、などという怪談では済まなくなってきた。大戦前に、その成り行きを山本閣下に告げていた、鏡の女? 一体、何者なのだ?
『これら戦況を伝える記事については、後に詳述する。――だがその前に、これら奇怪な現象そのものについて、私が考え至った推理を記しておきたい。ホームズばりの推理であると、自負している。

――普段女は、鏡に映っていない。向こうには向こうの生活があるということだろうか。女と鏡越しに出会うのは、ごく稀な、偶然の邂逅なのだ。では、女のいない時、鏡の向こうはどうなっているかというと、そこはごくありふれた民家の一室らしき座敷なのだ。(今、奥寺の目の前の鏡が映しているのも、まさにそんな座敷の一部屋だった。)鏡の前には、例の三つの記事、“敗戦”と、“原爆投下”と、“私の戦死”を伝えるそれを台紙に貼り付けたものが、鏡に面するよう立て掛けられていた。それとあと、目立つ場所に、日めくりカレンダーと置き時計が、常時映っていた。――そしてその時計を見詰める内、とんでもない事に気付いたのだ。時計の長針が、逆回りしていたのだ!(そこまで読んで奥寺は、目を上げ鏡の中の座敷を確認した。そこには確かに、カレンダーと時計があった。)

――鏡の向こうの“現在時刻”に重大な意味があると気付いた私は、その年月日、そして時刻を、逐一記録に取ることにした。そして、極めてシンプルな法則があることに気付いた。――ある時点を中心として、私のいる現実世界と、鏡の向こうの世界とが、時間的に等間隔だったのだ! つまり、こっちの時間が進むに連れて、向こうの時間は過去へと遡っていく。最初に見たのが女の死体で、それが徐々に蘇り、女は復活した。そのプロセスも、これなら容易に説明がつく。――さらに、その中心時刻が、20年8月6日の午前8時頃、つまり広島で原爆が炸裂した時点であることも、目の前に常にある新聞記事から、容易に割り出すことが出来た。

鏡の向こうは、敗戦後の日本だったのだ。それなら女が、戦争の成り行きを知っていて、それらの新聞記事を集められた事も、容易に説明がつく。――ただ、何故女がそうした行動を取ったのか。そんな、未来を予言する巫女のような行動を、それもわざわざ連合艦隊を指揮する私に向かって行ったのか、その謎は、いまだ残っていたが』

この鏡の向こうの座敷が、敗戦後の日本? にわかには信じられない真実の固まりが、奥寺の心にドスンと置き去りにされ、彼はその重さに石像のように固まってしまった。随分と長い間、――ただ目だけが鏡の中の時計の針を追い、それが長針で十五分間ほど逆進する時間である事を知らせていたが、――不動の困惑は続いた。

再び手紙を手に取ると、五十六の悩乱と迷走も続いていた。『負けると分かっている戦争を始めるバカはいない。と言いたいが、あの時の日本はそんなバカばかりだった、上も、下も。――といって勿論、勝てる戦争ならやってもいいと言っている訳ではない。そんな事を言い出す奴は、ただの与太者だ、人間性を疑われる。そういう奴を見るたび、嫌な気持ちになる。――つまりこの国には、そんなバカと与太者が溢れていたのだ。

真偽はともかく、ここまであからさまな“負け”の予言を受け取りながら、それでも開戦に踏み切るというのは、どうにも気の進まぬ事だが、時代の風圧はそれを許さなかった。無論、“敗戦”の根拠が、鏡に映った巫女の予言であるなどと訴えたところで、こちらの狂気を疑われるばかりだろう。たとえ現物を公開しても、つまらぬトリックと決め付けられて黙殺されるか、あるいは今度は世間の側を狂気に陥れる事となる。――無謀な対米英戦、予言が無くとも“負け”と容易に予想のつくそれに、嫌でも踏み切らねばならない。ならば、どうするか。せっかく提示された“予言”を、少しでも有効に活用する手立てはないものか。

――先の世界大戦以降、戦争は国民総力戦に変わった。それまでは、貴族のゲームのように、ただ軍隊だけが戦い、ギャンブラーがチップのやり取りをするように、こま切れの領土をやり取りするだけの戦いだった。それが、国民総力戦では、国民の総てが生き死にまで含めて戦いに参加し、相手がスッカラカンになるまで、つまり無条件降伏するまで、戦いは止まない。現代戦で、勝ち逃げは許されない。相手が破産するまで、とことんやる。――“国民総力戦”は、国民国家の末期症状、と言えるだろう。

――“親米派”とレッテルの貼られた私を、開戦時の最高司令官に据える“矛盾”を、国家のリーダー達はどう考えていたのだろうか。――だが、正直に告白すれば、私が“親米派”であったことは、かつて一度もなかった。“知米派”ではあったが、“親米派”ではなかったのだ。

私は、英国的知性、“秘めたる花”を好む英国人の感性に共感を抱く。その意味で、伝統的な日本帝国海軍の、気質の持ち主である。それ故、米国人の持つ、ある種の狂気、野蛮さを、蔑み、怖れていた。米国に長期滞在し、膨大な知識を蒐集しながら、自分でも不思議な程、親愛の情を抱けるアメリカ人は少なかった。

英国を“サイレント”と呼ぶなら、米国はそのサイレントの蓋が取れて噴き出した暴力的狂気の国民性を持つ。薄っぺらであけすけで、その薄い殻が破られるとすぐ暴力に走る。そんな恐怖を、私はアメリカに対し、長く抱いていた。(そしてそれは、二発の原爆で、現実に証明されてしまったようだ。)――つまりアメリカは、ギャンブルの相手にはならないということだ。ギャンブラーとしてのスマートさがない。というよりも、戦争も、国の経営も、カジノ側、胴元であり続けようとする国だ。運のいいギャンブラーか、胴元のカジノか、どちらかが“ツンツルテン”になるまで、勝負し続けようというのである。つまり、典型的な現代戦だ。そして、無限の資本力を持つカジノ側と、ギャンブラーとでは、いくらギャンブラーが天才的技量を誇っても、最後に勝つのはカジノ側と決まっている。

“狂気”には、“狂気”。――アメリカの狂気に対抗するため、私は奇想の参謀・黒島亀人の狂気をぶつけた。――彼の考案した、真珠湾攻撃という開戦劈頭の大博打に、賭けたのだ。

巫女の宣託が、私の背中を強く押した事は、言うまでもない。軍令部の反対を押し切ってこの作戦を強行したのも、この宣託あればこそだ。女のもたらした詳細な情報は、作戦の細部にまで及ぶ具体的なものだった。私は巫女の予言に沿って作戦が進むよう、黒島を強く指導した。彼の狂気は、理想通りの作戦を組み立ててくれた。

軍中枢は、南方方面を押さえての、持久戦を構想していた。何とも現実離れした夢想だ。無限の資本力を持つ胴元相手に、賭け続けようというのか。――南方の島々は、不沈空母である故に、幾らでも航空機を配備出来る。となれば後は、航空機とパイロットの限り無い増産と、それらの消耗戦ということになる。――空母以外に航空機を配備出来ぬ、無島の海路を突っ切って行くしかないのだ。それも、米国の新造空母が実戦投入され出す、二年以内に。

決して“勝ち逃げ”を許さぬ胴元が、それでも認めざるを得ない程の大損を、緒戦で被らせる事が出来るか。帝国海軍の全戦力を引き換えにしてでも、緒戦で大勝ちし、場合によってはハワイ占領まで踏み込む。そうして、開戦直後に、それなりの条件で和平条約を結ぶ。――つまり、勝ち運に乗る、ということだ。女の予言の限界を乗り越え、より以上の戦果を収める事で、私は歴史を、“敗戦”という史実を、塗り替えようと目論んだ。――それが叶わなければ、むしろ二年以内に全戦力を消耗し尽くした方が、日本のためには良かったのだ。そうなれば、最早戦う手段が無く、我が国は早期降伏せざるを得ない。本土が焦土と化し、二発の原爆を喰らう事も避けられた筈だ。――この戦争に、長期戦も、戦力の小出しも、あり得ない。一気に、勝つか負けるか、しか。そんな事は、最初から分かっていた。

――なのに、真珠湾攻撃の終局時、私の口を突いて出た言葉は、『帰ろう』だった。――南雲艦隊が半端な真珠湾空襲で攻撃を切り上げる事は、女の新聞記事で既に承知していた。その南雲艦隊を戦艦部隊の後続に従え、ハワイに再襲来する。戦艦の巨砲で敵基地に艦砲射撃を加え、取り逃がした米空母をも餌食にする。そこまでやらねば、私の“勝ち運に乗る”目論見は完遂しなかった。

それなのに、――私は、追撃を主張する参謀達の意見を抑え、『帰ろう』と、撤退を命令してしまった。そんな言葉が、思わず口からこぼれ出た。

“綺麗に、勝つ”。――ずっと育て上げ、鍛え上げてきた、帝国海軍の気質だった。――綺麗な一本を、相手から取る。負けた相手に、鞭打つような事はしない。むしろ、敗者はいたわる。

現代戦では、その逆がセオリーだというのに。敗者は、痛め付けられる時に徹底して痛め付け、敵のダメージをなるたけ大きくする。そうして、敵をスッカラカンの、無条件降伏に追い込む。

そんな分かり切った事が実行出来なかった結果、全てが女の予言通りとなってしまった。女の予言は成就された。――後日、新聞を飾った記事は、女の見せたものと寸分違わなかった。ただ、左右が逆なだけで』

あの真珠湾攻撃の裏に、こんな事情があったのか。奥寺も空母『飛龍』の搭乗員として参戦した、あの戦いの背後に。――やはり運命の力には、抗いようがないのか。それを知った五十六は、その後の悲劇の連鎖を、どう戦い抜こうとしたのか。自分は今後、どう戦えばいいのか。
『あるいはやはり、最初から“大賭け”しようとした手許が、縮こまってしまったのかも知れない。今回の相手は、大金持ちの胴元だというのに。無限の資材を注ぎ込み、勝つまで止めない相手なのだ。これははなから、ギャンブルではなかった。むしろ、一方的なリンチになる事は、目に見えていた。

私は今度こそ、女の予言を乗り越えると、固く心に誓った。間違えても、同じ新聞記事は書かせないと、女の両手で掲げた新聞を睨み付けた。――それは、ミッドウェー海戦の記事だった。

幸い、ミッドウェーにおける海戦も、真珠湾程の大勝ちではないが、我が方の有利で戦闘は終わると、新聞報道されていた。私はこれを好機と捉えた。如何なる作戦を以って、女の新聞記事を上回る戦果を上げるか、……』

あの大敗北を喫したミッドウェーの事を、長官は書いているんだよな。奥寺は訳が分からず、同じ所を何度も読み返した。『我が方の有利』? 『好機』?
『全艦隊を挙げての大作戦が始まった。空母部隊がミッドウェー近くに展開した。敵空母を索敵しつつ、ミッドウェー島の米軍飛行場を制圧した。陸軍の上陸部隊も迫っていた。

だが、――思わぬこととなった。――女の記事とは、まるで逆の結果となった。

女の予言に、足元をすくわれた。私はこの事態を、どう解釈したらいいのか、まるで見当がつかなかった。――だが、理解は、強制的に向こうからやってきた。――数日後の新聞記事は、女のそれと、やはり全く同じものだったのだ。――負けた事実は都合のいい内容に差し替える、捏造記事。――そんな姑息な欺瞞報道が始まったのだ。

――これはまた一方の、重大な事実を告げていた。――女の予言は、もはや役に立たない。虚偽報道を集めた新聞の切り抜きには、もはや何の価値もない。――実際、それ以降の不都合な事実は、全て欺瞞報道にすり換えられた。この巫女の告げる宣託とは、ただ運命の前に絶望せよ、という事なのか?

予言は、ミッドウェーより前は真実を告げていた。敗戦は、隠しても意味がない。原爆を始めとした本土空襲は、目撃者が多過ぎて隠しようがない。――とすれば、それらの間に挟まれた、“私本人の戦死”、はどうなのだろうか。

ミッドウェー戦以降、恐れていた消耗戦が、南方諸島方面で始まった。我が軍も、南方諸島に釘付けとなった。司令部はトラック島に移され、ラバウルが前線基地となった。連日、航空機と艦船と人員が、消耗していった。そして私は、吸い寄せられるように、死地に近付いていった。

実は今、私自身がラバウルにまで進出し、陣頭指揮を取る作戦が進行しつつある。予言された私の死地と死亡時刻に、否応なく引き寄せられつつある。さりとて、この航空大作戦を、司令長官自身が途中で投げ出す訳にはいくまい。定められた運命に逆らいつつも、お国のための御奉公を成し遂げる腹は、当然出来ている。

もしこの文を君が読んでいるのなら、やはり私は女の新聞記事の通り、ソロモン諸島方面で戦死したのだろう。あるいは私の死後の身に余る“国葬”などという待遇を撥ね付ける事が出来たら、待望の一発大逆転もあり得るのかも知れない。――幾度もチャンスがありながら、運命にとうとう勝てなかった哀れなギャンブラーを、笑ってくれたまえ』

五十六の死は、まるで自決するように、死の誘惑に駆られるように、ブーゲンビル島上空の一点に収斂していった。ガダルカナルを奪われ、ソロモン諸島第一線の将兵を見殺しにしてでも、戦線を引き下げざるを得ない。そこで、前線を訪問し、彼等に一足先に逝くと別れの挨拶を告げたのではないか、などと噂する者達もいた。しかし奥寺は、五十六は最後まで運命を変える意志を捨てていなかったと、信じたかった。自分もその遺志を継ぎたいと思った。それが五十六の言い残したかった事なのだと、そう思った。

 

広島に新型爆弾が落とされた翌々日、工藤美和子は広島市内に入った。――市街中心部に居を構える、本家親族の安否を確認するためである。

噂では既に聞いていたが、新型爆弾の威力は凄まじかった。広島市内は、一面灰燼に帰していた。ほとんどの障害物が取り払われ、遠くに地平線がよく見渡せた。完全に炭となった者、生焼けの者を取り混ぜ、焼死体がゴロゴロ転がっていた。美和子は目を八月の暑い空に向け、なるたけ地面を直視しないようにして、先を急いだ。

本家宅のあった筈の街区に近付いたが、やはり一面焼け野原で、到底生存者が居るとは思えなかった。目印になる物が残っておらず、区画割がさっぱり分からない。本家はこの辺りにあった筈だと検討を付けたが、家と家との境目すら判然としなかった。

途方に暮れて視線を上げた時だった。遠くの、何か光るものが、目に入ってきた。一面灰色の平坦な景色の中で、そこだけ、陽光を反射し、光が屹立していた。――魅入られたように、美和子はそれに吸い寄せられていった。

鏡だった。鏡が焼け跡に、一枚だけポツンと立っていた。どうやら元、鏡台の一部だったらしい。下の台の部分は、燃え落ちていた。鏡面には一面ヒビが入っていた。酷いヒビで、毛羽立ち、無数の凹凸が指先に当たった。だが、奇跡的に、破片同士がうまく噛み合い、その力が拮抗しているのか、鏡面に欠けた部分は無かった。――それが、強烈に、八月の光を反射していたのだ。(ただその時彼女は、光の入射角と反射角が妙にズレている事までは、気付かなかった。)

本家の形見ではないが、美和子はその鏡を何としても持ち帰りたいという衝動に駆られた。持参の布に包み、脇に抱えてみた。結構重量があったが、持ち運ぶ事が苦にはならなかった。

――父親は、そんな不吉なもの捨ててしまえ、と言う。そんな、誰の持ち物だったかも分からないようなものを持ち帰るなど、不謹慎も甚だしいと。――美和子は鏡の包みを、“離れ”の荷物の隙間に、こっそりと立て掛けた。布を取った。

――一人の軍服姿の男が、鏡の中に立っていた。

その軍人が、何故か親しげに、美和子ににこやかに笑い掛けてきたのだった。

彼女はあわてて、また布を下ろし、足早に離れを出た。

 

五十六の置き手紙は続いた。
『そろそろ、彼女について話すとしよう。君との関わりについても。――そうすれば、何故私がこの鏡台を君に託したのか、その理由も自ずと明らかとなる。

彼女の名は、工藤美和子、と言うそうだ。

初めて会った頃の彼女は、従兵達の噂の通り、まさに鬼気迫る怨霊のようだった。これから開戦すれば犠牲となるだろう無辜の国民数十数百万人を代表し、黄泉の国から、開戦最大の責任者の一人である私に、予言し、警告しているのではないか、私はそう思った。

新聞記事以外にも、彼女の大きな手書き文字が、表示される事があった。やはり、鏡文字だったが。――その最初のものは、――ということは、彼女にすれば最後のメッセージ、という事になるが、――つまり、死に際のそれは、――『出来れば、戦争はやめて欲しい』というものだった。

――無論それは、百も承知だ。――戦争の引き金を引く者の苦悩は、それを知らぬ庶民の、しばしば何万倍ともなるものだ。――無論、そういう苦悩を知らぬパラノイアどもが多いから、戦争は始まるのだが。私など、世界や日本のパラノイアどもに、ピンボールの玉の如く弾かれ弾かれ、遂に現在のような境遇にまで堕ちた態だ。(五十六は、結構人の好き嫌いの激しいタチで、ヒトラー的パラノイアは嫌いで、ムソリーニ的薄っぺらいパラノイアも嫌いで、スターリン的悪党も嫌いで、東條英機のような薄っぺらい口先だけの男は最も嫌っていた。)

先にも書いた通り、タコ壺に追い詰められたタコの如き私に、それ以上どんな抵抗が出来よう。私の取り得る行動は、戦争をなるたけ早く終結させる事、これに尽きた。だが、そのための目論みは、全て水泡に帰した訳だが。

――美和子さんは、戦争の経過とは別の、ある新聞記事も見せてくれた。『原爆病』の特集と、銘打たれていた。この新型の究極兵器の恐ろしい所は、炸裂の瞬間の大量殺戮に留まらず、まるで後遺症のようにして悲劇を後世まで引き摺り続ける事なのだ。人間の細胞の中核部分を破壊する毒素を放出し続けるらしいのだ。そのため、死を免れた者や、直接炸裂に立ち会わなかった者まで、何日も、何ヶ月も、あるいは何年も経ってから、不思議な病で死を迎える事となる。特に、戦後5年程も経過した頃には、“白血病”という形で死ぬ者が大勢出たそうだ。そして彼女も、自分は白血病を発症し、まもなく死ぬ身であると、告白した。

原爆投下の二日後、彼女は被災地に足を踏み入れたらしい。親戚の安否を確かめるために。そして焼け野原となった広島市街を、しばらく歩き回った。――たったそれだけのことで、原爆の不思議な毒素に犯されてしまうのだ。戦争が終わってからも、それが延々続く。何とも恐ろしい兵器だ。

戦後彼女は、会社勤めをしていたそうだ。一緒に暮らしていた父親は、戦後しばらくして他界した。そして被爆から5年程経過して、彼女もまた白血病を発症した。――ほとんどの場合、それは不治の病だった。病院に通ったが、要領を得なかった。予想していた通りだが、敗戦後日本はずっと戦勝国に占領されたままとなり、その統治を受けていた。つまり、独立国ではなかった。我が国は壊滅し、貧しさのどん底に落ち、そして国民は占領軍の監視下に置かれた。米国は原爆の秘密を隠そうとした。原爆に関するあらゆる資料を抱え込み、外へ漏らすまいとした。そのため、ただでさえ困難な治療が、原因の究明が出来ず、医学界は匙を投げたような状態だったそうだ。

最後には彼女は、治療を諦め、勤めも辞め、この鏡と見詰め合うようにして暮らしていた。家族も親族もいなくなり、世間との関わりもほとんど途絶えた。私の目にする彼女は、日々若返り、健康そのものになっていく。こんな若い娘が、不治の病の種を体内に埋め込まれているとは、想像だにつかない。不憫でならない。

彼女は、焼け跡を歩いた時、この鏡に出会ったそうだよ。爆心地で直撃を受け、ヒビだらけとなったが、何故か形は留めていたこの鏡に。そして、どうしてもそうせねばならぬという衝動に駆られて、これを持ち帰ったそうだ。

そこで、私は思い付いた。――原爆の直撃が、この鏡を変質させてしまったのではなかろうか、と。

得体の知れない、時を越えて像を映し合う鏡が、そんな風にして出来てしまったのではないか。人類が初めて経験する、悪魔の凶悪な鎚の一振りによって。

さらに推理する。私が連合艦隊司令長官に補された時、それが始まったのは、まさにその事によって原爆へと続く運命が決せられたからではないのか。だから、あの日から、ヒビは見えるがヒビの無い鏡と対面し続ける、毎日が始まったのでは、……。

だがこの推理は、同時に一つの希望ももたらす。――もし私の長官就任により、原爆へと続く運命が決まったのなら、別の何かの要因により、また別の運命が決められる。つまり、“運命は変えられる”、という事を意味しているからだ。――私の長官就任が、偶然とはいえ人為的なものである以上、その別の何かも、人為的なものであって構わない。我々が意志し、行動し、結果として生じた出来事であって、……。

当初、時の逆転現象に気付かぬ頃、私はあるもどかしさをしばしば感じていた。彼女が、こちらの思惑通りに、応答してくれなかったからだ。

私が鏡の垂れ幕を上げると、彼女は既にそこに居て新聞を掲げている。だが、私がしばらく読み進める内、突然彼女は新聞をたたんで、部屋から出て行ってしまうのだ。そういう事が、何度もあった。この女は何を考えているのだ、どういう意図でこんな事をするのだ、と少々苛立ちつついぶかしんだものだ。――だがこの鏡は、避けようもなくそうした現象を生むのだ。両世界の因果が、逆向きなのだから。彼女からすれば、彼女が新聞記事を見せている最中、突然私が鏡の垂れ幕を下ろしたように見えていた筈だ。――つまり鏡越しの出会いは、絶えず初対面であり続けるのだ。“因果”の“因”のシーンであり続け、決して“果”になる事はないのだ。

だが、こうした因果の逆転現象があること自体、運命の変更の可能性を証明している。悪魔の一撃に対し、人間が自らの運命を切り開けるよう、天のそっと降らし置いた希望のタネなのかも知れない、この鏡は。

――そうだった。彼女から聞いたのだが、君はこの後、少佐に昇進するのだな。おめでとう』

 

あの鏡の中の軍人について、美和子は考える。――あの人は、先の大戦で亡くなられた“英霊”だろうか。――この鏡の、元の持ち主の家の人、だったのだろうか。

どんな人、なのだろう。――男の背後は民家の室内のようだったが、あるいはあの焼け落ちた家の風景か。どんな人達が住んでいたのだろう。それとも焼け残った鏡が、元の主人の死を悼んで、その像を映し出しているのか。

寺に預けるなど、供養してやるべきだろうか。そんな事を考えながら、美和子はその夜、恐る恐るまた布をめくってみた。灯火管制が解けて久し振り明るくなった離れの鏡に、あの英霊はやはり立っていた。

相変わらず、何の屈託もないような笑顔で、親しげに彼女に笑い掛けてくる。こんな表情を見せる軍人など、今まで美和子は見た事がなかった。あたかも深い繋がりを持った、旧知の友、あるいはそれ以上の縁のある者、のような笑顔である。

まるで英霊に似つかわしくないそんな表情が、長期の耐乏生活と、広島市街の地獄図で、すさんだ彼女の心をホッとさせた。不思議なことだが、その幽霊と、しばらく互いに見詰め合っていたいという気持ちが、春の雪解けの清水が湧き出すように心を潤した。

――鏡面の下半分に、紙に書かれたメッセージがあった。あるいはあの初対面の時から、それは既にあったような気もする。妙にゴツゴツした、大人の書いたものとは思えない拙い文字で、それは綴られていた。
『やっと会えた』――突然、そんな文句から始まった。――『あなたは、工藤美和子さんですね』――彼女に、呼び掛けてきた。見知らぬ相手が、何故自分の名を……、美和子はいぶかしんだ。――『自分は、海軍航空隊所属、奥寺恵次少佐と申します』――律儀な英霊は、そう自己紹介した。

それに続く文章は、このヒビだらけの鏡について、説明調で書かれていた。――この鏡は、時を越え、鏡像を映し合うもので、だから今こちらではまだ戦争が続いていると、美和子にはよく分からない理屈が長々書き綴られていた。

だが、それに続くメッセージが、美和子の目を引いた。こう、書いてあった。
『君を救うために、これから原爆搭載機を撃ち落とすべく、出撃する。もし、二人とも無事だったら、また広島で会おう』

 

『その後の君のメッセージには、彼女への指示項目が、色々列挙されていたそうだ』五十六の書き置きは、終盤に差し掛かった。『鏡の前に日めくりカレンダーと時計を置いておくようにとか、いつ鏡越しに会えるか分からないから、伝言は常時鏡の前に立て掛けておくようにとか、そういう類だ。そして勿論、何年後かに私に会うことになるから、戦争関連の新聞記事を可能な限りかき集め、それを長官に見せてやって欲しいというのが、君のメッセージのメインだった。――君もやはりそのメッセージを、鏡の前に立て掛けてあったそうだ。不思議な英霊と彼女が会ったのは、その後ほんの一、二度だったようだが、メッセージの方は常時鏡に映り続けていた。だから彼女は、それを全て書き取る事が出来た。写したものを、私も見せてもらったよ』

自分はこれから、メッセージを書き、彼女に伝えるのか。奥寺の頭は混乱に拍車がかかった。どんなメッセージを伝えたらいいのだ? 彼女に依頼すべき事について、書くのか? 自分の心情や決意を、吐露するのか?
『妙なものだ。君が彼女に託し、彼女は私に託した。――すると今度は、私が君に託す番なのか?

輪を描くように、託し託され続けるに連れ、託し託される内容が、どんどん強く、かつ大きく、膨らんでいくように思えるのだ。――私は、託された事を、強く大きく膨らんだそれを、成し遂げようとし、残念ながら失敗した。――君は、どうするだろうか?――私に託された事を、どう決意し、どう実行するだろうか。

聡明な君のことだ。きっと見事に成し遂げることと思う。

死にゆく私だが、少しは何かの役に立ったのだろうか。

後を、託す。どうか、未来を切り開いてくれ』

五十六の遺書は終わった。

そして読み終わる頃には、奥寺の腹は決まっていた。

 

広島と、その三日後の長崎への原爆投下を、いかに阻止するか。奥寺は思案した。――原爆搭載機襲来の大まかな日時と、その編成、それに敵機の進入方位は、大体分かっている。

奥寺は防空迎撃隊の一部隊を任されていたが、自分の部下と、さらに他隊の仲間とから、信頼の置ける者を選び、有志とした。

彼女に読んで貰うための文章を、用意した。一度書いたものを、紙の裏側から墨で濃くなぞり、鏡文字とした。おかげで、ギザギザだらけの、酷い文字となった。――しかし、これで何とか、彼女にすんなり読んで貰えるだろう。

仲間達に、五十六の遺書を見せた。五十六とトラック島以来懇意の下田大尉、広川上飛曹、馬場一飛曹らは、五十六の直筆に触れ、涙を流した。可能な限りの説明を試みた。だがこれは、実物を見せねば、さすがにすんなり納得してもらえる出来事ではなかった。

そこで、岩国、あるいは呉での用務にかこつけ、幾人かを広島の実家に立ち寄らせ、例のヒビだらけの鏡を見せた。女は遂に現われなかったが、彼女が既に置いてくれた時計の針の逆進する様は、仲間に見せる事が出来た。

両親と姉には、一日も早く広島から市外に疎開するよう、強く勧告した。真実は教えなかったが、軍の極秘情報に基づく事だから、くれぐれも内密に、と念を押した。

勿論こんな怪談話、軍の上層部に具申したところで、信じてもらえる筈もない。よしんば信じる者がいたところで、到底それを自ら口に出す事は出来ないだろう。

だが、源田司令にだけは、五十六の遺書を見せた。源田は涙目となり、正式の下命は出来ないが、精一杯の便宜を図る、と約束してくれた。

米軍から見れば、もぐら叩きの要領だろう。基地の施設も航空機も、アッチをやられコッチを落とされ、各基地を転々と逃げ回りながらの反撃の日々が続いた。――それでも8月の始め、岩国と大村の基地に相当数の迎撃機を集結させる手筈は整った。

その後三、四度、美和子とは再会した。彼女は初めて会う“英霊”の姿に、びっくりし困惑しているようだった。それでも神妙な面持ちで、彼のメッセージを読んでくれた。――最後に会った時、すぐ幕を下ろされてしまったが、出撃直前の彼は、美和子に最後の別れを告げた。

岩国の基地司令は、そんな話聞いてないと、奥寺らの出撃を禁止した。四国方面に現われレーダーに捕まった敵機影は、ほんの数機だった。通常B29の編隊は、数百機単位である。数機の場合は偵察が任務だった。偵察部隊にまで、到底手は廻らない。――だが、整備兵にも補給兵にも、源田の息が掛かっていた。司令の制止を無視し、奥寺らは基地を飛び立った。

風防の下遠くに、夜の明けなんとする広島の街を見下ろしつつ、奥寺は思った。『ミッドウェー以降、欺瞞報道の可能性大。注意を要す』の但し書きを、山本閣下に必ず伝えてくれるよう、美和子にはしつこく念を押した。これで、山本長官の判断は、より良い方へ修正されるだろう。歴史は、長官の望むように、少しは変わるだろうか。

同様に、彼の思惑の通り、原爆搭載機が撃墜されれば、歴史は大きく変わる。広島や長崎は救われようが、それが果たして日本にとって、吉と出るか凶と出るか、結果は分からない。――それに、鏡自体が変質しなくなり、――美和子は奥寺を、知ることはなくなる。――あるいは奥寺自身、美和子の記憶が消えてしまうかもしれない。

果たして再び、美和子と会うことは、出来るのだろうか?

――だが、かまうまい。――と奥寺は、迷いを振り払い、強く意を固めた。――この一撃が、美和子を救い、彼女の前に新しい未来を開く事だけは、確かなのだ。――その後の事は、思っても仕方がない。その後、自分も、美和子も、また力強く生きてゆくことだろう。

そう思い定め、奥寺少佐は、後続機編隊に、付いてくるよう合図を送った。そして機首を、南東方四国方面へと向けた。

 

 

 

第四話 図書館の鏡

 

 

鏡は、恐ろしい。

(その鏡を恐れ、人はそれを割ってしまうのかもしれないが、)

割れて散り散りになり、多くの破片となった鏡は、もっと恐ろしい。

 

 

ソリの合わない上司に命じられ、勤務時間後大量の本を、地下の書庫に運び入れ、所定の場所へ納めることとなった。

気が重くなる。今日は、クリスマス・イブで、スサーナと会う約束があったのだが、これでは8時までの帰宅は到底無理だろう。同僚達は既に、何でこんな大事な日が祝日に当てられていないんだと、ブツブツ文句を垂れながらも、足早に家路を急いでいる。

上司のアエードは、私を何かと目の敵にし、つらく当たってくる。他の三下の同僚達は私の正体に気付いていないが、アエードは、上の方から言われたのか、私の立ち位置に気付き、これが彼流の判断と生理的反応なのだろう、私をいろいろな意味で“特別扱い”する。

搬入された大量の本の山を、呆然として眺めた。エレベーターも無いこの地区図書館のせまく古びた階段を、両腕に抱えられるだけの本を持って、何往復しなければならないのか。既に図書カードの書き出しと、分類シール貼りは終わっていて、それがせめてもの救いだが。

それに、地下への階段と、その先の通路、――そこを、歩きたくないのだ。――私だけではない、館員のほぼ皆が、そうするのを嫌っていた。この図書館の、“鬼門”なのだった。

その通路の突き当たりに、あの“鏡”があったからだ。その階段を下り短い通路を歩くと、嫌でもその鏡と対面せざるを得ない。――人や宇宙を映し、その数を増やす鏡は、おぞましい。だが、何も映さぬ鏡は、もっとおぞましい。――その鏡には、通路や階段は映っているのに、そこを通る人や物は映らなかったのだ!

そんなこともあるのだろう。アエードは嫌がらせに、ことさら地下書庫関連の仕事を私に割り振ってきた。――暗い階段を下りるたび、鏡の中の自分に見返されるのも不気味だが、映るべきものが映っていない鏡を見ざるを得ないのは、もっと不気味だ。――私は、鏡に映る資格も無い、透明人間のようなものなのだろうか。ただの調度とは言い難い鏡という存在は、元々私にとって忌むべきものだが、この時期私の鏡嫌いはますます拍車がかかった。――いつも変わらず通路と階段しか映さない鏡だったが、私は日々なるたけそれが目に入らぬよう避けながら、通り過ぎることにしていた。

その晩もまた、そいつが目に入らぬよう、ソッポを向いて階段を下りていった。地下は暗いし、両腕に目一杯本を抱えて、真下を見ることも出来ない。手すりと足元の間の踏み板を横目で確認しながら、一歩一歩慎重に下りていった。

 

――その時、見たのだ。鏡に、人の姿が映っているのを。――

老人だった。――杖にもたれ、鏡の向こうに立っていた。――年齢は、80歳ぐらいだろうか。立ったまま、ピクリとも動かなかった。――よく見ると、どうやら目が悪いようだ、全盲かもしれない。上等そうな上下の背広を着、胸に何か金色のメダルのようなものをぶら下げている。――この幽霊のような男の姿に恐怖を抱きながらも、私は階段の上で体を横に捻り、その金のメダルをもっとよく見ようと目を近付けた。メダルの横の胸ポケットに付けられた、男のネームプレートの方が先に目に入ってきた。鏡文字で、こうあった。『国立図書館長 J.L.ボルヘス』

 

後で聞いたところでは、私は階段から転落し、鏡に激突したそうだ。〔五十六の愛人の鏡にヒビが入るおよそ八ヶ月前、地球の丁度真裏で、もう一枚の鏡が割れていた。(編者付記)〕多分あの老人姿の幻影のせいで、注意が散漫となりバランスを失い、階段から転げ落ちたのだろう。割れた鏡が、頭部に深い傷を負わせた。私は気を失い、その後発見され病院に搬送されたが、敗血症のため丸一ヶ月間意識が戻らなかった。

――その間、私は長い長い夢を、見ていたようだ。

夢の中で私は、奇跡的にその致命傷の事故から回復し、生き返ったような高揚感に急かされ燃えるごとき創作意欲に身を焦がす。惨めな図書館勤めを続けながら、その傍ら、短編小説や、詩や、評論を、次々書き上げていく。やがてそれらは、ヨーロッパで翻訳され、認められ、私の名を世界の潮流の頂点へと押し上げていった。――私は、図書館員を退職し、専業作家となり、大学教授となり、世界を巡る講演旅行に出た。世界は私を快く迎えてくれ、というより熱烈に大歓迎し、――やがて私の文学は、ノーベル賞の栄誉に輝くこととなった。――その時、気付いた。あの老人のぶら下げていた金のメダルは、ノーベル文学賞のそれだったのだ。そして今の自分が、あの時の老人の姿にそっくりだということにも、気付いた。そして、気付いた途端、私は盲目となっていた。――私の父もそうだったが、視力が衰えていくのは、わが家系の宿病である。私にもその時が来たと、静かに諦めた。

やがて、世界中に鳴り渡る名声の中、90歳に近い私は最後の時を迎えた。よき理解者であった妻に見送られ、ジュネーブで満足のいく生涯を閉じた。

 

そんな輝かしい後半生の夢から目覚めた私には、まだ遥かに未踏の後半生が、そっくりそのまま残っていた。

アエードが、枕元で言った。「生死の淵から戻って来たばかりの君には気の毒だが、――過失を犯したのは君だ、ボルヘス君。あの鏡は図書館の備品だからね。ちゃんと弁償して、引き取ってもらうよ」

そう言うと、足元に置いた重そうな麻袋の口を、少し持ち上げた。中で、ガチャガチャと、ガラスの擦れるような音がした。あの、私に生死の境をふらつかせ、甘美な後半生の夢を見させた不気味な鏡が、今は粉々になってその袋の中に納まっているらしい。

備品代は大したことなかったが(帳簿上もずいぶん古い鏡だったようで、インフレ前の値段だった。購入当時は、結構な値段だったのかもしれないが。)、そういういわく付きのものがどこか宿命的に私の元へ這い寄って来たことが、そして私の私有物となってしまったことが、どうにも呪わしく、運命と、そして神だか悪魔だかに、悪態をついた。

 

退院し自宅に戻った私は、しばらくの間その袋を、書斎の壁と書棚の間に押し込め、放っておいた。だが、やはりその時は来た。ある晩、ついに意を決し、ズシリと重い麻袋の口を開け、その中から、注意深く慎重に、鏡の破片の一片一片を、指先で摘み、取り出し、書斎の机の上に並べていった。

――大変な事が、起こっていた!――

破片の一片一片が、何物かを映し込んでいたのだ。

机上中央やや右に置かれた最大の破片は、どこかの教会の石段を映していた。斜めに破片の縁から覗き込むと、石段の上の高い尖塔、その先端の十字架と青い空が見えた。

その左に並べられたブリテン島に似た形の破片は、遠浅の明るい海底と魚達を映し取っていた。ほの青い光と影を交互に折り返しながら、色とりどりの魚達は、互いに戯れ、口先で興味深げに鏡面を突付き、こっちを見詰めてきた。

その周囲の右上の破片は、何十種類ものジャム類と蜂蜜類のビンの並ぶ棚だった。右下のそれは、どこかの町の繁華街の風景だった。大勢の人々がたむろし、てんでの活動をしていた。

左下のそれには、どこか熱帯の密林の、樹冠の広がる眺めが映っていた。左上の鏡面は、真の闇の中に多くの星々を映していた。その星々は、瞬いていなかった。つまり、真空の宇宙空間からの眺めである。

中央右上では、ラクダを停めた遊牧民らしい男が、しわの間につぶれそうな笑い顔を作りながら、一切れのナンと乾燥チーズを口に運んでいた。その左では、東洋人らしい見知らぬ女が、赤い毛布を股にはさんだ寝乱れた姿を晒していた。

教会の石段の右には、漢字で埋め尽くされたポスターがあった。海底の魚達の左では、アラビア文字で彩られたネオンサインがスークの入り口で瞬いていた。繁華街と密林の間では、ニューズウィーク誌がシャム文字で貿易の自由化に関する議論を戦わせていた。

さらに、小さな破片を次々、並べていく。――破片の多くは、何も映していなかった。また多くに、空が映っていた。青空、曇天、雨粒。雲、雲、あらゆる形の雲。――また人も、多く映っていた。女、男、子供、老人。ヨーロッパ人、西アジア人、東アジア人、アフリカ人。賢そうな者、惚けてそうな者。金持ち、貧乏人。幸福そうな人、不幸そうな人。

1センチ四方にも満たないような極小さな破片にも、見事にそれぞれの宇宙が映し込まれていた。

豪雪により、今にも埋もれようとしている家。アウトバーンを走り、都市内を縫い、森を抜ける、疾走する風景。鏡をよじ登っていく、アリの大集団。林立する摩天楼の間を(ニューヨークではないようだ)、縫うように飛び交う、多数のスリッパのような格好をした妙な飛行物体。戦場跡らしい、多くの死体の転がる荒廃した焼け野原。見覚えのある、首筋にハートマークのあざのある(多分私の)背中。ピンポン玉を正確に弾き返す動作を延々繰り返すロボット。ナイフをちらつかせながら、威嚇し合う二人のコンパードレ(与太者)のクツの裏。

――物を映さぬ筈の鏡が、これほど賑やかに、あでやかに、まるで宇宙をコラージュする如く、世界の万物を映すとは、どうしたことか?!(ただし、目の前のものを映さないのは相変わらずで、それ以外の、そこには無い何か、を映し込んでいるのだが)――

一つの、小説の着想が訪れた。――世界の万物を映す鏡。――これを主題とした創作の、可能性は無いものだろうか。ある一枚の鏡をフイと見る、あるいは瞬間見入らされてしまう、それだけで、――世界の悉くを見尽くす、『神の視座』に、強制的に座らされることとなる、……。

これらの破片は、元々一枚の鏡である。ならば、その一枚に、これらの全てが、本来映り込んでいたのではないか?――あまりに映り過ぎていて、私達には何も映っていないように見えていたのでは?――多分、全てを映している時、それを見た我々には、その“全て”を見ることは不可能なのだ。だから逆に、何も見えない。“無い状態”しか、目に入ってこないのだ。――ならばもし、その不可能が可能となったら、全てが見えたら、どんなことになるのだろうか。

――私は破片の一つを手に取り、空中にかざして、あちこち角度を変えながら、珊瑚と海草の間で遊ぶ魚達をいろいろな方向から楽しんだ。魚達は楽しげに遊んでいるように見えながら、実は珊瑚のねぐらを巡って壮絶な勢力争いをしているようだ。実に、興味深い。――が、ある位置に鏡を持ってきた時、突如楽しげな薄青い海底が消え、波々と広がる一面の小麦畑の大海原が取って代わった!――そして、魚達の楽園は、もう二度と戻って来なかった。

何が起こったのか。――私はその破片をさらに動かし……、また別の破片でも、同じことを試してみた。――多くの破片は、変化しなかった。変わらぬ景色を映し続け、ただその映る像の角度が変わるだけである。――だが、数片、小麦畑と同じように、劇的に変わったものがあった。――コンパードレ達が、眩く輝く宝石達に変わった。万華鏡の内側に入ったように、間近で爆発する光は、多分誰かの宝石箱の中をそのまま映しているのだろう。密林の樹冠が、夜の街灯の点描に変わった。道路か、公園か、その描く図形は黄金比の対数螺旋を浮かび上がらせている。ピンポン玉のロボットが、出撃前のテロリストに変わった。覆面の男は、これから世界に恐怖を振り撒こうと、爆弾と小銃の点検に余念が無い。――こうした変化は一体、鏡のどういうシカケによるものなのだろうか。

スークの入り口を飾るネオンサインが丁度机上を映す位置に向いた時、これまでにも増して、とんでもない事が起こった。――まさにその鏡面と対面している、机上の様子が映ったのだ!――ただし、そのいびつに限られたかけらの中に映ったのは、普通の鏡ならば映す筈の仲間の破片達とそこに映る景色ではなく、――一束の原稿だった。

 

その見覚えのない原稿を、私は視力のありったけを集中し、凝視した。――何しろ破片は小さく、反射された綴りは鏡文字である。上手く角度をつけないと全体を見渡すことは出来ないし、とにかく読みづらく、目が疲れる。そして勿論、机上に実物が存在しないのだから、上手く検討をつけて鏡越しに覗くという芸当は、至難の業だった。

原稿の用紙そのものは、いつも自分が使っているそれである。そして筆跡も、間違いようもなく私のものである。――だが、書かれている内容は、未知のものだった。自分が書いた、という自覚が無い。

――しかし、――そうではなかった。――読み進める内、大理石から彫像の形が彫り出されるように、確かにこれは私が書いた作品だったという記憶が、フツフツと沸き立ってきた。

――では、いつ書いたのか?――そうだ。夢の中でだ。負傷から回復した自分が、この部屋で、この机を前にして、書いたのだった。40年以上も、昔のことだ。

――ならば、まだ書いていないのか? それとも、もう書いたのか?――現物の、完成された原稿は、この世界に存在しない。だが、書いた、書き上げたという経験は、私の中にある。

この、今鏡に映っている書きかけの作品は、どういう作品だったろうか。――鏡文字の文章を追いつつ、詳細に思い出す。――そうだった。まさにこれ、先程着想した、あの『神の視座』、世界の万物を映す奇跡、の話だった。先程のあれは、着想ではなく、思い出されるべき夢の記憶の一部が、先行したものだったのだ。

机上の破片を脇によけて、中央に原稿を置くスペースを造る。そして、書き始めた。――思い出し、思い出し、書く。――不思議な、創作だった。不思議な、体験だった。――思い付き、思い付き、創作するのではなく、思い出し、思い出し、創作するのである。――これは、本当に創作といえるのだろうか。本当に、私の作品といえるのだろうか。

しかし、こうした疑念とはまるで無関係なことのように、私の一連の作業は一夜の内に終了した。書かれた奇跡的な短編は、友人の主催する文芸誌に掲載された。

 

他の幾つかの破片でも、同じ事が起こった。やはり机上に欠けた鏡面を向けると、書きかけの原稿が映る。それらを読み進める内、40年以上前の、夢の中の記憶が思い出されてきた。

復帰後二作目に書いた作品は、まさしくこの不思議な体験、“思い付いての創作”と“思い出しての創作”の関係を、扱ったものとなった。――過去の、文学史上に残る著名な作品を、現代の創作者が、思い付きながら、あるいは思い出しながら、そっくりそのままの形で、一字一句たがわず、創作し直す、そんな話である。私の実体験から、産み落とされたものだ。

40年以上前の燃えるような創作意欲が、フツフツと沸き返ってくるようだった。私は猛烈な勢いで、幾つもの作品を世に送り出した。その全てが、40年前の作品をリメークしたものだ。おかげで、鏡文字の判読にかけては、ダビンチにでもなったような気分だった。

ある話は、あらゆるバリエーションの文字列を包含する書物が(その文字列そのものは、まるで無意味だったが)、満載された図書館、についてのものだった。この空想上の至極の図書館は、勤め先の陳腐なそれをベースに構築された。当初私は、この図書館の大きさを実測してみた。恒星系間空間ぐらいの大きさで収まるだろうと、軽い気持ちで試みに計算してみたのだ。しかし結果は、我々の宇宙の現在知られている大きさの10の61万乗倍を超えた。私はこの実測値の記載を控えた。

ある物語は、どんな認知内容も忘れることが出来ず、そのため一瞬の出来事を無限のことのように記憶に溜め込んでしまう男について語っていた。無限のものを、有限の数で暗示するには、カタログ化する技法を使えばある種の効果が挙げられることを、私は知っていた。多くの破片達がそれを教えてくれた、とも思えるし、それ以前に私は既にその技法を何度も使った実績がある、とも思える。

また、バビロンの神殿奥の鏡は、神官達に運命の万華鏡を夢見させた。神官達は、自らがミキサーの具材に過ぎないことを悟った。

そしてまたある幻想は、古代ローマの将軍を、不死とし、自らホメロスとなっておのが運命を詠わせ、ついにはその不死を癒した。そうだった。彼は、不死を運命付けられた者達の都で、この世界が在ってはならないことを知るのだった。(正確には、在っても無くても、どっちでもいいんだが。)

ある人物が、夢の中で創造される。詳細に、入念に、練り上げられる。やがてその人物は一人立ちし、自らの見る夢の中で、自らのアダムを捏ね上げる。――としたら、最初に夢見ていた者も、誰かの夢の中のアダムだったのだろうか。――創造という、夢の中の夢の“入れ子”。そんな物語も、かつて書かれた。

創造という夢。創造する鏡。鏡の中の自分という入れ子。どっちが本体でどっちが鏡像か。今の自分が本物で、図書館で働いている自分は、夢の中のそれか。それとも、その逆か。何時しか自分が、そうした鏡の一つの中にいて、今自分がそうしているように鏡越しに見られている。―― 夢の入れ子、鏡の入れ子。それが、円環している。つまり、グルリと廻って、つながっている。トーラスのドーナツ状に。鏡に映る夢の中で、自分の人生は、グルグル廻って永劫回帰している。

これもまた、自分の経験を忠実になぞった作品だったが、好評を博した。

 

数ヶ月ぶりに復帰したブエノスアイレスの地区図書館は、相変わらずの下卑た職場だった。政治的人気取りのため、支持者に公職と生活費を分配する目的で造られたその図書館では、相変わらず書物にはかけらほども興味のない館員達が、毎日を競馬とサッカーの話題で潰し、猥談と巷のギャング達の英雄談義に明け暮れていた。

鏡の無くなった地下書庫は、今までよりずっと居心地のいい場所になっていた。人の寄り付かない、書庫の隣の準備室に閉じ籠って、私は暇潰しの詩作に耽った。ハードカバーを周囲に立て掛け作業しているフリをすれば、サボリの口実も成り立とうというものだ。

試みに、自宅から数片の破片を持ち込み、ここでも作業机の上を映してみた。――予想外というべきか、予想していた通りというべきか、――書庫の本に囲まれた作業机の上にも、書きかけの原稿の束があった。

ある、人目を忍んでの暇潰しは、私に、神の呪文と奇跡の到来を告げた。とある新大陸の神官の執念深い探求が、それを実現させたのだった。

ある、トトカルチョのしつこい勧誘から逃れるための残務処理は、思い出すに連れ、私を仰天させた。“心の焦点”が一つのものから離れなくなる病について書かれたものだが、これは、“恋”の隠喩だろうか?

またある、同僚の陰口に耳を塞ぐための夢想への没入は、百科事典により構築された架空の天体の夢を、私に見させた。

――あるいはこれらの原稿は、未来において書かれるべきものが、あらかじめ映ったのではなかろうか。自宅の書斎においても、この準備室においても、現に書いている、あるいはこれから書こうとしている原稿が、あらかじめ鏡の中だけに映ったのでは。

実は、面白い現象に気付いていた。――雪の中に埋もれようとしていた家。白一色の景色の中で、鏡の上下も分からなかったのだが、屋根の煙突のありかをよく見ると、――雪は、天に向かって登っていたのだ!――鏡によじ登り越えていく、アリの大群。首が、尻の上に付いていた。つまり、大きなアリの群が丸ごと、退却する行軍をしていたのだ。――アウトバーンを疾走する風景。道路の左側を走っていた。初めは英連邦か日本の道なのだろうと思っていたのだが、街中に入った途端、十字路の信号が正面にないことに気付いた。それは、道の逆サイドにあった。しかもしばしば、疾走する何者かは、赤信号を無視しそれに突っ込んでいった。(それ以前に、信号の色の変わる順番が、ふざけていた。“赤”の次に、“黄”になるのである。)――多分、フィルムの逆回しを見せられているのだろうと、推理した。車は前進しているのではなく、車体後部から後退する様を捉えているのだ。それを、逆回しで、見ていたのだ。(飛行するスリッパは、どっちが前でどっちが後ろか、判然としなかったが。)――そして、人々。繁華街の群衆や、個々の垣間見える、人々。彼等の多くが、移動する時、後ろ歩きをしていた! 普通に前に向かって歩く人間は、極々少数派だった。それも、群衆の中で押し合いなどしている時、たまたま数歩仕方なく歩く程度の頻度である。これは、決定的だった!――鏡の向こうの世界では、時間が逆向きに流れている。つまり、向こうの世界は、今と同時刻ではない。別の時間を、それも逆向きに、刻んでいる!

まだ書かれていない原稿。今の世界には存在しない、ロボットや飛行物体やガラス張りの超高層ビル群。そして、40年程も後の、多分“私”。――破片の内の少なくとも何割かは、別の時間、それも“未来”の出来事を映している。あの、鏡の中に立っていた老人は、やはり私の未来の姿だったのか。既に夢の中の生涯では、その自覚があった。後半生を生きおおせ、生涯の果てにたどり着いた自分は、やはりあの時鏡の中に見た老人だったと。――既に、ネームプレートの名を見た時、その疑いは感じていた。それでは私は、『国立図書館長』となり、ノーベル賞を受け、功成り名遂げて、再度この場末の図書館であの鏡の前に立つのか。(もっともこの現実の世界には、最早我が老醜を映すべき鏡は存在しないが)

 

自宅の書斎で、そして一部は勤め先の図書館で、私は自分の生涯の代表作となる短編小説群、詩、評論の数々を、次々書き上げていった。――いや、書き上げ直していった。

書き上げ直しながら、強い疑問と罪悪感に囚われ続けた。――これらは本当に、“私の作品”なのだろうか。それとも他人(夢の中の、あるいは鏡の中の、もう一人の私)の作品を、剽窃もしくは盗作しているのだろうか。

いくら盗作しようと、誰にも咎められることは無い。まだ世に出ていない作品なのだから。それに、夢の中で一度創作されたという事は、すなわち私の無意識が成し遂げた成果、と捉えるのが現代風の解釈だろう。(その意味では、これは私の心の奥底を暴く鏡、だとも言える)ならば、私の無意識は私の一部であるのだから、私が著作権・所有権を主張することに、何の差し障りがあろう。

――と、理屈ではそうなる筈だし、世間もそれで納得する筈なのだが、――しかし私は、――自らが納得出来ないでいた。――夢の中で別の人生を歩み、鏡の中の老人の姿に至ったもう一人の私は、やはり私自身ではない。そう確信されて、回避のしようがなかったのだ。

 

私の代表作となるだろう作品群(もしかすると、鏡のもたらす運命のループが紡ぎ出したそれら)は、世に浸透するにつれ爆発的な熱量を発し、抗いようもなく私の名を高めた。ヨーロッパで北米で翻訳され、世界が私の存在に気付き、振り向き、注目せざるを得なくなった。

それに反比例するように、自国内での、独裁的権力者の、官僚組織の、図書館長の、上司アエードの、私への圧力、嫌がらせは、日増しにその濃度を増していった。アエードの呟く嫌味、同僚からのしつこい嫌がらせの毎日で、最早図書館内に隠れ家的安住の地はなくなった。とどめは、国家の巨魁から賜った、昇進の栄誉だった。市場の動物検査官への、私の栄転を知らせる辞令を受け取った。私は即日、退官した。

私が重篤となったあの事故から、地区図書館を(辞表を叩き付けるようにして)辞めるまでの7、8年間、一連の不可思議な現象は、我が家の書斎の、父親譲りの重厚なマホガニー製デスクの天板上で起こり続けた。――映された作品を書き上げ終えると、途端に破片は別のものを映し始めた。どの鏡も、どの鏡も、まるで脱稿の途端、もうその作品には何等の興味もない、とでも言いたげに。その後も破片達は、相変わらず世界の、宇宙の、森羅万象を映し続けている。だがその中に、私個人に関わるものが映る事は、最早なかった。奇跡のような、創作の嵐の季節は、鳴りを潜めた。

図書館の仕事を辞めたのに、私はそれまでの何倍も忙しくなった。――あちこちの大学の授業を、掛け持ちで担わされた。おまけに、特別講義をわずかな隙間にでも突っ込もうと、エージェント達が鵜の目鷹の目で私の私生活のあら探しをした。世界中を飛び回る講演旅行のスケジュールが、5年先まで組まれた。

発言を求められた。未来の文学について。最先端の文化について。世界情勢について。その他、その他。――コメントする。世界の読者の半数と、評論家達と、ノーベル文学賞選考委員達を怒らせるような内容を。そしてまた、コメントする。世界の読者の半数と、評論家達と、ノーベル文学賞選考委員達を酔わせるような内容を。

実は、ノーベル賞を受けたくなかったのだ。あの鏡に映った老人に、そっくりそのまま自分がなってしまうことを、私は恐れた。あの、誇らしげに、あるいは強制に屈して、最高の栄誉を勲章替わりに胸にぶら下げてあちこち練り歩くような、ぶざまな姿には。だから、偏屈な老人を装い、ノーベル賞選考委員達が嫌いそうなこと、――人種差別をやんわり匂わすような発言をするとか、南米隣国の独裁者の招きに応じるとか、ヨーロッパの貴族趣味的教養をちらつかせスノッブさをアピールするとか、――をわざとやった。これらが功を奏したのか、私のノーベル賞受賞は、候補にのぼるたび、流れに流れた。

夢の中の私は、ジュネーブで最期を迎えた。だから、ジュネーブには足を向けなかった。少年の頃過ごした、気に入りの都市だったのだが。

また、かつてはあれほど熱心に覗き込んだ鏡のカケラ達が、目に留まることも嫌った。再び麻袋に戻し、書斎の人目に付かぬ奥の奥に押し込んだ。あれを見ると、自らを剽窃した過去を、思い起こさせる。それに、かつては(重傷を負わせた償いのように)私を助け導いてくれた彼等だが、今度再会した時は、(私の後半生を輝かしいものにした、その代価、負債を取り立てるように)私の内面のどこまでも暗いものを暴き出す(何しろあの鏡は、私の心の奥の奥を、剥き出しにする装置なのだから)(そして、それを元に、また新しい作品を書けと、効し難く迫ってくる)、そんな気がしてならなかったのだ。――だから、私は急速に進行しつつある視力の喪失を、まるで恐れなかった。というよりむしろ、待ち望んでいた。これでもう、永久に、彼等を見ずに済むのだから。

こうして、運命の正確なループを回避しようと目論んでいた私だったが、――国立図書館長への就任という運命は、避け難くやって来た。――独裁者が倒れ、その反動のように、私を持ち上げ(あわよくば、私を利用し)ようという機運が、国中で高まったのだ。その流れは抗い難く、私は役職を示すネームプレートを付け、中央図書館の館長室で執務を執ることとなった。そして傘下の地方図書館を視察するため公用車に乗せられた。

――かの地区図書館に到着した私は、あの地下書庫へと下る階段を下りてみた。私に付き従う館員の中に、アエードもいた。(彼はあの後、副図書館長にまで上り詰め、その後定年退職して今は非常勤として相変わらずこの図書館に居座り続けているようだ)彼がどのような表情を浮かべて私に付き従っているのか、殆ど盲目となった今の私には窺い知ることは出来ないが。――階段を下りた通路で杖を頼りに立ち止まった私の前に、しかしあの私を映すべき鏡はもはやなかった。(もっともあの鏡は、もしあったとしても、私の姿を映しはしなかっただろうが。)

――今私は、鏡の破片の詰まった袋を、永久に人の目に触れぬよう、厳重に封印し隠しおおす積りである。何故なら、こんな、現物の『アレフ』ともいうべき物騒なものが、人間社会に知られ、出廻るなど、考えただけでも恐怖で頭も心も凍り付きそうだし、――それに、それにも増して、私の過去の『盗作』の証拠を、この世に残しておきたくないのだ。私は、後ろめたい“創作の秘密”を隠蔽するため、これらの鏡の破片を、永久に封印する。

この告白の一文は、せめてもの罪滅ぼしに、後の世に残す。だが、あれら鏡の破片が再び人の目に触れる事は、今後永久にないだろう、と固く断言し、人生最後の筆を置くこととする。

 

 

以上が、かの大作家J.L.ボルヘスが、最晩年に残した手記である。(もちろん、傍にいた誰かに、口述筆記させたものだろう)

巨匠の死後30年以上も経過した後、旅の果てに息を引き取ったブエノスアイレスの自宅の、書斎デスクの鍵付き引き出し最奥から、これは見付かった。長い間その鍵のありかが不明だったため、発見が遅れたようだ。

原稿は丈夫な麻の封筒に収められ、法定相続人がおもむろに封を開くと、偉大な作家の迷路の中にトラが印刷された便箋に、角張った緻密な文字で上記の物語が綴られていた。(盲目のボルヘスの、始原の虚空に見当を付けたような走り書きのサインにより、彼本人の文章であることは証明されている。)

さてここで、まず気にかかるのは、――かの大作家の遺産を、物質的あるいは精神的に引き継いだ人々にとっても、国内、そして世界の文壇、文芸評論関係者にとっても、その他有象無象の物欲名誉欲の亡者達にとっても、――そしておそらく、読者諸兄の一人一人においても、――この遺稿は、果たして彼の自伝の体裁をとった、自分の創作の秘密、剽窃・盗作の罪を告白する手記、なのだろうか、――それとも、いかにも彼得意の、幻想話めかして書いた、最新にして最後のフィクション、なのだろうか、ということである。――しかし、どちらが真実か、真偽の程は、彼が密かに隠蔽したという当の鏡の破片が見付かりでもしない限り、判定のしようも無い。

だが、そのあるのかないのか分からない鏡の破片をめぐっては、既に法定相続人間で激しい遺産相続の申し立て合戦が始まっていると聞く。そして勿論、それにも増して激しい、トレジャーハンター達の鏡の破片探しの競争も、……。――御伽噺の小道具のような、あるいはネッシーか雪男のような、不確かで怪しげな代物に、早くも何百万ペソという買い手の入札が、(それも世界中から)入っているからである。

これら一連の事態がいかなる結末を見るか。まだ当分の間、我々は大文豪の思いがけない置き土産の波紋の描く世間模様を、楽しめそうである。

――なお、本手記は、後日法定相続人の手により、遺稿集の一部として刊行される予定であることを、最後に付記しておく。

 

 

 

第五話 バビロンの鏡

 

 

いつからあるかは、知らない。神殿の中心、最奥の部屋には、決して入れない“続き部屋”があった。

“続き部屋”は、こちらの部屋と、全く同じ大きさ、形状をしていた。そして、両者を隔てる壁で、“面対称”を成していた。――その壁には、ほとんど一面、頑丈な青銅製の格子がはめられ、部屋間の行き来を妨げていた。試みに、格子の隙間から小石を投げてみると、その“壁”の辺りで、小石は撥ね返された。どうやら“壁”には、透明でまっ平に加工された、水晶かガラスか分からぬが、そういう類の覆いが取り付けられているらしい。

“続き部屋”については、昔から色々な噂が伝わっていた。

その噂は、数千年前にまで遡る。我々の祖先が、この一面泥沼の地に到達し、都市を開き、神殿を打ち立てた始原の頃にまで。

ある時は、奴隷美女達をはべらせ、淫靡な酒宴が催されていたという。ある時は、宗派は分からぬが、荘厳な儀式が執り行われたという。またある時は、拷問部屋として使われていた。半死半生の者が大勢吊るされ、日夜責め苦に苛まれていたという。

倉庫だった時代には、男女の秘め事を覗き見た、という話もある。また、殺人事件の現場を偶然目撃した、という神官見習いの話も伝わっていた。――だがとうとう、被害者も殺人現場も見付からず、彼に裁判所から証人として喚問のかかる事はなかった。

もっと遡れば、遥かいにしえの魔法の如き事件を伝える、信じ難い伝承まであった。――部屋の中に、さらに小さな部屋が幾つもあり、そのそれぞれで別々の事が行われていたという。ある部屋の中には、大空や山脈や海があり、ある部屋には、大都市と、それに群れる小人の大群衆が納まっていた。そしてそれら部屋の間を、金属製のゴーレムの如き人形が忙しそうに行き来し、立ち働いていたという。

ある時期、続き部屋は“宝物庫”として使われていたようだ。貴石、貴金属、美術品、聖具の類が、大量に運び込まれ、うず高く積み上がったという。それら“お宝”を奪わんと、多くの者が欲に駆られた探索を試みたが、その部屋に辿り着けた者は一人もいなかった。目の前に宝の山が見えるのに、手が届かない。遂に、透明な壁を打ち破って向こう側に踏み入ろうとする、無謀な企みが実行された。だが、その透明な壁は、重い木槌も、鋭い青銅の斧も、鋭利な槍の穂先も、全てのものを撥ね返した。そして、疵一つ付かなかった。相変わらず、続き部屋は、青銅の格子の向こうに、あたかも隔てるものは何も無いかのように開いていた。

神殿の管理担当の部署で、何十枚という粘土板の各層の間取り図を引っ掻き回し調べたが、最奥の部屋の壁の隣りは単なる物置部屋で、その二つは繋がってさえいなかった。――私は実際に、その物置部屋に入ってみた。古いガラクタども、何百年前からそこに置かれたままになっているのか分からないような、木製や陶製や青銅製の器物が、饐えた臭いで私を出迎えた。

長老達の記憶にほのかに残る古い絵図や、管理担当の者が神殿内を縦横に探検して新たに作った最新の地図を以ってしても、結果は同じだった。そんな続き部屋は、あり得なかった。

だがそれは、現に目の前に、あるのだ! 入り口がどこにも無い、決して辿り着けない、“続き部屋”が。

広大深奥で、幾層もの階、幾百もの部屋と回廊を内包し、さながら迷宮の構造を持つ神殿のことである。我々の知らぬ控えの間、気付かぬ抜け穴、いまだ見付かっていない隠し部屋、そこへの長大な迂回路、などがあったとしても、さして驚く事ではない。図面上ではそこかしこに、無駄なスペースが偏在している事になっている。これらのスペースが、実は隠し部屋であったり、秘密の牢獄であったりと、有効利用されていたとしても、それ程意外ではなかった。

ある神官仲間は、こんな推論を立てた。――この神殿は、二つ、あるいはそれ以上の、複数の全く独立し行き来出来ない神殿が、巧妙な組み込み細工のように入り組んで、出来上がっているのではないか。見た目一つの神殿だが、実は独立した複数の神殿の、集合体なのだ。そして、他の神殿の人々、神官達とは、決して交流を持つ事が出来ないようになっている。多分、全てが互いに“異教”の神殿なのだ、相容れる事の無い。そこで、接触出来ぬよう、工夫されたのだろう。その唯一の例外が、あの続き部屋の壁、あるいは窓、なのではないか。どういう意図でか、あるいは誤ってか、あそこにだけ、相通じる“穴”が開いてしまったのだ。

確かに続き部屋の人々は、まるで見かけない、今まで見た事も出会った事も無い、人々だった。神殿内は勿論、街中でも。それどころか、服装や髪形や装身具等の、習俗まで違う、異国の者の様だった。

その儀式や踊りや遊戯も、見慣れぬ異様なもので、果たしてどれがどれだか、本当に儀式なのか、実は遊戯ではないのか、踊りと見せて本当は労役なのか、それともそれらの渾然一体となったものか、判断つきかねた。日頃の立ち居振る舞いも、身振り、動作、ちょっとした仕草、皆我々のそれとは、ニュアンスが微妙に、あるいは大胆に、ズレていた。かと思えば突然、殴り合い、つかみ合い、修羅場を演じた。そしてまた、大声で号泣しているようだった(声は聞こえなかったが)。我々はしばしば唖然とし、ボーッとして彼等を見詰める事しか出来なくなった。あの部屋は、ある種の演劇の舞台なのではないか。そんな風に推理する者もいた。実験的なパフォーマンスを我々に見せ付けようと、目論んでいる集団が潜んでいるんじゃないか。

続き部屋の者達も、こちらには気付いているようで、我々の事を観察するようにジッと見続けたり、我々と同じように時として驚愕の表情を浮かべたり、何か話し掛けたり微笑したりゼスチャーを見せたりして、こちらとの意思疎通を図ろうと試みているようだ。――我々の側からも、勿論同じように交流を試みた。しかし今のところ、それらの努力は、双方にとって一切が無駄に終わっている。交信の意味が、意図が、さっぱり掴めない。互いのやり取りが、何故か全然噛み合わないのだ。相手の動きを見てのこちらの返答が、相手の更なる返答に繋がらないのである。むしろ逆に、相手がこちらの返事を見ずに、先取りして返事を返してきている、という錯覚を抱くことすらある。――どうにもこんがらがって、訳の分からない交信にならざるを得ない。

 

ある時、最奥の部屋全体が、どよめきで満ちた。

先程から、赤みがかった金髪の美女が、ガラス製の水差しを手に掲げ、立っている。美女が、水差しの注ぎ口をクイと持ち上げると、足元に置かれたタライのような容器から、水が勢いよく立ち上がり、一直線に水差しの中に吸い込まれていった。

部屋に集まっていた神官達が、この演技を目撃し、一斉にどよめいた訳である。

美女はその後も五、六度、水差しを取り替えつつ、同じ芸当を演じてみせた。

巧妙な手品だろうか、それとも異教の魔術か。神官達はかしましく論争した。女の着ていた服も、論争の種になった。それには、“絵”らしきものが、多くの色を用いて描かれていた。服に“絵”を描くなどとは、思いもよらぬ事だ。あれは何か、魔除けの意味でもあるのだろうか。丁度体に色々な文様の刺青を入れるように。服を、刺青の代用に使っているのか。そもそも、服などに絵を描いても、刺青と違い、動けばすぐ剥げ落ちてしまうではないか。

エンキ神やイナンナ神のあらゆる呪法を使い、女と同じように水を吸い上げる技が試された。だが、成功した者は、誰一人いなかった。

またある時、今度は黒髪と顎ヒゲをナツメヤシの葉のように逆立てた男が、光源が不明な照明に照らされつつ(こちらの部屋の明かりが壁のあちこちに据えられたかがり火から取られているのに対し、向こうの部屋の明かりの元は、正体不明だった)、不思議な記号の縦横にきちんと整列して描かれた板を、こちらに掲げて見せていた。

何を、意図しているのか? この単純な、反具象的な絵は、一体何を表わしているのか? イナンナ女神の神官ルガルイマフが、その記号を懸命に粘土板に写し取った。

早速、議論が戦わされた。――記号の一つ一つは、単純な形のものばかりである。直線だったり、丸だったり、曲線だったり、それらが組み合わされていたり。そして同じ記号が、しばしば何度も登場した。

これら記号一個一個に、意味があるのだろうか。それとも、全体がひとまとまりで、意味を持つのか。また、記号は縦横に整然と並んでいるが、それは何か“順番”のようなものを示唆しているのだろうか。

神殿の会計係が使っている符号に似ている、と言う者があった。会計係には、上納される供物を整理するための、代々受け継がれた“符丁”のようなものがあるらしい。それを用いて、例えば“羊”が“五十”とか、“ビール壺”が“三十”とか、“パン”が“二百八十”とか、書き留める。それと同じようなものではないか。ここに、『牛』と『十二』に似た記号が見える。『十二』が『三つ』、とも読めるぞ。――とすれば、あの記号一個一個に、それに対応したものが決まっているのだろうか。その意味を追っていけば、何が書かれているか分かるのか? だが、羊やビールの会計帳簿を我々に見せて、それでどうしようというのだ?

会計の符号などという俗なものではなく、異教の聖刻、聖印の類に違いない、と主張する者もいた。一個一個が、壮絶な威力を秘めた魔術の源なのだ。あの女が見せた奇跡のような。それを、我々に見せ付け、挑発しているのだ。――こちらにはこれほど凄い魔術がある。平伏せねば、お前達の世界などすぐに滅ぼしてしまうぞ。――そう言って、我々を脅しているのだ。

喧嘩腰とは限らんよ、と老いた神官長は若者の勇み肌をたしなめた。描かれているのは、神話や物語の一コマ一コマではなかろうか。神話の数々を祭事などで朗誦する時、しばしば絵符号を手掛かりとする。矢を放ったり、格闘したり、四季の変遷や、戦闘シーンや、稲光や、男女の愛撫や、そんな絵符号を。彼等は自分達の壮大な物語を記し、それを我々に語り伝えようと試みているのではないのか。

勇み肌の若い神官は噛み付いた。一つ一つが聖印ではないにしても、これら記号の連なりが意味を持った時、そこに“神”や“悪霊”が宿り、その意志を、“呼ばわり”を顕現しないと、どうして言えましょう。向こうの者達は、それらの連なりにより、我々に呪詛を掛けようとしているのかも知れませんぞ。

いやむしろ、あそこに描かれているのは、――と、太陽神ウトゥの神官、シュルギルガルが口を挟んだ、――占星術に用いる記号でしょう。幾つかの記号は、実によく似ている。きっと、惑星や黄道十二星座に、対応しているのです。向こうでも、同じ惑星同じ星座が、見えている筈だ。ホロスコープに落とし込んで解析すれば、きっと読み取れると思いますよ。

いやいや、あれはビールを醸造する時の、レシピじゃないのか、という声も上がった。大麦やモルトや仕込み容器など、我々は必要なものの種類や量を、粘土板に刻む。そういうものに、この記号は似ているではないか。――何かのレシピとか、何かを操作する手引きとか、そういう類のものではないのか?

そうではない。ああした記号は、言語を視覚化したものさ。エンキ神のエリート神官イギルムギナが、異説を唱えた。言葉そのものが、写し取られているのさ。あれを読み上げれば、言語が再生される仕組みだ。――“言語を視覚化?”“言葉を写し取る?”“言語が再生?”“何を言っているんだ”“訳がわからん”神官達は皆首を捻った。

記号の一つ一つが、例えば『砂』とか、『神』とか、『羊』とかと読めるのだ。あるいは、『ク』とか、『ア』とか、『ピ』といった、音そのものとして発声するのかもしれん。先程の神官長の話にあった、神話を朗誦する時手掛かりとする絵符号を、さらに精密に取り決めたものだ。――イギルムギナは瞑想の果て、突飛な事を言い出すので有名だった。

一個一個が『神』や『砂』を表わすとしたら、記号の種類が余りに少な過ぎる。連中の文化は、それほど貧相なのか?――冥界の王ネルガルの神官ガルザゲシが反論した。この二人は、しばしば鋭い論争に火花を散らす、好敵手であった。――音そのものの発声符号説に至っては、気違い沙汰だ。子供の遊びじゃあるまいし、大の大人がそんなふざけた真似が出来るだろうか。

想像してみたまえ。とイギルムギナは、構わず続けていた。言語を視覚化し、固定化した時の様々なメリットを。そうすれば、記憶もまた固定化され、正確に再生可能となるだろう。いにしえの賢人達の今は失われてしまった知恵を、代々の伝承ではなく“生の”声で聞く事が出来たら、どんなに素晴らしいことだろう。向こうの者達は、それを実現する工夫を、編み出したのではなかろうか。――“記憶の固定化?”“死人の生の声を聞く?”“いよいよ、訳がわからん”神官達は、ますます首を捻った。

――我々がこんなあてずっぽうな議論を重ねている間にも、あの逆立つヒゲの男や金髪の美女や、新たに加わったヒゲの無い若い男等により、記号の並んだ板は次々に何枚も掲示され、その都度ルガルイマフがそれらを写し取った。

その内続き部屋の者達は、複数枚の板を、同時に提示するようになった。――これがまた我々を、大いにこんがらがらせた。――一枚ごとに、描かれている記号が、明らかに“毛色”が違うのだ。

あるものは、四角張った記号で、以前のものに一番近かった。またあるものは、海の波のようにフニャフニャと、舟上で揺れながら描いたような記号だった。また別のものは、細長い釘を粘土板に押し付けたような模様が、一面ビッシリと覆い尽くしていた。遂には、余りに入り組み複雑で、人間技では写し取るのが到底不可能な記号までが、板の表面を縦横に飾るに至った。

これらを見て、言語説は吹き飛んだ。こんなものが、人間の言語の写しであろう訳が無い。物語説も帳簿説も占星術説も吹き飛んだ。とてもじゃないが、人間の描く絵や図には見えない。獣や魔物が、手すさびで描くのならばともかく、……。

結局最後まで残ったのは、異教の聖印説だった。訳の分からないもの、説明不能なものを、一まとめにしてぶち込むには、こいつが一番都合がいい。

 

向こうが聖刻、聖印を並べ立て呪詛してくるなら、こちらも退魔の神事を見せ付けてやれ! 威勢のいい若手神官達が集まり気勢を上げた。聖塔頂上の至聖所に住まう司祭長を吊るし上げ、最奥の部屋で『創造神話の儀式』を執り行うこととなった。

最近急速に台頭しつつある一神教徒達が、この成り行きに異議を申し立てた。多神教の立場ならば、続き部屋の人々は異教徒だろうが、一神教徒にとっては、真の神はどこでもただ一人だ。

一神教の神は、ただ『ある』とか『存在』とか呼ばれるだけで、一切の特性を剥奪されている。世界創造も、唯一世界をスタートさせただけで、それ以外は何もしない神である。総てに中立(イーブン)で、偶然と成り行き以外、一切不干渉を通す。正義とか愛とかいう人間の希望など歯牙にもかけず、あらゆるバイアスを異端と糾弾する。――他方、伝統的な神々は、謎に満ちた気まぐれな振る舞いをする神々である。ビールを鱈腹飲み泥酔し、世界や人類の創造競争をし、しばしば洪水で御破算にして、また創造し直す。

一神教徒達は、続き部屋の人々は『ある』の神の信徒に違いない、と主張した。神の真理を、邪教にまみれた我々に伝え、説こうとしているのだ。我々は敬虔な気持ちで、それを受け取らねばならない。邪教の儀式を彼等に見せるなど、冒涜の極みだ。

宗教論争の続く中、一神教徒らの妨害を警戒しつつ、手狭な最奥の部屋で“創造神話の儀式”が執り行われた。――神々の代理の神官達が、競うように大壺からビールをストローで吸い上げる。肉や魚や、輸入ものの野菜や果物や、蜂蜜や木の実や菓子やといった美味、珍味が並ぶ。イナンナ女神の代理の女神官に、やんやの喝采が飛ぶ。「当世の若造どもは、」と神官長が、羊の炙り肉を引き裂きながら愚痴った。「愛と戦の女神イナンナ神を、アッカド風にイシュタルなどと、まるでアイドルのように呼びおって、……。まったく、嘆かわしいことだ」

続き部屋の者達が、緩やかな弧を描くように十数人並んで立て膝を付き、興味深そうにこちらを見ている。笑ったり驚いたり、互いに話し合ったり、彼等の目に我々の儀式はどう映っているのだろう。

ビールに酔っての、神々(トランス状態の神官達)の“創造合戦”が始まった。知恵の神エンキ神が、ワシはこんな素晴らしい世界秩序と聡明な人類を創ったぞと自慢する。大量にある泥と葦で、何でも創ってやるぞと。その娘イナンナが、父上の創った世界と人間を、戦と愛欲で掻き乱してご覧に入れますわ、と挑発する。冥界王ネルガル神は、ならばオレがどんどん死者どもを引き取り、冥界の勢力を拡大してやろう、と凄む。太陽神ウトゥも、穀物の女神ニサバも、それぞれ勝手な天体や植物生態系を創り上げ、悦に入っている。

世界の辻褄が合わなくなり、大混乱し、神々の王エンリルは人類を滅亡させる事を決した。人類は死に絶えたが、エンキ神のえこひいきで生き残った者もいた。その後も世界は、ますます酔った神々によって、勝手に創り直されていった。そしてまた壊され、御破算にされ、また創られた。延々と、混沌とした世界は続いた。世界はシェイクされ続けた。――酔った神々の競演(“世界創造”とは、つまりは神々の酒の席での戯れ事である)、これを再現するのが、“創造神話の儀式”の趣旨だった。

エンキ神は、数々の“真理”を口走った。知恵の神たる彼の口走った事が、すなわち“真理”となった。酔った神々はデタラメに創造し、かつ互いの創造物に干渉し合い、悪戯し合った。死者が蘇り、自然が復元し息吹いた。零れた水が盆に返り、洪水の水も天に戻った(金髪女の水差しの水のように)。屠られた羊や魚に肉が付き、生き返り、食料が枯渇することはなくなった。人々は若返り、何度も恋をし、しかしことごとくを失念した。文明は高みに達し、そして失われ、原始に戻った。大洪水が、秩序も因果も、混乱させ、御破算にした。

決め事は、偶然の占いで、定められた。山羊の首が落とされ、内臓が切り開かれた。取り出された肝臓で、肝臓占いが行われた。屠られた山羊は、その肉も内臓も、神々の酒宴に供された。決め事を必要とするたび、賽の代わりに山羊は何匹も屠られ、その赤い肝臓に続き部屋の人々は目を見張った。
「そういえば、――ワシは若い頃、見たぞ」神官長がポツリと言った。「あの肝臓を見ていて、思い出した。――何十年か前、まだ見習いだった頃、続き部屋の住人達が、同じように肝臓占いをやっていたのだ。――その時、不思議な違和感を持った。――動物も、人と同じように、それぞれ特有の内臓の配置というものがあるだろう? それが、左右逆転していたのだ。見慣れたそれと違うので、違和感を生んだのだ。――そんな妙な思い出が、今ふと蘇ったよ」

 

我々の儀式への返礼だろうか、続き部屋の者達は我々の理解を遥かに超えた摩訶不思議な光景を披露してくれた。

多くの者が寄ってたかって、部屋の中に幾つもの棚をしつらえていった。そして棚板の上に、同じような形をした縦長の箱を次々並べていき、ほとんどの棚が箱でビッシリと埋め尽くされた。

絵の描かれた奇妙な服をまとった女が、箱の幾つかを取り出し、我々の方へ近付いてきた。服の絵は、いくら動いても色褪せるどころか、数ヶ月前よりも一層色鮮やかに見えた。野に咲く花や山の木々や、水車の掻く水や、山脈の頂く雪などが描かれていた。

――箱ではなかった。何やら、白く大きな木の葉のような、張りのある布地のような、それでいてしわの一つも無い薄っぺらいものが、四角く裁断され、それが何十枚と束ねられていた。束が閉じられた時、直方体となり、箱のように見えていたのだ。――そしてその葉だか布地だかの一枚一枚に、例の記号が、細かくビッシリと描き込まれていた。女はその薄っぺらいものを、パラパラとめくってみせた。際限無く記号が溢れ出てきた。どこまで、この記号の原野は続くのか。――いや、“原野”ではない。人の手の加わった、“耕地”と呼ぶ方が相応しい。豊かな、知恵の耕地が、どこまでも広がり、この部屋一杯を埋め尽くしているのだ。

イギルムギナの主張が、息を吹き返した。――驚くべきことだ。彼は目を見張りつつ言った。これはもう、間違いない。疑いようも無く、いにしえの賢人達の英知を集めた、言葉通りの“知恵の宝庫”なのだ。その事実を、どうして否定しえよう。――今回はさすがに、ガルザゲシの反論は飛び出さなかった。しかし彼は、反撃の機会を虎視眈々狙っていた。

想像してみるといい。いつもの名台詞を吐きつつ、イギルムギナが続けた。記号を用い記憶や知恵を固定化し再生する事がインフラになった文明と、そうでない文明との違いを。それら文明の、行く末を。――片や、遠く時空間を隔てた者同志、今生きる者と遥か数千年前にこの世からいなくなった者、大地の表に立つ者とそれの裏側に住む者、これらの間ですら知恵のキャッチボールが行われ、知恵は脱皮し続け新思想は陸続として生まれ続ける。片や、知恵はすぐ忘却の淵に沈み、思想は永遠に同じ所をグルグル回り続ける。

女やヒゲ男やヒゲ無し男らは、色々な箱を開き、その中味をとっかえひっかえ我々に開陳した。無論それらが何を意味し、何を伝えようとしているのか、まるで分からない。だが、例の波打つ記号や泥田の鳥の足跡のような記号や複雑極まりない記号や、その他にも幾種類もの系統の記号があり、さらに絵や図や表などもまじえ、それらが無尽蔵とも思える知識を内に秘めているのは、確実な事のように思えた。――我々は、酔った。

ガルザゲシがようやく反撃ののろしを上げ、警鐘を鳴らした。――確かに知恵の蓄積は素晴らしい。酔うに、値する。だが、正の蓄積があれば、それと同等の量負の蓄積もあるという事だ。我々のかつて経験の無い病原体に感染すれば、ひとたまりも無く滅ぼされるぞ。――酔って均衡の取れた判断の出来なくなった我々は、続き部屋の神殿は既に死んでしまった何百万何千万何億という人々の声を呑み込み、溜め込んだ巨大な施設、建物なのだろうと夢想し、ガルザゲシの警告を無視した。

過去の亡霊達の声に耳を傾け過ぎると、おのれの記憶力や思考力は減衰し、遂には魂まで死者達に取り込まれるぞ、とガルザゲシはさらに警鐘を鳴らした。――未知の文明に浮き足立った我々は、超文明の秘儀、奥義の数々が、あれらの箱の中には刻まれているに違いないと妄想し、またしてもガルザゲシの警告を聞き流した。

続き部屋の英知を学ぼう、という機運が際限無く高まり膨れ上がった。――女達は相変わらず、水差しのパフォーマンスや、床に転がる石を手の平にジャンプさせる秘儀を披露し続け、無限に続くと思える記号の羅列を提示し続け、加えてヒゲ男が、天井を指し、床を指し、さらに右を指し、左を指すという、妙なゼスチャーを始めた。――こいつらは、我々に謎を掛け、煙に巻き、おちょくって楽しんでいるんじゃないのか、そんな疑いを抱くこともしばしばだった。

ルガルイマフとその弟子達は、彼等の示す記号を漏らさず書き留め尽くした。記号の意味を解読する、端緒すらつかみ得なかったが。(いや、正確には、ある種の記号体系の、「1」「2」「3」を意味する記号だけは、何とか判読出来たと思う。)女やヒゲ男らの挙動を、固唾を呑んで、詳細に観察し続けた。その内、彼等の髪形や服装などを、真似る者まで現れだした。ヒゲ男の逆立つ髪とヒゲは、若手神官の間でブームとなった。女らの服を何とか裁縫出来ないかと、神職以外の出入りは禁忌の内殿に仕立て屋を手引きする者まで現れた(“絵”付きの服までは、さすがに再現出来なかったが)。女にラブコールを送る若手神官が、跡を絶たなかった(女気の少ない、神殿生活の故である。自らを“黒髪の民”と呼ぶ我々の間で、金色の髪が珍しかった事もあろう)。女は、相手の気配や下心を察してか、ラブコールの先回りをし、愛想笑いを送ってきたり、嫌悪の表情を浮かべたりするのだった。奇跡を再現させようと躍起となって、水をこぼしたり、石を投げたりと、あらゆる呪文、秘術、法具が試された。

――その日の女は、金属製の棒や糸を強靭な葦の如く編み上げた円筒形の椅子に優雅に座り、白く薄く透ける布を青空の雲のように幾重にも纏わせ、イルカの金銀の腕輪にサソリをあしらったヘアバンドできらびやかな髪をまとめ、小振りの箱を開き、葉の上に目を落としていた。ジッと葉の表面を見詰め続け、さらに一枚一枚めくっていく。
「超人だ!」イギルムギナが、感嘆の声を上げた。「彼女は、“超人”ではないのか!」
「何のことだ?」私は問い質した。
「見てみろ。彼女の口元を、……」イギルムギナが女を指差しながら、言った。「声を出していない。口がまるで、動いていない。朗誦せずに、読み進めている。――黙って、読んでいるぞ!」

イギルムギナの指摘を聞き、私は女の口元を確認した。確かに、横一文字に閉じられたままだ。目だけで、記号を追っている。――こんな事が、人間に出来るのか?
「神ですら、言葉を発する事で、世界を創造したと言われているのに。――彼女は言葉を発さずに、頭の中に世界を創造しているのだろう。神の御業を、超えている!」イギルムギナが女を讃えた。

我々は早速、女の物真似をしてみた。神話の場面の刻まれた粘土板を見詰め、朗誦すること無しに、物語を頭の中に再現しようと試みた。――無理だった。混乱し、イメージ達がでたらめに角突き合わせた。どうしても、唇が小刻みに動き、ブツブツ呟いてしまう。
「これこそが、神の知識を得る、秘法なのではないか。――神の名を知り、全知全能の神の境地を体得するための、……」と、イギルムギナ。
「世迷い事だ」と、ガルザゲシがライバルのはしゃぎ振りを罵倒した。「人間の頭から飛び出した知識を、空間に配置し、それを目で追うだけで人の思考の場を一気に拡大しようという試みなのだろう。――だが、そんな思考の拡大は、神どころか、人の本性に反する悪魔的な存在を、人類の中から出現させるだけだ」

しかし、こうした超越論的推論の数々にもかかわらず、肝心の記号の解読の方は、相変わらず遅々として進んでいなかった。

あれらの記号を解読するなど、あたかもトラの縞模様に意味を見出し、それを読み解くに等しい営為だ。と、ある盲目の高位神官は、溜め息混じり愚痴をこぼした。――第一、記号を読み進める順番すら、我々には分かっていないではないか。神官候補の子供達の教育係を務める剃髪したても鮮やかな神官が、生徒に教え諭す口調で指摘した。この記号達は、縦に読むのか、横に読むのか、右から読むのか、左から読むのか、丁度畑を耕すようにジグザグに読み進めていくのか、あるいは周囲から螺旋を描くように読み進め、最後は中心点で終わるのか。どうやら“記号体系”ごとに、それぞれ別の秩序を持っているフシがあるが。――一部の記号体系には、縦か横かの罫線が引いてあり、それで見当を付けることが出来た。何とか順番が分かれば、次は同じ記号の出現頻度、さらには同じ記号の“並び”の出現頻度、が抜き出される。そしてそれら間の構造、同じ並びの繰り返しとか、“入れ子”構造とか、飛び地間の類似構造とか、を調べ上げていく。――ルガルイマフの粘土板が幾枚もコピーされ、『魔術』、『占い』、『錬金』、『検邪』等、さまざまな専門部署に送られ、印を付けられ、定規で測られ、切り刻まれた。

 

これまで音など聞いたことのなかった“続き部屋”から、突然、ドスンドスンと、まるで重いものでもぶつけ合うような鈍い音が、威圧するように響き、伝わってきたのだった。

だが、続き部屋の者達は、いつもと変わらぬ涼しい顔で、相変わらず黙ったまま箱の葉っぱ達を見詰め、それをめくり続けている。――本来なら、部屋を埋め尽くす棚どもを設置した時、こういう音は聞こえていた筈である。だが、あの時は無音だった。それが、今頃になって、何故?

管理部署から連絡が入った。お騒がせして申し訳ない。実は、何百年振りかで、隣りの物置部屋の片付けを行ったのだ、と。

数百キュービットも経巡り、隣りの物置部屋にようやく到達した。以前の煩雑な様がウソのように、室内はガランとしていた。最奥の部屋とを隔てる、(図面上では)ほんの半キュービット程の厚さの壁に近付き、その花崗岩の石を小さな金鎚でコンコンと叩いてみた。――ドンドンと、返答があった。青銅格子の隙間から棒を差し入れ、神官見習いが透明な壁を突いて合図を返す手筈になっていた。

聞こえた証しに、今度はコンコンコンと三度叩いた。壁の向こうからも、ドンドンドンと三度返ってくる。さらに四度叩き、四度返ってきた。

間違いない。――最奥の部屋のすぐ隣りは、この元物置部屋であり、その間隔は半キュービット程なのだ。――としたら、あの続き部屋は、どこにあるのだ? あの部屋は、壁一枚の、ほんの広げた手の平程の厚みしかないというのか? 女やヒゲ男や、あの者達は、平た過ぎる程に平たい存在なのか?――しかし、女達が横を向いた時、彼女らは普通の人間と変わらぬ厚みを持っているように見えた。棚も、床も、部屋も、奥行きがあった。

いよいよ、とんでもない大魔術にハメられつつあると、我々は観念せざるを得なくなった。

 

両腕を目一杯に広げた女の腕の中には、二つに開かれた大きな箱が抱えられており、実にカラフルな絵図が描写されていた。(その箱は、全ての葉が、そうした極彩色の絵図で満ちていた)

その絵図が、物議をかもした。どこか見知ったものが、描かれていたのだ。――そうだ。神殿入り口の門前に掲げられた、石板の図だった。先王時代のもので、王の獅子狩りの場面である。荒れ狂う猛獣を、勇猛なる王が槍の一閃で仕留めている。王は獅子よりも大きく描かれ、その偉大さを誇示している。周囲の神々の浮き彫りが、そんな王を祝福している。

だが、どこか違う。――まず、絵図のそれは、苔むし、ひびが入り、周囲が欠け落ち、あたかも遺跡の一部のような雰囲気である。実際の門前のそれは、まだ完成から十年と経過していない、作り立てだった。年を経たように描く事で、歴史の重みを持たせようとしたのだろうか。――そして、これは致命的だが、図の左右が逆だった。王が右を向き、槍を左手で持ち(王は左利きではなかった)、ライオンは王の右側に倒れている。実際の石板の配置は、その逆だった。向こうの絵描きは、その技量は本物と瓜二つに描き上げる神業とも思えるものだが、一体何を見てこれを描いたのだろうか。

同じような事を、以前天文司のシュルギルガルも言っていた。ヒゲ男に見せられた天文図の星座が、左右反転していたと。アルデバランがベテルギウスの左に位置し、おとめ座がしし座の右に並んでいた。

神官長が、首から吊るした魔除けの円筒印章を、手に取ってしげしげと見詰めながら呟いた。「粘土板や封泥に転がして、個人や公的機関の正当を証明するため、こうした印章は石材等に彫られる」自分に言い聞かせるように、続けた。「だから、逆向きに彫られるのだ、印影が反転するから。かつて見た、続き部屋の儀式で生贄にされた、獣の内臓の配置も同様だった。――としたら、続き部屋との間の壁は、――“鏡”になっているのではないか?」

 

透明な壁の正体は、金属鏡だった。――ただ、銅鏡とかの、知られた金属ではなかった。どんな金属を磨いたものなのか、見当も付かなかった。

格子の間から手を差し伸べても、手首程しか入らない。格子を外してみようという声が上がり、壁の漆喰と、床の大理石の石板の一部が剥がされた。格子を固定していた留め金が巨大なやっとこで抜かれ、我々は壁に直に触ってそれが金属鏡であることを確かめた。

だが、鏡ならば、何故我々の姿が、馴染みの顔が映らないのか。得体の知れない、異国人としか思えない風体の者達の日常が、映っているのか。

部屋そのものは、同じ部屋が鏡に映ったもの、と得心した。部屋の奥行き、形状、そして入り口の位置まで、そっくりシンメトリーを成していた。それどころか、大理石の床板の繋ぎ目、その表面の模様まで、目を凝らしてよく見ると、我々の部屋のそれを反転させたものだった。――これはもう間違いなく、この部屋が鏡に映っているのだ! ただし、そっくり同じとは到底言い難い。向こうの床の大理石は、あちこちくすみ、磨り減っていた。壁も、漆喰は新たに塗り替えられたようだが、柱の部分は疵や傷みが増していた。それらは明らかに、年を経ていた。

天文司のシュルギルガルが、「“摂理”だ!」と叫んだ。「天上の世界と同じように、この鏡は、高度のシンメトリーを実現しているのだ。そんじょそこらの、化粧用の鏡とは違い。――そういう神聖なものなればこそ、神殿の最も奥、人の一番入り込めぬ場所に安置されたのだ」
「“摂理”とは、何ぞや、……」イギルムギナが問うた。「高度のシンメトリーとは、……?」
「鏡とはそもそも、シンメトリーを実現するものだ。現実の、シンメトリーな再現、と呼んでもいい」シュルギルガルが答えた。「並みの鏡ならば、それは空間を再現する。だが、この聖なる鏡は、空間ばかりか、“時間”をも再現して見せているのだ」

シュルギルガルの天文学的解釈を聞くまでもなく、我々の多くが既にその事に気付いていた。――鏡の向こうは、遥か年を経たこの部屋なのだ。今のこの部屋と、時間的シンメトリーを成す、未来のいつかのこの部屋なのだ。

あの不思議な記号の羅列と集積に代表される超文明は、知識の膨大な蓄積の果ての、我々の未来の姿なのだ。だから女らは、水差しや拾石のパフォーマンスを見せ続けたのだ。時間的にシンメトリーなものが再現されるならば、鏡の像は時間経過が逆転して再現される筈である。女らは、その事を知っていて、我々にそれを悟らせようとしていたのだ。

鏡の像の反転とは、あたかも悪神が我々を小馬鹿にしている、皮肉な悪戯のようだ。正反対の、おちょくるような“物真似”を見せて。今までルガルイマフ等が苦労して書き取ってきた全ての記号も、左右が逆の誤ったものだった事になる。(ルガルイマフは、以前からしばしば、記号を描く時の力の流れ方や、釘形文様の刻み方が、いくら試みても手に馴染まない。あたかも左利きの人間が描いたもののようだ。あれらの文化は、左利きの人間により築かれたものではないのか、と漏らしていた)

そして同様に、この悪神の悪戯は、因果を反転させ、意思の疎通を不可能にする。我々と未来人との出会いは、全て瞬間瞬間の、一過性の出会いであり、初対面であって二度目はない。こちらの見る相手は、絶えず初めての相手であり、その逆も同じだ。

それでも未来人らは、何等かの意思を伝えようと、懸命の努力を重ねていたと、我々は理解した。そうした意味では、彼等の意図は、僅かながらではあるが成功を見たのだ。――彼等の伝えようとしていた意思とは、どういう内容だろうか。やはり、記号の意味を解読しなければ、知る事は出来ないのか。それをうかがい知る手立ては、他にはないのか?

――漆喰や大理石を剥がした時、一緒に妙なものが見付かった。二本の平行して並んだ金属の太い棒が、床板の下に埋め込まれていたのである。その棒の先をさらに探ると、金属鏡の壁の下に小さな車輪が付いていた。あの、戦車や荷車に使う、車輪である。その車輪は棒の間を伝って、その上を転がるように出来ていた。つまり金属鏡の壁は、移動することが可能だったのだ。

棒の延長上の大理石板が、次々剥がされていった。天井の漆喰も、脚立に上った者らにより、突き崩された。壁の天井部分にも、床側と同じ車輪の仕掛けがあった。そして天井の対を成す位置に、二本の金属の同じような平行棒が張り渡されていた。

 

皆が、この二本の金属棒に沿って鏡を動かしたいという、強い誘惑と衝動に駆られた。これを動かせば、未来人の伝えたかった事が分かるのではないか。いやそもそも、鏡を動かせという指示自体が、未来人の言わんとしていた事なのではなかろうか。――秘密は、壁ではなく、床と天井にあったのだ。

私も含め何人かが鏡に手を掛け押すと、軽快な車輪は思いのほか容易に、スルスルと鏡の壁を滑らせた。鏡は半分に分離し、その片側が移動し始めた。
「ちょっと、待ってくれ!」ガルザゲシが金切り声を上げた。「この、床に張り巡らされた金属の軌道を、ようく見ろ!――今、鏡の右半分が、軌道に沿って動きつつある。――このまま進むと、――二枚は、――丁度そこで、『合わせ鏡』になるぞ!」懸命に、床に延びた軌跡の一箇所を指差しつつ、彼は叫んだ。
「それこそが、この鏡の本来あるべき位置、なんじゃないのか?!」イギルムギナが、鏡を押す者達を力付けた。「未来の者達は、その事を伝えたかったのだ。それこそが、彼等、まだ見ぬ超文明に到達するための、究極の手段なのだ」
「いや、逆だ。――連中は、我々に警告していたのだ。決して、この鏡を動かしてはならん、と」ガルザゲシの金切り声が、一層キーを上げた。彼が背中に彫った、冥界神ネルガルの随獣、獅子とサソリと鷲のキマイラが踊った。「考えてもみろ! 因果を逆転させる鏡が、“合わせ鏡”となり、その逆転を無限に反復させたら、――因果はズタズタに切り裂かれ、――世の破滅を招くぞ!」

私は、鏡を押す手を止めた。彼の警告の意味が、ふと心に棘を刺した。しかし、私の手を離れ鏡はそのまま進み、ガルザゲシの警告に耳を貸す者はそれ以上いなかった。

鏡が向き合い始めた頃、続き部屋の眺めがガラリと変わった。奥の壁が撤去され、棚の配列が無限に反復されているように見えた。そこは、既に神殿ではなく、別の用途の建物になってしまったようだ。入り口が反対の壁に移り、数を無数に増した。天井は丸みを帯びたドーム型となった。無数に増えた入り口から、見知らぬ者達が大勢出入りし始めた。――女達はこれまでにない恐怖と驚愕の表情を剥き出し、パニックを起こしたように部屋の中を走り回った。

ガルザゲシの味方をし、鏡の移動を止めようと考えた。しかし、超文明の熱に浮かされた者らを、少人数で押し留めるのは不可能だった。――それに、既にこれからの成り行きは、決まっていたのだ。女らの反応を見ていれば、事の“結末”は、充分に察しがついた。

さらに鏡が移動し、鏡の中に鏡が映る頃、続きの間は無数に分岐しだした。女らを映し、そして我々を映した。女らも我々も、無数に増えた。そして、その誰もが、まるで別々の事をしていた。

ついさっき作業していた、天井や床剥がしする我々もいた。だが、そこに脚立に上り天井を突く、私がいた。そんな事をした覚えはなかったのに。
「見ろ!――あそこに、若い頃のワシがいる!」神官長が叫んだ。彼の指し示す部屋の一つに、四十歳程も若返った彼がおり、生贄の腹を裂いて儀式の準備をしていた。

女やヒゲ男の顔や姿が、めまぐるしく入れ替わった。目や口やヒゲの位置や形が、“ふくわらい”のように変わり、髪の色や型や服も変わり、しばしば年老い若返り老人や子供にまでなった。差し替えがあまりに早く、まるでモザイクの壁画を見ているようだった。――多分我々も、彼等から見て、同じように見えているのだろう。

部屋の数が増え続け、見知らぬ者の数が急増した。部屋の一つ一つに、野が見え、山脈が見え、海が見え、宇宙が見え、都市が見え、異民族が入り乱れた。(最も古い伝承にあった通り)
「何が、起こっているのだ?」「……続けていいのか?」神官達の間に、動揺と困惑が走った。――だが、イギルムギナは、あくまで強気だった。
「問題はない。――見よ!」彼は、さらに床板が剥がされ、荒い岩石が剥き出しになった床一面を指差した。――金属の軌道が、支線を増やし、縦横に曲線を描き、複雑に延びていた。
「この混乱は、完成に至る過渡期の現象に過ぎん。まだ、完璧な形ではないのだ」イギルムギナが、皆を鼓舞した。「あと少しだ。さらに鏡を動かすのだ」天使か悪魔が乗り移ったように、彼の声は澄み渡り、よく響いた。

二枚の鏡の両翼がさらに割れ、軌道の導くまま折れ曲がっていった。――明らかに、“正六角形”に配置されつつあった。
「これではまるで、」ガルザゲシが嘆息を吐いた。「『万華鏡』の中に、捕えられたようではないか!」――鏡の壁が、我々を取り囲み始めていた。

突然、天井の一角が切り取られ、陽光が射した。青空が見えた。十数層百キュービット以上の高さを持つ神殿の天蓋部分が、粘土の固まりを削り取るように、消え去った。部屋の底が、抜けた。足元の岩石も大地も消え、我々は漆黒の中空に漂った。
「鏡の間で、時間線が随所で断ち切られ、付け換えられる。――“万華鏡”の中で、因果がシャッフルされ続けているのだ。――あたかも、『創造神話』の如くに。

あるいはこの鏡は、何者かが世界を再創造するために設置した、リセットの“装置”なのではないか」ガルザゲシが、誰かに聞かれるあても無いまま、独り言のように呟いた。

女やヒゲ男ばかりでなく、我々も、誰かが消えたり、新たな者が現れたり(初対面の筈なのに、何故か長年の友という記憶があった)、――さらに私自身も、子供だったり、老人だったり、女だったりし、――別の人生を歩んでいた。

都市や帝国は消え失せ、名も知らぬ別のものが勃興した。ローマなる別の帝国が起こり、キリスト教なる別の宗教が栄えた。人々は、私の目前で、剣を交え、酒を酌み交わし、子を生んだ。私も、彼等と共に、剣を交え、酒を酌み交わし、子を生んだ。大地は都市で埋まり、何千キュービットという高さの塔が立ち並び、月の隣りを巨大な舟が往来した。

――仮にある男が、この世の全ての場所、光景を映し込む鏡を、夢想したとしてみよう。だがその鏡も、この“万華鏡”には、到底及ばない。――何故なら、この“万華鏡”は、あらゆる可能性を組み替える能力故、“全世界”どころか、“全可能世界”のあらゆる景色を映し出してしまうのだから。――

神殿の建物が払われ、都市も大地も消え失せ、我々は星辰の散らばる虚空に浮かんでいた。だがその星辰達も、揺らめき、蠢き、瞬くように、次々消えていった。
「星が、――。銀河が、――」光の源は消滅し、暗黒も、空間すら、その存在を閉じた。

“正六角形”は、完成した。            了

2018年11月21日公開

© 2018 岩田レスキオ

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