<5日目>
三島に宿を取ってから五日目の事である。東の空が急に明るくなった。
夜半、ほんの一瞬、山々の尾根を縁取るように、ボーッと光が灯った。
ラジオを点けっ放しにし、うつらうつら聴いていたのだが、放送が途切れた。NHKの全国放送である。あちこち廻し、他の局を探った。防災用に買った、手廻し充電のラジオだった。こんな事態にも、役に立った。
生きている局が見付かった。地方局である。しかし、何が起こったのか、伝えられることはなかった。
<6日目>
翌朝、宿は停電していた。電話もどこにも通じなかった。女中が、朝食の準備を告げつつ、説明して廻っているようだった。
電車も停まっているという。東から山越えしてきた車のドライバーは、夜半の強烈な光のあと、東の町のあちこちで大火事が起きているのを目撃したと話したそうだ。強烈な衝撃波が、車の後方から幾度か襲って来、車を追い抜いていったという。
半日後には、水道も断水した。新聞も届かなかった。女中が頻繁に、新しい情報を伝えてくれた。夜中に到着した車を除き、その後東の山の向こうからの車は、荷も人も、何も来なくなったという。逆にこちらから山を越え、警察や自衛隊の車両が、偵察のため東へ向かったそうだ。
手廻しラジオの地方局アナが伝えるところでは、未確認情報ながら、やはり核が何発か関東平野に落ちたことが推測される、とのことだった。静岡県知事と県警本部長の連名で、平静を保つよう、繰り返し呼び掛けられた。関東地方では大量の犠牲者が出ている模様ですが、自衛隊の各方面部隊が連絡を取り合い、生存者救出のため被災地に急行しつつあります。耐え難い熱を冷静を装い押し殺したアナウンサーの声が、内容の乏しい同じニュースを何度も何度も繰り返した。
<1日目>
中国とアメリカの大使館が自国民に退避勧告を出すという噂が、飛び交い始めていた。これが、絶好のタイミングとなった。既に、目端が利き、金と時間に余裕のある連中は、海外旅行にかこつけ国外脱出しつつある。逃げ遅れて絶滅収容所送りとなったユダヤ人のような憂き目にはあいたくない、これが彼等の本音だろう。
かねてからの打ち合わせ通り、大船駅のプラットホームで待ち合わせた。妹と母親は、重たそうな手荷物を幾つもぶら下げ、京浜東北線の車両から降り立った。これから、温泉地旅行と洒落込む。が、その荷物も、彼女らの表情も、とても楽しげな行楽客のそれには見えなかった。
目的地は、三島である。小田原で新幹線に乗り換え、なるたけ早く三島まで移動する。以前は、少しは土地勘のある熱海・湯河原辺りを、避難場所として考えていた。が、北朝鮮の水爆実験成功の報を受け、予定を変更した。丹那トンネルを抜け、伊豆半島の反対側の三島に出れば、箱根・伊豆山塊に背中を守られ、関東側の核の脅威からは大分安全となるだろう。伊豆の西側で危険なのは、浜岡の原発が破壊され放射能汚染が広まるケースだが、核の熱で焼かれるよりは遥かにマシだ。対処の方法は幾らでもある。
私は定年退職し、鎌倉の大船で一人住まいしている。母と妹は、実家のある横浜の杉田で暮らしている。共に、横須賀から10キロ程の距離だ。広島型原爆の破壊力ならまだしも、水爆にやられてはひとたまりもない。他にも、厚木に座間の米軍基地、東京、横浜の大都市、我々の住むこの辺りは、日本で一番危ない危険地帯だ。とにかく、三沢、岩国、沖縄といったあらゆる米軍基地、大阪、名古屋、札幌、仙台、北九州といったあらゆる大都市、そして列島に点在する多くの原発、からはなるたけ離れるのが上策だろう。それも、難破を察知するネズミの如く、タイミングを逃さず。幸いな事に、私も母も妹も、年金と蓄えで暮らしている。子供もいない。社会的に拘束されるものが、何もない。我々が率先して疎開せねば、日本中で疎開出来る者など誰もいなくなる。
杉田の実家で、母親は逃げる事を執拗に渋った。そんな事杞憂に終わる、今までも無事だったんだから、と。それに、どうせ老い先長くないんだから、住み慣れた土地で死にたい、と。私達は怒りをにじませ、反駁した。あんたが逃げなきゃ、俺達だって逃げられる訳ないだろ! 俺達まで、巻き添えにする気か! 母はそれでも、車中で、みっともない、情けない、と幾度も繰り返した。
<2日目>
一応、親孝行の観光旅行、という建前になっている。知り合いに訊ねられた時には、そう答える事にしていた。市中の宿に一週間の予定で部屋を取った。その後は、適宜延長する。米軍の反撃能力を考えれば、たとえ戦争になっても、一ヶ月もあれば終結するだろう。
三島の観光地を、母親の憂いを紛らすため、あちこち見て廻った。三嶋大社に、楽寿園、柿田川湧水群。しかしやはり、母親の憂いの薄まる気配はなかった。名物のうなぎ、沼津から届く海の幸、箱根山麓の新鮮な野菜、美味いものをたらふく食ったが、母だけでなく、私も、妹も、何かに夢中になっている時間が過ぎれば、また漠とした不安に飲み込まれる。――本当に、何事も起きず、ただの観光旅行で終わってくれれば、どんなに嬉しいだろうか。
<3日目>
当面心配になるのは、現金と衣類である。現金は、手持ち以外は、連日ATMで上限まで引き出し、三百万円程用意する予定である。それらを、貴重品入れの金庫やら、荷物のそこここやら、各人の着衣のポケットやら、あちこちに数十万ずつ分散させて隠し持つ。服は、下着と、この季節の物を数セットずつ用意する。
もう一つ心配なのが、薬だ。何しろ三人とも、結構な歳である。呑まねばならぬ薬が色々とある。逃げる時、残った薬をあるだけ掻き集めてきたが、何日もつか。無論『お薬手帳』は忘れず携行したから、あとは地元の医者に「旅先ですので」と訳を話して、処方箋を書いてもらうしかないだろう。
落ち着いたところで、宿からあちこちに電話をした。何しろ、誰にも告げぬ、急な出立である。世間からすれば、突然蒸発したように見えるだろう。人によっては、早合点して、警察に行方不明と通報する者があるかもしらん。友人やら親戚やら近所の知り合いやらに、しばらく長旅に出て留守にするから心配しないように、と連絡した。母は、子供達が親孝行旅行をプレゼントしてくれたから、と。我々は、母を親孝行旅行に招待したから、と。嘘をつきつつ、母は、こんな下らない心配をして逃げ出したなどと知られたら恥ずかしいと思う見栄っ張りな気持ちと、もし心配が当たって皆が死に自分達だけ生き残ったらすまないという後ろめたい気持ちとで、しばしば声が震えた。母程ではないが、私にも妹にも、嘘をつきつつ同様の震えはあった。(もしかすると、話を聞く電話の相手の中にも、本当の理由に気付く者が何人かいたかもしれない。)
ただ、横浜で医者をしている友人の神田には、本当の事を話した。「世の中大分きな臭くなってきたんで、しばらく避難することにしたよ」
大病院で勤務医をしている神田は、「羨ましい」と言った。「こっちは、逃げる訳にはいかないからな。――もし本当に、そんな事になったら、ここにはドッと怪我人が担ぎ込まれてくることだろう。その時ここが、本当の戦場となるだろうよ」
宿の名と連絡先を教え、その時はさして気に留めることもなく電話を切った。
<4日目>
米軍が遂に、北朝鮮の核施設を爆撃したそうだ。北側も、ソウルへの散発的な砲撃を開始したらしい。
多分アメリカは、北朝鮮の最初の核が自国か同盟国に落ちるまで、核使用に踏み切る事はないだろう。
このまま、小競り合いだけで納まってくれれば、いいんだが。
<7日目>
北側は、初回に集中して、核弾頭ミサイルを投入したようだ。多分北は、世界を道連れに、自殺する気だったのだろう。
横須賀、東京始め、首都圏には最低五発の核が落ちた。他にも、大阪、名古屋などの大都市と、各地の米軍基地が、核の虚無に呑まれた。
ミサイルの八、九割方は迎撃出来たようであるが、残りが着弾するだけで、日本の人口の七割ほどが、初めからいなかったもののように消えた。そしてその周囲に、大量の負傷者と、難民が残った。また、大量の放射性物質の、降下が始まっていた。
<8日目>
我々の恐れる汚染の濁流は、名古屋周辺に落ちた数発の核からのそれである。その時刻その時刻の風向きのまま、汚い舌は舐め回す餌食を変えていったようだ。生者は汚染の波に追われ、右往左往した。ビクビク警戒し、その流れに一喜一憂した。
私も、唯一頼りになる情報源、手廻しラジオを充電しつつ、それから漏れ出る僅かな情報に聞き入り、東海地方周辺の地図を畳の上に広げてこれと睨めっこをしながら、その日を送った。
風向きが悪い場合は、避難場所を移動しようか。近場で狩野川水系奥の修善寺とか、あるいは南アルプスに守られた谷あいの身延山辺りはどうだろう。だが、鉄道が停まり、車もあてにならない。それに何時、どう風向きが変わるか、誰にも分からない。家族を無事引き連れていく自信が、私にはない。難民時代のアブラムのようなものだ。
<10日目>
米軍の集中攻撃(中古の兵器を、悉く朝鮮半島に廃棄する積りらしい)に対する北朝鮮の散発的な反撃はまだ続いているようだが、核ミサイルの飛んで来ることはなくなった。我々の関心は、身の回りの生活の方に移っていった。
三島市の公的施設のスペースは全て、東から山越えしてくる被災民の収容とその手当ての場に当てられた。我々が逗留する宿の大広間も、小振りながらも溢れる程の怪我人を抱えた。私と妹もボランティアで看護の手助けをした。助かった者の、せめてもの義務だろう。
被災民の殆どが、火傷を負っていた。強烈な打撃による怪我人も多かった。重傷者も軽傷者もいた。それでも彼等は、ここまで逃げてこられたのだから、まだマシな方なのだろう。
医療従事者が足りなかったので、直接的な看護、消毒とか、包帯巻きとか、もした。器具を煮沸したり、添え木を整形したり、などもした。市の随所に、放射線計測器が持ち込まれているようで、それを抱えてあちこちを計測して廻ったりもした。部屋に閉じ籠ってラジオに聞き入り地図と睨めっこしているよりは、こうして人々と接し見知らぬ人の手助けをしていた方が、生きているという実感は遥かに強く湧いてくる。包帯を巻いたり薬品びんを運んだり、作業する手にも力がこもる。
<11日目>
被災民は、増える一方である。ここ三島は、関東平野から逃れてくる膨大な数の難民を受け入れる、最前線となっている。ここで彼等を受け入れ、応急処置し、まだ収容力のある静岡県中心部に送り出す。
宿の大広間で怪我人の手当てをしていた時、ある呼び掛けがあった。伊豆・箱根の山中に、動けなくなった被災民が多数居残っているという。彼等を助けるため大規模な捜索隊を編成する、是非とも参加して欲しい、と。私は60歳を過ぎているが、まだ体力には自信がある。いわば“抜け駆け”して命拾いした身だ、詫びの意味も込めて微力ながら目一杯の労力を奉げてもよかろう。
<13日目>
戦争は一週間で終結した。最後まで逃げ回っていた潜水艦が撃沈され、北朝鮮本土も沈黙した。あるいはテロ的な反撃はあるかもしれないが、北朝鮮に設立された臨時政府は全面降伏と戦争終結を宣言した。北は、米軍の核の集中攻撃により、割合から見れば日本以上、九割五分を越える人口を失い、残りの者も戦傷死と餓死寸前の状態にあるという。
<15日目>
伊豆・箱根の山中に分け入った。総勢一千名を越えるボランティアが参加したが、これを二十人程の小部隊に分け、各部隊を山岳ガイドが先導して、北は芦ノ湖から南は熱海までの扇状の広い範囲に散った。
この辺りは、小田原の南石橋山の合戦で破れた頼朝が、平家方の総大将大庭景親の大軍勢に追われ、真鶴から小舟で房総へ逃れるまでの間、幾日も彷徨い続けた地である。妙な縁を感じる。鎌倉に住んでいた時は、頼朝が遷し拡張した鶴岡八幡宮の境内をちょくちょく散策したものだ。ついこの間参拝した三嶋大社も、その頼朝が源氏再興を祈願した鎌倉幕府の出発点だった。私と頼朝の、難を逃れるように、伊豆山麓の陰にひっそり身を隠している境遇も、似ている。そして今は、彼の彷徨った同じ野山を経巡り歩いている。立場は変わり、丁度頼朝側の落ち武者を大庭景親が山狩りしたように、今の我々も山中で傷付いた人々を探索して廻っている。八百年前と違い、命を取るためではなく、それを救うために。
今まで海外の紛争地の映像でしか見たことのなかった光景を、目の当たりにする事となった。三々五々、死体の固まりが木陰や岩陰にうずくまり、その中に五人に一人程の割で、まだ息のある者が紛れている。皮膚に隣り合わせるように近い彼等の存在が、やりきれない気分にさせる。鉄道も道路も封鎖され、大火事と放射能、飢えと渇きに追われて、この無謀な山越えを試みるより他なかったのだろう。焼け出されたのか、火脹れの遺体が多い。多分、水を求めて死んでいったことだろう。あと、体の部位部位が妙に捻じ曲がった遺体も。この負傷で山越えの強行軍は、さぞ難儀だったろう。
死者には、一本一本線香を立て手を合わせただけで、後方の本部にその位置を知らせ立ち去った。彼等の収容は後の仕事だ、まずは生者が優先だ。生存者は可能な限り応急処置を施し、救助のヘリを要請する。重傷者には一人を残し付き添わせ、軽傷者には食料衣類衛星携帯等の物資を手渡し、我々は先へ進んだ。日が没すると、高台に僅かなスペースを見付けてテントを張り、野営した。
<20日目>
熱海に出た。一息ついた。
ここが、関東方面への前線基地となっていた。いまだ途切れぬ難民の群を一旦ここで受け入れ、ヘリや海路で静岡側にピストン輸送するのである。
熱海の町は、爆風でガラスや木造家屋に大分被害は出ているが、火災は免れたようだ。ただ生活物資は致命的に不足しており、それらは自衛隊等の捜索・救助部隊に優先して廻され、地元住民には一時的に静岡側へ避難する事が強く推奨されていた。
昼頃、陸自のアバター・アンドロイド部隊の出発を目撃した。これから、爆心地帯に入るという。ご苦労なことだ。
なるほどアンドロイドなら、爆心地の放射能の中でも、さして支障なく活動できるだろう。一日の作業を終えたら、ボディー表面を軽く洗浄するだけで、放射性物質も落とせる。甲府や水戸辺りの安全地帯から、彼等を操縦しているらしい。望みは薄いが、もし生存者がいたら、我々が山中で努力したのと同じく、一人でも多くの生き残りを救って欲しいものだ。
<30日目>
宿の食料が底をつき、自ら調達する事となった。しかし宿の部屋にはそのまま置いてもらっている(どうせ泊り客もいないし、部屋が開けば避難民用に供出することとなる)。円は大暴落し、物価は大暴騰した。戦前に用意した三百万は、砂粒が指の間から零れ落ちる如く消えていった。
幸いな事に、私は証券会社に大量の外国債を保有している。円が暴落し、思わぬ大金が転がり込んできた。金融市場はまだ閉鎖されたままでこれを現金化する事は出来ないが、まもなく再開されるとの噂もある。これを切り売り出来れば、生活の足しになるだろう。
反対に、年金制度はほぼ崩壊し、当てに出来ない。横浜の実家の土地も、放射能まみれとなっては二束三文、売り払うのは到底無理だ。
<45日目>
中央政府が消滅し、各地方単位で臨時政府が置かれることとなった。旧日本の領土全体は、国連から付託されアメリカが委任統治している。
臨時政府の命令で、食料は完全に配給制に移行した。しかし水は、いまだ豊富である。ここ三島は、市内のあちこちに湧水の出る、清流豊かな土地だ。これは、本当に助かった。
いつまでも宿代を払い続けることも出来ないので、地方政府の用意した仮設住宅に移った。周辺の僅かな土地を利用し、野菜やイモの類を栽培し始めた。
太平洋戦争の十数倍という死者を出したこの国の将来は、一体どうなるのだろう。不安な事ばかりである。しかし、これから長くこの国と付き合っていかねばならない若者達と違い、我々の余命はそう長くはない。この国の再建に少しばかりでも助力出来れば、それでよしとしようか。
<55日目>
電話が復旧した。あちこちに掛けてみたが、知り合いの殆どとはやはり連絡が取れなかった。安否確認出来た者同士は、この奇跡を涙ながらに(電話越しでも、そうと分かる)喜び合った。
元々残り少なかった知人がこの世から一人もいなくなった母は、こんな事ならあの時みんなと一緒に死んだ方がマシだったと、私をなじった。
<73日目>
時間制限のあるテレビ放送ながら、関東の爆心地帯の現況が初めて映像で報道された。やはり、アバター・アンドロイドばかりが闊歩している。遺体捜索や瓦礫の片付けには、人手は幾らあっても足りないだろうが、生身の人間がかの地に帰還出来るのは、十年先か、二十年先か、想像も付かない。国土の半分近く、それも一等地ばかりを失い、生身の人間は山間地で肩寄せ合って生きていくことになりそうだ。今我々のいる東海地方は随分と恵まれているが、その分人口密度が急激に高まりつつある。それも、圧倒的な数の難民を抱え、生活の困窮は日増しに募っていく。国家の復興など、夢のまた夢のように思う。
<102日目>
思わぬ来訪者があった。友人の、神田である。彼はアンドロイドになってやって来た。どこから操縦しているのだろう。確かにこんなご時勢だ、生身でテクテク遠方まで出歩くなど、危険この上ない。
「神田。無事だったのか!」思わず歓喜の声が口を突いて出た。だが、それを聞いた神田のアンドロイドの頬に、瞬間皮肉な歪みが浮かんだように私には見えた。
「あの日、夜勤だったんだ。――」
再会を喜び合う内、私にせがまれるまま、神田はアノ日の事を話し始めた。
「仮眠を取っているところに、ドンッときた。――何が起きたのかすぐに分かったよ。近くで核か、それに近い破壊力の兵器が爆発したんだろう、ってね」
勧められるまま神田は、仮設住宅のこれまた仮設のパイプ・チェアに腰を下ろした。疲れ知らずのアンドロイドには無用だったかもしれないが、立ったままでは私の方が参ってしまう。
「あわてて仮眠室から飛び出したが、辺りはほぼ真っ暗で粉塵がさらに視界を塞いでいた。目を凝らすと、建物は歪み、ひびが入り、あらゆる機材が破損して金属やプラスチックのクズ山となっていた。方々で悲鳴やうめき声が上がっていたが、暗い上に道が塞がれ、近付く事が出来ない。その内、火災が発生したのだろう、煙が充満し始め、息苦しくなってきた。何とか隙間を見付けて建物の外に出たが、その頃には全身火の粉を浴びたようでくすぶった熱が衣類から伝わってきた。フラフラしながら、病院裏を流れる川に向かって、土手を転がり落ちた。服に付いた火種の発火を食い止めようと思ったのだ。やがて全身が水に浸かった、ところまでは覚えていたんだが、……」
神田は一旦呑み込むように言葉を止め、天井のない屋根を見上げた。神田の勤務していた横浜市内の病院は、一度訪ねた事がある。裏手に子供が水遊びする程度の小川があった。あそこに、落ちたのか。
「次に気付いた時には、どこかの町の郊外と思しき野っ原に寝そべっていた。体を起こして全身を見下ろしてみたが、焼け跡は無い。うまいこと、川の水で消し止められたようだ。気を失っていたので判然としないが、しばらく川を流された後、無意識の内どこかの岸に上がって、再び力尽きたというところだろうか。
服はもう殆ど乾きかけていた。薄汚れてはいたが。立ち上がって道へ出るまで歩いた。――最初、既に道の上にいると気付かなかった。街灯が全て消えていたのだ。星明かりが頼りだった。後ろからタクシーが一台近付いてきた。ポケットを確認すると、財布はしっかり入っていた。その車を拾い運転手に病院の所在地を告げたが、あんな爆心地にはとても行けませんや、とすげなく断られた。当然だろう。ならば、最寄の駅までやってくれと言うと、鉄道は全て停まっているという答えだった。仕方ないので、とにかく行ける所まで行ってくれと注文した。本当にいいんですか? 皆さん逆方向に、危ない地帯からなるたけ離れるように行ってくれと、仰いますよ? と念を押された。危険地帯でも爆心地でも構わないから、とにかく行ってくれとゴリ押しした。運転手は諦めたようで、車をスタートさせた。――田舎者風の気さくな男だった。こんなご時勢だから、鉄道もバスも停まっちまって、タクシーも殆ど動いていない。だからかえって、稼ぎ時なんですよ、私どものような個人タクシーにとっては、などと道中喋り通しだった。
やがて山の裾野の、どこぞの霊園の前に着いた。この山を越えれば地獄だから、行けるのはここまでです、と言う。言いつつ運転手はこっちを振り返ったが、あのお喋りが、グイと猿轡でも咬まされたように黙り込み、何か能面のような奇妙な顔をしている。料金の請求はおろか、一言も発しない。しばらく見詰め合っていたが、また急に車を発車させようとする。僕はあわててタクシーから飛び降りた。稼ぎ時だと豪語していた彼が、何故急に無償のボランティアに変身したのか、この時は全く理解出来なかった。
既に町は遠いし、仕方なく山すそを迂回する夜道をトボトボ歩いていった。人家の無い街灯も消えた夜道だったが、寂しくはなかった。何故なら引っ切り無しに、救急車や警察・自衛隊の車両が、行き来していたからだ。あれだけの爆発があったのだ、無理もない。僕はそうした車両のどれかに便乗させてもらおうと思い、手を振ったが、まあ緊急車両にとっては当然かもしれないが、悉く無視され素通りされた。おかげで随分と歩かされたが、不思議に疲労感はなかった。
やがて道端に明るく大きな建物が見えた。大病院のビルだった。野原で意識が戻って最初に見た町の遠景は、灯火管制でもしているように暗かったが、ここは自家発電を使っているのだろう。道を行く救急車の幾台かがこの病院に吸い込まれ、また吐き出された。――病院内は右往左往していた。大量の怪我人が担ぎ込まれ、ソファといわず床といわず横たわり、うめき声を上げ続けていた。僕は当然反射的に、自分が医師である事を告げ、その救護活動を手助けしようと申し出た。ところが、だ。僕のこの呼び掛けに、医師も、看護士も、誰も応えてくれないのだ。それどころか、こっちを振り向いてくれさえしない。悉く、無視された。あたかも、僕が透明人間ででもあるかのように。
仕方ないので一人で勝手に怪我人を診てやろうと思った。ロビーの端の方にうずくまる、まだ他の医師の手の廻らないでいる、中年の女性を選んだ。左腕の付け根の辺りがパックリ裂け、出血が甚だしい。僕は彼女の左肘に手をあてがい、「ちょっと診せて下さい」と言いつつ持ち上げようとした。――が、持ち上がらないのだ。それどころか、ビクともしない。象のように体重があって、持ち上げるのが至難である、などというのとも違う。あたかも、物理法則そのものが物体の移動を禁止している、そんな感じなのだ。何しろ、肘どころか、表面の皮膚の一枚すら、僕の指に押され僅かに凹むという事もなかったのだから。――なんだ、この患者は! と思ったよ。こんな女が、人間が、この世にいるのか、とも。――肘をやめて前腕を持ち上げようとしたが、やはり動かない。肩や首も、同様だった。――諦めて、隣りの右耳辺りの出血を手で抑えている少年を先に診ることにし、「診せてごらん」と言いつつ彼の耳に手を触れたが、――柔らかい筈の耳が、まるで大理石製の彫像のようなのだ!――おかしいのは彼等ではなく、僕の方だったのだ。
他にも数人診て廻ったが、結果は同じだった。僕は途方にくれた。これでは、治療どころではない。――ここの連中は、まるでこの世のものとは思えない。あたかも、映画のセットの書き割りの中に紛れ込んでしまったように、感じた。彼等という存在自体が、この世の背後に描かれた風景の一部ででもあるかのように。
それでもしつこく怪我人に向き合おうと身を屈める背後から、「無駄ですよ」と言う声が掛かった。振り向くと、白衣を着て胸に名札をぶら下げた男が、僕に静かに微笑んでいた。どうやら、同業者のようだ。この病院で、僕を無視しない者に初めて出合った。
「無駄とは、どういう意味です?」問うと、「彼等には干渉出来ないし、彼等が我々に干渉する事も出来ません。それどころか、我々を見る事すら、存在を感じる事すら、出来ないのです」彼はそう答えた。そして、周囲を振り仰ぎ、指先で何人かを指し示した。
示された者達を見ると、皆僕や彼同様に、呆然と立ち尽くしていた。医師や看護士や、中には患者らしき者もいた。修羅場の如き医療現場を、なすすべなくただ見詰め続けていた。
「ますます理解できませんね。私達と彼等とが、別の世界の住人だとでも、仰りたいのですか?」さらにしつこく食い下がると、「バカげた話とお思いになるかもしれませんが、――私達はどうやら既に死んでしまっているみたいなのですよ。とても、信じられないでしょう?――ですが、」男は答え、さらに床に横たわる一つの動かぬ体を指差した。それは、――男自身の体だった。「私はつい二、三時間前まで、そこに横たわって喘いでいました。それが今は、ホレ、――」」
神田は何をしにここまで来たのだ。こんな長ったらしい作り話を披露するためか。だが、彼とは五十年来の付き合いになるが、フィクション気などカケラもない男だった。ましてやそれを長々語って聞かせるなど。――大厄災の後、死んだ者を悼んで怪談じみた話が横行するということはよくあるが、まさか久方振り会った友から、こんなタイミングで、そいつを聞かされるとは思ってもみなかった。
「不思議なもんでなあ。コッチの世界の物体とアッチの世界の物体の関わりというのは、心の持ちよう一つで決まってしまう。だから、人間も含めて物体は、ある時は映画の書き割りのように不動だったかと思うと、またある時は空気よりも希薄でスッとその中を素通り出来てしまうんだ。後で話すが、夢の中と同じように。だから、壁やドアを抜けるも、地下に潜るも、空中に浮くも自在だ。その病院の周囲を見て廻り、住所の表示されたプレートを見付けた。そこには、『深谷市』とあった。知っているかい、埼玉県北部の、深谷市だ。――実は僕の、生まれ故郷なんだ。そこで生まれ育って、小学校の高学年の頃、横浜に引っ越してきたという訳さ。道理で、意識が戻ってから見た、町並みや地形や景色全般の雰囲気に、どこか懐かしいところがあった訳だ。ずっと横浜近辺のどこかに流されたと思い込んでいたんだが、実は子供時代の古里に帰っていたんだな。
――その後、深谷の病院で知り合った医師らと共に、戦災で大量に発生した、急に死んでしまって戸惑っている人々のケアのような事を始めた。医者の性分かね。しかしこういうのは本来、宗教家のする仕事なんだろうがね。
中でもとりわけ悲惨だったのは、小児病棟の子供達だったな。爆風の直撃を受け、病棟が倒壊して大勢の子供達が死んだのだ。花や線香を手向けている母親らしい女性達に必死にまとわり付きしがみ付き泣き叫ぶのだが、母親達はそんな我が子に気付かない。少し肩が重い、くらいにしか感じていないようだった。いい加減泣き腫らし、疲れ果てた子供らが余りに可哀想だったので、頭を一つ撫でてやると、今度はこっちにしがみ付いてきた。それを見た他の子供達まで、僕の傍へワラワラと集まってくる。何十人からの子供達の“押しくら饅頭”状態となった。自分が一瞬、“お地蔵さま”になったような気分だったよ。
――そうこうして、アノ世での生活も二ヶ月程過ぎた頃だ。ケアに集まった亡者達の中に、一人きちんとした背広姿の、実に場違いな感じの亡者が混ざっている事に気付いた。この男は、街行く亡者達に次々話し掛け、手に持ったチラシを一人一人に配っていた。そばに寄ると、「連合政府厚生労働省の『来世創生班』の者です」と名乗り、名刺を渡された。さらに、自分は死人ではない、まだ生きています、と言った。最初、気違いか、と思ったよ。自分が死んだというあまりのショックで、気が触れたのか、とね。そういう、自分が死んだ事を認めない死者というのは、時々いるんだ。渡されたビラを見ると、『あなたも生き返ってみませんか?!』とある。続いて、『今なら国の“復興援助事業”で、無料で生き返ることが出来ます』。――最初、「詐欺か?!」と疑った。アノ世にまで、“俺々”のような、新規参入者をカモろうとする詐欺があるのか、とね。さらに男は、説明を聞いてくれと、しつこく付きまとってくる。新手の新興宗教か、と考え直した。死んだ後まで、アノ世ですら、新興宗教のたぐいがあるのか。それとも、アノ世だからこそ、そうしたものが相応しいのか。だからその後そいつとは極力関わりを持たないようにし、男の事もビラの事も忘れるよう努めた。
ところが周囲で、その“復興援助事業”とやらの経験者が、どんどん増え出したのだ。彼等の話を聞くと、信じ難い事だが、その事業に参加すると、現世の者と本当にコンタクトが取れるという。まあ暇だったし、死んじまって無一文になったから(地獄の沙汰も……、と言うが、ポケットの財布の中身は、アノ世では使い道がなかった)これ以上失うものもない。試しにセミナーに参加してみたんだが、――確かに現世の人間と通話が出来るみたいだった。世の中ここまで進歩したのか、と思ったね。
で、難し過ぎる話は無論分からないが、セミナーで、このシステムはシチャカ社の開発したインターフェイス技術を基盤にしています、と説明されて、――ピンときたよ」
ここまで一気に喋り終えると、神田は一息入れた。それから、最も重要なキーワードを打ち明けるという風に、小声でボソリと言った。
「シチャカ社のバーチャル・ワールド用新型インターフェイス、――スウェーデンボルグ・シリーズという。
スウェーデンボルグ、知っているだろう?」
少々不意を突かれたが、私は古い知識を検索し、その名前を思い出した。
「ああ。――確か、十八世紀の著名な科学者、思想家で、おまけに霊能力者だった男だな。カントあたりと、同時代人だ」
「そうだ。若い頃はヨーロッパ全土で名の知れた科学者だったらしいが、晩年になって突然“霊の世界”に目覚めた。そして、“霊界”を何度も訪問したと主張して、膨大な量の“霊界レポート”を出版した。カントも、“あの碩学が、とうとう狂ったか”と評したそうだ。そのスウェーデンボルグから名を取って、シチャカ社の新製品は命名された」
「ますます分からん。どういうことだ?」
「何故なら、シチャカ社の新型インターフェイスは、スウェーデンボルグの霊界報告からヒントを得て、造られたものだからだ」
十八世紀の神秘主義者と関連のある最新技術。そして今現に目の前にいる、既に死んでいると主張する友人の神田。あらゆる光を屈折させ真実を閉ざす迷宮のような空間が、この場を包み込もうとしているように思えてならなかった。今日は母も妹も留守にしている、本当に救われた。
「僕の専門は脳外科だからね。実はこのインターフェイスの実験には、何度か立ち会っているんだ。色々噂話も、聞いている。
そもそもスウェーデンボルグの霊界の構造というのは至極単純で、死後の個々人は、スフィア(霊圏)と呼ばれる“明晰夢”の如き幻想に各々捕らわれる。さらにそのスフィア中の共通の関心項目により、個々人は同床の夢を見る(これを、共鳴、という)。こうして人々の間のコンタクトは取られ、その集合体として、世界は形成される。そのたった二つの法則を、生きている人間にも脳科学的に再現させ、バーチャルネット世界に移植したのが、シチャカ社のインターフェイスという訳だ。――何しろ明晰夢で作り出すバーチャル世界だ。ネットの中に人工の世界を造り込む必要がない。東京もニューヨークも、山も海も、空間も時間も、モブ・キャラ達も、何も要らない。全てをユーザーが、自ら勝手に造ってくれる。それも最高度のリアリティーで。自分の記憶から紡ぎ出すのだから、紛い物になる余地がない。安価に満足度の高いネット世界を構築出来る、画期的なシステムだ。
このインターフェイス、多方面の用途に使われている。娯楽や実務にも強いが、脳神経系の実験でもよく使われる。――で、噂は以前から、聞いていたんだよ。――実験中、アレがコンタクトを取ってくるって」
「アレ?」
「そう。現代版の降霊術、と言ったところかな。接続されていない筈の、それどころか既にこの世に存在しない筈の人間と、コンタクトが取れてしまうのさ。
――確かに、スウェーデンボルグがその存在を強く主張する霊界と、同じプラットフォームで駆動しているのだ。なんとなく納得のいく気もするが、……」
気付くと私は、友のとんでもない話に心の芯から滲み出るような恐怖を覚え、その話に対する反撃の糸口を必死になって探していた。反論の仕方は幾らでもある筈なのに、何故か一つも具体的に思い浮かばない。そこで少々的外れの角度から、神田の論法の切り崩しを図ることとなってしまった。
「待ってくれ。しかしそれは、あくまで“アノ世がある”という前提に立っての仮説だろ? それを信じろというのか」私は生身の顔をしかめて、アンドロイドの顔面を睨み付けた。本音を言えば、人間が永遠に生きねばならぬアノ世など、在って欲しくなかった。
「何故アノ世があるのかの根拠については、アノ世で色々聞かされたよ」こっちの熱と反比例するように、神田は落ち着いていた。「何故地球が奇跡的に創世されたのか、何故人類が奇跡的に出現したのかと同じような、何とも手前味噌な後付けの理由になるがな。それにアノ世には、飛び切り優秀な科学者がゴロゴロしている。何故なら死んだらみんなアノ世に行って、そしてアッチで研究し続けているのだから。で、彼等の主張を要約すると、神だか異星人だか異次元人だか未来人だか知らないが、我々より途轍もなく先行した存在が、我々の、そして地球の全記録を、せっせとライフログし、溜め込んでいるアーカイブがあり、それがすなわち“アノ世”なのだろう、ということになる。そして、コノ世とアノ世、二つの世界は本来交わらない筈だったが、たまたまアノ世と同じ原理を採用したバーチャル世界を創ってしまったために、その接点で予期せぬ交流が始まった、……。
となれば、あとは容易だ。厚生労働省のプロジェクトも同じ方式を採用していた。シチャカ社のネット世界に、まず通常のネット世界を接続する。バーチャル・ネット世界の“二重連結”だな。その通常ネット空間から、物理世界のアバター・アンドロイドを操縦する、という訳だ。
――僕は現世で、医師の仕事を再開したよ。縁の出来た深谷で、クリニックを開業した。何せアノ世にも今の横浜にも、医者の仕事はないからね。以前の担当患者は殆ど死んでしまったし、一度死んだ人に医者は要らない。それにアンドロイドに必要なのは、医者ではなく整備技師だ。生と死がせめぎ合っている深谷辺りが、医療を最も必要としている訳だ。それは、この三島も同じかな。
死んだ妻や子供達をアノ世で探し当て、今は深谷に新居を構えて、これまでと同じように一緒に暮らしているよ。――君も是非一度、以前のように、新居に遊びに来てくれたまえ」
<107日目>
三島駅前のレンタル・ショップで、車とアンドロイドを借りた。私の顔写真から、顔面部分が即席造形され、アバターとなる。廉価版だから体型は汎用で、本来のメタボな私よりは大分スリムである。ヘッドセットを装着し、ソファに寝そべった。――国道一号線がようやく復旧し、都心まで開通したそうなので、一度鎌倉に様子を見に帰ろうと思う。
実は、神田の来訪がきっかけとなり、もしやと思って大船の隣家の囲碁仲間に電話してみたのだ。ずっと音信不通だったし、核の直撃を受けた筈だから正直期待していなかったのだが、思いがけず、以前の記憶にあるものよりさらに明るい声で、隣家の永井さんは電話に出た。取り留めない早口で、互いの無事(?)を喜び合った。永井さんには以前静岡の三島に旅行していると連絡してあったので、そちらの様子はどうだと早速訊かれた。こっちは大量の避難民を抱えて、生活も人付き合いも大変だ、と答えた。すると永井さんは、待ってましたとばかりに切り返し、コッチは素晴らしいぞお、全てが順調だ、と自慢げに話し始めた。
彼によると、コッチはどんどん復興が進んでいる、元の家は丸焼けになっちまったが、仮設住宅が戸ごとに建てられ林立し、商店街や学校の再開も間近い、とのことだった。なるほど、そういう話はテレビでも報道されていたが、にわかには信じ難かった。いかんせんいまだ、あの辺りに踏み込めるのはアンドロイドだけの筈だ。生身の人間では、数時間も滞在すれば致死量を越して被爆してしまう。それでも永井さんは、すぐにでも戻って来いよ、また囲碁仲間を集めて酒を酌み交わそう、と私に帰還を強く勧めた。
江ノ島の灯台が、途中から折れていた。江ノ電の車両が、焼け焦げて横倒しになっていた。大仏の左半身が、溶け落ち、800年前の銅の固まりに戻っていた。
由緒ある町並みは殆どが灰燼に帰し、形が僅かに残っていてもペシャンコに潰れ、かつて観光客で賑わった小町通りや若宮大路は無人の廃墟群と成り果て(段葛の並木のみ僅かに面影を留めていた)、海水浴客で賑わった由比ヶ浜は南関東一円の大量の瓦礫が打ち上げられていた。
滑川河口の交差点で信号待ちしている時、近くで瓦礫の撤去作業中のアンドロイドに車窓越しに訊くと、以前は街中にも道路にも海岸にも、焼死体や溺死体やバラバラ死体がゴロゴロしていて、死臭が酷く大変だった(だから、アンドロイドの臭覚センサーをカットして作業していた)、と話を聞かせてくれた。由比ヶ浜に死体が敷き詰められた様は、鎌倉時代浜が墓場として使われていた当時はこんな光景だったんじゃないかと、まるでタイム・スリップでもしたような錯覚に襲われたものだよ、と彼は続けて語った。今は殆どが収容され(瓦礫の下にはまだ相当残っているらしいが)、大きな施設に安置されて身元確認が済んだ者から荼毘に付されているという。
立ち並んでいた大寺院と、その大伽藍の類も、悉くが倒壊し焼け落ち、それらの蔵していただろう宝物、歴史的遺物の類も、今やこの世の無常を訴えるだけのものとなった。そんな寺社の境内の内外、町のそこここで見掛けるのは、相変わらず傍若無人にうろつき回るアンドロイドばかりである(そういう私も、今はアンドロイドだったが)。永井さんは復興が進んでいると言っていたが、これのどこに復興の兆しが、希望の宿りがあるというのだろう。――八幡宮は背後の大臣山も丸裸となり、その焼け落ちた樹木と社殿の炭の固まりが大階段も舞殿のある広場も覆い尽していた。その焼け爛れた源氏の氏神と鎮守の森の横を抜け、北鎌倉に出た。
「よう、岩田さん(私のこと)。戻って来られたか」永井さんは、電話口と同じ異様に明るい声で、私を出迎えた。
なるほど、彼の宅地を始め付近のそこここに、既に仮設住宅が建てられている。――彼の新居の呼び鈴を押す前、自分の住まっていた今は廃屋の周囲をうろうろし、残骸を掘り返して、何か無事なものは残ってないかと物色したが、無駄だと分かって諦めがついた。
永井家は、奥さんも二人の子供達も家に戻り、一家全員が揃っていた。小さな子供達は相変わらずドタバタと賑やかだったが、ただ顔面はアバター仕様で以前の顔を留めているが、身長や体格は年齢の割りにチグハグだった。安物のアンドロイドは、靴のサイズのようにあらゆる身長や体型を揃えている訳ではないから、これは致し方のないところだろう。
生身ならすぐ飲み物の運ばれてくるシチュエーションだが、悲しいかなアンドロイド同士にはそれはない。もし出されても、あくまで形式的なものだ。(喉が渇いて本当に水分が必要な時には、三島のレンタル屋のソファの上で、生身の自分が緑茶なりコーラなりを飲むこととなる。)
正直今まで経験した事の無い程打ち解けて、永井さんと、当節のご時勢の話とか、ご近所の世間話とか、諸々の噂とか、取り留めなく話し込んでしまった。三島では、家族の間では、こんな話は出来ないという事情もあろう。四ヶ月近くも無駄口を叩く事が無く、こんな話を聞き、話す機会を失い、飢えていたのだ。――コッチは復興にネコの手も借りたいくらいだ。町内会や市役所の方で、色々なプロジェクトが立ち上げられ、参加人員を募集している。特に旧住民の参加者は引っ張りだこだ。岩田さんも是非ともコッチに残って、手を貸してくれ。永井さんは熱っぽくまくし立てた。
以前とは見違えるほどに元気のいい永井さんだが(使命感を持つと人はこうまで変わるものなのか)、果たしてこのアンドロイドは、私のような生者が(永井さん一家が運良くサバイバル出来ていたとして)、操縦しているのだろうか、それとも、神田のような死者が、操縦しているのだろうか。永井さんのはしゃぎっぷりを見るにつけ、私はそんな疑問が強く湧いた。「何か、永井さん、……前に会った時より元気がいいね」私が率直に疑問をぶつけると、彼は一瞬キョトンとし(こういう表情が再現出来る辺り、今のアンドロイド技術は本当にすごいと思う)、それから変わらぬ元気っぷりで答えた。「そうさな。持病で飲んでいたニトロが、必要なくなったからかな。何しろ、一度死んじまったんだから、……」
<121日目>
被爆後四ヶ月経過したが、原爆病による被爆死がまだ続いていた。その数は、広島長崎の百倍近くに及ぶという。被災直後の戦傷死を乗り越えた人々が、余分な苦しみを味わった末続々悶死しつつあるのだ。私と妹は看護のボランティアを続けていたので、彼等の出血、紫斑、脱毛、発熱、下痢、脱力等々といった症状と間近に接し、彼等の嘆きや叫びを直に聞いた。――苦労して箱根の山越えをしてここまで逃げてきたのに、まるで無駄だった。こんな事なら、核の閃光で一瞬で蒸発した方が、まだましだった。この苦しみを、どうか取り除いて欲しい。――彼等を看取り、野辺送りした。
ところが程なく、彼等から連絡が入るのだった。生前は本当にお世話になりました。ありがとう。今は、すこぶる元気で、達者で暮らしています。故郷に帰って、バリバリ働いていますよ。
彼等の死後の無事を、残った患者達に気分を和ませようと思って知らせると、生き残った者達からは、“こうも苦しみが続くのならば、いっそ安楽死させて、一刻も早く復活させてくれ”と強く要望する声が、大合唱となって上がってくるのだった。
そんな話を、高校の同窓会の連絡がてら神田にすると、“医療は、無意味なのか”と、自分も死人のくせに、電話越しに神妙な声で友はぼやいた。
<128日目>
今まで縁のなかった、町内会というものに出席してみた。被災地支援なり復興ボランティアなり、旧居住地の近辺で活動しようと思うなら、どうしても町内会の人とは顔つなぎしておく必要がある。
地区の公民館には、この界隈のおじさんおばさんのアンドロイド達が、ズラリ集っていた。ある意味、壮観である。三々五々グループを作り、「今回はとんだ事で」とか「世の中便利になったものだ」とか挨拶を交わしたり、「全く、死ぬ思いをしたよ」などと冗談を飛ばし合ったりしていた。
議事進行の始まる前に、新参者が自己紹介した。私も、レンタル・アンドロイドの油切れの膝関節を軋ませながら立ち上がり、「――丁目――番地に住まっていた、岩田と申します。既に年金生活の気楽な身分です」と挨拶した。
立ち上がって喋りながら、地区会長の後方の貴賓席に陣取っている人物が気になっていた。どこか見覚えのある風貌である。直に会ったという記憶はない、写真か何かで見た顔か。
どうして目に付いたのかといって、アバター・アンドロイドが、造り込んだ、いかにも金のかかっていそうな、オーダーメイドの高級品なのである。生前の姿を生き写したのだろう。デップリした体つきといい、肌のテクスチャーといい、既製品にはない高級感が漂っている。こうしたアンドロイドは、珍味を食えば細かい味が分かり、酒を飲めばちゃんと酔えるそうである。(それでも動力源は、汎用式と変わらずバッテリーだが。)どこぞの市会議員か何かだろうか。
ホワイトボードに書かれた通り、議事が進行していった。当然ながら、議題の殆どは復興事業の進め方についてである。ボランティアの受け入れとか、行政との折衝とか、復興事業への参画とか、学校再建の要望とか、未整理地区の防犯とか。
議題の途中で、飛び込みながら重要事項の確認が、差し挟まれた。「ついさっき市役所から連絡の入った要請ですが、――いまだ体育館等に本人確認の済んでいない遺体が、多数安置されているとの事です。――集団荼毘に付す期限が迫っていますので、各地区責任を持って、地区住民に本人確認を済ますよう再度働き掛けていただきたい、との事でした」議長役が、渡されたメモを読み上げた。
レンタル・アンドロイドのスペックでは、白湯とあまり違いの分からない薄い茶を啜っていると、「あなたはもう、ご自分の遺体の確認は済まされましたか?」隣の男が訊いてきた。私が新顔なので、興味を持ったのだろう。
「自分の死体と対面するというのも、何とも妙な気分のものですな」男は話し続けた。「あのドライアイス漬けで凍り付いた顔を見ていると、いつの間に自分の蝋人形が作られたんだなどと、変な妄想に捉われてしまう。あっちが本物で、こっちが偽物なのに。それでも本人確認をして、自分の体に踏ん切りをつけなきゃいかん。私だけじゃなく、皆さん自分自身と顔を合わせ、一瞬アンドロイドの表情筋をしかめるが、それでもその後は坦々と必要な処理業務をこなしていく。葬式をおのが手で済まし、埋葬する。どなたも、墓は簡素なものになりますな。そりゃ、そうでしょう。自分の墓に墓参りしても、しょうがないですから」
はあ、そんなものですか、と私は感心しながら聞いていた。死体安置所で、自分の死体と対面し、行政手続を済ます死者。立ちくらみするような不条理な落語でも聞いている気分になる。
「で、あなたのご遺体は、どちらに?」男が再度訊いてきた。「いえ、私は――、」ここは正直に答えておいた方がいいだろう。「死んでいないんですよ。――大分遠方になりますが、まだ生きていて、そこで暮らしています」男は不意を突かれたようで、しばらくポカンとした表情のままでいた。
私はかいつまんで説明した。あらかじめ計画しておき、家族揃って三島へ避難したこと。おかげで何とか生き延びられたこと。――ところがそれを聞き、男の表情が瞬間険しいものに変わった。――イカン、地雷を踏んだか。そりゃそうだ。タイタニックから何食わぬ顔で、抜け駆けして逃げ出したようなものだ。取り残されて犠牲になった大多数の者の心の奥には、恨みがましい気持ちが拭い難く残っていても不思議じゃない。普段陽気に振る舞っている死者達だが、彼等の連帯感は、裏を返せば同じ悲惨を味わった者同士の哀れみ合いだ。
「ホウ。まだ生きている方が鎌倉の再建に手を貸したいとは、それは珍しい」男は険を隠すように声を和らげ言ったが、それでも本音は滲み出ているように思う。そのあと会話は立ち消えとなってしまい、気まずい沈黙が残った。
だから、見覚えのある茶請けの菓子が参会者一同に配られ、議場の雰囲気が変わった時、正直ホッとした。――その茶菓子の包装袋を見て、貴賓席の金満アンドロイドの正体を即座に思い出した。売り出した焼き菓子が鎌倉の名物となり財を成した、菓子屋の主人である。立志伝中の人で、鎌倉商工会の現(というか、つい戦前まで)会頭だった人物だ。
「今日特別にご臨席いただいた商工会役員の方から、皆さんにご挨拶がございます」地区会長が会頭始め貴賓席のアンドロイド達を紹介した。会頭が代表で壇上に立ち、話し始めた。
「今お配りした当店自慢の銘菓は、復興成りました我が社の第一号工場が生産を再開し、最初に焼き上げたものです。戦争前と変わらぬ品質を保持していると、自負しております」会頭は菓子袋を破り、パリンと割った焼き菓子の一片を口に頬張った。「ウーム、うまい。この味だ」言った。
参会者も次々袋を破り、菓子を頬張る内、会頭は見得を切るように壇上をグルリと一周し(地区公民館の集会場のそれだから、大したものではない。下手をすれば会頭の巨体は、すぐに壇の縁から足を滑らせてしまうだろう)、参会者の金属とプラスチックがハイブリッドされた顔を見回した。
「あのような事になりまして、――我がふるさと鎌倉も、再興はとても不可能と思われる程の打撃を受けました。――だが、ご覧の通り、僅か四ヶ月程で、鎌倉名物は復活したのです」
言いつつ、また焼き菓子のひとかけらを口に入れた。
「我が商工会は、全力を傾注して、鎌倉復興のために尽くす所存でございます。皆様にも、何卒お力添えを戴きたい。
つきましては、――」
そこで会頭は、脇に置いた書類入れから、一枚のパンフレットを取り出した。何やら色彩豊かな、派手な絵が描かれているが、遠くからでは何が描かれているのかよく分からない。
「つきましては、鎌倉復興を印象付けるため、シンボルともいうべき一大イベントを決行したいと、商工会一同考えております。そのイベントへのご参加、ご協力を、皆様にもお願いしたい。
そのイベントとは、――鎌倉伝統の呼び物、“花火大会”です。
七十回以上も続いているこの大会を、戦争に蹂躙されたからといって、ここで絶やす訳には参りません。是非とも、由比ヶ浜、材木座の両海岸に、戦前に劣らぬ規模の大輪の花火を打ち上げたいと思っております。
そのため、我が商工会は会員の総力を上げまして、このイベント成功のため努力する所存でございます。ですから皆様にも、重ねてお願い申し上げます。何卒このイベントへの、ご参加、ご協力を、お願いいたします」
会頭の持っていたのと同じパンフレットが配られた。毎年配られている花火大会告知パンフレットの、今年度版だった。ただし、まだ具体的な日付が入っていない。それにあちこち、詳細未定なのだろう、空白部分が目立つ。
――私はパンフレットを、永井さん宅に預けた。この地域のものを、三島に持って帰るわけにはいかない。入念な除染作業を経なければ、それは一草一木許されぬことなのだ。
<133日目>
三島の碁会所で知り合った河野さんは、数奇な運命を経験した人だ。核が落ちた夜、彼は浜松に出張していた。町田の自宅は被災し、妻と三人の子供達は死んだ。
その妻子が、アンドロイドになって戻ってきた。今は、三島に借りた新居に、親子五人仲睦まじく暮らしている。何故三島なのかと問うと、少しでも町田に近い所に住みたいのだ、と五人は口を揃えた。
一家揃って我が家に遊びに来たが、子供好きの母が、アンドロイドの子供達を見て気味悪がった。「あの子達、本当は死んでるんでしょう? 死人がロボットを操ってるんでしょう? まるで、幽霊ね」――母には、ネット経由で死者が現世にコンタクトを取るなど、到底理解出来ないし、許せる事ではなかった。彼等と二度と顔を合わせようとしなかった。
生者の中で死者が暮らすのは大変だ、と河野さんは愚痴をこぼした。何かと陰口を叩かれ、後ろ指をさされる。母ならずとも、多数派の生者の中に少数派の死者が紛れて暮らすなど、許せるものではない。表立った迫害はまだ起きていないが、不測の事態が心配で気苦労が絶えない。
中でもとりわけ問題なのが、子供達の教育だ、と河野さんは続けた。もう死んでしまったからといって、教育を受けさせない訳にはいかない。しかし、死んだ人間が当地の学校に転入する事も出来ず、どうしても高い月謝を払って私塾に通わせざるを得ない。教育委員会に訴えたが、勿論現行法上は無理だし、もし万一同じ教室に生身の子とアンドロイドの子と席を並べる事となったら、気味悪がる子供もいるだろう、また確実にイジメの標的となるだろう。それに親達が、放射能の汚染源だと騒ぎ立てる事だろう。と、けんもほろろに門前払いされたそうだ。
そういえば、永井さんちの子供達も、家の中でくすぶっていた。学校には通っていなかった。この問題は、早期に解決せねば、我が国の将来に大きな禍根を残す事になるように思う。
<150日目>
「この河口近くの滑川の岸辺に、かつて空母『赤城』艦長時代の山本五十六の家があったのです」
商工会会頭が、鎌倉女学院裏手の、川を挟んだ対岸を指差し、私に説明してくれた。
「もっともこの土地を選んだのは彼の細君で、五十六が駐米大使館付武官として日本を離れていた間の事でした。昭和初期といいますから、大正大震災からまださして経ってはいない。ここらは津波で洗われた土地だった筈です」
復興事業の進む土地を現地視察する一行に、私も同行していた。商工会や市役所のお歴々の中に何故私も加えられたのかといえば、商工会会頭御自らのお声が掛かったからだ。私がまだ生きていると知られて、その希少価値ゆえに目を付けられた、といったところのようだ。
「大変な勇気ですな。普通なら津波の災禍を思い出し、尻込みするところでしょう。あるいは、地震周期説に照らし、被災した直後の場所は次に被災するまでの期間が一番長い、とそう判断したのかもしれない。
いずれにせよ、私どももこの女傑の英断を見習わなくちゃいけません。今の、荒廃した鎌倉の上にこそ、新生鎌倉は建設されるべきだと」
瓦礫と盛土の間を縫うようにそぞろ歩きつつ、会頭は彼方の海と背後の山々を交互に指し示した。
「見て下さい。この海と山々に囲まれた得がたい土地に、風情ある古都のたたずまいは復活するのです。寺社が再建され、町並みが整備される。そして、それらから見上げるように、あの海の上に大輪の花が開く、……」
「しかし、なればこそ、」と、会頭の隣を歩いていた副会頭が、唐突に会話に割り込んできた。「寺社と町並みの復活を、優先させるべきなのではありませんか?
寺社と町並みこそ鎌倉のキモであるとは、衆目の一致するところでしょう。それなのに、イタズラに花火大会を先行させるのは、かえってそのキモがいまだ復興には程遠いことを天下に知らせるようなもの。下手をすると、復興鎌倉の印象を地に落とす事にもなりかねません。――非常に危険な賭けであると、私には思えるんですがね。
岩田さんは、どう思われますか?――生者の方の率直なご意見をお聞きしたい」
突然振られ、私は面食らってしまった。商工会に出入りし分かった事だが、会頭は以前花火大会を商工会一丸となって成功させるなどと宣言していたが、――現実はさにあらず、商工会は決して一枚岩ではなく、その内部に根本的な方針の対立を抱えていた。そしてそれらの方針のどちらがより良いかなど、私に判断のつこう筈もない。
「しかしね」と、会頭が副会頭に反論した。「それらの悉くが充分な復興を果たすのは、果たして何時になることやら。――町並みの方は我々の力で何とかなると思うが、問題は寺社だ。
町衆は現世利益という共通目標があるから、一斉に同じ方向を向くだろうが、寺社は、その存立基盤からしてバラバラだ。それらが継続していたのは、伝統的に存続し続けていたという、ただその偶然のみに拠っていた。だがそれが、その継続が、一旦ここでご破算になった。――果たして彼等は、再興出来るのだろうか? 主体自体が消滅してしまった宗教団体も多い。本山がなくなり、系列のみとなった寺は、その末寺が寄ってたかって助けてくれるのか? むしろ、足の引っ張り合いをするのではないか? そも、死者を弔う場所だった筈の寺院が、その死者が復活してしまって町中で活動していては、存在理由そのものを問われかねないのではないか? 禅宗的な、修行の場としての寺院のみ復活させ、あとは廃寺とするのか?
旧に復する形で鎌倉の再興を待っていたのでは、――何時になることやら、気が遠くなってしまうよ」
「……だからといって、ここで花火大会を決行するのは、余りに早計だと思いますがね。せめて大寺院の幾つかと、ランドマークたる八幡宮は復活させない事には。これら無くして土産物屋ばかりあっても、仏作って魂入れず、だ。――こう考える者は、私の他にも、商工会や市の幹部の方々の中に、大勢いらっしゃる、……」
そう言って副会頭は、賛同を求めるように周囲の人々を見回し、一歩も引かなかった。
気まずい雰囲気がしばし一行を支配し、言葉を鈍らせ、歩みをぎこちなくさせた。――そこで私は、町の復興について、花火大会でも寺社町並みの再建でもない、第三の要素を思い付き、それを口に出した。話題を逸らし、剣呑な空気を和らげたかったのだ。
「先程大正大震災の話が出ましたが、来るべき南海大震災等の災害を睨んで、防災都市化も、町再建のプランの中には当然含まれているんでしょうね?」
沈黙が破られ、瞬間皆ホッとした顔に戻った。
「ええ、勿論。考えておりますよ。究極の防災都市プランを」会頭に代わって、副市長が勇んで振り返り返答した。「それは、――“何もしない”ことです」
彼の発言の真意が分からず、私は訊き返した。「何もしない、とは?」
「伊勢神宮などの式年遷宮、あれをイメージしていただければ分かりやすいですかね」副市長は、研究会で子供が突飛な思い付きを発表する時のように、得意げに説明し出した。「鎌倉の町のハード面の、完璧なデータをワンセット保存しておくのです。そして、今回のように、町が災厄に襲われ全壊するたび、全部立て直し再現すればよろしい。つまり、人命救助のための方策を、一切取らなくていい。だって、必要ないでしょ?――これ程簡単で完璧な防災マニュアルは、他に無いでしょう。人命を一切考慮する必要がないのですから、これからはどんな突飛な都市計画でも、実現可能ですよ。
ああ、勿論、いずれ被爆の心配が無くなって、あなたのようなまだ生きていらっしゃる方が生身で観光に訪れた時には、ちゃんと避難誘導出来るよう配慮いたしますが、……」
なるほど、そういうシカケか。彼等は文字通り、この町で生きてはいない。町と、生きることと、乖離しているのだ。“復興”の名をいくら借りようと、この町はもはや死人の町なのだった。
「しかし肉体がまだあるというのは、――羨ましいですなあ」会頭が、私の安物のボディーを舐めるように眺めつつ、感慨深げに頷いた。「この体(と、自分の金満ボディーの胸の辺りを叩きつつ)、特別仕様の味覚・嗅覚センサーを可能な限り装備させたのですが、――それでもやはり生身の体には及びません。細かい味のニュアンスが、微妙に違う。
出来れば生きている間に、全ての美味を味わい尽くしたかった、……」
病気等全ての肉体的苦痛から開放され、且つまた不死で不死身の(というか、既に死んでしまっている)彼等だが、反面肉体の持つプラスの面も手放してしまったという訳か。私が一本釣りされ彼等の仲間に迎え入れられたのも、まだ生身を持つ私を羨んだりおちょくったり身近に感じたり冷静に観察したり、したいがためのようである。
「箱根越えして、三島へ逃げたんでしたっけ。うまい事やりましたなあ」副会頭が恨めし気に言った。「核戦争を警戒しあらかじめ対策を講じていたのは、私もあなたと同じです。実は自宅の裏庭に核シェルターを掘り、緊張が高まり始めてからの十日間ほどはシェルター内で寝起きしていました。核が落ちた当日も、シェルターの中で寝ていたんですよ」
副会頭のこの告白は、商工会始め一同にとって初耳だったようだ。皆副会頭の方を見、耳をそばだてた。
「衝撃に起こされた後も、シェルターの機能は正常でした。ライフラインが途絶えた事はすぐに分かりました。自家発電が動き出し、空気や水の浄化も順調に始まりました。テレビは映らず、僅かに短波ラジオだけが小さく聞こえます。首都圏に核が落ちたと告げていました。地表に出した放射線計測器が、とんでもない値を返してきました。これから何日この中で暮らすことになるのやら、憂鬱な不安に襲われました。
勿論水と食料は、充分にストックしてありました。私と妻の二人で、一カ月分はタップリとね。一週間ほど経った頃には、自衛隊のアンドロイド部隊が現地に入ったという報道を聞きました。二週間過ぎた頃には、一度思い切って、シェルターの重い扉を開けて、外を覗きに出た事もあります。一面瓦礫に覆われ、使える車もなく、徒歩での横断はとても無理と、すぐまた扉を閉じました。こうなっては、水と食料が底を突く前に、放射線量が下がって外に出られるか、あるいは助けが来るか、それとも両者とも間に合わないか、……。――結局、間に合いませんでした。私と妻は餓死しました。あとでシェルターから掘り出した私と妻のミイラは、さながら即身仏のようでした。
ですから、姑息な浅知恵など使わず、美食の記憶のまま死んでいった会頭が羨ましい。三島で今も旨い物をたらふく食っている岩田さんは、もっと羨ましい。
アノ世で、そしてコッチの世界でも、私はしばしば空腹過ぎて腹と背中がピッタリ張り付く幻覚と、腹一杯食って食って食いまくる妄想とに、交互に襲われます。こういうのを、餓鬼地獄というのでしょうね。会頭とは別の形の、餓鬼道の苦界です」
彼の話に、皆しんみりしてしまった。
「現世の思い出が、トラウマやら未練やらになって残りますな。――私の場合は、仕事に寄せる未練ですかね。皆さんにも、お心当たりがあるでしょう?」先程究極の防災都市の話をした副市長が、副会頭の跡を継いだ。
「大船在住の岩田さんならよくご存知でしょうが、あそこの駅前再開発は鎌倉市都市部の長年の悲願でした。私は都市部の叩き上げで、部長の時ガンガンそいつを推し進めたものです。そして、いよいよあと一歩で完成、というところでアレに見舞われました。
私の四十年の、いや諸先輩方から連綿と続く六十年掛かりの再開発の夢が、一瞬でついえました。たった一瞬で、一面の更地に戻ってしまったのです。あの昭和の終戦後のような。その後の六十年間の努力とは、一体何だったんでしょう」
副市長に呼応するように、二、三の人々がそれぞれの未練を披瀝した。「私は一生かかって集めた三万冊の蔵書を、全て炭の固まりにしてしまいましたよ」「私は、蒐集した古物だ。もはや皆修復不可能な程、微塵となって鎌倉の土に返った。笑って下さい」「私の場合は仏教哲学について書き溜めた原稿かな。二十年来世に問う日を楽しみにしていたんだが。デジタルデータにもバックアップしてあったが、その両方ともやられた、……」
「しかし副市長さんや副会頭さんは、ご家族が一家揃っていらっしゃるからまだ幸せなんじゃないですか?」商工会の会計担当氏は、視察の始まった時から行列の一番尻尾にかろうじて付いてきて、終始浮かない顔をしていた。たまに話し掛けても、暗い笑顔を返すのみである。その彼が言うには、「私どものウチなんぞは、一家離散状態で、……。妻は一緒に死んだ筈なんですが、アノ世でも出会えていません。八王子にいた娘夫婦は、生死すら不明で行方不明のまま。同じく娘でヨーロッパに留学中のがいますが、コッチは生きている筈なんですが連絡も取れません。新潟と鹿児島にいる息子達には、同居を拒否されている、こっちにはこっちの生活があるからと。――結局生き返っても、一人ぼっちで暮らすハメになった、……」
「そうでもないよ」と副会頭が、不満げに漏らした。「ウチのせがれ一家は、危なくなったらいち早く海外へ逃げ出しおった。父さんにはシェルターがあるから安心だとかぬかして、私達を置き去りにして。今じゃあっちで暮らしていて、連絡すら殆どよこさない」
生者と死者、放射能汚染の壁に阻まれて、一家一緒に住む事も、交流する事も、ままならないということか。しかし、もし仮に無理を押して一緒に住めば、今度は河野さん一家のような、酷い仕打ちを世の中から受ける事にもなりかねない。
「しかしホント、ベッドの上でマトモに死にたかったなあ。あんな焼け付くような苦しみを味わって、非業の死を遂げるなんて。想像もしていなかったよ」商工会の役員の一人、サーフボード加工工場の社長が、材木座の波打ち際を見下ろしながら言った。「あの日は深夜まで、工場でボードを削っていた。衝撃波で瞬間で工場はペチャンコになったが、俺は何故か削りたてのボードを抱えたまま潰れた工場の屋根の上に立っていたよ。周囲は既にオーブンの中のように焼け爛れる熱さだった。一瞬で、全ての木造家屋が発火したんだろう。俺はボードを抱えて海へ走った。火から逃れるにも、この町から脱出するにも、海へ逃げるしかないと、動転した頭で判断したんだ。マリンスポーツの技能を活かすチャンスは、今しかないと。――随分長い事、波に乗っていたと思う。多分自分史上、最長記録だった。何せ、陸には戻れなかったからな。――あとで自分の溺死体と再会した時には、幸せそうに笑っていると思ったよ。
それにしても、岩田さん、ホントうまいことやりやがったなあ。あのタイミングで、逃げおおせるなんて。俺にも声を掛けてくれりゃよかったのに。――おっと、当時はまだ知り合いでも何でもなかったか」
「オーブンの中か。本当にそんな感じだったな」滑川の対岸の海浜公園の跡地を見晴らしながら、現都市部長が“アノ時”の事を思い出していた。「私は残業明けで、タクシーで帰宅する途中だった。丁度あの辺り、海岸沿いの道に差し掛かった時だよ。ピカッとフラッシュライト攻めにあった時のような光が来て、車も服も皮膚も髪も赤黒く焼け爛れた。横須賀に落ちた奴だろうね。車は路肩に突っ込んだが、まだ意識はあったな。夜だから走行車数は少なかったが、それでも道のあちこちで、車が燃え上がり人が燃え上がり、人の悲鳴が燃え上がっていた。谷沢さん(ボード屋の主人)程冷静な判断は出来なかった。ただ、水に飛び込みたい一心で。道路脇の石垣から海岸に転がり落ちた筈だが、そこで記憶も意識も終わりだ、その先はない、……。
あの苦痛を味わわなかっただけでも、岩田さんは幸せですよ。本当に、ラッキーな方だ。羨ましい」
またしても私に、ブーメランのように話が戻ってきた。生き残った者が一人だけで、死者達の中にポツネンとしているというのは、何とも分が悪い。
僕はあの時、屋根と畳の間に挟まれて身動き取れず、ただ迫り来る炎をジッと見続けるしかなかったよ。私は体の表面が全て溶け落ちて、近くで寝ていた孫と全身が一体に溶け合ってしまったな。俺は、床の間に飾ってあった自分の生涯の業績の証しの、トロフィーやらカップやら楯やらが、砲弾のような勢いで飛び掛ってきて、肉も骨も内臓も、散り散りの千のカケラになっちまった、……。“未練”や“一家離散”の時のような、悲惨さを競う同じ話題に触発された話が、次々行列一行の口から零れ出る。切りがない。そして申し合わせたように、岩田さんは幸運だ、羨ましい、妬ましい、と恨みがましい目をこちらに向けて来、落ちがつく。――まるで、シテが大集団の、夢幻能を見ているような気分になる。してみるとコッチは、そこに一人ノコノコ迷い込んだワキ僧の役回りか。しかしこんなシテ合戦、聞かされるワキの方はたまったものではない。能楽中のワキ僧と違い、私に彼等を成仏させる力などないが、彼等もまた成仏する気などさらさらないようである。
<161日目>
“子供達に教育を受ける権利を!”との声が、全国的に響き渡った。
人の生死に関わらず、子供達から教育を受ける権利を奪うのは理不尽である、との考えが、やはり万人の心を打ったのだ。
法改正がなされ、全国で生死を問わず、子供達は公教育を受けられる事となった。教室で、机を並べた。(ただし体育の授業だけは、別教室のようである。)
そして、かつて静岡の教育委員会が心配した通り、やはりイジメ問題や排斥問題が多発した。汚染地帯では、大部分が死人の子供だから(若干、生者の操縦するアンドロイドが、混ざっているケースもある)問題は起きなかったが、生身の子供とアンドロイドの子供が同席する、戦前の日本では“田舎”と見下されていた地方では、避け難くこれが起こった。
また、この法改正に伴い、“戸籍問題”が真剣に議論されるようになった。戸籍上彼等は、“死亡”扱いとなって、それで終わりである。だが、それで済むのか? 現に日々精力的に活動し、日本の復興を中心になって推進している彼等を、法律上いないものとして扱い通せるのか?
もし彼等を法律上復活させ、その権利(所有権とか、選挙権とか)を認め、義務(納税とか)を課すとするなら、民法始め法律の全域に渡る根本的な再整備が必要となるだろう。それを、誰がやるのか? 地方政府の連合体か? 仮統治しているアメリカか? 生者だけがやるのか? それとも、生者死者一緒にやるのか?――頭の痛い問題が次々浮上し、山積し、心ある者達を悩ませることとなった。
永井家の子らも河野家の子らも、元気に学校に通っているという。対して大人達は、私企業でも公的組織でも、既に正社員や正職員ではなく、臨時雇いである(その代わり、退職金や、死亡見舞金などを貰っている。ただし、貰うのは“遺族”であるが)。しかしこれも、資本主義のルールに則り、つまりは優秀な人間はたとえ死人だろうと高給を払わなければ退職してしまうという、営利会社の存亡に関わる当然の圧力により、変貌する事を余儀なくされつつある。仕事の場も、学校と同様、生者と死者、生身とアンドロイドが、同じオフィスに席を並べ、分け隔てなく協力し合う時代が到来しつつある。
<184日目>
戦争から丁度半年経った。死者の鎮魂の意味も込めて、花火大会が催された(催したのが、その鎮魂されるべき本人達なのだから、妙な塩梅である)。
あの後、会頭派と副会頭派の対立は、復興事業費拡大の追い風を受け、抜き差しならぬ所にまで膨れ上がった。
それぞれの勢力拡大を図った両陣営は、死者ならではの戦法を編み出した。――今戦争の犠牲者は勿論だが、それ以前の、平和な時代の日本で自然死した人々にまで遡り、コノ世に蘇らせ、自陣営に取り込もうとしたのである。
これには、単純に支持者が増えるという事と、権威付けし影響力を強めるという事と、二つの効果が期待出来た。“権威付け”のため、先代の会頭、先々代の会頭、先々々代の会頭が蘇り、先代の市長、先々代の市長、先々々代の市長も蘇った。そしてそれぞれの支持する側の応援演説をぶち上げた。さらに、鎌倉にゆかりのある文化人・知識人・名士・著名人、各種団体の元長、等々が、遥か昭和の御世に他界した人々にまで遡り、復活を果たし、現世での野心を再燃させた。彼等は論争し、デモを打ち、大キャンペーンを張った。沈滞する戦後日本の中で、鎌倉だけが、昭和元禄の再現の如く、賑やかに活気付いた。友は友を呼び、縁故は縁故をたどり、共闘は共闘を煽り、参戦する者が膨れに膨れた。際限無く過去へと踏み入る、時代の遡上が試みられた。
私はといえば、鎌倉花火大会の復活を生者の地でピーアールすべく、各地を奔走していた。会頭から、かの地での広報担当の役割を、仰せつかったのだ。――いまだ生きている人々の世界へ向けて開かれた、“親善大使”とまで言ってしまっては大袈裟だが、パイプ役をお願いしたい、と。また一方、生者代表として、生者の立場から、今我々が模索している鎌倉復興に、アドバイス、コメント、批判等していただきたい。いわば双方向の、フィードバック的機能を期待しております。と、人を乗せるのが上手い会頭は、私をいい気分にさせた。
主に東海方面が中心だが、他の地方にも足を伸ばし、生者の方々にも是非花火を見に来ていただきたい、戦前の日本の風物詩の復活を味わってもらいたいと、マスコミ、行政、地域住民の組織等に働き掛け、それらを通して広く周知を図った。――だが、手応えがない。日々生き抜く事に翻弄され、目先の事身近な事以外の他者に関心を持たなくなって、覇気というものをどこかに忘れ去ってしまった大部分の生者にとって、死者の開催する花火大会などという浮世離れしたものなど、殆ど思い出せない程に印象の薄いものでしかなかった。
――それでも結局、会頭派に押し切られ、花火大会は強行された。
花火そのものは美しかった。色鮮やかに、大きく、躍動的で、幻想的で。昔友等と鎌倉の夜空に見上げたそれと何等変わらなかった。いや、荒廃の地の夜空に打ち上がったそれだからこそ、一層美しく見えた。――だが、それは、詰まるところ死者のための花火でしかなかった。大会は、死者の、死者による、死者のための祭に終わった。私に率いられ見物に来た僅かな数の生者達の間には、振り払い得ぬシラケムードが漂った。
かような顛末で花火大会は終了した。大会は、大成功し、そして大失敗した(受け取る者により、その振り幅は想像を越えて大きかった)。――しかし、ここでむしろ特筆すべきは、この騒動に付随して始まった、時代を遡っての死者の復活・到来という現象の方だろう。商工会内の対立の深化を原動力に、過去の時代層への掘り返しが進み、地獄の釜の蓋が開いた。今戦争の戦死者以前の死人達にも、現世への復活という途轍もない魔法の呪文が知られてしまったのである。かくして、陸続として、歴史を遡った死者達が現代の鎌倉を訪れ、縦横に闊歩する事となった。
<185日目>
鎌倉の花火大会の騒動と同じ頃、国単位でも巨大な綱引きが、対立する勢力間で始まりつつあった。――地方自治国の連合政府と、旧日本国政府の亡霊との間の、主導権争いである。(難破船の船長よろしく、東京と運命を共にした旧政府の要人達は、国会議事堂の跡地に掘っ立て小屋を建て、正統日本国政府を主張していた。)
そこに、アメリカからニュースが届いた。戦争一周年を機に、アメリカは統治権を日本に返還する。ついては、返還先の中央政府を、それまでに創って欲しい、というのである。
片や東京の旧政府は、自分達こそ国民に選挙で選ばれた正統な中央政府であると主張し、片や現連合政府は、お前達は亡国の政権だろう、死人はでしゃばるなと譲らない。――この政争は、死者の権利の問題と密接に絡んでくるため、おいそれと処理されるべき事柄ではなかった。――旧来の法に則り生者のみが参政権を行使すれば、多分死者の政治介入を許さないだろう。一方死者にまで参政権が拡大されれば、戦前の全国規模の政党が復活し、昔懐かしい政治家達が内閣のポストを独占するだろう。
しかし、もし生者と死者の融和を図らなかった場合、――畢竟国土は二分され、日本には二つの独立国家が出来て互いに反目し合う事になるのではなかろうか(国際的に死者の国が承認されるかどうかはまた疑問だが)。家族が、生者と死者の国の民に分断され、相争うなどという悲劇も生じかねない。そう危惧する声すらあった。
ともあれ、もう既に学童達の分断は解消され、新しい時代は開かれつつある。そして現に今、猛烈な勢いで復興し、日本の産業の中核を担いつつあるのは、汚染地帯の死者達の方なのである。いずれ近い将来、死者達と同じ国家の軒に依らねば、自分達の生活が立ち行かなくなるだろう事を、生者の誰もが薄々感付いてきていた。
<208日目>
高校の同窓会が催された。十年振りであり、勿論戦後初である。
十年前より遥かに盛況だった。十年前の出席率が六割だったのに対し、今回は九割五分を越えた。あんな事があった後だから、みんな旧交を温めたくなったのだろう。
生者が二割、死者が八割である。そして生身が一割、アンドロイドが九割である。つまり、生者でも、遠方からアンドロイド姿で参加する事に、抵抗がなくなった(アバター・アンドロイドを爆発的に普及させた死者達のおかげである)。
その代わり、酒の消費量は極端に落ちた。何せ、アンドロイドで飲んでも、うまくない。酔っ払いは減り、じっくり昔話をする者が増えた。
生身の人間も参加出来るようにとの配慮から、高校の所在地とは縁もゆかりもない甲府のホテルが選ばれた。私は身延線経由ですぐだが、神田はそうはいかない。南関東はいまだ汚染地帯だから鉄道は復旧していないし、車で来れば途中入念な除染処理をする必要がある。――彼は最近始まった、遠隔地レンタル・サービスを利用したようだ。アバター用のデータだけ送って、あとは現地のアンドロイドを借り受ける。これなら交通費もかからない。私も、鎌倉で活動する時、彼を真似るとしようか。車でちょくちょく三島と鎌倉を往復していては、時間もかかるし、車代も除染代もバカにならない。大船の駅前で(駅自体は機能を失っているのだが、街の中心地はやはりこの辺りに出来た)、オープンしたばかりのレンタル・ショップを見掛けた。ここに登録しておけば、使用時以外のアンドロイドの待機スペースも要らなくなり、大幅にコスト・カット出来る。(以前は駐車場に停めた車の中に、アンドロイドを待機させておいた。外から見ると、駐車場の車の中で人が眠っているように見える。こういう人(アンドロイド)が、被災地の駐車場ではやたら見掛けられ、実に不気味な景観を呈していた。)
戦争以前に故人となっていた、早死にした同窓生達も集っていた。さらにそれ以前に他界した筈の、恩師達まで顔を揃えていた。よく連絡がついたものだ。遡っての来訪は、鎌倉の古い時代の死者達と同じ方式だろう。これには驚くと同時に、青春時代の甘ったるい思い出が胸の内から込み上げてきて、同窓会はいやが上にも盛り上がった。
<234日目>
「母方の大叔父に当たる人なんですが、――」と、商工会会頭の紹介したアンドロイドは、まだ十歳程の子供の姿をしていた。坊ちゃん刈りに半ズボンが、私自身の子供時代を思い出させて、懐かしい。「――ユウ太さんと、仰います」いつもの金満ボディーを揺すりながら、会頭は言った。
少年はヨーグルト・アイスがすこぶるお気に召したようで、何皿もお代わりした。余程物珍しい、食べた事のない味だったのだろう。(金属とプラスチックのボディーだから、腹を壊す心配はない。)――何故かこれから、会頭と少年と私の三人で、横浜スタジアムに横浜・広島戦を見に行く事になっていた。まだ時間があったので、復興しつつある元町と中華街でブラブラ暇を潰しつつ、スタジアムに向かう事にした。今、元町のカフェテリアに入り、堀川を挟んで対岸中華街の朱雀門を眺めている。
元町や中華街やスタジアム周辺も、日々リニューアルが進み、来るたび景色が変わっていく。由緒ある町並みの面影は残しつつ、どこか新鮮である。(その分、イミテーションっぽい、マガイモノめいた所はあるが。)だが、すぐ目と鼻の旧石川町駅の反対側、ドヤ街のあった寿町は再建されず、ポッカリ空間の空いたまま残った。そこで暮らしていた人々も戻ってくる事はなかった。さもあろう。彼等にとって、現世にわざわざ戻ってくるメリットは何もない。来世で、如意のスフィアに包まれて暮らす方が、何万倍も楽しかろう。
「ユウ太大叔父は、広島で被爆して死んだのです。当時十歳でした」朱雀門方面とは十字に交差する元町商店街の賑わいを満足そうに眺めやりつつ、会頭は少年の身の上を明かした。少年は、恥ずかしそうに身を縮め、アイス皿の上に目を落としている。「私の母方の実家は明治の頃から代々広島のお城の近くで食堂を営んできましてね、――爆心地近く、今は原爆ドームと呼ばれている旧広島県産業奨励館を川の対岸に望む辺りだったそうです。当時軍都とも言われた広島は、まだ物資も人も集まり、食堂の常連も軍人が多く活気があったそうですが、……太平洋戦争の敗色が濃くなると、呉の海軍基地も叩かれ、岩国の飛行場も無力化し、広島は裸同然となりました。しかし、当時まだ十歳だった軍国少年には、そんな緊迫した情勢も理解できる訳がなく、……とうとうあの日を迎えました。夏のあの日に、朝の路面電車を追いかけている所を、私どもも最近経験したあの光を浴びたのです。電車の陰にいて、直撃は免れたそうですが、それがかえって仇となった。ほんの数時間生き長らえ、この年齢で、この世の地獄を嫌というほど体験する事となりました」会頭の話す己が身の上話に、スプーンを弄びながら神妙な面持ちで、少年は聞き入っているようだった。
会頭は続けた。「不思議なもので、アノ世の人とコノ世の人との間でも、共鳴は出来るのです。ただし、生者はその事にまるで気付かない。だから、死者達のみ、一方的に見たり聞いたりする事になる。つまり、一方通行のコミュニケーションです(私は神田の体験談を思い出していた)。――そういう訳で、ユウ太さん始めピカドンで死んだ昔の広島の人々も、古い大戦前大戦中の広島に囚われ、閉じ込められたように肩寄せ合って暮らしつつも、戦後の広島についてある程度見聞を持つ事は出来た。彼等は、ピカの知識も、米ソの冷戦も、アポロの月面着陸も、広島カープの活躍も、おぼろげながら知っている。
ユウ太さんは生前野球小僧だったそうで、大のカープ・ファンでもあるとの事です。山本浩二に衣笠、安仁屋に外木場、キラ星の如きスター達に夢中で、彼等の活躍に接する時のみ平和な広島を謳歌する事が出来た。――そこで、現世のナマの迫力を存分に味わっていただこうと、再開間もないプロ野球観戦にご招待したような次第でして、……」
プロ野球の再開は、戦後の娯楽復興のシンボルと呼ばれ、戦災地域で最優先の事業となった。仮普請ながら、横浜スタジアム始め幾つかの野球場が、突貫工事で再建された。当初は、行き来が不如意な生者地区と死者地区と、二リーグ制で再建しようと図られたが、いかんせんプロ野球所在地の殆どが被災地で(広島は幸いにも再度の災禍は免れたが)、生者だけではチームも選手も観客動員数もどうにもおぼつかず、経営が成り立つとは思えない。そこで、エイヤッと、生者リーグが死者リーグに合流する形で統一が図られた。当然、選手達は全員アンドロイドである。ならば、と巨人軍が言い出した、どうせ死んだ選手達が生き返ってプレーをするのならば、今戦争の犠牲者だけでなく、それ以前に死んだOB達にも遡り声を掛けて、チームに入って貰ったらどうだろうか。さすれば興行収益莫大なる事間違いなしだ。とこれは、歴代のOBに名選手を多数輩出した巨人軍らしいはなはだ自分に都合のいい思い付きだった。『オールスター・リーグ』と銘打って、日本プロ野球はリスタートした。なるほどこれなら、大変な動員力が見込まれる。被災地区の死者ばかりか、非汚染地区の生者ばかりか、昭和の御世にコノ世を去ったオールドファンまでもが、こぞって現世へ詰め掛けてこよう。
私達は、朱雀門から中華街に入り、町の縁を北上してさらに東の守り朝陽門手前を西へ折れて大通りを進んだ。少年は今度は肉まんを頬張りながら、現代風のもの(少年にとっては近未来のもの)や異国風なもの(中華風だったり洋風だったり)を、いかにも物珍しげに目をあちこちにキョロキョロ遊ばせつつ、僅かのものも見逃すまいとしているようだ。アンドロイドの眼球カメラ周辺の繊細なモーター類が、軋む音が聞こえてきそうな気がする。
――それにしても、と考えた。――こんな遠い縁者の、遥か昔にコノ世と縁の切れた人を、それも子供をただ一人、あたかも遠方のおじさんの家に遊びに来させるようにして呼び寄せる、というのはいかがなものだろう。どうにも腑に落ちない。しかも、そんな会頭さんの“お家の事情”に、何で私まで付き合わされなければいけないのか?――呼び出された理由は、――もっと大きな理由が――、他にありそうだ。
「大人になりたかったなあ。こんな世界を、もっと見聞きしたかったなあ」軒を連ねる、中華風に極彩色の、歪な建物達の群れを眺めながら、少年がポツリと言った。「死ななけりゃなあ。――あんな“ピカドン”なんかにやられて、死んじまって、その後ずっと子供のままでいるなんて。――おじさん達みたいに大人になって、いろんな事がやってみたかったなあ。いろんな事やって、年を取っていきたかったなあ。――死ぬなんて、その後でよかったのに、……」会頭と私を見上げ、そう続けた。
少年を見下ろす会頭の悲しげな視線が、しばらく少年の視線と絡み合った。往来を行くのん気な観光気分のアンドロイド達の笑顔の中で、そこだけ異質な空間のように感情の重力場が歪んで見えた。「大叔父は古い広島に閉じ込められたまま、殆ど変化することなく子供の姿のままで過ごしてきました。スフィアは自分の記憶を材料にして紡がれる明晰夢の世界ですから、記憶に無い世界は、創りようがないんですね」今度は説明口調で、会頭は私に話した。「“共鳴”可能な他者の記憶を取り込む事でしか、世界は拡張のしようがない。だから、自分の生前の世界から踏み出す事は、極めて困難となります。ましてや十歳前の、思春期前の子供の場合、まだ社会化が始まっていない、親に丸ごと依存した状態ですから、殆ど停まった時間のままであり続ける。――大叔父の場合も、大戦前の広島で、変わらぬ毎日を延々繰り返すこととなった。広島カープの知識ぐらいは許されるが、強制力を伴って障害となり立ち塞がる現実と遭遇する事は最早ありませんから、柔らかい繭に包まれそれに閉じ籠って外に出る事はもう出来ません」
通りを歩く少年の操るアンドロイドは、足の運び方や身振り手振りの“振り”ようが、どこかぎこちない。まるで、能舞台の所作のように、初期の人型ロボットの動きのように、チグハグに見える。ゲームやバーチャル体験に慣れっこの現代人と違い、自らの体と機械の体を動かす事の感覚の間に、しばしばズレが生じるのだろう。擦れ違う人々も、異質なものを避けるように、無意識に道を譲っている。そんな事からも、彼が現代には場違いな、いわば“歴史上の人物”である事が露見してしまう。
「そこで大叔父は、――“生き直したい。”――と言うのです。この世界で、……」会頭は言った。
「生き直す?」
「ええ。――十歳で止められた生を、再スタートしたいと言うのです」
不思議な話である。核爆発で止められた人生を、次の核爆発を契機に再出発しようというのか?
「私としても、大叔父に、十歳という歳で断念させられた現実世界を、そこで成長する経験を、是非とも味わわせてあげたい。――だが一つ、問題がありましてね」
「問題とは?」
「この汚染地区に再建されつつある日本は、アノ世の者からすると、所詮死者のコミュニティーの延長上のものに過ぎなく見えるのです。つまり現実世界のリアリティーが乏しいのです。それではアノ世での暮らしと殆ど変わらない。アノ世のリアリティーの乏しさは、新しい記憶が幾ら増えても、所詮は人々の記憶のパロディーに過ぎない所から来ます。生きるための手応えには、真性の記憶には、スフィアの形成されない、“剥き出しの現実”“物自体”がどうしても必要なのです。――そのためには、生者達の世界で、生者達の間で暮らすしかありません。
そこで、岩田さんにお願いしようと思って、今日お声をお掛けしたのですよ」
とうとう来たか、と思った。甚だ遠回しながら、ようやく今日の本題に到達したのだろう。
「大叔父を、生者の間で、生き直させてやりたい。そのためには、生者のどなたかに、大叔父を預かってもらうしかない。どなたか信頼のおける方に」
つまり私に、この少年の面倒を見てくれ、家族の一員のように家に引き取り、そこで生活させ、学校にも通わせ、仮の親のように養育して欲しい、そういう申し出な訳だ。
「勿論、充分な経済援助はいたします。精神面のバックアップも、我が親族一同で配慮いたします。――生者死者の交わりに何かと偏見の多い生者の世界に大叔父を住まわせる以上、こうした交流に充分理解のある方でなければお預けする事が出来ません。その点岩田さんならば、“交流の窓口”として充分な実績もあり両社会に広く人脈もおありだ」
その実績とやらも人脈とやらも、復興ボランティアの積もりで彼等を手伝っている内に、“不可抗力”で身に付いてしまったものだ。それに、会頭氏の住まう大邸宅と違い、我が仮設住宅は2DKに三人住まい、加えて母は大の幽霊嫌いときている。相当の家族との軋轢が予想される。
これらを理由に、私は何度も丁重に断った。しかし会頭は後に引かなかった。「大叔父が被災地に住みたがらないというのが、実を言えばもっと大きな理由でしてね。まだあちこちに残る被災跡の光景が、広島のそれを思い出させ、耐えられないのです。これでは、アノ世だかコノ世だか、区別が付かなくなる、と。――ああ、お住まいの事でしたら、住環境の改善も含め、配慮いたします。ご安心下さい」
段々少年が、金蔓に見えてきた。その線で押せば、家族の納得も得られそうな気がする。――だがふと我に返れば、戸惑いの方がやはり大きい。私の身分は、“里親”という事になるのだろうか? それともただの、“下宿のおじさん”? 通学させるなら、保護者となるのか? 戸籍上の扱いは? 本当の親は、アノ世の広島に健在な筈だが。――第一、子供を持った事がないので、急に息子のような存在が身近に出来ても、面食らうばかりだ。――大体彼を、“君”付けで呼んだらいいのか、“さん”付けで呼んだらいいのか。会頭はさっきから“大叔父”と呼び敬語を使っているが、私としては息子か孫ぐらいの少年を預かる訳だ。そのくせ、彼の方が遥かに年上の、実年齢なら九十歳に近い年長者ときている。どう接したらよいものやら。どんな言葉使いでいく? 子供相手のか? それとも目上相手のか? これから家族になろうというのに、当たり障りのない丁寧口調というのも、問題ありだ。――などと思考が、詰まらない方向にどんどん流れ落ちていく、……。
私が返答を躊躇っている内、新設成った横浜スタジアムの入り口に着いてしまった。――なかなかの賑わいである。(花火大会の時、遠隔レンタル・アンドロイドの普及が今一歩だった事が、今さらながら悔やまれる。)少年は大洋ホエールズと呼び、近藤和、平松、シピン、屋鋪、田代、高木等名選手の名を挙げた。彼の中では、このチームはまだ大洋ホエールズで留まっているようだ。
グランドでは既に生者死者併せた選手達がマシン慣らしをしていた。アンドロイドの野球は、勿論パワー制限されている。各アンドロイドにはそれぞれの選手の最盛期のスペックが盛り込まれている。動力を使ったスポーツだから、体力任せのスポーツというよりF1に近い。そのくせバットは、いまだ律儀に木製のものを使っている。――まもなく、プレイボールである。
少年の希望で広島ベンチ側に席を取った。ここからだと、懐かしの名選手達の親しげな表情が、手に取るように分かる。少年の視線が、花の間を舞う蜜蜂のように、素早く飛び交う。スポーツ仕様アンドロイドの筋肉質のボディーにピタリ張り付いたユニフォームは、汗の染みだけは微塵も見られない(そこまでの細かい芸はない)。
安仁屋、外木場が投げ、山本浩二、衣笠が打った。平松、大魔神が投げ、シピン、筒香が打った。力んでバットを振った時、全力で走った時、かすかにモーターのうなり音が届く。玉の汗は、光らない。――細かい体の使い方、身のこなしなど、生身のプレーとニュアンスが微妙に違う。身体を介さず、イメージがストレートにプレーに出て来る為だろう。アナログレコードとデジタルCDとの違いか。過渡期のエンタメという趣がある、今後どう展開するのだろうか。
ショーっ気タップリの新設ハイテク・スタジアムは、出塁やファインプレーの都度、フラッシュライトが煌めき、スモークが焚かれ、大サウンドが響く。それらにタイミングを合わせ周囲の観客達が身を躍らせる中で、少年だけが何故か体を硬く縮こまらせ、絶え間なく水物(ラムネやジュースや)ばかりを飲み続けている事に気付いた。ヨーグルト・アイスの延長だろうか。特に、大歓声の都度、それらを打ち消すようにガブ飲みする。心配を通り越し、段々彼の行為が不審に思えてきた。
そうこうし、両チームともチャンスは作りつつも、投手戦となり、長く均衡が保たれてきた。――が、とうとう、7回裏、二死満塁のビッグチャンスに、ベイスターズ4番筒香の満塁ホームランが飛び出した。
ホームチーム4番の大活躍に、フラッシュライトは最高出力で閃き、スモークは周囲の観客の顔も見えない程でプレーを数分間中断させ、サウンドは最大音響で轟いた。
会頭が、「アッ」と小さく呻いたように、大音響の中私の耳には聞こえた。――彼は少年の方を、スタジアムの盛り上がりとは正反対の、深い沈鬱を湛えるような凍えた視線で見詰めている。
つられて少年を見ると、機械の筋肉機構にはあり得ぬ動作だが、全身が小刻みに痙攣し続けている。次いで焦点が合わぬように目が中空を漂い、ウーッ、ウーッ、ウーッ、とかすかなうなり声を数回発して、――動きが止まった。全ての動きが停止して、アバター・アンドロイドはフリーズした。
しばらくの間、周囲の大歓声が収まるのと丁度同じ頃まで、私と会頭は少年の抜け殻をただジッと見詰め続けていた。――「これが、ユウ太さんが生者の領域で生きねばならない、彼をあなたにお願いする、――一番の理由です」やがて、会頭は言った。
彼は、少年の停止した手が掴んでいたラムネのビンを取り上げ、それを床の上に静かに置いた。「ユウ太さんは、――いや、アノ世の広島に住む人々は、――しばしばフラッシュバックを起こすのです。あの時の事を思い出して」言った。
「フラッシュバック?」
「そう。強烈なトラウマの、なせる業です。――あれ程の災厄は、人類史上でも稀でしょう。当然その記憶は、心の芯にまで深く刻まれる。スフィアは如意の明晰夢ですが、それを形作る記憶は無意識のものも含まれる。ほんのちょっとした事が引き金になり、意識の壁を乗り越えてそれらがスフィアに濁流となって押し寄せる。――今回は、スタジアムの光や音や煙が、引き金となったのでしょう。ピカの時のそれらを思い出させたのです。――彼が盛んに水分を欲しがっていたのも、さっきから気に掛かっていた。あれは、夏の暑い日の出来事だったと聞いていますし、何より全身焼け爛れた被災者達が水を強烈に欲しがりながら死んでいったというのはよく知られた話です。ユウ太さんも、そうした犠牲者の一人だったのでしょう。――もっと早くに、何か手を打ってあげればよかった、……」
「それで彼を、この地に住まわせたくなかったのですね」
「そうです。被災地には、まだまだ核の被害を想起させる遺物が、そこかしこに転がっていますから。せっかく生き直そうというのに、頻繁にパニックを起こしていたら、それこそ生きた心地もしないでしょう。ユウ太さんには、出来る限り安寧な地と環境を、提供してあげたい、……」
とうとう試合が終わるまで、さらに終わった後も、少年は帰ってこなかった。我々にとっても野球は上の空となり、話題も途切れ途切れになった。手持ち無沙汰で、ビールとポプコーンばかりが進んだ。おかげで、排泄物が増え、余計に体が重くなった。
その重い体で、さらに重い少年のアンドロイドを、スタジアムの外へ運び出さねばならなかった。会頭と二人、少年の両肩を抱え運んだが、……子供用アンドロイドでよかった。これが大人用なら、駆動力を最大にギアアップしても、運び出せたかどうか。専用のクレーン装置やレッカー車が、必要になったかもしれない。
<245日目>
ユウ太少年が特に強く興味を示したものは、新幹線とテレビだった。
新幹線は(熱海で折返し運転なので、熱海・三島間のみだったが)、プラットホームで流線型の先頭車両を食い入るように飽かず見詰め、車窓越しに高速で移り変わる景色を金縛りにあったような不動の姿勢で眺め続けていた。
テレビは、その仕組みを映画館と比較してあれやこれや考察したり、畳半畳程の薄い板の裏側をしきりに気にしたりした。これは後の事だが、昼夜テレビに首っ丈で、貪欲に現代社会の情報を摂取しようとした。
家族が少年と初めてまみえる以前に、既に事情は包み隠さず説明してあったが、やはり妹と母の二人は当初、彼の事を気味悪がり、同居を渋った。彼の素性に、妹は当惑気味で、母はショックを隠せなかった。そんな、死人の上に、八十年近くも前の過ぎ去った戦争の原爆で悲惨な死を遂げた、子供だか老人だか分からないような得体の知れないものを、家族の一員に迎え入れるなんて、到底承服出来ない。――そんな二人が思いのほか早く“新しい息子”を家族の中に溶け込ませ得たのは、ひとえにユウ太少年がすこぶる付きの“良い子”だったからである(時々、原爆の閃光に焼かれる記憶がフラッシュバックして、パニックを起こす以外は)。
“逆アバター”、とでも呼んだらいいんだろうか。アノ世から、コッチの世界のネット経由で、スフィアの自己イメージに合わせデザインしたアバター・アンドロイドを操縦する訳である。“アバター”の本来の意味は、神や霊がコノ世に降臨した時の化身(アヴァターラ)だから、正しく言えば“逆”ではなく、むしろこっちが“順”なのだが。――物質界の姿を得て、スフィアの夢の中では流動的とならざるを得ない自己イメージも、大分固まってきたようだ。結構、美少年である。将来持てそうだ。
三島での生活に慣れるにつれ、少年は以前の広島での暮らしぶりを色々話してくれるようになった。市電の往来する昭和モダンな大通り。(現代の街と較べると背丈は低いが、)洒落た商店街の賑わい。幾本もの川が市内を流れ、河岸の雁木(階段状に川に下りる、船着場)越しに見上げる『広島県産業奨励館』。国民学校で仲間達とよく取った相撲の事。市中をそぞろ歩いたり勇ましく行進したりしてよく目に留まる陸軍第五師団の軍人達も、少年の家の食堂に来る顔見知りの将校や兵士は、皆人懐っこい表情のおじさん、お兄さん達だった。
将来は市電の運転士になりたかった、と少年は話した。そして今では、新幹線の運転士になる夢が加わった、と追加した。じゃあ、広島の路面電車は今でも健在だから、見に行こうか、と誘ったが、現世の市電が見たいのは山々だけれど、現世の広島に行けばどうしても、原爆ドーム等惨事の遺物が目に入ってしまう。だから、現世の市電は、スフィア越しの共鳴され濾過されたそれに留めます、と少年は言って、私の誘いを断った。
また、サツマイモをよく食べ、チョコレートやキャラメルが食べたかったという思い出話もした。そういえば彼の生きた十年間は、日中戦争、太平洋戦争と続く、絶えざる戦時下だった。彼の一生は戦争しか知らなかった。軍都で軍人達を見て育ち、人類史上最初の核兵器で死んだ。――水物を欲しがらない時、彼はチョコやキャラメルを欲した。それは彼の心が平和な証拠かもしれない。現状窮乏の甚だしい日本だが、それでも戦争中のかの国よりはまだマシ、ということだろうか。私は、殆ど味の分からない筈のアンドロイドに、チョコとキャラメルを気の済むまで買い与えた。
これらも含め現世のウキウキするような物や事が、少年の心を平和で満たしてくれれば幸いである。――自分の思い出の世界に閉じ込められてなかなかそこから出られないのがアノ世の生き方だから、死を免れた被爆者以上に頻繁に、あの時の光を、爆風を、火を、煙を、累々たる屍を、思い出すこととなる。思い出す度、フラッシュバックが起こる。結果、トラウマが癒される事はなく、むしろ“固化”する。――その固まってしまったものを解きほぐす効果が、現世での物理世界(非記憶世界)体験には期待出来る。そういう新説を最近アノ世の精神科医達が唱え出していると、少年を送り出す時会頭が私に密かに耳打ちした。(だから、今戦争の犠牲者達も、もし早急に現世に帰還することがなかったならば、やはりトラウマが固化して、酷いパニックの発作に襲われる事になっていただろう、との事だった。現世へ帰還する事で、生き残った者並みのトラウマにまで鎮める事が出来た訳である。)チョコレートやキャラメルの味で、彼のトラウマが癒されるなら、安いものである。可能な限り、存分の現世体験を味わわせてあげよう。
ユウ太少年は河野家の子供達と同じ小学校に通う事となった。今戦争の犠牲者ばかりでなく、遥か以前の死者にまで門戸を開放する事に異議を唱える者も多かったが、私と会頭が連名保証人となり(実質的な保護者は私)、鎌倉市長の推薦状まで添えられて、特別拡大措置でようやく入学が決まった。(死んだ児童達も教育の恩恵に浴するべきと晴れやかに謳われる時流に合わせ、うまいこと裏のルートで根回ししたようだ。)――かくして少年は、広島の旧国民学校から三島の小学校に転入するという形で、八十年ぶりの学校生活を再開した。
<267日目>
若くして無念の最期を遂げた鎌倉市長が、花火大会の成功に触発されたのか、とんでもない新政策を打ち上げた。アノ世に蓄えられた豊富な知恵、知識、研究成果の類を、汲めども尽きぬ豊穣な鉱脈から汲み出す如く吸い上げて、新たなシリコンバレーを立ち上げ、それを復興事業の目玉にしようというのである。
その名を、『新リンボ特区・プロジェクト』と言う。
ダンテの『神曲』中にある、古代の哲学者達の溜まり場、“リンボ”にちなんで名付けられた。アノ世とコノ世の最高知性の交流の場を、鎌倉市内に“特区”として新設しよう、という野心的な構想であった。無論、花火大会に絡む、対立抗争事件の副産物が、きっかけになった事は言うまでもない。遥か昔に物故した人々が芋づる式に呼び出されてくる現象は、今も続いている。これを、むしろ逆手に取って、生かそうというのである。
プロジェクト本部は、大船の旧松竹撮影所(戦災前は、鎌倉女子大学)跡地に仮設された市庁舎別館内に置かれた。そして私も、花火大会の時の活躍が認められたのか、チームの準備委員の一人として正式に委嘱を受けた。仕事は引き続き、生者の世界とのパイプ役である。「まだ生きておられる方のお力は、是非ともお借りしたいところです」担当主幹が言った。私の、何かと重宝がられ、引っ張り出される立ち位置は、変わっていない。そして、妙なところでやっかみを受け、羨ましがられるところも同様だ。他面、健康も食住も心配のないパワフルな死者達を相手にし続けるのは、六十を過ぎた身には結構応える。こちらが還暦を越した、しかも生身の人間だと分かると、逆に死者達から同情される。
まあどうせ、定職を持たない、妻子もいない、年金暮らしの暇人だから、頻繁に三島を留守にしてもとやかく言う者もいない。それに、諸物価高騰の折、何かと物入りである。加えて、難民支援のために地方税が新設されるらしい。アンドロイドのレンタル代も、値上がり気味で油断出来ない。頼りにならない年金と外国債の切り売りのみでは、どうにも心もとない。――だから、日銭を稼げる、ちょっとした有償ボランティアのような仕事は、願ったりである。(それに、ユウ太少年の小学校転入の折、市長に推薦状を書いてもらった恩義もある。)
気難しい顔をしたご婦人方が多い委員会の末席に目立たぬよう座り、あくまでも“パシリ”を決め込む。ところが担当主幹は、何かと委員達をおだて上げその気にさせ、議論を盛り上げようとする。
……。……大佛次郎の元の住まいは、大仏裏のこの辺りだったわね。……。川端康成には、どういうツテで辿り着けばいいかしら。……。元八幡近く(例の五十六の家の近所)に芥川が住んでいたのは、確か彼が横須賀の海軍機関学校で英語を教えていた頃でしたね。『地獄変』などの名作がここで書かれた。……。久米正雄は、……。里見弴は、……。高見順は、……。……これで一通り、鎌倉ゆかりの文士関係は、総ざらえ出来ましたか? では次は、芸術家の掘り起こしに移りましょう。……。
鎌倉に縁のある物故した文化人や芸術家や学者、実業家や政治家等々を、既にコンタクトが取れている者達のコネやらツテやらを辿り、芋づる式に探り出し引き摺り出そうという作戦である。さらにその先は、全人類史にまたがる知識や文化の無限の宝庫へと繋がっている。それを、鎌倉に新設する『新リンボ特区』をターミナルとし、独占しようというのだ。委員会の描いた青写真に沿い、チームのエージェント達が冥界へと次々ダイブしていった。
<292日目>
プロジェクトが立ち上がってひと月近く経過した頃、担当主幹が、「岩田さんも、同道していただけませんか?」と、私に誘いの言葉を掛けてきた。いよいよ川端邸に直接交渉に乗り込むが、あいにく川端文学に詳しい者が皆無である。是非私に、一肌脱いでもらいたいと、相変わらずのうまいヨイショに、私もとうとう丸め込まれてしまった。
冥界ダイブというのは、勿論初めてである。なあに、現世のスウェーデンボルグ・インターフェイスのバーチャルネット世界と、何も変わりませんよ、とベテランのタナト・ダイバー達は言う。だが彼等は、一人新採の若手を除き、あとは皆元々死人だ。ダイバーといっても、ただ故郷に帰るだけのことだ。譬えるなら、浅い海の魚が深い海へ潜るのと、陸上生物がいきなり深い海へ潜るのとぐらい、違いがある。――だからもっぱら、新採君から話を聞いた。「死者が現世に来られるなら、生者もアノ世に行ける理屈じゃありませんか。対等で双方向な交流現象なんですから」新採君はそう説明するが、その彼もダイブの経験はまだ四、五回程とのことだ。――かつて神田が見たという厚生労働省の役人はアノ世でビラ配りしていたらしいが、私もそううまくこの大役(川端と対面するよりも、まずはアノ世へのダイブ)をこなせるものなのだろうか。――「結局、スウェーデンボルグ・インターフェイスの使いこなし次第です。まずはこれに慣れることです」そう、新採君は簡潔に締め括った。
内側に全面鏡の張られた球体内に閉じ込められる。そんな喩えが適当だろうか。世界の全てに、私の全てが、幾重にも映り込む。そして、私しか、いない。
やがて、世界や人生を紡ぎ出す臓器といわれる、脳の本来の機能が本領を発揮し出す。――いつもなら脳の中だけに留まっている表象達が、外界から遮断された五感を伝ってフィードバックされ、現実の体験となる。――まさしく、明晰夢だった。
私が子供の頃、若者の間にヒッピー文化と呼ばれるものが流行った。その文化の中で試みられた事の一つに、薬を使い、タントラを使い、あるいは特殊な身体メソッドや機器を使い、五感から入る刺激を無にし、脳のあるべき力を100%開放する、と称するものがあった。これらの試みがどれほど成功したかは知らないが、多分彼等の目指していたのは、今私が体験している、まさしくこの境地だろう。
――気付くと私は、草原の上に浮かんでいた。どこまでも続く草原だった。見る内、心地良い起伏が、なだらかに波打ち始めた。――その上を、飛びたいと思った、どこまでも。
これまた夢の定番というべきもの。――飛翔する夢。――だが、今体験しているそれには、圧倒的な臨場感、現実感があった。――似たようなバーチャル・リアリティーのゲームが色々あるが、皆まるで別物のオモチャだと分かってしまう。
飛ぶ内、草原が海原に変わっていた。さらに、星も銀河も小さくしか見えない、隔絶された宇宙空間に。
イカン、イカン、これでは、……。過去の訓練でも幾度か経験したが、今自分のいる場所のイメージを固めるのが、結構難儀なのだ。
「我々の後を付いてきていると、強くイメージして下さい」出発前他のダイバー達に注意されていた。――ダイバー達の、背中を捜す。
そして、恥ずかしながら、イメージした彼等の背中の背広の裾を、ギュッと握り締めた、迷子にならないように。まるで幼児が父親にしがみ付いているような塩梅である。
そのまま彼等と共に数十歩も歩くと、もう鎌倉の町中であった。そして路地を曲がった角に川端邸はあった。
川端康成のスフィア中の川端邸は、現世のそれと同じく甘縄神社のすぐ下にあった。広い畳部屋の座卓の向こうに川端が座り、手前に市の職員達が控えた。そして川端から見て右手に今回仲を取り持ってくれた川端の友人達(同じく故人)が同席し、左手にたまたま遊びに来ていた三島由紀夫がドカッと腰をすえて邪魔な来客達を睨み付けていた。
――川端は気難しげにニヤニヤ笑い、三島は饒舌だった。彼は、リンボ・プロジェクトの意図するところを根掘り葉掘り問い質し、その俗っぽさや志の低さをトコトンこき下ろした。主幹始め市の者達はとっちめられ、閉口して押し黙ってしまった。
だが、偶然私が生者である事を知り、両者の興味はそっちの方へと移った。
「ほう。まだ生きている者が、こんな黄泉の国の最果てまで辿り着くとは、何とも奇態な」川端が舟形の文鎮を弄びつつ、ようやく口を開いた。「鎌倉は水爆で焦土と化したと聞いたが、どうして生き長らえたんです?」
私は戦争直前に三島へ落ち延びた事などをかいつまんで話した。
「おお、三島か。あそこから見える富士が綺麗なんだ」今度は三島が食い付いてきた。ひとしきり三島の風光明媚な土地柄を褒め称え盛り上がったが、そこで――三島さんのペンネームは三島から見える富士の雪に由来すると、噂で聞いた事があるのですが、それは本当ですか?――という問いが喉元まで出掛かったが、かろうじて止めた。
二人が特に興味を示した話題は、二人の死後のノーベル文学賞の動向についてだった。どのような作品や作家が受賞したのか、生者の私からトコトン聞きたがった。市の他の職員が余りに無知だったので、もっぱら私一人が喋ることとなった。
「死者が復活したら、ノーベル文学賞の受賞資格も回復しないのか?」三島が冗談混じりに言った。「俺も、もう少し生き続けていれば、受賞出来たかな?」冗談とも本音ともつかぬ口調で、続けた。
「多分ノーベル委員会は、そんな問題が突き付けられるとは、いまだ微塵も考えていないと思いますよ。ですが、近い将来、本気で回答を迫られる事になる可能性大でしょう」私は答えた。
三島は呵呵大笑した。そして愉快そうに早口でまくし立てた。
「もし受賞が決まったら、また軍服姿で現世に蘇って、授賞式で演説してやろうか。ついでに、軟弱そうな現政権も打倒してやろうか。
それに、川端さんも俺も、こっちの世界に来てから書き溜めた新作が、それこそ富士のお山ほどもある。文士のサガってやつは、コノ世でもアノ世でも変わらん。そのリンボ特区とやらに出版社を興して、俺達の新作を世に発表してもらおうか。そういう形でなら協力も出来るし、こちらの思いとも利害が一致する。手を貸すことに、何等やぶさかじゃあない」
<311日目>
三者面談で担任の教師は、心配していた通り、ユウ太君がクラスで一人突出して浮いていると指摘した。当のユウ太君は、さほど気にする様子もなく、むしろ最近イメチェンした髪型の前髪の方が気に掛かるようで、しきりにその先端を指でいじっていた。そう、坊ちゃん刈りは恥ずかしいからと、とうにやめてしまい、服もブランド物のスポーツウェアと揃いのスニーカーに着替え履き替えていた。そして、サッカーに夢中だった。子供の順応は早い。彼は急速に“現代”に染まっていくようだった。
彼がしばしば見せる奇行を、周りの子供達が気味悪がっている。それが、“無視”や“イジメ”の原因になっていると、担任はさらに続けた。
ユウ太君は、蹴躓いたり、物を取り落としたり、(重力で)転落したり、……そんな事に目を輝かせて一々喜んだ。つまりは、この世界が逐一アンドロイドに返してくる物理的抵抗に、驚き、深く感動した。さらに酷い時は、その社会慣れしていない反応で誰かに因縁をつけられ、小突かれたり叩かれたり、そんな扱いを受ける事を無上に楽しんでいた。小学校でも、いじめっ子らにグランド裏に呼び付けられ、殴られたり蹴られたりかなり手酷い目に合っているところを教員の一人が目撃したそうだ。その教師があわてて止めに入ったが、止める以前に、ユウ太君が小突き回されるたび嬉しそうな顔をするもので、いじめっ子らの方が気味悪がって暴力の手を引っ込めてしまったという。――何しろ如意の明晰夢の中に閉じこもれば、何人も彼を傷付ける事の出来ないアノ世の住人である。暴力で揉みくちゃにされる事も、彼にとっては新鮮で嬉しい体験のようだった。
ユウ太君は、周囲のクラスメートの反応なんぞよりも、まずはこの世界自体の反応の方に、遥かに興味があるのだろう。だがそんな奇行も、丁度髪型や服装のように、コノ世に慣れるにつれ速やかに収まるだろうと私は説明し、担任もしぶしぶその予測を承認した。――同じアンドロイドの子供といっても、ついこないだ死んだクラスメート達と、八十年近く死んでいたユウ太君とでは、死者としての年季が違う。目の前の担任も、ベテラン教師のようだが、ユウ太君の半分にも満たない年齢だろう。一通りの事情は心得ていたとしても、彼の真実を知るのは至難だろう。
面談の前に授業参観の時間があったが、そこでも彼の古式豊かな国民学校風振る舞いは周囲の子らをざわつかせ笑いを誘っていた。また話す内容も異質過ぎて、クラスメートどころか、教師までもしばしば理解出来ず、戸惑っている様子が窺えた。教室の後ろから助け舟を出したくなったが、ここで父兄がでしゃばってもろくな事にはなるまい。ただ見守ってやるしかない。――三島に来てからも、ユウ太君はしばしばフラッシュバックからのパニックを起こした。学校でも例外ではなく、痙攣したり、フリーズしたり、水を欲しがったりする事があるという。この授業中にも、私の見ている前で(私に見られているからなおさら緊張して)、そんな事にならないかとついつい心配してしまう。肌着の下に冷や汗を感じつつ、ただユウ太君の背中をジッと見詰めたまま終業のチャイムが鳴るまで耐えた。
小学校では定番なのだろうが、“将来の夢”を書かせる作文の宿題があった。未来の危機が叫ばれるご時勢だから、ことさら意味を持つ課題だったのだろう。――夕食後、“何を書くんだい”、とユウ太君に訊いた。正直、死者の夢見る将来というものに、興味があったのだ。
ユウ太君は、たどたどしい子供口調で、喋り始めた。――アノ世のスフィアでは、人はイメージした世界を創れるし、自分の姿もまたイメージ通りのものに出来る。だから、大人になった自分の姿を造る事は出来るけれど、それはあくまで子供の想像する大人でしかない。つまり、“子供の社長”“子供の博士”“子供の大統領”にしかならない。リアリティーが、決定的に欠けている。――しかしそれも無理からぬことだ。何しろスフィアを作り出す材料のコノ世の記憶が、十年分しかないのだから。年寄りは若い頃の自分を思い出せるが、子供は自分の経験していない事を思い出す訳にはいかない、あくまで想像するしかない。そして子供の持つ妄想など、たかが知れている。所詮は、“稚拙”なのだ。もし将来自分が成長した時の姿を想像したとしても、所詮はリアリティーに欠ける、無理な背伸び、となる。だから子供の亡者は、大人の持つ妄想に強い憧れを抱く。現世での、物理世界での経験を渇望する子供の亡者は、自分だけではない筈だ。――ユウ太少年のたどたどしい説明を要約すると、おおよそこのような内容になる。
だから将来の夢は、現実にぶつかってリアリティーを得る事そのものだと、彼は続けた。つまり、“将来の夢は?”と訊かれて、子供が答えるだろう事、書くだろう事(要するに子供の亡者がスフィア内で想像するだろう自分)から離脱する事、そしてリアリティーを得つつ形成される自分になること、それが将来の夢だと、ユウ太君はたどたどしくも確固たる信念を持っている様子で語った。
その願いを聞いた時、不意に私に、ある突飛な考えが浮かんだ。――彼は、私の身代わりになって死んだのではなかろうか、と思ったのだ。――私が災厄を避け三島へ落ち延びたのと引き換えに、彼は八十年前広島で原爆に撃たれて死んだのではないか。私が受ける筈だった(しかし逃げおおせた)核を、息子(とも言うべき彼)が身代わりとなって引き受けた。無論身代わりが八十年も前というのは因果が逆転し矛盾しているのだが、私はそれからというものそんな妙な思いに囚われ続けた。
それからである、私が二人の関係を本当の父子のそれのように感じ始めたのは。彼の願いを、未来を成就させてやりたい。それは、我が子に対する親の願い、そのものだろう。そしてユウ太君との関係が親子として確固たるものとなるにつれ、――彼の存在が、遠い過去のある苦い思い出を、呼び覚ました。
まだ三十前の、若い頃である。社会人成り立ての頃、付き合っていた女がいた。結婚しようか迷ったが、結局時が悪戯に過ぎ、別れた。――大学時代の友が、好いていた女だった。女の魅力を語る友の言葉が、自分自身の感情のように我が身に染み入ってきた。友と争い、その女を取った。争っている間、自分でも信じ難い程夢中になり、心底この女が好きなんだと確信するようになった。だが、争いに勝ち、自分のものになり、身近に置くと、女はまるで違うもののように急速に色褪せていった。同時に私も、惚れる時に数倍増すスピードで、転げるように醒めてしまった。こんな事なら、友情を壊してまで、こんな女を取るんじゃなかった。醒めた私は、激しく後悔した。女が疎ましくさえなった。自分が本当の恋愛なんぞ出来ない人間であり、多分一生結婚する事もないだろうと、この時悟った。――その女が妊娠し、私は胎児を堕ろさせた。(女は、下瞼で涙を堰き止めたような虚ろな目で、私をジッと見返していた。)――ユウ太君を見ていて、その“本当の自分の子”の事を思い出したのである。
アノ世が現実にあることが、証明されてしまったのだ。だとしたら、“あの子”は今頃どうしているのだろうか。――そも、アノ世において、水子で死んだ人間の霊は、どのような在り方をしているのか?
もしかしたら、ユウ太少年のように、ある日突然訪ねて来て、父親の私に向かって『生き直したい』と申し出るのではないか? あるいは、自分を流した(つまりは殺した)殺人犯たる父親を、猛烈な勢いで弾劾し、恨み言を並べ立て、復讐を果たそうと責め立ててくるか?
どうなのだろう? しかし彼(彼女)が(私の本当の子が)、“いる”ことだけは、否定のしようのない事実なのだ。
ユウ太君を見るたび、そんな幻想の我が子と二重写しになる。会いたくもあり、会いたくもなし。懐かしくもあり、恐ろしくもある。――いずれにせよ、心の準備だけは、しておいた方がよさそうだ。
そしてこうした事態は、私だけに起こっている事ではなかろう。私以外にも、懐かしい人や招かれざる客の訪問を受けたり、あるいは受ける事を待ち望んだり怖れたり、している人々が結構いることだろう。これまで“死”によって隔てられていた、二度と会う筈のなかった人と、再会する事となろう。(そんな怪談めいた噂話が、ちょくちょく耳に入ってくる。我が身に照らし、気に病んでいるせいかもしれないが。)
<328日目>
河野さんの会社が倒産したそうである。碁会所で白が黒に両がらみの難しい局面を睨みながら、河野さんはそう打ち明けた。彼の会社は戦後、まだ無事な工場に生き残った社員を集中させ、生産主体をシフトさせた。それが裏目に出た(そういう会社は数多い)。生きる事でギリギリの生者地区の半統制経済に、会社の体力が耐えられなくなったのだ。
彼は死者の国の日本へ、出稼ぎに行く事を決意した。体よく言えば、アンドロイドに乗ったテレ・ワークである。込み入った仮設住宅街でも、お隣さんもお向かいさんも、ほぼ三軒に二軒の割りで、既に同様に働き手が死者の国へ仕事しに出て、何とか生計を立てている。好景気で慢性的に人手不足の死者の地帯に対し(生者に加え、御先祖様まで遡り、どんどん労働者を増員しているが、それでも追い付かないという)、生者の住む地帯にはろくな仕事がなかった。――浸透圧の原理である。生者と死者、汚染の有無、の境を浸透膜とし、労働力は死者の領域に吸い取られ、そこで生み出された富が生者の領域に還流されて、まだ生きている者達の命と生活を支えていた。
今や死者達の産業が、この国を成り立たせ、生者はそれに寄生して生きていた。ますます縮んでゆく、生者の日本社会(辛辣な評論家に言わせると、“風前の灯火”だそうだ)。大量の戦災死により、人口減少が遂に臨界点を越え、引き返す事が出来なくなった。加えて激増した戦傷病者の介護に、最後の余命を絶たれようとしていた。――対して死者達は、異様に明るく、空元気と思える程はつらつとし、活気に溢れ日々を生きていた。一度死んじまったら、もう失うものは何もない、とでも言いたげに。命も健康も、食住の心配もない。社会にも家庭にも依存する必要がない。だから誰にも、何にも遠慮することはない。本当の自分を前面に出して生きていける。彼を縛るのは、目的意識と倫理観のみである。――生者達は、死人のようにボーッとした目で、そうした生き生きした死者達を羨ましげに眺めている。死者が生者に持つ羨望とは、まるで別種のそれである。
死者の生存に必要なのは、アンドロイドの体と、それの駆動エネルギーのみである。死者の労働は、労災も過労死もないし、疲れ知らずで何時までも働ける。エンゲル係数はほぼゼロに近い。つまり、生産コストが極端に低い。いやでも高い産業競争力とならざるをえなかった。これが貿易摩擦として国際問題になった。死者に働かすなど、フェアじゃない。死者の経済は、規制されるべきである、と。
――死者の領域のあちこちで、既に死んで縁の切れた者達が再会を果たした。知人と、旧友と、家族と。むしろ戦争前疎遠であった者同士が、連絡を取り合い、昔を懐かしみ、親密さを取り戻した。
日本再建のため、戦死者は勿論、戦争以前の死者達まで、駆け付け、復興に参加していた。数多くの一般庶民に加え、昔のカリスマ達(文化人や、科学者や、企業家や、政治家や等々)が呼び出され、力を発揮し、現代社会に影響を与え始めた(鎌倉のリンボ特区がその“呼び水”となった事は、言うまでもない)。
少し前までの人達は、アノ世がネット世界の延長上にあるなどとは、到底想像もしなかっただろう。そも、ネット世界とは、ここ数十年で人間が創り出した全くの別天地であり、新参者だ。人はそれまで、そんなものの在り様はおろか、存在すら意識する事が出来なかった。ならば、神田の言う先行する者達が、人間など生まれる遥か以前に立ち上げた、コノ世のアーカイブをデータベースにしたバーチャルな人造世界とは、人間が思い付いた、創造したと思い込んでいるものの最古参、原型、イデアということになるのか。それが、昔の人間には“アノ世”として見えた、という訳か。そしてつい最近になって、人間も同じものを造れるようになったものだから、たまたま両者が偶発的に繋がってしまった、……。ただそれだけの事なのだろうか。
<349日目>
またぞろ商工会会頭や鎌倉市長から無理難題を押し付けられ、ツアー・コンダクターの真似事をさせられることとなった。両世界を繋ぐ“窓口”の出番、という訳だ。性懲りも無く、便利に使われている。
市長達は、ユウ太の親戚絡みで、広島で被爆死した者達に現世の広島訪問を懇願されたらしい。復興成った現在の広島に、是非一度直に触れてみたいと。そして現世の広島市民達と、八十年振り親交を深めたいと。
かくして今回平和大通りに観光バスで乗りつけた総勢二百名程の亡者達は、主に爆心直下の旧細工町や旧猿楽町、今平和記念公園になっている旧中島の各町の原爆犠牲者達で占められることとなった。当然ユウ太の家族や親族も含まれている。そこで、嫌がるユウ太を無理やり引っ張っていって、現地で家族と再会させることにした。
ツアー客の亡者達は、バスのステップを秩序正しく順繰りに降りる。見慣れぬ近未来都市に紛れ込んだお登りさんよろしく、恐る恐る、遠慮がちに、しばしばオドオドさえしながら、現世の大地を踏み締める。――それを、市や各種団体の代表が、さながら英雄達の凱旋を待っていた如くうやうやしく出迎える。
生者達はまず、シンボルたる原爆慰霊碑への祈りという儀式を望んだが、死者達はそんなものに興味は無いようだった。慰霊される側が慰霊してどうなる、という訳だ。それでも一応付き合いで一同揃って頭を下げたが、碑に刻まれた『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』という碑文を見て、死者達の間にシラケた空気が行き渡り、冷笑するような声すら幾つか聞こえた。彼等は眠ってもいないし、過ちも繰返された、からだろう。
それより彼等が興味を示したのは、慰霊碑の石室の中に納められた原爆死没者名簿の方だった。普段閲覧は許されていないが、今回特別許可された。また、搭載確認出来るのは遺族または親戚に限られるが、今回は本人にも特別認められた。
「ワシの名もちゃんと載っとる」などと言い合い、神妙な顔で名簿の自分達の名の有無を確認し、有るだ無いだと一喜一憂した。同じ光景が、平和の観音像(中島本町町民慰霊碑)脇の死没者芳名碑前でも、公園東端の天神町北組慰霊碑芳名碑前でも、繰り返された。名前の有無で一喜一憂しつつ、旧町民達は集い、旧交を温め合った。
一方、北端に在る原爆供養塔地下には、遺骨の安置所があり七万柱ともいわれる遺骨が眠っているが、こちらは無視された。遺族にとっては作り物めいた慰霊碑などより現物の納められた供養塔の方がしばしば慰霊の対象として相応しいが、当の死んだ本人にとってはうっちゃった自分の体の破片なんぞには何の興味もない。自分の遺骸を弔う倒錯者などいない。彼等が強く関心を示したのは、モニュメントでも自らの遺体でもなく、現世での存在確認のためのリストの方だったようである。
『幽霊戸籍』と呼ばれる、一族諸共に滅亡してしまったために誰も死亡届を出す者がおらず、何時までも生きたままであり続ける行方不明者の戸籍があるそうだ。爆心地周辺の家族丸ごと全滅してしまったケースの多い地帯の住民に、こうした生きた幽霊達は多くいると聞く。法務省通知で市は120歳以上の幽霊達を強制的に鬼籍に移住させているらしいが、そうするとまだ120歳に達していない、つまりユウ太と同世代の幽霊達は、いまだ生きた幽霊であり続けているんだろうか。名簿に次いで、ツアー客達の関心は、ここに集まった。自分はちゃんと成仏しているんだろうか、それともいまだ現世を彷徨っているのか。幽霊達が、自分達が幽霊なのかどうかと、心配していた。
幸いな事に、ユウ太も、その両親も、その他家族の面々も、その名が死没者名簿にも載り、中島本町の死没者名碑にも刻まれ、戸籍上も成仏出来ていた。彼等も私もホッと胸を撫で下ろした。私は初対面のユウ太の両親と挨拶を交わした。物腰の柔らかい、いかにも下町の食堂の主人と女将、といった雰囲気の人達である。挨拶し合う間、ユウ太はズッと両親の陰に隠れ続けていた。
両親は私に、大変お世話になっておりますと礼を述べ、アノ世の手土産の一つも持って来られないのがもどかしいと言った。次いで、“アノ日”のユウ太について、話してくれた。――ユウ太の歳なら、“疎開組”に入っているのが普通である。広島も四月から疎開が始まり、縁故疎開や何波かの集団疎開で既に多くの児童が町の外に出ていた。ユウ太の両親は縁故疎開先を探していた。集団疎開の“悪い噂”を色々耳にしていたからである。甘やかされのユウ太がそんな集団生活でやっていけるのか心配で、縁故疎開にこだわる内、アノ日を迎えてしまった。
アノ日の朝は、前夜や早朝の空襲警報騒ぎで、始業時間が三十分程遅くに繰り延べになった。それでも登校しなければならない、戦争中夏休みは十日間程に短縮されていた。――戦争末期ともなれば、食堂といっても、メニューは芋汁、すいとん等代用食ばかりで、それを食券と引き換えに供していた。食材不足で経営もままならないから、中島の飲食店主達は共同経営の一店舗にまとまり何とか営業を続けていた。だからユウ太の家の食堂も閉店状態で、家の中にろくな食べ物も無かった。朝も、昼も、萎びた芋。早々に朝食を済ませたユウ太は、学校とは反対方向、相生橋に登ってみることにした。ここでチンチン電車を見る事が出来れば、心も満たされ、空腹も忘れる事が出来る。少しぐらい寄り道しても、始業時間には間に合うだろう。そして十日市方面から紙屋町方面へ向かう車両と、それを運転する少女運転士(まだ十五歳程)を確認した。目の前を通り過ぎる市電を見送り、その後を追って橋の反対側に渡り、走り出した。
親元を離れた疎開生活を嫌がるような甘やかされが、よくも現世で一人暮らそうなどと思い切れたものだ。成長しないといっても、死んでからの八十年が、やはり彼を少しは変えたのだろう。自立するため、ユウ太はアノ世の広島にはあまり寄り付かなくなっているという。今日の両親への甘えようは、その反動というところだろうか。アノ世の広島では、周囲がそうイメージする故、彼は十歳の子供のままであり続けざるを得ない。逆に、もし本人が現世での成長した姿をイメージする事となれば、もう故郷の人々はそのイメージを共有する事は出来ないから、両者のスフィアは切れてしまう。両者はますます乖離していく。
そうした意味では、むしろ変わらないのは、変化を拒んでいるのは、彼の両親の方だと感じられる。私に対し、感謝はすれど、何か“敵意”のようなものが滲み出ていると思われるのだ。息子に愛着を持つ彼等は、ユウ太が十歳に留まり続ける事を望み、従って現世の預かり親たる私を、ある種の“誘惑者”、大事な子供を変えてしまった元凶、と見做しているふしがある。だとすれば、とんだお門違いというものだ。
私に案内されるまま、亡者達は律儀に大人しく付き従い、神妙な面持ちを崩さず名所旧跡を経巡り歩いていった。(といって私も、ガイドブックで即席の知識を詰め込んだに過ぎないんだが。)大戦前の人が意味が分かって使っているのか不明だが、しばしば「ツア・コンさん」と親しげに語り掛けられた。お稲荷さんの眷族か何かと勘違いされているのかもしれない。
やがて資料館内に入った。今回特別客達のために、常設展示に加え、収蔵品の無制限公開が行われた。二万点を越す遺品の中から、彼等はしばしば目敏く自分の所有物を見付け出した。あの腕時計(8時15分を指して止まっている)は、俺のだ。あの芋の煮っ転がしの入った弁当箱は、私のよ。と、指で指し示す姿が、あちこちに見られた。新たな問題が浮上した。これら遺品を、落し物として、持ち主に返却したものかどうか。
一人の少女のアンドロイドがガラスケースの中を見詰めていた。ケースには、所々破れ、焦げ、朽ち、皺が寄り、大きな黒い染み(血の跡だろうか)が占め、古く色の褪せた、赤い花柄のワンピースが収まっていた。そして少女は、全く同じ柄、同じ裁断のワンピースを着ていた。さながらケースのガラス板が鏡になっているかのごとく、同じワンピースが映っていた。ただ、ケースの手前側が新品で、向こう側が八十年前のものという、時間差があるだけで。
多分このワンピースは、彼女の晴れの日の一張羅だったのだろう。アノ日、どういう思惑からか、憲兵や町の人達の刺すような目を覚悟で、これを着て町をブラついていた。ピカに合い、ワンピースは脱がされ、懸命の治療もむなしく彼女は逝った。ワンピースは形見として彼女の遺族の手に残った。――その一張羅を、今日という晴れの日、蘇らせてめかし込み、彼女は広島に戻ってきたのだ。
またある女性は、被爆直後の自らの顔写真を見付けた。随所がリンゴの如く膨れザクロの如く皮が割れ、あまりに悲惨で直視し難いものだったが、それと相対した彼女は大戦前のブロマイドの女優のように美しかった。「こんな姿で、また現世の広島の街を歩けるなんて、思わなかったわ」彼女は言った。
ピカの犠牲者には、勤労動員中の女学生ら、若い女子供が多い。これからロマンスが花開く筈だった人生を、そこで途絶えさせられた彼女ら。アノ日、の手前の姿で現世に舞い戻った彼女らは、今後の世界をどう生きるのだろう。
美しい彼女らに対し、少数だがピカの後の面相でアバターを作った者達も紛れていた。生者の市民達に、動く被災者の姿を見せ付け、ショックを与えた。彼等がこうした姿を選んだのは、どういう意図からだろうか。ピカ前の姿に戻る事をごまかしと捉え潔しとしなかったのか、生者達に“死を忘れるな”“原爆を忘れるな”と訴えたかったのか。
他方、自分の本当の姿を初めて見、思い知らされている男もいた。男は、寝っ転がり手足を宙に持ち上げた姿勢のまま黒い炭の固まりとなった自分の写真を、ジッと見詰めていた。原爆の閃光で即死した彼は、自分の末路を自覚していなかったのだ。初めて知って、強いショックを受けた。あるいは、これまでただ前世の延長のようだった彼の来世の生活に、新たなトラウマが加わる事になるかもしれない。
展示された原爆の絵や写真を見て、アノ時の事を思い出し、感極まって自らの悲劇を嘆き、号泣する人々もいれば、前者の男性のようにそれまで知らなかった自分の真の姿に気付き、凝視する目が離せなくなったり、逆に目を逸らし続けたりする人々もいた。そんな中に、“本物(実際に起こった事)とはまるで違う”と、館の職員に食って掛かっている老人がいた。老人は細部に渡りクレームを付け続け、職員達は当惑しつつもその言い分を細大漏らさず聞き取り続けていた。
やがて予定の時間が過ぎ、館を出た。外では、多くの市民達が待ち構えていた。生者との交流は、ここからが本番となるようだ。――被爆死者達の周りに、あちこちで固まりが出来、彼等の話に多くの生者達が熱心に聞き入った。反面、より多くの市民達は、迷惑そうにそれら固まりを避け、コソコソ逃げ出した。日頃“語り部”役の者達が、今日は語られ、新たなネタを補充した。
旧大正屋呉服店のレストハウスでは、歳若い母親と、生き残り今や老人となった息子との、感動の対面(連絡を取り合い、ここで八十年振り再会した)もあった。
亡者らは、自らのために、千羽鶴を折り、寄贈した。――やがて、“自由行動・定刻集合”の時間となり、死者の群は一旦解散した。
散り散りとなった彼等とすぐ連絡が取れるように、耳掛け式の簡易ヘッドセットを持って来ていた。装着し、スイッチをオンにする。スウェーデンボルグ・インターフェイスが走り出す。出力を抑えられたスフィアの希薄なイメージだが、丁度AR(拡張現実)のように、現実世界にやんわりとツアー客達のスフィアのイメージが被さる。これで団体客の行動全体が大まかに把握でき、ツア・コンの責任が果たせる。
人々は、各人勝手に、生前住んでいた町を、通りを、家の跡を、通った学校や職場を、目指し、移動していた。訪ね当て、昔話をしみじみ語り、笑い合い、涙に暮れた。朝飯の佃煮を口に放り込んだ時、光も一緒に口に入ってきたとか、赤黒い膨れた体を川べりまで引き摺ってきたが、憲兵の軍刀に蹴躓いて胸を打った途端肉が崩れたとか、囁き合っている。かと思えば、ピカにやられた後の放浪の軌跡を、辿っている者もいる。何かを再確認したいのだろう、しきりに周囲をキョロキョロ見廻しつつ歩く。個々人勝手に思い出に浸っていたかと思うと、一斉にざわめき出し、嘆きの声を上げる。周囲の生者が何事かと訝り、こちらを振り向き立ち竦むが、そんな事には一向お構い無しだった。
元安川対岸の原爆ドームに向かう一団に、同行することにした。――水運の発達した広島では、わざわざ陸上を遠回りしなくとも、川伝いに楽々移動する事が出来る。“ガンギタクシー”と呼ばれる、NPOの運営するボートサービスがあり、賓客達のために今日は無料乗り放題となっていた。五艘のボートに分乗し、三十人程が対岸の原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)を目指し、川面を進んだ。
が、対岸の雁木が近付いた途端、雁木に妙なものが見え始めた。最初薄ぼんやりした図像だったが、三十人のスフィアがピタリ焦点を合わせ始めたのだろう、否定しようのない光景となった。雁木に、肌色と鮮やかな赤と底無しの黒との三色に重ね塗りされた死体の群れが、押し寿司の如く鮨詰めにされた様が見えたのだ。
ボートの操縦者は生者だし、私のようにヘッドセットを付けていない。だから何が起きているのか分からない。何の迷いも無く、舟を死体(と、死に掛かっている人)で埋もれた雁木へと高速で進めていく。
亡者達から、この世のものとは思えぬ悲鳴が一斉に上がった。彼等にとって川越しに見る雁木は、身近に迫れば迫る程、こうした光景を思い出させずにはおかない場所だったのだ。振り返ると、周囲の他の雁木も死体で埋め尽くされ、川面にも洪水の後の流木のように無数の水死体が浮いている。――いや、よく見ると、その水死体達は動いている。泳いでいる。川で水遊びする子供達だった。さらに、シジミ採りに興じる大人達まで混ざっている。その横を、死体が浮かび流れていく。――原爆の前、広島の川は、夏には子供達がプール代わりに川遊びし、他にも一年を通して、シジミ採り、川舟での饗宴、川岸の花見等々と、行楽の場として親しまれてきた。両極のイメージが、今亡者達のスフィアの中でゴッチャとなり、混乱を極めていた。――私は耐え切れなくなり、ヘッドセットのスイッチを切った。
懐かしがられ、喜ばれると思って手配したガンギタクシーが、裏目に出た。船頭はすごすご、来たコースを引き返さざるを得なかった。引き返す先の雁木も、既に死体で埋まっていた事だろう(ヘッドセットをオフにした私には見えなかったが)。それでもどうにか上陸出来た。連想が働いてしまうと抑えようもなく出続けるスフィアのイメージだが、出発地の雁木は一度通過したという実績がある故、スフィアの暴走を薄める事が出来る。対して川面から見上げる雁木のイメージは、致命的だったのだろう。――そういえば大戦前から(というか江戸時代から)広島に残っている唯一の遺構が、この雁木だった。迂闊だった。
川から戻ると、平和の池の周囲で、旧中島集産場の商店主達が騒いでいる。中島集産場は広島を代表する商店街で、丁度今の平和の池辺りに位置していた。
大きな地図を何人もで広げ、それに線やら記号やらを書き込んでいた。長四角の池のグルリを歩き回り、要所要所の長さをメジャーで測っていく。平和の灯のともる池の小島や原爆慰霊碑の鞍型ドームの上にまで登り、あちこちの仲間に指図し指示を飛ばす。市の職員が、「降りて下さい」「戻って下さい」と、懇願するように注意していた。
「ワシの店は、“平和の灯”とやらと池の縁の間にあった」「ワシの店の敷地は、そこの木からあっちの池の角までじゃ」などと盛んに言い合っている。どうやら集産場の家並みを、実地で再現しようとしているようだ。「あの賑わっとった屋根付きの通りが、こげな殺風景な池になろうとはの」「遊興場に飲食店、映画館に写真屋に本屋、高級品店から雑貨屋まで、何でも揃っとった。大人から子供まで、ワクワクしてやって来た町じゃった」懐かしそうに語り合う。
「そげな町を、こんな更地にしよって」「ワシらに無断で、線香臭い慰霊碑なんぞおっ建てよって。縁起でもない」「御上のやる事は、いつもこうじゃ。建物疎開の次は、公園作りじゃと。ワシらの飯の種を取り上げよって(もう飯の種は必要ない筈だが)」家並みを再現する内、古い権利意識が再燃したようだ。「何の権利があって、ワシらの土地を取り上げるんじゃ」「そうじゃ。この歩道からあの柵までは、ワシの土地じゃ。返してくれ」「ここの植え込みの周りは、ワシに権利がある。返せ!」「そうだ。返せ! 返せ!」彼等は口々に不満を言い立て、それぞれの権利を主張して譲らない。それを、市の職員が、必死になだめ、理解を得ようと努力していた。
近くの原爆の子の像の辺りでも、騒動が起こっていた。
さっきから修学旅行の高校生達が浮かれてバカ騒ぎしていたので、嫌な予感はしていたのだ。
にこやかに笑いながらピースサインを造りつつ原爆の子の像や遠景の原爆ドームを背景に記念撮影する高校生達を、遠巻きにした亡者達は苦々しげに見詰めていたが、高校生の中のツッパリの一団が子の像周囲の雨よけカバー内に奉納された千羽鶴の束を何本も取り出し馬鹿笑いしながらハワイのレイのように首に巻き付け遊び出したから堪らない。
「何しよんなら!」アンドロイドの重いボディーが何体も、ナナハンの暴走の如く突進し、その鉄腕でツッパリ達をボコボコのタコ殴りにし出した。
あわてて仲裁に入ったが、こちらもしたたか殴られた。
そんな騒ぎに巻き込まれる内、ユウ太の姿が見えなくなっている事に気付いた。――それまで付かず離れずしていた彼が、まるきり視界の内から消えていた。平和の池で権利争議に加わっていたユウ太の親戚の一人に訊くと、またぞろチンチン電車を見に相生橋にでも行ったんだろうと、気の無い返事を返してきた。
仕方が無いので、再度ヘッドセットのスイッチを入れた。――知りたくなかったが、平和の池や千羽鶴と同種の揉め事が、方々で起こっていた。
辿り着いた我が家に、見知らぬ者達が住んでいた。誰の許しを得て、勝手に住み着きやがった、ビルなんぞ建てやがったんだ。現住民達と口論となった。他人の家や立ち入り禁止の場所にまで、ここは本当はワシのウチじゃとズカズカ入り込み、ひんしゅくを買った。まるで様変わりした現在の広島だが、彼等の記憶の中の古い広島と、鮮明に重ね焼きされているのだろう。こいつは、後始末が大変そうだ。
アノ朝ユウ太が歩いただろう同じコースを辿り、相生橋へのT字の道を登り始めた。途中、何気なく右手原爆ドームの方を振り返り、驚いた。――傷一つない、真新しい産業奨励館が、川岸の夜景に、淡いピンクや黄や緑や、色とりどりにライトアップされている。川面にその明かりが映り、溶け込み、この世から浮き上がった、まさにあの世のような美しさだった。
誰かのスフィアと繋がってしまったのだろう。その人物は、まだ出来立ての産業奨励館が美しくライトアップされる様を、間近に見たのだ。――奨励館は、イベントの都度、美しく飾り付けられ、夜間はライトアップされ、その秀麗な姿を川面に映したという。県物産の紹介だけでなく、各種展示、美術展覧会、演奏会、映画上映、社交パーティー、等々も繰り広げられ、幅広く使われ賑わった。小集会室には、パイプオルガンまであった。――このスフィアの記憶は、その内でもまだ館が出来て間もない頃のものだろう。大正四年八月五日、チェコ人建築家ヤン・レツルの設計により、館は竣工され、開館した。そして丁度三十周年を迎えた日の翌日、一夜の夢だった如く一瞬の閃光の内に滅んだ。
夜景のライトアップでどこが一番美しいかと問われれば、迷わず戦前の