続・不死の人

岩田レスキオ

小説

97,269文字

老ボルヘスの語る奇想天外な思い出話は、いつしか現在を越え、未来の思い出にまで踏み込む。

 

 

どこかにいるだろう彼に捧ぐ

 

鮮血吹き上げる首筋が、俺のこよなく欲する獲物だ。剛毛の垂れた黒い首筋。赤茶けて荒れた首筋、思いがけず、そこだけ女のように艶めかしい首筋。見事な首筋。チンケな首筋。若々しい首筋。老いた首筋。ここを狙って、刃を食い込ませてくれと、俺を誘う。沈み込む刃の、感触。――決闘では、相手の首筋に見事刃を沈め、とどめを刺してやるのが、俺達の誇りだ。

逃亡生活を始めて、もう40年近くにもなる。山間や、深い野で、野宿する日々だ。灯火の見える所では、いつ警察や軍隊に急報が届くか、知れたものではない。

万能のポンチョの縁を手繰り寄せ、砂糖無しのマテ茶を啜った。冬が近い。マテ茶ももう切れた。一度、町へ降りねばならないだろう。

最初の人殺しをやらかした時、運悪く巡回の保安官に目撃された。何も持たず、そのまま逃げるしかなかった。その後は、悪事と殺しがどこまでも付いて廻り、いっぱしの、ガウチョ崩れのお尋ね者となった。――ある立ち回りでは、三倍の敵を皆殺しにした。ある町では、顔役の巨漢を縛り首にした。ある農場では、牛を30頭農場主の見ている前で失敬し、金と焼肉に換えた。――女らを次々泣かせ、勇み肌達を完膚なきまでに屈服させ、子供らの集団に町を出るまで歓声を送られ、インディオどもと残酷さを競う死闘を繰り返した。――おかげで、警官に追われ、軍隊に狩られた。奴等の裏を掻き、ヒョロヒョロ玉をくぐり抜けるのも、大分手馴れてきた。

その代わり、随分と名を上げた。――そっちの世界では、ちょっとした有名人だ。――日銭を稼ぎたい時、喧嘩や選挙の助っ人役を買って出ることもある。こういう時、名が通っていると、歩合がよくなる。それと、悪党の庇護下にある時だけ、野宿せずに済んだ。闇の牧畜業者に雇われる時もある。そういう時は、昔の稼業、ガウチョにしばし戻った。

ミロンガを口笛で吹いた。声に出して歌うと、荒野の埃で喉が荒れ、嫌なのだ。それに、声を出すと、自分が孤独であることを思い知らされる。だから、歌うことも、声を発することも、滅多になかった。

だから俺は、パヤドール(吟遊詩人)にはなれなかった。その代わり、袋にねじ込んだ紙束と、ちびた鉛筆と、焚き火の明かりで、詩を書いた。人に、他のパヤドールどもに、歌わせるガウチョ詩だ。

ガウチョの生き様を歌い、心情を歌ったものだ。――官憲に追われ身を隠す生活だから、パヤドールは無理だが(第一、歌は喉を荒らすから嫌いだし、それにギターは大荷物になる。警官や兵隊の銃弾から逃れる時の、枷となる)、――黙って文字にすることならば、出来る。――歌うのは、他の奴等に任せりゃあいい。

明日町へ降りて、書き溜めた詩を知り合いの出版社に送るとしよう。――俺の詩は、全て発禁で、稿料も叩かれるが、――それでも小遣い程度にはなり、一部のパヤドールどもに(悪名のせいか)根強い人気があり、連中の後ろ手に手渡され続け、しぶといネズミのように国境を越え南米全土に広まっているようだ。俺の書いた詩を、全土のパヤドールどもが、声に出して歌い、堅気のガウチョどもがそれにしんみり耳を傾ける。

 

町で、妙な噂を聞いた。

あの悪名高く、それには遠く及ばないが詩人としても少しは名の知れたあの男が、……つまりは俺が、……その町から南へ5レグア(約30㎞弱)ほど行った谷あいに、隠れ住んでいるというのだ。噂の出所は何人もおり、目撃談も十数件あった。――お尋ね者が町の住人に居場所を知られて、それで無事でいられる筈もない。つまらない噂だろうが、やはり気になった。

荷物が多くなったので、駄馬を買った。ついでに、その谷まで足を伸ばしてみようと思った。どうせ、取り立ててすることのない身分だ。――俺の名を騙るとは、どんな酔狂な奴だろう。人気者の俺を、妬んでのことか(大部分、悪名だが)。俺の血には、南欧の白人半分、黒人4分の1、インディオ4分の1の、血が混ざっている、らしい(正確なところは、本人にも親にも、誰にも分からない)。そんな俺でも、偽者が出るか。そいつの顔が、見たくなった。

駄馬は、ヨロヨロしながらのんびり進む。俺が降りて荷だけ運ばせれば、もっと速く歩くのだろうが、せっかく買ったのだから乗っていかなくてはもったいない。――馬は消耗品と心得ている。この40年近くで、何十頭も乗り潰した。愛着は持たないことにしている。持てばいざという時、馬と心中ということになりかねない。――その間、犬を3匹飼った。子犬から育てたのもいれば、俺の後を付いてきてそのまま伴となったのもいた。一匹はよぼよぼになるまで寿命を全うし、一匹はジャガーに食い殺され、一匹は気が狂ったように挑みかかってきたので撃ち殺した。(何故、ガウチョ同士のように、ナイフで戦い、とどめを刺さなかったのか、今でも後悔している)

両側に森の迫った、ぬかるんだ小道を進む。道は殆ど一直線である。木々の枝が、纏い付くほど垂れ下がり、覆い被さってくる。時折吹く風は、心地良くも、うら寂しくもある。――どこか、俺の詩に出てくるような、そんな雰囲気の場所だ。――何故か、懐かしい。

チャハー(冠叫び鳥)の鋭い鳴き声がした。

森の色が変わった。――見覚えのある、夢で繰り返し見たような、そんな光景だと気付いた。不思議な感覚が、脳の深い部分を支配し、痺れさせた。――緊張の解けぬ長い逃亡生活で、すっかり薄れていた古い記憶が、砂漠に滲み出す湧き水のように瞬く間に満ちてきた。――俺は、ここで暮らしていたことがある?

道を小川が横切り、特徴ある白と青の、さながら祖国の国旗のような二重の柵が、長々と小川の両岸を囲っていた。ますます記憶は、鮮明となる。

不意に、広場に出る。広い牧場の、片隅のようだった。小さな牧童小屋が見えた。――その小屋を見て、全て思い出した。

 

俺は、男の名、つまりは自分の名、を呼んだ。――果たして、男は出てきた。若い頃の俺だった。

男は、戸惑っている。自分がこれから何をするか、何をする運命にあるか、知っているからだ。

俺は、羽織っていたポンチョをゆっくりと脱ぐと、それを左腕に巻き付け、盾にした。馴染みの相棒、手にしっくり収まる大振りのナイフを抜くと、相手の喉笛を狙い、そいつを構えた。――男も、真新しいナイフを手に取った。まだ、草木や獣を切り裂くばかりで、人の血を吸った経験の無いそれを。

ナイフとナイフが、鳴った。ポンチョで受け、むなしく宙を切り、応酬が続いた。

40年前の俺は、思った以上に、力強かった。いや、俺の切っ先が、俺の心のままに、ためらいがちで鈍りがちだった。全ての動きが、反応が、若い俺に遅れた。40年の経験は、役に立たなかった。

腹に、一刺し、二刺しと食らい、俺は跪いた。敗者は、喜んで自らの首筋を献上し、若い俺のナイフの刃が首の肉を抉るのを待つ。やがて、硬い鋼と柔らかい肉の接吻があり、“これで、終わらせてくれ!”と、俺は心の中で叫んだ。

 

誰かの呼ぶ声で、俺は長い長い夢から覚めた。

声は、小屋の外から、俺の名を執拗に呼び続けている。

意を決し、外へ出ると、果たしてついさっきまで俺だった、年老いた俺である。

夢なのか、夢でないのか。夢でない事は、夢の内容が証明していた。しかしその証明も、また夢なのだが。

成り行きは、分かっていた。ついさっきまで、夢の中で自分がやっていた事だから。――年老いた俺がナイフを抜き、俺も抜いた。

剣戟が、始まった。男の切っ先が鈍い。その理由も分かっていた。ついさっきまで、夢の中で自分が考えていた事だから。――男は、殺されたいのだ。殺されて、この夢から逃れたいのだ。――だが死ねば、それはまた、夢として若い俺に戻ってくる。結果、男は死ねず、永遠に夢のサイクルの中で生き続けることになる。

男は、殆ど自殺するように、俺のナイフの上に飛び込んできた。そして首筋を差し出した。――俺はやむなく、男のうなじを掻き切った。

そしてゆっくり、後ろを振り返った。――ほうら、やっぱり、――丁度巡回中の保安官が、全てを目撃していた。

俺はナイフを握り締めたまま、逸散で走り出した。さっき来た道、さっき夢の中で来た道を、全力で逆走した。後ろで保安官の、威嚇するような怒鳴り声がした。が、俺は無論止まらなかった。これから40年近く、このまま逃げ続けることを、嫌という程知っていたから。

 

あの忌まわしい瞬間があってから、10年近く過ぎた。そう、それは本当に、一瞬の出来事のように、圧縮されていた。それまでの俺は、20年近く、ごくありふれた貧農の子として育った。馬鹿げた程無邪気な幼少期、犯罪と紙一重の悪戯にうつつを抜かした悪童期、そして、成りたてのガウチョ、これからどんなガウチョに成長していくか、周囲も、俺自身も、楽しみに胸膨らませていた。――それが、――たったあの一夜の夢で、――たったあの一瞬の出来事で、――俺は、思い出せる限り無限のサイクルの40年間、つまりは何百年、何千年、何万年とも知れぬ人生を、その記憶を、夢という形で、このハタチそこそこの体に、埋め込まれてしまったのだ。

俺は、焙った乾し肉を食いちぎり、カードをひっくり返しながら、いつも通り、自分の呪われたふざけた人生を罵り、同時に執念深く考えた。

この夢は、無限に循環し、無限に古い堆積層を記憶の中に形成していく。40年遡ると、同じ事が起こっている。また40年昔を思い出すと、その時も同じ夢を見ている。夢の中の記憶に、無限の古層が畳み込まれ、奥深い谷の断崖に形成されたその堆積層を、自分は高い崖の上から見下ろしている。しかし、地層の重なりはどこまでも下り、谷底は決して見えない。

一体この夢は、いつから始まったのだろう。そも、始まりがあったのか。果たして、終わることはあるのか。まさか、この世の終末よりも長く、永遠に続くということはないだろうな。――神よ、お慈悲を。――子供の時以来、教会になぞ通ったことのない俺だが、あの事件が起きてからは、無論教会には行けないが、神に話し掛ける機会は格段に増えた。――せめて、この世の終末の時には、俺もこの夢から目覚めさせて下さい。

 

逃亡生活を始めてから、40年近くが経った。その間、欲望の命じるまま、欲しいままに生き、それに比例して、体中に傷跡も増えた。

町で、妙な噂を聞いた。

俺の名を騙る偽者が、町の南方5レグア程の谷あいに、潜んでいるというのだ。――その偽者とやらの顔が、見たくなった。

森の迫る小道を進んでいる時だった。――チャハーの鋭い鳴き声がした。

道を小川が横切り、特徴ある白と青の、さながら祖国の国旗のような二重の柵が、長々と小川の両岸を囲っていた。

不意に、広場に出る。広い牧場の、片隅のようだった。小さな牧童小屋が見えた。――その小屋を見て、俺は全てを、記憶を、夢を、積み重なる人生を、思い出した。

俺が呼び掛けると、中から若い頃の俺が出てきた。――ナイフを抜き、決闘が始まった。――殺されたい誘惑に駆られる俺は、圧倒的に劣勢だった。

――だが、その時だ。――ある、閃きがあった。――もしこの決闘で、俺が勝って、若い俺を殺してしまったら、俺の夢は、記憶は、人生は、歴史は、世界は、……どうなるのだろう。

殺されたい誘惑に押し潰されそうになりながら、俺は必死で若い俺の剣戟をかわしつつ、この思い付きについて糸くずほどの命綱に食い下がるように執拗に吟味した。――夢のループは、そこで途絶えるのではないか。俺も、若い俺も、その瞬間消えるか、あるいは若い俺は20歳になるかならぬかの若い身空で絶命し、世間の涙を集めるかもしれないが、とにもかくにも、無限ループの夢という地獄は、終わらせる事が出来るのではないか。全てを無かったことに、出来るのではないか。

俺は、勝つことに執着した。俺は、全力を挙げて戦った。若い俺は、途轍もない強敵だったが、徐々に経験の差が物を言い出した。何といっても若い俺は、無駄な動きが多過ぎた、隙があり過ぎた。――何としても、この目の前の若者を、若い自分を、今ここで、殺さなければならない。

遂に一閃が、相手の腹に入った。次いで、腿へ。胸へ。――若い俺は、うつ伏した。俺は勝利の雄叫びを上げると、若者の首筋、髭剃りなどの時鏡の中でよく見る見覚えのあるそれに、ナイフの刃を立てた。――次いで、刃に付いた血を、その牧場の牧草で拭き取った。

――俺の延命は、半年間でしかなかった。結局、この戦いで若い俺から受けた傷が元で、半年後には命を落とすことになった。――だが、少なくとも、夢の中身を書き換えることはできた。夢を継ぐべき者は、この手で殺した。これで、果たして本当の目覚め、あるいは本当の終焉は、来るのか、否か。――俺はゆっくりと、目を閉じた。

 

 

「誰かの呼ぶ声で、私は長い長い夢から覚めた。

声は、遥か高い天空から、慈愛に富んだ雨のように私に降り注いだ。

声の主は、母親だった。付きっきりで看病してくれていたのだ」

老人はその瞬間、母に身をゆだねる子供のように、穏やかに笑った。
「生来粗忽者の私は、急いで階段を駆け上り、踊り場の窓ガラスと鉢合わせしてしまったのだ。そして重篤の敗血症に陥り、一ヶ月余りも意識が戻らず、昏睡状態が続いた。――その話は、君も聞いた事があるだろう?」

この盲目の老人が、事故による敗血症で危篤となり、長い間生死の境をさまよったという話は、広く世間に知れ渡ったエピソードである。ただ、今彼が語って聞かせてくれた、昏睡状態の中で見たという悪夢は、初耳だった。――果たして、本当にあったことの告白なのか、それとも、作り話か。老人は、しばしばそうしたとりとめもない作り話を思い付き、私に話して聞かせ、かつ常備されたノートに書き取らせた。

メイドのアサンタ嬢が、紅茶と焼き菓子を持って、書斎に入ってきた。――テーブルの上に並べる。それらの匂いを嗅ぎながら、満足そうに、老人は丁寧に礼を述べた。
「昨日美味しいマーマレードが、田舎から届いたのよ、ジョージー。――それを焼き菓子に塗ってみたの」アサンタは自慢げに、菓子の盛られた皿を老人のすぐ手の届く所に置く。

紅茶の給仕を手伝いながら、私は、「その夢に見たガウチョが、あなたの作品『南部』の中に登場してきたのでしょうか? セニョール・ボルヘス」言った。――『南部』は、この敗血症のエピソードを盛り込んだ話である。危篤状態から奇跡的に生還した主人公は、生を満喫する浮かれた気分に浸り、子供の頃から思い焦がれた、いまだガウチョ文化の残る危険と隣り合わせの“南部”に向こう見ずに飛び込み、そのせっかく助かった命を代償として支払うはめになる、……。
「“セニョール”はやめてくれ、ロベルト。――君も、“ジョージー”でいいよ」老人が、紅茶カップを鼻先に近付けながら、言った。――“ジョージー”は、“ホルヘ”の英語読み、ボルヘスの愛称である。最も親しい者数名にしか、この呼び名で呼ぶことは許されないと聞く。このアパートに通い始めて3、4ヶ月経つが、私も“ジョージー”の仲間入りを許されたようだった。
「今思えば、あれが最初の、兆候だったのだ。長い長い物語の、事の発端だった。今、思えば……」老ボルヘスの口調が、急に重さを増したように思えた。「ガウチョの見た長い夢は、まだ続いているのだよ」カップを戻しつつ、彼は呟いた。

完全に視力を失った彼は、本を朗読し、口述筆記し、時には文学談義の相手をする、そんな“秘書役”を必要としていた。以前は彼の母親が、その役を務めていた。だが彼女が高齢で他界すると、いよいよそれなりの人材を登用する必要が生じ、この私に大文豪の助手を勤めるという幸運が巡ってきた、というわけである。
「ガウチョの夢は、まだ終わっていない?」と私。――「そう」とボルヘスは、すぐに後を継いだ。「といって、いまだに私が昏睡状態で、ここは夢の中の世界だ、……などとは言わないよ」そう言うとボルヘスは、盲人特有の濁った白目をこちらに向け、ニタリと笑って、厳かな調子で話を再開した。

 

「私の回復は、本当に奇跡だったようだ。まさに九死に一生を得た。医者も、この生還を、不思議がっていた程だ。――作品『南部』に書いた通り、退院直後の私の浮かれ気分は相当なものだった。だが、これもまた『南部』に書いた通り、そうした浮かれ気分もすぐに醒めてしまった。

あの当時私が図書館勤めの公務員だったことは、君も知っているだろう? お世辞にも、働くことに喜びを感じられる職場ではなかったよ。――そして、大戦に雪崩れ込むにつれ、世の潮流は急速にファシズムへと傾斜していった。――そんな中でしぶといネズミのように台頭してきたのが、――あの男、あの、その名を口に出すのも汚らわしい、男だ」

あの男とは、老ボルヘスが人生で一番嫌い続けた敵、フアン・ペロンのことだろう。私の生まれる前の話だが、誰に聞いても口を揃えて、同じ事を言う。ボルヘスとペロンは、最も毛嫌いし合った敵同士だったと。
「大戦の終わる頃には、私の文学的名声は徐々に高まりつつあった。となると同時に、社会的政治的態度表明も迫られる。私は、反ファシズムの姿勢を、強く打ち出した。何よりファシズムを支持する者達の粗暴なアホ面に、虫唾が走ったのだ。結果、雇い主とは、昼夜を問わず睨み合いの、緊張関係に身を置くことになった。

図書館勤めの間も、嫌がらせは色々あったが、――そう、終戦の翌年だったな、図書館から、公共市場の家畜検査官に、異動が言い渡された。あそこでの弾圧は、図書館の比ではなかった」

私は、コップを傾けながら、オヤ、と思った。確か彼は、その異動の直後、公務員を辞職した筈だが。だから、市場での弾圧というのは、あり得ないことだ。――高齢の老人特有の記憶の混乱かもしれないが、まさか、あのボルヘスに限って、そんなことは疑いたくもなかった、……。

老ボルヘスは、構わず続けていた。「その中でも、“臭い攻め”には閉口したな。肉の腐臭の閉じ込められた部屋に、私一人を置き去りにするのだ。目が悪いのなら、臭いで判断しろと、言い掛かりをつけてね。市場の同僚、あのペロニスタどもが。職務時間が終わると、あるいは職務時間中でもしばしば、連中はナチの“突撃隊”まがいの服装に着替えて、街頭にデモを打ちに逸散で飛び出していった。そして職場の集会では、同じ服装のまま、反ファシズムを表明しているインテリと言って、私を吊るし上げるのだ。――吊るし上げはしばしば常軌を逸し、私は死を覚悟したことも何度かあったよ。まさに、南部の蛮行渦巻く社会に飛び込んでしまったひ弱なインテリ、の気分だった。

吊るし上げで、刃物を手に構えた集団に取り囲まれたり、拷問まがいの事をされたり、町でペロニスタのゴロツキどもに追い掛け回されたり、――そう、市場には、色々な施設や装置があるからね。閉じ込められたら数分で落命する冷凍室とか、畜肉を切り刻む諸々のカッターとか。事故に見せかけて、殺され掛けたことも、一桁じゃ済まなかった」

私は老ボルヘスの、真っ当な社会の出来事とは到底思えない思い出話に、いささか呆れて素っ頓狂な声で聞き返した。「本当ですか? 本当にそんな、無法な事がまかり通っていたんですか?」聞きながら、シマッタ、と思った。この国は、ついこないだまで軍事政権だったじゃないか。そこでは、今の彼の話と大差無い、官憲の理不尽な暴力やら迷宮入りの失踪事件やらが、ごく日常茶飯に起こっていた。
「それより君は、不思議に思わないか。ロベルト。――先程の敗血症と同様の、絶体絶命の危機が、数年の間に何十回と起きながら、私は何とか生き長らえてきたのだよ。――これもまた、奇跡的な幸運だった。というより、これだけ奇跡が立て続けに起こると、どうにも薄気味悪くなる。まるで、契約もしていないメフィストフェレスに、一方的なおせっかいで助けられ続けている、――そんなイライラするような当惑が、私を捉え続けた、……」

老人は瞬間、話を止め、焼き菓子を噛んだ。すがすがしいオレンジの香りを楽しんでいるようだった。
「私は、意地でも辞めないつもりで、家畜検査官の席に居座り続けた。と同時に、私の名声はますます高まり、とうとう『アルゼンチン作家協会』の会長に祭り上げられた。公務員を続けながら、アマの作家として活動し、同時に作家協会の会長を務めたのだ。そしてこれも同時進行で、私の視力はますます弱まり、ほぼ全盲の状態にまで衰弱してしまっていた」

ボルヘスは、傍らの杖を手繰り寄せ、それを支えに立ち上がると、ヨロヨロと書棚のそばに歩み寄った。指先で本の背表紙を次々なぞりながら、こんな事を言った。「盲人も、実はものが見えているんだと言ったら、君は信じるかい? 別に、狂って幻覚を見ているとか、ただ昔の記憶を蘇らせて想像しているだけとか、そういう類の話ではないよ。ある意味、本当に見えているんだ。それも、ごく限られた人に起こる事ではなく、十人に一人ぐらいの割で起こる現象らしい。――次は、そんな話をしよう」言いつつ、一冊の本を抜き出し、愛おしそうに両手で撫で回しながら、席に戻った。

ボルヘスのアパートの蔵書数は、千冊にも満たない。あのボルヘスにしては、驚くほど少ない。だが、思い返してみれば、当たり前のことだ。何万冊蔵書があろうと、彼自身には読めないのだから。彼の蔵書は、全て彼の頭脳の中にある。部屋にあるのは、厳選された数百冊で、時々確認のため読み上げさせることはあるが、本当は専ら来客の便宜のために置いているのだろう。

取り出した本を、彼は開いた。覗き込むと、鮮やかに着色された、魚類図鑑だった。
「作家協会のお歴々に、戦慄が走った。彼等はとてつもないパニックに陥った。――何故なら、お歴々に、勿論私も含めてだが、カサ・ロサーダ、大統領官邸への、あの男から直々の招待状が届いたのだ。会食会の席を設け、是非皆さんと意見交換し、親睦を深めたい、という内容だった。――それで何故パニックになったのかといえば、大統領はしばしばそうした会食会を開き、著名な学者達や、ジャーナリストや、芸術家や、財界人達を招き、招かれた客達は、これもまた非常にしばしば、そのままかげろうが掻き消えるように行方不明になったり、原因不明の病で集団死したりする事を、皆充分心得ていたからなのだ。――だが、招待を断れば、その瞬間反逆罪が適用され逮捕される。まだ、大統領の顔に唾を吐き掛けられるチャンスがあるだけ、前者の方がマシだと皆判断した」

ボルヘスは、一枚一枚魚類図鑑を繰っていく。見えている筈もない、彩色された魚達が、彼の手の平の下で泳ぎ出す。
「仰々しい、バラ色をしたアレ、が私達を出迎えた。長い廊下と広い中庭を通り、待合室へと通された。――そこで、招待客達の不安と恐怖は、頂点に達した。何故って、その部屋は、真っ暗闇だったのだ。一点の光源もなかった。暗黒の谷底に、私達は取り残されたのだ」

ボルヘスの図鑑を繰る手が止まった。「ほう、このページか」どういう手品で探り当てたのか分からないが、その開いたページを、入念に確認するように、撫で回している。
「ホメロスは、盲目だったとの伝承を残した。日本の叙事詩を詠う『琵琶法師』と呼ばれた吟遊詩人達も、“目が見えないこと”が高い資質だとされていた。――その琵琶法師を題材にした物語『耳なし芳一』に直接的な描写があるが、彼等は文字通り、“冥界”と隣り合わせに座っていた。そして、“冥界”の噂話に、聞き耳を立てていた。

私も、にわかメクラの作家協会の皆々の中で、ただ一人、ホメロス的英知といおうか、眼が見えていた。――暗闇の待合室に長時間座らされ待たされ、不安におののく周囲の者達の、深いソファに身を沈めたまま身動きならぬ緊張が、闇の空間を伝い、重い重力場の圧力のように私にもヒシヒシと届いていた。だが私自身は、むしろリラックスしていた。

黄昏の様に目が見えなくなる内に、時として、ただ一瞬だけ、鋭い稲光にさらされたように、――物が、光景が、その細部に至るまではっきり照らし出され、過剰な程に鮮明に見える事がある。夕陽が落ちて、真っ暗闇になる直前、最後の輝きを放つように。――その時も、それが起こったのだ。

――一人の東洋人の男が、魚を調理していた。男は、その白い服装からして、料理人のようだった。男はまな板の上の魚を、縦横に取り回しながら、小気味よく切り分けていく。

魚の細部が見えた。大きなルーペで、部分部分を拡大して観察しているようだった。側面の模様が見えた。鰓が見えた。尾鰭が見えた。そして、その特徴的な、正面から見たおどけたような顔がアップされた。さらに、歯と、口の中の粘つきが、見えた。胃と腸が、車窓から見た暗いトンネルの内壁のように見えた。肝臓の赤黒い中に血管の通った盛り上がりが見えた。鼓動する心臓が見えた。消化される前の、獲物のプランクトンが見えた。血管にへばり付いて生き延びる寄生虫の幼虫が見えた。――魚は最後の抵抗を示すように、口をパクパク開け閉めしながら、フットボール程も体を大きく膨らませた。

そう。この魚だった」

言いながらボルヘスは、手に持った本を見開いて、それを私の方に立てて見せてくれた。それから、ニッと笑った。

――見覚えが、あった。特にその、滑稽なまでの膨らみ具合に。「――Tiger globo――。“トラフグ”ですか?――確か、猛毒がある魚じゃなかったですか」
「その通り。正解だ」ボルヘスは背もたれに体を戻した。「テトロドトキシンという、神経毒だ。極微量で、死に至る。だが、日本では食用にされている。勿論、資格を持った料理人が、慎重に捌いての話だが。

――料理人は、捌いた身をバターで焼き、ムニエルを作り始めた。確か日本では、生食するか煮て食べると、本で読んだ事がある。それでは、“牛食い”の我々の口に合わないと思って、そんな料理を選択したのかもしれない。

焼けた身が次々皿に盛られる内、調理場の両開きのドアが突然開き、護衛兵達と共に、あの、唾棄すべき男が現れた。――その場の皆がこの男に恭しく一礼した。中には、ナチス式の敬礼をする者までいた。

このニヤついたタフガイは、フグの身の盛られた皿の列を眺め、満足そうだった。それから目を移し、ただ一枚だけ、別の台の上に置かれた皿を、確認するように執拗に見詰めていた。――そして、――全ての皿のフグの脇には、添えもののマッシュポテトが盛られ、その上に楊枝と紙で作られた小さな空色のアルゼンチン国旗が立てられていたのだが、――ただ一枚特別扱いされている皿の国旗を、浮かれたような手つきで引き抜くと、代わりにナチの鉤十字の旗を立てたのだ。

――それを見て、私は全てを理解した」

老人は、図鑑のページを静かに閉じた。フットボールのように陽気に膨れた魚は、姿を消した。「以上が、闇の中で私の見た、幻覚の全てだ」冷めかけた紅茶を、一口飲んだ、喉を潤すように。

私は、――しばらく沈黙するしかなかった。すぐに応答することは、出来なかった。やがて、「しかし、――――それではまるで、――――『アレフ』ではありませんか」とだけ、言った。
「そう。――盲目になった代償に、神の与えられ給うた力、なのかもしれない。――もっとも、後で主治医のパラシオス博士が診断したところでは、典型的な『シャルル・ボネ症候群』とのことだった。そういう、幻覚を見せる症状が、あるそうだ」
「初耳ですね。何です、それは?」
「盲目になったり、極度の弱視になると、あたかも眼前で一巻の映画でも映じられているように、はっきりとした幻覚が見える事がある。つまり、“幻視”だね。――視覚器官から脳の視覚野に信号が来なくなり、刺激の無さに耐えられなくなった視覚野のニューロンが、勝手に信号を発する発作的暴走を起こすのだそうだ。先程も言った通り、視覚に障害を持った者の内、10%程の患者が経験する、かなりありふれたものだよ。――その出来事の後も、私は何度か、暗がりで同じような発作の症状に襲われた。どれもこれも、ワンダーな、楽しい幻覚だったよ。私の勤めていた図書館中の本が、蝶のようにページを広げて宙をヒラヒラ舞ったり。タコとイカが絡み合って、タンゴを踊ったり。牛が何頭も心臓麻痺で突然死し、それらが次々解体されて焼かれ、皿の上に大盛に盛られたり。肉の焼ける匂いは、残念ながらしなかったがね。――ホメロスも、さぞかし色々な光景が、見えたことだろう。

――だが、あの日カサ・ロサーダで起こった発作は、確かに『アレフ』だった」

『エル・アレフ』は、ボルヘスの最高傑作とも言われる短編小説である。『アレフ』とは、それを見る者に“神の視座”を与える、奇跡の存在である。
「『アレフ』は、光学装置に顕現する事が多いというが、……思うに、私の眼球、水晶体そのものが、瞬間『アレフ』と化したのではなかろうか。ただし、フィクションの『アレフ』のように、一瞬の内に全ての光景・像が凝縮されて、見える訳じゃない。あくまで、その断面断面が、見えるのだ。だから、タコとイカのタンゴのような、無意味なものが見える事がほとんどだが、あの時のように、重大な情報がもたらされることもある。

――実は、白状してしまうと、これらの経験があって後、それに着想を得て、『アレフ』という作品が結実したのだよ」

また、おかしな事を言う。――私は、ボルヘスの真意を、計りかねた。――ボルヘスが作家協会会長になったのは、50歳代の頃。一方、『エル・アレフ』が書かれたのは、大戦が終結した頃、つまり彼が45、6歳の頃である。話が、相前後している。
「やがて待合室に、呼び出しの声がかかった。協会のお歴々は、屠殺所に引き立てられていく、己の運命を知っている牛の群れのように、しおれた列をつくった。

大統領との会談は、予想通りおべんちゃらの応酬となった。あの男は、盛んに“愛国心”を持ち出した。“国のため”“人民のため”に、立場の違いを乗り越えて、“共闘”しようと、呼び掛けてきた。『マルティン・フィエロ』こそはわが国文学の象徴だと強調し、マッチョ文化を称揚して、私に賛同を求めた。――これに対して我々は、とても一介の将軍の知らなさそうな文学や哲学の話を持ち出し、相手を煙に巻いて独裁者の強要してくる義務を回避した。両者の話はまるで噛み合わぬまま、愛想笑いだけが延々続けられた。

丁度あの悪臭を撒き散らす男が、軽薄で反省の無いジョークを見境無く連発していた時だ。会食のコースが、魚料理に入った。――私が幻覚で見た皿達が大きなワゴンに載せられ運ばれてきたが、私はさして驚かなかった。
「今日の、スペシャルですよ」ジョークの押し付けが、ようやく止まった。「日本から取り寄せた、高級魚です。なかなか味わえない、一品ですよ」

そう言いながら男は、グルメを気取り、満悦している風な笑みをたたえて、皿達をグルリと見回した。「愛国者の皆さん方には、我がアルゼンチン旗の立った皿を差し上げろ。私はファシストだから、その『鉤十字』の皿を頂くとしよう」給仕係達に指図した。

――私は、このタイミングを待っていた。――椅子からフラリと立ち上がると、大きなワゴンに近寄っていった。――そして、言った。
「待て! 待ちたまえ!」皿に鼻を近付け、クンクンと嗅ぎ回るふりをした。「この魚、臭いますぞ! 腐りかけておるんじゃないのか?――わざわざ地球の裏側の日本から取り寄せたんでは、無理もないが」言いながら、もっとよく嗅げるようにと、邪魔な旗を引き抜き、更に鼻を近付けて言った。「盲人の嗅覚を、舐めてはいかん。市場の検査官として鍛えた私の鼻は、何よりも信頼できる」更に嗅ぎ回り、そして引き抜いた旗を、今度はランダムに差し戻していった。――あの男がどんな顔をして私の三文芝居を見ていたか、振り返って確かめたかったが、そこはグッと我慢した。あの男は、頬骨が高く、インディオの血が混ざっていると噂されていたが、アマゾン奥地の原住民が始めて飛行機を目にしボーッと見上げている、そんな顔をしていたんじゃなかろうか。

給仕係が私を制した。「大丈夫です。ボルヘス先生。――魚は、生きたまま生簀で空輸され、先程下ろしたばかりの新鮮なものです。充分吟味して御座いますから」そして次々、大テーブル上に皿を配り始めた。

席に戻った私は、「諸君!!」と大袈裟に両手を広げ、再度警告した。「この魚を、食べてはいかん! この魚は明らかに、タコとイカが絡まり合って接吻しているが如き、臭いを発しているぞ!――食べれば酷い食中毒を起こし、のたうち回ること必至だ!――盲人の、犬か豚なみに進化した嗅覚を、侮ってはいかん!――“食べてはいかん!”これは、会長命令第一号だ!」

この命令に最初に従ったのは、会員ではないあの男だった。奴は、同じように皿の魚を嗅ぐ真似をし、「確かに、妙な臭いがするな。ボルヘス先生の仰る通りだ。――皆さん方に食中毒を起こさせては、申し訳ない」言って、給仕達に魚料理を下げるよう命じた。――さらに続けて、私に向かい、「私達は、ウマが合うようですな」と言った。

一品パスされたが、そのままコースは続けられた」

 

アパートの窓から、西の空に廻った午後の光が射し始めていた。

アサンタがカーテンを引き忘れたのだろう。部屋の調度や小間物の幾つか、ボルヘス家伝来の蛇の装飾が入った銀のマテ茶碗とか、パルテノンの修復作業現場から失敬してきた石とか、ケルト女神像のミニチュア・レプリカとか、もう主人に握られることもなくなったパーカーの万年筆とか、南フランスのすでに無い教会のステンドグラスの破片とか、そういったものが明る過ぎて輪郭すらぼやかすスポットライトを浴びたようになっていた。
「私はそれら発作を、“千里眼”と命名した」師は続けた。「最初は無意識的で突発的だった発作も、徐々にコントロールが効くようになり、“千里眼”の名に相応しいものになっていった。見たいものが、見たいように、見えるようになってきたのだ。

――そう。こんな事もあったな。

街中を本を抱えて歩いていると、ペロニスタのゴロツキどもが、それを目ざとく見付けて寄ってきた。連中は、“本”というものを目の仇にしているのだ。――私は、杖を頼りに、懸命の早歩きで逃げた。奴等は、喚声を上げ、からかいながら、私の後を付いてくる。

フロリダ通りに抜ける角を曲がると、知り合いの御婦人方が、より大きな集団のペロニスタどもに絡まれていた。徒党を組んだチンピラどもは、道路を塞ぎ、奇声を発し、今にも御婦人方に触れそうになる程のやりたい放題だった。そして警察は、見て見ぬふりを決め込んでいた。

私は、ドンキホーテ張りの蛮勇を奮った。杖を振り回しつつ、両者の間に割って入った。そして、御婦人方をそこから救い出すことに成功した。

瞬間、呆気に取られたゴロツキどもは、その場に置き去りとなった。我々の視界から消えた。――だが、それで終わらないことは、重々承知していた。執念深く、ガウチョ並みにメンツにこだわる奴等は、一度狙った相手をそう易々見逃しはしない。――もう、追っ手がかかり、先回りしている連中もいることだろう。

なるたけ速く歩きたいが、足元がおぼつかず、しばしば逆に御婦人方に助けられた。が、目の前の路面はぼやけてしか見えない目だが、数メーター先の角、数十メーター先の路地、数百メーター先の交差点は、パラパラと地図帳をめくるように、はっきりと読み取れていた。――御婦人方に助けられ、しかし御婦人方を先導しつつ、私達は逃げ回った。

チェイスはしばらく続いたが、私達はようやく奴等を煙に巻き、逃げおおせることが出来た。――連中は、本当に私達が煙のように掻き消え、さぞ不思議がっていることだろう。――安心したせいか、水溜りに足をとられて、よろけて転んだ。また、御婦人方に助け起こされた。――このところ、腰や股関節に、妙に痛みが走る。杖をついて歩くようになり、歩き方がぎこちなくなったせいだろうと、この頃は思っていた。

ヘリコプターを使った謀略、というのもあった。労働組合総同盟の主催で、ウルグアイの作家協会と交流イベントを開催することとなったのだ。海軍がヘリコプターを出して、我々をラプラタの対岸の会場まで送り届けてくれるという。――だがその前にすでに、私は連中の動きも意図も察知していた。全国労働総同盟の代表と、国家秘密警察の長官と、そしてあの男が、密談している様子を覗き見したのだ。労働組合は悉く、あの男の傘下である。ましてや総同盟の代表は、あの男の子飼いの部下であるといっていい。そして、ヘリの動力装置に細工するところも、つぶさに見ていた。

ヘリの傍まで若い者に手を引かれてやってきた私は、そこで駄々を捏ねた。ヘリの機体に耳を当て、「おかしい。――このヘリは異音がしているぞ。――盲人の聴力を、舐めてはいかん。フクロウかコウモリ並みに進化しているそれを。――このヘリは墜落するぞ。乗ってはいかん! これは、会長命令第二号だ!」と叫び、搭乗を拒否した。

仕方なく海軍は、ランチを手配した。予定時刻には大分遅れるが、それでもいいかと、念を押した。――私は強硬に頑張ったのだが、半数近くの者が、時間に遅れる事を心配し、且つあの男を恐れ、会長命令を無視して当初の予定通りヘリに乗ってしまった。ヘリはラプラタ上空でエンジントラブルを起こし、もんどり打ちながら河面めがけ墜落した。――これが世に言う、『ラプラタ河文士大遭難事件』の、真相だ」

 

ボルヘス老は、眩しさを感じるのだろうか? 私はカーテンを引こうと思い、立ち上がった。その時、彼が唐突に訊いてきた。「君は、――ユダヤ系だったね?」
「ええ、一応」カーテンに手を掛けつつ、答えた。「あまり、ユダヤ人らしい生活はしていませんが。ラビの説教も聴きませんし」
「私もかつて、ユダヤ系だと噂を立てられたことがあったよ。なりふり構わず私を失脚させようと、国粋主義のマスコミが騒ぎ立てたのだ。当時ナチの尻馬に乗った、反ユダヤ運動が吹き荒れていた。

偉大な民族の一員と見られたことは私にとって光栄だったが、――事実は残念ながらそうではなかった。――しかし、それがいかに文字通り“残念な”ことであるか、ユダヤ文化がいかに私の血肉となっているか、そうした意味では私は精神的ユダヤ人であると、大いに反論した。

連中はますますいきり立って、支離滅裂な理屈をわめき散らし騒ぎ立てた。卑しく無教養な都市ガウチョ以外の何者でもない彼等にとって、“訳の分からないこと”は何でもかでもユダヤ人のせいだった。ルサンチマン的に、選民の持ち物を羨むのだ。

そして当時、我々のアルゼンチン社会には、――本家本元のナチの残党が、亡命者として大勢紛れ込んでいた。――なにしろ、世界の至る所に張り巡らされた秘密の抜け道が、あの男の足元で焦点を結び、何万という単位のナチ残党が我が国に招き入れられていた程だ。――しかも、このナチの残党どもを狩るために、モサドの人間がこれもまた大量に送り込まれ、彼等はユダヤ人コミュニティーの中に身を潜ませていた。――こういった連中が入り乱れ、当時のブエノスアイレスは、さながらジェームズ・ボンドものの舞台だったのだよ。

――さて、私が作家協会の会長に就任した頃からだが、ギャバジンのレインコートを着たあの男の秘密警察が、私の身辺で頻繁に見られるようになった。遠目からでもそれと分かる、あれじゃあちっとも“秘密”になってない。――連中は早速、盗聴やら、隠し撮りやら、郵便物の検閲やら、合鍵を作っての家宅侵入やら、私の日程や行動の掌握やらと、うんざりする活動を始めた。秘密裏に監視するというよりも、存在を見せつけ嫌がらせをしていたのだろう。

その秘密警察の中に、ヘリ事件の後辺りからだが、妙に毛色の変わった連中が何人か紛れ込んでいることに気付いた。――何が妙なのかというと、行動が洗練されていないのだ。鈍臭く、こちらに関心のあることがすぐバレる。そして皆、“ゲルマン顔”をしていた。――そう、ナチ残党の連中だったのだ。

こいつらは、ラテン系の同僚に比べ、振る舞いが粗野な上に、積極的だった。最初の内こそ遠慮がちに周辺をうろついているだけだったが、すぐ本性を現わして、私に陰に陽に脅しをかけてくるようになった。私の作品や発言の中にタルムードやカバラー等の話が頻繁に出るもので、ユダヤ人とよほど親しいか仲間だと思われていたのだろう。「殺してやる」は毎日の挨拶のようなもので、ある男などは、アルゼンチンのユダヤ社会に「第二のホロコーストが吹き荒れるぞ!」とまで宣言していた。そして、現に、ユダヤ人のコミュニティー内に、そのハシリが垣間見えつつあった。重要な地位にある者達の何人かが、拉致されたり、事故に巻き込まれたり、謎の死を遂げたりしていた。多分、ナチ残党とモサドの鍔迫り合いに、巻き込まれたのだろう。そして私も、そんな犠牲者の一人になろうとしていたのだ。

その第二のホロコースト宣言をした男は、私に絡んでくるナチ残党らのリーダー格のようだった。一目で、記憶に残る男だった。――生きながらにして、影のみで粗描された亡霊のような風貌だったのだ。――ベックリンの『死の島』にでも描かれていそうな、カフカの短篇群に出てきそうな、つまりは夢で見るような、――そんな亡霊だ」

ナチ残党の亡霊男。――私がカーテンの隙間から階下のサン・マルティン広場を見下ろすと、対照的に生者の代表のようなポルテーニョ(ブエノスアイレスっ子)達が、降りしきる陽光の中でお喋りに運動に食事にと、生きることを満喫していた。
「粗暴なナチの残党ども。奴等の好む直接的な実力行使。いかにもナチ流の、陰湿で強引な手口。――恐れていた事が、秋めく4月のある夜、私の身に襲い掛かった。――ナチの、夜襲だった。

寝室の暗闇に、あの亡霊男が、浮び出たのだ。

奴は、一言も発さず、やおら銃を構えた。そして、私の頭めがけて、撃った。――銃はサイレンサー付きのようで、鈍い音しかしなかった。奴は、2発3発と連射し、それらが私の頭をかすめて、枕に焦げ臭い穴を開けた。

――しかし亡霊は、重大な秘密に気付いていなかったのだ。この暗闇の中、奴の持つ今にも消えそうなペンライト一つしか明かりのない条件下では、亡霊よりも盲人の方がより環境に適応しているということに。

奴は、全弾撃ち尽くした。その都度私は千里眼を発動し、間一髪弾道をかわした。手練れの亡霊は、困惑していた。ベッドに横たわった盲目の男の頭を撃ち抜けない? 奴は魔法で体を縛られているような気分だったろう。――そんな気持ちを振り払うように、弾倉を入れ替え、また撃ち続けた。再度弾倉を空にしたが、結果は同じだった。

多分亡霊男は、自分に呆れ返るしかなかったのだろう。口の片端に凍り付く笑いを浮かべながら、私に近付いてきた。そして言った。
「ボルヘス先生。お静かに。――オレの話を、はっきりと聞き取っていただこう。――今枕に差し上げた金属製の贈り物を、次に脳みそで受け取りたくなければな」亡霊男は、これまでの射撃がさも脅しであったかのように、取り繕っている。だが奴は、本気だった。明らかに、殺意があった。いの一番に、私を葬ろうとしていた。
「……最近カバリストの何とかいう博士が、この国に持ち込んだ“カバラーの字引”ってのを知っているだろう。そいつを渡してもらおう。――済まんな。ユダヤ人の名前は、どうも憶えられなくてな」取って付けたように、そんな要求を持ち出した。

私は、「知らない」と答えるしかなかった。実際、初めて聞く話だった。
「まあいい、先生」と、亡霊男は言った。「あんたが知っていようがいまいが、関係ない。次に会う時までに、その品物を用意してくれればいい。――これは、命令だ」弾倉の空になった銃口を私のこめかみにグリグリ押し付けながら、アゴで廊下の側の壁を示し、「次は情けはかけない。それに、あんた一人の問題じゃあない。――いいな。これは、警告だ」廊下の向こうには、母と妹の寝室があった。

手際のいい亡霊は、それだけ言い残すと、私のベッド脇から離れ、現れた時と同様、影で粗描されたような姿をそのまま輪郭がぼやけるように暗闇に溶け込ませていった。

――重ねて言うが、これはジェームズ・ボンドの映画じゃあない。このブエノスアイレスで、現実に起こったことだ」

思い出しながら語るボルヘス師だが、さすがにこの思い出は神経を高ぶらせたようで、師は、笑顔も消え、手探りで紅茶カップを探し当てると、口に運び一息に飲み干した。私は、窓辺に立ち尽くしたまま、どう合いの手を入れたらいいのか、全く検討がつかずにいた。
「私は、暗闇の中に一人取り残され、明かりを点けることも忘れて、焦げ臭い穴の幾つも空いた枕を握り締めながら、何も考えられずに、ただベッドに座り続けていた」ボルヘス師の話は、静かに続いた。「亡霊男のペンライトも失われ、窓から漏れ入り部屋の家具の金属部分にわずかに反射する星明かり程度で、瞼の裏のような幻惑させる闇だった。――そのせいだったのだろう。18世紀スイスの博物学・哲学者、シャルル・ボネ氏の報告した神経発作が、またしても私を襲った。“カバラーの字引”という男の言葉を思い出した途端、真夏の明るい陽の下に置かれたような、二冊の本が見えた。

――二冊の本は、全く同じ装丁だった。そして寸分も狂わずピタリと重なって、私のすぐ目の前に置かれていた。つまり、物理法則を無視して、全く同じ空間を占めていた。なのに、二冊あると分かった。――しかも、それぞれが別の場所に置かれていた。それらの場所も、完全に重なって、二重写しになっていた。なのに、それぞれの空間が、はっきり区別されて把握できた。

一方の一冊は、作業台らしきものの上にあった。より正確には、台の上に山積みされた、数百冊の同じ本の内の、(それも山の中心あたりに埋もれた)一冊だった。多分、流通し残った在庫だろう。周囲を見渡してみて、驚いた。同じような山が、あと数十もあるのだが、本の山以外はみな金のインゴットの山だった。金塊がピラミッド状に山積みされたものが、部屋中を埋め尽くしていた。――ここは一体、どこなのか? 私は探索しようと、歩き回った。(目玉が歩くというのも、妙な表現だが。)隣の似たような部屋には、見覚えのない札の束が、辺1メーター程のブロックに梱包され、段ボール箱のように無造作に積み上げられていた。別の部屋では、債券・証券の類と思われる紙が束ねられ、天井近くまであるキャビネットの中にギュウギュウ詰めにされていた。――幾つも続く部屋を抜け、広いスペースに出、ようやく分かった。そこは、大きな金庫室の中だったのだ。

さらに私の視線は、その建物中を、廊下を抜け、ホールを駆け上がり、闇雲に飛び交った。そこに勤めているらしき、幾人もの職員達と擦れ違った。円卓を囲み難しい顔をして激論を戦わせている男達も見た。カウンターと窓口がズラリと並び、その一つ一つに張り付いて業務している男女や、カウンター越しの背広姿の客達を見た。――そして最後に、建物正面入り口の、ヘブライ語で刻印されたプレートを見た。そこには、『イスラエル中央銀行』とあった。

もう一方の一冊は、油紙で何重にも包まれていた。台所の流しの下、一枚だけ剥がされ、敷き戻されたスレートの下の地中に、世間に対してその存在を隠蔽するため、執拗に土が被せられコンクリート片の瓦礫で偽装され、埋められていた。

その台所のテーブル席で、神に祈っているのは、ユダヤ教のラビ風の男だった。白黒だが、黒が基調の服。顔の下半分を占拠する、ゴツい洗車ブラシのような黒い髭。額に、十字型に深く刻まれた、縦ジワと横ジワが特徴的だった。クロスするシワが、同時に走っている。こんなことが、人間の筋肉の構造上、可能なのだろうか。笑いおどけているようにも、深刻な悩みに落ち込んでいるようにも、見えた。それらが、同居しているように。そして、絶えず十字架を額に掲げているようにも、見えた。

二冊の書物は、ページをめくらずに、一ページ一ページ読むことが出来た。閉じられた本でも、地中に埋もれていようと同じ書名の本の間に埋もれていようと、全く光子の届かない所であろうと、お構い無しのようだった。(物理的実体は、私の脳内で起こっているニューロンの電気的暴走に過ぎないのだから、当然なのだが)

字引は、右端から綴る、ヘブライ文字で印刷されていた。読み始めてすぐ、その特異な構成に気付いた。字引は、“逆引き”の字引だった。これこれの条件の時は、これこれの言葉を、こう使え、という流れで編集されていた。ただその、条件も、言葉も、使い方も、何とも異様なものだった。

例えば、意味論や集合論などのパラドックスを、人類の全文化史上にマッピングする。それらと周辺文化との相関具合を表わすのが、『〇〇〇』となる。

『〇〇〇』は、暗号めいた、意味不明なヘブライ文字の羅列だ。

あるいは、『心の理論』における“他者の心”を、微妙なグラデーションを付けて階調分けし、“明確な他者”と、最も“非擬人的なもの”、との間の帯域に広く分布させる。そうして特定した“他者の心”を示す時使う言葉が『〇〇〇〇』であり、これが無数に語尾変化する。

あるいは、“同一性”の“ズレ”の問題は、記号『〇〇〇〇〇』で扱われる。

そもそも、我々現生地球人類には、情報圧縮用のフォーマットがある。これは、脳内情報処理のスピードを劇的にアップさせ、記憶の省スペース化を図るための圧縮用フォーマットで、神経系生物の系統に属するものだ。

フォーマットの構成は、座標軸となる“時空間”、対象となる“もの”、座標軸のゼロ基点の“我”、“我”の複製としての“他者”といった所だが、それらが“同一化”という操作で一つの単位に括られる。人間においてはさらに、言語による概念化により、より一層の効率化、省スペース化、スピードアップが図られた。

だが、こうしたフォーマットは、あくまで人類に特化したものだ。同じ神経系生物の系統でも、例えばイルカ・クジラ類は、そのエコー・ロケーション能力ゆえに、人類からはかなりズレた、異質なフォーマットで生活していると想像される。無脊椎動物の雄、イカ・タコは、あの大きな目玉でどういう世界を見ているのだろう。社会性昆虫アリ・ハチ達の拡散した知覚と集合知を、我々人間は想像可能なのか。グラゲに至っては、“もの”も“空間”も無いだろう、生理的“時間”感覚は、かろうじてあるかもしれないが。そして、同じ人類同士ですら、文化により、個々人により、“同一性”の中身は微妙に“ズレ”る。――こうした“ズレ”のパターン分布を示すのが、『〇〇〇〇〇』を中心とした形容詞句群であるらしい。

――私が本を読む時、文章を、韻律に絡め、トポス(場所)に絡め、記憶に取り込んでいく。何でもこうして貪欲に取り込んでしまう癖が、私にはあった。子供の頃から、そういう習慣が身に付いてしまっていた。父親の書庫に閉じ籠もっていた幼年時代。図書館で本の請求をするのが恥ずかしく、開架の棚の百科辞典の項目を片端から読み尽くしてしまった少年時代。――あるいは、盲目になりつつあった父を見ていて、自分も将来遺伝性の同じ病で失明するのではないかという恐怖が無意識の内に働き、目にした書物は全て憶え込んでしまおうという強迫観念に駆られたのかもしれない。――私は、そうして育まれた能力を、子供の頃から単に“記憶術”と呼んでいた。おかげで、本当に盲目同然となってしまった今日、大変重宝している。いや、それどころか、むしろ逆に、盲目になったことで、この能力は遥かに研磨された。 書物の、あちこちの文章の断片が、浮き上がり、飛び交い、自在に連絡し合う。不思議なことに、文章の元になったイメージが想起されるのではなく、文字そのものが、浮かび上がり、自在に生き物のように蠢いて、勝手に交じり合うのだ。それらが、外の光から隔離された空間内で、新たな繋がりを造り、凄まじい高速で積み上がっていく。効率のいい触媒を加えた、化学反応のようなものだ。この二冊を読み込んだ時も、そうしたいつもの私の流儀のままで行われた。

――そして、気付いたのだ。全く同じ内容の、同一の版だと思われていたこれら二冊の幾箇所かに、相違のあることに。――最初は、無論“誤植だろうか?”と思った。だが、どうも様子がおかしい。文字の綴りが、巧妙に差し替えられている。私の“読み込み”の分析結果が、そう囁いて止まなかった。だが、それ以上の意図を、手繰り出すことは出来なかった。何しろ、意味不明の暗号だらけの字引だったのだ。

――本の文字が、段々ぼやけてきた。健常者が読書し過ぎた時の、かすみ目と同じ症状だ。――千里眼を酷使し過ぎると、疲れ目が酷くなり、眼球の周囲が痛み出す。

後日パラシオス博士は、使ってもいない目が眼精疲労を起こしたり疼痛を覚えるなど、“幻肢痛”の一種なんじゃないのか? と、皮肉っぽい調子で言った。――それよりも、腰や股関節の痛みの方が心配だ。一度、精密検査を受けた方がいいと、まるで思いもしなかった方向に話を振ってしまった。

そこで、言われるまま、精密検査を受けたのだが、これがとんでもない結果に繋がることになる」

師は意味有り気に、下腹部の辺りを右手で押さえた。
「さて、ナチといえば、この当時忘れられない人物が、もう一人いた。あの時代の反ファシズムの同志、とも呼べる人物なのだが、……。フランスからの客人で、若い社会学者、評論家のロジェ・カイヨワだ。彼は、舌鋒鋭い反ファシズムの論客として、名を売っていた。また、私をヨーロッパに紹介してくれた、いわば恩人でもある。

――君も承知の通り、私は毎週金曜、親友の作家アドルフォ・ビオイ=カサーレスの屋敷でディナーを共にする事を習慣にしている。ビオイがシルビナ・オカンポと結婚して以来、40年来、そして今も続く習慣だ。無論我々三人以外にも、その時々加わる賓客がいる。あの頃は、カイヨワもそうした常連の一人だった。

あの晩は、――創作の不可能性について、議論していた。――誠実な作家ほど、創作出来なくなる、という話だ。

寡作などという状態は通り越し、残りの一生、作品の無い作家として終わる事になる。そういう作家は大勢いる。書けない事、書かない事が、むしろ作家としてのアイデンティティーになる事もしばしばだ。

書けなくなった作家を主人公にして書いたら、どんな話になるだろう、とビオイが提案してきた。テーブルを囲む者達は興味をそそられ、その主人公が創作する時、これだけは決して小説に盛ってはいけないとする“禁止事項”のリストを、列挙してみることにした。

次々と、リストアップされた。これまでの世の文芸作品のほぼ全てが、この禁止事項に抵触し、『駄作』の烙印を押されるだろう。我々は烙印押しを嬉々として楽しみ、リスト項目の追加に専心した。

――だが、『史実とかけ離れた奇抜な裏面史。特にそれに、伝説的人物を関連付ける事』という一項を、加えた時だった。――それまで、真剣に、というよりはむしろ深刻に、議論に加わっていたカイヨワが、突如抗議の声を上げたのだ。

既に挙がっていた十数件の項目と比べ、これが特に変わったものだとも思えなかったので、私達には意外であり、このいつも(冷たく感じる程に)冷静なフランス人の熱に、何ともびっくりした。

彼は言った。「事実はしばしば小説より奇異であり、……文芸において、その“奇”を排したいという欲求は、理解できるものです。しかし、――」椅子の横に、肌身離さず大事そうに置いたバッグを取り上げ、膝の上に乗せた。「文芸が平々凡々な日常をなぞるが故、それに慣らされた民衆が、奇異な事実の方をむしろ創作だと、作り物の物語だと見なしてしまう逆転現象が、歴史上しばしば見られる事もまた否定し難い真実なのです」バッグから分厚く膨らんだノートを取り出し、テーブル上に置いた。――見たところ、そのノートの過度の膨らみは、新聞記事等のスクラップによるもののようだった。
「以前ボルヘスさんは、秘密警察やナチに身辺を見張られ大変迷惑していると、ボヤいておられた」カイヨワは、同情する目で私を見た。「私も全く同じ境遇にありますから、お気持ちはよく分かります」

カイヨワは、39年に戦火を避けフランスからアルゼンチンに避難して以来、ラテンアメリカへのファシズムの浸透を阻止するため旺盛な活動を続けてきた。大戦が終結した今でも、その激しさは変わらなかった。あの男の政権にとって、私以上に目の上のたんこぶと言えた。――彼の話によると、やはりギャバジン・コートやナチに付け狙われ、しばしば現実的な、歯噛みするような妨害に合うという。

つまりカイヨワも私も、スパイ映画の中のような日常を暮らしていた訳だ。スパイものが日常で、平々凡々な生活こそがありそうに無い理想、という逆転を、彼は指摘しているのだろうか。
「ベルリンが陥落してから、まだ十年も経っていません。ファシズムの脅威は過ぎ去ってはいないのです。――ペロン=フランコの枢軸はいまだ健在ですし、ナチの残党はどんどんこの国へ浸透し膨らむ一方です。その内、軒を貸して母屋を取られるで、ペロンはナチの傀儡に成り下がるのではないかと、私は危惧しています。しかも、米ソ対決の余波で、第二次大戦で敵だった者を密かに味方に取り込んで、第三次大戦を戦おうという思惑が、米ソに見え隠れしている。これがナチの、息を吹き返させることになる。――さらに加えて、バチカンが反ユダヤでナチと影の共闘を結んでいる。その証拠に、バチカンはあのケバケバしい女(エビータの事だろう)を、大歓迎で迎え入れた。法王との謁見も、取り計らった。そして大戦中ヨーロッパの全土で、ナチがユダヤ人その他の占領地から吸い上げ略奪した富が、スイスの銀行経由でナチ残党に流れ込んでいるという確たる証拠がある。――これでは到底、奇異な話だから文芸としてはフタをしてしまえ、では済まない事態だと思うのです」

正直なところ、このディナーの席に“政治”の話を持ち込まれるのは、かなり迷惑だった。だが、カイヨワのその夜の熱は、なまじのことでは冷めそうもなかった。
「『オデッサ』という組織の名は、聞かれたことがあるでしょう。元ナチ親衛隊員らの、亡命を手助けするための組織です。――具体的に、どういう裏の経路があるのか、誰と誰が関係しているのか、そうした事の傍証が、ここ(と、例の分厚いノートの上に手を置きつつ)に大量に蓄積されています。モサドとも連絡を取り、情報の交換を行っています。大変、危険を伴う行為ですがね、……」レジスタンス時代を自慢するサルトルを思い出した。彼等には、やはり同じ血が流れているのか。
「先程のタブーの内容に、伝説的人物を奇抜な裏面史と関連付けること、とありましたが、……。――こうして情報が集まる内、まさにそんな話が伝わってきたのです。――すなわち、ベルリンで自害した総統は影武者で、本物はオデッサを使い、既にアルゼンチンに到着している。ペロンとも会見を、果たし終えている。というのです。――まあ、半信半疑ですが」

この、何やら冒険小説のような突飛な話に、シルビナは恐怖に目を見開き、ビオイは口をへの字に曲げて暗い顔をした。私は、――どう反応したものか、迷った。――面白い冗談だと、笑みを絶やさぬものか、そんなバカげた事は口に出すものじゃないと、怒った風に少し不快な表情を見せたものか。

さらに、いつも冷静なカイヨワからは思いも付かない、少しネジの外れ掛かったような話が、幾つもポンポン飛び出してきた。気心の知れた仲間内だと、彼はこれ程に遊び心タップリな(ただし、本人はいたって真面目なようだが)人物になってしまうのだろうか。
「ここ数年世界中で、“空飛ぶ円盤”の報告が頻繁にされていますよね。ある人曰く、宇宙人の襲来だとか。――宇宙人などと、バカバカしい!――あれらが出現しだした時期を考え合わせれば、一目瞭然です。円盤は、大戦が終結してから、突然現れだした。さりとてソ連のものではありますまい。もしソ連の空軍の一部なら、スターリンは隠しもせず、カサに掛かって威嚇してきましょうから。秘密裏に開発が進められているのには、それなりの訳がある。――そう。もうお察しの通り。あれらはナチの秘密兵器です。多分、終戦直前、ロケット兵器などと共に密かに開発が進められていたのでしょう。それが、開発途中で終戦となり、密かに南米に運び込まれた。――信頼出来る情報筋によると、ナチどもは、パタゴニアから南極大陸にかけてを新たな領土とみなし、ここに新第三帝国の秘密基地を次々建設しつつあるそうです。円盤の実験も、その一環なのでしょう。

さらに、先程のヒトラーの話です。――あの独裁者は、不老不死を願っていた。――まあ、中国の始皇帝以来、独裁者の願う事はいずれも似たり寄ったりです。――ただしヒトラーが不老不死としたかったのは、おのれの肉体ではなく、おのれの思想だった。そのため、おのれの思想を継ぐべき、何万というクローンの作成を試みているというのです。――あのヒトラーが何万人も群れていると思うと、何とも気持ちの悪い光景ですが、――生まれてくるのはヒトラーと同じ遺伝子を持った赤ん坊達です。その子らが、パタゴニアや南極の地下基地で、新たな帝国の帝王となるべく忠実なナチ党員らにより育てられている。――さて、これらの噂、どこまで信じてよいものでしょうか。だが丸っきり無視する訳にはいきません。何しろ、あの悪魔の所業の如き事を、平気で現実化してしまう連中のことですから。――決して、目を離しては、いけないのです」

――ミイラ取りがミイラになるというが、――長年ナチと戦い、ナチを嫌悪し、ナチを警戒してきたカイヨワは、――その果てに、こんな『ナチ・フリーク』になってしまったのではないか?――だとすれば、何という悲劇だろうか。

私始め、ポルテーニョ(ブエノスアイレスっ子)は、大きな面して街中を闊歩しているナチの亡命者どもにウンザリしているが、フランス人ならもっとウンザリしている筈である。そのフランス人を代表する彼が、ナチの噂話をする時、どこか生き生きとして嬉しそうである。

ところがビオイを見ると、これまたどこか嬉しそうな顔をしていた。どうやら、“円盤”“クローン”“南極基地”といった言葉が、生来SF好きの彼にも火を灯してしまったらしい。これは困ったことになったぞ、とその時は思ったものさ」

ボルヘス師は、悪戯っぽく笑みを浮かべながら、両手を上げて降参のゼスチャーをした。しかしすぐ、その手を下げて、真顔に戻ってしまった。
「ところが本当に困った事は、その後すぐに起きた。――私は再度、あの、玄関の敷物の下に埋め込んで毎日踏み付けても飽き足らない男と、会わねばならぬハメに陥った。あの、子供の国の大統領が、「どうしても緊急に話さなければならない用件がある」と、ゴリ押ししてきたのだ」

ボルヘス師は頬の肉を大きく強張らせ、露骨に不快そうな顔を造った。そして同意を求めるように、閉じられた瞼越しに私の方を見た。――私が窓辺に立っていることは、気配で分かるのだろうか。それとも、今もその千里眼とやらを、イタズラ半分試みているのか。

 

「私は連行され、今回は、この国の悪の根拠地、大統領執務室に有無を言わさず連れ込まれた。

あの男は、コケオドシに大きい執務用デスクと応接用ソファとの間を、ドブネズミのようにせわしく行き来していた。そして、私にようやく気付いたという風に振り向き、開口一番「大分、お困りのようですね」と、イヤらしく笑いながら、言った。一体何が、困ったというのか?

だがその後は、すぐに話題を逸らし、いつぞやの会食会のフグの話を持ち出して、さも愉快そうに大げさに笑った。
「……あの後保険局に調べさせてみると、やはりとんでもない病原菌が見つかりました。ボルヘス先生のおかげで、命拾いしましたよ」旧交を温めるが如き口調で、平気でウソをつく。こちらも、「それはよかった。――この鼻が役に立って幸いです。閣下」と、ニコニコ愛想笑いしながら、相槌を打つ。「いや全く、あれは傑作だった」と、どういう意味で傑作なのか、奴ははじけるように大笑いした。――しばらくこんな具合に腹の探り合いが続いたが、やがて均衡を破るように、奴は執務デスクの引き出しの中をゴソゴソと探り始めた。

そして取り出した物を、大きなテーブル越しに私の前に放ってよこした。
「先生。こんなものを、知っていますか」一冊の、ペーパーバックだった。見覚えのない本だ。――ぼやけた視力で、ようやく読み取れた。「『沈黙の第三帝国』?――何です、これは?」
「詰まらん読み物ですよ。――あなたがいつも書いてるような」この男も、街のペロニスタどもと同様、全ての書物をただ一種類と決め付けているようだ。「ドイツにNS(国家社会主義)政党が誕生することは、本当はなかったなどという、タワゴトの書かれたふざけた本です。その代わりに、ユダヤ人にとって都合のいい帝国が出来たことになっている。あまりに子供騙しの絵空事が書き連ねてあって、ザッと目を通しただけだが、読むに耐えなくなり引き出しの中に放り込んだままにしてあった。先生とお話しする時に必要だったので、捨てる訳にもいかなくてね」ようやく手放せて、せいせいしたと言いたげな晴れ晴れした顔である。
「ホウ」私は少し興味を持って、安手のその紙をパラパラとめくってみたが、もちろん細かい活字を読むことは出来なかった。
「タワゴトの世界だが、――そのタワゴトを、――ユダヤ人どもは、カバラーの魔法で、本物にしようとたくらんでいる。――――そんな話、信じられますか?」――言いながら、急に怒りを思い出したらしく、巨大な敵に剣を振り下ろすように、右腕を大きく振り上げ、また振り下ろした。そして私を不快そうに歪んだ表情で見詰め、「もっとも先生は、……精神的ユダヤ人だそうだから、……連中のたくらんでいる事が、理解できるのでしょうな」言った。

私は、一言ボソリと、「それは、興味深い」とだけ言った。
「あなたには興味深かろうが、」あの男は、徐々に苛立ち始めていたようだ。「私には煩わしいだけの、迷惑千万な話だ!」

ペーパーバックと一緒に取り出した、今度は新聞を放ってよこした。――開かれたページには、見覚えのある顔があった。――あの、額の十字が印象的な、男だった。
「その男、高名なカバラーの学者で、ゲルショム・ヤコブソン博士とかいうそうだが、――あんたの方が御存知でしょう」

ヤコブソン博士が、一ヶ月程前、我が国を訪問したという話は聞いた覚えがあった。そうか、……あの男が、博士だったのか。
「そのヤコブソンが、我が国に持ち込んだのだ。……あの“字引”を!」大統領の怒りは、頂点に達したようだった。「世界中のユダヤ人の学者どもが、寄ってたかって書き上げたという、魔法を使うための呪文の書かれた本だ。もちろん子供騙しの、御伽噺のチンケな魔術じゃあない。とてつもなく大掛かりな、全地球規模の、ユダヤ人の財力と知恵を総動員したような、大魔術だそうだ。――そう、NSの同志達から聞いた」

『ナチ』は、敵方が彼等を呼ぶ時使う蔑称だった(丁度、共産主義者を『赤』と呼ぶような)。だからナチの仲間同士が呼び合う時は、決して使う事はない。彼等自身は、自分達の事を、“NSの同志”などと互いに呼び合っていた。

――あの字引に、そんな秘密があったのか。あの、イスラエル中央銀行の金庫室に仕舞われ、油紙に包まれた字引に。
「私は無論、そんな馬鹿げた世迷い事、信じてはいないがね。――だが、魔法使いどもは、そこまでして、NS党の歴史を覆し、ホロコーストの史実を消し去りたいのだ。――歴史を創り変えるといっても、別に歴史を捏造するとか、それを世界中の学校の歴史の時間に教えるとか、そんな表面的な生易しい話ではない。カバラーの魔法を使って、正真正銘歴史を巻き戻し、既に起こって史実となっている事を覆してしまおうと本気で考えている。――この近代科学の世紀に、全く馬鹿げている!

そして、NSの同志達もまた、――この世迷い事を本気で憂えている。なにしろNS党という存在が歴史から消されてしまうのだ、消しゴムで消されるように。少なくとも居候の一部は、このイカレた話を真に受けている。オカルト好きだった同志ヒトラーに心酔し切っていた連中だ、無理からぬ事かもしれん。――だが私は、魔法使いどもとも、神経過敏な居候達とも、付き合っている暇などない!」

あの、奇妙にひねくれた知性と暗号だらけの、それらが結晶化したような“字引”は、そんな異次元の試みを実現する目的で、当代のカバラー学者達の英知を結集して編み上げられた、“実用書”だったのか。正体がわかると、俄然興味が湧いてきた。その文言の多くは、私の記憶の中に、まだ留められている。
「そこで、取引だ!――ボルヘス先生」男がこちらを振り向き、きつく睨み付けながら、言った。「NSの同志達にしつこく絡まれ、さぞお困りだろう。それに、健康の方にも、問題があると聞く」この国では、個人の健康情報まで、筒抜けなのか。
「交換条件は、くだんの“字引”だ。――それをこちらに引き渡すか、あるいは手に入れる手助けをしてくれれば、NS党には手を引かせ、かつ世界最高の医療待遇を約束しよう。――いかがかな?」この男の要求も、あのナチの亡霊男と同じだったのか。

その交換条件は、あまりにこちらに分が悪い。奴は私を買いかぶり過ぎている、と思った。――なにしろ私は、今ことの裏事情を知り、ようやく興味が湧いた程度の立場である。情報も、大統領側の方が圧倒的に握っている。とても取引が成立するとは思えない。
「私に何が出来ましょうか、閣下」自信の無さを、正直に打ち明けた。「確かに私はユダヤ学にそれなりの造詣があると自負しておりますし、ユダヤ関係者にも幾人かの知り合いはおります。しかし、ユダヤ社会とそれほど親しく付き合っているわけでもありませんし、ましてや彼等に対し影響力を持つ存在でもありません。その辞書だの、魔法のような計画だのにしても、今知ったばかりです。――それを、手に入れろなどと急に言われても、この殆どメクラ同然の身で困惑するばかりですよ」
「またまた、――そんな冗談を言われては、こちらが面食らう」大統領は、引かなかった。「あなたが、この国の知識人の頭目的存在であり、反ペロン反ファシストの急先鋒であることは、この国に住む者なら、いや万国の民も含めて、誰も知らぬ者のない動かしがたい事実でしょう。たとえついさっきまで知らなかったとしても、あなたはすでにそれを知ってしまった。そして私の要望を実現できる力が、あなたにはある」
「つまりは、あなた方に味方し、裏切りのユダになれと?」
「そこまでは申しません。――ただ、ユダヤ人どもの訳の分からん“お祭り騒ぎ”に終止符を打ち、静かさを取り戻したいだけなのです」

私の眼力は、その男のよく日焼けした愛想のいい笑顔の表皮を剥ぎ、内側の筋肉や神経の動きを見据えていた。男は、佐官クラス時代から、その誰にでも取り入る調子のよさで組織(『統一将校団』という)を固め、のし上ってきた。自分を見せる時、右派なのか左派なのかどちらとも取れる身のこなしで(多分、自分でも分からなかったのだろう)、既成の権力構造の隙間をスルスルと這い登り、アッという間に頂点に登り詰めた。その内面の生理や、脳内の情報伝達物質や電位の流れは、どういう代物なのか。――奴と睨み合う内、奴の大きな鼻に穿たれた、奴そのもののような空虚な二つの洞窟から、その内側深くへとどんどん分け入っていった。奴の表情が変化し、感情に起伏があるたび、なるほど内側の物質の流れが変わる。まるで、複雑な潮流の流れを、表皮一枚で包んでいるだけの存在、それが、奴だ。(多分、私も含め、人間は皆そうなのだろうが)
「いつもそんなに、深刻に考え込むのですか?」何を勘違いしたのか、奴が突然訊いてきた。こっちは、あんたの中の変化を眺めて、楽しんでいただけなのに。「だから、顔色が悪く、――青白くなるのだ。――何かスポーツでもなさるといい。私は今でも、週三回の運動は欠かしません」言って、思いとどまった。「アッ、失礼。――その目では、無理か」その時、勝ち誇ったような、哀れむような表情を密かに作った奴の脳内細胞のヒダヒダの隙間に、何か文字のようなものが隠れていることに、私は気付いた。ヒダがめくれるたび、見え、また隠れる。そうしたアルファベットが、あちこちに散見される。読み取ることも、可能なようだ。『男らしさ』『健全』『女泣かせ』『前進』『亜種の敗北』『意志力』、いかにもファシスト的スローガンだ。――これらは一体、何だろう。コミックのフキダシのようなものか? 声に出さない思考の内容が、そういう形で読み取れているのか?

――その時だった。執務室に、女性が一人入ってきた。

スポーティーで現代風だが、上から下までよく光る宝石の装身具をクリスマス・ツリーのように纏わり付かせ、実にアンバランスな装いだった。宝石の重さで動きにくそうだが、遠慮も無しに大統領執務室に入ってきた。あの男の情婦だと、すぐに分かった。

この二人は、いかにも似合いのカップルだった。悪が悪を呼び、醜いものが醜いものと引き付け合う、その典型だった。――女は聖女気取りで、取り澄ましていた。癇癪持ちで、許しを知らぬ、恨みの固まりだった。どんな些細な事でも、決して許さず、それを忘れない、執念深い女だった。――無知で純朴な労働者達に、奪った金銀を大盤振る舞いする、盗賊の女首領だった。その労働者達が、この二人の力の源泉だった。配下に入れた労働者達を操り、反対派を黙らせる、それがこの二人の常套手段だった。

その情婦が、許しを請うことも一言の断りも無しに、応接ソファの斜めはす向かい、私と男との、正三角形の頂点をなす位置に、ドカッと腰を下ろした」

ペロンの情婦。多分、エバ・ペロン、“エビータ”のことだろう。エビータは、ペロン同様、――古き良き20世紀初頭の、“先進国”時代のアルゼンチンの伝統を引きずった文化人であるボルヘスにとって、どうにも鼻持ちならないあばずれ、蛮族の長であったことだろう。――エビータといえば私はいつも、かつて本で読んだ千年近くも昔の日本の、“北条政子”という女傑を思い出す。日本のカマクラという、古く不思議な土地で起こった出来事らしい。政子の夫・ヨリトモは、古代王朝の皇帝から初めて政治権力を奪取した、サムライの棟梁だった。その夫が死んだ直後、皇帝勢力の巻き返しにより、生まれたばかりのサムライの政権は風前の灯となった。その時、未亡人の政子が、ヨリトモの部下達を鼓舞し、まとめ上げ、皇帝勢力に対し反撃に打って出、以来サムライの政権は王朝の代替わりはしつつも、700年近くも存続したという。――エビータの身にも、似た様な事件が襲い掛かった。1945年、軍部のクーデターによりペロンが失脚しかかった時、ペロン本人はギブアップしたにもかかわらず、エビータが夫の尻を叩き、あちこちに根回しして、奇跡的なペロン復活を成し遂げた。舞台上では有名な“大根役者”だったエビータが、現実の政治の舞台ではその本領を発揮した。政子に劣らぬ、“女傑”だったといえよう。

ペロンの政権は、二人の政権だったと言っても、言い過ぎではないだろう。対国内、対労働者では、エビータの方がペロンよりも影響力があったとも言われる。大統領執務室にズカズカ入り込んで、大統領と来客との会話に割り込むだけの資格と迫力が彼女にはあった。
「聖女気取りの情婦は、演説をぶち始めた。いかに労働者の生活の質を高めることが大事か、そのために自分達がいかに尽力しているか、といった政治スローガンと自慢話だ。男二人を黙らせて、それが延々と10分以上も続いた。その内私に向かって、是非とも味方になって私達の国造りに協力して欲しいと、厚かましくも要請してきた。労働者の生活の質、さらには文化的質を高めるために、力を貸して欲しいという。それだけならば、確かに正論だ。あの本嫌い達に、いかにして本を読ますかという問題は残るが。むしろ最大の障害は、彼等労働者の親分であるこの二人が、文化にそっぽを向いているということだった。この二人の政権は、多くの文化人を投獄したり、拷問に掛けたり、川向こうのウルグアイに亡命させたりした。多くの本を発禁にし、焚書した。愛書家達は問題のある蔵書を密かに自宅の便器で荼毘に付し、そのため多くの便器が熱で割れて便器製造業者は大儲けしたそうだ。――まずはお前達二人から悔い改めなければ、労働者の文化の質を高めるなど到底おぼつかぬ話だと、喉まで出かかったが、どうせ言うだけ無駄だからそこはグッとこらえて、男同様、女の心象の探索にこの詰まらぬ弁舌に付き合わされる時間を当てた。

やはり、想像の通り、虚飾、虚栄と、ルサンチマンから来る憎悪、嫉み、復讐心で満ち満ちていた。だが、その奥底に、貧しい生まれ故の根深い悲しみが横たわっていたことも、女のために一言付け加えておこう。――それよりも、私の注意を引いたのは、女の身体の奥底の方に、何か致命的に綴り方を間違えた文章が、隠れ潜んでいるという感覚に囚われた探索結果の方だった。――実は、その綴り方の間違いという違和感と同じものを、私は自分の体にも感じていたのだ。あの、パラシオス博士に急かされての精密検査を受けた時、その時はまだ自分の体内に分け入っていこうなどという積もりはなかったのだが、それでも今この女の体に感じているのと同じ種類の違和感を、確かに受け取っていた。

私の違和感の正体も、女の違和感のそれも、そのすぐあと明らかになるのだが、……」

師が、精密検査で感じ取った違和感?――エビータはこの時期から急速に体調を悪化させ、1952年には子宮ガンで33歳の若さで死んだ筈である。その後、彼女の死体は防腐処理が施され、生前の若さと美貌を保ったまま、政治情勢の混乱という数奇な運命に弄ばれ、世界のあちらこちらを旅し、だがついに帰国を果たし、今はこのアパートから2キロ程北西にあるレコレータ墓地の小振りの家ほどもある立派な墓に安置されている。私は再び、眼下の広場ののんきな大衆を見下ろした。二人の時代が過ぎ去ってから何十年も経つが、今でも隠れペロニスタやエビータファンは結構いる。この眼下の大衆の何十パーセントかは、そんな人々のはずである。
「――大統領官邸から無事戻った私は、早速『沈黙の第三帝国』とやらを読んでみることにした」エビータにさほど思い入れのないボルヘス師は、私の感慨を断ち切るように、思い出の続きを話し始めた。「無論あの男が手に取り目で活字を追った本など、汚らわしくて読む気になれないから、仕方なく自前で買った。そして拡大鏡片手に大変な無理を重ねて何とか読み通したのだが。――購入費と苦労した時間を返せ! と叫びたくなった。――アメリカ合衆国に溢れかえっている、B級のサイエンス・フィクション、あれらの同類だった。

著者は、スイス在住のユダヤ人SF作家。大戦後すぐに書かれたもののようだ。“歴史改変もの”とでも呼ぶのだろうか、あの男の言う通り、あり得ざるべき、違う歴史が綴られていた。

――ヒトラーと、ウィトゲンシュタインの、運命が入れ替わったという、……」
「ウィトゲンシュタイン?」
「そう。あの哲学者の、ウィトゲンシュタインだ。――二人は一時期、オーストリアの同じ学校に在籍していた。『リンツ国立実科学校』という。この時、二人の運命が入れ替わったと、このSFでは想定されている。

その後、画家志望のヒトラーは、ウィーンに出て美術学校を目指す。そしてたまたま彼の絵を街で見掛けた裕福なユダヤ人が、その絵を高額で買い上げる。さらに彼のパトロンとなり、彼を画壇にデビューさせる。ヒトラーはたちまちユダヤ主義の信奉者となり、ユダヤ人を賛美する大作を次々と描き上げる事になる。遂には、自らの家系を捏造し、自分にはユダヤ人の血が流れているとまで言い出す始末だ。――こうして彼は、ドイツ現代画壇を代表するゆるぎない巨匠として、功成り名遂げる。

一方のウィトゲンシュタインには、悲惨極まる運命が待ち構えている。彼は航空工学に関心があり、生家がウィーン・ユダヤ社会有数の大金持ちだったこともあって、イギリスのマンチェスター大学に留学する。生来移り気だった彼は、航空工学を学ぶためには数学を勉強する必要があるとして数学に関心を移し、数学をやるのならその中核ともいうべき数理論理学をやりたいと言って論理学に専攻を変え、さらに論理学ならズバリ哲学者として生きるべきだと、またしてもおのれの立ち位置を変更した。その移り気が禍して、一つとしてモノにならなかった。彼の飛行機は、設計した端から全て、火を吹き、空中分解し、墜落した。彼の触るものは、飛行機に限らず、何でも落ちた。株でも、飛行船でも、家運でも、社運でも。師と仰いだバートランド・ラッセルには、「どっちつかずのお前は、バカかカバかの、いずれかだ!」とまで罵倒され、再起不能となった。この間、彼の生家は破産し、父親始め自殺者が相次ぎ、一家離散した。彼は、貧乏のどん底に落ちた。

遂にウィトゲンシュタインは、沈黙せざるを得なくなった。重度の『失語症』に陥った。――だが、その沈黙が、思わぬ“金の卵”を産んだ。

帰国した彼を、ユダヤ人の青年達が囲み、サークルを造った。イギリス留学帰りの、最先端の数理論理学者であり、哲学者であり、航空工学者でもあるウィトゲンシュタインのもたらすものに期待した。――彼の沈黙を知って、これこそが最新の哲学であり、最先端の論理学なのであろうと、彼等は得心した。当時、行き詰ったワイマール体制を打倒し、ドイツの新生を果たそうとする機運が、ドイツ諸州の間に満ちていた。彼等はシオニストの秘密結社を造り、さらに拠点を隣国のミュンヘンに移して、そこで新党派を立ち上げた。すなわち『賢者の社会主義ドイツ労働者党(WSDAP)』である。

党名中の『賢者』が、“シオンの賢者”を意味することは、当時のドイツ人にとっては説明を要しない常識だった。それは、憧れの対象であると同時に、強烈な畏怖の対象でもあった。――人類史において、諸民族が合従連衡し、DNAのみを残してその名は消えていったにもかかわらず、ただユダヤ人だけが、孤高を保った。それ故、他民族に忌み嫌われた。忌み嫌われる、三千年の歴史があった。ヨーロッパでは、スペインのレコンキスタ以降、西ヨーロッパを追われ、中・東欧に密集して住むようになり、イディッシュ語圏を形成した。近代以降、ヨーロッパ諸国の保守・反動派は、近代化の危機をユダヤ人のせいに転嫁し、ユダヤ人をスケープゴートにすることで、切り抜けようとした。数多くの陰謀家達が捏造した、フリーメーソン等に絡ませたユダヤ人の世界支配陰謀説が、まことしやかに吹聴され、『シオン賢者の議定書』を始め、多くの偽書、怪文書がヨーロッパを越えアメリカにまで広く出回った。

こうしてフランス革命以降根強く醸成され蔓延したユダヤ人脅威説は、世紀の変わり目、特にユダヤ人の多かった中・東欧でピークを迎えた。中でもツァーリズムからボルシェビズムに移行するロシアと、瓦解寸前のワイマール共和制下で、最悪の嵐が吹き荒れた。その最後に打ち上がった最大の花火が、ナチのホロコーストだ。

特に、良いも悪いも、右も左もまるで分からない一般大衆層が、ユダヤ人を最も恐れた。悪魔の使いとして、アンチ・キリストのもと世界を征服しようとたくらむユダヤ人を。この大衆の盲目のエネルギーを利用し、ユダヤ人を生贄に奉げて、近代化の流れを逆流させようと、保守・反動勢力は目論んだわけだ。――だが、時代の趨勢は、意外な展開を見せた。――盲目の大衆達が、悪魔の使いの底知れぬ恐ろしさで脅してくるユダヤ人に抗うよりは、むしろ我先にと降伏し、服従し、奴隷となる事を選んだのだ。

蔓延する、ユダヤの支配への恐怖、社会不安、共産主義の脅威、そしてそれらに対抗する民族主義者達のテロ・暴力。こうした事に耐えられなくなった大衆は、自らこぞって支配される側に廻る事を望んだ。――当時シオンの賢者による至福の千年王国に参加せよと唱えていた『WSDAP』に、労働者大衆は雪崩を打って入党した。共和国政府は、ミュンヘンで一揆を画策したとして、この運動の沈静化を図り、党勢は一時期下降したが、大きな流れにそれ以上抗うことは無理だった。

さて、党首に祭り上げられたウィトゲンシュタインは、それではどんな主張をし、どういう方向へ党員達を引っ張っていこうとしたのかといえば、――彼は相変わらず、沈黙を守ったままだった。――饒舌なヒトラーとは、まるで真逆の党首だった。そのため、彼が唱えたと言われる理念、主張、政策、戦略は、皆周囲のサークル仲間が、彼の沈黙を見詰め尽くした果て、ウィトゲンシュタインはこう言いたいのであろうと推測した結果である。――これは、何も党幹部に留まらなかった。一般党員、大衆労働者達も、ウィトゲンシュタインの沈黙を見詰め続け、彼の気持ち、思惑を推し量って、その行動指針を思い描いた。マスコミすら、何も主張しない政党や党首を取材した果て、彼等はこういう意図、主義主張で動いているのだろうと、勝手に妄想し、大見出しで書き立てた。

――このスイス・ユダヤ人のSF作家には、東洋思想の影響が顕著であるというのが、私の見立てだ。すなわち“禅”や“老子”に見られる、『無』の思想だ。――全ての中心には、“無”がある。ドーナツと同じだ。“無”は何も生み出さず、何も発信しない。専ら、吸収するばかりである。これは、ブラックホールと同じだ。だが、その無限に吸収する行為が、周囲に強力な“運動”を起こす。無からは何でも生み出せる、という理屈だ。

だから、無言の中心点、ウィトゲンシュタインの周りには、党派が集まり、ユダヤ人が集まり、大衆が集まり、世界が集まった。彼等は、“無”に、鏡に映し出されたように、自分を見る。自らの理想、正義、欲求、野望、遂には全てを。

――党大会で演壇に立ったウィトゲンシュタインは、立ち続けるばかりでとうとう一言も喋らなかった。その間、整然と並んだ党員達は、まんじりともせず彼の沈黙を見詰め続けていた。そして、汲み取った。悟った。沈黙の号令は、共和国支配層の打倒を命じていた。大衆の闘争の矛先は、既成の支配層、貴族や資本家や大地主に向けられた。

ミュンヘン一揆で牢獄に繋がれたウィトゲンシュタインを、何人もの識者が訪ね、面会を果たした。ここでも彼は、一声も発しなかった。そんな彼との面会が、多くの著作を書かせた。誰それ版『我が沈黙』と、全ての著作が銘打たれていた。

ウィトゲンシュタインの無言のオリンピック開催宣言は、無音の録音盤として、無音の記録映画として、世界に配信された。――もし、数十分に渡り演奏しないピアノ曲とか(ジョン・ケージの『4分33秒』は、52年の作であり、この三文SF執筆当時はまだ存在しなかった。もしかするとケージは、このSFを読んだのかもしれない)、空間に何も無い芸術作品とかがあれば、人は“無い事”に意味を見出そうとするだろう。――マスコミが書き立て、人々が声援を送り、既成政党が位置付け、評論家が分析した。人々は勝手に、彼等の沈黙に意味付けをした。その党是も、スローガンも、プロパガンダも、実は政党名すら、人々が後付けで与えたものだ。彼等を見て、第三者が囁き、噂し、代弁した、それらが結晶化したものだった。

――その党章、党旗を決める時には、こんな出来事があった、と記されている。

ミュンヘン近郊の小さな村に住む鍛冶屋のオットーは、ある時とても素晴らしいことに気付いた。19世紀末から20世紀初頭にかけて、古代世界共通の幸運のシンボル、サンスクリット語で『スヴァスティカ』と呼ばれるハーケンクロイツ(鉤十字)印が大流行していた。その“ハーケンクロイツ”の描かれたクリスタルと、同じく“ダビデの星”の描かれたクリスタルと、二つの聖なる印を重ね合わせて光に透かして見ると、とてつもなく美しい紋様になることを彼は発見したのだ。

丁度この頃、WSDAPが党のシンボルマークを公募していた。――オットーは、二つの聖印を組み合わせたエンブレムでガラス細工を作り、それをペンダントやブローチに加工した。村の長老達はその印を不吉だと忌み嫌ったが、子供達から始まり、いつしか女性、男ども、そして最後には長老達まで、それをぶら下げるようになった。気を良くしたオットーは、それを大量生産し、ミュンヘンの街まで行商に出た。

当時、反ユダヤ主義を掲げる周辺国から、特にユダヤ人口の多い東欧方面から、大量のユダヤ難民がドイツ国境目指して押し寄せていた。だが、国境地帯で、各国の治安当局により越境は阻まれていた。

だがその夜、突然火中の豆がハゼるように、難民達は国境線の全てで一斉にそれを突破し、ドイツ領内に雪崩を打った。国境付近で待ち構えていたWSDAPの党員が、オットーの徽章を彼等に配り、それを付けさせたのだ。――実は、つい数時間前、二つの聖印を組み合わせた紋章が、党章として正式採用されたのだった(後、国旗ともなった)。それを付けた者は党員と見做され、WSDAPが彼等の生命と安全を保障した。この夜のため、オットー工房はフル操業で、クリスタルの徽章を大量生産した。――胸にクリスタルのバッジを付ける者が、国中に満ち溢れた。ユダヤ人も非ユダヤ人も誇らしげに胸元を張り、その夜は『水晶の夜』と呼ばれ長くドイツの記念日となったという。

オットーは無言のウィトゲンシュタイン総統からその思いを引き出す大衆の代表として、党の幹部の一人となった。眉間にシワを寄せただ考え続けるばかりで、その考えている内容を一言も外に漏らさないウィトゲンシュタインは、オットーに無限のインスピレーションを与えた。(多分ウィトゲンシュタインが喋り出したら、無学のオットーにはわずかも理解できなかっただろう。)オットーは、ユダヤ教に改宗する、と宣言した。彼に倣って改宗する者が、陸続と続いた。多くのドイツ人が、豚肉を食わなくなった。あるいは、これは“羊”だ、いや“牛”だ、と言い張って、食べ続けた。――その羊と牛のソーセージの大量に振舞われたミュンヘンのビール祭りで、残った最後の一樽が百樽に増える奇跡が起こり、喉を潤した者が皆即座にユダヤ教に改宗したとの噂が流れた。

人々は、自分に少しでもユダヤ人の血が混ざっていないかと家族のルーツを探り回り、一喜一憂し、かのヒトラー画伯に倣いニセの家系図作りに奔走した。

元飛行機設計技師ウィトゲンシュタインのデザインした党旗党章や制服は、素晴らしくカッコよく、若者達はこぞってそれらを身に付けた。だがそのデザインした飛行機は、相変わらずよく落ちた。そこでドイツの航空工学者達は思い付いた、総統閣下のアイデアの逆をやれば、あるいは優秀な飛行機が出来るんじゃあないか。思惑は当たった。ドイツ空軍は、世界最強となった。

ユダヤ人の世界征服が捏造のニセ陰謀だと分かっていながら、人々がナチの台頭を歓迎したように、同じく捏造のニセ陰謀だと分かっていながら、この世界では人々はユダヤの沈黙の世界支配を待ち望んでいた。恐怖に駆られた多くの大衆が、実在しない“ユダヤの支配”に屈服し、ユダヤの千年王国で奴隷として安穏と生きる事を選んだ。ならば、――とウィトゲンシュタインのブレーン達は学んだ。偽書に書かれた実在しないユダヤの支配方法を、これまたそっくり真似ればいい。

我等がウィトゲンシュタイン総統こそ、約束されたメシア、現代のソロモンであり、ユダヤ人の千年王国たるドイツ第三帝国の開祖である。ワイマールの混乱を終焉させるため、立ち上がった。行き詰ったワイマール体制を打倒し、ユダヤ人、アシュケナジムを支配層とする理想社会、千年王国を実現する。――30年代の数年間で、『賢者の社会主義ドイツ労働者党』は、国会数議席の小政党から、全議席の70%以上を占める第一党へと躍進した。――。

――ドイツが、“新イスラエル帝国”の成立を宣言するに至り、遂に周辺諸国は宣戦布告し、一斉に侵攻を開始した。第二次世界大戦の始まりである。“ドイツ大祖国戦争”、とも言う。当初劣勢に立たされたドイツだったが、やがてその圧倒的な空軍力により攻守所を換えた。沈黙の第三帝国は、黙って侵略し、黙って殺した。諸国民は、この軍隊をまるで理解できず、その意図も心情も測りかねて、ただ呆気に取られたまま次々敗れ去っていった。――こうして、全ヨーロッパに君臨する『沈黙の第三帝国』、ユダヤ人がヨーロッパ諸民族の上に立つイスラエル帝国が、復活したのだった。

功成り名遂げたアドルフ・ヒトラー画伯は、ウィトゲンシュタインのユダヤ千年王国の宮廷に仕えるお抱え画家となっていた。宮殿を美しく飾り立てるおべんちゃら宮廷画家として、彼の名声は不動のものとなった。――なるほどこれでは、ナチの残党どもが息巻いていた訳だ。世界がすり替われば、“我等が総統”がユダヤ人の宮廷のおべんちゃらお抱え画家になってしまうのだから。

――物語の最後だが、――あれだけ沈黙を守り通したウィトゲンシュタインが、遂に口を開いたという。ヒトラーと、学生時代の思い出話に興じ、旧交を温めるために、――。

以上が、このSF物語のあらましだ。――どうだい。笑っちゃうだろ?」

師は、唇の端でククと笑った。

 

ボルヘス師がしきりに空のティーカップを弄んでいるのに気付き、私はテーブルに戻りつつ「紅茶の御代わりは、いかがですか?」と声を掛けた。

師はニコリとし、「ありがとう。ロベルト」礼を言いつつ、カップをテーブル上に戻した。

淹れ直される紅茶の香りが、彼に話の続きを促した。――「精密検査の後、パラシオス博士がどうしても受けろと迫るので、細胞を一部採る生検を行った。肛門から器具を入れられ、随分と痛い思いをした。

博士が疑っていた病は、意外なものだった。思ってもみなかった病名を告げられた。――“前立腺ガン”だ。――あまりに意外だったので、すぐ家にとって返して、“家庭の医学辞典”で“前立腺”の位置を確認してしまったよ。――それにしても、奴は、あの男は、患者本人が検査結果を告げられる前に、既にそれを知っていたということか。奴のあの思わせぶりな口調が、この推測を一層確信させる。

博士の診立ては、悪い方に的中した。――悪性度の高い、前立腺ガンだった。
「これはいかん、早急に手術をしよう。――既に全身の骨への転移が進行しつつあるかもしれないが、――それでもなるたけ早く、病巣を取り去った方がいい」博士は言った」

ボルヘス師が前立腺ガンに侵されていた? 師の半生は相当熟知している積もりだが、そういう話は聞いた事もなかった。だが、罹患してから四半世紀経った今でも壮健なのだから、病は完治したのだろう。
「ところが、その一ヵ月後に再訪した時、パラシオス博士の話す事はガラリと変わっていた。――手術は出来ない、もう手遅れだ、と言い出したのだ。

あの後より詳しく検討した結果、転移の度合いが思ったより酷く、――これでは手術をしても無駄だ、あとは温存療法でやっていくしかない、という結論に達した。余命については、何とも言いかねる。――さも気の毒そうにこちらを見つつ言うが、しかしその瞳の座り方に、どこかオドオドした所がある。時折チラッと、壁に貼られたポスターに視線を送っているようだった。――それは、診療室にも病室にも貼ることを義務付けられている、あの男の政党のポスターだった。もちろんその中央には、大写しの奴が腕組みをし、ドッカと腰を据えてこっちを睨み返している。

どうやらあの男の圧力が、ここまで及んできているようだ。――日頃豪胆なところのあるパラシオス博士からすると、今日の彼の態度は人が違う程オドオド、ソワソワしている。あるいは、この診療室自体、盗聴されているか、盗み見られているのかもしれない。博士の様子は、事情を知らせるべく必死にサインを送っている、とも取れる。

――こんな推測を裏付けるように、家に戻った私に、いつも玄関前で張っているあの亡霊男が、唐突に話し掛けてきた。「大分、お困りのようですね」――あの男と、同じ台詞を繰り返した。

大統領からの伝言だと言い、亡霊男はメッセンジャー・ボーイの役割を果たした。世界最高峰の治療の用意がある、見返りの仕事が達成されたなら。――昼の陽光の中、亡霊男は車の横にボンネットに手をつき、かげろうのように立っていた。そんな光の下でも、亡霊男は影そのままだった。濃い影が、濃い影を、落としていた。――要は、いつかの夜、オレが命令した通りにやりゃあいいだけだ。二重の影は、とどめにそう言った」

私は師の好みの通りに砂糖とミルクを入れ、紅茶カップを手渡した。師はそれを受け取り、匂いを確かめた。
「こうしていよいよ、私は全ての鍵とも言えるあの人物、ゲルショム・ヤコブソン博士に是非とも会わねばならなくなった。――その後ヤコブソンがこの国を離れたという話は、聞いていない。まだ国内、多分あの台所のある家に、留まっている筈だ。――不治の病に対峙しなければならない。それに、家族の安全も計らねばならない。

しかし、それより何をおいても、私は“謎”そのものに、抑えることの出来ない興味を掻き立てられていた。あの、私の脳裏に刻まれた“字引”を使って、カバリスト達は、どのような大魔法(あの男の言い草だが)を、この世界に仕掛けようというのか?

――再度、ヤコブソン博士を、千里眼で捕えてみた。今回も、祈っていた。彼は、祈りに当てる時間が、長いのだろうか。家の周囲を廻ってみた。別荘地風の佇まい、という事までしか分からなかった。それ以上の遠目は効かなかった。

その後も何度も訪れ、ヤコブソンを観察し続けた。何か事態の打開策の、ヒントになるものは見付からないかと思い。

祈る以外の大方の時間を、博士は何事か研究のために使っていた。

『トーラー』や『ゾハル』始め、幾冊もの分厚い注釈書や研究書と首っ丈で、猛烈な勢いでノートやカードに書き殴り続けていた。カードは、書き終える端から、十数個のオレンジの木箱に投げ込まれ、既に相当の分量の山を造っていた。付箋があちこちに貼られ、その付箋にさらに付箋され、それが何枚も継ぎ足され、幾つにも分岐し、タコやイカの足のように絡まり、全体は『進化樹』の如き様相を呈していた。そうして出来た巨大な吹き流しの束を、さらに博士は吟味し、あっちを貼り換えこっちを付け換え、部屋中が長々延びた紙のテープで占領されていた。

私は、そんなカードや付箋の細かい記述に、フォーカスした。――『二つの聖印のエンブレム』『鍛冶屋のオットー』『水晶の夜』――記憶にある言葉が、散見された。

広大な進化樹の根元を辿っていくと、そこに見付かったのは、例の三文SFの『水晶の夜』事件の部分のコピーだった。――進化樹には、もう一株、顕著な根元があった。そちらを探ると、こっちは1938年に起こった史実としての『水晶の夜』事件の詳細な記録に行き当たった。――付箋の吹き流しの進化樹は、史実とそれを歴史改変SFに置き換えたものとの間で、複雑に絡まり合っていたのだ。

ヤコブソンはこの絡まり合いを、どういう意図で伸ばし続け、織り上げていったのか。より詳細に吹き流しを辿り、関連付けられたカードを覗き見するに連れ、彼の途方も無い目論見の意味がようやく分かり始め、私は慄然として千里眼のフォーカスを四散させてしまった。――彼は、史実とSF内の架空の事件との間にあり得た、全ての『水晶の夜』事件のバリエーションを書き出そうとしていたのだ!

この、人の“知性”を慄然とさせ立ち尽くさせるが、同時に全くの底無しに“無駄”な努力は、――何のために、ここにあるのか?

精力的な博士の探究心が、死と競い合うような鬼気迫る表情で続けるこの作業は、何に突き動かされ追い立てられて、博士の手や頭から零れ落ち続けているのか。――現に、テーブル上の博士の手が届くすぐ近くに、黒光りする大振りの拳銃が無造作に置かれていて、これは自衛のためというよりは、いざという時自殺するために用意されたのだろう。博士は日に何度もこれの銃口をこめかみに押し当て、死出の予行演習をしていた。――オットーとゲッベルスを入れ替えたり、オットーの聖印のエンブレムとハーケンクロイツのさらに変種を考えたり、二つの『水晶の夜』事件後のユダヤ人の入国と出国の状況をシミュレーションしたりする事と、この黒く重たい拳銃と、どういう関係があるというのか。

――私は博士のこの努力の意味が分からず、大いに混乱したが、――一方で冷静に着々と計画を進行させてもいた。

計画に沿い、次いでメルカバ出版の社主、ローゼンフェルト氏に連絡を取った。メルカバ社はユダヤ関係の本を数多く出版しており、ローゼンフェルト氏自身もユダヤ人だった。そして、地元のユダヤ・コミュニティーに影響力のある、“顔役”でもあった。さらに、ヤコブソン博士の来訪そのものが、元々メルカバ社の招聘によるものだった。

高名なヤコブソン博士とこの機会に是非一度お会いして、ユダヤ神秘主義や、それの世界文学にもたらした影響などについて、お話をお伺いしたいと、対談を申し入れた。――だが、ユダヤの顔役は、博士は研究活動に忙殺されはなはだ多忙である、などとはぐらかすばかりで、けんもほろろ、まるで取り合ってくれない。

――博士は時たま、例の“字引”を大事そうに土中から掘り起こした。これまでに掘り出すところを、三度見掛けた。――油紙を丁寧に開き、“字引”の数ページを丹念に抜き書きして、また土中に戻した。

そして“字引”の文言を参照しながら、付箋やカードのバリエーションを増やしていくというのが、この作業の正式な手続きらしかった。“字引”の文言から文章を展開させていく様は、さながら数学で方程式を解いている手順のようだった。これが、あの“字引”の、正式な使い方なのだろうか。

世話役の男が、興味深そうに博士の作業に見入っている。男の視線が気になったのだろう、博士は癇癪を起こし、男を追っ払った。

世話役兼監視役の者は、12人いた。二人ずつ六日間博士の相手をし、安息日は家の外から鍵を掛けて、誰も来なかった。――12人は、ペアになっている者以外の顔を知らず、また彼等を統率しているらしき者もいなかった。そして彼等は、どう見ても頭の足らなそうな連中で、しかしくそ真面目で命じられた事は何としても守る、そういうタイプの者達が、選抜されたようだった。彼等は、博士の事を、重要人物だとは認識しているようだが、その正体は知らされていないらしかったし、充分に理解する能力も無かったようである。――想像するに、ユダヤ人達は、博士や“字引”の所在について、全てを知っている者が唯の一人もいないよう、秘密の全容を幾つかのパーツに分けて、それぞれ分担して持ち合う作戦を取ったのではなかろうか。ナチに対する機密保持、また裏切り者が出た時の対策、としてである。

だから、博士と直接接する者には、こんな頼りなさそうな12人が選ばれたのだ。博士は事ある毎に、癇癪を爆発させ、くそ真面目でトロい従者らを叱り飛ばしていた。

従者らの仕事は、監視役の他に、食料等の調達、部屋の清掃等、博士の身辺の世話だった。食料は、食材として運び込まれたり、既に調理済みの料理が持ち込まれたりしていた。食材は、博士自身が自炊し、簡素で冷たい食事を作るか、たまに付き人の誰かが調理し、温かいものを作るかした。

また、カードや付箋や、付箋用の糊や、インクや鉛筆も、欠かせない調達品だった。時たま、聞き慣れない書籍の購入を、依頼される事もあった。――彼等が食糧や文具類を町へ調達に出る時、その町まで足取りを追えないものかと何度か試したが、やはり家から離れた景色を千里眼が映す事はなかった。

世話役らは最初の内、博士を気味悪がった。訳の分からない作業に没頭している奇人だし、ヒステリックにすぐ癇癪を爆発させる。それに吹き流しの絡まりは、タコやイカを連想させて不吉だった。――だがその内、少しずつ、博士のやっている事に興味を示すようになった。

博士は面倒がりながらも、普段の世話の返礼か、彼等の興味に多少は応えてやった。その内、余りに無知で純朴なこの連中に好意を持ち始め、息抜きに彼等を“教育”する事を楽しみにし出したようだ。――ユダヤ教の基礎の手ほどきなどを始めた。従者らも、根が純朴で素直だから、熱心に生真面目に聞き入った。(この12人もユダヤ人の筈だが、それまで殆ど見限られていたようで、一般知識の習得度合いは低かった。博士は、普段大学の教養課程の講義も持っているのか、教え方がうまかったのだろう)

12人は、互いに顔見知りになった。つまり、当番の曜日以外にも、博士の許へ来るようになった。つまり、命令を破った。――博士を中心に、ちょっとした共同体のようなものが出来上がった。

12という数字が、私は気になった。この中から、命令に抗う裏切りのユダが出て、博士をどこか近くの町まで連れ出さないものか。そうなれば、千里眼が届き、博士の居場所が判明するかもしれない。

――使徒達に慕われる博士を見ていて、私は一計を案じた。――影響下にあった文芸誌や論壇誌等十数誌の総力を上げて特集を組ませ、ヤコブソン博士の来訪を記念しての一大キャンペーンを張ったのだ。

 

「この小説は、例の裏面史の項はもとより、殆どの禁止事項に抵触している!」ビオイが高らかに宣言し、目の前の作品を容赦なく断罪した。「よって、最悪の戯作の一冊であると、断定せざるを得ない」断罪されたのは、勿論あの三文SF『沈黙の第三帝国』である。私の買ったペーパーバックが、食卓上、ビオイのスープ皿の隣に並んでいた。――彼に貸し、評価を依頼していたのだ。

既に大戦中の42年、ビオイとの共作『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』という推理ものを刊行していた。それから10年、新たな共作の野望が、二人の間で沸き立ちつつあったのだ。今度は、SFでいこう、と我々の了解は取れていた。ビオイは、君も承知の通り、SFの名作『モレルの発明』で名を成した作家だ。SFや幻想文学に、根っからの志向を持つ。私もまた、ウェルズ体験以来、SFというジャンルに抗し難い魅力を感じていた。正直に告白すると、後半生はSF作家と呼ばれたいと、密かに願っていた程だ。そうならなかったのは、あの時代北米で量産されていた、ジャンクなスペース・オペラどものせいなのだ。SFに大いなる可能性を見出しつつも、現実のゴミタメに足を踏み込むことを躊躇ったのだ。

もう一年近くも、アイデアを出し合い、意見を戦わせてきた。また既成のSF作品について、褒め、かつ貶した(殆ど後者だったが)。そうした俎上に載せるべき作品の一つとして、『沈黙の第三帝国』もビオイに提示された次第である。
「確かに作品そのものは、我々が取り上げる程のものではない。私も最初読んだ時、そう思った。君と同意見だ。――では何故わざわざ君にも読んでもらったかというと、――これのテーマにもなっている、『歴史改変』ものというジャンルについて、君の意見を聞きたいと思ったからなのだ」
「歴史改変?――

なる程この物語では、ヒトラーとウィトゲンシュタインの人生が微妙に交錯して、両者の運命が入れ替わってしまう、という筋立てになっているな。――しかし、それ以上の説明は無い。

一体どうやったら、二人の男の運命が入れ替わるというんだ?」
「聞きたかったのは、まさにソコだ!

普通、SFでは、どうやってこうした“超自然現象”を、生じさせると思う?」
「そうだな、……」ビオイは、テーブル上のシェリー・グラスを意図してゆっくり取り上げ、その中味を舐めた。「こうした歴史の付け換えは、パラレル・ワールドという舞台設定を利用するものが殆どだろう。――そしてその付け換えのためのトリックは、――未知の超粒子の発見であるとか、より高い次元からの干渉であるとか、超光速飛行により相対性理論を破るタイム・トラベルの応用であるとか、――まあ、そんな所かな。――どれもこれも、北米の三文SFで手垢の付いたカラクリばかりだが、――」と、小馬鹿にしたように、ビオイ。
「そうしたありきたりの、パラレル・ワールド間往来の手法ではなく、――何かもっと新機軸は無いものかと、思った訳さ」
「ほう。――例えば、どんな?」
「そこでさっきの、スイスのユダヤ人の書いたSFだ。――ナチとユダヤ人の絡みの中で、あの二人の男の付け換えは起こる。というか、付け換わった後の世界しか書かれていない。君の言った通り、それ以上の説明は無い。――一体何が起こったのか。あのSFの、いわば“前段”を、考えてみようとふと思った次第さ」

ナチとヒトラーと聞いて、同席したカイヨワがしたり顔で食い付いてきた。「確かヒトラーとウィトゲンシュタインは、オーストリアの同じ学校に在籍していた事がありましたよね。――それも、在校期間が、重なっていた筈だ。つまり二人は、校内で何度も顔を合わせ、話をしていた可能性すらある。……」――今日のカイヨワは、ビオイ邸に到着するなり、床にくずおれそうになる程にしょげ返っていた。――昨日の昼頃、あのカイヨワ・ノートが、いつも体の一部のように注意を払っていたバッグごと、盗難にあったという。その手の犯罪の多いブエノスアイレスのことだから、犯人を特定する事は出来ないが、秘密警察やナチの手の者である可能性は相当に高かった。もしあのノートの中身が、奴等の側に知れてしまったら、――いかなる事態が起こるか、どのような災いが自分に降りかかってくるか。――彼は脅え、身をすくませ、シルビナお手製のご馳走もなかなか喉を通らなかった。――そんなカイヨワだったが、遠い時代の彼の地での、因縁めいた少年達の奇譚に、少し元気を取り戻したようだった。

私は続けた。「こうした付け換えが、全くの偶然か運命の悪戯か、はたまた神の意志ではなく、――何者かの企んだ事だとしたら、どうなるか?」
「何者か?」問い質すビオイ。「何者だというんだ?」
「犯人を捜す時は、まずその犯罪で利益を得る者を疑え、――が、鉄則だろ」と私。「この場合は、ホロコーストを免れ第三帝国の主人公となる、ユダヤ人だ」
「で、彼等が、どういう手段を使ったというんだ?――超巨大な電磁場発生装置とか、あるいは未来から来たユダヤ人の子孫達の仕業とか、そういうのはナシだぞ」

ナプキンを直しながら、私は言った。「カバラーの、魔法を使ったのさ。――」

ビオイもカイヨワもシルビナも、身を引いて背もたれにもたれかかってしまった。こうなる事は、最初から分かっていた。
「いくら何でも、それはダメだよ。ジョージー。――SFにすらならない。もっと昔に戻ってしまう」当然の事を、ビオイは指摘した。
「まあ常識的には、そうだろう。――“禁止項目”リスト以前の話だ」言いつつ、ヤコブソン博士の吹き流し製造作業が、脳裏に浮かんでいた。あの吹き流しの一本一本が、パラレル・ワールドなのだ。博士はそれらの間を、どうやって関連付けていたか。

そうだ。そこで、“字引”の出番となった訳だ。あの中に書かれていた、歴史事象上のパラドックスや、『心の理論』の等高線や、人の認識フォーマットや、その他のものを使い、博士は世界を分岐させていた。

私はそうした博士の操作を思い出し思い出し、ビオイ等に必死の説明を試みた。自分で喋っていて、その余りの舌足らずの様に、自分に向かって非難をぶつけたくなった。――案の定、ビオイ等もますます呆れ、困惑するばかりだった。
「やはり見当外れだな。ジョージー。――それらはいずれも、内在的要因だ。歴史的事象の不合理性や人の精神構造の特性が、どうして外部要因である物理現象に逆に働き掛けることが出来るというんだい?」

常軌を逸した説明を続ける内、こうした魔法を扱うカバリストの黒幕の存在が、説明の端にほの見え始めた。その黒幕には、当然ながらヤコブソンのイメージが、どんどん滲み出していった。――子供に聞かせるような怪奇冒険ものの構想にかこつけて、ナチの亡霊男以来の一連の騒動が、口元まで出掛かっていると、自覚していた。だが、本当の事を明かしてしまえば、ビオイやシルビナや、カイヨワまで、危険に巻き込むことになる。これは絶対避けねばならない。

その内とうとう、みんな黙り込んでしまった。せっかくの楽しいディナーのお喋りを、台無しにしたのは私だと、認めねばなるまい。――今日のジョージーは、とてつもなくオカシイ。まるで、別人のよう。皆思ったことだろう。――さらに続く沈黙を、どうやって終わらせ、逆転の“オチ”に持っていったらいいものか、楽しい会話を復活させたらいいか、私は考えたが、――そう強く思う程、ヤコブソンの黙々と作業する様が脳裏に浮かび、私の努力を中断させるのだ。

――だが、救いの神は、思わぬ所からやってきた。

玄関のベルが鳴った。シルビナが応対に出た。――そして、青い怯えた顔をして、戻ってきた。

シルビナの告げた来訪者の名に、我々の間に緊張が走った。――リヒャルト・グールマン。元ナチ突撃隊出身であることを、誇りにしている亡命者。ファシズム称揚誌、『鉄の進撃』誌を主宰している男だった。

許しも得ずに、ズカズカとダイニングまで踏み込んできた。「ボルヘス先生に、ビオイ=カサーレス先生。おや、カイヨワ先生まで、おいででしたか」言った。

鉄面皮のように、無表情な顔をしていた。だが、冷静さを装いつつ、その後瞬時に激高する人物であることを、誰もが知っていた。

訪問の目的は、容易に察しがついた。私の立ち上げた“ユダヤ文化キャンペーン”に、反対するというのだろう。

――このキャンペーンの構想を持ち込んだ時、当初殆どの出版社が実施を渋っていた。当然だろう。内容からして、政権が潰しに来るのは目に見えている。だがそこを何とか頼み倒して、各誌に予告を出させた所、意外にも政権側からは何の反応も無かった。そこで、日頃の鬱憤を晴らすように、キャンペーンは大々的にスタートした。

政府からの妨害は無かったが、民間の反対勢力からの抗議の声は上がった。さらには嫌がらせ、そして暴力へと、行動はエスカレートしていった。

だがここで、予想もしなかった不思議な事が起こった。――普段、親政権派が暴力事件を起こした時、警察権力はそれを見て見ぬ振りをする。ところが今回は、どういう風の吹き回しか、徹底的に取り締まったのだ。

作家協会の入ったビルの下を埋め尽くしたペロニスタ労働者の抗議デモを不安げに見下ろしていた時のことだ。“ユダ公”がどうとか、気勢を上げる港湾労働者達。その時突然、警察の騎馬隊や治安機動隊が、労働者の群の中に突入していったのだ。これには、私も驚いたが、それ以上にペロニスタ達が面食らってしまった。いつも自分達を守ってくれている警察が、今回は牙を剥いて襲ってきたのだ。呆気に取られたペロニスタ達は、(実は、取り締まる側の警官も、呆気に取られたような顔をしていたが、)次々検挙されていった。――ハハア、そういうことか。私は理解した。

以降、講演旅行やら演説集会やら、いつもの何倍も積極的に活動して廻った。運動を煽り、ファシストやペロニスタどもを大いに刺激し、そして政権に(嫌々)取り締まらせた。このチグハグな現象は、国中に伝播していった。――奴等を同士討ちさせる。何とも皮肉で愉快な、楽しみである。

ところが、政権やナチからは、一部の跳ね返りを除いて、妨害が無いにもかかわらず、肝心のユダヤ人達がこのキャンペーンに乗り気薄だった。そんな奇妙な逆転現象が生じていた。浮かれているのはユダヤ人以外の文化人やマスコミばかりで、メルカバ社始めユダヤ系の出版社はどこも協賛を手控えていることに、私は薄々気付いていた。――

反ユダヤ・マスコミのよく吼える小犬達は相変わらず騒がしかったが、デモや集会を次々潰され、肝心の実力行使が後に付いて来ない。とうとう業を煮やして、グールマンは直接乗り込んできたのだろう。夕食会というプライベートな場にまで、遠慮も無く。
「わざわざ言わずとも、用件はお分かりでしょう」低くくぐもった声で、奴は言った。「こういうやり方は取りたくなかったが、いつまでも埒が明かないのでね。――もっともドイツでは、これが常套手段だったが」

外に、突撃隊時代の部下を10名程、待機させてあるという。街頭での徒党を組んだ暴力をもっぱら担当した突撃隊員らの、知能を母親の胎内に置き忘れて生まれてきたようなゴロツキ面が浮かんできた。グールマンは冷たい目のまま、標的に照準を合わせるように、一同を見廻し、次いで室内を見廻した。

――その時、また玄関のベルが鳴った。グールマンの仲間か?――今度はビオイが立った。そして、さっきのシルビナ以上に青い顔をして、戻ってきた。

ビオイの後から、――あの亡霊男が現れた。
「今晩は。ボルヘス先生。シルビナさん。――おや、カイヨワ先生も、ご同席でしたか」言った。

二人のナチ亡命者は、知り合いらしかった。何やらドイツ語で、やり取りしていた。しかしグールマンにとって、亡霊男は予期せぬ、招かれざる客だったようだ。

見るからにナチヅラした二人のコワモテが、互いに凄みつつも、どこかギクシャクした感じで、ドイツ語で口論している。ふと見ると、偶然立ち会えたナチ同志の対決シーンに、子供がワンダーなものを見るように、カイヨワは隠しおおせようもなくその目を輝かせている。私の語彙力で聞き取れる程度のドイツ語だが、「どういう積もりだ。――」「何故、邪魔をする。――」と怒りながらグールマンが質問を浴びせているのに対し、亡霊男の方はしばしば肩をすくめつつ「仕方ないのさ。――」「深い訳があるんだよ。――お前達みたいな三下には、到底理解出来ないような、――」と、覚めた受け答えをしている。

だが、ナチの階級では、見るからに亡霊男の方が格上のようで、グールマンは悪態をつきつつ、上官の命令に従った。

引き上げてゆくグールマンを見送りながら、亡霊男が私の脇に立ち、ボソリと言った。「突撃隊のチンピラどもには、手を引かせた」その虚ろな目で、私の半ば光を失った目を見詰めながら、「だが、――あまり、調子に乗るなよ」釘を刺してきた。

――ローゼンフェルト氏が、ついにキャンペーンの狂乱の風圧に屈した。この騒ぎを早く終わらせたいという思惑もあったのだろう。私とヤコブソン博士との、対談が実現されることとなった。

対談は、ブエノスアイレス市内某ホテルで行われた。時間一杯、神秘思想やユダヤ論に興味のある者達には、垂涎ものの話が濃密に語られた。実際、これらを掲載した雑誌の特集号は、こうした話題に飢えていた人々に飛ぶように売れた。――が、この日の出会いの本題は、そこには無かった。

対談が一段落付いた時、私は人払いを願い出た。ヤコブソン博士も周囲のスタッフも、それを承知した。――実は、対談中にも、私は話の端々に、字引の存在を密かに匂わせていたのである。――博士は、察しのいい人物だった。

時間がないと思われたので、私は単刀直入に切り出した。――トーラーと、スイス人の書いたあの三文SFとを切り捌く“字引”は、“二通り”あるのではありませんか? 本物と、偽物と。――私は、過去に書いた幾筋かの物語の中で、幾人かの複雑に込み入った事情の“裏切り者”達を書いてきました。あなたも、そんな“裏切り者”の一人なのではありませんか? 銀貨30枚の、ユダでは?

すると博士は、突然ボロボロと、大粒の涙をこぼし始めた。「何という“慧眼”。噂通りのお人だ。その見えぬ目で、あなたは全てお見通しなのですね」博士の額の十字が、縦に横に、動き、深まり、躍動した。カルデアの地の洪水のような博士の落涙は、その太い黒ぶちメガネを浮き上がらせ、ブラシのような黒い髭をテカテカに光らせた。「そうです。私は、――キリストを売ったユダ、ローマに通じたアヘルなのです」

こうして打ち明けられたヤコブソン博士の話は、実に驚くべきものだった!」

 

若い頃のボルヘスは、“スル誌”等の仲間達と、よく行きつけのカフェに繰り出しては、ウィットに富んだ文学談義に花を咲かせたものだと聞いている。社交的で物腰柔らかくサービス精神に富んだ彼は、自分の新しい理論や創作を、よく人々に語り、楽しませ、煙に巻いたという。今は、私やアサンタ嬢や、たまの来客などに話すしかないのだろうが、長くつかえていた物を吐き出すように、今日のボルヘス師のお喋りは延々と続いた。若い頃も、こんな調子で、仲間達と楽しんだのだろうか。
「カバリストの一派で、『可能世界解釈派』という名を、聞いたことがあるかね?」ボルヘス師が、突然訊いてきた。
「いいえ。全く、……」ユダヤ人の間でも、そんな名前、一度も聞いた覚えが無かった。
「『可能世界』とは、『分析哲学』――フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、カルナップ、クワイン、クリプキ等と連なる系譜の、あの“分析哲学”の中で生まれた一つの考え方で、カルナップに端を発し、ソール・クリプキにより体系化されたと言われる。あらゆる存在可能な世界を、現にあるものとして考える、そんな方法だ。これには、そうした可能世界の存在を、単なる思弁のための方便として捕える立場から、それらの世界が現にあるとする主張まで、幅広い論者がいる。

そして一方のカバラーだが、その思想の根幹をなす、2世紀から6世紀頃に書かれたとも言われる、『セフェル・イェツィラー(創造の書)』と呼ばれる書物がある。この中で神は、ヘブライ文字のアレフベート22文字を用いて、世界を創造したとされる。神はこの時、22文字の組み合わせを色々と試され、この世界を形作ったというのだが、ここで可能世界解釈派の者達は、分析哲学の可能世界の考え方と、この神の創造とを、合体させたのだ。神が試されたあらゆるバリエーションの世界、すなわち試作品の世界は、現に存在し、我々のいるこの世界も単にそうした試作品の一つに過ぎないと、彼等は考えた。

そもそも、宇宙がある種の言語で出来ているという考えは、さして突飛なものではない。ギリシャ時代の原子論、ピュタゴラス主義、近世のモナド論、ガリレオの宇宙観と連なり、現代の理論物理も、各素粒子を文字、それらを繋ぐ法則を文法と見立てれば、その亜種といえる。最も過激な理論物理学の一派においては、文字は22種どころか、たったの2文字しかない。すなわち彼等が“プランク・ホール”と呼ぶものの“正”と“負”の状態、その2種だけだ。この過激な一派の考えでは、この世には物質も、エネルギーも、時空間も、次元すら存在しない。あるのは、対生成対消滅を繰り返すプランク・ホールの、対称性の破れで消え損じた残りカスの造り出すネットワークと、そのパターンのみ、ということになる。――22文字の世界創世など、このたった2文字のアナーキーなそれに比べれば、遥かに可愛いものだ。

だが、そこから先が、カバラーがカバラーである所以なのだが、その可能世界に、『トーラー』が関わってくるのだ。あの、『モーセ五書』が」

ボルヘスは紅茶を一口飲み、その後しばらく沈黙した。たった数秒の沈黙だったが、私にはとてつもなく長く感じられた。
「カバラーの本義とは、現に我々に与えられたトーラーから、その裏に隠されたトーラー、大本のトーラー、世界創造以前に存在した永遠のトーラーを、探求することにある。彼等はそのために、ノタリコン、ゲマトリア、テムラーといった技法を駆使して、千年以上も研究を重ねてきた。また、その永遠のトーラーは、ユダヤ人のメシアが現われた時、この世界に出現する、あるいは既成のトーラーが書き換えられる、との思想もある。

つまり彼等にとって、“トーラー”とは“世界の設計図”なのだ。――この世に今のトーラーがあるように、メシアの現われる理想世界には、“永遠のトーラー”が対応している。このトーラーと世界との対応、すなわち“照応”関係を知るため、彼等はトーラーを深く掘り下げ、止まない。――“照応”の考えは、古くイデア思想、新プラトン主義等と結び付き、ユダヤ神秘思想の古層を造った。すなわちトーラーは、イデアやロゴスと同一視され、“世界の設計図”と見做された訳だ。

こうして“可能世界解釈派”は、思い至ったのだ。トーラーと世界とは、“一対一”対応しているのであろうと。一方が変われば、他方も変わる。つまり、トーラーを書き換えれば、世界もそれに対応したものに変わるであろうと。――丁度、DNAと人体の関係に対応しようか。トーラーがDNAで、世界が人体、という訳だ。

――ここまで来ると、既に妄信の粋だと言わねばなるまい。何故トーラーであり、コーランではないのか。『バガヴァッド・ギーター』ではないのか。『易経』ではないのか。照応のさせ方も、非科学的な“こじつけ”に過ぎない。カバラーの多くが、こうした“こじつけ”の体系により成り立っている。――だが所詮、彼等はトーラー信仰者であって、科学者ではない。トーラーからは離れられないのだ。カバリストとは本来、信仰の徒なのだから」

ボルヘス師は、何事か楽しい思い出を噛み締めるように穏やかな笑みを浮かべながら、しばらく見えない目で宙を見詰めていた。「――南イエメン地方に伝わるというユダヤの古い民話を、博士は教えてくれたよ。――それによると、神の許に一つの図書館があるという。そこには、アレフベートのあらゆる並べ替えの行われた、全てのトーラー、すなわち可能世界の設計図が揃っているそうだ。神はそれらを用いて、全ての世界を管理しているという。例えば、どこかの世界で“チョコッと”奇跡を起こしたい時には、該当する本を“チョコッと”書き換えるなどして。
「確かボルヘス先生の作品の中にも、こうした神の図書館を描いたものがございましたね」博士が問うてきた。
「いや。“似て非なるもの”、と言わねばなりません」私は謙虚に応えた。「今仰ったのは、『バベルの図書館』のことですね。――確かに並べられている本は、あるいは同一のものかもしれません。アルファベットの全ての並べ替えの行われた本という点は、違いがありません。――ですが、バベルの図書館には、神がおりません。部分部分を管理している司書達がいるだけです。彼等は、全体について、何も知りません。そして私の図書館は、ただ一冊の書物、ただ一冊の『マクベス』や『雪国』や『カラマーゾフの兄弟』を、オートマチックに生み出すシカケに過ぎないが、神のそれは、全ての宇宙を生み出すものでしょう。――『バベルの図書館』は、さながら『神の図書館』の矮小なカリカチュア、ということになりましょうか」」

『バベルの図書館』は、ボルヘスのもう一方の最高傑作と称される短篇である。あらゆる可能な組み合わせの文字列の、ほとんど無限に近い数の本が納められた図書館、という設定が読者をめまいと混乱と幻惑と絶望に陥れる。
「ヤコブソン博士は、自分も可能世界解釈派の一人だ、と明かした。同派はユダヤ社会に提案した。新トーラーを造り、世界をナチスもホロコーストも無かったそれに創り変えよう、と。勿論、あんなB級SFの描く世界が、メシアの千年王国の訳がない。多くのカバリストはそう思っていたが、ホロコーストの傷が余りに深かったのだろう、少なくともホロコーストを回避出来るだけでも、それを試す価値はある、一方でそうも思っていた。――そうして、多くのユダヤ人が賛同の意を示し、世界中のユダヤの大資本と頭脳が、それの実現のために参集した。
「――『水晶の夜』と呼ばれる事件を、ご存知でしょうか?」伏し目がちに、重く溜めた何かを押し潰すように、博士が言った。
「勿論。存じ上げております。――確か、大戦の始まる少し前、38年に起こった事件ではなかったかと、記憶しておりますが、……」
「私は、あの夜の出来事を経験した者の一人です。――当時私は、まだ十代の少年でした」

『水晶の夜』事件は、突撃隊等を用いてナチの仕掛けた、反ユダヤの官製暴動だった。ドイツ全土で、多くの住宅、商店、シナゴーグ、学校等が打ち壊され、焼かれ、100名近くのユダヤ人が殺された。警察はこれを取り締まらず、消防は消火活動をしなかった。大量に割られたガラス片が月明かりに水晶のように煌めいたため、ゲッベルスがこんな命名をしたのだという。――それにしても、事件当時10代だったとすると、今の博士はまだ30歳そこそこということになる。顔の殆どが髭とメガネと額の十字で隠れた、年齢不詳の人物だったが、意表をつかれるほど若かったのだ。
「あの夜私は、ベルリン市内の親戚の経営する食料品店で、店番をしておりました。店番の駄賃のチョコレート菓子を、楽しみにしていたのです。

夜更け、遠くで大勢の人達の声が、沸き立ち始めました。狼の遠吠えのような、獣じみた声でした。それが徐々に近付いてきました。声に混ざり、破壊する音、――木材を打ち折る低い音や、ガラスを叩き割る高い音が、耳に響いてきました。

そしてついに、ショーウインドーの向こうに、突撃隊員の狂ったブタのような赤ら顔が、一つ、二つ、三つ、四つ、五つと、照らし出され始めたのです。――その内の一人の、こちらを振り向いた憎悪のブタ顔と、私は視線が合ったと思いました。すぐ、棚の下へ身を屈めました。そして見付からないよう、息を殺していた。

破壊が、始まりました。まず、ショーウインドーのガラスが粉々に砕かれ、正面入口が形を留めず打ち破られ、棚や商品が次々引き倒されていきました。乱入してきたブタ顔達は、五人、十人と増えていく。私は、しゃがんだままソロリと移動し、ようやく裏口から家の外へ出ることが出来ました。ところが運悪く、何事かと思って私と入れ違いに店に出てきた叔父が、連中に捕まってしまいました。裏口で叔父の声を聞いた時には、もう間に合いません。大量の食料品の代金として、叔父は全治三ヶ月の重症を受け取りました。私も見付かっていたら、同じ目にあっていたでしょう。その夜同じ町内に、叔父と一緒に入院した人が二百人はいましたから。

事件の後、両親は私をイギリスへ留学させることを決めました。偶然、都合のいい縁故があったのです。両親は、子供だけをまず疎開させ、自分達は状況を見て、自分の仕事や財産とナチの動静とを天秤にかけ、タイミングを計って脱出する積もりだったのでしょう。多くの他の人達、親戚や、友人や、知人達も、同じ腹積もりだったようです。そして、皆が皆、タイミングを逸した。私のドイツでの知り合いは、ただの一人も、生還しませんでした。誰とも、再会する事は出来ませんでした。

――イギリスへ一人で旅立つ時、私は大変な不満を抱いていました。何で自分一人が、他の知り合い達から切り離され、知る者の誰もいない中へ放り出されねばならないのか、と。殆ど理解出来ない英語の中で一人暮らす数年の間も、私は不満で一杯でした。――だが、あの何気ない、不満だらけの別れが、彼等全員との最後の別れになった事を、後で思い知らされることになる、……。

悔やんでも悔やみ切れない、あの無為に過ごしたイギリスでの数年間。国際情勢の緊迫化と戦況の悪化が、私を後悔の谷底に突き落としました。両親の深い配慮が、初めて肝に沁みました。戦後、ドイツに帰国して彼等を必死で探しましたが、誰一人として見付け出す事は出来なかった。絶滅収容所に送られたという足取りが確認されるばかりで。――そして、彼等を取り戻したい、彼等と再会したいという思いが、私の心の全てに居座って今日まで来てしまったのです」

博士の苦い思い出話は、カバリスト達の思いを代弁して余りあった。
「『水晶の夜』、ですか。――確か『沈黙の第三帝国』の中にも出てきましたね、そんなエピソードが」
「ええ。――現実の『水晶の夜』も、あんなファンタジックな出来事だったら、どんなに幸福だったでしょうか。――それとも、スイスのアルプスの上から下界を眺めた時には、同胞が辛酸を舐めている事件が、あんな風に美化されて見えていたとでもいうんでしょうか」
「――しかし何故、『沈黙の第三帝国』なのです。あんな三文SF、……」私はヤコブソン博士に鋭く問うた。「どうせ歴史を変更するのなら、ローマ帝国時代の1、2世紀に起こった大反乱、……いや、バビロン捕囚のさらに前、アッシリアによるイスラエル王国滅亡と失われた十支族の時代まで遡って、ソロモンによる繁栄期のすぐ後から、その繁栄がずっと続くように歴史を書き換えればいいものを。そうすれば、三千年に及ぶ至福の王国、さらにその先も神まで続く王国が、築けるかもしれないでしょうに」

博士は答えた。「トーラーの書き換えには、大変な困難が伴うのです。変更の要素は、少なければ少ない程、いいのです。――それでも、とてつもなく困難な作業なのです」

博士によれば、だからこそウィトゲンシュタインが選ばれた、という。そもそも、ヒトラーとウィトゲンシュタインの二人の誕生日は、たった6日しか違わない。ヒトラーが1889年4月の20日、ウィトゲンシュタインが同年同月の26日だ。そして二人は、同時期同じ学校に在籍していた。だから二人の運命は、極めて交錯させやすく、付け換えやすい。さらに、ヒトラーはもちろんだが、ウィトゲンシュタインも有名人だから、多数の伝記的資料が残っている。――もう一つ、余禄がある。ウィトゲンシュタインが分析哲学の創始者の一人であったという点である。ウィトゲンシュタインの人生が変わり、彼が哲学者でなくなると、そのピースの抜け落ちた分析哲学はまるで別物に変容するか、そもそも存在しなくなる可能性すら生じる。すると、可能世界の考えが生まれる確率も小さくなり、それに触発された『可能世界解釈派』自体、出現しなくなる。これが、この計画にはかえって好都合である、という。なぜなら、世界が変わってしまったことに、疑いを抱く者がいなくなるからだ。一度変えた世界を、再度変え直そうという者の現われる可能性を、低く抑えられる」

日頃の癖で、私は佳境に入ったと思われるボルヘス師の話のキーワードやフレーズを、いつしかメモに採り始めていた。師の話は、いつ重要な山場が来て、いつ収束するか、油断がならない。だから、メモの習慣は欠かせない。師には無論見えていなかろうが、後で確認を求められた時、これらのメモが役に立つ。『可能世界解釈派』『世界の設計図』『沈黙の第三帝国』『神の図書館』『水晶の夜』『ウィトゲンシュタインの誕生日』―― ――
「新トーラーを生み出すための作業、――博士の言う通り、これが大変な代物だった。

関係を図式化してみると、――現トーラーから現在の史実が生み出され、これらには照応関係がある。同様に、新トーラーから『沈黙の第三帝国』の世界が生み出され、これらにも照応関係がある。そして、現在の史実を、『沈黙の第三帝国』のそれに変更したい。――以上の方程式から、新トーラーの文言を弾き出すわけだ。

カバラーの技法というと、中世来の、ノタリコン、ゲマトリア、テムラーといったものがすぐ念頭に浮かぶが、博士はそれらを「牧歌的」と呼びせせら笑った。それらは、恣意的であり、人間の価値観によるバイアスが掛かっており、まるでお話にならないという。神から現世へと霊性の流れ落ちるという10の『セフィロト』の経路また然り。それらはまるで御伽噺であり、――今必要なのは、物理則の如き真理であり普遍性である、と博士は厳しく言い放った。

ではどうするのかといえば、――トーラーと世界の照応を真理・普遍性に基づき探求する時、対象となるのはあらゆる諸物、現象、要素、概念等が、互いに含意し合い、絡まり合った塊だ。それらの仕組みは、もはや“人智”の遠く及ばぬものとなるだろう。――だから、理屈はすっ飛ばして、結果だけを得る。途中の理論は不明のまま無視して、新トーラーだけを手に入れる。すなわち、現実の史実や、現物のトーラーや、『沈黙の第三帝国』や、ヒトラー・ウィトゲンシュタインの伝記や、それらの超ビッグデータをコンピューターに丸ごと入力し、照応を相関させ、ただ新トーラーのみを出力させる。――彼等はそんな戦略を考え出した。

しかし、それを実現するには、現在のスーパー・コンピューターの能力でも遥かに及ばない。――だから彼等は、量子コンピューターの開発を精力的に進めているという。全ユダヤの資力と知力を投入して。――現代の魔術師は、量子コンピューターを使うのだ!」
「量子コンピューター、ですか」理数系に弱い私も、その名前は聞いたことがある。だが、まだ随分未来の夢物語だと思っていたが。
「可能世界の物理版ともいうべき多世界を利用する量子コンピューターまで持ち出しては、既に可能世界に片足を突っ込んでいるのも同然だと、私は思うのだが、――ヤコブソンらは本気だった。「世界のあらゆる可能な事象とトーラーの符号との照応を瞬時に解析し尽くすためには、量子コンピューターこそ相応しい。何故ならこれこそ、関連する多くの可能世界を束ねる、ターミナル・デバイスそのものなのですから」博士は説明した。博士が隠れ家でせっせと作っている、あの吹き流しの束が脳裏に浮かんだ。「可能性の全てを網羅するなど、人間ワザで出来ることなのでしょうか?」“無限”や“永遠”を思索することと、長年連れ添ってきた私だ。そう質問する権利は、私にこそある。「あくまで近似計算になりますが、それを可能とする解析法があるのです」ヤコブソンは、自信に満ちていた。そして、あの“カバラーの字引”の正体も、明かしてくれた。――あれは、量子コンピューターを駆動させる基底となる、最初のステップの“量子コンピューター用のアルゴリズム集”だったのだ! コンピューターの開発と平行して、研究が進められていたらしい。そして、最初の試行版が完成し、限定部数刷られ、各国のユダヤ・コミュニティーに配られた。残部はイスラエル中央銀行の金庫室に厳重に保管された。――ただし、敵対するナチ残党の多数集結するアルゼンチンには、配布は見送られた。ナチの手に渡ることを恐れたのだ」

ボルヘス師らを散々振り回したあの奇妙な“字引”の正体が、コンピューター用“アルゴリズム集”? 私は呆気に取られながらも、この言葉をメモ紙の中央に慎重に書き加えた。キーワード同士の関連が深化するにつれ、この世界はどうなってしまうのだろうという黒い不安が、胸の奥、横隔膜の辺りから急速に沸き立ち始めていた。
「ナチが字引を手に入れたとして、果たして奴等にあれの解読が出来るのか、疑問だが、何せエニグマを開発した奴等のこと、決して侮れない。もしユダヤ側の意図が分かれば、ナチも消されるわけにはいかないから当然妨害してこようし、それどころか最悪の場合、トーラーによる世界書き換えを逆に悪用して、奴等の敗北した世界史を書き換え、ユダヤ人が絶滅させられた、ナチが絶対的な勝利を収めたナチ第三帝国の千年王国さえ実現されかねない。

だが、地元のカバリストにも、字引が配布されないことへの強い不満があった。これでは、研究が進まない、計画に参加できない、と。――そこで、多くの懸念する声を押し切り、ただ一冊のみ、秘密裏に持ち込むことが許可された。――しかしこの持ち込みには、当初から黒い噂が付きまとっていた。その一冊は、あるいはそのコピーは、ナチに、高額な報酬等と引き換えに、引き渡されるのではないか、裏切り者により。

ヤコブソン博士は、厳重な監視のもと、博士自身にもわからない場所に、軟禁状態に置かれた。誰が100%信用できるのかは誰にも分からなかったので、字引は変わらず博士が所持していたが、博士自身もそれを持ち出せなかった。研究会には、ごく一部のコピーのみを持参して、目隠しされて出向いていく。そしてまた目隠しされて、秘密の隠れ家に戻された。その隠れ家の場所を知る者も、必要最少限の者に限られた。

ヤコブソン博士は、持参したトーラーに片手を置き、『ヤーウェ』の名を唱え、呼び掛け、宣誓してから話してくれたよ。そのトーラーは、彼がいつも祈りの時に使っているものだということを、私は先刻承知していた。包み隠さず話してくれた、と思う。でなければ、契約不履行者として、永遠の債務不履行に追い立てられる身となるだろう。

それでも彼には、時折フッと見せる、この世を“絵空事”として見ている者の影があった。――私は彼の脳内に、千里眼の探針を刺し込んでいった。ヘブライ文字のアレフベートが、脳内の細胞壁を埋め尽くし、あの大統領の時の数十倍は複雑・難解な様相を見せていた。
「ナルボンヌの老師・盲人イサクの再来とも思えるあなただからこそ、是非ともお願いしたいのです。

私をナチへ引き渡す、手引きをしていただきたい。――もちろん私は、もう覚悟は出来ています。

――大変御迷惑をおかけします。もしそれでも、やって頂けるのでしたら、……」

博士の持ち込んだ偽物の“字引”は、ナチに渡すため周到に用意されたものだった。もし万一ナチがそれを解読したとしても、量子コンピューターはループに陥って永遠に結論を出さない。あるいは無数の計算結果をランダムに出し続ける。そのように調整されていた。――だが、地元のユダヤ人社会も、情報漏洩の阻止を図るモサドも、ほんの上層部を除き、皆本物だと信じて疑っていなかった。
「……どうかこの犠牲のユダを、死地に赴かせて下さい、……」」

 

ボルヘス師は弱々しく数度、咳払いをした。高齢の師が話し続けるには、さすがに物語が長過ぎたのではないだろうか。だが、こちらの心配もお構いなしに、師はさらに勢い込んで、その先を喋り続けた。
「対談が終わり、ヤコブソン博士はまた車に乗せられ、引き上げていった。すぐさま千里眼を使い尾行したが、長い帰路と疲れ目のため、巻かれてしまった。しかし、市の北部郊外に向かったことだけは、確認出来た。――その後もヤコブソンは、相変わらず祈りと研究の日々を続けているようだった。12人の使徒にかしずかれ、『水晶の夜』のバリエーションを量産し続けている。この男は本当に、カバラーの大学者なのか、それともスイスの作家の仲間の、SF作家志望者なのではないのか、と疑いたくなる程だ。それ以外には、外出する事も出来ず、12人以外の者と接触する事もなく、変わった事は何も無い。

せっかく博士を炙り出すことに成功し、色々と事情を聞き出せたのに、肝心の居場所が相変わらず不明のままだった。私は、思案した。射程の短い千里眼を、もっと長距離でも有効に使える方法は無いものか。そこで思い付いたのが、博士の吹き流しの製造法と同じやり方だった。付箋を次々貼り繋いでいくように、これはと思うユダヤのメンバーを尾行し、イモヅル式に次の者、さらに次の者と、相手を切り替え乗り換えロック・オンしていく。ローゼンフェルト氏の周辺と、12使徒と、両者の側から行き当たりバッタリ延ばしていって、とうとうある人物で合致した。ブエノスアイレス市北部で、雑貨屋を営んでいるユダヤ人だった。(あるいは博士の、『水晶の夜』の探索も、『沈黙の第三帝国』のそれと、史実のそれと、両者からバリエーションを広げていって、合致する世界の『水晶の夜』を探しているのだろうか。)その合致点から12使徒側に遡り、遂にあの隠れ家に辿り着いた。――そこは、ブエノスアイレス市北部郊外のリゾート地、豊富な緑と運河に囲まれた別荘地の一角だった。45年のクーデターの折、こそこそ逃げ出したあの男とその情婦が隠れ潜んだ小島に、程近い場所だった。その別荘の一軒に、博士は軟禁されていたのだ。

ナチに情報を伝えることに、私に何のためらいもなかったかといえば、そんなことはない。博士はそれを使命として覚悟を決めていたが、ナチはいつも通りの強引なやり口をためらいなく使うだろう。そうなれば、監視役のユダヤ人や、現場の周囲に、何がしかの惨禍の及ぶことは容易に想像がつく。――が、私は、意を決して、玄関前に立つ亡霊男を、庭木の陰の死角に引っ張り込んだ。レジスタンスの情報をナチに密告する、裏切り者の気分を味わえたよ。博士の居場所、そして博士がナチと接触を取りたがっている旨を、伝えた。――博士を売ったのは、12使徒中のユダではなく、14人目の“私”だったのだ。

それから数日後、恐る恐る、ヤコブソン博士の隠れ家を覗いてみた。やはりナチは、得意の強襲を仕掛けたようだ。別荘はもぬけの殻で、あちこちに弾痕の、惨劇の跡があった。例の台所のスレートは剥がされ、直下の地面が深く掘られ、ただ暗い穴だけが残っていた。

博士とその弟子達は、逃げおおせたのだろうか。死体は一つも転がっていなかった。(ナチとユダヤと、両陣営とも手際よく片付け跡を残さないだろうから、当然といえば当然だが)

その後の博士らの消息はまるで分からなかった。あるいは当初の予定通り、大金をせしめ、名を変え顔を変え、見知らぬ奥地に潜伏しているのだろうか。あるいは、既に殺され、本だけ奪われたのだろうか。ナチのやりそうな事だ。千里眼で捉まえられない点からしても、こちらの方が可能性は高そうに思えた。

ところがそれから、一ヶ月程も経過した頃だった。しばらく姿を見せなかった亡霊男が、ヒョッコリ現れたのだ。

奴は手に持っていた紙袋を、無造作に放ってよこした。中には、カイヨワの盗まれたバッグとノートが、入っていた。「カイヨワ先生、近々フランスに帰国するらしいな。――とりあえず、返しておくぞ」

奴の言うところでは、例の“字引”である可能性が疑われたので、一応確認したらしい。――後、ローゼンフェルト氏から聞いた話だが、実は当時ユダヤ人の近辺で、書籍や文書類の盗難が頻発していたという。ナチが手当たり次第に、これはと思うものを確認して廻っていたのだろう。

カイヨワは、ノート内の情報がナチに知られてしまう事を、酷く恐れていた。「で、カイヨワ氏のノートは、参考になったかね」それとなく、“探り”を入れてみた。――フフン。亡霊男は、鼻で笑ってみせた。
「何故律儀に、返す気になったんだ。ただ処分してしまえばいいものを」続けて訊くと、――「警告のためだ。つまらん火遊びはするな、とな」

ノートを返し終えると、奴はさっさと引き上げようとするので、私はあわてて引き止めた。ヤコブソンらのその後を聞きたかったのだ。
「あの件の首尾の方は、どうなったんだね?」

亡霊はフラリと立ち止まり、しばらくユラユラと考えていたが、やがて振り返り、「あんたは余計な事は、知らない方がいい。その方が、身のためだ」

しかし私は、しつこく食い下がった。ある程度の身の危険は、覚悟していた。聞き出すのは、義務だと思った。せめて私一人でも、彼等の最期を知ってやらねば。

やがて亡霊は、根負けしたのか、意を固めたようだ。
「オレが何を話そうが、あんたは信じやしないだろう。――だが、それでもいいのなら、――教えてやろう」

亡霊は、私の勧めた椅子に座り、立ち話では済まぬ話の準備が出来たようだった。
「連中のアジトは、厳重に戸締りされていた。外にはネコの子一匹いなかった。博士自ら我々を招いた以上、我々の到来は時間の問題と、準備を怠らなかったのだろう。

礼儀正しく玄関の呼び鈴を鳴らし、出てきた男を即拘束した。そして、その男を人質に取りつつ、室内に突入して威嚇の乱射を行った。――だが、室内にも、応対に出た男を除き、他に人影は無かった。どこかの隠し部屋に、皆身を潜ませ、こちらの様子を伺っているようだった。

捕らえた男は口を割らなかった。仲間の隠れ場所を白状するくらいなら、死んでも構わないと覚悟を決めていたのだろう。――だが、博士自らが、奥の台所の方からゆっくりとこちらに近付いてきた。そして、言った。交渉を始めよう、と。

“字引”を高額な謝礼と引き換え、博士の逃亡の手助けをするという、交渉の骨子はすでに決まっていた。博士はそれに、このアジトの世話係だった12人のユダヤ人の命を上乗せしてきた。――我々は当初、このアジトの事を知る者はなるたけ全て口封じし、我々が字引を手に入れた事が知られるまでの時間稼ぎをしようと思っていた。だが、博士が言うには、ユダヤ人達は情報が集中しないよう、情報を分散して所持している。だからこのアジトの事を常時監視していたのはここにいる12人だけで、彼等がいなくなれば事件が知られる事は当分無い。そこで、12人の助命を、“字引”引渡しの条件に付け加えたい。彼等を私と共に逃亡させて欲しい。そう、申し出てきた訳だ。

監視役を篭絡したのか? 訊くと、――ただ、信じ合えただけだ。そう答えた。

博士の要求は強硬だった。もし拒否されれば、字引を渡さない事は勿論、自分も彼等と共に死ぬという。

オレは思案した。12人、あるいは13人を、殺したものかどうか。――当初から、博士は生かしておく積もりでいた。もし手に入った“字引”に、何等かのトラップが仕掛けてあった場合、博士をどこまでも追いかけていって追求し、元を取らねばならない。そのためにも、生きていて貰わねば困る。――しかし、他の12人は、――ただのユダ公の目撃者に過ぎない。本来なら、即口封じしてしかるべき連中だ。

二つのことを、天秤にかけることになる。――連中を殺せば、博士の心証は悪くなる。協力は得にくくなろう。生かしておけば、どの口からかたれ込まれる心配が残る(博士は、それは絶対無い、保証する、と言うが)。その代わり、12人を博士に対する人質として、使う事は出来る。

部下が台所脇に、地下の貯蔵庫へ下りる隠し階段を見付けた。玄関で拘束した男とヤコブソンを除き、11人がそこにいた。――怯えた固まりを造っていた。純朴そうな、子羊の群のようだった。――ヤコブソンともう一人も加わり、一層内側へ向け結ばれる力が働くようで、この不思議な集団の強い絆を印象付けた。

で、結局、生かしておいてやる事にした。集団の発する印象から、博士の心証を害するリスクの方が、残りの12人がたれ込むリスクよりも、高いと値踏みしたからだ。

――この集団は、アマゾンの奥地への放逐を要望してきた。文明との接触を拒絶した原住民のみ暮らす土地へ、永遠に消えていった。――連中の先頭に立つ者は、何故か旗指し物の先に何十本もの吹き流しをたなびかせ、皆を導いていった。密林の樹冠にその白波が消えるまで、オレは見送った」

私は亡霊男の話を信じた。嘘をつくなら、吹き流しの事など、描写する筈がなかったから」

 

ここでボルヘス師は身を屈め、手近にある一段低い書棚に手を伸ばした。旧約と新約の両聖書が、並べて置かれてあった。その内の旧約を、彼は抜き取った。
「――新トーラーを綴り尽くした後、それを使ってどうやって世界を塗り替えるのか、私はヤコブソン博士に尋ねた。その具体的方法を巡って『可能世界解釈派』内に意見対立があるとのことだった。穏健派は、具体的なビジョンを欠いていた。ただ新トーラーを世界中のシナゴーグに配布して、旧トーラーと並べて安置し、それで終わりだそうだ。世界は、自然と、徐々に、変化していくのだろうか。一方急進派は、明確なビジョンを持っていた。だがそれは、到底ユダヤ人達の賛成を得られそうもない、過激な方法だった。

対談に使われたホテル最奥の豪華な応接室の壁には、20世紀前期メキシコの女流画家フリーダ・カーロの、50センチ四方程の小振りな絵が掛けられていた。日食に沈む、イエス(顔は、フリーダそっくりだった)の黒い十字架が描かれていた。そしてヤコブソンの掲げる十字架も、その時恐ろしく深く刻まれ、闇のように黒く沈み込み、――二つの黒い十字架が、私には全くの相似形に見えてならなかった。ヤコブソンは、恐る恐る、急進派の選んだ手段について語った。

中世風の魔法のアイテム、女子供が好みそうな、護符とか、呪文とか、賢者の石とか、魔法陣とか、泥人形とか、黒い雄鶏とか、そんなものを使う方法は、論外だった。――彼等の選んだ方法は、『トーラーの差し替え』だった。トーラーの実効性は、ただ一点、トーラーの存否そのものに因る。だから、全ての旧トーラーを、“焚書”してしまえ、というのだ!

これでは到底、多数派のユダヤ人の賛同は得られそうもない。トーラーを焼くなど、ナチを筆頭とする異教徒達と、同じ所業ではないか。彼等は異端視され、地下に潜伏したようだ。ヤコブソン博士も、この急進派の一員だった。つまり博士の失踪もまた、潜伏が目的だったのだ。――それでも彼等は、この計画を諦めてはいない」

師は、手の内の旧約を、ポンポンと叩いた。
「さあてその後、この“内ゲバ”の決着は、どう付いたのだろう。ニセモノを掴まされたマヌケなナチなどより、こっちの方が遥かに重大な問題だ。

もし差し替えが完了しているのなら、この本の中身が書き換えられている事になる。――だが、たとえ書き換えられたとしても、我々はそれに気付くことはない。これが、古い旧約なのか、新しい旧約なのか。――世界や、歴史や、我々の記憶もまた、書き換えられてしまうからね。

しかし我々にはいまだに、ナチやホロコーストの記憶がある。ということは、彼等は失敗したのだろうか。内ゲバは、穏健派の勝利で終わったのか。

――実はまだ新トーラーは完成していないのだ、とも考えられる。世界のどこでも、実用的な量子コンピューターが完成したなどという話は聞いたことがない。それに、あるカバリストの数学者の計算では、たとえ量子コンピューターを使っても、計算が終わるまでには、10億年のそのまた10億倍の歳月を要するだろうという。何しろ全人類史規模のルービックキューブを巻き戻すような、気の遠くなる作業なのだ。

またあるカバリストの脳科学者は、たとえ旧トーラーを全て焚書し尽くしたとしても、人の記憶にそれが残っていれば、差し替え終えたことにはならないと指摘している。これを解決するには、トーラーを記憶している人を全て抹殺するか、あるいは死に絶えるのを待つしかない。だが、殺してしまっては、ナチの小ホロコーストを救済するため、ユダヤ人が自ら大ホロコーストを起こすことになる。とんでもない、本末転倒だ。

――この決着は、どういう形で付くのだろうか。――獣同士の喰らい合いは、どの獣がどの獣を喰らい尽くすのか、まるで見当がつかない。ここまでくると、全くの“闇の中”だ」

ボルヘス師は旧約を高く掲げ、もう一方の手も同時に上げて、“お手上げ”の格好をした。トーラーを巡るユダヤ人の葛藤は、ヤコブソン博士から“慧眼”と讃えられたボルヘス師を以ってしても、結末の見えぬ混沌のようだった。

 

師は再度、脇の書棚に身を屈め、旧約を戻すと、今度は両約の隣りに並べてあった別の本を抜き出し、手に取った。旧約より、遥かに小振りの本だった。
「カバリストやナチ達の起こした一連の騒動が、私に決定的なヒントを与えてくれた。――一体自分の身に何が起こっているのか、この頃ようやく分かりかけてきた。――奴等の騒動に関わったことは、決して無駄じゃなかった」

手の中の小冊子を、師はパラパラとめくり始めた。――ところが、その動作が、いつまでも止まない。ほんの薄い小冊子なのに、本のページは小さくはぜる音とともに、いつまでも師の指からこぼれ出してくると、私には見えた。――まさかこれが、無限に続く訳じゃあるまいな。だとすれば、この小さな本の中に、あらゆる事象がすでに書かれている事になる。
「―― ――

――別に、『トーラー』など、必要なかったのだ!」

冊子を繰り続けながら、師は唐突に、そう言い放った。さらに、――
「――私を助けたのは、メフィストフェレスでも、偶然を司るマクスウェルの悪魔でもなく、無限のチャンスを大盤振る舞いする可能世界の悪魔だったのだ!

ナチの亡霊男の仕事は完璧だった。ヤコブソンの隠れ家で見せたように。――だから、私はあの夜、寝室の枕とともに頭を撃ち抜かれて、死んだのだ!

同様に、――窓ガラスと鉢合わせし、敗血症で死んだのだ! 職場の吊るし上げで、刃物に刺されて死んだのだ! 冷凍室で、凍え死にしたのだ! 畜肉用のカッターで切り刻まれ、死んだのだ! 拷問に掛けられ、死んだのだ! フグ毒に当たって、死んだのだ! 町のゴロツキどもの集団リンチで、死んだのだ! ヘリと共にラプラタ河に落ちて、死んだのだ! そして、前立腺ガンが全身に転移し、死んだのだ!」

強く断定する口調で、畳み重ねるような死亡宣言をし終えた師は、一転柔和な表情となり、手にした本を繰るのをようやく止め、行き着いたページを広げてそれに目を落とした。見えていない筈のページを、愛おしそうに見詰め続ける。
「これは私の最初の、ヒット短篇集『八岐の園』だ。短篇集の表題にもしたこの短篇『八岐の園』の中に、既に解答が書かれていた。――君はこの話を、読んだことがあるかね?」
「勿論です」
「……八岐の園に紛れ込んだ者は、あらゆる可能性に無限に分岐する未来のすべてで、存在し続けることになる。無限に分岐する未来とは、全ての可能世界であり、それの物理学的裏打ちである多世界だ。そして、八岐の園とは、この現実世界そのものなのだ。

――ひとつ、思考実験の真似事をしてみよう」
「思考実験、……といいますと?」
「39歳の時、私は敗血症にかかって死にかけた。いや、多分、多くの可能世界で、本当に死んだ。ごく僅かな奇跡として、この私は生き延びた。医者が驚くほどの奇跡の賜物だった」
「確かに、あり得る話です。――もし無限の可能世界の実在を、『可能世界解釈派』のカバリスト達のように、信じるのであれば」
「さっきも言った通り、私は可能世界の存在を、トーラーに結び付けて考えようとは思わない。――彼等はあくまでも信仰者だ。カバラーは、トーラー信仰の上に立脚した学問だ。だから、トーラーを信じぬ者には、それでどうこうなるとは到底思えない、世界に実害が及ぼうなどとは。ただカバリストやナチの連中が、妄想に憑り付かれ、とんでもない見当違いをしていると思うばかりだ。

だが、可能世界そのものの存在は、どうだろうか。――承知の通り量子論では、ミクロの世界で粒子達があらゆる可能な形に分散して、実在している。それをマクロな世界にまで拡張して考えるのが、多世界解釈だ。

例えば、先の大戦の勝敗だ。連合国、枢軸国、どちらが勝ってもおかしくなかった。多世界では、どちらの結果の世界も並列している、と考える。

ところで、大戦時アメリカが日本に落とした、二発の原爆の犠牲者はどれ程だったかな? 憶えているかね?」

ボルヘス師のこの突然の質問の意味を、私は測りかねた。師は何かを、推し量ろうとしているようだった。
「何を、おっしゃっているのです?――あんな核兵器などという、恐ろしいもの。

あんなものを、たとえ脅しのために保有する事があったとしても、――人間が人間に対して使用するなどという事は、到底考えられません!」
「ウム。そうだったな。その通りだ。――ちょっとした思い違いだ。忘れてくれたまえ」

師は、ここで、何かとてつもなく楽しい事を思い出したように、瞼の閉じられた顔に満面の笑みを湛えた。そして、言った。
「あるいは、こんな事もあった、……。

この時期、パラシオス博士と久し振りに会った。“ユダヤ文化キャンペーン”が、佳境に差し掛かっていた頃だ。博士の診察室へ出向いたのではなく、彼の方から私を訪ねてきたのだ。

博士は、一人の若者を伴っていた。博士の教え子で、“医者の卵”とのことだった。何とも暗い表情をした若者だった。こちらの見返す視線まで、重くなって床に落下しそうだった。

博士は、唐突に、「この青年の深い悩みの原因は、君にある! 責任を取ってくれ!」と言い出した。――面食らった私が説明を求めると、博士はこんな話を始めた。
「この子は(と、若者を指差した)子供の頃から喘息の持病があり、何かと面倒を見、相談に乗ってやってきた古い付き合いの患者だ。長じて医者になることを志し、学生の一人として薫陶を与えた。大変優秀な、前途有望な青年だ。ブエノスアイレス大に通っていた頃は、君の故郷でもあるパレルモ地区に住まっていた。そんな縁で、君の作品もよく読んでいたようだが、彼の好みはむしろ、抽象的作風の君とは静かに反目し合う、パブロ・ネルーダのあの深い熱を帯びた詩風だった。余りにのめり込み、一時期は“詩人”になろうかと、本気で迷った程だ。従って、君の作品はむしろ、批判的分析的に読んでいた。

ところが、だ。――ある事がきっかけとなり、彼はそんな冷静に突き放して見ていた君の作品に、今度はネルーダとは逆の“負の意味”で、囚われることとなってしまったのだ!」

ここまで一気に話し、しかし博士は瞬間我に返ったようで、後悔の入り混じった表情で私を見た。私が重病人であったことを、思い出したのだ。(その割には、文化キャンペーンなどでますますエネルギッシュに活動していることを、博士も承知していたが)
「私の作品とは、――どんな?」
「『トレーン』だよ」博士は即座に返事を返した。
「きっかけとなった、“ある事”とは?」
「彼はまもなく卒業する。そして、徴兵検査を受ける。――結果、“軍医”として軍務に付くことになるだろう。あの男の許でだ、――」

あの男。――あの、我々共通の敵である男の許で、軍医として奉仕せねばならない。――そのことに、若者は深く悩んでいたのだ、ここまで暗い顔をして。

若者はある悪夢を、毎晩見るようになったという。『トレーン』の夢だ。君も承知のように、トレーンは、地球とはまるで別種の、不条理な哲学の支配する惑星だ。そのトレーンで、彼は毎夜、軍医としての勤務に当たっているというのだ。トレーンの地のあの男の軍隊で、理不尽な任務にさいなまれ続け、逃れられないという。
「先生は、大統領のでっち上げたあの見え透いた模造品が、現実世界を侵食する様を、どう御覧になりますか。あのハリボテのようなまがい物が、地に足の付いた生活に取って代わろうとする野望を、――」若者が、不意に、動き出した死体のように、私を見上げ、論争を吹っ掛けてきた。
「酷なようだが、――まがい物には自ら進んで呑み込まれよ、――というのが私の答えだな」
「模造品が現実を呑み込んでいく。――『トレーン』も、そういう結末でしたよね」さらに若者は続けた。より勢いを増し。
「妄想が生み出した、多くのまがい物があるだけだよ。地に足付いた生活など、君も信じちゃいないだろ?――問題は、誰の妄想かというだけだ。他人の妄想に取り巻かれるなど、君は真っ平なのだろう。あの男のだろうと、私のだろうと。君は、君の妄想の世界を生きたいと、強烈に思っていると、私は見た、……」ヤコブソンが捻り出した、無尽蔵な世界が思い出された。問題は、その中のどれを、どう選ぶかだ。

――そこで、――私は彼を挑発した。――「国を捨てよ」と。激しい口調と、語彙を以って。――「国を捨て、家族を捨て、婚約者を捨てよ」と。(彼には、婚約者同然の女性がいたらしい)

呆れた風に不快そうな顔で、私を見るパラシオス博士。だが、若者の泥土のようだった顔は、春の日が降るように輝きを取り戻していった。
「呑み込まれるべき世界を、自らが勝ち取り、逆に呑み込んでやるのだ。――あの男の許での軍医など、以ての外だ。――ユダヤの知恵で、カバラーの指し示す可能世界の一つが、君の将来を保証するだろう。トレーンとはまるで別種の、もう一つの未来世界だ」私はさらに続けた。
「実は、心当たりがあるのです」若者が口調を和らげ、告白するように私とパラシオス博士に語った。「友人の誘いで、カラカスのハンセン病病院で働こうかと、密かに思っていたのです」
「徴兵を忌避して、“亡命”ということになるのか?」パラシオス博士は天を仰いだ。愛弟子の多難な前途に、どう助言したものか、言葉を見付け出せなかったのだ。
「それだ! 君は進むべき道の一端を、既に垣間見ている」私はむしろ、彼の思い付きを強く支持した。「ただし、その思惑通りになるとは、限らないがな。――君次第で、もっと別の、遥かに大きな可能世界が開けるだろうことを、私は予言しておこう」

予言者ボルヘスは、このように告げ、若者を力強く送り出した。歴史はここでも書き変わっていくと、実感された。何故なら、この若者の名は、エルネスト・ゲバラといったからだ」

 

「――さて、多世界解釈に、話を戻すとしよう。

量子論では、多世界といっても、それらの存在は確率的な濃淡を持つ。無限であるが濃度がある。まるで、カントールだね。――もっとも、プランク・ホールの一派に言わせると、あらゆる可能世界を創るために、可能な数だけ世界を創るなど『牛刀割鶏』も甚だしい。ホールのあらゆるネットワーク・パターンを想定すれば、もっとエレガントに、多世界と同義となる、……」
「エレガントな、可能世界ですか、……」
「そう。――おかげで私は、エレガントに生き延びたよ。

以下同様に、集団リンチの時も、冷凍室の時も、フグ毒からも、ナチの銃弾からも、……私はエレガントに生き延びた」
「しかし、……それは単に先生が、……たまたま物凄く運がよかったからだけなのでは、……」――言っていて、自分がとんでもなく“マヌケ”な事を言っているのに、気付いていた。
「その通り。――私はたまたま、運良く生き延びる、ラッキーな可能世界の住人だった。――だが、自分から、主観の側から見た世界以外に、私にとってどんな世界があるというんだね。――そして多分、どんな逆境にあっても、人は、何らかの生きる可能性を残している筈だ。――だとしたら、私は一体、いつになったら死ねるのかね?」

反論の言葉がなかった。――もし可能世界が、多世界が実在するとしたら、……。――人は、――死ぬことが出来ない?

主観の側から見た世界こそ、その人にとっての世界なのだから、世界はシームレスに、その人の生はシームレスに、続いていくことになる。
「私のこんな考えは、カバリスト達の妄想と同類だと思うかね? ただトーラー信仰の妄想が、量子論信仰に置き換わっただけだと」

明るい口調で私を試すように、師が尋ねられた。
「ウーム。正直、判断つきかねます。――余りにとんでもない、結論に至りますので、……」

師は、ハッハッハッと、声に出して大いに笑った。「率直で、よろしい。それが、真っ当な判断というものだ。――多分、オッカムのウィリアムでも、同じように答えただろう」
「では、この世界は、この宇宙は、――あなたの主観の中の世界だと、お考えなのですか?」私は、観念論的な反論を、試みた。
「いや。無論それは、正確ではない。―― 少なくとも、君と私、二つの主観は、今ここに共存している訳だから」ボルヘス師は、即座に答えた。「だがこうした共存は、一時的な気まぐれ、偶然の産物に過ぎない。主観同士は出合い、そしてまたすぐ別れることになる。――だから他者から見た私は、生き続けてもおり、死に続けてもいる。

――敗血症やフグ毒やナチの弾丸では、多くのボルヘスが死に、少数のボルヘスが生き残った。――反対に、突然の心臓発作やテロとの遭遇や隕石に直撃されるといった事では、少数のボルヘスが死に、多数のボルヘスが生き残ることになる。――しかし、毎秒毎秒、隕石に直撃されて即死しているボルヘスが、現にいるのだ。そして、今君の見ている目の前で、私は“突然死”し続けている、……」

師の話に強いめまいを覚えたが、――やはり、言い返す言葉がない。
「当然、全ての客体物は、滅びる。――だが、その対極に、自分を保ち続けている、主観たる私がいる。――つまり、全ての主観は、滅する事が無い。一度生れ落ちた者は、永遠に死ぬ事が出来ない。

『人間原理』ならぬ、『主観の原理』とでも呼んだらいいのだろうか。『人間原理』では、人は、人を生み出す極めて特殊な宇宙を、ごく有り触れた宇宙だと思い込んでしまう。同様に、『主観の原理』では、主観の側は、自分が生かされている極めて可能性の低い世界を、ごく有り触れた世界・人生だと思い込んで、そのまま生き続けるのだ。

――『死ねるもんなら、死んでみろ!』と、誰かに宣告されているような気がするよ」

 

私は思考の整理がつかぬまま、しばらくの間全身が固まってしまっていた。――そうなる事はとっくに見越していたのだろう、ボルヘス師はゆったりと笑いながら、いつまでも私を待つように、沈黙を楽しんでいた。

やがて、極地の巨大な氷塊が融けるように、師は言った。
「この話は、まだ続きがあるのだが、――聞く準備は、あるかね?」
「ええ。――大丈夫です」私は、何とか答えた。
「ウム。ならば、良し」

師は再び、ゆっくりと物語を語り始めた。「こうして私は卑劣にも、ヤコブソン博士をナチに売り渡したのだが、あの男はそんな私を上回って、卑劣だった。私との約束を、反故にしたのだ。

奴にははなから、約束を守る気などなかったのだろう。いやむしろ、政敵を倒す好機とすら、思っていたことだろう。そんなチャンスを、奴が逃すはずがない。のらりくらりと契約の履行を先延ばしし、私が弱って、病床に臥すのを、ただニヤニヤ笑いながら待っていたのだ。

だがそんな時、あの男の情婦の病も、発見された。――“人を呪わば穴二つ”、とでもいうのだろうか。私とあの女の運命は、“照応”していたのか。あの男にとって、最も憎むべき敵と、最も愛すべき女と。

私は自分の体内の様子が、知りたくてたまらなかった。既に、男や、女や、ヤコブソン博士の脳内を、覗き見た経験はある。千里眼を用いて、病状がどこまで進行しているのか、知りたかった。集められる限りの医学書等で、前立腺ガンについての知識を詰め込んだ。どこからどう侵入し、どういうコースをたどれば、病巣と、転移先を、漏れなく精査できるか、周到な計画を立て、事に臨んだ。自らの中へ、“ダイブ”した。

――実は、『ミクロの決死圏』という、当時大当たりしていた映画で見られたような光景を、期待していたのだ。――だが、そこにあったのは、一面に文字の彫られた、壁の谷間だった。

文字は、私にとって馴染みの、ラテン文字で綴られていた。ヤコブソンの脳内のような、ヘブライ文字ではなく。――だが何故、ここでも文字なのだ? 脳内ならば、思考内容がフキダシのようにして見えたことにも、まずまず納得がいく。だが、何故胴体内に詰まった内臓の断面まで、文字の壁なのだ?

私は文字列で埋め尽くされた内壁に、周囲をグルリと取り囲まれた。それは私に、『セフェル・イェツィラー』の描写を、思い起こさせた。あのカバラーの始原の書の中に、ヤーウェは、文字の刻まれた壁を輪のように配置し、それを動的に回転させつつ、文字の並べ替えを試し試し世界を創られた、とある。生き物のように(生き物なのだが)躍動しつつ、私に迫り、また引く、のたうつ壁は、次々と情報を書き換えながら、私に何かを訴えかけてくる。

それは、未知の言語、未知の統語法だった。意味は読み取れないが、アルファベットだから、無論発音は出来る。幾つか試しに声に出してみたが、なかなかに心地良いそれである。――私はつい、夢中になって、前立腺ガンの探索をするという当初の目的を失念し、あちこちの文章を吟唱することに没入してしまった。

数十分、といった間だろうか、そんな戯れに時間を使ってしまった。そうこうする内、文字列の中に、どうにも韻律の座りの悪い箇所が幾箇所か見付かり、それらが気になって仕方がなくなった。――自分なら、こう綴るだろう、と“推敲”すると、その刻まれた文字が、私の思った綴りに変化していく!――これはいいと思い、気になる箇所をどんどん推敲し、書き直していった。

やがて韻律だけの詩作に疲れ、私は千里眼を解いた。――思わぬ事態に、つい無駄な遊びに大事な千里眼の時間を当ててしまった。――ところが、だ。妙なことに気付いた。あれだけ千里眼を酷使したにもかかわらず、いつもの“疲れ目”が一向に感じられない。おまけに、このところ難儀していた肩凝りと腰痛が、ウソのように消えている。――あの、体内の文字列の“推敲”には、疲労や痛みを取る“マッサージ”のような効果があるんだろうか。おぼろげに私は、そんな事を考えていた」

我が師は指で、宙に文字をなぞるような仕草をした。推敲した韻の幾箇所かを、思い出しているのだろうか。

一方で文字をなぞり続けながら、同時に話のその先を喋り続けた。
「その後も何回かダイブを試みる内、“推敲”と“体調”をつなぐ因果関係、マッサージのコツのようなものが、少しずつ飲み込めてきた。我が“記憶術”により“カバラーの字引”を読み込んだ経験が、いいトレーニングになったようだ。

そこで、思い付いた。――体内に満ち満ちた未知の言語の読解には、カバリスト達の研究成果、あのヤーウェの刻み付けた文字を読み取ろうとしている彼等の努力の結晶が、有効なのではないか。

――私は再度、『イスラエル中央銀行』の金庫室に侵入した。そして、金のインゴットの山などには目もくれず、目当ての字引の在庫本を、前回よりもさらに丁寧に、数倍の時間をかけて、“参考資料欄”の最終ページに至るまで盗み読みした。世界各国・各地を渉猟し、カバリスト達の多くの論文、研究成果の類を、次々踏査していった。そしてそれらを互いに掛け合わせ、いじくり回して、私流の考察をとことん突き詰めた。――『可能世界解釈派』内の両派の暗闘のその後について色々知ったのも、この踏査の折のことだ。

“焚書を画策する最悪の異端者”は、仲間の内に水中の異分子の如く紛れている。誰が異端思想に染まっているのか、見分けがつかない。――悉くを炙り出し、追放する必要があった。異端審問が続けられた。――一方、“計画を放棄した偽善者”どもを追い落とさんとする、“誠実な者達”の闘いは、より困難を極めた。彼等は、“オリジナル消滅”という戦法を取った。既存の電子データ、新しく出版される書籍類には、少しずつ手を加えていく。既に出回っている、シナゴーグ、図書館、本屋、個人所蔵の聖典には、静かなテロル、つまり人知れず行われる局所的破壊行為(ページの切り取りなど)を、執拗に繰り返し行い積み重ねていく。こうして、あらゆる旧トーラーを、バグだらけにする。すべてに、少しずつ、差異を持たせる。どれがオリジナルか、人々が確信を持てないようにするためである。暴力的焚書は到底無理と判断したため選ばれた、苦肉の策だった。このため、正統派はトーラー防衛のため、オリジナル(と思われる)トーラーを延々コピーし続け、“誠実な者達”は正統派の確信が揺らぐまで、バグを挿入し続けた。――二重螺旋の回転のように、二匹の獣は、互いの後を追い回し、牽制し合い、無限の深みへと落ちて行きつつあった。

――こうした探求や考察と平行させつつ体内ダイブを重ねる内、未知の言語の文言と、我々の世界の“意味めいた”ものとの間の、“照応”関係が感じ取れるようになってきた。あくまで、“意味めいた”ものに過ぎないが。到底、ある意味をなすある言葉、とまで断ずるには、程遠い。――カバリスト等の、トーラーが世界の設計図だとする大前提は、根拠不詳だが、彼等の“方法論”そのものは、間違っていなかったという事なのかもしれない。

何度目かのダイブでは、こんな経験をした。――単語らしきものの内には、私にとって馴染み深いものもあれば、随分と疎遠なもの、まるで知らないもの、知らない知性が生み出したらしきもの、そも知性が生み出すべきでないもの、さらにはまだ単語になっていないものなど、豊富に含まれていた。そしてそれらをつなぐ統語法は、人類が工夫し開発してきた統語法よりも、複雑に入り組み、ダイナミックでアクロバチックで、無限と矛盾を多用しており、人類の到達した数理論理学の範疇を遥かに超えていた。――自分が一瞬、開発を先取りした、生体量子コンピューターになったような錯覚に捉われたよ。なるほど、“トーラー”を読むとは、こういう事か、と……」

ボルヘス師は両手の人差し指を使い、それぞれ宙に別の文字を描き始めた。内壁の文字の統語法を読み解いた時の自分を、追体験しているのかもしれない。

その動きが段々せわしくなっていった。ついには、十本の指の全てを使い、まるで老練なピアニストのように、十列の文章をそれぞれ綴り始めた。
「言語や文字とは、本来、人間のフォーマットの上に成り立つ上部構造の筈だろう? だが、その時目の前で展開されていくそれは、人間のフォーマットを経由せず、世界のパターンから直接書き出されているもののように思われた。従って、多くの異質なフォーマット、未知のフォーマット、地球起源の系統とはまるでかけ離れたフォーマットが、多数混在しているようだった。それらが、少しずつズラされ、あるいは大きく飛躍され、あるいは次元の違う方向からまとめられ、私に理解を迫った。

ダイナミックにページがめくられ続ける世界の根源文字は、あたかもとてつもない文才の大作家が猛烈なスピードで文章を書き綴っているようで、私に『セフェル・イェツィラー』に描かれた神の世界創造の様、「アレフにあらゆるアレフをつなぎ、ベートにあらゆるベートをつないだ」という描写を思い起こさせた。とすると、神の執筆の後を追い、チマチマと推敲している私は、さながら大作家付きの新米編集者が超大作のほんの一部を恐る恐る校正しているようなものだろうか。

それでも、私のチマチマした推敲は、世界の大勢には取り立てて影響しないが、私個人には大変な効能をもたらした。――分子の調整でアミノ酸の配列が変わり、蛋白質の折り畳まれ方が変わった。蛋白質の歪な表面の変化は、それの離散集合のパターンを変え、細胞内外微細粒子の流量を変え、体液の流れを変え、多くの細胞の攻防を運命付けた。私は明白に意識的に、それらの交通整理をしていた。

――ガリレオは世界は数学という言語で書かれた書物であると看破したが、私はその書物を、遡って原稿の段階で編集するワザを体得したらしい。――ダイブから戻った私は、それを『推敲“念動力”』と名付けた」

量子コンピューター用のアルゴリズムを吸収したボルヘス師の脳は、ちょっとした生体量子コンピューターとして機能しているということなのだろうか? 世界を丸ごと創り変えるまではいかないが、極局所的な現象の配列を組み替える程度ならば出来る、ということか?
「私にとっての世界とは、文字通りの動的書物なのだ。ガリレオが使ったような“比喩”ではなく。盲目になってから、光子による視覚受像が途絶えてから、それは決定的となった。フォーマットの書き換えと言っていい程に、劇的なものだった。全てが文字で構築され、それが縦横に動き回り、新たなテクストを生んだ。私はそれらを、“千里眼”と“記憶術”を使い、読みまくり、取り込みまくった。そこに、“念動力”が加わった。私にとっての“念動力”とは、“書く”能力そのものなのだ。“読み”“記憶”する能力に、“書く”能力が、追加されたわけだ。“リテラシー”の基本だな。――ただし、私にとっての本とノートは、“世界”そのものなのだが、……」
「先生は、もしかすると、――」私は素っ頓狂な声で、師の話を断ち切ってしまった。「今現在も、世界を文字言語で読まれているのですか?――私も、アサンタさんも、……カップの紅茶も、マーマレードを塗った菓子も、……その味も、――このアパートの空間も、家具や本達も、ブエノスアイレスも、この国も、……。

――とすると、私やアサンタさんへの対応は、――文字によるフォーマットを、人間のフォーマットに翻訳している、という事になるのでしょうか!」

ボルヘス師はただ、ニヤリとしただけだった。

 

「再度、あの情婦と、顔を合わせねばならぬこととなった。――ビクトリア、シルビナのオカンポ姉妹に、婦人団体の慈善事業に手を貸すよう、誘われたのだ。

あの頃のアルゼンチン言論界で女王然とした存在だったビクトリア・オカンポから発せられたそれは、誘いというよりは命令だった。「ジョージー。そんなに年中暗がりの中にばかりいてはダメよ。あなたもたまには外に出て、世の貧しい人々のために慈善活動をなさい!」

連れて行かれた場所は、サン・マルティン広場だった。――そう。丁度このアパートの窓から見下ろせる、真下の辺りだよ」

師に促されるように、私はさっきまで自分が立っていた窓辺の辺りを振り返った。ただし、そこには既に、私の姿は無かった。
「上流階級の御婦人方が、広場にテントを張り、貧者救済のための慈善事業を行っていた。私は婦人方の仲間に加わり、色々細かい手伝いをさせられ、作家協会会長として壇上から一席ぶつよう強要された。短い挨拶だったが、それを聞く聴衆は殆どいなかった。貧しい人々は、私のことなど知らなかったのだ。

粗末な食事と小さな菓子袋を、行列を作った人々に、僅かな励ましの言葉と共に配るというだけの作業だったが、結構忙しかった。それだけ、貧乏人が多いということだろう。今も、昔も。貧者の列は、呆れる程長いヘビのように幾折れもとぐろを巻き、広場の外まで続いていて、尻尾は見えなかった。――そこへ、その列をあちこちで寸断するように、何台もの派手な街宣車が連なり、広場に突進してきたのだ」

ボルヘス師はしばし言葉を休ませ、在りし日のサン・マルティン広場を再現するように、閉じられた瞼で数百メーター四方に渡り宙を見詰めた。そして、続けた。
「情婦の、団体だった。『エバ・ペロン財団』という。――本来の慣習では、大統領のファースト・レディーが『婦人慈善協会』の名誉会長になる筈だった。だが、上流の御婦人方に娼婦と蔑まれ、嫌われていたあの女は、無視され、名誉会長どころか会に勧誘されることすらなかった。――そこで、上流階級の団体に対抗して女の立ち上げたのが、『エバ・ペロン財団』だったのだ。

――それまであった貧者達の列が、一気に形を崩し、最早何も残っていなかった。代わりに彼等は、女の街宣車部隊の周囲に、蟻が群がるような密集した息苦しい固まりを造った。

街宣車で乗り込んだ大部隊は、その周囲の空間に瞬く間に仮設のステージを組み立てた。爛漫たる花々で飾られ、陽気で耳障りな音楽が流され始めた。ステージ上に登場したのは、百人に近い、女の妹達だった。皆、明るい髪を後ろで丸め、統一されたスポーティーなスーツを着、貼り付けたような大きな微笑を浮かべていた。つまり、女にそっくりだった。そしてその仮面の微笑の背後から、勢いのいいリズムの揃った啖呵がポンポン飛び出した。――その真ん中に、女はいた。

女の、癇に障るキンキン声の、貧民・労働者を讃え上流階級と知識人(つまり今、目の前のテントの中の人々)を罵倒するアジ演説が長々続いた。最初は水を打ったようにシーンとして静かに聞いていた貧民の群が、やがてモゾモゾと動き出しアクビを連発し始めた頃、百人近くにも増殖した女の妹達がセクシーな腰振りダンスを踊り出し、それを合図に、女の大盤振る舞いの大イベントが始まった。

衣類を配った。おもちゃを配った。ケーキの包みを配った。食事券、旅行券、薬の詰め合わせ、マテ茶とコーヒー、カートン入りの酒やタバコ、を配った。それらを綺麗なパックに詰め、列をなす者に次々手渡していった。さらに、封筒に入った現ナマを、ステージ上からばら撒いた。

景品ナンバーが皆に行き渡ったことを確認すると、抽選会が始まった。次々、当選番号が読み上げられた。家具(ソファ、ベッド、テーブル)、家電(ミシン、テレビ、洗濯機、扇風機)、自転車、自動車、建物の権利書、土地の権利書、……。女は、際限なく、次々と振舞っていった。それでも足りなければ、要望するものをカードに書いて財団本部まで送ってくれと、繰り返しアピールした。

“本日のスペシャルゲスト”が、壇上に登場した。――何と、ブエノスアイレス大司教区の、サンディアス・ペラーヨ大司教兼枢機卿、その人だった!

ペラーヨ大司教は、まず貧者・労働者に祝福を与え、このイベントを賞賛し、イベントを企画した女を讃えた。山上の説教から引用して、貧者達こそ世界の主人公であると説き、こんな大観衆を相手に日曜ミサの延長を行えることを神に感謝した。
「何よ、コレ!」ビクトリア・オカンポの怒りは、頂点に達していた。「司教様ったら、あんな連中に呼び出されて、ノコノコ出て来たってワケ。――信じられない!」

ビクトリアとその取り巻き達が、中世の切り込み隊のごとき勢いで、大司教の説教に早くも退屈していた貧者達の群を割って突進し、遂にステージ下に辿り着いた。そして、どれ程のパワーがそれを実現させたのだろうか、壇上に登るなりペラーヨ大司教を引き摺り下ろし、上流夫人のテントまで連行して来てしまったのだ。――女のステージ周辺は、大混乱となった。怒る者、笑い出す者、――しかし多くの者が何が起こったのか皆目分からず、ただ呆然としていた。――女の動きは素早かった。少数の妹達と、そして屈強な労働組合の活動家等を引き連れ、大司教を取り返すべく、ライバルのちっぽけなテント基地目掛けて押し掛けてきた」

――当時、ヨーロッパから彼の地を訪れた文人・哲学者達は、そこに、ボルヘスに代表される最も純化した“理知”の世界と、ペロン・エビータに代表される野蛮で反逆的、土俗的で後進的なエネルギーに溢れた世界との、二重写しになった奇妙な国家を見た。同一の空間に共存する、これらまるで相容れない対極のものの存在に首を捻りながら、彼等はこの興味尽きない国に、しばし長逗留することとなったのである。――
「テントの垂れ幕をめくってズカズカ中に入ってきた女と最初に顔を合わせたのは、不幸にも私だった。「あら。ボルヘス先生。――お久し振り」それが女の、第一声だった。

その時私は、十人近い上流階級の婦人方に取り囲まれ、ベンチに座ってお喋りしていた。社交界でも著名な、貴婦人方だった。彼女等は女を見るなり、いかにも汚いもの、不快なものを見たという表情を露骨に浮かべ、一斉に口々にまくし立て始めた。
「アラ、先生。こんな方とお知り合いなんですの。幻滅しますわ」――「こういう人とお話しになってはいけません。品性を疑われます」――「お戯れは勝手ですけど、どうぞもっと御自分をお大事に」――「世界のボルヘス先生ともあろうお方が、……。ヨーロッパからも多くの識者が崇敬の念を持って訪ねて来られる、あなた程の人が、……」

高名な貴婦人方のかしましい様を、しばらく呆気に取られポカンと見詰めていた女の目に、次いで異様な光が灯った事に私は気付いた。さらに女に、肉食獣の好色そうな笑みが浮かび出た。そして、言った。「ボルヘス先生。随分とおもてになるのね」

私は女のあからさまな気持ちが読めてしまい、――ゾッとした!

上流の貴婦人方が高価なものと評価していると知り、――丁度、宝石や、毛皮や、邸宅と同じように、――私の価値を値踏みし、私を欲したのだ。

――日本の古い民話に、『わらしべ長者』なるものがある。藁くずから始まり、物々交換の果て、ついには長者になってしまったラッキーな男の物語だ。――女は、セックス版のわらしべ長者だった。自らの性を頼りに、次々男を乗り換え、その都度ステータスを上げ、のし上がっていった。そして今度は、あの男から私に乗り換えようかという思い付きが、女の脳裏に瞬間浮かんだのだ。わらしべ女の底無しの野望の勘がそう告げたのだとしたら、これ程に背筋を凍らせる話は、他にあるまい。

しばらく私の目を、女は熱い視線でジッと見詰めていた。だが、貴婦人方の手前か、やがてそれを引っ込めた。――そして、テントの奥の方へ視線を移した。そこでは、ペラーヨ大司教が、ビクトリアに厳しく説教されていた。

ビクトリアの、例の調子の猛烈な抗議に、大司教の弁解はしどろもどろだった。あんな暴君独裁者に味方するなんて、大司教はネロに魂を売って恥ずかしくはないの、涙を浮かべて怒っていた。そこに女が割って入った。大司教様は常に貧者と共におられる、と大司教の徳を讃えた。さらに、私はローマ法王との謁見も果たしている、古びた大司教区の教会を豪華にリフォームするため資金援助する準備もある、と付け加えた。

二人の猛女の戦いの渦中で、引っ張りだこの大司教は翻弄されっ放しだった。愛想笑いを浮かべ、手の中のロザリオを握り締め続けていた。――が、突如、情婦の攻勢がピタリと止まった。

女は一軍を引き連れ、テントから瞬く内に撤退していった。――何が起こったのか、人々はいぶかしんだが、――私は、女の顔色が、厚化粧の上からでも分かる程土色に変色していたことを、見逃さなかった。

私には、千里眼を使って女子トイレを覗き見するなどという趣味は、勿論毛頭無い。――だが、この時は、事態の“流れ”というものである。

駆け込んだトイレで、女は膣出血の発作を起こしていた。――下腹部の、冷や汗が垂れる程の、激しい痛みに襲われていた。

猛烈な、絶望、悲哀、怒り、憎悪、そうした感情が、狭い個室内に渦巻いていた。一方で律儀に、使命感と、笑顔と、発言と、野望は、意地でも絶やすまいと、憑かれたように念じ続けていた。

便器に滴り落ちる赤黒い血を見詰めながら、痛みと絶望で、女は立ち上がれずにいた。――余りに見かねたので、私は“推敲”マッサージを施し、女の痛みを取り除いてやった。女の表情から、徐々に緊張が解けていった。

女はようやく立ち上がった。しかし、打ちひしがれ、意気消沈し、よろめきながら何とかトイレのドアを開け、人々の前に再び姿を現した。

――圧倒的に優勢だった、かの情婦の軍勢が、しかしその絶頂の最中、突如撤収したのだった。これには、追い詰められていた上流社会の御婦人方も、置いてけ堀を食らう形となった貧民・労働者達も、ただもう面食らい当惑するばかりだった。

ビクトリア・オカンポは、「我々の勝利だ! 理性の勝利だ!」と吼えた。――何人か続いて声を上げたが、拍子抜けした和声は長くは続かなかった。

私は千里眼の届くまで、女の跡を追った。当時、女を副大統領の座に押し上げようという陰謀が、政権の一部で密かに進行しつつあった。女を生にしがみ付かせている原動力は、この副大統領という地位への執着だった。女の脳髄の中は、『副大統領』という言葉で溢れていた」

 

ボルヘス師は、再度言葉を休ませ、それから小さく『副大統領』と呟いた。そののち、今度は『大統領』と、さらに小さく呟いた。あの男、ペロンのことを思い出しているようだった。やがてゆっくりと、また言葉を紡ぎ始めた。

 

「あの、イタズラ好きの小僧、それでいて悪事をたくらむ時だけは悪魔的知能がフル回転するあの男は、私のことを、いつ危篤になるか、いつ死ぬかと、待ち望んでいるようだったが、――あいにくと私は、常日頃の文学的マッサージの効果で、すこぶる壮健だった。以前よりも健康になった程だ。その内情婦の方の病状が急速に悪化し、男はいよいよ慌てだした。(情婦には、それこそ世界最高峰の医療スタッフが、付いていたのだが)

再び、権力の圧力が高まってきた。私の周囲に、雨も降っていないのに、ギャバジン・コート姿の男が増えた。奴等は私の耳元で、こんなことを囁くようになった。「いつ、ウルグアイに亡命なさるのです? 我々はいつでも、お手伝いする用意がありますよ」

そしてとうとう、町の書店でルーペ片手に立ち読みしていた私の両側に、ギャバジン・コートが挟み込むようにして立った時、私は覚悟を決めた。ブエノスアイレス市内では、ギャバジン・コートに両側から挟み込まれて持ち上げられた男女が、そのまま車に連れ込まれるシーンはごくありきたりの風景だったから、誰も気に留めなかった。

あの男個人所有の豪華クルーザーには、あの男本人が待っていた。そして、ナチを真似た親衛隊員数十名が、船のクルーを務めるようだった。
「今日は天気もいいですし、あなたを豪華な船旅で、向こう岸までお連れしようと思いましてね」甲板に足をかけた私に、男は言った。

だが、大河の中ほどにさしかかり、人目が無くなったと見るや、男の態度はすこぶる露骨になった。「対岸までお連れしようと思ったのだが、――何度送り出しても、あなたは伝書鳩のように帰ってきてしまわれる。我々はもう、飽き飽きしました。先生」それから、こちらにそっぽを向いて、兵士達にただ無造作に手を振った。

あらかじめ手筈が決めてあったのだろう、兵士達は私を舷側まで引っ張っていき、上半身を手摺から甲板の外へ迫り出させた。そして、私の目がまるで見えないものと高を括り、何のためらいもなく銃口を私の頭の間近に近付けた。――私はといえば、もちろん死にたくはなかったが、――例の八岐の園の真理を、可能世界を司る悪魔の力を、試したいという誘惑に強く駆られて、何の抵抗もせず、ただ弾丸が脳髄に到達するのを、ジッと待っていた。

そして、頭蓋に衝撃が来たと思った瞬間、例の“推敲”念動力が、自覚も無しに発動し、周囲の現象群を書き換えてしまった。今回は、ナチの夜襲の時と違い、アルファベットの文字の羅列と、それらの書き換わる様が、はっきりと読み取れた。弾丸は、宇宙ステーションが地球表面を掠めるようにして、私の頭の周囲に弧を描き、ラプラタの川面へと吸い込まれていった。

何が起こったか理解できず、呆然と立ち尽くしているのは、あの時のナチの亡霊男と同じだった。そんな事態を認めたくなく、兵士達はさらに数発を撃った。が、弾丸は初弾と同じように、きわどい所で頭蓋を掠め、水面へと飛び去っていく。

恐怖に駆られた彼等は、サブ・マシンガンの銃口まで上げ、数十発、数百発と、撃ち続けた。――猛烈な弾幕と硝煙の中で、平然とくしゃみをしている盲目の男を見て、ついに彼等は銃口を下げ、恐ろしさのあまり、数歩後ずさりした。――こうした有様を、あの男も、ブリッジの上から見ていた。

――沈黙と、膠着状態が続く。――私は甲板にへたり込み、ただ小さく呻いていた。――兵士達は、私を遠巻きに取り巻いたまま、カカシのように動けずにいた。――あの男は、指示を出しあぐねていた。あんな光景を見せられた後で、兵士達に、どんな命令を下せばいいというのか。混乱したタフガイは、夕日の中で赤レンガ色に染まり、固まってしまっていた。

しかし船は、そのままウルグアイ側目指して、進み続けていた。――私は策を打った。――程なくして、船の無線のコール音が鳴った。

受話器を取ったあの男は、女の危篤を知らされた。今にも命が危ないという。――船は、進路を変え、ブエノスアイレスへと引き返した。

―― ――

この、兵士達の銃の弾道を、ブラックホール周囲の空間のように歪ませた“念動力”も、そして“千里眼”も、“記憶術”も、――これら“超能力”めいた力の正体は、一体何だろう。――八岐の園の真理に到達した後、私はこれらについても考察してきた。

確かに初めの頃の危機は、どんなに僅かな可能性でも、“全く偶然の幸運”の賜物で、乗り越えることが出来たとしても、一応の説明は付く。敗血症にしても、市場のカッターにしても、ペロニスタどものリンチにしても。フグ毒を回避したことすら、アレフの如くあらゆる光景を見せるシャルル・ボネ症候群の発作の内、たまたま魚を捌く東洋人を見る発作の起きた世界の私が、生き延びただけの事かもしれないのだ。

だがこうした、ルーレットの当たりが幾度も続くような事態の中で、偶然当たりが連続するよりも、“当たりを操作出来るような何らかの能力”を本人に与えた方が、当たりを連続させる確率の濃度が高まる、そうした可能世界の選択肢が生じたとしても、おかしくないだろう。

私はあの当時まだ初老だったが、――もし特に事件もなく長寿を全うした人が、さらに生き続けるとしたら、どういう事が起きるだろうか?――100歳や120歳程度ならば、運良く長寿だったとして、まだ納得もいくだろう。しかし、150歳、200歳ともなれば、もはや“神仙”の境地、すなわち“仙人”や“スーパーマン”にでもならねば、越えられない“壁”だ。とても、“偶然”のおかげだけで、生き延びられる年齢ではない。

こうして、あの男との長年の絶えざる確執の中で、確率的偶然を上回る新しい必然が生まれた、という訳だ。全くの偶然で助け続けるよりも、私に特異な能力を与えてしまって、それを用いて私本人が自助努力する方が、より高確率で生き延びることが出来る。そういう所まで私は追い詰められていた、とも言えるが。

―― ――

あの女に貸しを作ったままでは気分が悪いから、利子を付けて返してやった。あの女は、小康状態を保った。

しかしこのままでいれば、いずれ遠からずあの女は死ぬだろう。早世すれば、聖女と祭り上げられることになるだろう。それでは、あまりに面白くない。――いずれ生きていれば、あの女の化けの皮は剥がれ、生き恥を晒すこととなろう。――私は、あの高慢な女を、生かしておくことにした。――本音を言えば、たとえどんな者でも、若い者が目の前で死んでいくというのは、気持ちのいいものではない。

この国の多くの男が憧れるというあの女の中へ、私ほど深く潜り込んだ者はいないことになる。あの男よりも、あの女本人よりもだ。――作業は、手馴れたものだった。自分に施したのと同じ方針で編集すれば、女の体はリメークされるだろう。

折れかけた枯枝のようだった女の体は、数ヶ月を掛けて肥えていった。生気を取り戻し、目が肉食獣の光を宿した。口が廻りだした。政権に復帰し、副大統領の座をものにした」

いかに巨匠ボルヘスが捏造の達人とはいえ、この捏造にはさすがに無理がある。レコレータの地で眠っているエビータのミイラを、呼び起こしでもしない限りは。

それに史実では、エビータを失ったペロンは、急速に典型的なラテン・アメリカ型独裁者に堕し、55年には失脚している。ペロンとエビータの時代は、まもなく終わる。
「船上での決闘で、あれだけ痛い目をみながら、その後もあの男は性懲りもなく嫌がらせをし続けてきた。言論弾圧で、数多くの新聞社、出版社が潰され、作家協会からも脱退者が相次いだ。直に手が出せないものだから、側面から真綿で締め上げる戦法に切り替えたのだろう。

女を助けてやったのに、恩を仇で返すとは、見下げ果てた奴だ。(まあ、本人はその事実を、知らないわけだが)

自己防衛のために、反撃せねばならなかった。――カサ・ロサーダに侵入し、文化人・言論人弾圧のための命令書を手始めに、諸々の公文書のあちこちを、改ざんしてやった。――たちまち、相矛盾する命令が飛び交い、行政は大混乱した。

辞令を偽造しまくり、差し替えまくった。数万単位の公務員が、週単位で配置転換された。多くの閣僚の首が飛び、月単位で主要ポストの入れ替えが行われた。疑心暗鬼に陥ったあの男の腰ぎんちゃくどもは、次々ウルグアイに亡命していった。

機密文書の文言とかサインとかを、デタラメにいじくった。危うく我が国は、某国との戦争に突入するところだった。

官邸内の目に付く品々を、動かし、消し去った。――大統領の象徴たる虎の頭の柄に付いたサーベルが、大統領執務室の壁から、中庭に立つ19世紀の暴君独裁者フアン・ロサスの立像の腕の中に移動していた。冷蔵室に吊るされていた宴席用の牛の肉塊が、正面玄関に守衛の服を着て立っていた。――女の宝石箱の中の大粒のダイアやサファイアやルビーが、厳重な錠の掛かったまま消えていた。女は、ヒステリーを起こした。

カサ・ロサーダで非業の死を遂げた、歴代大統領達の亡霊を見た、という噂が囁かれた。あの、内戦で惨殺されたり、信じていた者の手に掛かり暗殺されたりした、浮かばれない者達の霊が、官邸内を彷徨っていると。

――そんな頃だった。差出し人不明の一通の手紙が、私の許に届いた。

濃いピンク色の紙を使い、何やらいい香りのするレターだった。――女からだった。“今度お会いしたい”と書かれていた。

無論私は無視した。女の戯れに乗るのはしゃくだし、それが本気ならもっと嫌だった。すると女は、自分の亭主と同じ手口で、私との逢引きを強引に成就させた。すなわち、ギャバジン・コートを使った“拉致”である。

当時三十歳を少し過ぎた年齢だった副大統領閣下は、露出の激しいドレスに甘い香水の臭いをプンプンさせて、私の傍に身を寄せてきた。そして言った。「あなたはとうとう、カバラーの秘密を手に入れたのですね」

逃げられない私が、ただ身を固くして女の秋波に耐えていると、女は得意の寝物語を聞かすように、私の耳元で甘く囁き続けた。「カサ・ロサーダ宮での悪戯も、あなたの仕業なのでしょう? 迷信深い坊や達が、本気で怯えていますわ」――女は私の不思議な力のことを、あのクルーザーの親衛隊員の誰かから聞いたらしかった。――そして、とんでもないことを言い出した。――“私は、永遠の美貌が欲しい。それに、こんな田舎の国には飽き飽きした。私と組んで、美や文化の力で、一緒に世界を征服してみない?”と。――」

生けるエビータは、何という恐ろしいことを口走るのだろう。死せるエビータも恐ろしかったが、躍動する生きた女の肉体は、その比ではない。ただし、ボルヘス老の、想像上の話だが。

死せるエビータは、丁度まつりごとの勢力争いにしばしば担ぎ出されたインカ皇帝のミイラのように、絶大な威力を誇る最終兵器だった。エビータのミイラは、動かなくとも喋らなくとも、ただ見せて廻るだけで信者を集め、反対派を押さえ込んだ。その霊験は、首都を離れ地方に行く程、パンパを進む程、高まった。だから、ペロン派と反ペロン派の間で、激しい遺体争奪戦が展開され、死んだエビータもゆっくり休んでいる暇がなかった。
「周到な女のことだ。男と私と、二股の保険を掛けていたのかもしれない。どちらが失脚しても、すぐに乗り換えられるように。また、現実的な提案も忘れなかった。副大統領の権限で、知識人やユダヤ人への弾圧を控えさせ、ナチを黙らせてもいいと、言ってきた。

だが女が本気で、こんなさえない老人など相手にする訳が無い。“一緒に”などと言っておきながら、女の真意は、一介の作家などより自分のような聖者にこそ、こうした“奇跡”は相応しい、というものだった。――余りに急な申し出で即答はしかねると、何とか突っぱね、とにかくその場は辞去し我が家まで送り届けてもらった。

――その後も、遠く離れたカサ・ロサーダでの覗きと小さな悪戯は、私の毎日のささやかな楽しみとなっていた。

だが、これだけやっても、あの男の“オイタ”は止まない。ますます意地を張るように、文化人の撲滅に執着していく。あるいは、女の心変わりに気付いたのかもしれない。それでますますムキになって、文化人を目の敵にするのだろうか。私には直接手が出せないものだから。

遂にあの男の中に入り込み、その舌や脳を直接操ることにした。いくら外から脅したりすかしたりしても、一向にオイタが収まらないのなら、内側から躾けるしかなかろう。馬の手綱を取る要領だ。随分と、愚鈍な“駄馬”だが。

失念させたり、記憶違いをさせたり、失言させたり、とんでもない命令を出させたりと、本人も周囲も激しく混乱させた。その朝令暮改、言動の不一致振りに、とうとう気がふれたかと周囲の者達は疑い、本人は自信喪失して激しく落ち込んだ。ある時は執務室の幹部数人を巻き込み、自分達の意志せぬ三文芝居を演じさせ、互いへの不信感、猜疑心を無制限に膨らませてやった。

その代わり、散々楽しませてもらった見返りに、――このむさ苦しく品性に欠ける男を、少しは“真人間”にしてやろうと思った。人の嗜好や倫理観など、ニューロンのほんの些細な操作で、変わってしまうものだ。奴に、非現実的で哲学的な事を考える嗜好を植え付け、沈思黙考するタイプに、つまりはこれまでとは正反対の人間に、“改良”してやった。――奴は、ネロ並みの、ヘボ詩人になった。獄中の文化人達に無制限の恩赦を与え釈放し、多くの書籍の発禁を解き、新聞・報道の検閲を撤廃し、好きなように言われるままにした。これには、マスコミの側が拍子抜けし、あの男糾弾のトーンが一気に下がった。作家協会に一作家として入会したい、と言い出した。私はあっさりと、迎え入れてやった。多くの会員達が陰で嘲弄し、ペロニスタ達は鼻白んだ。

文学と美術好きの、清楚な教養ある女性(つまりは、私好みの女性)を、追い掛け回すようになり、情婦を忌み嫌った。あの女は大いにやきもちを焼き、よりヒステリーの度合いが増した。競争相手の女性の、追い落としを図ったり、亡き者にしようとした。カサ・ロサーダは二つに割れ、一触即発の危機的状況となった。

亭主に愛想を尽かされ、夫婦仲の冷え切った女は、ますます私に言い寄ってくるようになった。――私もとうとうたまりかねて、これまでの人生で女性に対して使ったことのない、最悪の屈辱の言葉を書き連ねて、手厳しく女を振った。これらの屈辱の言葉は、多分女の人生で、女が絶えず聞かされ続け、特に女を快く思っていない上流階級の貴婦人や将官クラスの軍人達から散々に言われ、そして最近は最愛の夫からも口走られるようになった言葉だろう。

二人の男に同時に振られ、何者も掴むもののなくなったわらしべ女は、すっかり気が動転し、遂にその本性を現したのか、とんでもない事を思い付いた。

労働総同盟議長や秘密警察長官らを集め、夫抜きで、恐ろしい密談を始めた。――『水晶の夜』を、再現しようと企てたのである。

これには、総同盟議長や秘密警察長官の方が、度肝を抜かれた。そんな重大事、最近腑抜けているとはいえ最高権力者のペロン抜きで決行するなど、正気の沙汰とは思えない。だが、副大統領は引かなかった。労働者を組織して、大暴動を起こすという。知識人やユダヤ人を吊るし上げ、バリケードで市街を封鎖し、夫を追い落として政権の奪取を図るという所まで話は進んだ。――つまるところ、夫婦の痴話喧嘩に過ぎないものに、巻き込まれることに乗り気でない幹部達。だが、副大統領は、ヒステリックに強行を叫び続けた。

ペロニスタや戦闘的労働者達が水面下で準備を進める、緊迫の一週間が過ぎた。――遂に私は、禁断の策を打った。―― ――二人の間に、子供をプレゼントすることにした」
「子供……、ですか?」
「そうだ、子供だ。――しばらくして二人の間に、可愛らしい女の子が誕生した」

――無論実際には、二人の間に子供などいなかった。それどころかペロンは、不能だったという噂まで陰で囁かれていた程だ。
「これまで、政治と権力と陰謀とによって結ばれていた二人が、初めて“温かい家庭”を持つ経験が出来たようだ。あの男も、あの女も、生まれてこの方初めての経験だった。――かく言う私も、ずっと自らの家庭というものを持ったことがなかったし、この娘の誕生にいわば“コウノトリ”役を果たした訳だから、この“温かい家庭”には、すっかり参ってしまった。――男と、女は、相変わらず大嫌いな宿敵だったが、そのほんの一断面たる“温かい家庭”と、その娘には、別の感情が抱けるのだから、不思議なものだ。――この“暖かい家庭”と、とりわけ娘を見守る内、すっかり“親戚のおじさん”気分になってしまったよ。無論、両親はもちろん、この娘も、親戚のおじさんの存在を知らない訳だが」

ボルヘス師はこの高齢になるまで、とうとう一人の子も設ける事がなかった。あるいは、先程来話に出ていた、前立腺の異常ということが、その原因として本当にあったのかもしれない。無論現実のペロン夫妻にも子供はなく、それどころかエビータはすぐ亡くなってしまったのだけれど、――宿敵の二人に温かい家庭と子供を持たすというストーリーは、ボルヘス師の隠れた願望の反映でもあるのだろうか。
「この頃私は、ある嫌悪すべき感情と、恐怖の在りかに、気付きつつあった。――それは、“あの男と同化しつつある”という、身震いするような考えだ。

あの男を操り、自分の思いのままに思考や行動を捻じ曲げ続けてきた結果、あまつさえ“暖かい家庭”の父親役という私の代役を演じさせてしまった結果、あの男が徐々に私に染まっていったのと入れ違いに、私もまたあの男に徐々に染まりつつあるのではないか。――その脳内の在り様、高揚感を起こす部位。世界を、人々を、動かし、支配する快楽。奴と敵対し、相手の事を調べ、知る内、それを試してみたくなる、――つまり、共有することとなる。――私がこの男になり、この男が私になるという、――何たる、“屈辱”!

――男は、キューバのカストロ達と組み、反米戦線を結成した。――奴がやっているのか。それとも、私がやらせているのか。――丁度、ベトナム戦争華やかなりし頃だ。極右と極左が手を結んだと、国際世論を騒然とさせた。男は、反米ラテンアメリカ同盟の、盟主となった。――典型的なラテン・アメリカ型独裁者の常軌を逸した行動の背後に、私の書いたシナリオがあった、……」

ボルヘス師が政治的野心を口にするとは。――予想もしていない事だった。――ボルヘスといえば、何とも政治音痴の、政治を毛嫌いして寄せ付けぬ、純粋な書斎人、という印象の人である。――その彼から、反米・反現状の、野心が覗くとは。(たとえ、ペロンの仮面の裏に隠れてではあっても)
「男は私を、『国立図書館長』に任命した。さらに、『第一回ペロン文学賞』受賞者、とした。

ペロン賞は、男がノーベル賞の向こうを張って創設した、国際的文化功労賞だ。どうせ両人とも、死の商人と軍人だ、大して変わらん。科学や文学はじめ、世界の英知を表彰しようとしたが、最初の十年程はほとんどの候補者に向こうから断られた。私などは、ペロン賞を受け取ったらノーベル賞はやらんと、ノーベル委員会から釘を刺された程だ。

次いで奴は、私に文化行政の全てを任せたいと、言ってきた。一切の口出しはしない、全てを、と。――大臣になんぞなれば、おのれの文化のための時間を大幅に削られる。しかし、可愛い娘の顔が脳裏に浮かび、私は申し出を受諾した。

大衆の前で演説する時、かつての男は満面に笑みを湛え、ことある毎に呵呵大笑した。だが今では、渋面を造り、大衆を睨み付け、遂には『大馬鹿者ども!』と、彼等を罵倒する。――だが、それでも、――そうやって罵倒される程、大衆が男に送る声援はますます大きくなり、鳴り止むことがない。男の中身も、施政方針も、眼中にない。ただただ全幅の信頼を寄せている。――その人気は、絶えることなく、衰えることなく、いつまでも続いていた。

――そうこうし、20世紀の後半が過ぎ去る内、――我が大親友、あの汚らわしい男が死んだ。そして我が最愛の、あの高慢な女も世を去った。二人の娘は、故国を離れ、ハリウッドに進出した。

――私は一人、アルゼンチンに残された」

老ボルヘスは、遥か昔を懐かしむように、夢見るホメロスが瞼の裏に描かれた叙事詩を語り終えるように、静かに話に一区切りをつけた。

――だが、その静かに休む老人の口元を見詰める内、夢想者のとりとめもない呟きのように、その消える端から、既に新たな物語が零れ落ち始めていた。

私は聞き耳を立てた。

 

「21世紀以降、世界は数多のメガテロに見舞われた。

サグラダ・ファミリアは、200年を要して完成したが、完成式典の最中、“聖戦”を唱える宗教過激派のテロにより、内陣の一本の樹状柱から瓦解した。

宇宙エレベーターは、これも開通式の当日、あらゆるセクト(赤色革命主義者から、環境保護団体に至る)のテロリストから総攻撃を受け、その残骸は地球をグルリとひと回りするとぐろを巻いた。(ヨルムンガンド蛇とは、これのことだろうか)

その地球の、ブエノスアイレスの裏側に位置する壮麗なる霊山・フジヤマは、南の海から見て左半分が吹き飛ばされ、半開きの扇となった。

とにかく、テロリストどもは、何でも目立つもの、有名なものを標的とした。無事でいられたのは、“匿名”のもののみだった。

――そんな21世紀に入る直前、1999年に、私は100歳の誕生日を迎えた」

今日のボルヘス師の話は、際限が無いようだった。遂に、まだ来てもいない(来るかどうかもはなはだ怪しい)、“2000年”以降にまで、彼のとりとめも無いお喋りは突入した。
「100歳に達すると、さすがに心配になるものだよ。自分はいつまで、生き長らえさせられるんだろう、とね。この世の舞台で、演じ続けねばならないのだろう、とね。ガリヴァーの見たラグナグ国のストラルドブラグ人のように、不死のまま、老いさらばえていく。永遠に、老い続ける。老醜を晒し、知力も底無しに落ちていく。そんなことにでもなったら、どれ程の悲劇だろうか。――そうこうする内、私は120歳を越え、150歳を越えた。空恐ろしくなった。だが、特段変わった変化もなかった。体調が優れなくなると、その都度微調整していたしね。相変わらず、アルゼンチン作家協会の名誉会長を勤め続け、世界の文学界に御意見申し上げる日々だった。

“千里眼”と“記憶術”と“念動力”の技量は、ますます磨きがかかった。

私は、一人の日本人が、宇宙空間でデブリを拾い集めている様を見た。その日本人に導かれたアフリカの民が、天に巨大なリニア・カタパルトのハシゴを掛け、“第2の出アフリカ”を果たすのを見た。デブリ回収用の強力な電磁波ネットが地球全体を覆い、全ての近代兵器を無効化して第三次世界大戦を10分で終結させるのを見た。

国境紛争の絶えないボーダーの地で、新たな第3の民主主義と、第3の資本主義が生れ落ち、それらが全人類を覆い尽くすのを見た。古代都市国家のそれを第一の民主主義、近代国民国家のそれを第二の民主主義とするなら、ネットで全人類が結び付いて構想されたそれは、第3の民主主義と呼ぶに相応しかった。放任資本主義、修正資本主義に続き、人類は第3の資本主義の段階に入った。既に人類総生産の8割がネット内に移行し、世界の資本は“ボーダーランド”の生み出したネットのルールに、従わざるを得なかった。――ボーダーランドから始まった運動が世界を呑み込み、国民国家を終焉させた。その断末魔を、私はつぶさに見た。

パレスチナの子らが、バグダード・アカデミアに集い、情報界と霊界を踏破する様を見た。バグダード王の、『イスラム・ルネッサンス』宣言に立ち会った。そしてその同じバグダード=バビロン・メガロポリスで、2001年9月11日(ただし、イスラム暦のだが)、巨大なメガテロが全市を覆い尽くすのを目撃した。その時私は、同市で開催されていた、国際複雑系文学会議の座長を務めるため、被爆現場に隣接するホテルに逗留していたのだ。即座に、ムスリム同盟による、テロ組織壊滅作戦が始められた。テロリストの温床、北米中西部の諸州が空爆され、未開なカウボーイ達が逃げ惑う姿がニュースで連日報道された」

イスラム暦の21世紀? 師のモノローグ、半生記は、遂に500年を越した。どこまで続くのか。
「太陽系内に無数のスペース・コロニーを浮かべたアフリカ人達の新王国を足場にし、人類の版図はカイパーベルトを越え、恒星間空間、銀河宙域へと拡散していった。その間、地政学上の版図はめまぐるしく書き換えられ、多くの暮らしと経済と政治のシステムが、造っては壊されまた造られ、を繰り返した。陰に陽に、私は影響力を行使し、時には強制し、人々を導いていった。いつしか人々は、私を、ある集団は革命者として讃え、ある集団は王として祭り上げ、ある集団は神として崇めるようになった。私は、ある時は、『文学』を機軸とした“人文統治”を試みた。またある時は、かつてのラテンアメリカの独裁者どもよろしく、カサノヴァを気取って多くの女たちを篭絡し、世界を貪欲に味わい尽くし、悪を尽くし、善を尽くした。――生来引っ込み思案で、書庫に閉じ籠もり、人前で喋るのは勿論、とりわけ女性方に愛を語るのが大の苦手だった私が、――政治や社会に積極的に関わるなど、考えるだけでも恐ろしいと思っていた私が、――長い歳月を経て、こういう一面を見せるとは。自分自身、全く意外だった。想像もしなかった、“老後”となった。

私は、王となり、神となり、そして、忘れ去られた」

ボルヘスはここで、新しく淹れ直された紅茶を飲み、一息ついた。いつの間にか、アサンタ嬢がまた部屋に来ていて、私と並んで椅子に座り、主人の話を微笑みながら聞いていた。師の話は、彼女にはどう理解されているのだろう。
「不死の私を残して、人々は、その子孫達は、ある者は宇宙へと拡散し、ある者は情報世界に拡散し、私の視界から消えていった。その生物としての存在は、昇りつつある朝日の下の露のように、跡形もなく掻き消えていった。

十数億年が経ち、地球は生命を育めない、干乾びた星となった。五十億年経過し、太陽もまた輝きを失い、無残な矮星と化した。

やがて別種の知性体達が地球人類に取って代わり(彼等は、生物をベースにしたり、機械をベースにしたり、情報コードをベースにしたり、各種いたが)、しばしば互いに抗争を繰り返し、ダーウィンの法則に従い(知性すなわち情報系ならば、DNAベースでなくとも、何でも従うようだ)、そしてまた滅んでいった。

やがて、宇宙そのものも、衰弱し、知性体を産み落とせなくなり、静寂の中に消滅していった。

―― ――

宇宙は、“無”に吸い込まれるように、消滅した。“無”に、帰した。――しかし、“私”は、消滅しなかった。“無”の只中に、“無”と同居して、“私”はいた。

――そして、新しい宇宙が始まった。――時間と空間が、開けた。エネルギーが、注入された(それまで、ゼロだったものが、正と負の二つのエネルギーに分断され、二種類の膨大なエネルギーが生じたのだ)。物理法則は、前の宇宙と、少しズレていた。定数の幾つかに変更があったようだ。物質が生成され、星も輝きだしたが、そこまでだった。――この宇宙は、生命を生み出せなかった。至極退屈な宇宙となった。退屈な数兆年間を、私は暇潰しせねばならなかった。

宇宙は次々生まれ、また消えていった。――量子の、ほんのイタズラのような対生成と対消滅の揺らぎから、宇宙は生れ落ちるようだ。ある宇宙は前の宇宙の消滅が引き金となり、またある宇宙はイモの子が親イモから次々出来るようにして。そしてブラックホールの周囲には満開の桜の木のように無数の宇宙の花々が咲き乱れた。生み出される宇宙には、色々と種類がある。あるものは、膨張し爆縮するタイプ。またあるものは、永遠に間延びし続けるタイプ。だが、瞬間生まれ、次の瞬間には潰れてしまう、そんな短命な宇宙が圧倒的に多い。時空間が持続したり、エネルギーが注入される宇宙は、極めて稀だ。宇宙は、出来だすと、似た様な宇宙がしばらく続いて出来る傾向があるようだ。瞬間で潰れる宇宙が何兆回と続き、やがて時空間のみ維持されるガランドウな宇宙の時代がしばらく続く。エネルギーが注入されだすと、多様な物理法則の支配が始まり、気ぜわしい。物質の影がほの見え、粒子の潮流のようなうねりが空間をたゆたう。物質の影が星まで進化することは稀だ。ある宇宙では、物質が空間を満たす中に、星状の空洞が出来た。ある宇宙では、強力な“場”がランダムに出来、物質は巡礼者の如く、それぞれの“場”に捕まるごとにそのしきたりに従った。ある宇宙では、無限の空間全てに、均質な“固体”がビッシリ詰まり、微動だにしなかった。そんな牢獄に、私は囚われた。一切の身動きが取れぬまま、ただ時間だけが永遠に続くかと思われた。が、“私”という異物故、その不可侵な構造は崩壊した。私が思考する事により、そのわずかな物理的変化が、不可侵な構造を軋ませ、溶かし、やがて宇宙全体が熱崩壊した。

そうした歪な宇宙を無限回とも思える回数経験する中、とうとう生命らしき現象の見られる宇宙に巡り合った。だが、それは、私の馴染みの生命とは、大分趣を異にするものだった。――それは、星の上ではなく、宇宙空間で、数光年にも及ぶボイドを躯体として、進化してきた。空間の裂け目をネグラとしており、あっちの重力のひずみに潜り込んだと思うと、こっちのひずみから顔を出した。数光年のボイドを一つの細胞に例えると、その内側に二重のボイドの如き領域があり、そこに空間の歪みそのものをコードとして蓄え、遺伝情報を伝達しているようだった。エネルギーを放出し(周囲に光子の恩恵を振り撒き)、負のエネルギーで生命活動を維持していた。――新たな宇宙で出合った初めての生命体だったので、私は非常な興味を持って彼等を観察した。だが、彼等が知性の片鱗なりと持つことは、とうとうなかった。彼等はずっと、単細胞であり続けたのだ。

宇宙には、豊穣な宇宙が、時たま現われる。中には、私が生まれた宇宙以上に豊穣なそれすらあった。――私に馴染みの深い生命現象も、チラホラ現われるようになった。だが、知性体には程遠かった。知性体を生み出すには、ただの生命現象から、さらに地球時間で何十億何百億年という奇跡のようなプロセスを経ねばならない。――が、そうして初めて相見えた知性体は、ナメクジそっくりだった。だが、私はコンタクトを試み、彼等を愛しみ、その発展を願った。最初の内、彼等は私の期待に大いに応えてくれた。だが、予想通り、それこそが知性というもののサガなのだろう、やがて彼等の社会は、私に対する呪詛の声で満ち満ちた。ついに私は、塩の雪を降らさねばならなくなった。

その後も、幾種類もの知性体が、自然発生した。私は彼等との間に距離を置き、干渉するにしてもわずかな干渉で留めた。惑星と惑星をぶつけて大きな衛星を造ったり、進化の期待できない生物種の支配を、小惑星の一撃で終わらせ、新たな進化の道筋を開いたり。

彼等もまた、私の最初の仲間達と同様、進化し、発展し、そして私の前から全て消えていった。

――私は、自分で宇宙を創ってみようと、思い立った。私には充分な能力がある。知恵も付いた。思い通りの宇宙を、デザインしてみよう。星を、生命を、知的存在を、そして地球人類そっくりの人類を。

宇宙を創る事は、思いのほか簡単だった。一つの惑星をテラ・フォーミングするよりも、遥かに簡単だろう。何せ、“テラ”の情報量はべらぼうだ。宇宙創造の、比じゃない。――こうして私は、数多の宇宙を、人類を、一つの膨大な作品を書き上げるが如く、書き上げていった。だが、創作の常、似た様な作品ばかり続いては、読者に飽きられてしまう、私の作品の第一の、そして唯一の読者、すなわち私自身に。私の代表作たる諸短編の趣向のように、そこは、捻りの効いた世界、捻りの効いた人類、でなければいけない。――不可思議な世界が、次々出来上がっていった。そこの住人達にとっては、さぞ迷惑なことだったろう。さらにはかつての私の作品に足りなかった要素、戯れと、イタズラと、ブラック・ユーモアの配合を何倍も増した。人々はヨブのように恐れおののいた。私はさぞかし、悪神・デミウルゴスと、思われたことだろう。

その内、飽きた。――放っておいても、宇宙は際限無く出来てくる。永遠の内には、私の作ろうと意図したものなど、必ず再現される。だからわざわざ、自分で造ったり、その中身を思い巡らしたりする必要など、無い。待っていれば、いずれ全ての宇宙が出来る」

ボルヘスは話をやめ、――まるで私の思考内容など、私の脳内ニューロンの配線具合など、例の千里眼で全て見透かしているとでも言いたげな、うつろな灰色の瞳で私をジッと見た。そして、アサンタ嬢が茶菓子に足したデーツの実を口に入れ、唇の端で大きくニッと笑った。
「これまで話した事は、私の身に起こった事だが、――無論私一人に限った話ではない。全ての人に起こる。あるいは既に起こった。

無論、君にもね」
「と、仰いますと?」全身強張ったまま、私は問うた。
「つまり、――“絶対の孤独”、ということだ。

――各人が、全ての人が、自分だけの世界を生きる。――そこには他者は存在しない。存在したとしても、一瞬だけの、瞬く内の付き合いだ。他者だけではない、物も、風景も、宇宙さえも、全て流れ去る。変化し、消滅していく。ただ、自分だけが不滅だ。永遠にあり続ける。――すなわち、“絶対の孤独”!」

ボルヘスは、さも愉快そうに、唇の端の谷を深め、達観の思いをさらに吐露した。
「人は誰でも、不滅だ。――人だけじゃない。全ての生き物も、全ての個物、存在も、――不死で、不滅ということだ。――私があり続けているように、たった一匹の“オサ虫”が生き続け、たった一脚の椅子が、あらゆるマルチバースを貫いて、在り続ける。そういう世界が、現にある。全てのものは、生み出されたその日から、そういう運命に定められるのだ。――同一性の神話、その呪縛は、永遠に保たれる。自分に同一性を感じた者は、永遠にそれを感じ続け、同一性を感じられた存在は、永遠に同一であり続ける。――だから、来世も魂も、不要ということになる。何せ、人はこの世で、永遠に生き続けなければならないのだから。

ただしその不死・不滅は、“絶対の孤独”という条件付きで、成り立っている。今私はここに一人いるが、同様に、全ての者が、あの男も、あの男の情婦も、二人の娘も、ヤコブソン博士も、ナチの亡霊男も、私の父も、母も、――私が塩で殺したナメクジの一匹一匹も、全ての人々が、孤独に、ただ一人だけで、永遠に生き続けているのだ。――恐ろしい試練! 何という刑罰だろう! 福音にして、呪詛!――『サテュリコン』によれば、壷の中に入ったクーマエのシビュラは、何が望みか訊ねられ、「死にたい」と答えたそうだが、同慶の至りだ。全ての者が、シビュラの壷の中に押し込められ、そこから出られない。“絶対孤独”の独房に収監されて、窓からの眺めは刻々変化していくが、刑期の終わることは無い、……」

ボルヘスが“不死”を恐れているというのは、有名な話である。その恐れの根には、こうした考えがあったのだろうか。
「私はずっと不思議に思っていた。何故私は、いつまでも“私”であり続けるのだろうと。無限に近い時間を生きるのならば、無限に変化していって当然だ。なのに私は、いつまでも最初の、オリジナルの自分を忘れる事がない。いわば、ボルヘスの“核”を、いつまでも自分の内に持ち続けている。

多くの人々が、無限の時間の中で無限に変容する内、“自分”を忘れ、正気を保てなくなってしまうだろう。彼等は悪神となり、デミウルゴスと呼ばれ恐れられるだろう。彼等の統べる世界は、悪徳が善、凄惨が美、混乱が秩序、となるだろう。そして多分、私の多くの分身達も、同様の道をたどったと思われる。無論私は、あらゆる方法で、あらゆる可能性で、生き残ったそんなボルヘスの一人であるに過ぎない。にもかかわらず私は、ボルヘスの核を持ち続けた、稀有な存在なのかもしれないのだ。

――“核”が保てた理由は、もう一つある。――実は何度か、連綿と続くマルチバースの中で、私の生まれ出た宇宙と、そっくりの宇宙、そっくりの銀河、そっくりの太陽系、そっくりの地球、そしてそっくりの人類達と、出合った事がある。その中に、ほんの微々たる確率だが、そっくりの“ボルヘス”が生まれる事があったのだ。――そうした稀有なボルヘスに出合った時、あるいは再会した時、私の中の核が遥か深部から浮かび出、私は思い出すのではなかろうか、――私は、ボルヘスだった、……と」
「では、今目の前にいるあなたは、この世界のボルヘスの中に宿った、太古の神のようなボルヘスだと? そっくりなボルヘスに出合えて、自覚を取り戻したあなただと?」
「私は何度も、ボルヘスに戻った。いや、為った」私の問い掛けを無視し、彼は話し続けた。「これらボルヘスは、似ているようで少しずつ違っていた。そして少しずつ違う人生を歩んだ。――目のよく見えるボルヘス。片目のボルヘス。片手の無いボルヘス。指の一本多いボルヘス。目玉の三つあるボルヘス。もどきボルヘス。偽ボルヘス。ポルヘス。ボルベス。ボルヘウルス」(師はしばらく、韻律遊びに興じた)「何人目かのボルヘスは、真っ当な一生を生き、何人目かはムスリムになり、何人目かは『アレフ』に“人格”として代入されそれと一体となり、何人目かは『神様救助隊』の一員となった、……。

多くのボルヘスで、私はかつて書いた諸作品を、再び書いた。若干書き直す事もあったが、多くは、一字一句たがわず、そのまま再現した。――私は何度もノーベル文学賞を授与され、何度も取りこぼした。

私は色々な女性達と結婚し、別れた。多くの子供達を残した。(彼等もまた、それぞれの孤独な監獄の中で生き続けていることだろう。何者かを生み出すとは、それ程罪作りなことなのである。)多くの家族、友人達と過ごした。多くのあの男や、あの男の情婦と関わり、角突き合せ、彼等の運命を変え、何度も叩きのめし、時には助け、生かしてやった。

―― ――

――そうして、――随分と廻りくどくなったが、――この宇宙が出来た」彼は、こぶしを胸の中央に当てた。「そこで出合ったこのボルヘスこそは、――今までのどのボルヘスよりも、――真に“ボルヘス”たる、“ボルヘス”だ!」
「するとあなたは、――古いボルヘス師は、――今のあなたの体内に、宿ったのですか?」私は先程の質問を、繰り返した。「それとも、新しいボルヘスの中で、目覚めたのですか?」
「どちらでもない」今度は、私の質問に充分な答えを返してくれた。「そもそも、この宇宙の始まる時、私は既にいた。そして、ジョージーの生まれる時、私は彼と共にいた。――と同時に、今のこの宇宙の隅々まで、私は相変わらず居続けているんだがね。勿論、君の中にも。

という訳で、――赤ん坊の時から、幼児期も、少年期も、青年期も、創作を始めた頃も、公務員の職を得た時も、そして今も、――私は、私であり続けている、といった次第だ」

太古の神ボルヘスは、この宇宙の全てに偏在する? 例の千里眼で、私の背中側からも、体内からも、アレフの眼球で、全てを同時に見ているのか。
「ドッペルゲンガーに合うと死ぬという俗信があるが、」ボルヘス師は続けた。「私は彼と、不可分にピタリと重なっている。――永劫回帰の末、本当の輪廻転生が果たされた。そんな気分だと言ったら、少しは分かってもらえるだろうか、……」

 

長い話を終えたボルヘス師は、沈黙し、ジッと天井を見上げていた。勿論その沈黙を破る者など、誰もいなかった。多分、その見えない目で、千里眼で、天井も建物も突き抜け、遠く宇宙のそのまた先を、見詰めているのだろう。――それから、ゆっくりと視線を、床へ、大地の方へ降ろした。次いで、右手奥の壁に掛けられた、妹ノラ・ボルヘスの描いた絵画の方へ目を移し、それからその視線をさらにゆっくりと左へと移動させていき、テーブルを挟んで左隣に座っている私と、遂に視線を合わせた。――つまり、10秒以上かけて、『十字』を切った。何を意図しての動作か、全く想像の及ばぬことだった。
「――とまあ、長々話してきたが、」と、にこやかに笑いながら、いつものボルヘス師。「勿論、今日これまで話してきた事は、単なる戯れ言、ただのフィクションだよ。ちょっとした、創作の演習に過ぎない。――つい今朝方、寝床の中で思い付いた話だ。

勿論、書き留めておく必要などないよ。忘れてくれて結構だ」

ボルヘス師は、ジョージーは、我々を安心させ、ホッと深く一息つかせるように、いつもの通り愛想よく笑い、今日の日課を終えた。窓からの長い西日が、師の横顔もテーブルクロスも魚類図鑑も、オレンジ色に染めていた。

 

 

ボルヘス師の秘書役を辞してから、既に5年以上経つ。その間師は、世界を巡り、集い、あるいは講演し、――祖国に腰を落ち着ける時間は、めっきり減った。――今は、ジュネーヴに長期滞在している。

そのジュネーヴから、予期せぬ訃報が届いた。師が、病魔に冒され、客死したという。――あの、不死の人が、……。

あのアパートの部屋での日々が、懐かしく思い出される。師の精緻にして目を見張る程飛躍する講釈、その口元から溢れ出る詩と物語の断片、それらを書き留める私のペンの動き、次々と新奇な本を朗読する私の声、しばしば熱を帯びる文学や哲学の議論。あれほど、私の文学を初めとする思想が、いや私そのものが、深く入念に練られ、鍛え上げられた季節は、他になかった。あの数年間こそが、私の生き方の“核中の核”となった。

――その訃報から半年近く過ぎた頃、意外な事が起こった。ボルヘス師の遺言の中に、私の名が上げられていると、担当の弁護士が告げてきたのだ。――師が私を相続人に指名したというのだが、それは、金品ではなく、彼の多くの作品の著作権だった。つまり、彼の諸作品の今後の扱いを、一任されたのだ。

何とも意外な話だった。たかだか数年の付き合いの、一書生に過ぎない私に。だが、私にとって至極意外なそれは、ボルヘスに遥かに近しい肉親、関係者にとっては、その何十倍も突然降って湧いた事件だった。

たちまち、大騒動が起こった。文学関係よりも、一般マスコミの方が、そのゴシップ記事を大いに加熱させた。私とは、一体何者なのか。ボルヘスとはどういう関係なのか。興味本位の報道が巷に溢れ、私は弁解と説明の日々に追われた。――財産放棄を求める要請が、ボルヘスの関係者から通知されてきた。私がそれらの権利を持つことは、相応しくない。本来の持ち主に、即刻移譲せよ、と。――誰も、ボルヘス師本人の意志を、汲み取ろうとはしていないように思われた。といって勿論、私自身にも、師の意図したところは分からない。師が、あの偉大な諸作品の著作権を私に委託したのは、それがあれら諸作品にとって、一番いいことなのだと判断してのことだろう。だが、私に何が出来るというのだ。今の私にではなく、未来の私に期待して、師はそれらを引き渡したのかもしれないが、それでは、今の私はどうしたらいいのだろうか。

だが、私が一箇所に留まって、迷いに沈んでいる間にも、周囲の事態は急展開を見せ始めた。――関係者の内の、誰の差し金かはわからない。開けぬ事態に業をにやしたのか、違法な手段に訴えてでも、目的を達成しようという者が現われた。――脅迫状が、頻繁に届き始めた。神経を擦り減らす、嫌がらせの電話が続いた。得体の知れない黒ずんだコート姿の男達が、私の住まいの周りや行く先々で、見られるようになった。私は、いつかボルヘス師が物語った、あのペロンの秘密警察の事を思い出していた。――そしてとうとう、師の物語にもあったが、恐れていた事が起こった、――彼等が、実力行使に出たのだ。

――男達が、ただ私を脅すだけのつもりだったのか、それとも問答無用で即命を奪うつもりだったのか、今となっては分からない。だが、多分後者だったのだろう。事の顛末が、それを証明している。

二人の、コートにサングラスの男が、アパートの書斎に現われた。私は、文芸誌に掲載予定の、ボルヘス師の思い出を書き綴った原稿を、執筆している最中だった。極至近距離から、二丁のオートマチックが、私の頭を狙って発射された。これでお別れだ、思った時だった。――右手を乗せていた大きなキャビネットが、ヒョイと持ち上がったのだ、まるで発泡スチロール製の箱のように。

弾丸は、ゆっくりとこちらに向かってくる。10㎝進むのに、10秒程かかっているようだ。私はキャビネットを、中身の詰まった小型トラック程の重さもあるだろうそれを、顔の前にかざした。――2発の弾丸が、立て続けにそれにめり込んだ。――次いで私は、そのキャビネットを男達に投げ付けた。――キャビネットと二人の男は、アパートの窓を突き破り、隣のビルの壁にめり込んで止まった。

 

私は生き延びた。そして、私の孤独が始まった事を、知った。       了

2018年11月11日公開

© 2018 岩田レスキオ

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