本当はSF作家になりたかった巨匠・ボルヘス

岩田レスキオ

エセー

10,325文字

ノーベル文学賞を受賞しなかった事が二十世紀文学史七不思議の一つとされる(ヤバい理由が色々あったんですが)現代文学の巨匠・アルゼンチンのボルヘスが、実は本当になりたかったのはSF作家だった、という試論です。

 

 

中学・高校時代は、SFばかり読んでおりました。特に15歳の時(昭和45年)本屋に大量に平積みされていた筒井先生の『馬は土曜に蒼ざめる』に出会ってからは、筒井作品一辺倒となってしまいました。

大学受験の時、このままSFばかり読んでいては勉強がおぼつかなくなるということで、SFを一旦封印しました。おかげで大学入学後、世界文学の方へと目が向けられるようになりました(これには高校生で作家デビューした新井素子ちゃんの存在も大きい。こんな若い女の子が作家になるようじゃ、もうSFなんぞに固執してはいられないなと思ったわけです)。

そうして世界文学を渉猟する内、ボルヘスと出会ったのです。最初に彼を知ったのは、昭和49年ユリイカ5月臨時増刊号『現代世界文学入門』の、土岐恒二氏の一文『「神の書跡」をめぐる夢想』を読んででした。瞬く内、私はボルヘスにハマってしまいました。

当然当初、私はボルヘス作品を、SFとして(そう解釈して)読み始めました。『八岐の園』や『もうひとつの死』は、パラレル・ワールド(多世界、可能世界)ものとして読める。『フネス』『ザーヒル』(『アレフ』もか?)も、脳(知性)工学ものとして読める。『トレーン、――』『バベルの図書館』『不死の人』『神の書跡』など、いかにもSFチックだ。さらに『円環の廃墟』『隠れた奇跡』『バビロニアのくじ』『フェニックス宗』『アヴェロエスの探求』等々も、SFを読む時の構えのまま読みたくなる。こうした性向は、今でもあまり薄らいでおりません。

すっかりボルヘスフリークとなってしまった私は、あちこちの書店や図書館で彼の著作や関連書籍を読み漁り、可能な限り(何しろ、彼の本は高価ですから)買い漁り(今のようにインターネットで簡単に検索したり購入したり出来ませんから、大変です)、コレクションは四、五十冊に達しました。どうしてもスペイン語の原著と(翻訳を助けるため)それの英語訳が欲しくなり、まだ日本に上陸したてのアマゾンでおっかなびっくりクレジットカードの番号を伝えつつ買い物しました(今でこそ覇権を欲しいままにし泣く子もブイブイ言わすアマゾンですが、十数年前は日本の再販制度の壁に押し込められ、まるで外国からの漂流者のごとき哀れな存在でした。十年ぐらい後にアマゾンで古本を買うようになるまで、その存在すら忘れていました)。

私の関心は、ボルヘスの紹介する人や事物に拡大していきました。新しく知った彼等の作品やその思想、そしてそれらに関連してさらにその周辺の人や事物へと、限りなく連鎖して。その連鎖の中心に、ボルヘスがいたわけです。

スウェーデンボルグも、そうしたボルヘス経由で巡り合った存在の一人です。妙な契機で、単なる一人の神秘主義思想家に過ぎなかった彼が、今では『三島記』『さかまくもの』『深い淵の女』と連なるシリーズの、中核を占める存在となっています。

また若い頃、『バベルの図書館』が実際にはどのぐらいの大きさがあるのか、試みに計算してみたこともあります。部屋の構造はどう、本棚の作りはどう、そこに並ぶ本はどんなもの、というように、具体的にサイズを仮定して計算していったわけです(無論、有限の大きさを測定したい訳ですから、同じ文字列・文章の本は複数存在しない、という前提で計算しました)。

当初は、「恒星系間空間ぐらいで収まるかな?」という程度の気楽な予想で始めたのです。だが、結果は、――“現在測定可能な宇宙の、10のおおよそ61万乗倍以上の大きさの図書館”、――という結論になってしまいました。

もし実際にこんな図書館があったら、超々々(と、10の61万乗倍個ぐらい、“超”が付く)ブラックホールなわけですから、物理学的にはアッという間に(というか光のスピードで)“爆縮”してしまうわけですが、――こうした図書館を成立させるのも、やはりボルヘスの創造力なのです。

 

さて、かようにしてボルヘスを知る内、ある事に気付き、確信を持つようになりました。すなわち、「ボルヘスはきっと、SF作家になりたかったんだろう」と。

ボルヘスの推理小説好きは有名です。自身も、何篇もの推理(系)作品をものしている。一方SFに対しては、見果てぬ夢、到達できぬジャンル、すなわち“憧れ”を抱いていたように感じられるのです。

傍証は幾らでもあります。そもそも彼はウェルズを名指しし、「それらはわたしがこの世で最初に読んだ本である。」と言っています。さらに「たぶん最後に読む本でもあろう。」とも(『異端審問』1982年晶文社、P136)。彼のウェルズ好きはつとに有名で、同じページで「それらは人類の種の記憶の中に組み込まれ、それらを書いた造り主の名声やそれらを書くために使われた言語の消滅を超越して生き延びるだろう」とまでベタ褒めしています。(『ザーヒル』と『アレフ』にも、ウェルズの作品『水晶の卵』からの影響があると本人も認めています。)

また『ボルヘスの北アメリカ文学講義』(2001年国書刊行会)では、『訳者(柴田元幸さん)あとがき』によれば、「SF作家などは結構新しいところまでまめに紹介している割には戦後の純文学作家は無視されている」そうです。ボルヘスはこの講義の中で、ヒューゴー・ガーンズバック、ラヴクラフト(なぜか、SF作家に含まれている)、ハインライン、ヴァン・ヴォクト(ヴォート)、ブラッドベリ、を取り上げました。

また同じく『序文つき序文集』(2001年国書刊行会)によれば、『モレルの発明』(アドルフォ・ビオイ=カサーレス(ボルヘスの盟友))、『火星年代記』(レイ・ブラッドベリ)、『スターメイカー』(オラフ・ステイプルドン)に、それぞれ序文を贈っている。つまり、一流二流を問わず、広くSF領域に視野が及んでいた。

『ボルヘスとの対話』(1978年国書刊行会)では、フランスの批評家ジョルジュ・シャルボニエに、あなたの作品は「数学を問題にしたサイエンス・フィクションを想起させる」と評されて、まんざらでもないといった反応を見せています。――ですがその同じ対話の中で、「すべては文学的想像力によって、あるいはウェルズなどの作家によって超えられてしまっている」とも発言している。ここに私は、ボルヘスの“SFをめぐる分裂”があるような気がしてならないのです。

 

同じ対話の少し前で(「数学を問題にしたサイエンス・フィクション」と「超えられてしまっている」に挟まれている箇所)、ボルヘスは「私は物理学、化学、そして算数さえろくに知りません。その知識は数学や哲学以下です。」と告白しています。何故ならそれらは前記引用の通り「超えられてしまっている」から彼を「さほど感動させなかった」という訳です。つまり、万巻の書を読み尽くしたといわれるボルヘスですが、未読の“穴”があった。そのことを彼は自覚していて、あるいはほんの些細な程度ですがコンプレックスを持っていた、のかもしれません。(そして、そのほんのちょっとした“穴”、コンプレックスが、堤防に穿たれた蟻の巣穴のごとく、後に大決壊へと進展していく、と私は推理します。)

劈頭ウェルズという最良のSFを知ってしまったボルヘスですが、しかし彼の見てきた20世紀前半のSFの大半は、わずかな例外を除き、退屈なB級C級作品ばかりでした。そうしたものが花盛りな時代だった。文字通り、半世紀も前に“ウェルズにより乗り越えられてしまって”いて、それ以上見るべきものは無かったのです。

ですが彼は、ある種の直感のもと(前述の『ボルヘスの北アメリカ文学講義』の中では、「探偵小説は次第に、スパイ小説とサイエンス・フィクションに取って代わられてきている。」とまで述べています。確かに、そう思わせる時代でした)、そのB級C級の中にA級へと通じる可能性を見出そうとして、あれやこれや模索しています。

ボルヘスの晩年彼の秘書役(盲目となったボルヘス相手に朗読する等)を務めたアルベルト・マングェル氏によれば、「ラヴクラフトの物語については、彼は何度も何度も私に読み始めさせては途中で打ち切らせてしまったのだが、その苛立ちにより、彼はラヴクラフトの「正しい」版なる作品を執筆し、『ブロディーの報告書』と題して出版することとなった」そうです(『読書の歴史』1999年柏書房)。

本物の文学グルメであったボルヘスには、B級グルメが耐えられなかったのでしょう。しかしB級グルメもまた味わわねばならぬという、ある種の使命感があった(現に、B級グルメが流行していましたから)。そうして、B級グルメとなることを潔しとしないのではなく、B級グルメになれない(B級グルメを楽しめない)自分を潔しとせず、B級グルメたらんとする作品を幾つか残しているようなのですが、――いずれもあまりうまくいっているとは思えません。

『ブロディーの報告書』はまずまずですが、同じラヴクラフト風の『人智の思い及ばぬこと』(『砂の本』(1980年集英社)所収)は、「どうだろ?」ぐらいの感想でしょうか(ボルヘス本人も「嘆かわしい結実」(同P163)と評していますが)。

さらにSFとなると、盟友ビオイ=カサーレスのまあまあのSF『モレルの発明』を「完璧な小説」と評してみたり、同じくビオイとの合作『不死の人々』(『ブストス=ドメックのクロニクル』(1977年国書刊行会)所収。作中のエリック・ステイプルドン博士は、『スターメイカー』の作者から取ったんだろうか?)を、「私の最上の作品のひとつ」(『ボルヘスとわたし』(2003年ちくま文庫)P334)と注釈したり(どう読んでも、“陳腐”な作品としか思えないんですが)、何ともピントがずれている(まずまずこなれている推理小説のジャンルに比して)。あるいはB級にはB級たる資質があるのかもしれません。(B級を狙ったA級は、C級に堕する、という訳です。)

つまり、SFを書いても、評しても、ウェルズを超えることが出来ない。それどころか、B級にすらなれない。なのに、SFこそ未来の文学である、とんでもない可能性を秘めている、将来文学はこの方向へ進んでいく、という正体不明の、論証不能の、漠とした直感、予想のようなものがあった。それが何物なのか、何を意味しているのか分からず、彼は日々もどかしく思い続けていた、という気がしてならないのです。

その何物かの正体を、ズバリ、私は先程書いた“知の迷宮中の小さな穴”だと申し上げたいのです。彼は二十世紀の前半を生きた人でした。確かにその間、くだんの穴は蟻の巣穴でしかなかった。だが後半の半世紀、それは膨れ上がり、知の迷宮に大決壊をもたらした。迷宮の構造を根本から覆し、新たなそれに再編してしまう程の。彼が上位と見た数学や哲学が、急成長した自然科学の見出した“真理”により、根底からその在りようを揺さぶられた(自然科学が工学の大地を離陸したのに対し、数学や哲学は普遍真理から人類(という一生物種)にとっての真理に格下げされる危機にある。論理も時空も諸概念も、所詮は人類種のつかの間持った知恵に過ぎないのだから)。そしてこうした最新のテーマを扱ったSFが、ボルヘスが致命的に老いた頃から徐々に現れ出した。すなわち、諸々を乗り越えたウェルズを、さらに乗り越えるSFです。ボルヘスが思いも付かなかった、しかし薄々その出現を予感し、恐れかつ憧れていた最良のSF、未来の文学とは、こういうものだったんじゃないか(もし今ボルヘスが(不死の人のごとく)生きていて、その文学脳も全盛期に近いレベルで冴えていたら、――そうしたSFを読んで、――私が予感し、読みたく、そして書きたかったSFは、まさしくこうしたものだったんだよ! と、深く頷いたんじゃなかろうか)。

しかしとうとうボルヘスは、そういうSFを知らぬまま、世紀後半の途中で逝ってしまいました。ただ未来の文学への予感と憧れのみを残して。

……とまで書いてしまうと、彼にとっての見果てぬ夢のSFと彼との関係はあまりに哀れですが、――実は、そうじゃあない!(ボルヘスが、憧れつつもついに最良のSFに手が届かなかったという断定は、とんでもない見当違いかもしれません。)――話はボルヘス風にグルリと円環を描いて戻ってくるわけですが、彼は実はそうしたSFへの見果てぬ夢を抱く以前に、すでにそうした理想のSFを知らぬ間に書いていたんじゃなかろうか。もしジョルジュ・シャルボニエが言う通り、ボルヘスの最良の作品群が、広義のSFに含まれるのならば、――という訳です、私が言いたいのは。

つまりボルヘスは、来るべき文学の予言者であり、それに憧れ求め続けた求道者であり、そして実は期せずしてすでにそれを実現させてしまっていた先駆者でもあったという訳です。

――もしボルヘスが恐ろしく長寿で、今を生きていたら(今の自然科学も、SFも、知り尽くし、知の迷宮のどこにも穴が無いとしたら)、彼はまるで別の作家に、史上最高の(もちろんウェルズを凌駕した)SF作家に、豹変していたかもしれません。二十世紀前半のボルヘスとはまるで違う、二十世紀後半のボルヘスに。そうした架空の作家の活躍を、想像してみるのも楽しいことです。ですが、現実には、彼はいない。――ならば、ボルヘス風に、居るものとして彼の書くだろう作品の再現を試みてはどうか。――史上最高のSF作家の作品の再現など、とてもじゃないが私などには(そして誰にも)及びも付かぬことでしょうが、わずかなりとそうありたいと願い、日々夢想に夢想を重ねている次第です。

 

(それにしても、)何故、ボルヘスなのか。

何故、あまたいる幻想作家の誰かではなく、ボルヘスなのか。

何故、ボルヘス○世だ、○○○のボルヘスだが(長嶋二世だ薩摩富士だのごとく)あまたいる中で、ボルヘスのみがボルヘスであり、追随するその他の者はボルヘスになり切れぬニセモノ、単なる幻想作家の域を出ていないのか。

ボルヘス作品といえば“幻想文学”のジャンルに分類されるのでしょうが、何故世に溢れた凡百の幻想文学と、ボルヘスのそれは決定的に違うのか。――私の考えをズバリ述べるならば、それは

『長射程の奇想』

に尽きます。(私はそう、名付けたい。)

 

“幻想”ではなく、“奇想”。そして“短射程”(細切れの出来事)ではなく、“長射程”(普遍的な現象、法則)です。

特にこの“長射程”という意味において、ボルヘスは他の幻想作家と決定的な一線を画している(だからこそ、“幻想”ではなく“奇想”、であるともいえる)。――長射程とは、“普遍”的である、という意味です。ある個人にある時偶然起こった特別な出来事、ではなく、誰にでも起こり得る、いやそれどころか、起こらなければ(理屈上)おかしい、という現象(理屈上そうなるから、単なる“幻想”ではなく、“奇想”なわけです)。従って、他人事ではなく、その奇想が“ザーヒル”のごとく念頭から離れなくなり、いつまでも(しばしば一生)身につまされ続ける……。

ボルヘスの作品は、こうした長射程の奇想に満ち満ちている。――他の凡百の作家のような、感性に訴える瞬間的な恐怖でもなく、緻密に編み込まれたプロットによるあざとい衝撃でもなく、また夢のごとき薄らぼんやりしたファンタジーとも違う。形而上学と高等数学により構築された、硬質な建造物(迷宮)です。硬く(グニャグニャしていない)透き通った(理解しようと思えばすべてが見晴らせる)感傷癖を拒否した、時間や記憶や神や論理やあらゆる象徴やを封じ込めた、水晶構造のごとき物体です。

長射程の奇想は、また一方SFの“命”でもあります。良質のSFほど、“長射程の奇想”が冴え渡っている。“科学”(カッコ付きですが)という“臍の緒”により、物語と我々(現実)は結び付けられ、単なるファンタジーとは違う、普遍性と“身につまされる思い”が生み出される。ファンタジーでは幻想的な世界を我々は一時訪問しそして帰ってきますが、SFでは普遍的なそれが向こうからこっちの世界、我々の現実に乗り込んでくる。

これは手前味噌ですが、拙作『続・不死の人』でも、そうした“長射程の奇想”から話が始まっています。つまりとんでもない奇想にもかかわらず、物語を語り終え、すべての世界の秘密が解かれてしまうと、そうでなければおかしい、その奇想こそが真理である、と思わざるを得なくなる、そうした仕掛けです。(対してやはり拙作『時鏡・連作』の方は、同じ奇想でも、ある鏡に生じた特別な現象ということになり、すこぶる面白い奇想だとは自負しているんですが、射程としては前者よりはかなり短いことになります。)

同様の理屈で、そのためボルヘスの作品はSFチックに読め、SFの要素を取り込んでいるからこそ他の幻想文学とは隔絶したものとなっている。そして出来のいいSF(上記の“命”を宿したもの)は、ボルヘス的印象を読者に与え、ボルヘスこそ最上のSF作家であったとつくづく思い知らされる。こうして、ひとつの円環が巡らされる。

ボルヘス自身、こうした“長射程の奇想”を思わせる作家について、幾人か言及しています。

例えば彼は、ウェルズとヴェルヌを比較し、ヴェルヌはただ「勤勉な職人」(『異端審問』P133)に過ぎないが、ウェルズは「一文学者であるよりは一個の文学であった」(同P136)「彼の手法の他の先駆者達より無限にすぐれている」(同P134)とまで評している。これは単に、短射程のヴェルヌ(ごく短絡に言って、彼のSF的空想の数々は、アッという間に実現してしまいました)に対し、長射程のウェルズが圧勝した好例といっていいでしょう。

またカフカについて、「おのおのの作家は自らの先駆者を“作り出す”のである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、我々の過去の観念をも修正するのだ。」(同P162)と書いています。つまり創造者のすぐれた奇想の長射程振りは、未来ばかりか過去にまで遡って、我々の観念体系を再編成してしまう、という意味です。カフカもまた、他の幻想作家とは、ひと味もふた味も違う作家でした。その奇想の普遍性、つまりは“長射程”振りは、“不条理”文学という、新たな文学・哲学にまで発展する種を蒔いた。ボルヘスの諸作と同様、“虫”も“城”も、ザーヒルのごとくずっと我々の心に食い込んだままであり続けます。

これら著名作家らの論評は、ボルヘスの“長射程の奇想”好みを、暗に、そして余すところなく匂わせているといっていいでしょう(面白いことに、彼は反面、自信の祖国という身近なものについては、ごく短射程のモチーフを大事にしていました。すなわちガウチョやコンパードレの世界などです)。そして彼のこうした好みは、勿論何も文芸作品ばかりに限ったものではない。読書の好み全般、思索全般に及んでいました。

これは、文芸作品ではありませんが、やはり『異端審問』中のP・H・ゴスの奇想の紹介に、強く心を打たれた経験が私にはあります。そして何十年も後、この長射程の奇想を大変見事な秀作に仕上げた日本の作家によるSFに私は出会いました。山本弘さんの『闇が落ちる前に、もう一度』(『逃げゆく物語の話』(2010年創元SF文庫)所収。初出は、『審判の日』(2004年角川書店)らしい)です。

この、アメリカの創造論者をコバカにしたような作品の元ネタを、山本さんは(私のようにボルヘス経由ではなく)マーティン・ガードナーの『奇妙な論理』という本でお知りになったそうです。アイデアの元ネタ、すなわちP・H・ゴスの思想とは、ごく縮めて言ってしまえば、地球は(宇宙も)数千年前に、古代生物の化石を地層の下に埋め込んだ状態で、天地創造された、というものです。この発想でいくと、これまたボルヘスが紹介しているように、「地球は幻の過去を「記憶している」人類と一緒に、数分前に創造された」(バートランド・ラッセル。『異端審問』P40)でもいいし、「一秒間に40回、世界は創造され続けている」でもよいことになる。

そも、創造論者がバカにされるのは、彼等の主張が間違っているからではない、ありそうもないからです。その主張が間違っているとは、証明のしようがない。しかしそれは、サンタクロースを信じている子供のごとく、あまりに幼稚っぽいのです。オッカムの刃の“スッキリ”さに反する。だから、バカにされる。(マニ教もグノーシス思想も、三位一体もマリア信仰も、余計なものを付け過ぎですよね。シンプルなものが、結局は勝つ。物理学と同じです。一見複雑に見えるだけで、メタな視点に立てば実はどんどんシンプルになる。)

ところがSF的趣向が一枚噛むと、奇想は俄然生気を取り戻す。フィクションの妙です。長射程の“呪い”として、我々の心に残り続ける。『闇が落ちる前に、もう一度』も、そうして成立しています。まさにこれぞ、SFの醍醐味です。落語の“考え落ち”の終わり方ではなく、“考え落ちず”の終わり方です。つまり、終わりがない。読んでいる時だけの小説とは正反対の、読んでいない時もずっと読まされ続ける小説です。ザーヒルのごとく、いつまでも我々の心に居座り続け、それを消費し続けます。いいですね、こういう奇想。

 

歳を取ってくると、残り寿命も短くなるから、暇潰しする程の暇もなくなり、充分に社会化されているから、いまさら他人の人生を覗き見してもちっともおのれの社会化(共感とか成長とか)に寄与しない(シミュレーションにならない)。だから大方の小説は、ますます興味の埒外となる。

その意味で分類すると、芥川賞は覗き見趣味小説で、直木賞は暇潰し小説、ということになるんでしょうか。でも、上記の理由で、いまさら他人の身につまされない生活なんぞに興味はないし(芥川賞ではなく、芥賞と呼びたいくらいだ)、直木賞の大半は退屈な退屈凌ぎで凌ぐべき退屈よりもっと退屈だ。(実例を挙げれば、『悼む人』(天童荒太)は私にとって身につまされるが、『火花』(又吉直樹)はちっとも身につまされない。)

日本の読者も出版社も、実に忍耐強いなあ。同じような話ばかりでよく飽きないものだ。私なんかすごく飽きっぽくて、ハルキストは彼の2、3作目を読んだ途端辞めてしまった。白状すると、『百年の孤独』をまだ読み切っていない。戦争だ革命だのシーンになり似たようなエピソードが延々繰り返される辺りで、ブレーキが掛かってしまう。そうすると読むのをやめて、また冒頭から読み直し始める。だから小説の前半を、延々とループしている(裏表紙を返してみると『’80 7/12』と書き込みがあるから、24歳当時買ったものらしいが、以来40年このシーシュポスから抜け出ていない)。マルケスの手が止まると、ボルヘスを読む。こちらはごく短編ばかりだから、ブレーキの掛かる間もなく読み切ってしまう。

実を言えば昨今のSF作品(特に日本の)にも飽きがきている、食い足りない(飛浩隆氏のような、手練れの例外は無論何人かいますが)。冬の時代の反動か、コアSFであることにアイデンティティーを見出そうとしているようだが、それがかえって凝り固まらせて枯渇しつつあるような印象を与える。未来世界を色々なテクノロジーを用いて体制化するが、あまりにバリエーションが多過ぎて薄まってしまっている。一つ一つの仕掛けは楽しめるが、普遍性への橋掛かりは弱い、つまりラノベっぽい。細切れのSF的要素で空想された未来は、ラノベの異世界と同質で、高級ラノベの域を出ていない観がある。短射程・知的操作の遊戯はあるが(本格推理のネタのごとく)、長射程を提示するというSF本来の持ち味を生かし切っていない、手薄である、そこが脆弱性と映る。(ウェルズの『タイムマシン』においても、未来との往還が面白いのであって、エロイ人とかモーロック人とかいう未来世界のあり方は、別のものに差し換わっていても大差ない。)――私が『三島記』『さかまくもの』『深い淵の女』のシリーズに、過去(アノ世・歴史)と未来(情報界)の両翼を持たせたのも(それも、無限に開かれた両翼)、上記のごとき拡散して薄まってしまった(知的操作に偏り過ぎた)未来イメージへの反発があったからかもしれません。そして両翼の中間には、無論現代がある。つまり今の我々とつながっている(我々から切り離され過ぎた、遥かな未来ではなく)。それも、未来と過去、コノ世とアノ世をゴタマゼにしたカオスに(人間が皆不死だから、時間経過が人にとって意味を持たなくなり、ゴタマゼのカオスになる)、尋常ならざる形でつながる、関わることとなる。

――とまあ風呂敷ばかりは広がり放題広がりますが、“長射程の奇想”を実践するのは実に難しい。凌ぐ程退屈な時間も残りの人生に残っていないので、“長射程の奇想”を、読み、且つ書き、味わい尽くしたい、浸り切りたい、と日々思っているのですが、読みたい本もおいそれとは見付からないし、書きたい閃きも降ってくる気配もない。そこでまた、ボルヘスに戻ってしまう。つい、手に取る。汲めども尽きぬボルヘスの作品群を、“ザーヒル”のごとく消費し尽くすために。

2018年11月6日公開

© 2018 岩田レスキオ

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