影なき小説家(ペイパーバック・ライター) 第15話

影なき小説家(ペイパーバック・ライター)(第15話)

勒野宇流

小説

4,023文字

   (第15話)
 
 
 1冊分を書きあげた依本は内田に送った。
 
 デビュー時には、直接手渡すか、書留で送るかだった。それが今や、メールに添付するだけとくる。レトロな感覚を持つ人間としては、まったく手ごたえがない。
 
 依本は昼飯を食べたあと、すぐさま2冊目に取りかかった。ほんとうに筆が順調に進んでいる。内田から、ざっと読んだところ問題なさそうだという、色よい感想が返ってきて、さらに気分が上向いた。
 
 依本はキリのいいところでトイレに立った。
 
 スッと椅子から立ち上がってトイレで用を済まし、戻ってまた椅子に腰をかけることに、今でも違和感を持つ。内田が前渡し金を置いていってから食事がまともになったので、ふらつくことなくトイレに行けるようになった。しっかりとした足取りが奇妙に思えるくらいに、一時はフラフラの状態だったのだ。
 
 ひと息に20枚書き、依本は大きく伸びをした。うしろにゴロンとひっくり返りたい気分だったが、椅子に座っているのでそれはできない。
 
 テーブルの上の競馬新聞を取る。そしてバサッと開いて馬券の検討に入る。
 
 中のページは引き抜いて部屋の隅に投げる。競馬新聞はどれも同じレイアウトで、第1面にメインレース、裏面に特別レースや最終レースだ。中に挟まったページには、午前中や昼過ぎの平馬戦が載っている。
 
 競馬は工場勤めのときから毎週欠かさずやっていたが、その時は準メイン、メイン、最終あたりにしか手を出さなかった。なにしろ妻からもらう小遣いが3万円だったのだ。全部のレースに手を出したら、タバコも買えなくなってしまう。
 
 手当たり次第にレースを賭けまくったのは作家になってからで、正直言って原稿料をいくらつぎ込んだか分らない。その頃、真ん中のページに目を通せることが、ことの他うれしかった。つまりは全レースできるほどの稼ぎがあったということだ。
 
 しかしそれは長く続かない。次第に仕事が減っていって賭け金の捻出が苦しくなってきた。一旦強い刺激を受けると弱い刺激では満足できないもので、賭ける額はなかなか落とせなかった。しかし実際に収入はなく、財布に合わせてちびちび賭ける気になれず、全面的に競馬から遠ざかってしまった。今までのように野放図に使っていたのでは日々のご飯代が事欠くのだからしょうがないというものだ。それでも20年以上続け、依存症とはいかないまでも生活の一部になっていたので飯代を少々削っても続けていたが、削る部分まできれいになくなってしまった。海水浴で砂山を作って棒倒しをやるが、あの砂山がもう小さくなりすぎ、小指のひと掻きで倒れる。そんな状況までいったのだ。
 
 その当時週末のコンビニで競馬新聞を見るたびに、自分は本当に落ちぶれてしまったなと実感させられた。
 
 今回、せっかく久しぶりに金が入ったと思ったら、それをすぐ呑み代と競馬代に充ててしまう。まったく救いようのないクズだなぁと依本は自分を蔑むが、クズの部分がないと成り立たないのが小説家という職業なので、これはしょうがないことでもあると納得していた。
 
 深夜まで書き進めた依本は、原稿を保存してパソコンを閉じた。そして冷蔵庫から缶ビールを出し、競馬新聞を広げた。書きかけ原稿のキロバイト数がグンと上がっていることが、ビールの味を引き立て、馬券検討に熱を込められる。
 
 世に新人賞は数多くあり、その賞金額はマチマチだが、50万、100万円辺りが多いだろうか。小さな団体の主催で5万程度のものもあれば、破格の1000万円などというのもあるにはあるが、それらは例外だろう。依本が取った賞は、100万円だった。
 
 新人賞を取った作家というのは、その賞金をどうやって使っているのだろうと、依本は思う。実に興味のあるところで、さまざまな作家から聞き出して一冊の本にまとめればベストセラーになることだろう。だがおそらく、本当のことを語ってくれる作家が少なくて本にはならないに違いない。文章書きは長い間、人から認められないという鬱屈した意識を持ち、その反動から人に言えないような散財をした例も多いはずだからだ。
 
 依本の場合は明快だった。半分近くを馬券にぶち込んだのだ。
 
 賞金の100万円が口座に振り込まれるとすぐさま40万おろし、その週末、彼はポケットに心地好い重さを感じながら東京競馬場へと向かって行った。工場勤めの間にずっとずっと夢見ていた、新人賞を取ったら賞金を握り締めて競馬場へ乗り込むぞ、ということを実行したのだ。
 
 このことを人に話せば、あるいは豪快という褒め言葉が返ってくるかもしれない。しかし依本本人の気持ちは逆で、この一件のさまざまな部分で自身のみみっちさが表れた、苦い経験となっていた。
 
 夢が叶って、依本は勇躍競馬場へと繰り出した。それはいいのだが、それにしてもその金額が40万円とは。依本は思い返すたびに、その額に泣けてきた。当時は家庭があったので全額をバーンと使うわけにいかないのは仕方のないところだが、それでもきっちり半分使ったらよかったのに、と考えるたびに思う。新人賞を取ったら賞金額の半分を使うぞ! と長く誓っていたのだ。実行可能となったら十万ほどケチってしまうところがつくづくせこく、小物だなぁと思わずにいられなかった。
 
 賞金から、とりあえず当時の妻に30万円渡した。しかしこの30万円というのもけちくさい。妻と競馬、50万円ずつどうして半々、すっぱりいかなかったのか。ところが何故だか30万円。渡すときに、税金なんかがいずれ来てたいへんだからとかぼそぼそ言い訳がましい言葉を付け加えたことを、今でも覚えている。妻はしかしそれは気にせず、単に30万円という余禄を喜んでくれた。あの喜ぶ顔を思い出すたびに、50万円、ポンと渡してやればよかったなぁと後悔する。少なくとも競馬資金と同額にするべきだったろう。
 
 それでも40万円を懐に抱えて競馬場への凱旋は、わぁと叫びたいくらいうれしいものだった。ちょうど雲一つない青空の日で、地球って自分のためにグルグルしちゃってるのかしらん、と依本は京王線から降りたときにニヤついてしまった。
 
 しかし気持ちの別の部分では、東京競馬場へ来ちゃったなぁと苦いものも感じていた。賞金を握りしめての競馬場参りは浦和競馬場か船橋競馬場、というのが長年の願望だったのだ。
 
 工場勤めはつらい。夏は汗だくで冬は凍えて、それでも毎日毎日、単調な作業をこなしていく。指先がささくれ立つのは冬だけだが、心は通年ささくれ立っていた。つらくても自分で使えるのは微々たる額。あとは生活費に回される。昇給がストップしていたので、小遣いは一向に増えない。馬券の購入も呑み代も、次の給料日までチマチマと配分を考えながら、といった有り様だ。ときおり競馬でハズれが続き、給料日前の週末は見(ケン)しなければならないこともあった。いずれ新人賞の賞金を握りしめて競馬場で散財してやるぞ、と何年も何年も心に秘めながら作業をしていた。
 
 そのとき秘めていた計画では、散財の場は浦和か船橋だった。なにしろ中央競馬と違って平日の昼しかやっていない競馬場だから、依本にとっては仕事を辞めないと行けない場だった。しかも客は年金暮らしの年配者が多く、景気よく金を賭ける者はほとんど見当たらない。そんなところに大金を持ち込んで、好きなだけ賭ける。それが彼の、いくつかある「やってみたいこと」の一つだった。
 
 中央競馬であれば一日に50万や100万使う客など珍しくもない。それに敷地も広く、依本がレースごとに万単位でつぎ込んでいっても注目されることなどまったくない。しかし、狭く閑散とした平日の浦和や船橋では違う。細々と小銭を賭けている客たちの中で万札を賭けつづければ、あいつすげぇなと注目を浴びることだろう。彼は一度それをやってみたかった。しかし結局は土曜日まで待って、府中へと向かったのだった。どうしてかというと、大金をはたいて注目をあびることに怖さを覚えたからだ。中央競馬で注目されずに楽しもう、と直前で考えを変えてしまった。これも、自身の器の小ささを露呈する一件だ。
 
 それでも府中に着き、東京競馬場に入り込んだときはそれなりの感慨があった。お昼近くに着いて障害レースの未勝利戦からはじめたのだが、それがいきなり的中。馬連で1000円ずつ総流ししたのだが、中穴が来て1万円浮いた。よろこびと共に、40万持ってきてなんで1000円ぽっちの流しなんだという後悔も同時に持った。これもまたみみっちい。
 
 その後特別レースまでコセコセ賭け、ようやくメインレースで大きく賭けた。ハズれてしまえば所持金は一気に3万ぽっちになる。レースのとき、服の上からでも心臓が高鳴っているのが分かるほどだった。
 
 結局おさえが的中して15万戻り、持ってきた額の半分ほどには回復した。それを全部最終につぎ込む、ということであればまだしも初志貫徹と言えるのだが、メインの興奮でどっと疲れが回ってしまい、最終レース前に帰ってきてしまった。まったく賭けずに、だ。思い描いていた願望のことごとくが中途半端で、どうにも間の抜けた凱旋となったのだった。
 
 あのときのことを思い出すたびに苦笑してしまう。依本はもし詠野説人作品の仕事がこのまま順調に続くようだったら、久々に府中競馬場に行ってみようと思った。そこそこの金を持って、そこそこの金額を賭けて。初めからそこそこと割りきっているのなら、そこそこというのはちっとも悪くはないというものだ。
 
 依本は冷蔵庫にもう一本ビールを取りに行った。夏の熱気に絡みつかれた体の中に、その冷たい液体は実に心地好い。
 
 
 

2017年12月31日公開

作品集『影なき小説家(ペイパーバック・ライター)』第15話 (全19話)

© 2017 勒野宇流

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