(第16話)
「大葉」で、久しぶりに女神と会った。
もっとも会ったからといって話をするわけでもない。知り合いでもなんでもないのだ。単に見かけた、という程度だ。
その日はすいていて、L字カウンターにはだれも座っていなかった。依本は例によって端に座って、寄り掛かり気味にちびちびやっていた。そこに、L字の角に女神が座った。スッと、という感じだ。いかにも軽そうだ。それなのに、フワッと風が流れてくる。依本はなんだか不思議だった。女の方から依本の方に目を向けることなく、カウンターに向かって生ビールを頼んでいる。
――― また単独かぁ。
ぼんやりと思う。ほんとうに飲み歩きが趣味なのだろうか。
依本はジョッキを手に、いつしか詮索していた。しかし露骨に目を向けていることに気づき、我に返った。そして体を正面に向けた。そうそう、せっかくすいているのだから、書き物をしない手はない。依本は内ポケットから小型のメモ用紙とノック式のボールペンを出した。そして串を3本頼んだ。
小説好きで絶えず本を読んでいた依本だが、書き始めたのは30歳に近付いてからだった。平凡な工場勤めの毎日だったがそれなりに面白いこともあり、職場でのことを一つの中編に仕立てて新人賞に送った。それが幸運にも、最終選考まで残った。
依本は当初、賞に送ったことすら忘れていた。たまたま何かのはずみで思い出し、出版社のホームページを開いてみるととっくに1次の通過者一覧がアップされていて、その中に依本の名と作品名があった。
うれしかったが、感激というほどではなかった。1500ほどの応募数に対して約1割の130編が残っていて、割合としてはたいしたことがなかったからだ。それまで新人賞に送ったことがなかったので、1次通過の難しさを認識していないということもあった。文章や構成さえある程度整っている作品は、とりあえず1次程度は通過させるのだろうくらいに考えていた。
この辺りで大喜びしてしまうのってちょっと悲しいなぁという、尊大でひねくれた思いも少しはあった。それと同時に、あまり浮かれてしまうと2次で落ちていたときにがっくりきてしまうぞ、という自己防衛の気持ちもあった。だからうれしさを抑え付けてしまってもいた。なにぶん大手出版社の賞なのだ。初めて書いた作品でそう簡単に取れるわけはない。だから今後の最良の過ごし方としては、今残っている作品のことは置いておいて、次の作品を書き始めることだと思った。残った130人の中には当然大喜びしている応募者もいるだろうが、そういった者は2次の発表を今か今かと指折り数えながら過ごしているはずだ。そんな人たちとは、なんとなく一線を画していたかった。
2次の発表を見たのも、ホームページにアップされてしばらく後だった。さすがに2次までは無理だろうと予想していたのだが、意外にもタイトルと名前が載っていた。通過者は25名。つまりは応募総数の2パーセントだ。ここにきてようやくうれしさが込み上げてきた。自分はけっこう、今まで気付いていなかった能力を秘めているんじゃないかとも思った。
そこからは最終候補の発表を、首を長くして待つことになる。本当は、なんてことないとすましていたいのだが、しかし抑えても気持ちが勝手に浮き上がってしまう。毎日のようにそのことを考え、通過していたことを想像してにやけたり、落ちていたときのことを思って不安がったりした。
最終候補の発表は、アップしたその日に観た。2次通過者一覧の末尾に最終選考の発表は2ヵ月後と記載されていたにもかかわらず、2次通過を見た翌日から毎日ホームページを確認し続けた。発表を見つけた日も、その日何度目かのアクセスだった。
最終に残ったのは5作品。そこに自分の名前と作品名を見つけた依本はじっと見つめたまましばらく動けなかった。
そこから受賞の発表までが長かった。それこそ24時間、頭から離れないのだ。
一般的に、受賞者には発表の前に連絡が入る。それくらいの知識は得ていた。依本は連絡を心待ちにしたが、電話は鳴ることはなく発表の日を迎えてしまった。
落胆は大きく、その日は夕飯も食べずに寝た。しばらくはなにもする気が起きず、ぼんやりとした日をすごした。生活の中にしっかりと根付いてしまった張りというものが、その日で失われてしまったのだから仕方のないことだった。
しかししばらくすると、ようやく次の作品への意欲がわいてきた。こうしてはいられない、と思えるようになった。
1発目で最終候補までいったのだから受賞は近いだろうと考えた依本だったが、そこから文学賞の厳しさを味わうことになる。1年間、毎月のように送り続けたのだが1次通過すらなかったからだ。彼は最初、1次の発表を見て何かの間違いだと思ったほどだ。郵便事故で届いていないのではと疑ったりもした。
しかし落選が1年、2年と続けばイヤでも現状を受け入れるようになる。ようは文学賞というものは募集する側の好みや状況によってまったく結果が違ってくるということだ。
結局新人賞を受賞するまでには長い時間を要することになった。
依本はホッピーをちびちびやりながら結構な分量を書き込んでいた。すいているのをいいことに、腕を広げて伸びをした。
角の女神はいなかった。依本は落胆すると同時に、女神が帰ったことすら気付かずに没頭できたことに満足感を持った。
日本酒に切り替えた依本は、おちょこに注ぎながら、やっぱり女神の存在が、筆運びを滑らかにしてくれたのかもしれないなと、薄く笑いながら思った。
"影なき小説家(ペイパーバック・ライター) 第16話"へのコメント 0件