(第11話)
詠野説人。こう書いて「えいのぜっと」と読む。謎の作家で、プライベートな部分はほとんど知られていない。昭和30年代の生まれ、東京都出身、血液型A型、男。公式な情報としては、こんな程度。若い女性が読者ターゲットの推理物を量産し、昭和後期から現在まで、40年近く売れっ子作家の地位を保っている。
住所や電話番号などは論外としても、いかに姿を隠したって、この時代では多少の情報は流れるものだ。例えば家族構成や卒業した学校、職歴など。しかしそんな、ありきたりともいえる情報まであやふや。いくつかの説はあるが、そのどれもが明確ではない。はっきりしているのは、当たり障りのない、奥付の著者紹介文程度の情報に限られている。
唯一、本好きに広く知られているのがペンネームの由来だ。詠野説人という名は、「AノZ」に漢字を当てはめたものだということ。ファンはそれをもじって、紹介文やレビューなどに「A野Z人」や「詠野Z」などと書いている。
ペンネームの意味するところは、作品タイトルがAからZまで、アルファベットすべてを網羅するようにという願いからだ。
それくらい多くの作品を発表したいという願掛けということだが、実際にはその願いを遥かに凌駕している。とにかく圧倒的な作品数で、アルファベットや五十音の網羅どころではない。書店のラック一つ分が、軽々埋まるくらいの数ときている。
自分が関われば気になるのは当然のことで、依本は依頼が来たあと、詠野Zを調べてみた。とは言っても聞き込みをするわけにはいかないのでネットで検索するだけのことだが、この時代は多くの人間がさまざまな角度でネットに載せるので、正誤など気にしなければある程度の情報はつかめてしまう。
ところが詠野Zに関しては違った。検索して出てくるのは作品評ばかりで、人物に関しては情報がほとんど拾えない。今まで特段気にしていなかったが、何重もの壁に囲まれた、謎の作家だったのだ。
依本は思い付くワードを、次々打ち込んでみる。それでも得られる情報は、まったくの噂程度のものだけとくる。
「へぇ、これほど長く活躍しているのになぁ」
現状を知っている依本は、ほとほと感心する。こんなにも多作で名前の知られた書き手が、四半世紀以上も秘密を保っているのだ。依本は感心しながらも、苦笑せずにいられなかった。最初に思い付いた人間はよほどの策士だろうが、引き継いだ者も切れ者なのだろう。もっとも火付け役はこれほどにまで長期にわたるプロジェクトと意識していなかったのかもしれないが、結果としてロングランとなっている。これは、関係する者それぞれの緻密な行動と連携がなければ、とてもここまで続かないというものだ。依本は大手出版社の組織力に恐ろしさを覚える。
しかしまた同時に、詠野Z作品の性質というものにも助けられたと分析する。それに伴う幸運もあっただろう。作為だけでは、そうそううまくは続かないはずだ。
例えば詠野Zのデビュー時期。ネット全盛の時代がデビューでは、こうまで完璧に姿を消せなかったに違いない。昭和の終わりという、まだネットが普及していない時代のデビューだったからこそうまくいったのだ。そしてライトタッチで読みやすい作品ということが、大きい。売れ行きがよくとも賞とは無縁でいられるからだ。賞など出版業界内、あるいは出版社という内輪のことなので、詠野Zを賞レースから外せという根回しは可能だ。それでも社会派の小説であれば、なにかしらのメディアに引っ張り出され、作品を語ることを強要されてしまうことになる。世間のニーズが高まれば、そうそう逃げてばかりもいられないだろう。詠野作品は社会派などとは無縁だが、この辺りは策なのか幸運なのか判別が付かないところではある。詠野Zの多くは文庫書下ろしで、キオスクやコンビニなど、広く扱っている。売れ行き重視の策がライトタッチを選択させたのだろうか。
そして詠野Zは、同じ作風のものを延々と出し続けていくことになる。小説でもマンガでもロングラン作品の書き手というのは、作品の知名度に比して作者の顔が知られていないということが多い。まるで空気のようになってしまうのだ。
謎の人物ということで、詠野Zは多くの異名を持つ。「ペンの魔術師」、「ストーリー製造機」、「影なき小説家」などなど。いずれも、他の作家がうらやむような魅力的な名だ。これはミステリアスな人間の恩恵だろう。素性を知られていない人物は、知られていないという一点だけで魅力的なのだ。
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