(第12話)
謎の人物は伝説も生まれやすい。詠野Zにもいくつか噂があったが、その一つを抜き出すと、このようなすさまじいものだった。
それは詠野Zが、まるでタイピストが原稿を打っていくかのようにパソコン画面を埋めていった、というもの。それも1時間続けたという。なんでもその場に居た編集者が、まるで機械のように打っているので、これはなにか下書きでも隠し持っているのではと疑ったという。しかし覗き込んでも何もない。だいたいにして視線をずらせないほどの、打ち込みのスピードだったという。人間、たとえ原稿があったとしても、脇目もふらずに1時間打ち続けられるものではない。それを、創作しながらやってのけたというのだ。
こんな噂が、詠野Zには多かった。まるで180キロの剛速球を投げたと言われているようなもので、文章に携わっている人間であれば、「それは無理!」と即座に否定してしまうような話だ。当人がいないのだからもちろん創作なのだが、ようはそんな噂が上がるくらい、詠野Zという作家は人間離れした多作ということなのだ。こんな噂話のように執筆していかなければ、とても追っつかないほどの作品数とくる。
尋常でない作品数なのに、質も落ちないときている。神業のような噂が立ち上がるのも当然というものだ。依本は小さく、そうだよなぁと頷く。書き手が入れ替わっているのだから、多作も質の維持も楽にこなしていける。
世の作家にとって、多作というのは羨ましい存在だ。湯水の如く物語を作り出せるということは、最も望む才能なのだ。アイデアをたくさん抱える作家というのは多くいる。しかし思い付いたすべてのアイデアを形にできるものではない。多くのアイデアは頓挫し、あるいは手付かずのままで、寝かされているものだ。
これはなにも小説家だけではないだろう。アイデアを形にする難しさは企業の企画部や商品開発部などにいる人間であれば、よく分かるはずだ。これは売れる、注目を浴びるというアイデアを思いつくことだって簡単ではない。しかし、思いついたアイデアを実行する方が何倍もたいへんだ。とにかく、実現させる、実行する、というのは難しいものなのだ。
作家・詠野Zはいとも簡単に次々作品を生み出す。つまりは量産してしまう。これは書き手だけでなく、誰もがうらやましく感じてしまう才能だ。
謎が謎で通ってきたのは、この文筆業界の持つ特色が影響していることが、まずある。作家は個人作業で、一概に横のつながりが薄い。そしてまた、自分自身の内に篭るので、あまり他人の仕事を気にしないし、当然書き手そのものにも気を払わない。作家というのは単独作業で、他人を気にする必要がないからだ。他の作家が何を書こうが、それがいい出来栄えのものであれ話題作であれ、そんなこと、関係ないことなのだ。
もちろん作家には多少の外出仕事もあるが、しかしそこに、同業者とのつながりはほとんどない。スポーツ選手の試合や大会、ミュージシャンのフェスや番組収録、そんな同業者の集う機会がない。あって文学賞の選考会か受賞パーティーくらいだが、それらは大抵、同じ顔ぶれだ。
そんな業界の性質があったから、これまで謎が掘り起こされなかった。実際依本も詠野Zの名前は知っていたし、作品に目を通したことはあった。しかし、いったいこの謎の人物は、などとこだわったことはなかった。文化や芸術面では、頑なに表に出てこない人物などけっこういるものだ。海外ミュージシャンで言えばアラン・パーソンズ・プロジェクト、ミステリー作家ならA・J・クィネル。どちらもその分野では有名な存在だが、顔はまったく知られていなかった。露出を嫌い、匿名性を重視したからだ。他にも洋の東西を問わず、どのジャンルであろうと表に出ない人物は多くいる。だから依本は、詠野Zもその類だろうと思っていた程度だった。
だいたいにして作家というのは、顔の出ない職業なのだ。依本だってよほどの本好きでない限り、顔など知られていない。受賞後のピーク時ですら、外出時に声を掛けられたことなどなかった。
もう一つ、詠野Zには、デビュー時から発足されている巨大ファンクラブがプライベートの秘匿を推奨していることがある。誰かがしつこく追求すれば、同人世界から攻撃を受け、締め出しを食らうことになる。別に訴えられるわけではないので、依本にはその反撃がイマイチぴんとこない。しかしファンであるならば、それは厳しい仕打ちとなるのだろう。このファンクラブが作る詮索禁止の雰囲気が、秘密の保持に大きな役割をしているはずだ。
依本はこれに関しては、少し勘繰る。ファンクラブの中枢は大手出版社に雇われた人間なのではないか。そして詠野Zというブランドの番人をさせているのではないだろうか。
雇うといえば、もしかしたら誰か実際の人物に、詠野Zになってもらっているのかもしれない。影なき人間では税金関係で問題になるからだ。もっともこの辺りの操作は、大手出版社なら手慣れたものだろう。
長く活躍するベストセラー作家がどれほど出版社に貢献するのかは分からない。しかし詠野Zは相当な年月、ドル箱になっているはずだ。そんなビッグ・プロジェクトに何故自分が抜擢されたのか、依本はまったくもって不思議だった。
そしてまた、もしもばれた場合はどうなるのか。連座して名が挙がるのだろうか。依本は窓の枠に肘を乗せ、煙を吐きだしながら考える。まさか警察に捕まるなどということはないだろうな、などと。しかし訴訟に巻き込まれることは考えられる。
「まぁ、そうなったらそうなったまでだな」
ため息とともに呟く。大河で雑魚一匹が抵抗したってどうにもならないというものだ。流れのままに泳いでいくよりない。
そしてまた、こうも思う。もし挙げられたとしたって、たいした不利益はないのではないだろうか、と。むしろそれによって知名度が上がり、復活のきっかけになることだってあり得る。
もとより失うもののない立場なのだ。多少の気味悪さは消えないが、せっかくだから詠野Z作品をトコトンやってやろうじゃないかと、覚悟を決めた。
「それにしても、効くなぁ」
依本は大きく煙を吐きながら、じっと夕日を見つめる。貧乏していると、その赤く揺らめく大玉が、心に効くのだ。えんじ色がかり、側面をゆらゆらと揺らす初夏の夕日はズシンと響く。
あまりに気持ちを沈ませると詠野Z作品の進行に支障をきたす。依本は立ち上がって灰皿にたばこを押し付けると、流しで乱暴に顔を洗って、再び机に向かった。
"影なき小説家(ペイパーバック・ライター) 第12話"へのコメント 0件