(第9話)
松江は以前から、依本の落ちていく様を聞いても、同情や慰めの言葉を吐かなかった。依本が書けなくなり、仕事が減り、そしてなくなり、収入が激減すると同時に離婚もし、寂れた一間のアパートに転落していったが、
「そうか」
という一言しか反応しなかった。
他人のプライベートに対して興味がない、というわけではない。松江が反応を示さなかったのは、『文学を志す者は、生活などどうでもいいという超然とした心が必要だ』という意識があるからだった。
松江が言うには、文学でも芸術でも、永年脈々と続く文化に取り組むのであれば、人ひとりの生活なんか取るに足らないとのことだ。この世にはこれほどたくさんの人間がいるのだから、依本一人くらいが文学に身を捧げたところで、なにも変わりはしないと言う。
乱暴な意見だなぁと、聞いた当時は腹を立てた依本だが、それは時間を経るごとに、じわじわと心の奥底に根付いていった。たしかに、誰かに迷惑をかけるわけでもない。へんにブレず、いち小説家として生涯を終えるのもいいかもしれないと、まぁ一つの生き方だろう、という境地に達していった。松江が言うには、文化に身を捧げるものは、落ちぶれるのも一つの策だという。生活が荒れるといい作品が生まれる場合がけっこうあるというのだ。
その松江の言葉が心に残っていたから、依本は生活費の心配をしながらも、履歴書を提出しないで破り捨てたのだ。
そんな、文学ファンダメンタルのような松江に対し、ゴーストの仕事を受けたなど、とても言えなかった。
揚げ物を中心としたつまみが並んだテーブルの先で、松江が表情を和らげていた。松江は依本の実生活よりも創作活動が順調という方が喜ぶのだ。
「松江の方はどうなんだ。本は相変わらず出してるんだろ?」
「まぁな。需要が増えもしないかわりに、なくなりもしない分野だからな。でも本は出してるけど、おれの名前は載らないからな」
「そうか。ゴーストの宿命だな。せっかく松江が文章を頭からひねり出しているのに、惜しいことだよ」
「しょうがないよな。でもまぁ将棋の本に関しては、完全なゴーストという訳じゃないけどな。通常のゴーストと違って、単に数回聞き取りするだけじゃ済まないからな。細かいやり取りが必要だから、棋士にも相当負担がかかるよ」
「でも棋士は自著として売れるじゃんか」
「そうだな」
「取り分って、どうなってんの?」
依本はさりげなさを装って聞いてみた。どう装ったのかというと、視線を合わさず、箸を動かして食べながら、声を抑揚して、だ。その演出が生き、松江が無造作に答えた。しかし入ってきた客の声と店員の声が重なり、残念ながら松江の声はかき消されてしまった。
松江との呑みはいつも終電ぎりぎりとなるのだが、この日は松江が翌朝早いということで9時にお開きになった。
――― 5時から9時までなんて、ずいぶん健全な呑みだなぁ。
高架を走る私鉄の車窓をぼんやり見つめながら、思う。まだ呑み足りない依本は、まるで当然のように、最寄り駅で降りたあと『大葉』に足を向けた。
暖簾をくぐり、オヤジに手を上げながら、しかし目は女神をさがしていた。
カウンターに着いてホッピーを頼みながら、小さく落胆する。客の中にあの女はいなかった。そして数秒のち、落胆した自分を自嘲した。あの女を見て、どうだというんだよ、と。
すぐに焼酎と氷が入ったグラスが渡され、依本は『ソト』を両手で注いだ。そして、この店お勧めのタン元とハラミを頼んだ。
たしかに食欲があるなと感じた。依本は新宿の呑み屋で松江に言われた、『健康法は書くことです』という言葉を思い出した。
生活を極端に切り詰めていたので、期限切れの食パンをかじって数日過ごすこともあった。だから、執筆に追われたときに比べて体重が10キロ減った。元々痩せているところに10キロの体重減少は体に大きく響き、急に立つとめまいが起こった。
困窮して食べなくなったということもあるが、松江の言う通り、自身の才能のなさを思い知らされての気落ちからでもあった。書けなくなり、美味しいものを口にする、腹を満たすという欲求が、欠落してしまったのだ。メシなんか、どうでもよくなってしまった。だからぼそぼその食パンだけでも気にならなかったし、むしろそんな味気ないものの方が喉を通りやすかった。
酒の方はだらだらと呑んでいたが、これは好きだから呑んでいたわけではなく、気落ちを紛らわせる手段としてのものだった。その酒が、より食欲を下げていたこともある。運よく酒そのものでは体を壊さなかったが、食事を遠ざけたことで二次的に健康を害していた。
内田が来てまだ何日も経っていないが、体にエネルギーが満ちているのが自身で分かる。
「このままいってもらいたいものだな」
呟き、伸びをした。
"影なき小説家(ペイパーバック・ライター) 第9話"へのコメント 0件