(4章の2)
調子を崩したのが金曜日の夜のことで、混みあうだろう土曜日に医者に行く気が起きず、週末安静にしていれば持ち直すだろう程度に考えて自宅で静養していた。しかしじっと寝ていたというのに、夕方には熱が上がった。やはり午前中に病院へ行っておくべきだったかと後悔したが、もう遅い。しかし悔やんではみたものの、腹のもたれが強い倦怠感を生み、とても玄関を出て行く気力というものが出なかったのだからしょうがない。
翌日曜も快復の「か」の字もなく、もちろん食べ物も受け付けないままだった。そして熱は土曜より上がった。これは家で休んでいるだけでは治らないと判断し、月曜は会社を休み、タクシーを呼んで病院に向かった。
症状を重いと見て、町医者ではなく総合病院に向かった。だるい体を引きずるように受付を済まし、長椅子の端で呼ばれるまでじっと目をつぶっていた。
この待ち時間が長くつらいものだったので、診察の番号を呼ばれたときには、わたしは助かったと小さく呟いた。しかしこれはなかなか皮肉が効いていることで、実は診察室の扉が引き返せぬ道への入口だった。
最初は問診。それから血液検査など、健康診断とたいしてかわらない検査をした。その後わたしは、脱水症状がひどいということで入院を勧められた。
点滴で多少快復したわたしは、翌日から精密検査を受けた。とにかく体力の消耗がはげしいということで、入院しながら検査をすることになった。わたしは重要な仕事を抱えているわけでもなく、有給休暇もたっぷり残っていたので、病院の言うとおりにした。
そこで困ったのは、身の回りの世話をしてくれる人間がいないことだった。両親は他界していて、妻どころか付き合っている女性もいない。親戚付き合いもほとんどない。わたしはその後余命の宣告を知らされることになるのだが、この時点でもまだ重大な病だとは露ほども思わず、入院に際しての心配をしていたのだから、これまた皮肉というものだ。
精密検査では腫瘍マーカーの検査も行い、そこですい臓に異常がある可能性が高いと説明を受けた。さらに画像診断の結果、先端の部分が白く濁っている、ということが分かった。担当医は問診とわたしの状態で内臓のがんというくらいは見当を付けていたのだろうが、表情にはまったく出ていなかった。だからわたしも察することができなかったということがあったが、検査で異常部分がすい臓だと判明したことで、途端に担当医には沈鬱な表情が浮かんできた。胃や腸など他の器官と違い、すい臓のがんは見つかった時点でほぼ治りようがないからだ。
それまでに、本当に何一つ兆候というものがなかった。わたしは検査後に余命が半年と告げられたわけだが、たった一週間前にはまったくの健康体で暮らしていたのだ。
いや、実際はいつもよりだるいなと感じていたし、ここのところ腹の調子がよくないなぁとも思っていた。下痢と便秘が交互に襲ってきて、なにか最近変だという意識はあった。
しかしその程度は、ときおりはあることだろう。立ち上がれないほどのだるさや、脱水症状を起こすほどの下痢ならともかく、日常生活にさしたる支障がなければ、大病に直結していると疑う者などいないに違いない。それくらいの具合の悪さががんに直結するのなら、世の人々は年に数回はがん検診を受けなければならないというものだ。少なくとも、これはたいへんな病気かもしれないという危機感など、これっぽっちも持たなかった。
つまり一週間前までは、寿命なりがんなりが自身に関わってくるなど、一瞬たりとも考えなかったのだ。
健康診断を受け、そこで体の異変を告げられ、治療も虚しく帰らぬ人となった者は周囲に何人かいた。それはそれで、落胆し、身悶えたに違いない。それでも彼らはまず、審判に突きつけられたのがイエローカードだった。これはたいへんなことになったと、ともかく考える時間は取れた。しかしわたしの場合はいきなりのレッドカード。何が起こったのか、頭の中を整理する時間すらなかった。思いがけず笛を吹かれ、どうした、なにが起こったんだと思う間もなく退場しなさいときたものだ。これでどんな顔をしてピッチを出て行けと言うのだろう。
これが暴飲暴食などラフプレーの常習者なら、笛を吹かれたとしても覚悟はできているはずだ。まぁそうだよな、これだけやってりゃいずれ放り出されるよと。しかしわたしには生活全般を見まわして、反則行為をした覚えがなかった。酒は呑んだが、たばこは吸っていなかった。その酒だって毎晩呑んでいたわけではない。週末、それも気が向いたときに呑んでいただけで、一般的な酒呑みの量よりは断然少ないはずだ。そのうえ強い酒が嫌いで、ビールか水割りが主だった。
たしかに運動不足であったことは間違いないが、極度に肥満というわけではなかった。わたしと同年代で同程度の運動不足など、掃いて捨てるほどいるはずだ。
独り身だったので家庭内のゴタゴタもなく、出世欲など持ち合わせていなかったので、一大プロジェクトに関わって残業続きだったこともなかった。むしろ重要な仕事からは遠ざけられ、定時で上がれる立場だった。
仕事の主流から外れていることで本人が不満に思っていれば、大きなストレスとなるだろう。しかし窓際の方が気楽でいいやと思っていたほどなので、落ち込むことはまったくなかった。他人に比べてストレスの少ない人間で、つまりは内的外的合わせ、すい臓の壊れるような要因はほとんど思い当たらない日常だった。
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