『––キャンパス見学ツアーに参加する生徒は、3時半までに体育館に集合してください。来年から通うキャンパスを、先輩方が案内してくれる貴重な機会です。ぜひ参加してください。繰り返します。生徒会・大学経済学部主催のキャンパス見学ツアーが…』
校内放送の音量が無駄に大きい。ポニーテールの先が首筋をちくとくとくすぐっている。机の上に重ねた腕から顔を上げると、みんなの声でがやがやと震える教室の空気が体に入ってきた。
腕が痺れてジンジンと痛む。砂を詰められたみたいだ。ちょっと腕の内側を見てみると、教科書のヘリが当たっていたところに跡がついて、少し赤くなっていた。
もしかして。
右頬を手で撫でてみると、筋みたいに凹んでいるところがあった。顔にも跡がついてしまった。消えるまでトイレにでもいようかな。
右頬を押さえたままなんとなく教室を見回してから、教科書を閉じてすかすかの机の中に放り込み、シャーペンと消しゴムと赤いボールペンをぎゅうぎゅうな筆箱に無理やり押し込んでチャックを閉める。それをトートバッグにしまって、しばらく座ったままぼーっと背もたれに寄りかかった。
足元に目線を下ろす。すり減った上履き。結局買い替えそびれてしまった。右の席の男子が立ち上がって、ガタガタと椅子を戻す音がした。遠ざかる足音。
私はもう一度顔を上げて、教室の中を見回した。みんなバラバラと出て行く。キャンパス見学ツアーに行くんだろうな。廊下でがやがやと声がする。
なんか、何も変わんないな。
昨日、2ヶ月ぶりに教室に入って自分の席に着いた時、少し椅子の感触がよそよそしく感じて、それが心地よかった。教室全体が、クラス全体がそんな感じだった。でも1日も経てば教室の空気はまた私達の吐いた二酸化炭素で充満する。夏休み前と何も変わっていないみたいだ。変わったのは窓越しに聞こえる蝉の声が、少し控えめな乾いた声になったことくらいだった。
「水野さん、大学見学行かないの?」
前のドアの方から声がして、びくっとして顔を上げると、英語で同じグループになった小池さんが私の方を振り返って見ていた。
「あ、うん。今回は。」
「そっか。じゃあまた明日ね。」
「うん、じゃあね。」
小さく手を振ってきた小池さんに控えめに返すと、小池さんは教室を出て行った。
一人だ。
なんだかなぁ。
私はわざと声を出してため息をついた。
「ふう。」
「水野。」
「わっ!」
私のあげた声は空っぽの教室にやたら響いた。後ろのドアを振り返ると、杉山がドアのへりに寄りかかるようにして立っていた。
「びっくりしたー…」
私はトートバッグを持って席を立ち、ドアまで歩み寄った。杉山が言った。
「行かないの?大学見学。」
「そういう杉山はどうなの。」
「行かない。」
「そっか。私も。」
「だと思った。」
私たちは廊下に出た。今日は映画部がない。みんなでDVDを見る予定だったけど、キャンパス見学ツアーがあるので部室棟は締め切られて使えないらしい。どうしてキャンパス見学ツアーがあると部室棟を締め切るんだろう。よくわからない。
階段を降りながら、杉山が言った。
「どうしよう、このあと。水野は帰る?」
「うーん。」
私はちょっと足元を見ながら考えた。せっかく他のみんながキャンパス見学に行っている時間なのに、このまま帰ってしまうのももったいない。私はあまり何も考えずに言った。
「映画館とかどう?」
「いいね。あ、いや無理だ。俺今日500円しか持ってないから。」
「だめかぁ。」
だとしたらもうあまり行くあてがない。杉山が言った。
「駅前のツタヤでも行こうかな。」
ツタヤか。いいかもしれない。家の最寄のツタヤよりは小さいけど、マイナーなのが意外とあるし。
「そうね。いま一本100円のはずだし。」
「マジで?」
「うん。今月いっぱい。」
「ラッキー。」
乾いたリノリウムの床が上履きの底に貼り付きそうだと思った。私たちは昇降口への階段をのろのろと降りた。
同じ内容を繰り返すだけの、ラジオ風の店内放送が天井のスピーカーからシャカシャカと降り注いでくる。クーラーの冷気もそれと一緒に降りてきていた。私たちはしゃがんだり、また立ち上がったり、背伸びしたりしながら気になる映画のDVDがないか探していた。
カ行。き…く…『苦役列車』。今はちょっと気分じゃない。もう少しエネルギーがある時に観よう。
「なんか、邦画でオススメない?」
杉山が背伸びしてケースを棚に戻しながら聞いてきた。
「あー…えっとね。」
私の膝の高さの段にサ行のタイトルのDVDが並んでいた。ケースの背中を指でなぞりながら探す。
「あった。これいいよ。」
私は黄色い背中のケースを少し引っ張り出して、差し込まれていたクリアケースを取って杉山に渡した。
「へー。どういう話なの?」
「それね、タイムマシンが出てきて一瞬少しSFチックなんだけど、起きる出来事がいちいち全部スケールが小さくてさ、それがなんか、面白いの。」
「へえー面白そう。借りてみる。」
杉山がクリアケースを黒いプラスチックのカゴに入れた。
「大学生の、夏休みの話なの。やりとりもいちいちリアルでね。」
「ふーん。…あ、これ劇団の人たちのやつなんだ。」
「そうそう。」
私たちはまた棚をなぞるのを再開した。し…『しあわせのパン』。うーん。
観たい映画がある気がするのに、映画を観る気分じゃない気もする。手元のカゴに目を落とす。底面にでかでかと『旧作全品100円』というラベルが貼られている。
「なんかさ。」
私が口を開くと、背中側の棚に移っていた杉山が振り向いた。店内放送がまた頭からリピートされ始めた。
「夏休み、みんなで映画作ったりしたでしょ。」
「うん。」
杉山が少しまぶたを上げながらうなずいた。私は続けた。
「すごい楽しかったしさ、なんかすごい、いたのよ。」
「いた?」
「『いる』っていう感じがしてたの、ちゃんと。なんか、ああ生きてるなーみたいな。すごい変われたような、別人になれたような気がして。」
夏休みが思い返された。脚本のノート、川西くんのカメラ、悠里のシュシュ、玲ちゃん、杉山…。書いて、撮って、杉山と編集をして。海辺でやったロケ。学校の撮影。アイス。誕生日パーティ。何とか編集を終わらせて、夏休みの最終日に全員で鑑賞会をしたり。
夏休み最終日は、たった一昨日だったはずだ。何となく、『最終日』と『一昨日』という2つを結びつけるのに違和感があった。
「すごいありきたりな言い方だけど、なんか全部、夢だったんじゃないかなっていう気分になった。」
「あー、俺もちょっとそうかも。」
「なんか、分かるでしょ。学校で居眠りしてる間に9月になってて、夏休みのことは全部夢、みたいな。」
「うん。ちょっと寝すぎだけどね。」
杉山はDVDケースを取り出しながら少し笑って、続けた。
「そのうち全部、そうなるんだろうな。」
そう言ってDVDのケースを眺める杉山を見たまま、私はその言葉に貫かれていた。
「…なんか悲しいね。」
思っていたよりもボソッと声が出た。杉山が少し不安げな顔で私を振り向いた。
「泣く?」
「泣かないよバーカ。」
「口悪いな…。」
私は棚に目を戻した。あまり頭に入れずにタイトルを読み流す。
「…でも、ナツ––水野、変わったっていうか、なんていうかなぁ…脱皮?」
「脱皮?」
セミの幼虫のキャラメル色の背中がパックリ割れる様子が頭に浮かんだ。
「なんかうまく言えないけど、ちょっと変わったよ、やっぱり。でも別な人間になった訳じゃなくて、なんかこう…水野は、水野のままだし。何だろうね。」
「もしかして、ちょっと励まそうとしてる?」
「励ますっていうか、本当にそうなんだもん。うまく言えないけど。」
「へへっ、ありがと。」
杉山は少しきまりが悪そうに中途半端に微笑んで、棚に目を向けた。
私は一度、冷房の灰色なにおいのする空気を吸って、吐いた。そして杉山に向かって、言った。
「ねぇ、杉山。」
「うん?」
「もういいよ。」
「…何が。」
杉山が棚から目をそらして、私を見た。
「もう水野って呼ぶの、やめても、いいよ。」
杉山は目を丸くして、私の目を見ていた。
私はうなずいた。
「じゃあ、えっと……––ナツキ。」
Fin
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