「じゃあ、部長が俺で、副部長がナツキ、でいい?」
杉山が私と悠里に言った。玲ちゃんは体調を崩して、今日は来ていない。3月の終わりだし、季節の変わり目だから風邪でも引いたのかなと勝手に考えた。
「いいでーす。」
悠里が間延びした声で言った。杉山が突っ込む。
「小学生かよ。」
「高校生です。」
「その返し方がすでに小学生。」
杉山は苦笑してから、私に向かって少し小声で言った。
「副部長って言っても文化部だし、そんなすることないから。定例会議みたいなのに出るくらい。」
「うん、了解。どっちみち、二人しかいないしね。」
私は杉山に微笑んだ。杉山は頷いた。
「でも、部員集めないとやばいよね。4人のままじゃ、格下げでしょ。」
私が言うと、杉山は少し表情を険しくして頷いた。
「勧誘頑張らないとなぁ…再来週が一年生の入学式だろ。それでその次の週が、文化部の勧誘週間だから…」
スマホのカレンダーに勧誘週間を登録しておこうと思ってポケットからスマホを取り出すと、ロック画面に通知が表示されていた。
『西野茉理:不在着信 1件』
私は一瞬、固まった。胸がざわついた。でも私は通知を避けてホーム画面を開いて、カレンダーのアイコンをタップした。
茉理さんから連絡が来るのなんて、一年ぶりくらいだ。
大学に行っても、茉理さんはきっと毎週のように私に電話してきて、どこかに連れ出してくれるんだろうと思っていた。でも茉理さんとのメッセージ画面の最後のメッセージは、去年の2月27日、茉理さんからの『根府川いこうぜ』という一文だけだった。そのあと私は茉理さんに電話をかけて、一緒に電車に乗って、海浜線に乗って根府川駅に行った。海が近い駅だ。ホームから海が見えていた。坂を下りていくと人の少ない礫の海岸にたどり着く。
『風つっよいなー!』
後ろで茉理さんが声をあげるのが聞こえた。
『さむいですね。』
私は首をすくめて、スヌードに顔を埋めた。冷たい風が頭や足首を刺す。そこから冷えた液体が流れ出ているような感覚がして、私は白いスニーカーを履いた足を見下ろした。足首は白く乾燥しているだけだった。
またゆっくり、スヌードの隙間から首に風が入ってこないように気をつけながら顔を上げて海を見る。曇った空のせいで、海は少し金属みたいな色をしていて、波の音も硬くてやたら大きく、重く聞こえた。
茉理さんを振り返ると、茉理さんは肩をすくめるようにして私に笑いかけた。春休みなのに、なぜか茉理さんは制服を着ていた。脚が寒そうだ。
『夏とは、だいぶ違いますね。』
『うーん、そうね。』
茉理さんは目を鋭く細めて、海の方を見ていた。今日はなぜか、口数があまり多くない。
風が急に強くなって首をかすめたので、私は慌ててスヌードに鼻から下を埋めた。茉理さんも少し寒そうに、肩をすくめていた。私は話しかけた。
『茉理さん、もう大学生になっちゃうんですね。』
『うん。』
茉理さんは海の方を見たまま答えた。
『サークルとか、入るんですか?並木さんたち、映画つくるサークルに入るって、言ってましたけど。』
『うーん、どうしようかなぁ…。』
『…やっぱり、あんまり楽しみじゃないですか、大学。』
『うん…。』
茉理さんは鋭くしていた目を少し和らげて、やっと私の方に顔を向けた。
『…私さ、文学部いける成績届いてなかったんだよ。』
『え?でも、文学部行くんですよね。』
『うん。チート使っちゃった。』
そう言うと茉理さんはまた私から目をそらした。私は聞き返した。
『チートって?』
『350mlの空っぽ、あれね、自分で申し込みの手続きするのが面倒くさくて、学校の事務で応募してもらってたのね。』
茉理さんは足元を見つめながら話し始めた。私はうなずく。
『それで、賞とったでしょ。そしたら学校に報告がいくわけ。知らなかったんだけど、あの高校、そういうのにちゃんとボーナス点みたいな措置があるんだって。だから私、十月にはもう、文学部の推薦決まってたんだよ。』
そう言って横目で私を見ると、茉理さんは少し苦しそうに口角を上げた。
結城さんとの、焼肉屋でのやり取りを思い出した。茉理さんは、創作を何かのための道具にするのを嫌っていた。だから賞金をもらった時も、すぐに使い果たそうとしていたんだ。みんなを焼肉に連れて行ったり、こうして私を連れ出して、ご飯とかを奢ってくれたり。部室のテレビも一回り大きいものに買い替えていた。結城さんは『毎年の部費が溜まりまくってた』って言ってたけど、確実に茉理さんの自腹だ。
『大学の進学書類ってさ、すごい色々書かされるんだよ。長所は?短所は?大学で何をしたい?将来の目標は?この学部を選んだ理由は?』
理由、と茉理さんは呟くように繰り返した。リユウ。ただの無機質な単語のくせに、なぜかやたらに重々しくて苦味の強い感じに聴こえた。
茉理さんが続けた。
『…私、本当は大学なんて、行かないつもりだった。』
私に話しかけているのかどうかも、もうよく分からなかった。何かに向かって言い訳するように、一人で呟いていた。
『附属高入っておいてあほくさいかもしれないけど、でもそのつもりだった。創作だけしていけばいいって。作家になれると思ってたから。』
思ってた、という言葉が、耳にぞわっと嫌な感覚を起こしながら這い入ってきた。
『「文学部に行けば何かもっと創作のために学べることがあるかもしれない」とか言ってさ。言われてさ。散々大口叩いておいて、結局は私、野垂れ死するのが怖いんだよ。』
またひとつ冷たい風が波打って、茉理さんの髪を揺らすのが見えた。私は思わず首を縮めた。風が通り過ぎるのを待ってスヌードから顔を上げると、茉理さんは私の方を振り返って、まくしたてるように続けた。
『だってまずそもそも、コンテストに出したこと自体、結局賞金とか評価とか、もしからしたら学部推薦とか、ちょっとそういうものを期待しながら出したんだよ、多分。それって不純じゃない?』
『いや、そんなこと––』
『いいよ、庇ってくれなくて。私の考え方は、破綻してるの。分かってるの。だって、もし創作を、本当に全く何かの道具にしたくないんなら、究極的にはそれを紙に書いてアウトプットすること自体が、不純ってことになっちゃうから。』
私の言葉は、何の力もない。
なぜなら、茉理さんは私よりもずっとずっと先の方で、私がまだ一度も見たことのない何かのために苦しんでいるからだ。それを知らない私には、茉理さんを慰めることはできない。
私には、茉理さんを守ることは、できない。
頭の中で煙をかき回している私を置き去りにしたまま、茉理さんは続けた。
『でも、それでもやっぱり、嫌なものは嫌なんだよ。だから書くたびにすごい自分が嫌いになる。でも私は書くことしかできないわけ。作家になるには小説をお金で売らなきゃいけないのに、それをするのが死ぬほど嫌で、かといってもう、他のことで生きてくことはできそうになくて、結局大学行くための道具に自分の小説二十万で売って。矛盾しまくってるでしょ、私。』
言い切ると、茉理さんはへへっと、あの時みたいに、苦しそうに笑った。
『茉理さん、それは…だって厳しすぎますよ。』
私は唾を飲み込んで、続けた。
『だって、茉理さんの小説は、すごいじゃないですか。だから…それを、誰かに読んでもらうのは、全然悪いことでもなんでもないじゃないですか。大学に行くのも全然悪いことなんかじゃないし、コンテストに出るのも、それで成績もらうのも、絶対、悪いことじゃないですよ。だって、それは、茉理さんが才能を売ったってことじゃなくて…なんていうか、その、誰かが茉理さんの才能を見つけて、それを評価したってことじゃ––』
『じゃあ才能なんて欲しくない!』
空気が引き裂かれた。茉理さんが、お腹を押さえてうずくまるようにして叫んでいた。
『いらない!そんなもの。だってさ、小さい時はクレヨンと画用紙で、でたらめな色で訳分かんない絵描いてさ。名前順に並べて壁に貼ってたじゃん!みんなそうやって、上手いとか下手とかもなくて、ただ好きなように、絵が描きたくて絵を描いてたじゃん!どうして?いつからそんな、才能とかいう、わけわかんないもので並べ替えられなきゃいけなくなったの?どうしてそんなもののせいで、私は、こんなに、息が苦しいの?いらないよ、だったら。この世で一番才能がなくて、この世で一番文章が下手くそになれば、誰にも何も言われずに、書きたいものだけ書けるのに!あげるよ、こんなもの。あげる!あげるよ!』
茉理さんのマフラーは半分ほどけて、端がスカートの裾まで垂れ下がって、海風に煽られて揺れていた。
『…理由のある感情は、ぜんぶ嘘なんだよ。』
茉理さんはそう言うと私から目を離してまた海の方を向いた。そして垂れ下がっていたマフラーを丁寧に、さっきよりもきつく巻き直し始めた。
ニシノガ、シンダッテ。
にしのが、しんだって。
西野が、死んだって。
西野って誰だ。西野、西野…茉理さんのことか。
でもこの世に西野さんはいっぱいいるはずだ。きっと茉理さんじゃない。
そこまで考えて、私はその言葉を言ったのが、目の前で顔を伏せてうなだれている結城さんだということを思い出した。結城さんが「西野」と呼ぶ人を私は一人しか知らない。茉理さんのことだ。茉理さんがどうしたんだっけ。今日が誕生日のはずだけど。
『西野が、死んだって。』
茉理さんが、……死んだ?
「あの…」
私が思わず声を漏らすと、結城さんが顔を上げて私を見た。結城さんは演技をしていなかった。焼肉屋での茉理さんとの喧嘩の後みたいな、透き通った、空っぽな表情をしていた。何を言おうとしていたの、私は。頭の回転が完全に止まる音がした。
私が何も言えないでいたので、結城さんはまた顔を伏せて、声を危なかしく震わせながら、細い声で続けた。
「一昨日の、夜中。まぁ、分かるだろうけど…自殺、だったらしいよ。机の上の、パソコンに突っ伏して、死んでたって。遺書がさ、あったんだって。パソコンに打ってあったらしい。」
嘘だ、と私は心の中か、あるいは声に出して言った。
嘘だ。
だって、茉理さんはパソコンは使わない。茉理さんは手書きが好きなのだ。
「連絡、途絶えててさ。あいつ、ずっと鬱気味だっただろ。去年の夏ぐらいから、特にひどかったらしくて。大学にもほとんど来てなくて…俺は学部違うから、気づかなかった。あいつのお父さんが心配して、時々様子見に行ってて…それで昨日、見つけたんだって。俺、中学の時から何回か会ったことあるから…。」
結城さんは口を少し開いたまま、しばらくどこかに視線を浮かせていた。
私はぼんやりと、結城さんの黄色のTシャツのシワを眺めていた。何かのバンドTシャツだ。
茉理さんの家族のことを、私は本人の口からほとんど聞いたことがなかった。でも茉理さんが即興で書いた短い小説を書いて見せてくれるとき、そこに出てくる主人公は母親を嫌っていることが多かった。
結城さんはどこかを見たまま、それかどこも見ないまま、またおもむろに口を開いた。
「傷とかは、なかったって。最初は、ただ寝てるように見えたんだってさ。」
じゃあきっと、ただ寝てるだけだ。誰かが死んだと勘違いしているだけだ。私が行って肩を揺さぶれば、猫目のまぶたをだるそうに開けて『ん…どうしたナツキ。』とか言うはずだ。絶対そうだ。私が口を開こうとすると、結城さんが手で制した。結城さんは、言うのが苦しくて、早く言い切ってしまいたいという感じだった。私は口を結んだ。結城さんはさっきよりももっと波打った声で、言った。
「白いTシャツを着てたらしい。スプレーインクで背中にでっかく『嘘』って書いてあるのを着てたんだって。意味わかんないよな。」
結城さんはそれっきり口を閉じて、また顔を伏せた。肩が震えていた。
そんな、という声が右から聞こえて、隣に杉山がいたことを思い出した。夏の音と、グラウンドで誰かが張っている声が聞こえた。ここは、部室だった。
結城さんは息を吸い直すと、またふっと口を開いた。
「…『昨日のあなたと今日のあなたは、同じ人間ですか?』。」
「え?」
「あいつの遺書。」
杉山は黙った。
「…『私は違うと思う。私は7304人の、昨日の私の死骸の上に立っています。もう殺したくない。このままでいい。』って。キーボードの上に突っ伏してたから、そのあと何百行も、『い』が打ちっぱなしになってたんだって。バカだよな、本当。」
何を言ったらいいのか、というか、何を考えたらいいのか分からなかった。部室の中の時間は一瞬たりとも止まったりはせず、暖房から出るぬるい暖気みたいにだらだらと流れ続けた。私は、心臓がゆっくりとため息を吐いているような感覚になった。
茉理さんが、死んだ。
前触れは、ありすぎるくらいあった。先週突然かかって来た電話もそうだったし、去年の夏の時点で、少し目を離したら消えてしまいそうな感じはずっとしていた。
でも、『死んだ』というのは。
あまりにも、生々しかった。
茉理さんがこの世からいなくなる時、跡形もなくスッと消えてしまうような気がしていた。自殺でも他殺でも事故でも病死でもなく、気体になってそのまま消えてしまうような、そんなふうに思っていた。でもやっぱり茉理さんは人間で、人間がこの世から消える時というのは死体を残して死ぬことだという、当たり前の摂理が急に目の前に落ちて来た気がした。
私は、特に何も感じていない。
茉理さんが死んだのだ。何か感じていなければいけないはずだ。でも心の水面にはほとんど波が立っていなかった。
本当は、どこか深いところでは、悲しかったりショックだったりしてるんだろう。でもそれより、茉理さんがやっと、一番茉理さんを苦しめていた『生きる』ということから解放されたんだなという、何か安心感みたいなものの方が勝っていた。やっと、終わった。疲れ切った顔で笑う茉理さんが浮かんだ。きっともう少し時間が経って、この安心が薄れた時、私は改めてショックを受けるのかもしれない。
ガラガラという音がして顔を上げると、結城さんがドアを開けて、部室を出ていくところだった。廊下に出た結城さんは振り返って私たちに向かって複雑な顔を向けると、ドアに手をかけて、引っ張った。
「…かったいな、このドア。」
結城さんは少しいつもの調子に近い声でそういうと少し笑った。そしてもう一度ドアを引っ張って、ガラゴロと閉めた。遠ざかっていく足音が少しの間、聞こえた。そしてまた、じりじりという単調な静けさが部室に充満した。
閉まりきっていないドアの隙間を、ぼうっと眺める。
『昨日のあなたと今日のあなたは、同じ人間ですか?』。
茉理さんは、違うと書いていた。一昨日死んでしまった茉理さんと、私が最後に見た、高校三年生の茉理さんは、もう一年以上も経っているのだから、全然違う人なんだろうか。だから私は、何も感じないんだろうか。
だから、茉理さんは私を、呼び出してくれなくなったのかな。
別な人だから。だったら、あの時の、綺麗で脆くて、眩しくて、危なかしいような、あの青白く光るような雰囲気を纏っていたあの頃の茉理さんは、もうとっくにいなくなっていたんだろうか。
私も、あの時とは別人なんだろうか。そう考えた時、急に胸がすくんだ。
私は、ずっと茉理さんから連絡が来るのを待っていた。でも、もしかしたら、本当は茉理さんの方が、私から連絡が来るのを待っていたのかもしれない。どうして私は、茉理さんに連絡しようとしなかったんだろう。
多分、私は、少し冷めていた。あの時二人で海に行ってから、私は茉理さんに連絡を取らなかった。家にも行かなかった。あの人が卒業してから、私はどこか、意地を張っていたように、急にそう思えた。
「…ナツキ。」
杉山がそう言った。その途端、突然私の目は熱を帯びて、ピントが急にずれた。何かが溢れ出している。ショックなんて受けてないのに。全然、前からわかってたことなのに、なんで泣いてるんだ、私。杉山の声がした。
「ナツキ、茉理さんは––」
「やめて!」
私は叫んでいた。杉山が声を止めた。ごめん、杉山。でもダメだ。
「…その呼び方、もうやめて。」
「あ…」
杉山はそれっきり、何も言わなくなった。私も何も言えなかった。呼吸が乱れて、目からボロボロ何かが溢れて、頭が熱くて、こうなるともう、どうしようもない。私はセーターのお腹をぎゅっと握りしめた。
「…ごめんね、杉山…。」
「いや、俺は…」
「ごめん、本当に、ごめんね…」
私はもう、自分の気持ちがよくわからなくなっていた。水彩画を描いた後の、筆を洗うバケットの中みたいに、いろいろ混ざりすぎていた。ただとにかく苦しかった。それを紛らわしたくて、とにかくそうすれば少しは和らぐような気がして、涙をボロボロこぼしながら、私は何度も、杉山に謝り続けた。杉山は眉を下げて少し口を歪めたまま、ずっと足元を見つめ続けていた。
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