最後の経験者(6)

最後の経験者(第6話)

竹之内温

小説

7,046文字

このみと櫂の距離は縮み、和やかに夜は過ぎてゆく。そして団地の工事現場に、一人の男が現れる。

電車の中はおじさんの脂とお酒の匂いがして、他愛ない動作が乗っている誰かの琴線に触れてしまえば大爆発を起こしそうだ。実家までは各駅停車で二十分あれば着く。買ったばかりの洋服に知らない男の肩が、息がまとわりつく。さっきまで櫂君が握っていた手が、一人で立っているために薄汚れた手すりを掴んでいる。今度電車に乗る時は櫂君が私の身体を支えてくれるかもしれないと思うと、温かいものに包まれている気分になれた。けれどどこにいても結局は居場所のない寂しさが私の心の中にじめじめとした足跡を付ける。櫂君は豪華な一軒家に帰る。自分だけの部屋の中でコーヒーを飲みながら煙草でも吸うのだろう。好きな時間にお風呂に入り、音楽を聞ける。どれも私が持っていない習慣だ。二人の女の視線に曝される生活は、あの場所にいない時だって私を圧迫する。あの場所と比べてしまえば、この満員電車の中だって窮屈に感じないで済む。美優は今日、彼の待つ部屋に帰らないつもりだろうか。新しく買ったスカートをこれから脱がされるのだろうか。私にはよく分からないけど、新しい洋服は一番大切な人に最初に触らせ、脱がされるべきだと思う。そうでなければ、その洋服を二度と着れなくなってしまうかもしれない。携帯電話がバッグの中でもそもそと動く。

『電車の中めちゃくちゃ混んでるでしょ? 裕紀と香奈ちゃんは一緒に帰ったよ。今は三人で話してるけど、このみちゃんいないからつまんないよ。浩二たちも朝まで一緒にいるみたいだけど、俺は大人しく家に帰ります。 櫂』

『めちゃ混んでるよ! でも櫂君の事を思い出しているから耐えられるよ! みんななんか早いねー。ごめんなさい、先に帰っちゃって。櫂君すごい退屈そう。 このみ』

『まあね。大人の遊びって感じだよね。俺はあんまりそういうの好きじゃないからな。えらいでしょ? 痴漢されるなよー 櫂』

電車が停車するために減速を始めると、私の住んでいる団地が見えてくる。他の住宅街は部屋の電気が見えたりして、人が生活している場所って感じが見ているだけで分かる。けれど団地は大きいわりに光が少なくて木ばかりが目立ち、廃墟に見える。均等に並んだ窓は真っ黒い穴でしかなくって、幸せな感じが全然しない。外壁は黒ずみ、十号棟の1のプレートは外れてしまったらしく、0号棟になっていた。伸び放題の雑草や物置みたいなベランダは電車の中から丸見えだ。団地と団地でない住宅の境目は、例えば隣り合う家同士と同じで壁一枚だったりするのに、必要以上に意識してしまうのは何故だろう。通う学校も、毎日行くスーパーも同じなのに、負い目に感じてしまうのは心の距離のせいだろうか。別に悪いことをしている訳でもないのに、歌ヶ丘団地に住んでいる人たちはどこかこそこそしている。

『混み過ぎてて痴漢も動けなよー! 帰ったらメールするね! ちゃんと寄り道しないで帰ってね。 このみ』

電車から下りて時計を見ると、十一時三十二分だった。駅を出て右に真っ直ぐ伸びる商店街を歩く。ここも渋谷と同じ東京都だけど、二十四時間営業している店は殆どない。一軒の牛丼屋と二軒のコンビニだけだ。商店街の中にあるマックも十二時には閉まってしまうし、三軒の居酒屋も一時までの営業だ。商店街の日曜日の昼間は人が絶え間なく行き来しているが、夜中にもなると明日に備えて皆眠ってしまうのだろう。電車から降りて歩く人の数は少なく、忘れられた自転車の数の方がよっぽど多い。私は煙草をバッグから取り出す。これが今日最後の一本になるだろう。この前買ったばかりの靴は暗闇に凛とした音を響かせる。渋谷での出会いを思い浮かべると口元が綻び、煙草が上手に吸えていないことに気が付く。今度二人っきりで会ったら、キスされるのかななんて考えていると、馬鹿みたいに慌ててカバンの中のリップクリームを探していた。けれど、櫂君と私が付き合うはずはない。櫂君には彼女がいるし、その彼女は大学を出ていて、櫂君を実家に連れて行けるような家に住んでいるはずだ。私が頑張って賢い振りをしても、箱入り娘を演じてもそんな飾りはすぐにバレる。そして私のどこを好きになったかを櫂君が冷静に考えればあっという間に答えは出る。それは私の若さと今まで周りにいないタイプだったからという、時が経てば何の価値もない二つのことだ。前に少しだけ聞いた話だが、パパはお金持ちの家の人だったらしい。ママはどうやって手に入れたんだろうか。餅みたいになったママが、若く美しかった頃の話をしていてもそれは想像できないから、私が一から考え出さなきゃならないのでとても難しい。

私は高校生の頃にカメラを買ってと、ママにお願いしたことがあった。

「何に使うの? あれは持っていても何の役にも立たないよ」

と言われたが、本当に何のために必要なのか分からなかったのだろう。ママにとって思い出とは存在価値がないらしい。それは食べられないし、生活を楽にしてくれる訳でもないからだ。ゴミと一緒ってことだろう。カバンから携帯を取り出してみるけど、新着メールはない。ママもばあさんもきっともう寝ているだろう。

 

 

 

 

毎年春になると歌ヶ丘団地の一斉検査が始まる。築五十年も経てばどこを見たって問題ばかりで、だから目に止まった部分だけちょっと見栄えをよくするといった杜撰(ずさん)な修理を毎年俺の働いている会社が請け負っている。几帳面に考えると立て直さなくてはならないし、そうなると俺の働いている会社ではなく土建屋の仕事になってしまうので、何となく修理の必要な所を探し出しては工作レベルの切り貼りみたいな事をやっている。今年になって去年まではなかった穴が開いているのを見つけた。水道屋に給排水配管を任せると、水道屋の技術の範囲で施行しやすいように施行して、壁や梁に勝手に配管用の穴を開けたりする。穴で建物の耐力が落ちるのに、耐久性を考えるのは俺らの仕事だとでも思っているんだろう。電気屋にしても俺らにしてもそうだ。サブコンは自分達の都合しか考えない。こんなちゃちな修理を重ねていけばこの建物だって長くは保たないだろうから、何年かしたら歌ヶ丘団地にもゼネコンが介入してくるだろうが、それも仕方ない話だ。けれど俺に求められているのは来年の分を残しておくような修理だったり、住民に安心感を与えられる見栄えのよい仕事だ。聞いて呆れるが、毎日の朝礼では「未来の笑顔は家と共に! 親切、真剣、新築同然、三つのしんの菅生(すがき)リフォーム」と会社のスローガンを全員で合唱している。

季節の変化ではなく、建物で俺は一年の流れを感じる。十一棟並んだ建物を相方は一号棟から、俺は十一号棟から点検を始める。お互い五年目で仕事の速度もさぼり方も殆ど同じなので、五、六号棟目辺りでちょうど同じ日を迎える。いじめて造った建物の上、管理もしっかりしていないので歌ヶ丘団地の老朽スピードは凄まじい。なぜ建物が生きていると皆考えないのだろう。言葉が喋れないからか、セックスができないからか、溜め息をつかないからだろうか。建物は気温や季節によって伸び縮みするし、捻れもする。この団地の骨組みはコンクリートや鉄から構成されている。鉄筋の引張応力とコンクリートの圧縮応力が複合して所定の耐力強度を発揮し、安定した建物となる。このバランスが悪いとどんなに見栄えのいい建物だろうと、ちょっとの事で簡単に崩壊する。人間と同じでバランスが大切なのだ。

 

亀裂部分の計測を終えメジャーを元に戻そうとした時だった。シューと音を立てて縮むメジャーの端で指の先を切ってしまった。皮膚の上を直線に血が滲む。鈍い痛みが指先から伝わるが、久しぶりのミスに驚いて滴る血に見入ってしまった。

2010年9月7日公開

作品集『最後の経験者』第6話 (全7話)

最後の経験者

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© 2010 竹之内温

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