最後の経験者(3)

最後の経験者(第3話)

竹之内温

小説

6,395文字

夫は死に、女三人の生活が始める。女たちはそれぞれに思いを心に秘めながら毎日を過ごす。

夫は随分前に死にました。娘が産まれて何年か過ぎた頃でした。娘でなく、息子が産まれていましたら、きっと今でも夫は生きていたと思います。誰にでも理解者は必要ですから。

寝室に母と私と夫の三人でも窮屈でしたのに赤ん坊はあっちへごろごろ、こっちへごろごろ動き回ります。そして動き回る範囲に障害物がありそれ以上先に進めないと分かると、夜中だろうと途端に泣き出します。夫は最後をダイニングキッチンの冷たい床で迎えました。さすがに八畳に四人で寝るのは落ち着かないらしく、冬は底冷えのするフローリングに夫が布団を敷いて横になるようになったのは確か娘が生まれて半年後位だったと思います。夫の足元にはお櫃がありました。頭の上では皆の草臥(くたび)れた靴が悪臭を放っていました。私は夫の両親の遺産で一生を暮らし切るつもりでした。新しい靴は買わないで、相変わらず底を補修しては履いていました。梅雨を越えると靴に黴が繁殖します。しかしそもそも私も母も団地に生えた黴みたいなもので、靴とたいして変わりません。夫は生活に囲まれて死にました。母は夫がダイニングキッチンで寝ているので、トイレに行くのを躊躇して、何度か寝小便をしておりました。老人のお小水の匂いはたまらない悪臭を放ちます。()えた、回りのものを溶かしてゆく匂いです。横で眠っている赤ん坊のお小水は清らかな水でしたが、母のはどぶ水のようでした。赤ん坊は母が寝小便をした晩には決まって大きな声で泣きました。私は結局建物の外に赤ん坊を連れていかなくてはいけないので、夫の横を通ります。この期に及んでの恥じらいなど捨ててくれれば、私が眠れるのにと腹立たしく思いました。母も寝小便後のひやっとした布団の中、どうせまんじりともせずに横になっているのです。夫は私が赤ん坊を連れて外に出る時、「気を付けるんだよ」と声を掛けてくれました。四人がそれぞれの型で部屋の中、起きていたのです。奇妙な話ですよね、全く。

 

団地の階段は幅が狭く、一段一段が大変に急でした。その上管理人などとは名ばかりで蛍光灯もろくに替えてくれないので、片方で赤ん坊を抱き、片方で壁を触りながらゆっくりと階段を下りなくてはなりません。その間も闇に怯えてか、赤ん坊は泣き叫びます。住民を起こさないように急いで外に出たいのですが、団地の夜の階段は本当に危ないのです。毎年老人が階段から落ちて死んでいました。街を徘徊するまでもなく、団地の老人は団地内で生と決別するのです。若い頃には結婚の成就や、子供の誕生に喜び、駆け上がった階段を最期に落下する。おぞましい循環です。思い返してみますと、その中には誰かの手が動いていたのかもしれません。この手の意味は分かってくださるでしょう? 軽く押してやればいいのです。けれど原因は手だけではないでしょう。団地の階段は生き物で、衰えた人間を襲うように私には感じられました。団地中の全ての怨念が階段に染み込んでいるみたいにね。私自身もう何十年も使っている階段なのに、今でも夜になると下りるのを躊躇してしまいます。コンビニという便利なものがここの近所にもできましたがあそこは高いのでね、スーパーにしか行きません。尤も夜に出歩く理由もないので、怖がる必要もありませんけどね。ただ蛍光灯を切らさなければいいのです。しかし蛍光灯はなかなか高価で、たいていの住民は部屋の外を照らす為にお金を出すのを渋りました。今まで全ての階段の蛍光灯が、煌々と輝く光景を私は見た事がありません。それはきっと綺麗で、団地が少しは高級なものに見えるんでしょうね。

なんとか一階まで赤ん坊を抱っこして下りると、私は杉並木をゆっくりと歩きます。歩いている間に階段でかいていた汗も引き、風が身体を心地よく包んでくれました。百人以上もの人間が住んでいるにも関わらず、建物の中からは物音一つ聞こえません。皆が必死に音を立てるのを堪えているらしく感じます。最終電車が通過してずいぶん時間が経っておりますので、いつものガタンゴトンは聞こえてきません。不思議なもので私達は一日の殆どの時間ガタンゴトンを聞いて生活しているうちに、そちらが当り前になっていました。例えばカップラーメンにお湯を入れた時、油の中にかき揚げを落とす時には次の電車が通過するのを目安にしたりしていたんです。ですので静か過ぎると急に落ち着きをなくしてしまい、変わった事がないか辺りの様子を窺ったものです。団地の中に設置された一台の新しい自動販売機だけはいつでも光っています。いつでも光っているというだけで、飲料会社はしっかりしているなと私は感心したものです。赤ん坊は自動販売機の光を喜びました。光の下でだとゆっくり眠るのです。変な赤ん坊です。きっとこの赤ん坊は贅沢を欲する人間になるだろうと思いました。私ではなく、夫の血のせいでしょう。

夜中になっても洗濯物を取り込んでいない部屋のベランダは、団地を一層みっともないものにします。きちんとしたお家では夕方になると洗濯物を取り込むんでしょうけど、二日間干しっぱなしなんて部屋が団地内には結構見受けられたんです。そういう部屋は決まってベランダにごちゃごちゃと荷物が置いてあって、生活への無頓着さが一目で分かるものなんです。私は赤ん坊を抱っこしながら、杉並木を何度か往復します。人に会う事はありません。人が生きている音が自分の耳に聞こえてこないと、ふともうあの部屋には戻れないのじゃないかと心配になったものです。今考えてみますと戻れない方がよかったのかもしれません。私は赤ん坊を連れて、そのまま杉並木を通り、アスファルトの道に一歩足を進めればよかったのです。たったそれだけの勇気が、当時の私にはありませんでした。哀れな私は哀れな人間の住む場所を憎んでいながらも、本当は居心地がよかったのでしょう。赤ん坊は私が悩んでいる間に深い眠りに落ちていきます。靴のクッションは擦り切れて、歩く度に地面の冷たさを感じます。かかとの高い靴をもうずいぶん履いていない事にその瞬間気が付きます。かかとの高い靴は地面に触れている部分が少ないにも関わらず、案外大地の上を歩いていると感じられるものなのです。しかしあれは団地には不向きな靴ですね。母達の世代はどれだけ小さい足の人間ばかりがいたのかと不思議に思う位に団地の階段は幅も奥行きも狭いので、用心していないとかかとが段差に引っかかってしまうのです。あなたもここに来るまで結構難儀したんじゃありません? 私の足がそんなに大きい訳ではありません。女の人の平均です。しかし二十三センチは今では小さい方なのかもしれませんね。

 

「これでいつでもトイレに行ける」

母が夫の死体を見て最初に呟いた言葉です。

「起きないの?」

2009年9月12日公開

作品集『最後の経験者』第3話 (全7話)

最後の経験者

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© 2009 竹之内温

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