名残りを残す白雨に湿ゝ打たれ、此処は港区西麻布、首都高速道路の高架の所為で暗陰の中、高樹町。時勢の流れに嫌われた公衆電話も雨に濡れ、桃色広告が彩り添える。雨粒が窓を伝えば涙にも似る。と、其の中で年増が一人、泣き濡れて——濡れた硝子の所為じゃない。其の女、迷子に成った子供の顔で立ち尽くし、番号叩く指の先には力が籠り、爪塗の赤が破裂ゝと一文字、罅割れた。
「嗚呼、繋がらない」
自販機の釣銭口で拾った銅貨、黒い電話の返却口に固嘆と返る。其の音の余韻が夜露に溶けない内に、相好崩し、喚と地べたに踞る。馬具屋の鞄は惜しくない。人生を賭けた心算の言霊が二人分、あの鞄には入ってた。手懸りを脳の海馬に求めても、紡ぐ言葉は一度きり、失くした言葉は戻らない。
鞄に入れた携帯は、間者の役を果たしもせずに、この携帯は現在電波の届かぬ場所——と、見知ったような澄まし声。とは言えど、機械を恨む甲斐は無い。持っているのは……若い二人の強奪犯。馬鹿正直に出る筈も無い。
「糞餓鬼共め!」
吐いた言葉は、真面目装う黒縁眼鏡に似合わない。然し、失くした玉稿に、細々とした喪失が追い討ちのように圧し掛かる。現金、定期、鍵包、銀行手形に信用手形、その他諸ゝ、会員証に割引券。生活に困る訳ではないけれど、自宅は遥か猿楽町。歩いた事も何度か有るが、今はこの雨……泣けてくる。
交番へ行けば金子は借りられる。けれどもそんな気分にも成れずに歩く、六本木通り。背高を気にした平底靴、固突ゝゝと踏み鳴らし、透明傘に色気は無いが、襯衣の褶を弾ゝ振って、青山学院大学の角、左に折れる。憧れ住んだ猿楽町も、今じゃ惰性の埃に埋もれ、八幡通り、並木橋、代官山に中目黒、どの地名さえ、心躍らせ、夢を視させる粋な名前じゃなくなった。
濃紺の縛巻套ずぶ濡れで、靴の中には豆が出来たが、明治通りに交差らない。恨み言葉が沸ゝと、歩き疲れで勢を増す。詰まらぬ女が一人で孤独——誰も私を愛さない。
とか何とかで、独白が通りすがりの他所様に聞こえようかと云う位大きく成った頃になり、猿楽小裏の辻が見え、漸く家に辿り着く。
一……五……〇……四……と、部屋番号の語呂合わせさえ身に染みて、その諧謔に、応接機の無言の返事が苦味を添える。
「こういう時に、決まって出かけてるんだから……」
一緒に住む男が無頼じゃ、独白癖も板に付く。幾ら文句を言ったって、自動錠扉は開かない。管理室を尋ねたが、窓帷掛かり、不在の模様。一寸時間は遅いけれども、他人が出て来るのを待つか、帰って来るのを待つ事に。
と、待つ事五分、昇降機が吐き出したのは、仲睦まじく腕組み合った二人連れ。四十過ぎの大年増、夫婦者には見えないが、傍目気にせず睦み合う。御蔭で扉をくぐるのも見咎められずに済みはした。然し、能く能く顧みりゃ、この分譲はン十年月賦で買った、並々ならぬ決意の代価、如何入ろうが、天下に恥じる事は無し。因みに年増の二人組は——私ともそんな離れた歳じゃない。
取り敢えず中に入って試たものの、如何道、鍵が無ければ自分の部屋に入れない——と、十五階まで上がって気付き、戻る気力も失せ果てて、兎にも角にも、あの人が帰って来るまで座っていよう——と、心に決めた其の刹那、自分の部屋の前に居るのは見知らぬ男。手には大きな紙袋。
痩身長躯、不整合に膝まで長い手、整った相貌……が、危険な雰囲気。阿弥陀に冠るGDCの野球帽、襯衣を爽快着こなして、人足洋袴も上品に、獣を綺麗な布で包んだような。其れだけならばまだ良いが、驚いたのは、其の手に持った鍵包。有り触れた、少し安めの有名品、然し見紛う筈は無い。忘れもしない聖誕祭、素寒貧が無理して呉れた贈物。
「ねえ一寸、貴方……」
そう呼び掛けて、振り向いた其の顔に思わず発と呼吸を飲む。深い彫り、濃い睫毛、素とした鼻、膚は褐色だが淡く、何とも言えぬ瞳の色彩。美丈夫を、濃い墨で絵に描いたよな——。
「嗚呼、この鞄、君のかい」
「君ってねえ。如何視ても、私の方が年上でしょう。それにその、言い草ったら。他人事みたい。貴方でしょ、盗んだの」
然し、男の綺麗な相貌に悪怯れそうな気配は無い。獲物咥えた飼い猫の無邪気な風を装って、太ゝしくも笑みを浮かべる。
「違う違うよ、人聞き悪い。拾ったんだ。悪いけど、中の自動車免許を見てね、君に届けに来たんだよ」
「虚言仰言いよ。何処で拾ったの」
「六本木通り。上り車線のみずほの中の、自動現金払機の隅っこさ」
虚言じゃない。六本木通り、西麻布、上り車線の歩道の端で、原付に颯と盗られた有名鞄。盗まれた場所から五分も歩いて行けば、繁華街のど真ん中、夜には少し空虚と寂びる、みずほ銀行。然し其れとて、当事者ならば想い着く虚言。信じるに足る理由じゃない。
「其れなら貴方、鍵を出してた理由は何。空き巣に入る算段じゃないの」
「本当は鞄を把手に掛けたまま、左様ならしようと思ってたけど、そんな始末じゃ、心無い誰かが持って行っちまう」
良くもまあ、偽善者然と、盗人猛々しい限り。が、言い返そうとした刹那、郁子さん——と、呼び掛けられ、動悸とする。
「何で名前を知ってるの」
「何でって、免許見たから。生田郁子、年齢は……」
「一寸、其処まで行ってれば、軽々しくは口に出せない年齢よ。いくこ、じゃないし。郁子よ。其れに貴方も名宣りなさいよ」
「そうか、失礼。いくいく、なんて徒名で呼べば、可愛いなんて思ったけどね。俺、武留。御親切にも、拾得物を届けに来ました男前」
名前を聞いて、親しくなった錯覚が、男前への警戒を解いた。何だか気安く力が抜けて、先刻迄、雨に打たれた所為なのか、火照と御酒に酔ったような。
「そうだ、原稿。束の原稿、入ってたでしょ。紙の束、この位のよ、封筒入りの紙原稿」
「そんな何度も言わなくたって、原稿ぐらい知ってるよ」
武留は口に手を当てて、郁子の動揺振りに、苦笑と一つ笑いを漏らす。其の手は堅く骨ばって、芭蕉の葉。郁子の顔が火圧と赤く成る。
「云ったろう。何一つ盗っちゃいないよ。視て試なよ」
郁子は渡された鞄の中を弄って、あれはあれ、これはこれ、という具合に鞄を漁る。洋筆一本、髪留一つに至るまで所在確かめ、やっと話を聞く気に成った。
「有難う、如何やら虚言じゃあ無さそうね。これ、御礼」
受け取った鞄の札入れから一枚、一葉女史、張と出す。武留は其れを受け取って、人差し指で破と一打ち、紙の固さが音に出る。財布の中に入れたなら、さぞ嫌らしく視えただろうが、尻布袋に裸銭なら気持ち良い。
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