杉山清晃も三十三歳だった。
独身。同棲する「彼女」は男の娘である。
沼津の高校を卒業後、家族から逃げるために大学へあえて行かず、小田原の、パン工場に就職して十五年、いまだに、会社の借り上げ住宅の、家賃四万円のレオパレスに住んでいる。六畳の、1Kロフト付きの、やたら天井の高い部屋は、ニトリの太い突っ張り棒が横断していて、その棒に、菓子パンラインあんぱん仕込み工程の、頭まですっぽりと覆える作業着だったり、コスプレ活動用の、東方Projectの十六夜咲夜のメイド服だったり、紅美鈴のチャイナ服と人民服を足して二で割った見た目の衣装だったりがかかっている。その服の真下、一度も交換したことのないネイビーのタイルカーペットには、くたびれたマットレスの万年床を敷いている。酸っぱくて男臭いにおいを放っていて、シーツはところどころ毛羽立ち、少し黄ばんでいたが、最後にいつ洗濯したか清晃は覚えておらず、とは言え、耐えられないほど汚いというわけでもないし、洗うのが面倒だと思っていた。
こうも汚れるのも当然だった。工場の稼働日になると清晃は万年床から起きてすぐに家を出て、乳剤舗装の、暗渠の上にある歩道を二十分歩き、酒匂川沿いの、寿町のクシキ製パン神奈川工場の、白く殺風景な工場建屋へ入ると、お世辞にもキラキラしたアットホームな職場とは言えない、狭く暗い菓子パンラインで、毎日十時間、身の丈よりも大きい、巨大な縦型ミキサーを動かして、練りあげた、重く粘り気のすさまじいパン生地を両手に抱えて、風呂桶ほどの大きさの、アルミ製のパレットへ投げこむと、パレットごと発酵室へ運搬したり、発酵させた生地のパレットを出してきて、生地を分割させる機械へ投入したりするなど、筋力こそが金を産む肉体労働をこなし、退勤後、レオパレスへ帰宅すると、蒸れた靴下や下着を、ユニットバスの脇の、中古で買った洗濯機へ投げ入れ、部屋の万年床にたどり着くと、風呂をキャンセルして、布団に入ることもたびたびあった。暑い日は全裸のままで寝て、大量の汗を吸った布団は饐えたにおいをしている。
休日の清晃は、そのマットレスに寝転がって、低くなったそばがら枕へ、格好をつけて意地で伸ばすロングウルフの頭を乗せると「彼女」の柚樹を抱き枕にして、買い物に行かない限りは、一日中、酒を飲んだり、Prime Videoで映画を観るのであった。
柚樹は夜になると金を稼ぎに、他の男の家だったり、小田原駅前や、西湘バイパスのインターそばのホテルだったりに出かけるので、清晃はひとりで寝ることが多い。だから、柚樹と一緒に寝ることができるのは、夜勤明けの朝か、休日の日中しかないのである。清晃が、柚樹の、贅肉がついてだらしなく、いつも熱っぽい肉体を貪れるのも、そのタイミングでしかない。
連勤明けの休みだったので、柚樹と朝からまぐわい、つい十分前までセックスをしていたので、柚樹は全裸で、白い桃尻をローションでべたべたにしたまま、横向きに寝て、スマホの画面を高速でタップし、いつもどおり、異世界転生の小説を書いていた。PV数は二桁程度だが、だんだんと書く話の内容のクオリティが上がってきているのを、清晃は感じていた。
傍のカーペットに目をやる。黄ばんで湿ったティッシュと、サガミオリジナルの薄く透明なコンドームを積んでいて、精子と腸液とローションの混じった液体が、とろとろと、タイルカーペットに垂れて染みていった。液体からは清晃の子種の、栗の花を煮詰めたにおいと、柚樹の腸液の、生臭く濃厚なにおいがして、部屋を満たしていた。なぜか食欲をそそる類のにおいだった。
部屋にもう食べるものはない。じゃがりこも、堅揚げポテトもない。必然的に飲み物が欲しくなった。さらに酒が飲みたくなった。
清晃は柚樹から身を離すと床を這うように進み、部屋の反対側の本棚へ向かった。カラーボックスの本棚は最下段に業務用の角の四リットルペットボトルと情熱価格の純米酒の二リットル紙パックが置いてあり、清晃は角ペットボトルに手を掴むと、ふと、上を見た。棚の中段には、メイドラゴンだったり、あそびあそばせだったり、タイトルがやたら長い異世界転生系の漫画やガンダムのプラモデルなどが置いてあり、その片隅に、清晃がむかし書いていた同人小説が申し訳なさそうにあった。
東方創想話という、東方Project専門の同人小説サイトに、清晃は高校生のころから数年間、書き溜めた作品を投稿していて、就職後は、同人イベントに参加して長机半分ほどのスペースに座り、同人小説を頒布していた。
だがここ数年は小説を書かなくなったし、また読んでもいなかった。
二次創作では満足せず、一次創作で売れようと、付け焼き刃の知識をつかっていろいろ書き、出版社の新人賞へ応募したのが清晃の間違いだった。プロとしてデビューするには最低でも倍率が二百倍を超す選考を突破する必要があり、その壁は分厚く、清晃は一次選考すら通らない日々が五年も続き、かといって、先輩作家の弟子になり、出版社のコネにありつこうというのも、仲の良かったフォロワーが、あるラノベ作家のもとに弟子入りしていたが結局目が出ず、かわいい女の子だらけだったXのメディア欄が、いまでは、安倍晋三だったり石原慎太郎だったりのショート動画で埋まっているのを見て、ぞっとしてしまったのである。
――二十代のときに同人活動をして仲良くなった友人たちとも疎遠になっていた。いい意味でも悪い意味でも時が進み、結婚したヤツは子どもの写真ばかりXだったりインスタだったりにあげ、独身で金のあるヤツは、食べ歩きや釣りとかガールズバー通いなんて定番の趣味に走り、金も家族も何もないヤツは、どこかへ消えて音信不通になっていた。
ひとりで孤独に小説を書く気になれず、筆を折らざるを得なくなった。
本棚から振り返る。万年床の隣、折りたたみ式のミニテーブルには、清晃のロックグラスと、柚樹の、フランドール・スカーレットのイラストの書かれたマグカップが置いてある。ロックグラスはもう空になっていた。何杯飲んだか、記憶が定かでない。
ペットボトルのキャップをあけて、ミニテーブルのロックグラスへ注ぐと、ウイスキーの褐色の液体がとくとくと注がれていく。グラスの半分ほど注ぎ、清晃はウイスキーを飲む。口の中に角が行き渡り、独特の苦味が舌に染みる。勢いよく飲み込むと喉が焼けるようにカッと熱くなる。二十歳で酒を飲むようになってからまったく変わらない休日の過ごし方。清晃は、自分だけ、精神的には二十代前半にずっと取り残されていると思っていた。
もう一度口をつけながら清晃は窓の外を見た。
歪んだアルミサッシの外には、幅一メートルもない路地が鎖帷子のように広がり、ミニバンや軽自動車を停めた戸建ての住宅が立ち並ぶなか、トタン屋根、黒ずんだ平屋がところどころに点在していた。
ここは戦後の赤線、「抹香町」の成れの果てである。かつて小田原でいちばん栄えていたといつ夜の街の名残は、一軒だけあるスナックからしか感じ取れない。そのむかし、両手で数え切れないほどあった「旅館」は、取り壊されて一軒家が建つか、セカンドカーの軽自動車が並ぶ駐車場になったり、介護施設やプレハブ小屋の作業所などが建ったりしていた。
その抹香町の西には、古墳のようにも見える、高さ数メートルの小山――蓮上院土塁がある。かつて北条氏が秀吉との戦に備えて築いた、総構の一部である。大きな桜が、その土塁の上を覆っていた。風が吹き、花びらが散り、土塁は、雪が溶けだした北国の大地のように、桜の花がところどころ積もっていた。
土塁の向こう側には、小田原の中心部には古めかしい商業ビルがならぶ中、その間を、成金趣味のゴテゴテしたタワマンたちが押しのけるように立っていて、その奥に、箱根のゴツゴツと角張った山が、空を塞ぐようにそびえていた。
新宿から電車で一時間強といっても、この小田原は、のどかな地方都市だった。おそらく、この街で老いて、そのまま死んでゆくのだろうと清晃は感傷にふけりながら、再びウイスキーを飲んだ。
背中に重みがかかる。
「わたしにもウイスキーを飲ませて」と、耳のそばから柚樹の声がした。柚樹のあつい吐息が耳にかかる。背中に乳が当たる。清晃の、筋肉質で硬い胴体に両腕が回る。
「仕事じゃないの?」
「今日は依頼がないの」
「ふーん」
むらついた清晃は、酒を口に含んで振り返ると、柚樹の顎をつかみ、唇を奪った。柚樹はびっくりしたようだったが、清晃が、口の中の酒を、柚樹の口へ流しこんでいくと、柚樹は、満更でもないように、次第に表情を蕩けさせていった。
この、欲情を煽るメスの顔を知っているのは俺だけでいいのにと、清晃は、柚樹と体を重ねた客たちに嫉妬した。唇をいったん離す。今度は首筋だ。柚樹の首に唇を当てて思いきり吸う。唇の形をマーキングした。
柚樹は「ちょっと、夜は仕事なのに」と嫌がっていた。だが、清晃は柚樹の嫌がることをしたかった。自分だけを見てくれない、柚樹に。自分の諦めた夢への道を、わずかな速度でも歩こうとする柚樹に。
清晃は、柚樹がどこかへいくのが怖かった。
唇を離して、柚樹の首を見ると、焼きごてを押しつけたあとのパンのようにはっきりと、キスマークが刻まれていた。
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