わくわくふれあいパーク

曾根崎十三

小説

4,450文字

第2回人生逆噴射文学賞南阿佐ヶ谷TALKING BOX賞受賞作品。

今日は交流会の日だ。
美千代たちにとってはペットセラピーのような癒し効果があり、子供たちにとっては慣れないものを学習ができる双方に役に立つ取り組みなのだ、と施設長が言っていた。双方に失礼な物言いである。どう役に立つのだろうか。どうもそうは思えない。美千代には疑問しかなかった。しかし、他に比べればうちはマシらしい。佐々木さんが言っていた。佐々木さんが前にいた施設はろくに説明もせずに、いきなりガキんちょの群れの中にぶちこんでいたらしい。目に見える世界が少ないので、人から聞いたことを受け入れるしかない。活字を読む集中力と気力が出なくなってきた時は、オーディオブックでの読書に切り替えることで、読書の楽しみを確保し続けることができた。自分も随分老いたものだと悲しんだものだ。しかし、今思えばあれで悲しめているうちはまだ良かった。今はそんなものを楽しむ余裕もない。ここへ来るまでの間に、ちょっとした家事や生活への支障がじわじわと大きくなっていき、だんだんと噛み合わなくなってきた。周囲の同年代たちは転んで入院したり、病気が見つかったりと、ガクッと急激に来るのが多かったが、美千代はガクッと来ることなく、真綿で首を絞められるようにじわじわと衰えを感じた。入院した友人には羨ましがられ、笑って受け流したが、内心は疎ましく思っていた。むしろ美千代にとっては友人らの方が羨ましく思われた。ガクッと来るのであれば、まだ諦めがつく。じわじわと来るのでは「今日は調子が悪いだけかもしれない」という期待を捨てきれないまま月日を消耗する。残り滓のありもしない無駄な希望をアテにして悪足掻きをしている。
昼食の時間ももう終わりが近い。最後の一口を嚥下する。美千代はまだ自力で食事をとることができるが、食べさせてもらっている面子もちらほらといる。しかし、これはまだマシな方で、上の階の認知症エリアでは大半が自力で食事をできないと聞いた。
耳慣れないが聞いたことのあるざわめきが近づいてくる。この声の高さ。子供たちがやってきたらしい。廊下での声が反響している。多目的スペースに子供たちが次々と現れた。まだこの後職員たちが片付けをしなければいけないというのに邪魔である。美千代たちはじろじろと好奇の目に晒された。見学は昼食後だと聞いていたが予定が早まったのだろうか。
「あのー」
教師らしき人が何かを職員の山崎さんに言った。山崎さんは物腰も柔らかな働き者だ。美千代は気に入っている。その山崎さんが渋い顔をしている。しかし、施設長がにこにことしながら間に入ってきて、何かを教師に向かって頷きながら言っている。
「一人だけなら」
というのが、かろうじて聞き取れた。まさか、と思った時には一番耄碌している佐々木さんに子供の一人が興味津々な様子でスプーンを口に運んでいた。美千代はぎょっとした。まるで動物だ。自分が子供の頃に行った動物園の餌やりコーナー。大きな葉っぱを飼育員にもらってリクガメの口元へ持って行くと、むしゃむしゃと咀嚼をしてくれる。あの時の気持ちはどんなだったろう。わくわくしていただろうか。嬉しかっただろうか。楽しかっただろうか。今はもう覚えていない。しかし、子供にとってはあれと同じ感覚なのだ。佐々木さんは耄碌してきているからか、すべてを諦めているからか、分かっているからこそなのか、ゆっくりと飲み込むと「ありがとね」と微笑んだ。美千代には何だかそれが恐ろしかった。心温まる光景だと言う人もいるのだろうが、不気味にしか思えなかった。
要介護の老人を抱えた家庭の子供は多くはないだろう。見慣れない「自力で生活ができない老人」という生き物を子供たちは観察しに来ている。
職員たちがせっせと食事の片付けをして、机を並び替える。子供たちと交互に座って折り紙をさせられるのだ。去年も同じだった。孫がいたという面々はあっという間に子供たちと打ち解け、和気藹々と話している。富士山を作ったり、箱を作ったり、既に作っていたハリネズミやくす玉を見せて「これを作ろうか」と話したりしている。子供たちの方がむしろ恐る恐る、という態度だ。当たり前だろう。慣れない生物とふれあうのだから。しかし、だんだんと子供たちも相手が人間だということを理解しはじめる。施設長はにこにことそれを見つめている。メガネの奥が糸目になっている。美千代は車椅子で施設長の前に行った。
「何ですか。うんちですか」

笑顔のまま施設長は言った。嘲っているようにも見えた。美千代は咳払いをして、こんなものが何になるのだ、となるべく柔らかい言い方で遠回しに伝えた。しかし思ったより上手く伝えられなかった。言葉が出ないのだ。もっと語彙があったはずなのに頭が回らない。ほんの喉元まで出てきているのに言葉にならない。これだから老人は。嫌気が差す。
「見てくださいよ。あなただけです。皆楽しんでるじゃないですか」
そう言われても首が痛くて振り返れないので、皆のざわめきに耳を傾けた。笑い合う声がする。子供の鳴き声のような笑い声に混じって、老人たちの笑い声が聞こえる。美千代が偏見を持ちすぎているだけなのかもしれない。美千代は昔から子供が苦手だった。だから穿った見方をしてしまうのかもしれない。しかし、それでも佐々木さんに食べさせるはやりすぎだと思った。美千代は負けずに先刻の食事時のやりとりを指摘した。今度は遠回しにせず、なるべく直球で伝えた。のらりくらりと逃げられないように。
「まだそういうことは分かるんですね」
施設長は笑ったままそう言った。彼女なりの「うるさい黙れ」を遠回しにした嫌味なのだろう。美千代は溜め息をつき、車椅子を漕いで自分の席に戻る。子供たちが気を使って通り道から退いてくれた。そんなにデカくないわ、と美千代は思った。優しさが受け止められない。子供たちが老人を動物扱いしているのではなく、自分の方が子供たちを動物扱いしているのかもしれない。机に向かって折り紙を一枚取り、鶴を折る。羽根を広げた鶴がこてんと斜めをむく。鶴くらいしか折れない。あまり折り紙は得意じゃない。
「鶴折れるんですか」
隣の少年が話しかけてきた。
「鶴だけだよ」
「僕は千羽鶴みんなで折るって時に全然折れなくて、皆にバカにされました。鶴だけでもすごいと思います」

声変わりもしていない幼い高音の声でたどたどしく話す。美千代は溜め息をついて、深呼吸をして、手を止めた。そして、少年に鶴の折り方を教えてやった。折り目をしっかり揃えるのがコツなんだ。そうじゃない、もっと揃える。そうそう、それくらいならいける。そうして一時間かけてようやく鶴を折れた少年は笑顔に溢れていた。しわしわのよれよれの鶴だったが少年は満足しているようだった。この程度で良いらしい。こぼれ落ちてきそうな笑顔だった。美千代は少し心が洗われてしまった。この笑顔は動物にも向けるのだろうか。
「あんた、家でなんかペット飼ってる?」
「犬を飼ってます」

容易に想像ができた。あの笑顔で犬っころをわしゃわしゃ撫で回している姿を。それと同じなのだろう。自分は折り鶴を折れる大きな犬なのだ。洗われた心に泥を塗る。

交流時間も終わりの時間が近付いてきた。子供たちは前に並んで歌のプレゼントをする。老人ウケの良い昔の流行り歌らしいが、美千代はあまり音楽に興味を抱かずに生きてきたのでピンと来ない。いつも通りだ。前回もその前も子供と会話もせずに時間を終えたが、今回は少し話すことができた。嬉しい、と思うべきなのだろうか。嬉しい、と思えたのだろうか。と、不意に便意が腹に来た。キュッと内臓が縮こまるような不快感。子供たちが出て行くまであと少し。委員長だか何だかという子供たちの代表が終わりの挨拶をしている。耐えられるだろうか。もう少しだ。肛門が熱い。下痢かもしれない。昼食が良くなかったんじゃないのか、と美千代は思った。あの施設長が嫌がらせに何か盛ったのか、いや、あの人も暇ではない。近くにいた職員の袖を引っ張る。察して耳を近づけてくれたので、そっと耳打ちをする。
「本間さん、おトイレに連れて行って欲しいんだけど」
「ごめんなさい今無理です」
あっさりと、すっぱりと、本間さんはそう言った。耐えるしかない。子供たちが「ありがうございました」と頭を下げる。これなら間に合う。
「おトイレに」
「今日はお風呂の日です。これから順番にお風呂なんで、大丈夫です」
本間さんは被せるように言った。施設長が子供たちのお礼の言葉に対してさらにお礼を返し始めた。もうやめてくれ。肛門筋がひくひくと動いているのがわかる。キューッとおなかが痛くなる。脂汗がにじむ。もう皆が何を話しているのかも分からない。美千代は全神経を下半身に持って行かれていた。施設長が頭を下げて、拍手に包まれる。便意で体が斜めになる。
「うんこに連れて行ってくれよ」
思ったより大きな声が出たらしい。視線が一斉にこちらへ向けられた。車椅子の上で腹をかばう美千代には周りを見る余裕などなかったが、見られているのだ、ということだけは分かった。
「花田さん、大丈夫ですから。オムツにしてもらったら大丈夫ですよ」
本間さんの声が妙に通って聞こえる。
「はい」
美千代はいきんだ。メリメリ、と尻からうんこが出てくる。尻とオムツの間にどろりとしたうんこが広がっていく不快感。これは初めてではない。こんな日でなければ、いくらでもあったし、いくらでも見てきた。でも、こんな日にうんこを漏らしたのは初めてだった。

美千代が顔を上げると、さっきの少年と目が合った。あの時の笑顔は完全に消え、完全に白けきった表情をしていた。落胆しているようにも見えた。彼は、誰もがこうなり続けてきたことを、誰もがいずれこうなることを知らないから。いや、単純にドン引きしているだけかもしれない。美千代の洗われた心がクソにまみれていく。
他の子供たちは口々に何かを話しながら、こちらを指さしている。鼻を摘まんでふざけている者もいる。先生が必死に注意をしている声が聞こえる。うんこはまだまだ出てくる。ふわり、と下痢便の匂いが鼻孔をくすぐる。きっと他の者にも届いていることだろう。うんこなんて子供の大好物でしかない。美千代はただの見世物でしかなかった。美千代は一匹の動物でしかなかった。でも大丈夫だ。子供たちはまだ知らないのだ。知らないからこうしていられるのだ。彼らもいつかはこうなる。オムツにしてもらったら大丈夫な存在になる。いくら足掻いて生き延びても、生き延びて、生き永らえたからこそ、ここに来る。子供たちが老人となり、ここに来る頃には社会の仕組みは変わっているだろうか。でも今まで変わってこなかったのだ。美智代が来る前から老人はうんこを漏らしてきただろう。脈々と。
クソにまみれているのは美千代だけではない。うんこを漏らしたからクソったれなのではない。漏らさなくてもクソったれだ。みんな一緒だ。みんなクソったれだ。

2025年3月9日公開

© 2025 曾根崎十三

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